明治演劇史  渡辺保  2013.1.17.


2013.1.17. 明治演劇史 

著者 渡辺保 1936年東京生まれ。慶應大経卒。東宝演劇部企画室を経て、現在演劇評論家。放送大学客員教授。『女形の運命』で芸術選奨文部大臣新人賞。『忠臣蔵』で平林たい子文学賞。『娘道成寺』で読売文学賞。『四代目市川團十郎』で芸術選奨文部大臣賞。『黙阿弥の明治維新』で読売文学賞。 

発行日           2012.11.20. 第1刷発行
発行所           講談社

『江戸演劇史』の好評に押されて書き下ろした第2

プロローグ
明治の初め、東京、京都、大阪の遷都問題に明らかなように、天皇自身の生活もまた二重の生活であり、天皇の身体も二重性を持つこととなった
大久保利通が進言して実現した大阪行幸によって天皇の生活も身体も一変。陸海軍の統率者として、西欧式近代国家の君主として、京都の宮廷生活と別れを告げ、軍服に身を固めた逞しい青年にならなければならない。その手始めとして乗馬の訓練を受ける ⇒ 歴代の天皇は馬に乗ったことがなかった。この天皇の身体のあり方にこそ、その後の日本文化の近代化を象徴するものが含まれている。「和魂洋才」という二重性
当時の4つの演劇――能、狂言、人形浄瑠璃、歌舞伎――も、その近代化の波に曝される
最も激しく波を受けたのは、幕府の式楽として、或いは古典劇として確立されていた能狂言で、生活を保証され役者は存続の危機に直面
大阪の人形浄瑠璃は、一挙に隆盛となるが、その理由は不明
歌舞伎は、江戸、京都、大坂とも不況と政情不安から不入りだったが、隔離された密室の中でしたたかに生きる余裕とエネルギーを持ち続けていた

第1章        近代とはなにか
1.    もう1つの明治維新――梅若実と宝生九郎
能の梅若家は、元々丹波猿楽の一派。観世座のツレ家(宗家のシテにツレを勤める家柄で、宗家の弟子筋)に編入された家筋
江戸の能5座 ⇒ 観世太夫(京都の屋敷を返上して徳川に従って駿府へ)、金春(本領を安堵されて本国奈良へ帰る)、喜多(病死して断絶同様)、宝生(朝臣となり薄給)、金剛(神官に)。梅若家は格段に低かったが、宗家と袂を分かって朝臣となり宝生と共に能を続ける
幕末に観世家に代わって将軍の指南役として活躍した宝生九郎は、維新後農民となったのに対し、下層から身を興した梅若実は、裸一般個人で始めたのがやがて認められ、宝生九郎を呼び戻して、2人で能の復興を盛り上げた。動乱の中で、1人の人間であることに目覚めた芸術家2人が期せずして写実を主張したことが近代の始まりであり、そのことを感じた人間が観客になった事実こそ、近代的な劇場の始まり

2.    松嶋文楽座
人形浄瑠璃が隆盛を誇った理由 ⇒ 民衆の中に生きていたこと、劇場から離れて寄席で素浄瑠璃として残り、大坂市民の間に浄瑠璃義太夫が浸透したこと、名人が輩出(太夫として五代目竹本春太夫、三味線の豊沢団平、人形の初代吉田玉造)
初代大阪府知事が西の松嶋のリンゴ畑に繁華街を作り道頓堀の劇場を移転させようとしたのに対抗して、文楽軒の植村家が松嶋に「文楽座」を作り、前記3名人を揃えその後文楽協会が出来るまでの91年に亘って存続
府知事お声がかりの歌舞伎も、「松嶋の大座」といって、中村宗十郎、実川延若、尾上松緑が出たが、内紛が起こって衰退

3.    河原崎権之助横死事件―九代目團十郎
江戸歌舞伎は、市村座、中村座、守田座によって継続
市村座の河原崎権之助が、強盗に襲われて死亡。跡を継いだのが市川家から来た養子権十郎。一旦は権之助を名乗るが、市川家の跡取りが自殺したため、九代目團十郎を襲名
権之助の、虚構を排して、出来るだけ写実に人間そのものを描こうとした方法論こそ、「近代」そのものだった

4.    守田勘弥
新政府は、築地に外国人居留区を作り、その賑わいを当て込んで新吉原の業者たちの進出を許可、新嶋原と呼んだが1870年の台風で倒壊、撤去され、跡地が新富町となる
1872年 守田勘弥が新富町に守田座を開場、今日の劇場の様式を作る ⇒ ①日本最大の劇場として設備が近代化、②劇場経営の合理化、③直線の花道等歌舞伎の様式が大きく変化
同年追いかけるように、演劇が教部省の所管となり、俳優は教化の教導師となること、上演台本の事前検閲と史実の歪曲、卑猥な脚色の禁止が通達。俳優の鑑札制度と演劇への課税制度が導入された
歌舞伎の最大の後援者は、江戸時代以来新吉原と魚河岸、吉原は没落したが、魚河岸は旧体制から離脱しようとする守田勘弥のやり方に反発、守田座を背負っていた権之助を襲って守田座から放逐したが、守田勘弥は代わりを立てて興行を成功させる

5.    明治東京劇場図
次々に劇場が認可され10座となる ⇒ 江戸時代の菰張り(仮設)の小芝居や、神社の境内で行われていた宮地芝居が発展したものが多く、その後の劇壇の中核として戦前まで東京の劇場地図の基本になった
能・狂言の厩橋舞台、文楽の松嶋文楽座、歌舞伎の守田座、いずれも個人が私財をなげうって建てた劇場であり、それぞれ梅若実、植村大蔵、守田勘弥という優れたプロデューサー・起業家の力があったことが共通する
それぞれの分野での名人である宝生九郎()、豊沢団平(人形浄瑠璃)、河原崎権之助(歌舞伎)には、ジャンルの違いを超えた共通点がある ⇒ 劇中の人間そのものを追求するという視点を持っていたことで、演劇の様式を改変し、新演出にまで至るほど徹底した
「個人」を重視、そこに新時代の人間像、世界観を見出した ⇒ 客席と舞台のそれぞれの「個人」が結びついた
近代の成立は、旧体制の崩壊によって一般社会に放り出された芸術家の内部、あるいは制作者の内部から起こったもの。その人々の精神の向こうにこそ、あるいは深部にこそ「近代」が現れていた

第2章        天皇制国家の成立
1.    散切り狂言の流行
「散切り狂言」 ⇒ 文明開化の象徴である「散髪」を散切りといい、その風俗を描く芝居のこと。当時の現代劇。河竹黙阿弥らの作品をもとに、舞踏劇、西洋の風俗の描写劇、翻訳劇等が流行る
ほとんどの歌舞伎の名優が手を染め、歌舞伎が現代劇として発展する可能性もあったが、歌舞伎が本来現実とは距離を保って現実を美化するものであったこと、脚本に名誉棄損の訴えが起こったことから、次第に遠のいて行った

2.    株式会社「新富座」
守田座を改称、改組 ⇒ 元々江戸では劇場主であり興行権を持つ座元が、金主の出資によって興行を行ってきており、お互い個人同士の私的な関係だったが、守田勘弥はその関係を改め、興行の損益を株主と共に負担することにして、座元の借金の軽減を図る
1876年新富座も、大阪の道頓堀一帯も火事で類焼し、僅か10年で廃墟に

3.    岩倉邸天覧能
1876年 天覧能が3日間にわたって岩倉邸で挙行 ⇒ 1871年の条約改正交渉のための使節団洋行の際、オペラハウスの観劇に刺激され、その風習を輸入しようとすれば能楽しかないと思い、帰国後西南戦争前夜の政治的危機の中で、「天覧」という看板を掲げることによって天皇制国家の文化的イメージを作ろうとした
岩倉が、宝生に心酔し、弟子となったほか、能舞台の建設等振興策を進める

4.    2人の名人の死――春太夫と彦三郎
1877年 松嶋文楽座の五代目竹本春太夫と、歌舞伎のトップスター五代目坂東彦三郎が逝去し、世代交代が時代の変わり目となる

5.    西南戦争劇ブーム
守田勘弥は、火災焼失後の再興にほとんどの俳優を揃え、西南戦争に従軍記者として出張した福地源一郎と河竹黙阿弥を組ませて西南戦争を題材にした作品を書かせ、團十郎を隆盛、菊五郎を篠原国幹にして上演、大評判をとる
團十郎が演じる新しい世界観を持った新しい人間像が受け、西郷の「南州」をもじって「團州」と呼ばれた
西南戦争のいきさつは新聞によって国民の多くが知っていたが、それを視覚的に立体化し、演劇化するだけのメディアは歌舞伎以外になかった。歌舞伎が一般社会とまだ密着し、その現実を描く力をもっていたことを意味し、歌舞伎もこの時点まではまだ古典劇であると同時に現代劇でもあった
各劇場で上演されたが、新富座だけが大当たりで、歌舞伎の中心として黄金時代に入る

第3章        新時代の興隆
1.    新富座の隆盛
1878年新富座新装開場。初めてのガス燈による夜芝居
1879年 米国前大統領のグラント将軍が観劇
新富座の隆盛が、演目の充実と方向性という近代歌舞伎の規範を決める ⇒ 古典(江戸歌舞伎の集大成)、新作世話物、活歴(生きた歴史劇)、散切り物、実録物、翻訳物、戦争劇というジャンルが固定され、それを團菊左など6人の名優が支えた
反対勢力の台頭と経済的理由から、一座独占に翳り

2.    英照皇太后と岩倉具視
英照皇太后の後見によって岩倉具視が能を新政府の式楽にすべく運動するが、天皇が万人受けしないとして反対

3.    大阪の新人右団次
大阪角座の隆盛 ⇒ 鴈治郎と右団次の活躍が支える

4.    芝山内能楽堂
1881年 一般への能の開放を目的に建設 ⇒ 伊藤博文などの歌舞伎推進派に対抗して岩倉具視の発案で結成された「能楽社」が中心となって、先ずは芝公園の一角に近代的なクラブ「紅葉館」が設立され、余興に舞台を使わせようとした後、専用の能楽堂として設立されたもの。舞台開きに英照皇太后行啓
歴史的意義 ⇒ ①「能」という言葉の成立、②劇場構造としての「能楽堂」の成立(能舞台と観客席が一体化)、③全国から名手が集まったこと(世に3名人:宝生九郎の品位、梅若実の機、桜間伴馬の技/)、④近代的な制度の中で古典劇としての芸術的価値が確立
能楽自体は復興したものの、各派の分列から資金的に行き詰まり1903年閉館

5.    新富座の崩壊
制作費のかけ過ぎや、他座の奮起で新富座の隆盛は続かず、資金難から1882年倒産
新富座に集結していた名優たちは離合集散を繰り返しつつ、技芸を円熟させていく

第4章        改革の嵐の中で
1.    文楽座と彦六座
人形浄瑠璃の世界では、従来から松嶋にあった「文楽座」と1884年新たに都心の博労町に出来た「彦六座」とが競うように繁盛し、近代化に邁進したが、「彦六座」はわずか4年後放火で焼失

2.    シェイクスピア登場
江戸時代から名前は一部に知られていたが、1871年の「西国立志編」が翻訳刊行されてベストセラーとなり、その一部に『ハムレット』の一節が含まれていたのが契機で、シェイクスピアの名が広く知られるようになる
戯曲1編の全訳は、1884年の坪内逍遥による『ジュリアス・シーザー』が最初で、翻案名は『該撤奇談 自由太刀余波鋭鋒』(しいざるきだん じゆうのたちなごりのきれあじ) ⇒ 英文学としての研究から、戯曲として演劇の対象となった意義は大きい

3.    菊五郎の叛乱
歌舞伎界は守田勘弥の倒産で群雄割拠に ⇒ 1プロデューサーに落ちたとはいえ守田勘弥の古典回帰、團十郎の活歴重視、菊五郎の世話物役者としての活躍

4.    東西の演劇改良会
1886年 欧化政策をとる伊藤博文の肝煎りで「演劇改良会」発足 ⇒ 官製の歌舞伎振興団体で、87年の天覧歌舞伎と89年の歌舞伎座、1911年帝国劇場の建設という副産物をもたらす
東京の改良会が、演劇人を入れない官製の改革を目指したのに対し、大阪の改良会は役者の中村宗十郎が中心となって演劇の質的改良を試みたところから、新流の始祖と言われた角藤貞憲と、壮士芝居の川上音二郎という将来の柱を生むことに繋がる

5.    井上馨邸の天覧歌舞伎
1887年 麻布鳥居坂の井上邸茶室落成の席開きに天皇が行幸されることとなりその余興に歌舞伎を上覧。翌日は皇后以下女性一色、3日目が各国公使、4日目が皇太后
条約改正を視野に入れた政府の欧化政策の一環だったが、同時に一般民衆の演劇に過ぎなかった歌舞伎が社会全体から公認される(差別の中に育ってきた芸術が、差別を越えて認知された)とともに、近世(江戸時代)との訣別・古典劇化を決定的なものにした
これを境に新しい才能も生まれた ⇒ 福助(五代目芝翫、五代目歌右衛門)、金太郎(七代目幸四郎)、市川ぼたん(二代目左団次)

第5章        新しい歴史の1
1.    角藤貞憲(すどうさだのり、18661907)
1888年 大阪で新しい時代の演劇として「壮士芝居」が始まる ⇒ 「書生」(勉学する青年)と「壮士」(政治運動に参加した青年)は明治の新しい青年のタイプ。自由民権運動に参加する壮士を描いた芝居で、角藤以下の素人役者が演じて人気を博す
素人が芝居の概念を破壊 ⇒ 素人が歌舞伎を真似した道楽はあっても、素人劇団が舞台へ上がったのは日本演劇史上初めて。その成功が全国の劇団発祥の先駆けとなる
角藤の成功が、先行していた川上音二郎の活動を認めさせることにもなったが、経営の際が欠落していたことと、内容的に度が過ぎて警察に睨まれたため、興行的には苦労

2.    歌舞伎座開場
1889年木挽町に歌舞伎座開場 ⇒ 立見も入れて2,066人収容、日本一の大劇場。中心になったのは、守田座の金主だった金貸しの千葉常五郎の娘婿勝五郎。渋沢栄一と争ったが、渋沢は後に帝国劇場を作る
歌舞伎座開館の歴史的意義 ⇒ ①歌舞伎が芝居の代名詞ではなく演劇の特殊な一分野になった、②歌舞伎を代表する格式を持った(名優たちがこの舞台を自分達の本拠と考えた)

3.    川上音二郎(18641911)初東上
川上音二郎の芝居 ⇒ 警視庁への届けは、芝居ではなく大阪でいう所の「俄」、即興喜劇だとして「滑稽演劇」と銘打つ。出演者は「俳優」ではなく「道化師」の鑑札
角藤は、あくまで「演劇」を目指したが、川上は「演劇」の範疇を超えようとしたところに歴史的意義がある ⇒ 俳優ではなく、素の「私」を舞台に出す。89年に始めた「オッペケペ」節もジャンルを超えたものを目指した1つの成果
演目は、①政治劇、②世相風俗をリアルに映すもの、③俄仕立ての喜劇
劇団員募集も始められ、新しい俳優が生まれる契機となる

4.    菊五郎と圓朝
歌舞伎座開場が大きな波紋を広げる ⇒ 菊五郎、守田勘弥、福地桜痴
歌舞伎座が改良演劇のための劇場で團十郎が中心、桜痴が團十郎の言うことを何でも聞いたのに不満を持ったのが、保守派の菊五郎で、歌舞伎座への出演を控える
当時有名だった人情噺の大家圓朝の姿形を真似た菊五郎が大評判をとり、高座で「人情噺」を語る名人であると同時に話を作る創作家でもあった圓朝の台本が相次いで取り上げられた
守田勘弥は、借金と興行に係るトラブルで劇界から身を引き逼塞、97年死去。菊五郎は守田勘弥の没落で帰る劇場を失い團十郎と再接近、ここに左団次が加わって「團菊左」晩年10年の新しい時代が幕を開ける

5.    女優の誕生――済美館男女合同改良演劇
91年 浅草吾妻座(済美館)にて「男女合同改良演劇」開幕 ⇒ ①後の新派の大立者伊井蓉峰の初舞台(政治色の強い壮士劇から離れる)、②旧演劇の様式である「竹本(義太夫のこと?)」や「合い方(踊りの準主役)」、「女形」を廃止し歌舞伎との違いを出す、③日本初の女優誕生(何らかの芸に秀でた女性ばかり)
日本の演劇史上女性が舞台に上がった例外は3
   出雲のお国 ⇒ 出雲大社の巫女が男装で男性を演じた
   遊女歌舞伎 ⇒ 遊女屋の宣伝のためのもの
   お狂言師 ⇒ 男子禁制の大名家の奥に出張して歌舞伎を上演した女性たちのこと
川上音二郎も済美館に刺激され劇団を改革し、女優育成に手を染め、芳町の芸者だった自分の妻を貞奴として女優にした(貞奴は伊藤博文の愛妾だった)

第6章        新しい演劇地図
1.    能楽会と稲荷座
「能楽社」が「能楽会」と改称、広く会員を募ったが、強力な後援者の岩倉と皇太后が相次いで亡くなり存亡の危機を迎えるが、家元制度が辛うじて存続を支えた
人形浄瑠璃の稲荷座 ⇒ 一時的に隆盛を誇るが、「文楽座」の一極集中に

2.    日清戦争前夜
1893年 川上音二郎が幕開けを前にすっぽかして洋行したが、そのあとに独立した新演劇がいくつも輩出して、歌舞伎に匹敵する勢力となる。川上音二郎帰国後も現代劇が隆盛
演劇の主流は依然として歌舞伎で、50代の團菊左の円熟した舞台が成功
日清戦争が、歌舞伎と新演劇の分布図の運命を決める演劇界にとっての大事件となる

3.    日清戦争劇ブーム
宣戦布告直後に新演劇が戦争劇を上演、最初は日清戦争のきっかけとなった朝鮮事変を題材にしたもの ⇒ 歌舞伎も出願したが歌舞伎役者に皇軍の兵士をやらせるわけにはいかないとして許可にならず、他方新演劇は連日大入り満員、急激な戦局の展開に対応して歌舞伎にも許可が出る。11か月間に31公演の盛況だが、新演劇が戦争という現象を視覚化し報道演劇として新聞に次ぐ報道の機能を持って大衆に受けた(皇太子の台覧を仰ぐ)のに対し、歌舞伎は近代性を捉える事が出来ず古典劇としての限界を露呈
芝居といえば歌舞伎を意味した時代が終わり、歌舞伎が古典化したこと、その意味を人々が確認したことは演劇史上の重要な転機
戦争劇ブームに乗って新演劇は歌舞伎座にまで進出したが、戦争終了と共にブームは下火となり、歌舞伎座は新たに株式会社が組成され、座主の千葉勝五郎は引退 ⇒ 團十郎が歌舞伎座を歌舞伎本来の檜舞台として存続させようとした結果であり、菊五郎と共に最後の古典の黄金時代を作る

4.    成美団の旗上げ
1896年大阪で結成された新演劇の劇団で、大阪の新派の誕生 ⇒ 川上の影響でありながら、反川上で、歌舞伎的感性を維持したのが東京の済美館との違い

5.    團十郎の「助六」
戦争劇ブームの終焉によって再び古典歌舞伎が復興 ⇒ 96年の團十郎最後の「助六」が頂点(62年以来10年毎に計4回演じている)
名優たちの後継者問題と、歌舞伎座の内紛が歌舞伎界の屋台骨を揺さぶる ⇒ その頃京都に創立された白井松次郎と大谷竹次郎兄弟の「松竹合名社」が株式会社組織を利用して東京劇壇に旋風を巻き起こす

第7章        歌舞伎と新演劇
1.    團菊 晩年の光芒
1900年菊五郎が脳溢血で倒れ、翌年は團十郎が怪我、菊五郎が再度脳溢血、翌々年死去
2人の活躍によって「型」が出来、型の芸術として古典化し今日に至る伝統を作るとともに、歌舞伎座が文字通り歌舞伎の中心となった

2.    大阪歌舞伎座
98年 梅田に大阪歌舞伎座開場 ⇒ 福地桜痴らが発起人。東京に倣って作られた、開場には團十郎が大阪発お目見えまでしたが、その後は役者同士の争いから不入りが続き、僅か1年後の出火で消失、再建はされなかったものの、その後神戸、名古屋、京都と歌舞伎座が広がる

3.    シェイクスピア、近松、そしてイブセン
坪内逍遥の功績 ⇒ 独自の「史劇論」を展開。第1作が『桐一葉』(大坂冬の陣を題材に淀君と片桐且元が主人公)、第2作が『牧の方』(マクベス夫人をモデルに、北条時政の後妻を描く)だが、素人作家の作に対し歌舞伎界の反応は冷淡。逍遥の仕事が時代に先駆け、しかも時代の精神を体現する重要なものであったにもかかわらず、歌舞伎の名優たちが逍遥が描こうとした人間の懊悩や心理といった本質を理解せず芝居化を拒否したのは、まさに歌舞伎の置かれた位置を象徴していて、近世の歌舞伎のカテゴリーには個人も心理も自我もなかったということ
   シェイクスピアの翻訳とその実作への応用 ⇒ 新演劇がしばしば上演したが、それ以上に逍遥が歌舞伎の台本にシェイクスピアの歴史劇を粉本としていることが重要。福地の歴史劇が史実に拘るあまり戯曲の論理を無視して人間ドラマになっていないと批判
   近松研究 ⇒ 日本の代表的な劇作家として94年から研究を開始。近松の戯曲は大半が時代浄瑠璃で、福地らも時代浄瑠璃作家と位置付けて改作を続けたが、逍遙は数少ない世話浄瑠璃に注目、そこにリアリティを発見、主人公となっている無名の「個人」を発見。伊井蓉峰らの新演劇に大きな影響を与えた
   イブセンへの関心 ⇒ 直接の接点はないが、逍遙が実験的演劇を試みるために改組した文芸協会(牛込余丁町の自宅の隣に小劇場を作って上演)がイブセンの『人形の家』を採りあげており、逍遙が描こうとした近代社会の中での人間形成の変遷の一連の動きと繋がる
以上の3人の劇作家を巡って、逍遙が開拓したものは、今日まで繋がる歴史の出発点であり、明治の精神的な風土を象徴。その風土は、近代的な人間像の成立という一点にありその一点によってその後の歌舞伎も新演劇も展開する

4.    川上音二郎の洋行
1899年 2回目の洋行で一座と共にサンフランシスコへ ⇒ 日本の演劇史上初の海外公演。「マダム・ヤッコ一座」として好評、1年後にはロンドン・パリに渡ってさらに半年公演を続け大評判をとる。貞奴という名女優が誕生したほか、川上も舞台装置、証明等多くを学び、その後の活動に大きな影響をもたらす

5.    伊井蓉蜂と喜多村緑郎
川上の洋行の間に日本の新演劇が大きく変わる。その中心が伊井と喜多村
東京では伊井が自分の劇団を立ち上げ、実際の事件を書いた台本で人気を呼び、それが契機となって多くの新演劇の一座が各劇場に出て、新演劇が一般に普及 ⇒ 新しくてリアルなところが受け入れられたが、脚本が練られておらず演技も未熟の誹りは免れない
大阪では喜多村が女形として活躍、文芸路線とリアルな演出・演技が好評で、後に新派と呼ばれる演劇のジャンルの基礎を作った

6.    摂津大掾受領
1902年 文楽座一の人気者二代目越路太夫が、「摂津大掾」受領の令旨と烏帽子、素襖(すおう)を賜る ⇒ 皇族から下賜される官位。維新によって国名を名乗ることが禁止されたため受領者が絶えていた。能、歌舞伎とも天覧を賜り国家の古典劇として認定されており、文楽のみとり残されていた
他にも名人が揃い、明治文楽の1つの頂点を迎える ⇒ 04年初の歌舞伎座公演も、連日未曽有の大入り。東京の人形浄瑠璃の衰微を大阪文楽がカバーして全国区に

第8章        激動の二十世紀
1.    團菊左の死
03年の菊五郎に続いて、腎臓を患っていた團十郎も同年急逝、左団次も肝臓癌で翌年逝去
日露戦争開戦を題材にした左団次の歌舞伎も、本人の欠場で失敗 ⇒ 西南戦争で歌舞伎が、日清戦争で壮士劇が大当たりをとったが、日露戦争ではもはやメディアとしての演劇の役割は小さかった
3人の死の演劇界に対する影響 ⇒ ①後継者をめぐる混迷と世代交代、②團菊の歌舞伎座と左団次の明治座の経営の混乱・低迷、③歌舞伎の衰退による新演劇の流行
歌舞伎界に残ったのは芝翫1人 ⇒ 女形(後の五代目歌右衛門)にも拘らず一座の座頭となって團菊の出演しない時の歌舞伎座に出て大当たりをとっていた

2.    正劇、新劇、新派
1903年 洋行帰りの川上一座がシェイクスピアの翻訳劇『オセロ』を、純粋にせりふだけで運ぶ芝居として「正劇」と名付けて公演
次いで『ベニスの商人』を上演 ⇒ 新聞に明治座の「新劇」として紹介され、せりふ劇としての西洋風ドラマの代名詞となると同時に、「新派演劇」とも銘打たれ、歌舞伎を「旧派」、新演劇を「新派」と呼ぶ風習が一般化
日露戦争勃発で新演劇も戦争劇一色となるが、成否はまちまち ⇒ 活動写真の台頭により新演劇にも危機が訪れる。川上も病に倒れ、俳優を廃業してプロデューサーの道へ進む

3.    松竹(まつたけ)合名社
1902年 松竹合名社により京都に明治座開場 ⇒ 双子の兄弟の父親は相撲や芝居の水場(飲食物や座蒲団を扱う係)1900年竹次郎が資金的に行き詰った劇場を買い取って移築し「歌舞伎座」として開業。明治座も買い取った劇場を改装したもの。それを機に兄弟が持っていた4軒の劇場の経営母体として「松竹合名社」を設立
新しいタイプの興業者の出現 ⇒ 江戸は座主(劇場所有者)と名代(興行権者)と座元/座本(公演責任者)が同一人だったが、京都・大坂はそれぞれ別人。維新後この制度が廃止されたが、一部には残っていた。松竹兄弟は、①興行の基本は劇場にあるとし、それもいくつかの劇場を持つこと、②一流を狙わないが、上演する演目には全責任を持とうとした、③座主・名代・座元を一元化させることを目指した
京都に次いで大阪に進出、兄弟の熱心さに惚れこんだ人気役者鴈治郎からの誘いに乗ったが、そのあと鴈治郎の東京進出に合わせ兄弟も東京へ行く

4.    芝翫の野望
歌舞伎と新派の板挟みになって芝翫が選んだのは、①古典の役作り、②『桐一葉』等の新歌舞伎、③現代劇。①②は女形が冴えて大当たりをとるが、③は新派に押される
歌舞伎座は慶應出身の実業家が応援して、大河内社長(元郵船の重役、花柳界では粋人で通る)時代となり、芝翫を呼び戻してトップに据える。以後五代目歌右衛門の襲名を通じて1940年の死去まで歌舞伎界の棟梁に「女形」が座って君臨した

5.    新派大合同――本郷座時代
新派の中でも高田実と河合武雄が出演している本郷座の人気が突出、新派の代表作となる泉鏡花の『婦系図』の初演もあって新派はその頂点を極めるが、日露戦争後の不況もあって新派大合同の動きが始まる
いい台本に恵まれなかったことや、大合同するほどの大一座は必要なくなったこと、役者の乱立が本家本元を追い詰めたことなどからすぐに凋落が始まる
古典劇と違って、物語の新しさが売り物の新派は芸だけで古典化することは出来なかった

第9章        明治の終焉
1.    吉田東伍
06年宝生九郎が引退、09年梅若実が死去。10年明治最後の天覧能が前田侯爵邸で開催
世代交代の中で、高浜虚子の実兄池内信嘉が無償で能楽振興のために尽力。池内が作家を集めて作った「能楽文学研究会」のメンバーだった歴史地誌学者の吉田東伍が、今まで口承に過ぎなかった世阿弥の『風姿花伝』を校注を付して出版、初めて一般に公開される

2.    植村家の崩壊
江戸時代から「文楽軒の芝居」といわれて人形浄瑠璃興行を行ってきた植村家が、先代の死去とそれに続く内紛から、摂津大掾が松竹に支援を要請。10年から松竹の興行となって、一時は隆盛を盛り返したが、摂津大掾の引退、人形使い桐竹紋十郎ほか相次ぐ名手の死去で苦難の道を歩む

3.    團蔵東上
歌舞伎界は、大河内社長のもとに役者を一手に掌握、08年團菊左の先輩で大阪で活躍していた七代目團蔵を呼んだこともあって、團菊亡き後束の間の黄金時代を取り戻すが、09年社長の急逝で3年と続かずに、歌舞伎座そのものの存在が危うくなる

4.    歌右衛門襲名――帝国劇場開場
09年 松竹が新富座を買収して東京に進出、11年帝劇開場
五代目歌右衛門の襲名を巡って、芝翫と鴈治郎が争うが、それはそれぞれの役者を抱える歌舞伎座と松竹の争いでもあった。結局芝翫が襲名するが、歌舞伎座からは新たに出来た帝劇に大量に役者を抜かれ、不入りを挽回するために22年振りに大改修を行うが、慶應出身の重役たちが松竹に株を売り渡してしまう ⇒ 襲名興行を控えていた芝翫と大河内の跡を継いだ田村成義が必死に買い戻して歌舞伎座を維持するとともに、歌舞伎界に棟梁として君臨。その後田村は吐血、後継者に大谷弟を指名

5.    自由劇場と小山内薫
09年 有楽座で自由劇場がイブセンの『ボルクマン』を上演 ⇒ 西欧近代劇の翻訳劇最初の上演で、いわゆる「新劇」の始まり。自由劇場を主宰したのは二代目左団次と小山内薫
二代目左団次は初代の長男、父の跡を継いで明治座の座主となったが不入りは如何ともしがたく、洋行して俳優学校にも通い、帰朝後革新興行に転じる ⇒ 女優を起用、茶屋制度を廃止し入場券をすべて劇場直売にしたほか、翻訳劇にも進出
小山内は、帝大卒後伊井の手伝いをした後、雑俳仲間の左団次と組んで芝居に乗り出す
自由劇場の大成功で、翻訳劇の位置が確立、西欧の近代劇が日本に紹介され、大震災後の「築地小劇場」へと発展
12年 伊井から明治座を買いたいとの話が来たのを潮時に、左団次は売却して松竹の東京の専属俳優1号となる

6.    松井須磨子
逍遥は朗読術に興味を持ち、1890年東京専門学校(後の早稲田大)に朗読研究会を作る(東儀鉄笛等が参加) ⇒ 06年「文芸協会」に発展、自由劇場とともに新劇の2大勢力になる。逍遙の弟子島村抱月が活躍、そこに応募してきたのが後の松井須磨子。島村が須磨子を主演にイブセンの『人形の家』を帝劇でやって大当たり。須磨子の演技は、当時流行し始めた平塚らいてうの青鞜社の女性解放運動の象徴として世間の注目を浴びる
松井須磨子は、「明治演劇史」の最後を象徴する1
   近代的な女優としての最初の人間 ⇒ 歌舞伎とは全く縁のないところから出発
   近代劇場の幕開けである帝劇に登場してスターとなったこと
   演じたのがイブセンの『人形の家』だったこと ⇒ 現代演劇はチェーホフ

エピローグ 天皇崩御――明治という時代
天皇崩御と相前後して多くの名優が世を去った ⇒ 多くは旧時代に生まれ、旧時代の伝統を身に付けて名手になったが、同時に新しい時代を迎えて新しい価値を発見したからこそ名人やスターになった
「明治」という時代の特徴
   急激な近代化 ⇒ 上からの強力な施策があって、しかる後に個人の自覚が起こる
   強く推し進められた天皇制 ⇒ 独立した近代国家の中心としての天皇政の確立
   3度にわたる戦争体験 ⇒ 西南戦争、日清・日露を経て列強の仲間入りを果たす
政治・社会の体制の変化が、芝居の世界にも及ぶ
   近代化を通して、演劇が目指したのは写実主義。新しいジャンルの誕生は価値の多様化であり、明治を通して一貫して流れるのはリアリティへの強い志向
   天皇制社会を作り、欧化政策をとる指導者は、「天覧」というカードを使って演劇を天皇制国家に組み入れた
   戦争体験が演劇の地図を大きく塗り替えた ⇒ 西南戦争では歌舞伎が大当たり、日清戦争では壮士劇がヒット、日露戦争では活動写真に主役の座を奪われた
長年にわたる歌舞伎からの呪縛があまりにも強く、新派でさえ写実を第1としながら女形という手法に至らざるを得なかった
その呪縛は逍遥や小山内にも及んだが、ついに脱却したのが、個人の自覚をもってその心理を描いた松井須磨子で、演劇の内部から生まれた欲求の結果だった
明治という時代は、一方で天皇制国家としての体制、他方では市民の個人としての自覚、その芸術的表現の、1つの希望を目指した時代であり、このねじれて、歪んだ「近代」こそが、私たち現代人にとっての過去であり、歴史であった

新しい価値とは何か。


明治演劇史 渡辺保著 表現と苦闘する生身の人間たち 
日本経済新聞 書評 2013/1/6
フォームの始まり
フォームの終わり
 伊原敏郎、筆名を青々園という演劇評論家がいた。明治・大正・昭和の三代を生きて、それぞれの時代に『日本演劇史』『近世日本演劇史』『明治演劇史』という3部作を書き上げた。最後の『明治演劇史』が出たのは昭和8年だが、3冊とも今もって重宝がられている。
(講談社・2800円 ※書籍の価格は税抜きで表記しています)
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(講談社・2800円 書籍の価格は税抜きで表記しています)
 ナントカ史と大看板をあげた本は教科書臭さが鼻について飲みこみにくいものだが、それは学者先生のガクガクした筆さばきのせい。青々園や、近年なら大笹吉雄の『日本現代演劇史』がそうであるように、物知りが何十年何百年という時間をダイナミックに描いてみせる通史の類は、読めば本来とてもおもしろいもののはずだ。
 『江戸演劇史』から3年、いよいよ著者の筆が明治に及んだ。世間という廻り舞台がぐるりと反転し、新時代の高波はおのずと演劇の世界にも押し寄せた。それは取りも直さず、年代記に記すべき歴史的事件が目白押しということなのだが、うっかり事実の山に足を取られると、肝心の歴史が霞んで見えなくなってしまう。木を見て森を見ず。その点著者の眼差しは常に「人間」に注がれてブレることがない。能楽、人形浄瑠璃、歌舞伎、新派、新劇。それぞれを行き来しながら、演劇を真ん中に据えた一時代の人間模様をまるごと再現してみせる。
 著者を執筆に踏み切らせたのは伝説の名優・九代目市川団十郎だそうだ。他に類のない、渋い写実の芸風で、具体的にどこがどう良かったのか、後世の者には見当がつかない。団十郎を追いかけ、明治という時代を探るうち、そこには能の梅若実が、人形浄瑠璃の豊沢団平がいた。「団十郎はひとりではなかった」。生身の人間が表現と苦闘する姿から、鬱蒼とした明治の演劇の森が浮かび上がる。
 歴史がもともと「語られたもの」ならば、人はもっとその語り口に注意を払うべきだろう。あたかも続き物の講談のように、と言うと著者に叱られるかもしれないが、消え去った芸と人間とを語る、その語り口が芸になっている。著者の見た明治は「血沸き肉躍る人々の冒険の世界であった」。読めば血沸き肉躍る、そういう演劇史がありがたいことにまた一冊生まれた。
(京都造形芸術大学准教授 矢内賢二)


(書評)明治演劇史 渡辺保著 時代の転換期に息づく人たち
朝日新聞 2013.1.27. 掲載
 維新後、能や歌舞伎がどう変化し、新しい演劇がどのように出現したか、政治や社会の動きとともに生き生きと見える一冊である。
 2009年刊の同著者による『江戸演劇史』上・下は約三百年の時間を駆け足でめぐる長編で、能、浄瑠璃、歌舞伎、音曲、舞踊、遊郭の有機的な関係を書いた名著である。ものごとが飛躍する所には必ず優れた個人がいることを痛感させられる本でもあった。本書はその続きである。やはりジャンルを縦横に走り巡り、そこに明治という時代が浮かび上がる。その要には実に興味深い個人が、まるで役者のように浮かんでは消える。
 明治演劇とその時代の特徴については、著者が「エピローグ」で見事にまとめている。そして本書全体からは人の息づかいが聞こえる。たとえば能の零落と新生。幕藩体制が消滅したとき、そのもとで生きてきた能役者たちは職を失い零落しながらもその中から、何としてでも能を続けようとする者が現れる。そして天皇がご覧になる「天覧」という仕掛けをいち早く使い、岩倉具視を始めとする政治家や財界人の支持を得て、ここに「能楽」という新しい言葉が誕生し「能楽堂」という新空間が出来上がり、安田善之助の収集によって世阿弥の『風姿花伝』が世に知られる。私たちが現在「能楽」として知っている一連の脈絡は、こうして明治に新しくまとめられたものなのである。瀕死の伝統が蘇る過程が、能だけでも充分に分かる。歌舞伎も文楽も新しさに向かって悶えながら、組織と劇場空間を刷新していったのだった。
 いかなるジャンルにも属さない破天荒な川上音二郎という天才も実に面白い。笑いの芸能こそが新しい時代の思想を表明し、時代を切り開くきっかけになったのである。
 時代の転換期には何が起こるのか? 芸能の変転に人々の熱情と努力が見える。過去のこととは思えない。
 評・田中優子(法政大学教授・近世比較文化)
    *
 講談社・2940円/わたなべ・たもつ 36年生まれ。演劇評論家、放送大学客員教授。『私の歌舞伎遍歴』など。

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