ワルシャワ蜂起 1944  ヤン・ミェチスワフ・チェハノフスキ  2013.1.10.


2013.1.10. ワルシャワ蜂起 1944
The Warsaw Rising of 1944                   1974

著者 ヤン・ミェチスワフ・チェハノフスキ Jan M. Ciechanowski 1930年ワルシャワ生まれ。43年ロンドン亡命政権派レジスタンス「国内軍AK」に所属。ワルシャワ蜂起に参加、負傷、ドイツ軍の捕虜となるが脱走。2度にわたって「軍功十字章」授与。46年渡英。68年ロンドン大学から「ワルシャワ蜂起の政治的・イデオロギー的背景」と題する学位論文で哲学博士号授与(本書はその要約改訂版)。現在ロンドン大学スラヴ・東欧研究所在

訳者 梅本浩志 1936年滋賀県生まれ。61年京大仏文卒。時事通信社入社。記者

発行日           1989.9.15. 第1刷発行
発行所           筑摩書房

序文
本書の目的は、ワルシャワ蜂起の政治的、イデオロギー的背景の検証と、蜂起勃発に至る諸事件の発展経緯の跡を辿ること
蜂起指導部が、いつ、どのようにして、なぜ、「ソビエト軍が首都に突入する12時間前に、ポーランド人だけの努力によって」ワルシャワをドイツ軍から解放されるべきと決定したのか
地下レジスタンス国家とは、ロンドン亡命政府に忠実なポーランド抵抗運動の政治的・軍事的組織をさす

第1章        3大国とポーランド――1943.7.1944.7.
1.    ポーランドの崩壊とポーランド亡命政府の成立
1939.8.独ソ不可侵条約に基づくポーランドの分割は、両者の国境線に対する不満を解決するためにポーランド壊滅に協力しようという内容 ⇒ ドイツはヴェルサイユ条約の東欧解決条項に不満、ソ連はリガ条約によってポーランドに割譲した領土の喪失に立腹
ポーランド人の目には、ソ連軍のポーランドへの侵入は背中から切りつけられた裏切り行為であり、圧政と恐怖と破壊の時代の始まりとなる
40.6.フランスの陥落とともに、ポーランド亡命政府は英国へ移動、英国はポーランドのために特別の責任を引き受け、ポーランド軍も英国軍の指揮下に入り、ポーランドのレジスタンス運動は両国の共通の大義のために多大の貢献をなした

2.    194143年にかけてのソ連・ポーランド関係
41.6.22. ドイツがソ連を攻撃したのを契機に、ソ連・ポーランド間の和解の実現に向け英国が動く ⇒ 翌月、両国間の協定締結、外交関係を復活させ、ソ連国内でのポーランド軍創設、ソ連国内で抑留されている全ポーランド人への特赦が決まり、39年の独ソ間の協定は反故になったが、新たな国境線画定には失敗
領土問題の未解決が両国関係の将来像についてのあらゆる問題の解決を先送り ⇒ ソ連内ポーランド軍の規模等について論争、カティンの森事件の真相曖昧、ポーランド人の身分保障等
43年初めに国境問題再燃 ⇒ 4月ドイツがカティンの森事件をソ連の所業と発表、ポーランドとドイツは国際赤十字に事件の全容調査を要請。ソ連はナチスと協力してソ連を侮辱するポーランドを非難

3.    ロンドンでの英国・ポーランド会談
43年秋、戦時協力関係を有効に機能させるとともに、戦後の対ソ協同への期待の上からもソ連・ポーランドの対立の解決の必要性を痛感していた英国がポーランドに、ソ連に対し現実的な態度を取る必要があると説得
チャーチルは、ポーランド国境問題に対しいかなるオブリゲーションも引き受けるつもりはなかったが、ポーランドは戦後ヨーロッパで責任ある役割を演じることが出来ると考え、英国が強力で独立したポーランドの復興に義務を負っていることを認めていた
英国は、領土についてソ連に譲歩する事によって両国の外交関係を正常化させ、亡命政権が解放の暁にはワルシャワで政権を取ることを許すようスターリンを説得しようと考え、ポーランドに対しカーゾン・ラインを国境線として認めるよう持ちかけたが、亡命政権は外交関係の修復については必要性を認めたものの領土問題について全く検討する考えすらなかった

4.    モスクワ会議
英国は、ポーランドとソ連の関係打開を急がないと、ソ連がポーランドで地歩を確立してからでは交渉力が無くなると覚悟していたので、アメリカを誘い込もうとしたが失敗
ソ連も、英国によるポーランドへの武器援助に対し、安全な受け取り手がポーランドにはいないとして難色
テヘラン会談の前までには、亡命政府も遅まきながらワルシャワに帰るためには領土問題で何らかの譲歩が必要との認識に至る

5.    テヘラン会談――チャーチル、ルーズヴェルト、スターリンとポーランド問題
43.11.28./12.1. ソ連とポーランドの未来の国境について3者間で仮の取り決め締結
ルーズヴェルトは翌年の選挙でのポーランド系6,7百万の票を考えてポーランド問題を取り上げるのに不満だったが、チャーチルからスターリンに持ちかけ、ソ連の受け入れ可能な国境線の提示を求め、その線で亡命政府を説得するよう暗示し、スターリンから東プロシアの北部を含むカーゾン・ラインが提示され、チャーチルとルーズヴェルトは、ポーランドが譲歩した分はドイツの東部を振り替えることで埋め合わせようとした
チャーチルにとって、ポーランド問題は名誉にかかわることで、ポーランドに対する英国の負い目から解放されるとともに、ワルシャワでのソ連支配下の政府の出現を防ぎたいと思っていた
スターリンにとっては、国家安全保障の問題
ルーズヴェルトにとっては、選挙戦略の問題
会談では、フランスで主要第2戦線を展開すること(ノルマンディ上陸作戦)が決定されたが、この決定によりポーランドはソ連によって解放されるのであって、英米軍によるのではないことが確実となる

6.    イーデンとミコワイチック
テヘラン合意を踏まえてチャーチルとイーデンは亡命政府を説得しようとしたが、亡命政府の非妥協的な態度とソ連の対亡命政府不信感に妨げられ徒労に終わる
441. 亡命政府は、ソ連との軍事協力関係に入りたいとの公式声明を発表 ⇒ ソ連も概ねカーゾン・ラインに沿って国境を設定するよう公式に提案。亡命政府はまだ妥協の余地ありと見做したが、レジスタンスの指導者からは敵意に満ちた態度で迎えられ、ソビエトの浸食からポーランドを完全な状態で守らねばならないとの断乎たる決意を呼び起こした
イーデンに説得されて亡命政府はソ連との話し合いに入ろうとしたが、ソ連はポーランド側がカーゾン・ライン受け入れを拒否しているものと見做すとともにカティンの森事件に対するポーランドの反ソ的反応を理由に、外交関係が断絶している国との交渉を拒否

7.    チャーチルとミコワイチック
チャーチルは、ミコワイチックに対し個人的に、カーゾン・ラインとオーデル・ラインを国境とすることを受け入れるのがポーランドにとっての最善の道と説得
ミコワイチックは、ポーランドが防衛し、生き残るためにはモスクワに依存しなければならないとの前提は絶対に受け入れがたかった。特にヴィルノ(白ロシア)とルヴォフ(ウクライナ)は、数世紀にわたってポーランド国家の東部における2大中心地であり、そのために191820年に戦ったのであり、その地の放棄は重大な裏切り行為
44.2.ポーランド亡命政府は英国政府筋に対し、カーゾン・ラインを前提とするソ連との話し合いには応じないと公式に回答 ⇒ 再度チャーチルが説得するも不調
チャーチルが最も恐れたのは、強硬姿勢を崩さない亡命政府が戦後全てを失って、ソ連の支援で共産政権が樹立されること
ルーズヴェルトにも協力を求めるよう、ミコワイチックに訪米を勧める
カーゾン・ラインの東側北部 ⇒ 当時は「白ロシア」。独立後の91年からベラルーシと改称。「白」はベラ、「ロシア」は「ルーシ」の略だった

8.    ミコワイチックとルーズヴェルト
44.6.  ミコワイチックはDデイの当日ワシントンに到着し、ルーズヴェルトに面談するも、ルーズヴェルトの関心は期待したほど大きくはなかった ⇒ 選挙が終わるまでは静観し、ポーランド支援の確約は回避
会談を通じてルーズヴェルトが、カーゾン・ライン受け入れが問題解決のために本質的に必要欠くべからざるものである必要はないとの印象をミコワイチックに与えたことは否めず、亡命政府の誤算と幻想を生みワルシャワ蜂起という高価な代償に繋がったといえる

9.    ミコワイチックのモスクワ訪問
ミコワイチックは、アメリカ訪問中に、以前にもましてソ連軍がポーランド国内軍との連携に前向きとの思いを強くするとともに、ルーズヴェルトがカーゾン・ラインに反対と断言したとも同志に伝え、帰国後すぐにスターリンとの直接交渉によって行き詰まりを打開しようと動く
44.7. ソ連の支援の下にポーランド民族解放委員会設立。ソ連領内の「共産党」とポーランド内の同党系組織とが融合、亡命政府を公式に批判。ソ連との間にポーランド国内解放地域の施政権と対独レジスタンスの指揮に関し取決め締結。これ以降、相対立する2つの政府が併存することに
ミコワイチックがスターリンに会った時には、ワルシャワ蜂起の開始後となり、自らの立場を弱めることになる
ワルシャワ蜂起は、外交的には何等の準備もされないままに勃発 ⇒ 英国にも相談せず、ソ連軍との調整もなく、現地軍司令官の単独判断によって開始

第2章        ポーランド・レジスタンス運動創生記
地下抵抗組織の中核は、旧軍隊の職業的将校団。そこに政治的な野党各派集団が密接に結合。戦争の最終段階で大規模な蜂起を展開することによって独立ポーランドを再建しようとする亡命政府を助けることを基本目標とした

第3章        ポーランド・レジスタンス運動糾合の試み
1.    ポーランド国内におけるレジスタンス統一の試み
武装闘争団 ⇒ 40.1.将来の国内軍の中核として結成。亡命政府の代表として、シコルスキの計画を反映する政策を策定し実行する役割を担う。42年「国内軍AK」と改称
42年以降、左右両極の「人民軍」(共産党翼下)と「国民武装軍」(極右親ファシズム)の双方が入り乱れて、国内の政治的、社会的諸勢力が両極分解を開始、一斉に行動を開始
蜂起直前は、3派が別個に動き、共通の方針を策定することが出来なかった

2.    人民軍
42.1.出現。時を同じくして「ポーランド労働者党」がモスクワの承認と支援を受けてワルシャワに創設。最初のうちは、シコルスキの政府と協力。ドイツ軍に対する最初の大規模な抵抗は、42年末ルブリン地域からポーランド農民を追い立てルーマニアからドイツ人を移住させようとしたときで、ドイツ軍に追い立てを中止させた ⇒ 積極策が成功したため、強気に出て国内軍と衝突。ロンドン亡命政府もソ連寄りの党とは協力を公然と拒絶
ポーランド国内には、ソ連の勝利を前に共産主義活動が増大しつつあった
43.3.モスクワに共産党系の「ポーランド愛国者同盟」設立 ⇒ ソ連に在住する1.5百万のポーランド人を対独闘争遂行のために団結・組織することを目的とした
44.7. ソ連の支援の下にポーランド民族解放委員会設立、両派が一体となって政権奪取に向かうことになるが、社会党や農民党への参加呼びかけは不発に終わり、大多数の国民の支持取り付けには失敗 ⇒ ソ連寄りの姿勢が国民の反発を買う

3.    国内軍
常時戦える兵士集団と、パルチザン部隊で活躍していた者と、パートタイムのレジスタンス・メンバーの3種類からなる組織。労働者党以外のあらゆる社会階級とすべての政治党派から党派の違いを越えて参加
ポーランド国内には、政治と軍事両面で2つの地下組織が存在、それぞれ別個に亡命政府に責任を負っていた ⇒ シコルスキ時代は政治と軍事が一元管理されていたが、43.7.の死以降はミコワイチック首相と軍最高司令官ソスンコフスキ将軍との間の関係が、主として対ソ方針の違いからうまくいかなかったため統帥権の統一が崩壊。ロンドンとワルシャワを結ぶ意思疎通に支障をきたし、現地指揮官の勝手な動きを助長するようになった
43.8.国内の代表的4党が、自由選挙実施までの間の密接な協力関係を申し合わせ、亡命政府を支持するとともに、レジスタンス運動での協調も約束したが、スターリングラードの戦い以降の国際的状況に対する認識不足から、対ソの頑なな態度を崩さず
44.3. 民族統一評議会が結成され、ロンドン派のレジスタンス運動の最高執行機関となる

第4章        ポーランドの大戦略――19411943
1.    一般的背景
43年秋の時点で、ポーランドが英米軍によって解放されるという希望はなくなり、ポーランドへの1番乗りはソ連軍だということが明瞭になり、そのため数多くの関連する問題が回答を迫られることになった

2.    最初の論争
42.3.時点で、もしソ連軍がポーランド亡命政府の事前同意なしにポーランドに侵入しようとする場合は地下抵抗軍はソ連軍に抵抗せよとの厳命がようやく撤回された
元々想定していた2つの前提、①ソ連との友好関係の維持、②ポーランドの領土的利益の防衛、とは相容れないもの
徹底した対ソ不信に基づく敵対作戦を主張する国内軍と、現実を踏まえて対ソ妥協しようとするシコルスキとの間で論争が続く

第5章        「嵐(プージャ)」作戦計画
1.    ロンドンとワルシャワにおける変化
43.7.亡命政権内で指導者が交代、同時に国内軍司令官にもさらに右翼的で経歴不足のコモロフスキ将軍が就任

2.    1943.10.の政府及び最高司令官の命令
最高司令官は国内軍に対し、自らの所信に基づき、ソ連がポーランドの主張を認めないのであればソ連軍を敵とみなすべきとの指示を与える
政府による地下レジスタンス国家の指導者達に宛てた正式な命令書では、将来のある時点での対独武装作戦強化を予測したが、最終進撃命令は亡命政府が第一義的な責任を負うとされ、国内での独断の権限は認められなかった

3.    1943.11.20.の国内軍司令官命令
退却しつつあるドイツ軍との戦闘に参加し、ソ連軍にドイツ軍の所在を知らせるよう、全軍に命令を発する ⇒ 目的は、ポーランドの存在を告知するため。ソ連軍を目前にして、何も行動を起こさないことから生じる政治的真空状態を回避するために現地単独の判断で動く。何もしないままソ連軍の下部機構に組み入れられてしまうことを恐れるとともに、公然浮上する組織を必要最小限に留め、残りはソ連占領下となっても活動できるよう、極秘裏に地下組織のネットワークを準備するとしている
国内軍司令官には、受け身では敗北は避けられず、たとえ成功の可能性が小さくても行動こそが唯一の成功の可能性を提起するとの信念があり、「ブージャ()」というコードネームで呼ばれた「強化された陽動作戦行動」や、同時的な総蜂起のような形で展開されるはずだった
特に「ブージャ()」作戦は、ドイツ軍がポーランドから撤退するときに開始することになっており、後衛部隊を徹底して攻撃し、とりわけドイツ軍の連絡網を破壊することを狙いとしていた
あくまで対ドイツの作戦で、対ソ武装行動は意図されておらず、ソ連軍とは独立して自分たちの任務を遂行するよう命じられていた

第6章        ロンドン亡命政権と「嵐(ブージャ)」作戦計画
1.    ミコワイチックの回答
「ブージャ」作戦により国内軍部隊をソ連軍の前に公然浮上させるとのブル=コモロフスキの決定に対し、ミコワイチックはソ連との間に軍事協力関係を確立する道が拓けると歓迎
いかなる犠牲を払ってでもポーランドの外交的孤立を防ぐための行動と捉えた

2.    ソスンコフスキの対応
一方で、軍指導部にとっては、事前に政治的合意を取り決めることなくソ連軍と国内軍の協力などありえないことだった

3.    1943.10.27.の政府命令に対する修正
44.2.亡命政府が10月の命令を一部修正し、少なくとも1か所で国内軍の公然浮上を認めるものの、ソ連に逮捕された場合は他地域での浮上を禁止し、別に第2執行部を作り、地下に留まってソ連軍の監視を続けるとともに、対独作戦での共闘をソ連軍が拒否する場合は、国内軍を解散し武器を隠匿、ソ連軍との衝突を回避するよう指示
現地の作戦を事後承認する結果となり、対ソ秘密作戦の策定に関して国内軍現地指導部の自由裁量の余地を残すこととなり、現地に主導権が移りつつあることを象徴

第7章        「嵐(ブージャ)」作戦――ワルシャワ東部地域での場合
1.    ヴォルヒニアにおける「嵐(ブージャ)」作戦
44.2. 「ブージャ」作戦がヴォルヒニア(西ウクライナ、両大戦間の紛争地域で、39年ソ連領土に併合)開始 ⇒ 6千の組織されたパルチザンにより実施された比較的大規模の作戦。戦前駐屯していた師団兵が中心で、ドイツ軍と同軍と協力関係にあるウクライナ民族主義者たちが相手。ドイツ軍とウクライナ軍を破った後ソ連軍と接触
ソ連軍は、自軍の背後にいかなるポーランド・パルチザンが存在することを許さないし、パルチザン部隊がソ連・ドイツ両軍の戦線の側面に展開することを許す積りがないことを通告してきたが、ポーランドの指導者たちはこれを無視、既に公然浮上後ではあったが、ソ連軍との接触を控え、いずれソ連軍によってポーランドが占領される事態に備え対ソ・レジスタンスを組織すべきと言い出す
ヴォルヒニアでの戦闘は、ドイツ軍の反撃によって敗走、半分は国内に戻ったものの残りはソ連軍のポーランド人部隊に併呑 ⇒ 同じ事態が各地のパルチザンに出現。戦闘当初はレジスタンスとソ連軍の協力関係が打ち立てられるが、戦闘後にソ連軍占領下に身を置いてみると、国内軍は武装解除されソ連軍のポーランド人部隊に編入された
また、ソ連軍が紛争地域をソ連領の一部と見做していたため、ポーランド側の政権復活への主張をしても無意味だったことが分かってきて、ソ連軍との軍事協力関係樹立に消極的となり、44.6.にはソ連軍に対して主体的に振る舞おうとすれば、ソ連軍の進駐前にドイツ軍から大都市を奪回しておかなければならないとの結論に達する

2.    ヴィルノおよびノヴォグロデック地域での「嵐(ブージャ)」作戦
44.6. 国内軍がヴィルノ(白ロシア西部)奪回を決定 ⇒ 7.7.白ロシアに向かう攻撃の速度を速めたソ連軍の先手を打って国内軍がヴィルノのドイツ守備隊を攻撃、すぐに参戦したソ連軍と協力関係が形成され、1週間で陥落・奪回したが、間もなくソ連・ポーランド両軍の関係は悪化、国内軍司令官がソ連軍に逮捕され、抵抗しようとしたレジスタンスも武装解除

3.    ルヴォフ地域における「嵐(ブージャ)」作戦
44.7.23.ルヴォフ(西ウクライナ)を巡る独ソ戦闘開始、国内軍も参加し戦闘終了時点で、同市は本来ポーランドに帰属しているとソ連軍に強く主張したが、全員の武装解除とソ連軍のポーランド人部隊への参加を通告される
相次ぐ作戦の失敗により、国内軍総司令官も、ソ連軍による「強制的な徴兵」に直面するときはソ連軍のポーランド人部隊に入隊するよう呼びかける

第8章        ワルシャワの運命
1.    当初の決定
44.7.31.夕刻 ヴィルノとルヴォフの失敗の後、ワルシャワこそが「ブージャ」作戦計画の理想の舞台だと確信に至り、最終命令が下る
当初3月の段階では、首都は「ブージャ」作戦の例外とされ「同時的総蜂起」の一環として意図、ドイツ軍との直接の戦闘は市の外で行い、首都を保存するはずだったため、武器も全て東部に移送していた中での突入決定

2.    最終決定
7.27.ソ連政府がルブリンの「ポーランド民族解放委員会」との間で前日の合意文書を発表、ソ連が同委員会を執行権力を有する唯一の合法的暫定機関と認めたこと、ソ連軍がワルシャワ近郊にあった一部の国内軍の武装解除をしたこと、更にドイツ軍が10万人の動員命令を出し実質的にワルシャワ市民の強制立ち退きを図ったにも拘らず市民は動こうとしなかったためドイツ軍の報復が近いうちに予想されたこと、2931日ソ連空軍がワルシャワ上空に飛び交ったこと、31日にはソ連軍がワルシャワの東郊外に迫りつつあること等から、31日夕刻になって急遽翌81日午後5時を期してワルシャワでの「ブージャ」作戦開始を決定、午後8時以降の夜間外出禁止令のため戦闘命令は翌朝から各部隊へと伝達された

第9章        なぜワルシャワは蜂起したのか
ソ連軍の首都突入以前にワルシャワを解放するとの国内軍の狙いは、戦後のポーランドの統治者を決めるにあたってスターリンとの最終的で決定的な会見にとって有利な地歩を明確にするために必須であり、ポーランドの運命を決める戦争の決定的瞬間だった
コモロフスキが軍事情勢についてもっと現実的な分析を行っていたら、自分たちの企図の成否がソ連軍のワルシャワ攻勢の結果にかかっていることが分かり、疑いもなく8月初旬のワルシャワ解放は断念していただろう ⇒ 国内軍の思い込みに反して、ソ連軍は首都を前に攻勢を止めたし、ソ連軍の前にこれ以上持ちこたえられないと予想していたドイツ軍が案に相違して国内軍の蜂起に強く反撃してきた
ソ連軍が進撃を止めた理由については不詳、ドイツ軍の反撃にあって進撃を阻止されたとの情報もあれば、バルカンへの進出に狙いをつけたスターリンが二正面作戦を嫌ったという憶測もある
国内軍の戦略の主要な欠陥は、ソ連軍と入念に協力した場合にのみ成功することを知りながら、作戦上の協調関係が欠落していたこと
813日ミコワイチックはスターリンに打電、首都解放者としてワルシャワを破壊から救ってくれるよう懇請したが、ソ連軍は動かず
「ワルシャワ蜂起」は、反ソビエトの政治的キャンペーンの一環であり、ソ連・ポーランド関係の究極的な明確化を現実のものとして企図され、侵入してくるロシア人に対する政治闘争そのものだった
42年にシコルスキ将軍は、もしソ連が対独闘争に勝利するようなことになれば、ポーランドの再建はソ連の支援と善意のみによって可能となろうと警告、となれば対ソ融和策が当然のこととなるはず。にもかかわらず国内軍指導者たちは、断固とした非妥協的な対ソ方針の方が実りある結果をもたらすとの望みを抱き、蜂起こそが自分たちの勝利の契機となるはずだった

第10章     ワルシャワと亡命政権指導部
蜂起に対する亡命政権の責任 ⇒ 米英の支援のもとに対ソ連携を探る首相と、対ソ不信感を持つ軍最高司令官との確執から、43.11.のドイツ軍崩壊の機を捉えて蜂起を開始するという現地への指示以上の特別な計画はなかった
726日 現地レジスタンス政府から蜂起を公然化する旨の決定を聞かされ、首相は現地政府に全権限を付与、自らはスターリンとの会見のためモスクワに向け飛び立つ
軍最高司令官も、それ以前にイタリアのポーランド軍視察のため出発しており、肝心の蜂起の決定の時にロンドンにいなかったどころか、蜂起に否定的な意見を現地に伝えていたため、亡命政府内部の意見の相違に現地が混乱しただけだった

第11章     結論
レジスタンス指導者によるワルシャワでの戦闘開始決定の理由
(1)  政治的理由 ⇒ 4つの目的①亡命政府に忠実な統治機構をワルシャワに出現させる、②統治機構に最高の大衆的支持を確保、③ポーランド共産党がワルシャワで立場を確立することを防ぐ、④亡命政府をポーランドの正当な支配者としてスターリンに認めさせる
(2)  外交的理由 ⇒ スターリンとの交渉に当たるミコワイチックを助け、米英の支援を取り付けようとしたが、首相自身蜂起に対する真剣な外交的準備を一切していない
(3)  イデオロギー的理由 ⇒ 2つの敵論に基づき、ポーランド独立回復の支援は米英に対して追求されなければならない
(4)  軍事的理由 ⇒ ドイツ軍が東部戦線で決定的に打ち破られ、ソ連軍がまさにワルシャワに突入せんとしているとの思い込みに基づく
蜂起に至る重要な決定は、全て亡命政府と相談することなしに、ワルシャワのレジスタンス指導部が行ったもの ⇒ 亡命政府は、ポーランド国内の作戦計画に同意し、歓迎したように見えるが、主体的な判断は何もしていない
ソ連軍との協力関係の欠如が、蜂起を情け容赦なき悲劇と化してしまった ⇒ 45.1.ソ連軍がワルシャワに入った時には廃墟と墓場の街だった。20万人が殺され、残った80万人が同市から追い出された。ヨーロッパの近代歴史上、かくも悲惨な体験をした首都はない
ワルシャワ陥落後、地下レジスタンス国家と亡命政権は急速に崩壊、敗北感が国内軍部隊のみならず広く社会全般に広まる
蜂起とその結末は、ポーランドでの「共産党」の権力掌握の手助けをすることとなった
レジスタンスの指導者たちの、スターリンとの妥協受け入れ能力の欠落からくる政治的、軍事的愚行と過度の楽観主義によって、蜂起が失敗に終わる


訳者あとがき
本書訳出の動機は以下の2
(1)     ポーランドの置かれた歴史的、地政的状況を外国人にも比較的わかりやすく叙述し、特殊な歴史的、地政的条件に強く影響されているポーランド人気質というか、この悲劇的民族の性格や心理的特性を実に見事に描写しており、ポーランド問題を理解する上で本書は格好のテキストとなっている
(2)     現代日本の外交、防衛政策に多大の参考的示唆を与えるように思え、日本に紹介しておく必要を感じた ⇒ とりわけ本書で描かれている米国の対外政策が如何に不確かで、信頼できず、愚かでさえあることを、日本人は今こそ肝に銘じておかなければならないことを本書から学び取るべき


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