幕末維新変革  宮地正人  2013.1.1.


2013.1.1.  幕末維新変革史(上・下) 

著者 宮地正人 1944年生まれ。東大史料編纂所教授、国立歴史民俗博物館館長を経て、現在東大名誉教授。専攻は日本近現代史

発行日           上巻:2012.8.28. 第1刷発行         下巻:2012.9.26. 第1刷発行
発行所           岩波書店

ペリー来航から西南戦争終結に至る幕末維新期の歴史過程は、世界史的に見て極めて大きな変革であった。
維新期史料に通暁する著者が、長年の研究成果を注ぎ込み、当事者たちの息遣いを伝える記録類、書簡、日記等を駆使して筋道立てて描き出す幕末維新通史

はじめに
本書の基本的視角は、幕末維新期を、非合理主義的・排外主義的攘夷主義から開明的開国主義への転向過程とする、多くの幕末維新通史に見られる歴史理論への正面からの批判である
世界資本主義への力づくの包摂過程に対し、日本は世界史の中でも例外的と言えるほどの激しい抵抗と対外戦争を経、その中で初めて、ヨーロッパでは17世紀半ば、絶対主義国際体制の下で確立された主権国家というものを、19世紀70年代、欧米列強により不平等条約体制を押し付けられた東アジア地域世界にあって創り上げる。この主権国家が、漸く獲得した自信をもって、上から日本社会を権力的につかみ直そうとするその瞬間、幕末維新変革過程で分厚く形成されてきた日本社会そのものが、自由民権運動という一大国民運動をもって、自己の論理、社会の論理を国家に貫徹させようとする。この極めてダイナミックな歴史過程こそが幕末維新変革の政治過程である
特に留意した枠組みは以下の3
   国際政治と国内政治を、お互いに複雑に絡み合う国際政治として捉えるとともに、日本が古代以来複雑な政治的伝統を持ち続けた国家だったことが幕末維新変革の前提としてあること
   鎖国を、16世紀の日本が世界との対峙の過程で試行錯誤の上作り上げた近世日本国家の国際政治システムとして捉える ⇒ この国際政治を貫徹して初めて幕府が国内の絶対的支配権を自ら保証し得た
   従来の国際政治システムを外部から軍事力で打破しようとする試みに、日本国内のあらゆる階級が反発・抵抗し、日本の様々な民族的伝統と心性が総動員され、封建的な制約が打ち破られ、より多くの日本人が政治過程に参画できるようになった

I部 前 史
第1章        欧米列強の東アジア進出
1.    進出を可能にした技術 ⇒ 1519年のマゼラン以来、経度測定技術が開発されるとともに、1815年にはイギリスで蒸気機関が艦船に導入され、地球が航海により一体化
2.    イギリスの東アジア進出 ⇒ ナポレオン戦争が東アジアに波及するのは1807年フランスがリスボンを占領したことによる。1842年のアヘン戦争後の南京条約で東アジアの測量が始まり、対日接近の糸口となる
3.    アメリカの東アジア進出 ⇒ 捕鯨船が北極海の漁場から南半球に移り、ホーン岬経由で太平洋に進出。独立戦争でカリブ海域での西インド貿易から締め出された米国商人が新たな市場として清国開拓を狙う
4.    フランスの東アジア進出 ⇒ カトリックの布教活動を関係

第2章        18世紀末以降の対露危機
1.    ロシアの東アジア進出 ⇒ 毛皮獣を求めて西シベリアに進出、1639年にオホーツクに到達したが、南下は清国によって阻止
2.    幕府の対応 ⇒ 1771年のハン・ベンゴロウ事件でポーランド軍の流刑者が来航しロシアが南下を狙っているとの情報に、老中・田沼意次が対ロ戦略として蝦夷地の開拓を決意。アイヌの蜂起に遭う。1792年ロシアのラクスマン使節が根室に来航、長崎入港を許可して妥協するとともに、樺太方面の防備を強化
3.    国内への反作用 ⇒ 蝦夷地開発策は多くの優れた探検家を輩出(最上徳内、間宮林蔵)1799年には国土防衛のための第1弾として伊能忠敬が日本全土の正確な地図作成に着手。同時に対露危機が幕府の外交転換・鎖国体制変更の契機となる

第3章        平田国学と復古神道の成立
1.    平田国学の論じられ方 ⇒ 平田国学こそ、日本の対外認識軸の大転換を促すもの
2.    対中国から対西洋へ ⇒ 転換期の思想を象徴するのが「寛政の3奇人」と言われる林子平・高山彦九郎・蒲生君平
3.    平田篤胤と対露危機 ⇒ 西洋自然科学を日本に紹介、日本とっての他者を中国から西洋に転換した功労者
4.    復古神道の誕生 ⇒ 篤胤が『霊能真柱(たまのみはしら)』を刊行し、復古神道への基礎を築き、西洋(キリスト教)に対する自己と日本人の霊魂のあり方の確立を説いた。神道という民族宗教の体系化こそ、世界史への包摂過程の下、儒教的な東アジア知的共同体からの日本の離脱を象徴しており、「鎖国論」とも相通じる
5.    「御国(みくに)の御民(みたみ)」論と復古主義 ⇒ 江戸時代が領主と領民との厳格な階級区分を前提とした身分固定制を大原則としたのに対し、復古神道は天皇との関係で自己を位置付けるものであり、近世社会では危険な萌芽を含んでいた
6.    「みよさし(=委任)」の論理 ⇒ 現実の政治理論の裏付けとして考えられた理論。将軍家は「すめらみこと」に代わって天下の御政を執り行う
7.    顕世(うつしよ)・幽世(かくりょ:霊魂の住む世界)論 ⇒ 復古神道を仏教思想から自立させる機能を果たした理論。幽冥(ほのか)界の主宰神・大国主命が顕世を支配

第4章        不平等条約世界体制とアヘン戦争
1.    19世紀世界のとらえ方 ⇒ 19世紀初頭からの欧米キリスト教列強の世界進出は、1つの世界的システムを形成しながら遂行されたと考える
2.    不平等条約世界体制の特徴 ⇒ フランス革命、ナポレオン戦争、産業革命の複雑な絡み合いの中から成立し、資本主義的大量生産商品の販路拡大や蓄積された資本の有利な投資市場を求めて拡大していく。非キリスト教世界に進出するに際して適用されるべき国際的な法体制が必要とされ、その1つが治外法権であり、協定低率関税、片務的最恵国約款(他国にその後認める特権を自動的に自国に適用する)であった
3.    不平等条約世界体制の起源 ⇒ オスマン帝国のcapitulationが起源。ヨーロッパのキリスト教地域征服の際に適用
4.    治外法権の出現 ⇒ 18世紀末オスマントルコの弱体化を契機にヨーロッパ列強による領土拡大攻勢が始まり、占領地に治外法権を確立していく
5.    アヘン戦争と不平等条約体制 ⇒ 1833年 東インド会社の広東貿易独占権が消滅し、自由貿易に代わったところで、イギリスが清国に対し不平等条約体制実現を目論み、アヘン戦争を通じ軍事力で強制
6.    不平等条約世界体制の全体構造 ⇒ イギリスの東アジアに於ける例では、対日が1858.8.の英日修好通商条約によって、対清では1858.6.の天津条約により完全な法的枠組みが作られ、大英帝国海軍という軍事力によって維持されたが、80年代になるとその政策としての有効性に疑義が生じ始める

第5章        幕藩制国家と朝幕関係
1.    朝幕関係の変遷 ⇒ 古代律令制国家は二重構造を取り、在地領主制と、一部国家権力を移譲された征夷大将軍が両立していたが、室町幕府以降武家による守護大名の下に統合されていく。さらに戦国時代に入って、日本が地球的規模での世界に包摂されたことによる鉄砲の伝来が、支配階級の再編成に決定的な役割を果たし、自己が国家権力を掌握する上で、衰微した天皇・朝廷をいかに取り込むかという課題が提起され、秀吉は摂関を頂点とする朝廷・公家の官職制度の中に領主階級が入り込む形で国家公権を掌握しようとした
2.    幕藩制国家における朝幕関係 ⇒ 家康は、もっぱら部門の棟梁としての徳川家の実力確立を目指し、軍事力によって全国の諸大名を支配する一方、国家権力を掌握する上で朝廷・公家の官職制度を利用した。朝廷尊崇の態度を幕府自ら示すことで天皇・朝廷との良好な関係を維持。歴代天皇も、自らを神武天皇の皇孫と名乗り、日本国王を自任
3.    日常性の中での朝幕関係 ⇒ 幕府は朝廷関連の知行を増やし、将軍交代の際は将軍宣下式を執り行い、新たに認められた新将軍が諸大名に改めて領地を付与する
4.    身分秩序と朝幕関係 ⇒ 国家公権の分有者である大名の家督相続の際は、将軍に「お目見え」の儀式が行われ、将軍の推挙により朝廷の官職が授与される
5.    幕末期の変化 ⇒ 1844年以降の欧米列強の渡来により朝幕関係が問われ始める

第6章        アヘン戦争の日本への影響
1.    アヘン戦争情報の日本への渡来 ⇒ 戦争勃発直後にオランダ船によってもたらされたが、42年に清国商人によってもたらされた漢文の情報が一気に日本国内に広まる
2.    幕府の対応 ⇒ 日本への飛び火の噂に対応して幕府は沿岸の防備強化を指示するが、42年外国船打払令を廃止、代わって薪水食料給付令を発布。44年以降近海に外国船出没が増え始めるが、人材登用や軍事技術の摂取の動きは見られず、逆に高島秋帆や高野長英のような先進技術の持ち主を捕縛・処刑したり、蘭方医術の適用を禁止したり、あくまで封建制的軍役体制の論理がまかり通っていた
3.    海外知識の摂取 ⇒ アヘン戦争の詳細が伝搬するにつれ、その衝撃が日本人の目を一挙に世界に拡大させる。世界地誌編纂の動きが高まり、蘭学界の中核的存在箕作阮甫の娘婿・箕作省吾によって実現、併せて世界の歴史への目も開かれていく
4.    『海外新話』と『海外新話拾遺』 ⇒ アヘン戦争のリアルな実態を知らせるが、著者は人心惑乱で捕縛・追放
5.    吉田松陰の海外認識 ⇒ 『海外新話』を熟読した松陰は、ペリー来航の現場をも見ており、日本側警備が露骨にアメリカの軽蔑の対象になったことも知悉
6.    松浦武四郎の海外認識 ⇒ 蝦夷探検家として高名だが、松陰以上にアヘン戦争後の海外情報の国内流布の実態を伝えている

第7章        漂流民のもたらした世界知識
1.    漂流民情報の意味 ⇒ 同じ海外情報でも漂流民からもたらされた情報は、直接日本人が見聞きしたものとしてよりリアルに世間に広まった
2.    漂流民音吉とその仲間たち ⇒ 日本人漂流民(音吉、庄蔵)が英国会社の通訳として日本に帰還
3.    ジョン万次郎 ⇒ 1851年ジョン万次郎が10年間アメリカで捕鯨作業員として仕事をした後帰国。その口書きや談話筆記が海外の最新情報として日本人の骨肉となっていく
4.    天寿丸13名の漂流民 ⇒ 1849年遭難した紀州船の乗組員13名も米露船に救助され3年後に相次いで帰還、彼等のもたらした海外情報が広く伝わる
5.    栄力丸17名の漂流民 ⇒ 1850年摂州船喪遭難したところを米国船に救助、対日交渉の通訳等に起用
6.    漂流民の評判と活躍 ⇒ 帰還したものは外国に内通するものとして捉えられたが、一部は士官として召し抱えられ、対外交渉に当たったりした
7.    世界知識入手と漂流記 ⇒ 帰還者はそれぞれに漂流記を表している
8.    漂流民から話を聴くこと ⇒ 漂流記の出発点はあくまで「語りの場」であり、知識吸収の場として重視される

II部 幕末史の過程
第8章        米露英艦隊の来航と日本の開国
1.    ペリー艦隊の来航 ⇒ 米墨戦争の海戦で勇名を馳せたペリー特使は時間をかけて政府訓令を実現しようとし、1853.6.と翌54.2.2回に分けて江戸湾に侵入
2.    日米和親条約の締結 ⇒ 下田と箱館の即時開港と最恵国約款、18か月後の米国領事の駐箚を約束
3.    ロシア遣日使節の来航と日露和親条約 ⇒ 米国の遣日使節派遣に遅れること1か月半、ロシアはプチャーチン海将が長崎に入港、開港を迫るが、クリミア戦争開戦直前、日本でも東海大地震で混乱(ロシア旗艦も沈没)の中、55.2.和親条約締結。千島はウルップとエトロフの間を国境とし、カラフトは両国の雑居地とした
4.    日英和親条約の締結 ⇒ イギリスは太平天国の乱への対応で手一杯だったが、54.3.クリミア戦争で対露宣戦布告した英仏両国の艦隊が、ロシア艦船捕捉のため長崎に入港、クリミア戦争での日本の中立と、日本の諸港への入港許可を求め、54.8.アメリカを踏襲した和親条約を締結
5.    クリミア戦争と日本 ⇒ クリミア戦争でカムチャッカを放棄したロシアは、サハリン全島とアムール河南の清国領の自国編入が国家的課題となる。旗艦が沈没したロシア使節団帰国のために日本で洋式帆船を建造したことが、日本にとっては技術修得の絶好の機会となる

第9章        ペリー来航はどう受けとめられたか――風説留世界の成立
1.    風説留世界とは何か ⇒ 欧米資本による世界単一化の動きに対し、非キリスト教世界や伝統的諸国家の対応は千差万別。日本の場合の特徴的なことは、来航情報が瞬時に全国に伝播し、人々がそれを記録し、江戸の事態を憂慮をもって凝視するという社会が出現していたこと。風説の流布は被支配階級にとっては犯罪行為だったが、民衆の情報を求める動きは止めようもなく、政治に対する批判的主体に成長していった
「風説留(ふうせつどめ)」 ⇒ 情報を提供するとともに、政治への批判も収められた民間で流布された冊子
2.    幕府が風説流布を嫌う理由 ⇒ 幕府による封建政治の2大原則は、「由らしむべし、知らしむべからず」と「其の位に在らざれば其の政(まつりごと)を謀らず」で、人民の権力依存性と表裏一体をなす
3.    経済発展と情報網の展開 ⇒ 年貢米を換金する全国市場のシステムを通じて、あらゆる情報が全国に伝播
4.    経済的情報網の形成と文化の広がり ⇒ 漢学・儒学の社会への浸透は私塾を通じてもたらされ、その余業として漢詩集が作成され、出版され全国に広まるのも経済的情報網の確立があったから
5.    ペリー来航と風説留の成立 ⇒ 全国的な文化の展開が、日本という国土や日本人という意識を、被支配階級全体に作り出していった

第10章    幕府の安政改革
1.    ペリー来航と攘夷主義 ⇒ 攘夷思想は、国家権力が外圧に対し主体的に対応不可能に陥った時、国家と社会の解体と崩壊の危機意識から必然的に発生するもので、世界の情勢に無知蒙昧だから形成されたものではない。ペリー来航時にはまだ攘夷主義という思想は日本人にはなかった(外国船打払令の廃止によっても明らか)
2.    ペリー来航への事態認識 ⇒ 公儀の威信凋落を憂慮する一方で、公卿からは非難の言葉があり、幕府の失態を批判する政治的雰囲気も公然とでてきた
3.    老中首座阿部正弘の決意 ⇒ この段階では、幕府が体制改革の必要性を認識し、歴史の前進方向に向け自ら改革を主導し得たので攘夷主義には至らず。老中首座が責任を取って辞職を申し出るが将軍は受理せず
4.    安政改革の構造 ⇒ ペリー来航に際しての防備体制充実の指示が全く用をなさなかったところから、幕府は全国の大名に動員をかける。篤姫入台も島津家を含む全大名依拠の先駆的出来事。旗本中唯一蘭学を修めた勝海舟ら、真の能力あるものが登用される。蝦夷地を収公し諸藩に対し同地への進出を強く奨励。幕府陸海軍の創設。西洋医学の修得等
5.    西洋科学技術導入のインフラストラクチュアづくり ⇒ 幕府による蘭学振興への転換、英語修得のための辞書・文法書の編纂が進む

第11章    吉田松陰の歴史的位置
1.    吉田松陰の軌跡とその思想 ⇒ 佐久間象山に学び象山からも最も愛された松陰は、サムライ階級からの主権国家形成の課題を訴え、松下村塾の門弟たちに共有される
初の海外渡航が許可される66年に先立つこと12年、54年に下田から米艦で密航しようとして挫折・投獄されるも、在所蟄居で済んだのは幕府閣老にも松陰の志をよしとするものがいたからであろう ⇒ 萩に戻り、兵学教授が許され、松下村塾が全盛期を迎える。59年安政の大獄の連座嫌疑で斬首
松陰の唱えた変革思想こそ、サムライ階級が幕藩体制国家のイデオロギー的制約を打破して、主権国家を形成する主体に転換する上での核心となった
2.    「講孟箚記(さつき)」の論理とエートス ⇒ 松陰の思想とは、サムライ階級の論理の根底にあった儒学=朱子学の本来の学問的スローガンである「士大夫は当(まさ)に天下を以って己が任とすべし」を出発点に、「修己治人」を不可分離に結合し、自らを独立した政治主体であると宣言。そのためには自己の厳しい倫理規範の確立を前提とし「誠(=天の道)意・正心」こそ重要と説く。治を行う者は君であり、道を体得した臣が明主を補佐して政治を行うのが正しいやり方
主体が働きかけるべき客体の捉え方は、幕府は軍事指揮官として大名を統率、その元でサムライも全国を単一単位として指揮官に仕える。政治指導者にとっての重要課題は、民心を如何につかみ取るかに全てがかかる。強大な外圧に抗し得る主権国家形成には、全国の人心の結合がなければ不可能とのリアルな認識は、やがてサムライ階級が国家を下から支え維持し強固にさせる日本民族形成のイニシアティブをとらなければならないという主張に発展していく

第12章    蝦夷地問題と松浦武四郎
1.    ペリー来航までの軌跡 ⇒ 蝦夷地問題の中心にいた松浦武四郎は津の農で庄屋の4男。全国を放浪した挙句蝦夷に関心をもち、対外危機感を出版する
2.    ペリー来航と松浦武四郎 ⇒ ペリーとプチャーチンはほぼ同時に来航、幕府が蝦夷地に最も通暁した人物として武四郎に目をつけ、幕府接収後の蝦夷地探索・管理のため幕府御雇いとなる
3.    「輿地家(よちか)」松浦武四郎 ⇒ 安政の圧政から逃れて幕府から去り、薩摩の蝦夷地開発の先兵として雇われ、維新後は函館府のNo.2に任命される

第13章    ハリスの下田来航と日米修好通商条約交渉
1.    日米約定 ⇒ 56年ハリス初代駐日総領事着任。翌57年日米約定で、最恵国待遇、長崎の開港、3港での交易等を承認
2.    第二次アヘン戦争の開始と日本への影響 ⇒ 56年広州にてアロー号事件勃発、広州陥落後の英米仏露の対清強硬要求のほうが、オランダ領事によって幕府にもたらされ、英国の対極東本格再進出に備え緩優交易への転換を説得される
3.    幕府の対応 ⇒ 老中・阿部正弘は守旧派老中を排し、佐倉藩主堀田正睦を老中として列強の交易要求に対処させる。オランダ領事の進言を踏まえ、長崎と箱館の開港、役人立ち合いでの会所交易に限って認めるとの方針を立てる
4.    ハリスの出府と日米修好通商条約案交渉 ⇒ 57年ハリスとの交渉開始、アメリカの要求を全面的に入れた条約が58年に締結され、開港は6港に拡大、江戸・大坂での市開催、自由貿易、治外法権、協定関税等が決められた
5.    国内合意形成問題 ⇒ 条約交渉妥結に当たり、幕府は全大名に意見書の提出を求める。意見は3グループにまとめられる。①徳川斉昭に代表される強硬論(将軍制度の維持)、②松平慶永・島津斉彬に代表される幕政改革を前提として新条約への勅許を取る、③譜代大名に代表される現体制維持を前提とした条約受入れ
6.    条約勅許奏請方策の採用 ⇒ 幕府は朝廷との結びつきの強化で乗り切ろうと勅許を奏請、幕政改革も具体的な対外防御策も何も言及せず
7.    朝廷の対応 ⇒ 対外的な大譲歩に対し、朝廷では幕府への職責懈怠への非難が大勢を占め、そのうえ全国各藩からの働き掛けでは幕府存続の枠組みを取り払った国家構想を唱えるものもあり、「関東」(朝廷での幕府の呼称)1枚岩でないことが露呈。「条約勅許せず」との勅諚が発せられる
8.    勅諚以降の動き ⇒ 幕府内は二分化。斉昭の息子一橋慶喜を擁立し幕政改革を断行して勅許を再奏しようとする派と、将軍を中心の守旧派とに分かれ、将軍・家定は譜代筆頭の彦根藩主・井伊直弼を大老に据え水戸一派他の反対派を弾圧する一方、無勅許の条約調印へと追い込まれる

第14章    安政五カ国条約と安政大獄の開始
1.    ハリスとの条約交渉を国内ではどう受けとめたか ⇒ 公家は交易開始によって国内体制が激変させられることに反対し、勅命による幕政改革の方策を示唆、在京の志士は公武合体体制を示唆、サムライ階級は外国人に対する敵対行動の防止のため列藩の武備充実を可能にする幕政改革を求め、一般知識人階級(豪農商)は流布された風説を通じかなり正確に状況を把握していた
2.    第二次アヘン戦争と安政五カ国条約 ⇒ 58年欧米列強が個別に締結した天津条約により、公使の駐箚、開港場の追加、最恵国待遇、キリスト教布教の自由等を獲得。そのニュースを聞いた下田駐在のハリスは、自らの交渉してきた条件での条約締結を急ぎ、他国も日米条約と同様の内容で逐次締結されることとなった(安政五か国条約体制)
3.    無勅許開港断行がひきおこしたもの――朝幕関係の分裂 ⇒ 無勅許のままの条約調印は、軍事的屈服という幕府の実力が暴露されると同時に、国家意思形成のあり方自体が問題の核心に据えられることとなる。天皇は即座に幕府に説明を求めるが即刻上洛しない将軍に対し、水戸藩に幕府以外の諸大名に天皇の意思を伝えるよう勅諚を出すという異常事態に発展。幕府と大名の間の溝も一気に拡大し、正面突破を図った幕府の強硬策は安政の大獄という恐怖政治が始動

第15章    安政大獄の展開と桜田門外の変
1.    朝廷への圧力 ⇒ 幕府は、孝明天皇の下へ老中を派遣して状況を説明するとともに、天皇を補佐して水戸勅諚を扇動した公家・皇族を一掃、天皇も妥協して家茂の将軍宣下式が挙行されるが、幕府に対しては鎖国の旧制に戻す勅旨を出す
2.    安政大獄の展開 ⇒ 幕府は水戸勅諚に関連する一連の反幕陰謀の動きを評定所に於いて裁くこととし、松陰、西郷を初め公儀に背くものすべてを断罪しようとした
3.    桜田門外の変 ⇒ 斉昭に国許永蟄居処分が下され、水戸勅諚の返納を巡り藩内が二分した水戸藩の過激派が60.3.桜田門外で井伊大老を暗殺。事件を機に幕政批判が一気に爆発し、幕末政治過程の一大画期となる

第16章    開港と露艦対馬占拠事件
1.    開港と世界市場への編入開始 ⇒ 59年の神奈川、長崎、箱館開港により世界市場に編入され大量の金が流出、国内物価が高騰し、国内の政治不安と内戦を加速させたため、幕府はその他の港の開港を延期させるべく5か国に使節を派遣。使節団随員には福澤のほか、寺島宗則(後の外務卿)、箕作秋坪(洋学者)、福地源一郎などが揃っていた
2.    第二次アヘン戦争の結末 ⇒ 天津条約の批准を巡って英仏と清の間で59年再度砲撃が交わされ、翌年敗れた清がロシアの仲介で英仏との間に北京条約締結、さらなる譲歩を要求される。ロシアもアムール河以北の広大な地域を自国領に編入
3.    露艦対馬占拠事件 ⇒ 61年ロシアが対馬の軍港化を目論み上陸、またしても幕府が政治的軍事的に有効な主導的行動をとりえないことが明るみに出る。イギリスが間に入ってロシアを退散させて決着

第17章    和宮降嫁と長州藩尊攘派の形成
1.    和宮降嫁 ⇒ 国家権威を再生させる必死の試みが公武合体で、それを天下に誇示する手段として孝明天皇の異母妹を将軍家茂の正室とする。有栖川熾仁親王と婚約中だった和宮はいったん拒否、天皇は岩倉の入れ知恵で対外条約破棄を条件として提示、幕府も向こう10年の内には実行すると約束したため、60年降嫁が決定
2.    文久元年(61)の国内政治の構造 ⇒ 幕府による正面突破作戦により幕臣有志集団が一掃された結果、幕臣がイニシアティブを握れる条件は消え去り、新たな動きとして幕府内尊攘派が形成(山岡鉄太郎)され、若干ではあるが幕府内改革の動きも出てくる
3.    長州尊攘派の形成 ⇒ 幕府追随性の強い藩当局と松陰グループが政治的に対決。63年の松陰の名誉回復後、松陰派は水戸藩とも連携、露艦対馬占拠事件を機に攘夷論が台頭、一方藩当局は幕府の依頼により公武周旋活動に当たり、松陰派と激しく対立。久坂玄瑞いる松陰派は、坂本龍馬始め各地からくる尊攘派の誘いに乗って、天皇親政の下に列強に屈しない新たな国家作りを目指して脱藩血盟書を作る

第18章    薩摩藩尊攘派の形成
1.    藩主島津斉彬と西郷隆盛 ⇒ 嫡子斉彬と庶子久光との間の継嗣を巡るお家騒動後、斉彬主導の近代化政策に沿って藩政改革が進んだが、58年に斉彬が急逝すると、久光の子忠義が藩主となって保守反動政治を敷いたため、斉彬に従って諸藩の同志との交流を深めていた西郷らは失望して自殺まで図る
2.    薩摩藩尊攘派の動向 ⇒ 西郷が配流され忠義の政策で尊攘派には藩庁への不信感と敵意が増大、脱藩志向グループが拡大。薩摩藩過激派による61年の駐日米国公使館通訳のヒュースケン暗殺事件で外圧が高まる中、薩摩藩内でも大久保等を中心とした尊攘派の動きを押さえられなくなってきた
3.    島津久光の率兵上京 ⇒ 久光は幕府の統率力弱体化を目の当たりにして、自ら国事周旋に乗り出す決意を固め、長州の公武合体策とは全く独自に、朝廷の権威をもって幕府に臨み完全に外から強制的に幕府改革を実現させるべく、藩内尊攘派を引き上げる。62年自ら兵を率いて上坂、幕政改革を直接朝廷に建言。久光が自ら藩内過激派を粛清した寺田屋事件で明白になったのは、全国レベルで国事運動を展開しようとする際のサムライの忠義対象と封建的主従関係の矛盾であり、その後数十年以上も続くシコリとなって沈殿

第19章    土佐・肥前両藩での尊攘派の形成
1.    土佐勤王党の形成 ⇒ 土佐は、長州や薩摩のような外様とは異なり、譜代藩的性向(秀吉に取り立てられたが、関ヶ原では家康側に立って軍功を上げ土佐を与えられた)を有していたが、元々長曾我部氏の下にいた土着の下士階級との間には近世初頭以来根強い対立があり、藩主が有志大名として江戸で活動しながら、藩士層の関与は微弱。下級藩士の武市半平太によって土佐勤皇党が組織され、挙藩勤王を実現しようと藩当局を説得にかかるが、吉田東洋から一蹴され、藩とは別個に動かざるを得なくなる
2.    肥前藩尊攘派の形成 ⇒ 外様にあって開明的藩主と藩上層部主導で事態に対応しようとした。1808年イギリス艦船フェートン号の長崎侵入事件で防備責任者だった肥前藩が幕府からその不備を叱責されたのを機に、全国に先駆けて大砲鋳造をするなど独自で軍事近代化、藩力の増強に努める。尊王思想も強く、副島種臣等を中心に対外的活動も行っていたが、藩内改革は行われないまま戊辰戦争を迎える

第20章    勅使江戸下向と幕府の奉勅攘夷
1.    勅使大原重徳の江戸下向 ⇒ 久光の率兵上坂を機に、朝廷は大名の力をもって自己の考えを貫こうとし始め、先ずは62年国家としてあるべき姿を回復する主体として幕府以外にないとの孝明天皇の意思を伝え、一橋慶喜の後見職、松平春嶽の大老職就任を、島津の軍事力を背景に幕府に迫る。帰路久光は生麦事件を起こす
2.    長州藩世子毛利定広の国事周旋 ⇒ 長州は幕府の意を体して開国を建言、朝廷から一蹴され、松陰派主導の尊皇攘夷に転換するも、あくまで幕府を中心とした統一を期すものであり薩長間の感情的反目は激化
3.    文久幕政改革 ⇒ 62年に実行された無勅許の条約調印と安政の大獄の責任者の処分、大獄での処刑者への恩赦・名誉回復、京都守護職新設(松平容保)、軍制改革(旗本からの徴兵)、大名統制の改編(参勤交代の緩和を通じ自国警備の強化を企図)、将軍上洛
4.    別勅使三条実美の江戸下向 ⇒ 天皇は、土佐松平家と親戚の三条実美を通じ、土佐にも薩長と共に国事周旋を下命。実美が正使となって天皇の攘夷体制の充実を指示を幕府に伝える。この時初めて勅旨が上段に坐す。家茂は攘夷を誓約するとともに上洛のために出立

第21章    浪士組・新選組・新徴組
1.    清河八郎と尊攘運動 ⇒ 出羽出身の清河は、全国を回って尊攘派の同志を糾合して動き回る
2.    文久二年の激変を人々はどううけとめたか ⇒ 久光が率兵上京した政局の激変を、一般大衆は驚きをもって見つつ歓迎していた様子が窺える
3.    浪士組取立てへの幕閣の試み ⇒ 家茂が攘夷を誓約した時から、幕府としては将軍上洛時に、京に結集する浪士勢力に対抗しうる力量を持つ必要に迫られ、浪士組の取り立てが始まる
4.    徴募者の「尽忠報国」イメージ ⇒ 公武合体し本来あるべき姿に復帰した幕府を草莽(そうもう)の義民が輔翼する形式
5.    浪士組への応募諸集団 ⇒ 清河や山岡鉄舟、平野國臣等の志士を通じて呼びかけ集められ、同郷者を中心に8つのグループに分けられ京へ向かう。6番目の組にいた近藤以下のメンバーが、水戸の芹沢鴨グループと共に京に残留し、新選組となる
6.    浪士組のうち帰府組の動向 ⇒ 生麦事件への巨額賠償を求めて江戸湾に侵入した英国艦隊に対し攘夷実行の期日決定が迫られ、浪士組の一部が江戸に戻されるが、浪士組が独自に武力を行使し始め混乱を加速。清河も幕閣の指示で暗殺
7.    京都残留組から新選組の成立へ ⇒ 朝廷直結を狙う浪士集団に対し、朝幕結合路線に従う組織が必要だった京都守護職がバックとなって63年に新選組が創設される

第22章    八・一八クーデタと一会桑グループの成立
1.    奉勅攘夷期の政局 ⇒ 幕府の対外屈従では日本が国家として存在し得なくなるとして、攘夷主義や対外強硬主義を掲げる人々が国民各層に急増
63年将軍上洛、攘夷誓約の実行を迫られ510日を決行日とし、慶喜を責任者として江戸に戻す ⇒ 英国に対し賠償金を払った上で諸港の閉鎖を通告し、諸外国の猛反発に遭う。慶喜も幕閣を纏められなかったとして辞職を申し出たが、朝廷との結合こそが幕府の命綱であることを正しく認識
幕閣内にも、山岡や勝のように、尊皇攘夷や朝幕結合の強化を唱える者もいた
2.    八・一八クーデタ(文久の政変) ⇒ 孝明天皇の堅い攘夷の意思を大義名分に尊王攘夷運動が高揚する中、藩内の君臣・主従の義という封建的秩序と、外圧に対抗するべく朝廷を頂点に一本化しようとする動きとの間の矛盾が表面化、長州藩を中心とする過激派が天皇の意思を無視して天皇による攘夷親征のための大和行幸を画策したのに対し、薩摩と会津の公武合体派が京都守護職の容保を中心に御所を封鎖して過激派を追い出した事件
3.    天誅組と生野の蜂起 ⇒ 上記クーデタ以外にも尊攘過激派による騒乱が頻発。誓約実行に動かない幕府を倒そうとしたのが天誅組で首謀者は中山忠能の7男忠光と土佐勤王党の郷士吉村寅太郎だが八・一八クーデタで挫折。一方、政治不安に対処するため農兵の組織化が全国で活発化、但州で組織された農兵を纏め、天誅組に呼応して幕藩権力に立ち向かったのが筑前藩士・平野國臣等による生野の乱
4.    将軍再上洛と横浜鎖港 ⇒ 八・一八クーデタにより国内の政治情勢が一変、藩主層が主導して時局に対応しようと、慶喜以下6大名が「朝政参予」として朝議に参画。改めて天皇の攘夷主義を確認して横浜鎖港を奉答するが、内部での統一を欠くとともに薩摩の台頭を警戒する慶喜が有志大名の動きを封殺、朝廷から禁裏御守衛総督に任じられるとともに譜代の会津・桑名(松平定敬:容保の実弟)とともに京都での最高の軍事指揮権を掌握

第23章    薩英戦争
1.    生麦事件 ⇒ 62年発生した薩英戦争の発端となる事件。イギリスにも自らの非を認め戦争に反対する議論もあったものの強硬策に出、薩摩も幕府の下手人差出の要求に対し大名行列の作法を主張して拒絶。間に入った幕府はやむなく老中の判断で賠償金を支払い謝罪状を提出
2.    薩英戦争 ⇒ 63.8.12.(和暦6.28.)横浜から英艦7艘が鹿児島湾内に投錨。15日開戦。戦闘1日で燃料・弾薬が尽きて英艦は横浜へ引き上げる。英国側では日本が中国とは違うこと、陸上部隊なしには日本での戦争に効果がないことを知る
3.    薩英戦争のその後 ⇒ 軍事の全面的洋式化と軍事体制の近代化が至上命令になるとともに、久光としても戦争で最も活躍した攘夷過激派の発言権を認めざるを得なくなる。国立歌劇場はにとて戦争が明らかにした最大の事は、欧米列強の軍事的重圧に対抗するためには薩摩一国の力ではなく日本全体の国力を総結集しなければならないことであり、因循姑息な幕府の権力回復だけに力を貸す薩摩の政治路線を大きく切り替え、薩摩がイニシアチブをとってこの課題を果たさなければならないということであり、そのための指導者として西郷が待望された

第24章    下関戦争と禁門の変
1.    攘夷決行と下関での外国艦船砲撃 ⇒ 5.10.の攘夷実行に呼応した唯一の藩が長州。外国の報復に対し、下関防衛を命じられた高杉晋作は奇兵隊(藩兵による正規軍「正兵」に対し藩内身分を問わない有志集団を「奇兵」と呼んだ)を組織
2.    長州藩に対する朝幕の対応 ⇒ 攘夷実行を朝廷に報告したところ、朝廷からは天皇が嘉納したと告げるとともに列藩に対し、報復攻撃に備えた皇国一体の決選体制作りの指示したが、幕府は条約破棄交渉中の勝手な行為を非難
3.    八・一八クーデタ後の長州藩 ⇒ 有志者と一般領民に依拠し輿論を喚起する方向で藩の安定を図ろうとし、朝廷にも雪冤運動をするが受け入れられず
4.    軍事行動への傾斜 ⇒ 長州の巻き返しも天皇の全幅の信頼を得た慶喜に阻まれ、新選組によって在京志士が襲撃された池田屋事件を契機に一気に軍事行動へと発展、禁門の変を起こしたため、天皇の逆鱗に触れ慶喜に長州討伐令が下る
5.    四国艦隊下関砲撃事件 ⇒ 幕府の対外強硬論を転換させるために、対外強硬論の主導者だった長州を叩くべく四国艦隊が出動(64.8.)

第25章    第一次征長とその波紋
1.    禁門の変直後の国内諸勢力 ⇒ 朝廷は朝敵長州追討が第1、攘夷第2であり、幕府は長州朝敵化を威信回復と錯覚し譜代勢力の復活を画策、一会桑は幕府の復古の動きに口実を与えないよう腐心、薩摩は西郷が中心となって朝命遵奉を基準とすることで藩内統一、長州では藩立て直しに藩内闘争激化
2.    サムライ階級以外の人々の意識と認識 ⇒ 対幕関係を優先させる天皇と朝廷の権威と声望が失墜、長州支持の輿論が高まる。サムライ階級以外の人々には『夜明け前』がよい参考になる・国家解体の深刻な恐怖感が残る
3.    第一次征長の役 ⇒ 64.11.朝命をもとに幕府が征長軍を派遣したが、長州が責任者を処分して恭順の意を表したため、長州派の5卿処分を条件に撤兵を決断
4.    総督府参謀西郷隆盛の活躍 ⇒ 西郷が朝命遵奉のための国力統一の見地から幕府軍と長州の間に介入、5卿を大宰府に移送することで戦争回避を実現
5.    長州藩守旧派の台頭と藩内支配 ⇒ 守旧派が台頭して責任者の処分が行われた
6.    高杉晋作と諸隊の反乱 ⇒ 過激派は高杉を中心に反発を強め、守旧派による弾圧を力で破る。農民・町人の支持を得た勢力にサムライが立ち向かうのが不可能なこと、封建的な権威ではなく公明正大な条理だけが合意を作るものだという認識がようやく真理として認められるようになってくる。長らく但馬に潜伏していた桂小五郎が長州に戻り、指導者として活躍することになる
7.    将軍進発に至る過程 ⇒ 長州の恭順を幕府の権威上昇と錯覚した幕閣は、改めて長州に追加処分をすべく長州追討の勅許を奏請
8.    第二次反動 ⇒ 横浜鎖港期には全国諸藩内に尊攘派が形成され反動政治が展開、開国派、過激派が処分された。水戸藩では大量処刑により水戸学の後継者がいなくなり平田国学がとって代わる

第26章    連合艦隊摂海進入と条約勅許
1.    連合艦隊摂海進入 ⇒ 長州を爆撃後、「条約不勅許」の撤回と兵庫開港を直接ミカドに迫ろうとして四国艦隊が摂海に侵入
2.    条約勅許 ⇒ 外圧に抗しかねて幕府内の意見が条約勅許に変わり、天皇も在京16藩の諸藩士を召集して意見を開陳させた結果、条約勅許已む無し、兵庫先期開港反対を決断し、四国艦隊に申し入れ
3.    条約勅許が意味したこと ⇒ 通説は、狭義の奉勅攘夷期を、無暴で非合理主義的な排外主義運動を見るが著者はそう見ていない。当時の日本の全階層が通底で感じた危機感とは、国家解体の危機感であり恐怖感。天皇は「勤王攘夷」の一会桑を信頼、慶喜自ら朝幕融合体制を確立すべく独占的媒介者の立場を制度化、自己の集権的国家体制の形成を狙い、天皇もその体制に取り込まれてしまった以上、欧米列強の軍事的圧力のもと、条約を勅許せざるを得なくなるのは必然
国内的には幕府権威の低落は、そのまま天皇の威信と朝廷権威の失墜を意味し、一蓮托生的衰退傾向を薩長両藩に依拠して大転換させようとする岩倉を謀主とする王政復古派公家の結集が始まる

III部 倒幕への途
第27章    薩長同盟の成立
1.    奉勅攘夷の時代の終焉 ⇒ 頼朝以来の天皇と将軍の堅い結合関係を基盤とする公儀の体制が崩壊
2.    同盟への途 ⇒ 条約勅許により、長州の立場も外圧に屈することのない日本を作り出すために新たな政策複合の追求に踏み出すことができるようになり、薩摩も外部を巻き込んだ強力な士族軍団を形成していまなければならない必要性を感じるようになる。一般民衆は、一連の外圧への屈従の中で、朝廷と幕府への不信感を募らせ、国内の一致団結、内戦回避を求める声が高まり、あらゆる面で幕府・朝廷・諸藩の行動を掣肘し、制約し、阻止するものとなる
3.    薩長同盟の成立 ⇒ 一会桑を媒介とした朝幕融合体制が進む中で、朝政への関与と介入の余地が皆無となった諸藩は新たな方策を模索。西郷は、中岡慎太郎や龍馬の介入もあって長州に接近、66.1.桂と西郷・小松の間で口頭による薩長同盟成る

第28章    長州戦争・打毀し・世直し一揆
1.    長州戦争 ⇒ 幕府の処分に対し長州が折れず、66.6.2次長州戦争が勃発。軍備を近代化した長州が征長軍を圧倒、幕府は家茂の急逝を口実に停戦に持ち込む
2.    打毀しと世直し一揆 ⇒ 戦争と民衆蜂起は表裏一体で、開港以降の物価騰貴という経済的要因が基底に存在し、凶年に当たって未曽有の都市打毀しと世直し一揆が頻発。民衆の不満の爆発を抑えるため、地域の豪農商層と中農層が協力し合って必死の努力が続けられたが、権力には全く依拠できず、幕府権力は豪農商層から最終的に見限られた。慶應飢饉で餓死者が出なかったことは、世界市場に編入されたこの段階で「天竺米」と称された安価な外米が輸入されたためだった

第29章    慶応三年時の対立する政治路線
1.    最後の将軍徳川慶喜 ⇒ 長州征伐の失敗で、諸大名の介入を排除した朝幕融合政権の継続が困難となり、諸侯会同、公論に基づき国家政策を決定するという要素を容れなくては幕政自体が機能しないことが明白となる。一方朝廷からは、慶喜相続に際し弊制改革を相続の条件とされる。諸大名の意向を踏まえての将軍決定という建前を取りながらも、天皇の慶喜に対する信頼は厚く諸大名の支援もあって将軍となる。軍の近代化を中心に幕府体制の改革を断行。66.12.孝明天皇崩御、睦仁践祚。外祖父が薩長派の中山忠能で禁門の変後に出仕を禁じられていたこともあり、また恩赦もあって、遠ざけられていた公家が多数復権
2.    倒幕への動きと大政奉還 ⇒ 藩主に頼っていては国内新体制樹立は望めないと見極めをつけた西郷・大久保等は武力をもって幕府を排除するしか朝廷を根軸とする国家を創り出すことはできないとし、倒幕路線の具体化に踏み込む。一方土佐藩を中心に大政奉還の動きが出て、諸藩重臣が賛同し慶喜も受け入れざるを得なくなる

第30章    幕臣勝海舟の幕末 ⇒ 個々人の歴史との関わり
1.    ペリー来航以前 ⇒ 勝海舟は、微禄旗本の養子となり蘭学を学び、佐久間象山に入門(勝の妹が象山の妻)。箱館の豪商・渋田利右衛門が読書好きで、自ら勉強する代わりに勝に目をつけパトロンとなる
2.    ペリー来航と海舟の出世 ⇒ ペリー来航に際し、外圧に抗し得る軍事体制形成の建言して注目され、長崎海軍伝習生の監督や、講武所砲術師範役に抜擢される
3.    奉勅攘夷と勝海舟 ⇒ 64年軍艦奉行に異例の昇進、幕府を中心とした国内一致・対外対峙の政治姿勢確立こそ幕府が政治的イニシアティブを掌握する大前提と主張、そのための海軍建設を進めるが、長州への融和的態度を疑われ長州征伐にも反対したため、神戸海軍操練所も過激派養成機関と見做され、軍艦奉行罷免。操練所も廃止

第31章    幕末の蘭学者――坪井信良を例として
1.    蘭医坪井信良の経歴 ⇒ 越中高岡在、緒方洪庵の塾に入門、越前藩医、春嶽に従いその政治顧問横井小楠とも面識、幕府奥医師(慶喜の侍医)、維新後静岡病院頭並に任用
2.    家の問題 ⇒ 家庭的には不幸の連続
3.    政治社会情報 ⇒ 幕臣でありながら、冷静に内外の激動を掴みとり、批判すべきは批判している

第32章    『夜明け前』の世界と竹村(松尾)多勢子
1.    『夜明け前』の世界とは何か ⇒ 幕末維新変革を人民の側から正確に捉えている。誠実な平田国学者だった実父をモデルとした日本人の歴史を描く
2.    『夜明け前』の歴史的世界 ⇒ 小説の描く地域はサムライ階級の圧力が僅少で、在地の庄屋や名主らが民衆を統御し、直面する諸課題を解決する力量を備えていた。ペリー来航を機に平田国学が全国に普及した際、馬籠にも広まる
3.    竹村多勢子の率先上京 ⇒ 政治の重心が江戸から京都に移りつつある状況にあって武家の専横から天皇中心の古への回帰と復古が起こりつつある予感をいち早く嗅ぎ取ったのが庄屋の妻・竹村多勢子で、京に上って全国の平田国学者と交流。その後国許に戻るや地域世界の重鎮として振る舞う
4.    筑波西上勢と『夜明け前』の世界 ⇒ 長州征討の不当性に抗議、慶喜に衷情を訴えようと京に上る水戸の武田耕雲斎ら筑波西上勢に同情
5.    『夜明け前』と島崎正樹 ⇒ 王政復古を喜び、御一新を時代の画期として抑え、間違った山林行政を旧慣に復古させよと藩庁に要求

第33章     幕末期の東国平田国学者
1.    宮和田又左衛門光胤という人物 ⇒ 下総相馬郡(現茨城県)の剣客で、浪士組結成の際活躍。水戸学伝播の道となった水戸街道に面する村
2.    名主で本陣当主が何故剣客となったのか ⇒ 46年の関東一円の大洪水の際、百姓救済のため領主にたてついたのが契機となって剣術に励む
3.    水戸学剣客が何故平田国学者になったのか ⇒ あくまで幕府存続を前提とした政治理論だったことに限界を感じて平田国学に入門
4.    息子を気遣っての西国の日々 ⇒ 息子の国事運動没入を支援
5.    又左衛門にとっての御一新 ⇒ 旧幕府軍の大阪城総退陣の際、旧領主ら主従が堺の又左衛門家に逃げ込んだときがまさに御一新となり、「心よき時節」の到来と喜ぶ
6.    養子宮和田進闘死のこと ⇒ 69年維新政権の軍事改革総責任者大村益次郎襲撃に参加し闘死

第34章     幕末期西国の豪農商――紀州を例として
1.    日高・有田両郡の世界 ⇒ 風説流布厳禁の時代にどうやって情報を入手したのかは不明だが、相当詳細に事実を認識した風説留を流している。その1例が紀州日高郡の在村医・羽山大学による『彗星夢雑誌』で、国内の事情のみならず英仏艦隊のカムチャッカ強襲やクリミア戦争にも言及
2.    奉勅攘夷の時代 ⇒ 条約勅許問題に始まった朝幕間の矛盾や桜田門外の変の位置付けについても、御公儀の絶対性が大きく揺らいだ事件として大筋では正しい総括を行っている
3.    長州征伐の時代 ⇒ 攘夷に期待をよせ、紀州藩公が国内での戦争は回避して対外一致協力が必要としたとの噂に喜ぶ
4.    王政復古後の時代 ⇒ 紀州藩内でも領内豪農商の要求を積極的に受け入れ、彼等を登用しながら藩政改革を断行せざるを得なくなる。明治初年の藩政改革が全国的レベルで屈指の大改革となったのも、その土台がしっかりと存在していたから

第35章     幕末期の農民世界――菅野八郎を例として
1.    菅野八郎という人物 ⇒ 世直し一揆(28章参照)1つで現福島県北部国見町での奥州信達(信夫・伊達両郡)一揆の首謀者であり、「世直し八郎大明神」として日本国中に喧伝された富農。一帯は養蚕・製糸地帯として栄えた。菅野家家訓には「孝」という観念が根本にあり。ペリー来航の際は、江戸に出て国防についての考えを直訴
2.    安政大獄と島流し ⇒ 義兄弟が金で水戸郷士の身分を買うが、安政の大獄で追われる身となり、応援の書状を出していた八郎も連座で捕縛され八丈島へ流罪となる
3.    信達大一揆と世直し大明神 ⇒ 文久2年の幕政改革で赦免して故郷に戻ると、飢饉と物価高騰、重税が重なって、66年に農民が立ち上がり、豪農や悪徳商人を襲う世直し一揆を指導
4.    一揆後の八郎 ⇒ 一揆の首謀者として投獄されるが、獄中で王政復古を迎え、68年新政府軍によって解放される

IV部 維新史の過程
第36章     戊辰戦争(1)――大政奉還・王政復古・鳥羽伏見戦争
1.    王政復古クーデタ ⇒ 67年土佐藩主山内容堂より将軍に大政奉還の建白書を出し、慶喜が諸侯に諮ったうえで決断、天皇が王政復古の勅語を下す。朝議に復帰した岩倉が中心となり、薩・土・芸・尾・福井の5藩が警護に就くが、慶喜は辞官納地を拒絶
2.    緊迫する情勢 ⇒ もはや大政を委任されていない一大大名勢力として如何に政治的に動くべきか見通していた幕臣の1人が勝で、多数派形成の論理の中で新事態に対処する以外手段がないと認識し、民心掌握という政治改革をしない限り政治的優位に立つことはできないと幕閣を批判するも、幕閣は勝の進言を聴く耳を持たず
3.    鳥羽伏見戦争 ⇒ 江戸での薩邸焼き討ちが大阪城に伝わり、薩摩討つべしとの意見が大勢を占め、新政権からは旧幕軍に対し撤兵を指示し、従わない場合は朝敵として対処するとの勅命が下ったものの、全軍が伏見に進出、薩長土3藩軍と交戦開始

第37章     戊辰戦争(2)――西国平定・年貢半減令・江戸開城・上野戦争
1.    西国平定 ⇒ 鳥羽伏見の4日間の戦闘で新政府軍は完勝、次の目標は背後を固めるための西国平定。ほとんど戦いもなく1か月以内で目処がつき、あとは藩主の交替や巨額の軍資金賦課が待ち受ける。西国の目処をつけた後江戸城総攻撃に向かい有栖川熾仁親王が東征大総督に任命され、薩長以下22の藩兵が付けられた
2.    年貢半減令と赤報隊 ⇒ 新政権は、敗北した場合には百姓の反封建エネルギーを自己の側に引きつけ爆発させるべく年貢半減令の実施すら考慮に入れる(西国平定の目処が立った段階で撤回)。百姓の決起を狙って半減令を勝手に出して偽官軍の汚名の下に処分されたのが赤報隊事件
3.    江戸無血開城 ⇒ 江戸帰着後の慶喜は、関東防衛のため箱根・碓井の防衛を命じるなど再起の構えも見せ、フランス公使からも支援の申し出を受けるが、お家存続のため絶対恭順に転換、上野寛永寺に退去。和宮の線から慶喜助命嘆願の動きが起こる。幕末期に慶喜から一貫して危険視され続けてきた勝が、事態を破局に陥らせないための人事として陸軍総裁に任命され、勝の指示を受けて山岡鉄舟が東上中の西郷に会い、江戸での勝・西郷による江戸城明け渡し条件交渉に持ち込み、無血開城がなる
4.    上野戦争 ⇒ 旧幕府軍内部の統制は全く取れておらず、旧幕強硬派グループは彰義隊を組織して抵抗するも平定され、徳川家(当主は田安家から入った家達)は駿府70万石に移封

第38章     戊辰戦争(3)――東北戦争・箱館戦争
1.    奥羽越列藩同盟の成立 ⇒ 王政復古クーデタ以降の新政府のやり方自体に疑念を抱き、鳥羽伏見の責任を取って会津に下された処分に対し会津に同情的な奥羽25藩が仙台・米沢藩主を中心に結集、更に越後の6藩が加盟して奥羽越列藩同盟が成立。同盟に正統性を附与したのは彰義隊にも担がれた輪王寺宮(寛永寺の門跡を継承、後の北白川宮能久)で、列藩重臣に令旨を下す。
2.    越後口の闘い ⇒ 東北戦争最大の激戦地。新潟が会津の兵站上の要所。長岡藩家老河合継之助が厳正中立を訴えるも聞き入れられず徹底抗戦するが落城。勤王主義者の豪農層が組織した早莽隊が新政府軍の側に立ち多大の働きをする。黒田清輝と山縣有朋が主導
3.    白河口の闘い ⇒ 会津が白河城を奪って立て籠もり抗戦。板垣退助が活躍
4.    平潟口の闘い ⇒ 常陸国最北端の平(たいら)城の攻防戦
5.    会津攻略戦
6.    秋田口の闘い ⇒ 秋田藩では幕末期から平田国学を奉ずる勢力が強く、全国的政治動向も克明に把握しており、列藩同盟派を抑えて奥羽鎮撫総督一行を受け入れ、同盟軍の攻撃を受けつつ、新政府軍の増援を待って撃退
半年以上に渡る東北戦争終結 ⇒ 会津は寒冷の斗南3万石に転封、列藩同盟を主導した仙台は1/2以上の34万石に対し米沢は1万石と極端な差、盛岡は最後に参戦したにもかかわらず白石13万石と大削封の転封処分に、一度も敗北せず最後に降伏した庄内藩は全く削封なし。政治能力の差が処分にも格差をもたらす
7.    箱館戦争 ⇒ 徳川家の静雄移封完了を待って幕府海軍を統括していた榎本武揚が降伏を潔しとしない老中他と共に幕艦6隻で箱館に入港、新政府任命の知事を追い出して五稜郭を占拠。蝦夷地全土を掌握するが、半年後には政府軍によって掃討。榎本らは助命を主張した黒田開拓使長官の下で働くことになる
8.    戦死傷者数 ⇒ 新政府軍は総勢115千のうち戦死者3550名、負傷者3845名。幕府軍の死者は会津が2557名と突出、うち女性が194

第39章     旧幕臣の静岡移住と静岡藩
1.    朝廷への帰順幕臣 ⇒ 幕末時点での御目見以上5972、御目見以下26千、計32千の運命を追う。旗本が朝臣になることが許可され、幕府鉄砲方で韮山の世襲代官だった旗本・江川家は新政府に帰順を誓願し「禁裏御代官」に任命された(韮山県知事)が極めて例外的。新政府の行政上の必要から、旧幕臣中1万石以上の家は大名と見做し朝臣化されたがその総数4929
2.    旧幕臣と静岡藩 ⇒ 70万石で養えるのは5千強、残りは無禄、帰農商するものは浪人を認めず農商身分とされた。秩禄制度のラディカルな平準化と役職手当を軸とした藩内官僚制の形成、サムライ身分のみならず百姓・町人も含んだ有能な人材の門閥によらない登用と藩内身分の流動化が各藩の藩政改革に共通して見られ、下からの近代化の1つの試みとして注目すべき動き
3.    転化の具体例 ⇒ 藩士の収入の変化を追ってみると、如何に俸金や扶持米の支給が不安定だったかがわかる

第40章     維新政府の成立と各藩の藩政改革
1.    維新政府の特質 ⇒ 68.1.英仏米蘭普伊6か国に対し王政復古と新政権成立を奉ずる国書手交し、開国和親の方針を布告。在日外国代表団は局外中立を声明。その他の外交交渉は内戦の終結を待ってスタート。大きな外交問題だった浦上キリシタンの扱いは、幕府の布教禁止政策を引き継ぎ、信者を投獄。天皇が公卿諸侯を率い天神地祇に誓う形で5か条のご誓文が示されるが、新政府としては諸藩に超越しかつ安定した国家体制の形式とその内実を諸藩合意の上で作ることが至上命題となり、先ずは版籍奉還を命じるとともに、中央統治機構として6省設置
2.    明治初年の藩政改革 ⇒ 共通するのは徹底した禄制改革、封建的軍役制度の解体と洋式軍制化、藩内人材登用と官僚制の形成

第41章     維新政権の矛盾と廃藩置県
1.    廃藩置県を検討する際の前提 ⇒ ①地方人事まで中央政府が掌握する仕組み完成、②安政5か国条約の期限が72.7.4.到来、③皇族・華族・士族・平民という新しい身分制度の創出
2.    維新政権の構成 ⇒ ①宮廷・公家グループ、②諸藩(薩長以外の諸藩も軍事力を蓄える)、③各地の草莽層の活性化・結集(在地豪農層や在村知識層)、④薩長土肥以外の諸藩出身者
3.    維新政権の構造的矛盾 ⇒ ①政府と諸藩の対立(不換紙幣の押しつけや軍費課税等)、②君徳培養問題(帝王学を国学とすることへの不満)、③帝都所在地問題(維新官僚にとしては旧来の伝統から解放されるためには東京遷都が必要、1年後の京都還幸を前提に東京に移る。皇位継承に必須の大嘗祭は京都でなければ設定不可能とまで言われたが還幸は中止に)
4.    維新政権の政策的矛盾 ⇒ 外交面では、①新政府が非力で外圧に妥協するしかなかった、②浦上キリシタン問題(神道国教化問題)、③日朝国交問題(朝鮮の国書(前章参照)不受理問題)、④カラフト問題(67年アラスカをアメリカに売却したロシアがカラフト進出を具体化)
高等教育問題では、各藩での主従制イデオロギーを養成するための漢学・朱子学、天皇を超越的支配主体と位置付けさせるための皇学教育、近代化のための洋学の関係をどうつけるか
最大の矛盾は軍隊編成で、親兵組織と藩兵、官僚制的軍隊の3者の調整が困難
5.    廃藩置県への政治過程 ⇒ 大村益次郎襲撃事件を契機に、薩長土の軍事力を結集しながら全権力を政府に集中し、その力で事態を打開している方向に転じ始める。廃藩置県の詔にも、万国対峙の実現に藩の存在が障碍となっているので藩を廃止し中央政府が万国対峙を実現するという目的が明示された

第42章     創世期国家の直面したもの(1)――国家の社会からの強行的離脱
1.    創成期国家とは何か ⇒ 廃藩置県即近代国家の出発、中央集権国家成立というわけではなく、西南の役までの間は、廃藩置県によって内包せざるを得なくなった諸矛盾が激突し、その中で歴史が前進した固有の特質を持った時期として捉えるべき
近代化の早い国々は長い時間をかけ、歴史的に無理をしない形で国家的まとまりと形作ってきており、中央集権的性格はむしろ好まれはしなかった。日本でも中世以来地方分権的性格が強く、廃藩置県の間でも藩政改革が進み、日本人のイメージは中央集権化された国家を前提としたものではなかった
2.    創成期国家と藩閥官僚制 ⇒ 新政府は出来てもそれを運営する官僚は、文官武官とも存在せず、養成機関すらなかったところから、必然的に維新を主導した藩閥に頼らざるを得ない。69年の太政官制機構の成立が過渡的ながら中央政府強化の現れであり、そこで大名・公家の華族制身分への転化と家禄設定、士族名称の付与、皇族制度の強化政策がとられる。近代的天皇制身分制度が最終的に確定するのは84年の華族令公布による
3.    近世的身分制度の解体 ⇒ 天皇を頂点とする身分制の形成と表裏一体のものとして、近世から明治初年までの重層的・地域分散的国家が自らを成立させるために不可欠としていた国家と社会を接合させる各種身分集団が法的に解体されていく。72年の戸籍制度施行による僧侶身分も含めた国民の一元管理を実現。
4.    廃藩前諸施策の切断 ⇒ 画一的中央集権化のため、各藩で実施されてきた改革も中止に
5.    廃藩コストの大幅切下げ ⇒ 旧藩が諸外国に負っていた債務(2,794,300)は政府が引き受けたが、それ以外のコストを極力削減。旧藩の債務のうち天保期(1843年まで)以前や個人名義は切り捨てたため多くの豪商が破産・没落。旧藩札の不当な低率交換レート適用は各地の大問題に発展

第43章     創世期国家の直面したもの(2)――条約改正交渉と国内体制創出
1.    条約改正と岩倉使節団 ⇒ 廃藩置県への反乱が起きないことを確認した政府は、万国対峙の実現を図るべく岩倉を総責任者として米欧に条約交渉のための中央政府総出の大使節を派遣するが、最恵国待遇条項すら理解できず相手にされなかった
2.    条約改正を可能にする文明開化政策の展開 ⇒ 国内体制の創出が急務と考えた政府は、まず法体制の整備に動く。司法の独立、学制改革、宗教政策を転換しキリスト教禁制の解除・神社の国家統制、文明開化強制政策(散髪・廃刀・風俗面の軽犯罪法・陽暦・徴兵制・鉄漿廃止等)
3.    国家のためのインフラストラクチュア造り ⇒ お雇い外国人の主導による国家としての殖産興業で、特に工部省に突出した228名を雇い国家のために情報・交通部門の近代化に注力
4.    華族・士族層の反発 ⇒ 廃藩置県の定着(旧藩維持の「藩県」から372県体制に再統合され、大蔵省の一元管理へ移行)にしたがい、華族・士族層の反発が高まり、不満を抑えるために天皇の行幸が行われたが、島津久光が代表する形で政府批判の建白
5.    農民の反発 ⇒ 最初に行動を起こしたのは新政府による欧化の押しつけを恐れた農民で、各地に一揆や打ち毀しが発生、新政反対一揆に発展。性急で過度の立法が混乱に拍車。サムライとの結びつきで激化

第44章     征韓論分裂と岩倉・大久保政権
1.    旧四藩連合政権の矛盾 ⇒ 欧米使節団は、不平等条約が国際的法秩序になっていることを痛感、条約改正実現には日本国家の国際的実力を強化する以外に途がないことを誓い、行動を具体化するが、廃藩後の具体策については旧4藩連合内でも合意はなく、特に国内大改革を巡って財源問題で激突(正院が全権を握ることで解決)。士族の不満の吸収が焦眉の急に
2.    国威回復のもう一つの道 ⇒ 条約改正交渉の失敗で、東アジア外交、ひいては国境確定による国家的能動性の顕在化が前面に。日朝間では新政権樹立通告の国書未受領、国家使節受け入れ拒否の問題があり、日清間では欧米列強の介入なしに締結されたという意味では画期的な修好条規が71年締結されたものの琉球王国の取り扱いを巡る問題が顕在化。71年台湾に漂着した琉球民が原住民に殺害された事件発生。72年琉球を内務省管轄の藩に編入。台湾征伐か朝鮮が先かの議論が起こる
3.    征韓論分裂 ⇒ 征韓の大義名分を明確にし人心を確認したうえで不平士族対策も絡めた西郷と、内治優先を唱える大久保等とが対立
4.    岩倉・大久保政権の課題 ⇒ 74年の江藤新平による佐賀の乱を、通信網と兵力大量輸送で平定した政府は、反対派を抑えるために台湾・朝鮮問題を前面に出す
5.    台湾出兵 ⇒ 英米の反対を押し切って出兵、士族の不満のはけ口となる。島津久光を臣トップの左大臣に任命

第45章     明治七~九年の外交,軍事問題と内政
1.    日清開戦の危機 ⇒ 台湾原住民との戦闘には勝利したが、清国からの強い抗議を受け、対清開戦に向け急速に軍事態勢を整えていく
2.    日清交渉の展開 ⇒ 交渉決裂を覚悟した直後、清国が日本軍の撤兵を条件に、日本の出兵を非難せず、殺害された者の遺族への慰謝料を含め50万両の賠償を支払うことを受け入れる
3.    日清交渉で日本がかちとったもの ⇒ 国家権威の獲得、士族層の反政府運動の口実剥奪、官僚制軍隊に自信、日朝国交樹立へ向けた好影響、極東におけるパワー・ポリティックスの構造と行動パターンを体験、領土主権の回復(横浜居留民保護を目的に駐屯していた英仏両国軍隊の撤兵)
4.    国内政治の軌道修正 ⇒ 権力の安定化が切迫した課題となる中、大久保の藩閥官僚性的コースと板垣の士族民権的急進コースが衝突する一方、言論弾圧が始まる
5.    日朝国交樹立交渉 ⇒ 鎖国排外主義の朝鮮王国が73年高宗の成人によって政策転換、翌年日朝交渉開始するも、日本は武力威嚇による優位を狙って江華島事件を引き起こす
6.    政府の分裂と再編成 ⇒ 欧米列強も66年以来朝鮮と軍事衝突を起こしながら解決できていない状況を打開しようと、武力を背景とした交渉に臨み、76年日朝修好条規を締結、釜山ほかの開港を含む不平等条約体制を朝鮮に押し付ける
7.    国境確定 ⇒ 琉清関係維持を堅持する琉球に対しては清国との関係断絶を厳命、清国は台湾に省を設置して国境維持策に進む、北方ではロシアとの間に千島樺太交換条約を締結(日本側の譲歩は江華島騒ぎで非難回避)、事実上の交易が放置されてきた小笠原諸島の領有を宣言し各国に通告(領民71名は77年全員日本に帰化)

第46章     地租改正・士族反乱・地租改正反対一揆
1.    地租改正 ⇒ 封建的負役からの解放、戸籍による国家の個別人心把握、領主の土地を解放し私有権者を確定、土地測量と個別田畑生産力の決定の後、73年地租改正条例布告。各地で地元と中央との間にやりとりが激化
2.    高姿勢に転ずる政府 ⇒ 清国、朝鮮との交渉で国威を発揚した政府は、次第に強硬策を断行、地租改正不服者には一方的に押し付けるとの布告を発布。不平不満に対しては厳しい法的措置を取る
3.    明治9年の士族反乱 ⇒ 76年神風連の乱(熊本)を初め、秋月(筑前)の乱、萩の乱、思案橋(会津の不満)事件と相次ぐ
4.    地租改正反対一揆 ⇒ 76年の納税から金納に変わるが、米価が下落、農民の怒りは全国共通となり一揆に発展。伊勢暴動はその最大のもの。政府は地租の引き下げと支出削減で対応

第47章     西南戦争と天皇制国家の原基的形成
1.    半独立の鹿児島県 ⇒ 政府は、地租改正事業にもお座なりな対処しかしなかった鹿児島から陸軍火薬庫と海軍造船所の引き揚げを画策、それに反発した私学校の生徒が西郷を担いで挙兵。薩摩は、藩財政が豊かであったこともあって元々突出してサムライが多く、維新後の藩政改革を通じ強力な士族軍団を形成していた
2.    西南戦争の経緯 ⇒ 全国に呼応して蜂起する動きが見られたが、未然の物も含め捕縛。政府の権力集中と高圧的政策に強く反発していた勝海舟も西郷に声援を送る
3.    天皇制国家の原基形態 ⇒ 排他的独占的軍事力掌握に至り、天皇を価値源泉とする中央集権国家が成立。日清戦争後に確立する天皇制国家の原型が形成されたといえる

V部 自由民権に向けて

第48章     福沢諭吉と幕末維新
1.    幕末期の福沢諭吉(18351901) ⇒ 中津藩の下積みの士族出身、ペリー来航と共に長崎や緒方洪庵塾で蘭学を、開港時には英語を学ぶ、60年渡米使節に随行、攘夷時代に幕吏として栄進、あくまで幕臣として幕府の統一権力を主張、66年『西洋事情』初編刊行ベストセラーに
2.    維新期の福沢諭吉 ⇒ 幕府崩壊で政治的に目覚め、身分を捨て洋学塾を発足させて自立に踏み切る。西洋に倣い有志者の結合として「社中」を作り洋学を習得した青年を日本社会の根底に供給する目的で慶應義塾を創設。洋学者に対する世間の猜疑心は強く、弾圧や暗殺の危険に晒されながら独自の道を貫く
3.    廃藩置県後の福沢諭吉 ⇒ 71年『学問のすすめ』を表し、「一身独立して一国独立す」というスローガンを教育の基本目的として定式化。自ら嫌悪した攘夷主義者たちによって、自分が予想だに出来なかった廃藩置県が断行されたことに驚きと疑念を抱く。同時に上からの改革に対し「国民不在」の警鐘を鳴らす(75年『文明論之概略』)、士族問題に対しては地方自治制を敷き地方自治行政への士族層の編入を提案(76年『分権論』)、西郷自刃に対しては「国家に屈しない抵抗の精神の持ち主」として追悼の辞を草し(77年『丁丑(ていちゅう)公論』)、国家以前に社会があり、社会のためにこそ国家があるとの思想がその後の自由民権運動の思想と行動に多大な影響を与えた

第49章     田中正造と幕末維新
1.    田中正造(18411913)の青年時代 ⇒ 福澤と同世代、下野の名主、信仰心が篤い(維新後はキリスト教を信仰)、浪士組組成や筑波挙兵等の動きを名主仲間と共に見守る
2.    田中正造と幕末期政治闘争 ⇒ 水戸学の失墜で平田国学に傾斜。江戸に出て入門している間に、地元では薩摩の扇動で反幕武装蜂起(出流山(いずるさん)蜂起)が決行され、多くの仲間が殺される。正造は領主相手に搾取の反対闘争に加わるが投獄
3.    維新後の田中正造 ⇒ 出獄後知人の紹介で江刺県に奉職するが、上官の殺害嫌疑で投獄。3年の獄中生活で、封建領主の暴虐性と残酷さに加え、太政官政府の骨格をなす弾圧的専制的姿勢に対し拭い去ることのできない不信と怒りが正造の体内に蓄積される。そこから導き出だした自らの政治原則は、反封建・反専制であり、法によって保障される私有権の擁護。その原則を堅持し貫徹していく中で、労働と生存権の思想にその後の戦いを移す



幕末維新変革史(上・下) 宮地正人著 転換期の諸相を多角的に叙述 
日本経済新聞朝刊20121111日付
フォームの始まり
フォームの終わり
 かつてある高名な歴史学者が、「通史を書くのは地獄だ」と語っていた。一次史料による実証を旨とする専門史学は、往々にして、史料批判による通念の打破や個別的単発的事象の緻密な考証に専心する傾向がある。かくして、歴史を長期的な視野で把握する「通史」は、良心的研究者からは敬遠される。だがそれは、歴史(history)の奥底にある「物語」(story)という原義を喪失させかねない。その時代の人や社会を包み込み突き動かす歴史の奔流を総体的につかみ取ろうとする営みは、学とは異質なの領分として、小説など文学の世界に委ねられる。
(岩波書店・各3200円 ※書籍の価格は税抜きで表記しています)
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(岩波書店・各3200円 書籍の価格は税抜きで表記しています)
 著者は厳密な実証的手法で著名な日本史家である。その仮借ない史料批判は、世間で流布する歴史像を時に厳しく指弾してきた。本書は、そのような学界の大御所である著者が満を持して送り出した物語的歴史学の大作であり、著者自身が強く意識している島崎藤村の『夜明け前』への学問的オマージュともいえる。本書を繙(ひもと)けば、幕末維新の歴史的転換期の諸相が国際関係、政局、思想、文化、社会運動、民衆意識といった網羅的な観点から、そして政治外交史や社会史さらにはグローバルヒストリーの手法も動員して多角的に叙述され、しかもいずれの論述も豊かな史料的裏付けをもって綴られていることに驚嘆させられる。読者は、あたかも有機的に織りなされた歴史の一大タペストリーを展覧したかのような読後感に浸れるだろう。
 一次史料がふんだんに引用された本書を読むことは、よほどの歴史好きでなければ難しいかもしれない。だが、国際環境の激変と資本主義の世界化という外圧のなかで、それに対抗し対応するかたちで民族観念が醸成され、下からの社会変革の運動となって湧きあがるも、やがては上からの国家の論理によって挫折を余儀なくされる辛酸の物語は、極めて今日的でもある。評者としては、やはりこの時期の時代精神を刻印する公議公論の理念が維新後の国家建設に化体していくという別個の物語にも関心があるが、それもこの雄編が与えてくれた歴史学への宿題といえるだろう。
(国際日本文化研究センター准教授 瀧井一博)


幕末維新変革史 宮地正人さん

[]石田祐樹  [掲載] 朝日新聞 20121118
宮地正人さん(68歳)=谷本結利撮影 拡大画像を見る
宮地正人さん(68歳)=谷本結利撮影
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個人と社会が結びついた時代
 非合理的な攘夷から合理的な開国へ、という伝統的な見方を批判し、新たな通史を描いた。
 「歴史は非合理では進みません。ペリー来航から西南戦争まではすべてつながっていて、全体としては合理性がある。幕末維新は、欧米列強による世界資本主義体制に激しく抵抗した日本が、主権国家をつくりあげた世界史的な大変革です」
 学生時代から、維新史の説明の仕方には疑問があった。大学院を経て1973年に就職した東京大学史料編纂所で、重要な史料と出会う。
 一つは、安政大獄期の大老・井伊直弼の文書。日本の公権力は、源頼朝以来ずっと、天皇と将軍が結びついた「公武合体」だったと気がついた。もう一つは、江戸の蘭方医・坪井信良が越中・高岡の兄にあてた書簡。ペリー来航などの情報を素早く集め、事態を注視していた。「これまで言われているような日本社会じゃないぞ」と思い、研究を続けた。
 その後、同所長や国立歴史民俗博物館長を務めた。読み込んできた記録や書簡、日記などの一次史料に基づいて書いたのが、この本だ。
 若き日の勝海舟の能力を見抜いたのは、渋田利右衛門という商人だった。自分は志はあっても書物を読めないが、「私の学問が出来るのも、あなたの学問の出来るのも同じ」と勝に書物を買い与え、見識ありと思う人々を紹介した。勝は彼らと付き合う中で全国的なまとまりを感じ、それを幕府とは別のものと考えるようになった、と宮地さんは見る。
 「そして吉田松陰のように、自分が死ぬことで社会が生きると思う人が出てくる。幕末維新は、個人の生き方と社会が結びついていた時代です」
    
 岩波書店・各3360円


【自著を語る】

『幕末維新変革史(上)(下)』 宮地正人さん(歴史学者、東大名誉教授)

2012109日 東京新聞

史料と格闘 覆した定説

 私は1965年度の卒論のテーマを明治維新とした。だが当時の維新史の説明の仕方は、なかなか理解困難だった。尊王攘夷派が攘夷の不可能さを知って開国派に転じたとされるが、不可能さを最初から認識していた幕府が何故崩壊したのか? 伝染病ではあるまいし、大規模集団として転向するなどありうるのか? 18583月、条約勅許を拒んだ孝明天皇と朝廷は、世界の大勢に暗い頑迷固陋の人々とされるが、わかっているのなら、何故天皇に勅許を求めるという無思慮の行為を敢えてしたのか?
 このような諸疑問の解決を大学院時代に放棄したのは、一に幕末維新期史料のあまりの尨大さに圧倒され、テーマを取り組む研究者の少ない日露戦争以降のものに変えたからである。
 1973年、東京大学史料編纂所に職を得、配置された部署が維新史料部だったため、7年前の疑問が再浮上し、史料と格闘するなかで、自分に納得出来る筋道を自分で見つけなければならなくなった。しかも与えられた編纂対象は、18589月、安政大獄開始期の大老井伊直弼文書だったのである。
 編纂の過程で、幕府は天皇が諸大名に勅書を下すのを禁じる法を有してはいないことに気づかされ、日本では公権力が源頼朝以来、公武合体の形でしか編成されてこなかった理由は何故かという問題にぶつかった。
 それ以降、興味深い史料群に出会うたびに実証論文を書いてきたが、ペリー来航から西南戦争まで総ての事件は内在的に連関しており、全体構造とその展開を筋道だてて叙述しない限り無意味と考え、通史として執筆を試みたのが本書である。
 結論を述べれば、幕末維新とは悔悟を通じての攘夷から開国の時代、非合理から合理の時代というよりは、なに一つマニュアルが無い侭(まま)歴史的に大きく前進し、1870年代には欧米列強の創出した世界資本主義体制の中に日本を主権国家として定置しえた大変革であり、そのエネルギーは民権運動に引き継がれたというものである。厳しい批判を期待している。
 (岩波書店・各三三六〇円)
 みやち・まさと 1944年福岡県生まれ。66年東京大学文学部国史学科卒。大学院、文学部助手を経て73年史料編纂所。95年同所長。200105年国立歴史民俗博物館館長。『幕末維新期の社会的政治史研究』ほか。




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