戦国信濃と依田信蕃  志村平治  2025.6.25.

 2025.6.25.  戦国信濃と依田信蕃(のぶしげ) 徳川・北条を苦しめた不屈の国衆

 

著者 志村平治 1951年、長野県中野市に生まれる。少年時代から歴史の研究に傾倒、現在も長野郷土史研究会、歴史研究会(全国歴史研究会)、日本古城友の会などで活動中。主な著書に『相模朝倉一族』『北信濃の武将・村上義清伝』など

 

発行日           2025.4.10. 初版初刷発行

発行所           戎光祥出版 (戎光祥郷土史叢書)

 

カバー袖

郷土の歴史を知り日本人を知る

昭和初期に学問的な領域として成立を見た郷土史研究は、歴史学の研究成果の蓄積、デジタル技術の発展などにより、近年、飛躍的な進展を遂げている。各地で活躍する郷土史研究者たちは、地域に根差した研究・現地踏査・史料発掘など様々な形態で発表・発信を続けており、歴史学の深化にも大きく貢献。本叢書は、このような郷土史研究者の成果をまとめるべく発刊するもの。地域史研究への理解が深まると同時に、日本史ひいては日本人のあり方まで俯瞰できる構成となっている。日本史世界がひろがる一助となれば嬉しい

 

はしがき

信州上田の城主・真田昌幸に対し、「もう1人の真田」、「生きていれば真田を凌ぐ大物」と言われた猛将が、家康の信頼厚く、佐久の平定の夢半ばで斃れた武田旧臣の芦田依田信蕃

信蕃の先祖は信濃国小県郡依田庄(上田市)を発祥とし、依田氏を名乗る。1436年佐久郡芦田郷(立科町)に進出、芦田氏を名乗り、大井城(佐久)の大井氏に仕える。1484年大井氏は村上氏に滅ぼされ、芦田氏は村上氏に属して自立、その後諏訪氏、武田氏に仕える

武田氏時代の信蕃は、遠江二俣城(天竜区)、田中城(藤枝市)の城将となり、孤軍奮闘、徳川家康を苦しめたが、武田氏の指示により家康の城を明け渡す。その際家康が家臣に迎えようとしたが、信蕃は勝頼存命不詳のため断り、武田家に忠誠を尽くす

武田氏滅亡後、信濃国は織田領となるが、本能寺の変で領主不在に。この折、信蕃は家康の意を受けて、武田遺臣3000を率いて佐久郡平定へ向かうが、同時に北条氏直が侵攻してきたため、国衆の大半は北条方に転じ、信蕃は三沢小屋(佐久市)に籠城し徹底抗戦

信蕃は、北条方だった真田昌幸を徳川方に引き入れ、碓氷峠を占拠して北条の糧道を抑えたため、北条が戦意喪失、家康有利の和睦が成立。信濃は徳川領地となり、信蕃が佐久郡領主となるが、領地平定のため岩尾城(佐久市)攻略の際戦死(天正壬午(てんしょうじんご)の乱)

家康は、信蕃の功績に報いるため、信蕃の子・竹福丸に松平姓と「康」の一字を与え、松平康国と名乗らせ、大久保忠世(妻の祖父)の補佐で佐久郡を平定、小諸6万石の大名に

信蕃の姓は、芦田とも依田とも表記されるが、より認知度が高いのは依田

 

一、依田氏の起源

l  依田氏の家系

「尊卑分脈」(系図集)によれば清和源氏満快(みつよし)流。大和源氏頼季(よりすえ)流との説も。木曽義仲の甥が信濃国小県郡依田庄に移住、依田城(上田市)を築き、依田氏の祖となる。鎌倉時代には、幕府の御家人となり、1213年和田義盛の乱では幕府方で討死

l  室町幕府に登用された依田一族

南北朝時、依田氏は足利尊氏に属し、依田庄の支配権を回復確保し、室町幕府に登用。御評定衆や幕府祐筆方奉行人、幕府直属の一番衆として名を連ねる

l  滋野系芦田下野守、小笠原政康に降伏する

佐久郡芦田地区(立科町)は古代以来、滋野系望月氏の勢力下にあり、芦田氏が館城を築く

芦田氏は岩村田の大井氏と争い、信濃守護小笠原氏によって討伐される

l  依田系芦田氏の登場

当時の動乱の最中、依田庄の依田氏が芦田郷に進出、依田系芦田姓を名乗って領主となる。さらに大井氏の執事となり、佐久地方など各地に分散、依田姓が広がる

l  芦田依田孝玄、謀殺される

お家騒動で当主が謀殺され、佐久に侵攻した村上政国により大井氏は亡ぼされ、芦田依田氏は村上氏に属して自立。孝玄の跡を継いだ義玄の子が信守、その子が信蕃

 

二、芦田依田信守の活躍

l  芦田依田信盛の略歴

生年不詳。下野守。武田信玄に仕え、遠江二俣城主。1575年没

l  諏訪氏の傘下に入る

1541年、村上義清、諏訪頼重、武田信虎3将が一斉に小県郡に侵攻、海野一族の本城・海野平(東御市)を落とすが、海野氏が関東管領・山内上杉憲政に支援を求め、上杉が出兵したため、諏訪氏がた2氏を出し抜いて上杉と単独講和を結ぶ。小田原北条氏の侵攻が確実視される中、上杉にも余裕はなく、諏訪氏に領土を割譲し撤退。芦田郷の信守も諏訪氏配下となる。翌年、諏訪氏は武田氏に降り甲府で自害

l  信守、武田氏に仕える

1543年、武田信玄の小県出兵に当り、芦田郷が村上義清征伐の要路にあったため、信玄は信守を重用、先鋒に任じたという

l  春日城を再興し、本拠地を移す

1549年、信守が春日城(佐久市)を再興。一旦村上氏の攻撃で落城するが、武田方の勝利に終わり、信守は防衛上の理由から本拠を春日城に移す

l  戦功を積み重ねる

1553年、村上義清は越後の長尾景虎を頼り、5次に渡る「川中島の戦い」に発展

信守は、川中島や、その後1563年の信玄の上州攻めでも戦功をあげる

l  伴野(ともの)氏との境界争い

1564年、信玄が間に入って検地を実施、飛び地をなくして境界を確定させる

 

三、武田氏に仕えた信守・信蕃父子の戦い

l  信守・信蕃父子、武州御嶽城を守る

1565年、信玄は安中に攻め入り、西上州を勢力下におき郡代を置くが、信守・信蕃父子も上野国藤岡一帯の支配を任され、境目の御嶽城を番城として在城する

l  信守の藤岡築城計画

信守は、地元藤岡の諏訪神社には諏訪大社の剣・鏡を神霊として奉斎、富士浅間神社の社殿を改造し、太刀を奉納したりしている

藤岡に居城を計画したが、信玄の今川攻めへの出陣が決まり、築城は断念

l  駿河薩埵(さった)山・薩埵浜の戦い

1568年、信玄は、今川が上杉としたとして、甲駿相の3国同盟を破棄して、駿河由比付近に進出。信守・信蕃父子も先鋒として薩埵浜の戦いで活躍。今川は掛川に敗退

l  武田軍が小田原城を攻める

信守・信蕃父子の留守の御嶽城は北条方に占拠され、武田軍は1569年碓氷峠から西上野に入り、北条攻めを開始。最初は北条氏邦の居城鉢形城(寄居町)、次いで滝山城(八王子市)、そこから小田原に向かう。その先陣にも信守がいる

l  信守・信蕃父子、蒲原城の守備につく

1569年末、信玄は再び駿河に出陣。駿府の前に障碍となる蒲原城を攻め、落とした後信守・信蕃父子に城の在番を命じる

l  信守・信蕃父子が武蔵御嶽城を守備した年代

信玄の駿府攻めの前か後かで2説ある

l  東美濃(岐阜県)の攻防

1572年には飛騨を巡って武田と織田が争い、岩村城は武田勢に明け渡す

l  武田方が二俣城を攻略する

1572年、徳川の築いた天竜川を要害として見立てた二俣城を武田勝頼軍が包囲。陥落後は築城し、城将を置くが、1574年には信蕃が城主に

l  信守、上村(かんむら、恵那市)の合戦で奮闘

信玄は、さらに家康を追って居城の浜松に向け進軍。三方ヶ原に家康軍を破る

信蕃は信玄の旗本として参陣し、戦功を上げる

美濃上村に進出してきた織田勢に対し、信守は武田方の搦手(からめて)の大将として、織田の大軍に寡兵で立ち向かい、奇跡的な勝利を収める(年代については諸説あり)

l  信守・信蕃父子、二俣城の城将となる

1573年、信玄は野田城(新城市)を攻略した後、陣中で発病し信州駒場(阿智村)で死去(狙撃説もある)。跡を継いだ勝頼は北遠地方の防備を強化。その一環で信守父子を二俣城将に

l  内藤家長の弓矢

1575年の家康による二俣城攻めで活躍したのが、家康配下の内藤家長の強弓。武田方もこれを称し、家康は鎧の上に着ていた胴服を脱いで、感書と共に与えたという

l  信守、没す

城は堅固で落ちず、大久保忠世を残して家康軍は退散。その後の周辺の城の奪い合いで信守は負傷し死去。喪を知って大久保は攻めたが、信蕃は死守

 

四、織田信長の信蕃への処置

l  信蕃の誕生

1548年生まれ。1559年人質として諏訪茶臼山城に送られる

l  信蕃が二俣城を開城する

信蕃の二俣城は、秋葉街道(信州街道)を通じて信濃から兵員・兵糧・矢玉の補給を確保したが、家康により上流の城を攻め落とされ、勝頼も救援不能から、城の明け渡しを命じる

半年にわたる攻防で、家康は信蕃の優れた力量を認める

信蕃は、不本意な開城後も高天神城(掛川市)に籠って徳川との戦闘を継続

l  父信守の供養をする

1578年、信蕃は佐久の春日城に戻り、父の供養を行い、高野山蓮華定院に寄進

l  信蕃、「御館(おたて)の乱」に派兵される

1578年、謙信没後の家督相続の争い(御館の乱)では、景虎が妻の兄小田原北条氏政とその同盟者武田勝頼に支援を要請、勝頼の命で信蕃も武田信豊軍に参陣。勝頼軍は景勝を追って春日山城(上越市)に迫り、景勝と和議を結ぶ

勝頼の斡旋で、景勝と景虎は和議を結ぶが、すぐに破綻。勝頼は、家康が駿府の武田領に侵攻したため甲斐に帰国

l  信蕃が田中城将となる

1579年、信蕃は田中城(藤枝市)に城将として派遣。武田氏滅亡まで在城し、民政に意を注ぎ、藤枝堤などの用水改修や荒れ地開発を行う

武田氏の駿河支配は直接支配を基本としていたが、地域の拠点となる城郭の周辺にある給人の私領は、城将に命じて差配させることもあった

1580年、信蕃兄弟は灌渓寺(藤枝市)を再興、曹洞宗宗に改宗。兄弟は開基として祀られる

l  蓮華定院と宿坊契約をする

1580年、信蕃は本領の芦田郷・春日郷を蓮華定院の檀那場とする宿坊契約を結ぶ

この頃信蕃は常陸介を名乗る

l  天正8年の田中城の攻防

1580年、家康は掛川城に進出し、田中城と高天神城攻略に着手

l  柳沢次衛門に知行を宛がう

信蕃の妹は、武田の旧臣で信蕃に臣従していた柳沢次衛門の嫡男元目助に嫁すが、その知行が少ないため、新たに開発した地を宛がう。信蕃は、田中在番の最中でも領主経営に腐心、在地での家臣団の掌握に努めていたのだろう

l  織田信長、武田攻めを開始

1581年、高天神城落城。勝頼は籠城衆を武田全領国から集めたにも拘らず後詰をしなかったために、「勝頼に見殺しにされた」との悲報が全領に広まり、落城の代償は高くつく

信長は、木曽谷の木曽義昌の寝返りを得て武田攻めを決意。信忠を総大将に、氏政と家康を語らい勝頼を包囲。信蕃は、子ども2人を人質に送り勝頼への忠誠と決死の覚悟を示す

l  天正10(1582)の田中城の攻防

家康は遠江の統一を果たしで駿河に向け進軍し田中城に迫る。勝頼も田中城に援軍を送り攻防戦が始まるが、一進一退で、家康は押さえを置いて駿府へと向かう

l  信蕃、駿河田中城を開城する

1582年、家康は信玄の従兄弟で義兄の穴山梅雪を篭絡し、信蕃にも降伏を迫る。梅雪の説得もあって信蕃は開城

l  信濃佐久郡の春日城に戻る

家康は信蕃を召し抱えようとしたが、勝頼の存亡不詳のままではと、甲斐に向かうが、相次ぐ家臣の離反で武田家は混乱の最中にあり、勝頼の存否未確認のまま、春日城へ引揚げ

l  小諸城の森長可(ながよし)と対面

1582年、勝頼は天目山(甲州市)で自害。小諸城も信長麾下の森長可が入城したため、信蕃は小諸城に向かい、人質だった子どもたちの安否を確認

l  信蕃、遠江二俣に隠れ住む

信蕃は、諏訪に織田信忠を訪ね帰順しようとしたが、家康からの知らせで、信長の武田家臣への処置が酷薄を極めていたところから、家康のもとに来いとの誘いを受ける

家康は、信蕃をほとぼりが覚めるまで二俣の奥に匿う。信蕃の離反を知った森は、在地の財産一切を略奪、破壊したため、芦田依田氏に関する資料はほとんど残っていない

l  織田信長、武田旧領の国割(くにわり)を行う

信長は滝川一益に上野国を与え、関東の抑えとしたが、同時に佐久・小県の両郡も与える

信蕃の子たちはそのまま織田氏の監視下に置かれ、一益の人質となった

 

五、徳川家康に仕える

l  信蕃、春日城に戻る

1582年、本能寺の変で信長が死去すると、家康は駿・遠各所に伏せる武田遺臣に書を送り、武田の故地を略せしめる。信蕃にも甲州攻めの先鋒に加わるよう誘い、信蕃は武田遺臣の結集を呼び掛け、春日城に入る

l  信蕃、小諸城代となる

滝川一益は、信長の死で本国伊勢に戻り、帰路作・小県の無事通過のため春日城の信蕃と対面、小諸城と引き換えに支援を要請。無事通過の保証として一益に同行した人質の中には信蕃の子らや真田昌幸の子(後の幸村)もいた。人質は、その後行く手を阻む木曽氏に引き渡され、一益は無事伊勢に戻る

l  信蕃、小諸城を退去す

信蕃は、佐久・小県郡の国衆を徳川方に引きつける作業に入るが、北条氏直が碓氷峠を越えて信濃に侵攻してきたため、春日城に退却

l  家康、甲信地方の平定を一任される

信長嫡孫の三法師丸を後嗣とする織田新政権が誕生すると、家康は、その了解のもとに、甲斐・信濃・上野確保に動く。秀吉は家康に織田の領地甲信地方の平定を一任

l  信蕃、春日城からさらに三沢小屋へ

いち早く佐久・小県・諏訪に侵攻・平定した氏直に対し、信蕃は春日城の補修も不十分なままで、山奥の三沢小屋(佐久市)に退き籠城

l  三沢小屋の攻防

信蕃は険阻な地の利を生かして三沢小屋を守るとともに、家康に援軍を求める

l  徳川の援軍、三沢小屋へ

徳川の援軍は、茅野から大河原峠を越え、小倉城近くで信蕃に合流、三沢小屋に入る

l  芦田依田勢、前山城を攻める

北条氏が川中島で上杉勢と対峙している間に、信蕃は春日城の奪還と、伴野氏の前山城(佐久市)攻略に動くが、抵抗に遭って撤退

l  諏訪頼忠、北条方へ

大久保忠世らの徳川七手衆が諏訪茶臼山城の諏訪頼忠を攻略

l  再びの三沢小屋における攻防

氏直は、景勝相手に戦果を挙げられないまま、小諸に転進。諏訪から甲斐を目指そうと、途上の三沢小屋を攻撃。家康は、信蕃に対し、これまでの功を賞し、諏訪・佐久2郡を宛がうという宛行状を発給。一介の土豪に過ぎない信蕃に対して異例の宛行で、家康の信蕃に対する評価の高さと期待が偲ばれるが、家康は同時に木曽義昌にも筑摩と諏訪を宛がっており、空手形の乱発は各地の諸将によって行われていた

l  信蕃、北条氏直軍の動きを報じる

氏直は、三沢小屋の抵抗に遭って方向転換し、諏訪頼忠救援に向かう

氏直と家康両軍は、若神子(わかみこ、北杜市)と新府城(韮崎市)で対峙

信蕃は、佐久郡の北条氏攻略を再開

l  木曽義昌が家康と提携する

信長に安曇・筑摩を与えられ深志城(松本市)にいた木曽義昌は、本能寺の変後は本領の木曽に退いていたが、軍事的保障を求めて家康との提携を模索、家康が応じる

l  上杉景勝、徳川との軍事連携を望む

上杉の敵は氏直で、信蕃経由で家康との連携の話を進める

l  芦田小屋の攻防

信蕃は、北条氏の残党の反撃を受けながら、佐久郡での勢力拡大を試みる

l  津金衆(甲斐国巨摩郡の武士集団)らが勝間反砦(かつまそりとりで、稲荷山城)に入る

家康と氏直が甲斐で対峙する間、徳川軍に属した津金衆が川上口・野辺山原(信州峠)を開き、信蕃と家康軍の連絡がつき、甲州の北条勢に孤立の恐れが出る

l  木曽義昌の使者が三沢小屋に来る

家康の真意を図りかねていた木曽は、信蕃から裏を取って家康への臣従を決め、家康は木曽に諏訪頼忠攻めと北条軍の背後を衝くことを指示

l  食料に窮する三沢小屋

家康は、信蕃からの家臣・同心たちへの扶持要請に応え黄金を届ける

l  木曽から人質が戻る

家康は、信蕃ら佐久・小県郡諸士の人質を抑留していた木曽と交渉し、無事返還に成功。以降家康は、両郡諸士に対し強い影響力を保持するに至ったという

信蕃の子2人は、今度は徳川の質として二俣城に送られた

l  真田幸村を調略する

信蕃は、危機打開の策として、北条氏に付いていた真田昌幸を寝返えらせようとする

武田時代から信玄に寵愛され、信蕃とも親しく、いずれ上野国沼田・吾妻領確保のためには北条氏との対決は不可避と考えた昌幸は、徳川方に転じる決断を下す

信蕃最大の功績だが、昌幸と家康を結び付けるのに最も大きな役割を果たしたのは、昌幸の弟で加津野家を継いだ昌春で、早くから家康に臣従していた

l  家康、信蕃へ援軍を送る

家康の援軍が三沢小屋に到着、信蕃軍共々北条氏の籠る芦田小屋(春日城)を攻略

l  信蕃ら、碓氷峠を占領する

信蕃は、さらに上野から甲斐への北条方の補給路を断ち、真田と共に碓氷峠を占領

l  佐久平定戦

1582年、家康は甲州より諏訪を経て佐久に出兵、信蕃と共に芦田・望月城(佐久市)を攻略

信蕃は岩村田城を落とし、北条氏直が人質を皆殺しにしたので、それまで北条に属していたものも皆信蕃に属し、徳川の味方になったという

 

六、芦田依田信蕃の戦死

l  家康、北条氏と和睦する

碓氷峠の占領で、北条氏直は戦意喪失、家康との和睦交渉が始まる

信長亡き後、秀吉・柴田勝家の対立が激化、信長の次男信雄(のぶかつ)、三男信孝は勝家を支持し、家康にも陣営参加を期待、北条との和睦を勧告してきたところから、家康も北条に和睦を持ち出し、信雄の仲介で正式に和睦成立。甲斐国郡内(都留郡)・信濃国佐久を徳川領に、上州沼田を北条領とし、家康の娘督姫と氏直の婚約を取り交わし、人質を交換

劣勢だった徳川に有利な条件で講和が成立したのは、もっぱら信蕃・真田の活躍による

l  信蕃、拠点を前山城に移す

信蕃は、佐久郡領主として、郡内の諸士に所領の宛がいを行う

徳川・北条の和睦は、国衆の了解を得たわけではなく、分割案の実現は実力によって実現するものとされたため、信蕃はなお佐久の国衆を抑え込む必要があった

信蕃は、いくつかの城を落とし、威を郡中に震い、降る者多し。皆家臣に準ぜしむが、前山城の伴野氏は信蕃の家臣となるを恥じ籠城したため、信蕃によって攻略され、佐久の名族伴野氏は滅亡。信蕃は前山城に移る

l  本格化する佐久の平定戦

和睦にも拘らず、徳川方の真田昌幸は上野国吾妻城におり、小諸城には北条方が籠る

1582年中には佐久郡の大勢は決し、信蕃に服属しないものは上州に逃れていく

l  信蕃、将兵らを労い追鳥狩(おいとりがり)を行う

家康は、武田氏滅亡後家康のために先鋒となって北条と戦ってきた甲州・信州の士を甲府に招いて拝謁させ、本領を安堵したり、勲功に応じて褒賞を与える

佐久郡内でも信蕃が付属した諸士を集めて大規模な追鳥狩を行い慰労するが、新付の諸士を譜代の家臣並みに扱うのを不満に思って非難する見方もあった

l  信州の情況を柳沢元目助に報じる

小諸城などに燻る北条の残存兵力に対し、信蕃は発地(軽井沢町)の土豪柳沢元目助(妹の嫁ぎ先、第4)宛に用心するよう指示

l  反徳川の諸士、上杉景勝を頼る

反徳川勢力は、北条を見限って上杉に援護を求め、景勝も雪解けをまって佐久郡への出陣を伝える

l  三枝昌吉が相木の砦を落とす

相木城(北相木村)も信蕃に反抗、討ち落としたのが田中城で信蕃の下にいた徳川方の三枝

l  田口の新築の居館に移る

前山城から佐久の居館に移る

l  小諸城は上杉方が確保する

既に真田が道筋の小県郡に居るので、上杉の小諸出兵は困難で、計画倒れに終わる

l  岩尾城の攻防と信蕃の戦死

信蕃に強く抵抗していた岩尾城(佐久市)の大井氏も景勝を頼る。信蕃はあえて力攻めを強行したため、兄弟揃って戦傷死。信蕃36

l  大井行吉、岩尾城を開城する

信蕃の死を知って大井氏は開城を決意、大井は上州に去り、将士の多くは帰納

l  信蕃の妻

3人いた

 

七、信蕃の息子・康国の活躍

l  康国、生れる

1570年、嫡男康国(幼名竹福丸)誕生。母は2人目の加藤氏

l  康国・康真兄弟、人質となる

1582年、嫡男・次男とも武田の人質となり、小諸城へ。その後滝川一益の人質となり、一益が伊勢に退去する際に木曽谷に連れていかれ、木曽義昌の人質となった後、徳川との和睦で徳川の人質に

l  康国が家督を継ぐ

1583年、信蕃の戦死で、家康は二俣城に人質となっていた竹福丸に家督を継がせ、旧領を安堵。元服させ、「康」の諱1字と「松平」の姓を与え、松平康国を名乗らせる。外様国衆では破格の待遇で、家康が信蕃の功績に報いたものだろう。大久保忠世が後見役に

l  康国が佐久を平定する

1583年、康国は大久保とともに小諸城を攻め、城主は越後に逃げ帰り、佐久平定が完了

康国は前山城から移り、6万石の小諸城主となる

l  大久保忠隣(ただちか、忠世の嫡男)の娘を娶る

1587年、大久保忠隣の娘を娶り、翌年家康に従って上洛し、従五位下に叙任

l  小田原合戦で北国軍の先導役となる

1590年、秀吉の小田原出兵の際は、中山道を進む前田利家率いる北国軍の碓氷峠越えの先導役を真田昌幸と共に務める

l  康国、白岩・木次原の戦いで戦功を上げる

小田原北条攻めは、徳川方に敵対して上州に逃れ、浪人した佐久武士にとって、還住(かんじゅう)の最後の機会であり、信濃が手薄になったのを見て、相木・伴野らが語らって挙兵

小諸に戻った康国らは、白岩城(北相木村)に籠った反乱軍を鎮圧

l  康国、死す

その後、康国らは北国軍の先導役に加わり、碓氷峠を越えて上野に侵入。石倉城(前橋市)を包囲したが、その戦いの最中に戦傷死、享年21

 

八、信蕃の次男・康真の活躍

l  康真の誕生

1574年、信蕃の次男康真誕生。母は加藤氏。幼名福千代丸

l  康真、家康に召される

1586年、二俣城から家康に呼ばれ、元服させ、兄同様「康」の諱1字と「松平」の姓を与え、松平康真を名乗らせ、家康の傍らに勤仕する

l  兄康国の遺領を継ぐ

1590年、家康は兄の死に際しての康真の勇を賞し、康国の遺領を継がせる

l  上野国藤岡に移封される

その後も北国軍に参陣し戦功を挙げ、北条氏滅亡後家康が関東転封になると、康真は藤岡定3万石に移封。家康の要請で、康国未亡人と逆縁婚する

1594年、秀吉の伏見城普請に参加、その功により従五位下、右衛門大夫に叙任

l  康真、改易される

盟友の御家人を囲碁で負かした際、相手が「囲碁では負けたが、兄の妻を我が妻とはすまじいものを」と憎まれ口を叩いたため、その場で殺害。。父・兄譲りの短気で、改易となる

l  結城秀康、康真を招く

当時は関ヶ原の頃で、武勇優れた武将康真に誘いの手が延びる。最初は西軍の宇喜多秀家の誘いだったが拒絶。次いで常陸国結城城主となって家臣団の増強を図る結城秀康が誘う

l  康真、加藤康寛と改めて越前家の家臣となる

秀康は、関が原では、下野宇都宮に布陣、会津の上杉景勝の西上を防ぎ、その功により越前北ノ庄68万石を与えられ、、北ノ庄城受け取りに康真が向かう。松平姓を憚り、加藤康寛を名乗る。越前国大野郡に5千石で封され、福井城下に移住。秀康の死去とともに剃髪

康寛の子は将軍に拝謁するに際し芦田姓を名乗るよう指示され、その子孫は福井藩士として続き、明治維新を迎えている

 

付録 芦田依田信蕃関連史跡

依田城(上田市御嶽(みたけ))――金峰山頂上(標高760)に築かれた山城

岩尾城跡(佐久市)――別名琵琶島城。千曲川と湯川の合流点の断崖の上に築かれた平山城

 城の東方に菩提寺桃源院があり、築城した大井一族の墓がある

前山城跡(佐久市前山)――別名伴野(ともの)城。山城。小笠原一門の伴野氏が築城。信玄が度々滞在。後信蕃の居城となる

貞祥(ていしょう)(佐久市前山)――曹洞宗。山号は洞源山。前山城の南にある伴野氏菩提寺。貞祥は元前山城主。信玄や家光も寄進するなど、佐久を代表する古刹。境内には、島崎藤村が小諸に住んでいた頃の旧宅が移築されている

田口城跡(佐久市田口)――山城。田口氏の居城。信玄の佐久進出で落城。城址には遺構

蕃松(ばんしょう)(佐久市田口)――曹洞宗。山号は大梁山(たいりょうさん)。田口城跡の麓。信蕃の館跡。康国が父のために建立、信蕃兄弟の墓と五輪塔がある

春日城跡(佐久市春日)――別名秋葉山城。芦田小屋とも。康国寺の背後の山頂(892)に築いた山城。蓼科山麓の小倉城と三沢小屋を詰城に持つ大規模な山城。春日市代々の居城

康国(こうこく)(佐久市春日)――曹洞宗岩村田龍雲児末寺。山号は全城山(ぜんじょうざん)。春日城の麓。1590年康真が康国追福のため光国寺として創建。後に康国寺に改称

小倉城跡(佐久市春日)――春日城の支城。北側の山腹にある小倉窟(別名茨小屋)は隠れ家

三沢小屋跡(佐久市春日)――大河原峠からの春日渓谷の詰めの鹿曲(かくま)川の源流が3つに分かれているところから三沢という

津金寺(つがねじ、立科町山部)――天台宗比叡山末寺。山号は慧日山(えにちざん)。院号は修学院。行基が聖観音像を彫り、最澄が再興。望月牧の牧官滋野氏の庇護を受け、その祈願寺。信蕃の要請で真田昌幸との間を取り持つ

芦田城跡(立科町茂田井)――806mの山頂に立つ山城。別名木の宮城。鎌倉時代に滋野系芦田氏が築城。麓の蓼科神社はこの城の守護神

光徳寺(立科町大字芦田)――曹洞宗。南嶽(なんがく、蓼科山を指す)山。芦田光徳の菩提のため創建

諏訪茶臼山城跡(上諏訪茶臼山)――別名高島古城。手長山城とも。840mの茶臼山に築かれた山城。諏訪氏が上原城の支城として築城

芦田川屋敷跡(藤岡市保美字城戸)――信守・信蕃が信玄に属して上州入りした際の屋敷で、ここで御嶽城を守る

富士浅間神社(藤岡市藤岡)――日蓮が佐渡へ流罪となる途中、富士山の御霊の分霊を勧請し社殿を建立。富士山と関わる土地で「富士岡」→「藤岡」。康国の藤岡城の守護神

御嶽城跡(児玉郡神川町御岳)――別名武蔵御嶽城。343mの御嶽山にあった山城

二俣城跡(浜松市天竜区二俣)――別名蜷原(になはら)城。平山城

高天神城跡(小笠郡下土方)――鶴翁山(130)に築かれた山城

田中城跡(藤枝市西益津(ましつ))――別名徳之一色城、藤枝城。今川氏の持城

灌渓(かんけい)(藤枝市中ノ合)――曹洞宗。石龍山。信蕃兄弟によって再興され、開基として2人の位牌を祀る。今川家の公花所(こうげしょ、菩提寺)になったこともある

 

 

 

 

戎光祥出版 ホームページ

武田家に忠義を尽くし、激戦を繰り広げた武将・依田信蕃。
徳川家康をうならせた知略を駆使するも自ら陣頭に立つ夢半ばで戦死した不屈の国衆について史料を博捜し、その生涯をたどる。
父や子の動向も取り上げ、依田一族の全貌の解明を試みた、これまでにない1冊。
附録には関連史跡紹介も掲載し、史跡巡りのおともにも最適。

 

 

 

 

Wikipedia

依田 信蕃(よだ のぶしげ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将甲斐武田氏徳川氏の家臣。

生涯

[編集]

出生から武田家臣時代

[編集]

父の芦田信守は、守護代大井氏諏訪頼重に臣属していたが、後に武田信玄に仕えた。

信蕃は当初から信玄に信濃国先方衆として仕え、信玄の死後は引き続き武田勝頼に仕えた。永禄11年(1568年)12月、武田氏の駿河侵攻で駿府に乱入した軍勢の中に信蕃の名も見える。元亀3年(1573年)の三方ヶ原の戦いにも参陣し、天正3年(1575521日の長篠の戦いの時期には遠江国二俣城[1]の守将を務めた父・芦田信守と共に、信蕃兄弟も籠城し抵抗した。

長篠の戦いで武田軍が大敗し徳川家康率いる徳川軍が反攻して来ると、僅かな手勢で堅固に守った。この間に病床にあった信守は死去する。信蕃が守将となり、弟の信幸と共に籠城が続行された。徳川方は攻めあぐね、城の周囲に複数の砦を築き兵糧攻めにすることしかできなかった。実に半年にも渡った攻防の末、結局力攻めでは落せないと判断した徳川方の申入れと、長篠の戦いで敗れた主君の武田勝頼の「甲斐に引き挙げろ」との命令により、徳川方の「全員の助命を条件」に開城するという条件で、高天神城[2]に退去した。退去の際は雨が降っており、信蕃は「開城は延期してほしい」と家康に申し出た。理由としては、「(みの)を身に付けて城を退くようでは敗残の兵のようで見苦しい、好天の日にお願いしたい」と申し出て、晴天となった3日後に引き揚げた。明け渡しに立ち会った家康の重臣大久保忠世が城内に入ると、そこはきちんと清掃され、整然としていた。大久保の報告を受けた家康も感心したと伝えられている。後に駿河田中城[3]の城将となった。

天正壬午の乱における動向

[編集]

ウィキソースに蘆田記の原文(依田信蕃の武功の記録)があります。

天正10年(15823月、長篠の戦いで多くの宿将を失って武田勝頼の求心力が低下し、離反者が出ていた中、織田信長による甲州征伐が始まると、信長に呼応した徳川家康に田中城を攻められたが、またしても堅固に備えを立てて落城の気配も見せなかった。攻めあぐねた家康は成瀬正一に命じて開城の説得に当たらせるが、信蕃はこれを拒絶。さらに籠城を続ける内に織田軍の攻撃で武田勝頼が自害し、その一族である穴山梅雪より開城を勧める書簡を受けてから、ようやく城を大久保忠世に引き渡している。開城後、家康より召抱えの要請を受けるが、「お館様(勝頼)の安否の詳細が判明されない限りは仰せに従いかねる」と答えて謝絶した。[要出典]その後、自領の春日城[4]へ帰還するも、家康の薦めで織田方の粛清を避けるべく、一時的に遠江に潜伏した(『依田記』)[5]

天正10年(15826月、本能寺の変が発生。北条氏直との戦い(神流川の戦い)に敗れた滝川一益が同20日に家臣・道家正栄の守る小諸城[6]に入ると、22日に信蕃は一益と対面し、一益を円滑に本領の伊勢長島へと退去させるために佐久・小県郡の人質を集め、一益に引き渡した[7]。この人質には嫡子・依田康国真田昌幸の母・恭雲院が含まれていたという。一益は27日に小諸城を信蕃に明け渡して旅立ち、28日には諏訪から木曽谷に入り、当初の約定通り佐久・小県郡の人質を木曾義昌に委ね、71日に伊勢長島に帰還した。917日、佐久・小県郡の人質は、義昌から徳川家康に引き渡された[7]

712日、碓氷峠を越えて北条氏直の兵が進出すると、信蕃はこれに抗し小諸城を放棄し、「蘆田小屋」へ退いて籠城した[8]。「蘆田小屋」については『依田記』では三澤小屋の別称としているが、『乙骨太郎左衛門覚書』や『武徳編年集成』では両者を別の城砦とし、三澤小屋は蘆田小屋の詰城であるとも考えられている[8]。また、「蘆田小屋」の由来は依田(蘆田)信蕃が籠城したことに由来するとする説もあり[9]、場所については蘆田小屋は春日城を指すと考えられており[9]、三澤小屋はさらに蓼科山に近い山奥に所在し、鹿曲川上流の大小屋城(押出城)を指すとする伝承があるほか[10]、同じく鹿曲川上流の大滝不動・石不動が所在する「三澤」と呼ばれる一帯の白石付近を指すとする説がある[11]

信蕃は同所でゲリラ戦を展開し、甲斐国若神子[12]まで進出していた北条軍の補給線を寸断した。また信蕃は徳川家康と連絡を密にしており、甲斐衆を主体とした家康の援軍が714日(柴田康忠、辻弥兵衛)と925日(岡部正綱、今福求助、三井十右衛門、川窪信俊など)に三澤小屋に到着している[7]928日、信蕃はそれまで北条方であった真田昌幸を調略し、1026日には春日城を奪還している[7]。加えて郡内地方において北条軍が徳川軍に敗北したことにより、1029日、戦力的には劣勢な徳川に有利な条件で、後北条氏との講和が成立した。これらの功績により信蕃は北条方の大道寺政繁が撤退した後の小諸城も任され、周辺の勢力が続々と信蕃の下に集ってきたが、これを良しとしない勢力は、北条方の信濃佐久郡岩尾城主の大井氏の下に集まった。

同年11月、信蕃は前山城 (信濃国)を攻めて、前山伴野氏伴野信守伴野君臣伴野貞長を滅ぼした。伴野貞長の弟伴野信行は、武州八王子に逃れた。

天正11年(1583221日、岩尾城大井行吉を攻略しようとするが、即座に落とせると考えた信蕃の意に反し、予想外の抵抗に遭い苦戦する。222日、実弟・依田信幸と共に敵の銃撃を受ける。信幸は同日に死去し、信蕃は翌日の223日に死去した。享年36。後に長男の松平康国(依田康国)が整備した蕃松院が墓所となる。同寺に信蕃の位牌と、信蕃夫妻の墓所とされる墓石塔が残る。(依田記』『三河物語)

家康に属した期間は短いものだったが、家康の信蕃に対する評価が非常に高いものだったことは、家督を継いだ遺児・康国に松平姓と小諸城が与えられ、そして相続を許された所領が当時の家康家臣としては最大級の6万石という大領だったことからも推測される。

子孫

[編集]

依田康勝の系譜が福井藩の重臣・芦田信濃家として、家老を輩出する高知席の17家の一席を担った。

 

 

 

 

 

信濃国(しなののくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東山道に属する。のちの長野県岐阜県中津川市の一部。

万葉集』での枕詞は「水薦苅(みこもかる [注釈 2])」。

「信濃」の名称と由来

[編集]

古くは「しなぬ」と呼ばれ、継体天皇条には「斯那奴阿比多」、欽明天皇条には「斯那奴次酒」と「斯那奴」(しなぬ)の字が充てられている。

「科野」の語源については諸説あるが、江戸時代国学者である谷川士清は『日本書紀通證』に「科の木この国に出ず」と記し、賀茂真淵の『冠辞考』にも「(一説では)ここ科野という国の名も、この木より出たるなり。」と記しており、「科の木」に由来する説が古くから唱えられている。また賀茂真淵は「名義は山国にて級坂(しなさか)のある故の名なり」とも記しており、山国の地形から「段差」を意味する古語である「科」や「級」に由来する説を残している。他に「シナとは鉄に関連する言葉」とする説もある。また級長戸辺命(しなとべのみこと、風神)説もある[1]

小林敏男は、「シナ(段差)」に由来する説を取った上で、シナノという地名の発生地を埴科・更科エリアであるとした[2]

7世紀代の信濃を記すものとして知られる唯一の木簡は、7世紀末の藤原宮跡から出土した「科野国伊奈評鹿大贄」と見えるもので、『古事記』にある「科野国造」の表記と一致する。当時は科野国と書いたようである[3]。これが大宝4年(704)の諸国印鋳造時に信濃国に改められた[4]。「科野」は和銅6年(713)の『風土記』を境に、「信野」を経て「信濃」へと移り変わっていく。長野県で最も古い「信濃国」の文字は、平成6年(1994)に千曲市屋代遺跡群から発見され、現在は長野県立歴史館に所蔵されている8世紀前半(715740)の木簡となる。『日本書紀』には信濃国について、「是の国は、山高く谷幽し。翠き嶺万重れり。人杖倚ひて升り難し。巌嶮しく磴紆りて、長き峯数千、馬頓轡みて進かず。」とある[5]

平安時代末期から鎌倉時代初期にかけて、南宋から帰朝した禅宗の留学僧によって「信州」と称されるようになった。治承3年(1179)に仁科盛家覚薗寺に寄進した千手観音像の木札に「信州安曇郡御厨藤尾郷」とあるのが初出である。

神代に見える科野国

[編集]

神代国譲りにおいて、出雲の地で建御雷神に敗れた建御名方神が、科野国の洲羽の海(諏訪湖)まで逃れ、「この地から出ないし、父の大国主神や兄の事代主神に従う。葦原の国は天の神に奉るから殺さないでくれ」と言って同地に鎮まったことが『古事記』に見える。

一方『諏訪大明神絵詞』など諏訪に伝わる伝承では、建御名方神が洲羽に侵入し、土着の洩矢神とそれぞれ藤蔓と鉄鑰を持って争い、建御名方神が勝利したと伝わる。この後、建御名方神の後裔は大祝の諏訪氏に、洩矢神の後裔が神長官の守矢氏になったとされる。

また建御名方神が八坂刀売神を娶って生まれた御子神達[注釈 3]が、科野国の発展に大きく貢献したとされる。

歴史

[編集]

古代

[編集]

史書によると、崇神天皇の時代に神武天皇後裔の多氏族である武五百建命が初代科野国造に任じられたと伝わる。信濃国の国造についての実像は不明であるが、広大な信濃を1氏族のみが支配していたとは考え難く、出雲国出雲国造のように国内で突出した存在がいたのではなく、讃岐国のように複数の氏族が国造として任命されており、欽明天皇の宮に舎人として集ったことに由来する金刺氏や、敏達天皇の宮に舎人として集ったことに由来する他田氏のような、疑似的同族関係を結んでいたと考えられる[6]

古墳時代には、倭系百済官僚として科野氏(ウジ)を持つ人物が史書に見える。科野国造軍として朝鮮に出兵した国造の子弟が、現地人の妻との間に残した子孫であるとされる[7]。ただし、「物部莫奇武連」「紀臣奈率彌麻沙」のような他の倭系百済官人とは異なり、を有している様子が見られないので、ここでの「シナノ氏」は「科野国造の一族」という意味ではなく、氏姓制度が成立する以前に朝鮮に渡った信濃の人間が「シナノの人の〇〇」といったニュアンスで呼ばれていた(=シナノは氏ではない)とする説も存在する[8]。信濃の人間が外交に従事したのは、ヤマト王権内で信濃の人間が一定の役割を担っており、そのようになったのは、渡来人によって信濃に軍事行動の要である馬の文化が伝えられたからであると考えられる[6]。現在の伊那市手良(てら)中坪には「大百済毛・小百済毛(おおくだらげ・こくだらげ)[9] 」という地域があるが、この地名は百済からの渡来人によって開発されたという伝承がある。また、手良という地名も、『新撰姓氏録』に見える「弖良公」に由来するという[10]

現在の長野市篠ノ井にある長谷寺やその境内にある長谷神社は、小長谷部が創建したと考えられている。小長谷部氏は、5世紀末期から6世紀初期に存在した可能性がある武烈天皇部民とされる。『日本書紀』によれは、武烈天皇3年には、大伴室屋が信濃国の男丁(よぼろ)を集めて城を作るように武烈天皇から詔を受けているが、この「信濃国の男丁」は小長谷部のことであると考えられている。また、小長谷部の人物として名前が残っているのは、天平勝宝4年(752)に正倉院に奉納された白布に記された「小長谷部尼麻呂」がいる[11]。さらに、姨捨山(おばすて)も小長谷部(おはつせべ)に由来するとされる。6世紀後半には欽明天皇の時代に科野国造後裔の金刺舎人直敏達天皇の時代に同じく科野国造後裔の他田舎人直が成立し、後世に諏訪大社下社・上社の大祝家や信濃国内の複数の郡司を務めた。その一方で、安曇郡司は安曇部氏が務めた。

信濃国に存在した名代部曲は、史料に見えるものは刑部小長谷部金刺舎人他田舎人生王部物部尾張部神人部である。その他には屋代古墳群出土の木簡に見える金刺部他田部若帯部 [注釈 4]穂積部守部酒人部宍部宍人部三家人部石田部戸田部や、それ以外の木簡に見える私部 [注釈 5]倉橋部 [注釈 6]丸子[注釈 7]久米舎人[注釈 8]大伴安曇部建部爪工部辛犬甘がいる[12]允恭天皇期の刑部、武烈天皇期の小長谷部、欽明天皇期の金刺舎人などの名代は、安曇郡高井郡を除く信濃国全ての郡に分布している[2]。信濃国におけるウジ名や部名の特徴として、大宝元年(701)の『御野国戸籍』など、東山道の隣国である美濃国に分布するものが見えることが挙げられる。特に、若帯部、守部、穂積部などは、美濃国以外にはあまり例が知られていない。以上の部の設定は、古くても5世紀末、その多くは6世紀前半以降に順次設定されていったと考えられる[12]

飛鳥時代中期の皇極天皇3年(644年)、本多善光により開基された善光寺は、諏訪大社と並び今日においても全国的な信仰の拠り所となっている。大化元年(645)には、大化の改新によって令制国が発足し、それまでの国造の支配に依拠してきた地方支配を改め、「」と呼ばれる行政区画を全国に設置した。信濃国は当初、伊那(伊奈)評諏方(諏訪)評束間(筑摩)評安曇(阿曇)評水内評高井評小懸(小県)評佐久評・科野評(後に更級埴科に分立)などが成立していたと考えられ[13]、現在の木曽地方を欠く大部分を領域とした。これらの評は、大宝律令の成立後、に改組された。越国に大化3年(647年)に渟足柵が、大化4年(648年)に磐舟柵が作られて科野から柵戸が派遣された。また、斉明天皇6年(660年)12月には、科野国が、の大群が巨坂を西の方向に飛び越えて行ったことを朝廷に報告した[14]とあり、それに先立つ推古天皇35年(627年)5月には、蝿の集団が信濃坂を越えて東の方へ行き、上野国で散り失せるとあることから[15]、蝿に関して対応する特徴的な記述がされている。

天武天皇元年(672年)の壬申の乱には、科野の兵が土師馬手らに従い、大海人皇子(天武天皇)の側に立って活躍した。天武天皇14年(685年)には高田新家らに「束間温湯」(つかまのゆ)に行宮(あんぐう)を造らせ、朱鳥元年(686年)の大津皇子の変の後、朝廷が一時的に安曇郡への遷都を計画し、箭口音橿を遣わしている。持統天皇5年(691年)の「須波神」「水内神」の勅祭など、科野は大和朝廷にとって注目すべき地の一つであったことが分かる。大宝2年(702年)12月に、始めて美濃国に木曾山道を開くという記述があり[16]、和銅6年(713年)7月には、美濃国と信濃国の国境の道が険阻であり、往還が難しいということで、木曽路が開通している[17]。また、これらの記述の他にも、「信濃路は 今の墾道刈株に 踏ましなむ はけ我が背」(万葉集 14-3399 相聞 東歌)と詠まれており、飛鳥時代の末期からは、信濃国における官道の開発がすすんでいた。

奈良時代には、左馬寮の管轄下で望月牧など、官営による16勅旨牧と、それを統括するための牧監庁が置かれた。養老5年(721626に南部を諏方国として分置したが、天平3年(73137に合併して元に復した。養老3年(719)以後は美濃按察使の管轄下に置かれた。8世紀前半のものとみられる屋代遺跡出土の木簡には、「埴科郡大穴郷高家里」と「守部安万呂」の名前が併記されており、この「高家(たかやけ)」は、大きな高い建物の宅(屯倉)の意味で、ここに住んでいた守部安万呂は屯倉の管理者であったと考えられる[2]神護景雲2年(768)には、各々の善行に対して朝廷から褒美を得た全国9人のうち、信濃国からは水内郡刑部智麻呂と倉橋部広人や更級郡建部大垣伊那郡他田舎人千世売4人までもを占めた。

奈良時代末期から平安時代初期にかけては、信濃国内の渡来人の改姓が続々と進んだ[注釈 9]弘仁8年(817年)には最澄東山道神坂峠の信濃側に広拯院を建立した。初期荘園の立荘と並行して、仁和元年(885)には公営田の設置が見られた。同4年(888)には前年に発生した仁和地震の影響により八ヶ岳の山麓が大規模に崩壊し千曲川を約1年に渡って堰き止め、日本最大規模とされる河道閉塞を形成した。これはその後決壊し、「仁和大水」と言われる大洪水を起こした。この被害は100km以上下流まで及んだとされる。そして千曲市では屋代条里田が4mの堆積砂、その対岸に当たる長野市の石川条里田は2mの堆積砂の下に各々発見されている。千曲川沿いに整然と整備されていた国有地(条里田)は広大な荒野となり、その後の開墾の過程で私有地化され中央貴族やそれに連なる大寺社の荘園化が進んだ。また、信濃国は罪人の配所に定められ、中流の範囲とされた[24]。なお、元慶3年(879年)9月に鳥居峠をもって美濃・信濃の国境と定められた。

平安時代の中期には桓武平氏平将門が、東山道を京に向かう平貞盛に追撃の兵を差し向け、小県郡国分寺付近で貞盛に助勢した滋野氏や小県郡の郡司他田氏と合戦に及ぶなど(938229日)、この時代における平氏内紛の舞台ともなった。また清和源氏経基王以来、信濃守に任官される者が多く、源氏の土着が相次いで見られた(信濃源氏)。この頃には古今和歌集大和物語集、今昔物語集によって信濃に姨捨伝説の存在することが知られ月見名所としても姨捨の名を高める。古代の律令体制から中世の権門体制に移行する中で、院政の時代になると、院宮分国制の進展により白河法皇鳥羽法皇の知行国となり、その後は公卿に引き継がれた。11世紀後半以降には最高権力者である院や摂関家への寄進地系荘園の立荘が本格化し、国衙領は縮小する傾向にあった。1108(天仁元年)には、浅間山で天明噴火の数倍と言われる規模の大噴火(天仁噴火)が発生し、山麓では大火砕流によって複数の集落が埋没した可能性がある。

平安時代末期に入ると、源氏内紛による久寿2年(1155年)の大蔵合戦で敗れた河内源氏源義賢の遺児源義仲が木曾谷の中原兼遠の元に匿われた。保元元年(1156年)の保元の乱平治元年(1159年)の平治の乱に際して、滋野氏、諏訪氏片桐氏平賀氏など多くの信濃武士は、源義賢と敵対した兄の源義朝に従った。ただし、崇徳上皇の近臣であった村上氏は、信濃に所領を持つ伊勢平氏平家弘らと共に上皇方についた。後白河法皇の第三皇子以仁王は信濃を含む東山・東海・北陸道の武士に平家追討の令旨を発し、源行家によって、新羅三郎源義光の子孫である平賀盛義義信父子(平賀冠者)、岡田親義(岡田冠者)、そして源(木曾)義仲に伝えられた(『平家物語』)。義仲は信濃の兵を統べて挙兵し、横田河原の戦いで平氏の軍勢を破ると、以仁王の遺児北陸宮を奉じて北陸道経由で入洛したが、この動きに対し、源義朝の嫡男源頼朝北条時政をして伊那や諏訪の武士を糾合させ、黄瀬川の戦いに出陣させた。村上氏、平賀氏らも頼朝に従った。その後、義仲は西国の平家追討のため京を離れたが水島の戦いで敗れ、さらに上洛した頼朝の弟範頼義経らに近江国で討伐された(粟津の戦い)。平安時代から鎌倉時代に、美濃国から木曽地方を編入し、筑摩郡の一部としたが、その正確な時期は不明で、室町時代後期の木曽地方は公式にはまだ美濃国に属しており戦国時代にまで下る可能性があるとする説[25]もある。

中世

[編集]

鎌倉時代初期には関東御分国1つとして鎌倉幕府の知行国であった。その後の知行権は公卿興福寺東大寺等の有力寺院の手に移るが、在庁官人国人衆の幕府御家人化が進み、京都の遙任国司や知行国主、荘園領家らの影響力は薄れ、鎌倉幕府の介在なしには税の徴収も困難となり、「国司その用あてざる国」と揶揄された(『明月記』)。戦国時代まで存在した守護職には比企氏執権北条氏小笠原氏諏訪氏吉良氏上杉氏斯波氏武田氏らがいた。

幕府樹立後、初代の信濃守護には比企能員が就任し、信濃国目代を兼帯して国衙機構も掌握したが、建仁3年(1203年)の比企能員の変で北条時政に滅ぼされ、将軍源頼家の近習で、十三人の合議制に対抗する側近であった中野能成小笠原長経も連座した。時政は比企氏以外にも幕府重臣の粛清を進め、元久2年(1205年)には平賀義信の次男平賀朝雅を傀儡の新将軍として擁立しようとしたが、失脚した(牧氏事件)。建暦3年(1213年)、御家人泉親衡が、信濃武士と結んで頼家の遺児千寿丸を将軍に擁立し、信濃守護も兼帯する執権北条義時の打倒を図る陰謀が発覚した(泉親衡の乱)。承久3年(1221年)の承久の乱では幕府の仁科盛遠への処遇も乱勃発の一端となった。信濃武士の多くは幕府方につき、東山道軍の武田信光小笠原長清に従い、後鳥羽上皇方の仁科氏らは北条朝時の北陸道軍に敗れた。幕府方についた信濃武士は新補地頭として西国に所領を得たが、それまで東国に限定的であった幕府の権威を浸透させる目的で西遷を余儀なくされた者も多かった。また幕府が朝廷に対して優位に立ち、信濃国内における北条氏の所領も関東御領の春近領[注釈 10]を中核として拡大すると、宝治元年(1247年)の宝治合戦で武功を挙げた諏訪盛重内管領を務めた諏訪盛経に代表されるように、北条氏の得宗被官御内人)として活躍する者も現れた。得宗専制が強化されてゆく中、弘安8年(1285年)の霜月騒動では幕府の有力御家人安達泰盛の姻戚であった伴野氏や、小笠原氏が巻き込まれ、逼塞を余儀なくされた。

この時代の仏教の信者で多いのが臨済宗曹洞宗などの禅宗一向宗浄土宗(禅林寺派)などである。特に塩田流北条氏の塩田荘は「信州の学海」(『仏心禅師大明国師無関大和尚塔銘』)と称されるほど、禅宗文化の中心地となった。弘安年間、興福寺が知行国主であった時、目代に補任された願舜坊定尭なる僧は信濃からの検注物や年貢を横領し、弘安7年(1284年)、本所法である「満寺評定」によって、国外追放刑となった。延慶2年(1309年)の国衙領の検注の調進は国司目代が行っているが、応安6年(1373年)には守護使に代わっている[26]。このように信濃においても国衙は次第に形骸化され、国司の権能は守護に遷移していったことがうかがえる。

鎌倉時代末期、元弘元年(1331年)からの元弘の乱では、信濃の御家人は、信濃守護を兼帯する探題北方北条仲時に従い、後醍醐天皇の拠る笠置山や赤坂城を攻めた(『光明寺残篇』)。しかし元弘3/正慶2年(1333年)に後醍醐天皇が鎌倉幕府追討の宣旨を下し、足利尊氏新田義貞ら幕府の有力御家人が幕府から離反すると、小笠原貞宗もこれに従って鎌倉攻めに加わり、後に新たな信濃守護に補任された。一方、北条仲時は京都から逃る途中で自害に追い込まれた。東勝寺合戦では御内人の諏訪直性が得宗北条高時に殉じて自害するが、高時の遺児北条時行は諏訪氏に匿われた。建武2年(1335年)、諏訪神党諏訪頼重や滋野氏・仁科氏らは時行を奉じて挙兵(青沼合戦)し、鎌倉を奪還(中先代の乱)したが、わずか20日で鎮圧され、諏訪氏らは自害し、時行は逃亡した。翌年に入ると北条時興が南朝に呼応して京都から麻績御厨に入って挙兵し(『市河家文書』)、小笠原貞宗や村上信貞の軍勢と衝突したが破れた。その後は吉良満義が守護となり、北条残党一掃のため吉良時衡が派遣された。

後醍醐天皇の建武の新政では公家中心の政治に対して武士の不満が高まった。延元の乱で尊氏が建武政権から離反すると、天皇方は鎌倉に向けて東海・東山両道に大軍を発し、忠房親王率いる東山道軍が大井城を落城させた。尊氏の新帝擁立で朝廷が二つに分かれた南北朝時代に入ると、南朝方の諏訪氏仁科氏香坂氏祢津氏望月氏海野氏らと北朝方の小笠原氏や村上氏高梨氏との間で抗争が繰り広げられた。暦応3/興国元年(1340年)には、北条時行が遠江国から伊那谷に入り大徳王寺城に拠ったが、小笠原氏がこれを破った。観応元年(1350年)の観応の擾乱では南朝方足利直義派の諏訪直頼らも呼応して挙兵し、高師冬を討つなどの戦功を挙げ、直義が守護の任免権も掌握すると、観応2年(1351年)には直頼が信濃守護に補任されたが、尊氏派が勢力を盛り返すと薩埵山体制により守護は小笠原氏に復した。

南朝方は後醍醐天皇の皇子で、興国5年(1344年)から信濃に入国した征夷大将軍宗良親王(信濃宮)を奉じて、香坂高宗の拠る伊那谷に一大拠点を築いた。文和元年(1352)には親王が信濃の南朝勢を糾合して武蔵野合戦に出陣したが敗北し、文和4年(1355年)の桔梗ヶ原の戦いでも小笠原氏に敗北すると、信濃における南朝勢力の衰微は決定的となり、諏訪氏や仁科氏なども北朝側に寝返って、ついには将軍足利義詮に従属するようになり、文中3年(1374年)親王も信濃を去った。信濃は暦応2/延元4年(1339年)から康永3/興国5年(1344年)までと、貞治4/正平20年(1365年)から応安3/建徳元年(1370年)まで、室町幕府から鎌倉府の管轄に移行したが、再び幕府に取り戻された。幕府と鎌倉府の融和によって、鎌倉府の推挙で上杉朝房が守護に任じられたが、将軍足利義満と公方足利氏満が対立すると、信濃は鎌倉府監視の最前線となり、鎌倉時代とは一変して、京都の政情が大きく影響するようになった。天授5/康暦元年(1379年)の康暦の政変での大幅な守護改替により斯波義種が守護に補任された。

明徳3年(1392年)の明徳の和約による南北朝の合一後、幕府は在地豪族の荘園や公領の横領・濫妨を守護に命じて停止させようとしたため、複雑な対立関係が発生し、斯波氏に対する国人衆の反乱が起きた。その後、明徳の乱応永の乱で武功を上げ信濃守護に復した小笠原氏と在地豪族の代表格村上氏が、国人衆(大文字一揆)を巻き込んで争い(大塔合戦)、小笠原長秀は京都へ追放された。応永9年(1402年)信濃は室町幕府料国(直轄地)となり、政所の直接支配下に置かれ、守護職は空白化した。その間、幕府代官として細川氏が派遣されたが、応永10年(1403年)から翌年にかけて、村上氏や高梨氏を中心とした国人衆の反乱が起きた。その後は将軍と鎌倉公方、鎌倉公方と関東管領との対立が大きく影響を及ぼし、強力な支配権を持つ自立した大名が登場することはなかった。将軍足利義教により信濃守護に復し、上杉禅秀の乱永享の乱結城合戦などで活躍した小笠原政康は、公方足利持氏派の村上氏 を抑えて信濃を一時平定したが、嘉吉の乱で義教の後ろ盾を失い、政康の没後、小笠原氏の家督相続と守護叙任に幕府有力者の畠山氏と細川氏の対立関係が絡んで、小笠原氏は三家に分裂した。幕府による享徳の乱への出陣命令にも応えられないほど衰亡し、守護権力も地に堕ち、上杉房定に半国守護を抑えられた。

室町末期にかけて下克上の様相を呈し、在地豪族の諸勢力が拮抗を続けた。埴科郡を拠点に北部や東部に勢力を拡大する村上氏、諏訪大社の信仰を背景とする諏訪氏、信濃守護家として幕府と強い繋がりを持つ小笠原氏木曽谷に割拠する木曾氏らがその代表格であり、この4氏を後世「信濃四大将」と呼ぶ。他にも小笠原一族で守護代を務め、幼少期の古河公方足利成氏を庇護した大井氏越後長尾氏と縁戚関係を結ぶ高梨氏、関東管領山内上杉氏を後ろ盾とした海野氏、逸早く土着し信濃源氏の祖となった井上氏、京武者として朝廷と強く結びつき、安曇郡に拠って一大勢力を築く仁科氏などの旧来の名族も健在であった。応仁元年(1467年)からの応仁の乱では仁科氏、木曾氏、伊那小笠原両氏、諏訪大社上社などが東軍(細川勝元)、府中小笠原氏が西軍(山名宗全)についた。長享元年(1487年)の長享・延徳の乱に始まる幕府の六角氏征伐では、仁科氏、木曾氏、村上氏、海野氏、小笠原氏らが将軍足利義尚足利義稙に従って出兵した。

戦国時代には隣国甲斐国越後国との関係が深くなった。諏訪氏は甲斐守護武田氏と同盟を結び天文10年(1541年)には諏訪氏、村上氏は武田信虎と共同して小県郡へ侵攻し海野氏を駆逐するが(海野平の戦い)、同年に甲斐で晴信(信玄)への当主交代が起こると武田と諏訪の関係は手切となり、諏訪大社上社(諏訪氏)と下社(金刺氏)、諏訪宗家と高遠諏訪家の対立が絡んで、晴信による信濃侵攻が本格化する。武田氏は諏訪頼重仁科盛政を滅ぼし、守護小笠原長時村上義清らを追い、木曾義康真田幸隆を従属させ、佐久郡において関東管領上杉憲政を破ると(小田井原の戦い)、信濃の大半を領国化し有力国衆を家臣団として従えていくが、それに対して、高梨氏や井上氏など北信国衆は越後の長尾景虎(上杉謙信)を頼り、武田・長尾(上杉)間の北信・川中島を巡る川中島の戦いへと展開する。弘治3年(1557年)の第三次合戦後には将軍足利義輝は甲越間の調停を行い、翌弘治4年に晴信は信濃守護に補任されている。川中島の戦いは最大の衝突となった永禄4年(1561年)の第四次合戦を契機に収束し、その後も甲越関係は対立し北信地域は最前線として緊張状態にあったが、以後は安定して信濃の武田領国化が続く。晴信は元亀2年(1571年)、三河国山間部を攻略する過程で、同国加茂郡から現・根羽村の地域を信濃国に編入し伊那郡の一部とした。

武田晴信の死後、その後を継いだ武田勝頼上杉景勝と同盟を結び、信濃を統一支配したが、天正10年(1582)、織田信長に敗れて滅亡し、高遠城仁科盛信らが戦死した。その後は織田家の版図に加えられ、森長可(北信)、滝川一益(東信)、毛利長秀(伊那)、河尻秀隆(諏訪)、木曾義昌(安曇、筑摩)らに与えられた。しかし約三ヵ月後には本能寺の変が起き、信濃においても一向一揆が発生したことで織田家の勢力は瓦解し、権力の空白地帯となった信濃には徳川氏後北条氏・上杉氏の勢力が進出した(天正壬午の乱)。やがて後北条氏は徳川氏と和解・同盟して領地交換により関東へ撤退した。

この結果、北信濃四郡は上杉氏、それ以外は徳川氏の領国となったが、両者の対立の狭間で真田昌幸が自立し第一次上田合戦を生じた。この対立はのちに徳川家康豊臣秀吉の対立に転じ、家康が秀吉と和睦し後に臣従することで、天正18年(1590)に関東に移封されると、徳川方の国衆も随行し、譜代大名旗本となった者も多かった。信濃は豊臣方の武将の支配下に収まり、仙石秀久(佐久)、石川数正(安曇、筑摩)、毛利秀頼(伊那)、日根野高吉(諏訪)が入封し、木曽は秀吉の蔵入地となった。さらに慶長3年(1598年)に北信濃四郡を治めた上杉景勝が越後から会津に移封されると、北信濃には関一政田丸直昌が入封したが、秀吉の死後、家康は両者を美濃に移し、代わって配下の森忠政を入封させた。

真田氏はかつては徳川氏に仕えながら豊臣氏の配下に転じ、関ヶ原の戦いにおいて西軍方についたため、徳川秀忠の軍勢は、小山評定から関ヶ原に向けて中山道を進軍する途上、真田昌幸信繁父子の居城上田城を攻めたが敗れた(第二次上田合戦)。しかし石田三成ら西軍首脳が本戦で敗れたため、昌幸は高野山に流罪となった。その後、東軍の真田信幸が上田から松代城に入った。西軍の真田信繁は豊臣方について後年の大坂の陣で武名を挙げた。

近世

[編集]

江戸時代は、途中廃絶も含めて松代藩等大小計19藩が置かれた(廃藩置県時点では松代藩の他、松本藩上田藩飯山藩小諸藩岩村田藩龍岡藩田野口藩)、高島藩高遠藩飯田藩須坂藩)。また木曽地方は全域が尾張国名古屋藩領(山村代官所)であり、伊那郡内には美濃国高須藩(竹佐陣屋)及び陸奥国白河藩(市田陣屋)、高井郡内には越後国椎谷藩(六川陣屋)、佐久郡内には三河国奥殿藩(後に藩庁を信濃に移し田野口藩となる)の飛び地があった。その他善光寺戸隠神社諏訪大社等の寺社領、天領支配のための中野中之条御影飯島塩尻5つの代官所伊那衆三家を含む旗本知行所(維新まで存続したものは12ヶ所)などが置かれた。

正保元年(1644年)、幕府は正保国絵図の信濃分の作成を松代藩、上田藩、飯山藩、松本藩、飯田藩に命じた。この時代には貞享3年(1686年)の松本藩貞享騒動宝暦11年(1761年)の上田藩宝暦騒動など大規模な農民一揆が発生した。また、主に北信濃の豪雪地の農村を中心に多くの出稼ぎ労働者を江戸に送り出し、彼らは「信濃者(しなのもの・しなのじゃ)」、「おシナ」あるいは暗喩で「椋鳥」と呼ばれ、「大飯喰らい」「でくのぼう」の象徴として江戸川柳狂歌に多く詠まれることとなった[27]天明年間の浅間山大噴火天明の大飢饉も農民の都市への逃散の一因を成した。文化13年(1816年)には天領代官所に信濃国悪党取締出役が設置され、天保年間からは天領代官が大名・旗本領に立ち入り、他国から流入する無宿者の取締りに従事する事例が増加した。弘化4年(1847年)には善光寺地震が発生し、死者8000-12000人と広範囲に大規模な被害が及んだ。その一方で五郎兵衛用水拾ヶ堰などの灌漑用水の開削によって、新田開発が進み、信濃一国の石高は慶長3年(1598年)には約40万石であったものが、天保5年(1843年)には約75万石まで増加した。また寛文年間ころから農閑期の農民が担い手となり、中馬という新たな内陸交通手段が発達したが、宿場町伝馬制を圧迫し、軋轢を生じたため、明和元年(1764年)に幕府は裁許状を発し、条件を付けて公認した。

幕末になると、東海地方から南信濃に平田国学が移入され、水戸学の影響も加わって、俄かに勤王攘夷思想が盛んになった。嘉永6年(1853年)に黒船が来航し、幕府から松代藩は品川台場の警固、松本藩、飯田藩、田野口藩は浦賀の警固を命ぜられ、重い負担を強いられた。文久元年(1861年)の和宮の中山道下向では松代藩、上田藩、高遠藩が乗輿警衛を、その他諸藩が沿道守衛を命じられた。元治元年(1864年)には天狗党の乱が関東から京へ向けて信濃国内を通行したが、実際に交戦したのは高島藩、松本藩のみで、それ以外の藩は天狗党に畏怖し通行を黙認した。同年、開国派の松代藩士佐久間象山は京都で尊王攘夷派に暗殺された。慶応3年(1867年)には東海地方から「ええじゃないか」と御札降りの騒動が信濃国全体に波及し、庶民の間に世直しの機運が醸成された。

戊辰戦争では外様の松代藩・須坂藩はいち早く倒幕を表明、その他の譜代諸藩は、当初日和見の態度をとる藩が多く、積極的な佐幕論は見えない中、次第に官軍に恭順していった。慶応4年(1868)官軍より信濃諸藩に赤報隊の捕縛命令が下り、下諏訪宿相楽総三らが処刑された。4月下旬、越後から進出した衝鋒隊飯山城下を占領すると、信濃諸藩は東山道先鋒総督府の岩村精一郎の軍監に入り、連合してこれを撃退し、そのまま北越戦争会津戦争に転戦した。賞典禄は松代藩3万石、須坂藩5000石、松本藩3000石、上田藩3000石、金禄は奥殿藩5000両、高遠藩2000両等であった。明治維新に前後して、折柄の贋金の流通による経済の混乱も相まって信濃各地で木曽騒動上田騒動会田・麻績騒動松代騒動などの世直し一揆が多発し、中でも最大規模の中野騒動では県庁舎が焼失し、県庁の長野移転の契機となった。

 

コメント

このブログの人気の投稿

近代数寄者の茶会記  谷晃  2021.5.1.

安曇野  2011.11.8.  臼井吉見

新 東京いい店やれる店  ホイチョイ・プロダクションズ  2013.5.26.