アウシュヴィッツ脱出 Jonathan Freeland 2025.7.2.
2025.7.2. アウシュヴィッツ脱出 命を賭けて世界に真実を伝えた男
THE
ESCAPE ARTIST: The Man Who Broke Out of Auschwitz to Warn the World
2022
著者 Jonathan
Freeland 1967年イギリス生まれ。作家。英国ガーディアン紙のコラムニスト、元ワシントン特派員。2002年に年間コラムニスト賞、2016年に年間コメンテーター賞を受賞。2014年にはジャーナリストとしてジョージ・オーウェル賞を受賞した。BBCラジオ4で歴史番組のプレゼンターを務める。これまで12作を刊行。サム・ボーン名義では英国サンデー・タイムズ紙ベストセラー第1位となった1作を含むミステリーを9作刊行。ロンドン在住。
訳者 羽田 詩津子 翻訳家。お茶の水女子大学英文科卒。訳書に『ゲットーの娘たち』ジュディ・バタリオン(国書刊行会)、『ナチスから図書館を守った人たち』デイヴィッド・フィッシュマン(原書房)、『フランス人はなぜ好きなものを食べて太らないのか』ミレイユ・ジュリアーノ(日経BP)、『アクロイド殺し』アガサ・クリスティー(早川書房)など多数。
発行日 2025.4.25. 第1刷発行
発行所 NHK出版
はじめに
1986年の9時間半を超えるドキュメンタリー《ショア》(ヘブライ語で「絶滅」の意)の中で、インタビューされたうちの1人が19歳のルドルフ・ヴルバで、人類の歴史におけるこの上ない恐怖について証言。ホロコーストの生還者の中でも異彩を放っていた。アウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所から逃げ出した
フェイクニュースの流れる現代、真実そのものが攻撃される時代に生きている。そういう時代だからこそ、あらゆる犠牲を払っても、山のような嘘に隠蔽された真実を世間に知らせたいと願った男について、改めて考えるようになった
当時、ヴァルター・ローゼンベルクと呼ばれていた青年は、その後ルドルフ(ルディ)・ヴルバとなり、ゲルタと結婚。ゲルタが93歳で生存。往復の手紙を紐解き、全てを語ってくれたが、その数日後ゲルタも逝去。2度目の妻ロビンはニューヨークにいた
ヴルバの名は、アンネ・フランク、オスカー・シンドラー、プリーモ・レーヴィ(アウシュヴィッツからの生還者。体験記『これが人間か』の著者)に匹敵する、ホロコーストの象徴
プロローグ
l 1944.4.7.
ヴァルターとフレートは、2年の周到な準備のあと脱出に挑戦
囚人が行方不明になり、脱走を試みたと推測されると、72時間は監視塔にマシンガンを持った兵を配置するが、それ以降はより広範囲の捜索となりゲシュタポの責任となって、収容所の非常線は解かれ、監視はいなくなるので、通電フェンスの外側の労働スペースに3日隠れられれば警備がいなくなり脱出できる。これが2人が2年間で見つけたアウシュビッツの警備システムの欠陥
第1部
準備
第1章
星
1924.9.11. スロヴァキア西部でヴァルター誕生。幼少からユダヤ人祖父母に厳格なしきたりに則って育てられた。ギムナジウムでは無宗教を選んだが、1938年のミュンヘン協定以降、状況は一変。法律的に13歳のユダヤ人として分類され、教育は終了
迫害の中で、ヴァルターはユダヤ人ティーンエイジャーの仲間に入り自習を続け、リーダー的存在に
1942年2月、16~30歳の健康なユダヤ人男性に出頭命令が下り、ヴァルターは翌月ハンガリー経由でイギリスへの亡命を企てる
第2章
五百ライヒスマルク
脱出に失敗し、スロヴァキアの国境警備隊に捕まり、労働収容所に入れられる。ユダヤ人を追放したがったスロヴァキアは、ユダヤ人をナチスに1人500ライヒスマルクを払って引き渡す。ユダヤ人は二度と戻ることはなく、ユダヤ人の土地・家屋はスロヴァキア人の所有となる。こうして何万ものユダヤ人がポーランドの収容所に移送
ヴァルターは、仲間を探して脱出を試みたが、逃亡によって国中のお尋ね者となり逮捕
第3章
移送されて
どこを走ったのかもわからないままに移送列車は走り、やがて15~50歳の健康な男だけが降ろされ、ルブリン郊外のユダヤ人ゲットーに連れていかれる。正式名称は強制収容所
第4章
マイダネク
身ぐるみ剥がれ消毒されて収容所に入る
農作業要員の募集があり、逃亡のチャンスと考え応じたが、それはアウシュビッツへの移送で、’42年6月30日アウシュヴィッツに到着
第2部
アウシュヴィッツ
第5章
我々は奴隷だった
収容所は二重の通電フェンスに囲まれ、外周にも内側と同じ様に監視塔がずらっと並び、独自の防御システムがあった。ここでは、健康で強靭でいることが何よりも重要だと悟る
毎朝、収容所の外にある巨大な工業団地に向い、そこで働かされる
脱出の抜け穴を探すが、あるのは恐怖だけで、目標はただ生き延びることだけ
激しい労働と、荒っぽい監視に、半数は死去
第6章
カナダ
アウシュヴィッツの「カナダ」は別の国で、別世界。富が集まるアウシュヴィッツの黄金郷
選別を生き延びた中にスロヴァキア語を聞きく。その男は歯科医、5カ月前から収容されていて、馴染みの監視人カポに取り入って、カナダの労働部隊である整理隊での仕事にありつく。一般の被収容者とは切り離され、別世界で特別扱いされ、囚人から取り上げた所持品の選別を行う仕事に従事。整理隊のメンバーが「中に何か貴重品がないか」と始終尋ねたところから、そのドイツ語の頭を取って「カナダ」と名付けられた
収奪品の山を見ながら、収容所で何が行われているか知るのには時間はかからなかった
最終的に、彼は自分が被収容者で奴隷労働者だけでなく、「死の工場」の収監者であることに気づいた。ナチスがユダヤ人の絶滅を決意し、ここで実践しているのに気づく
第7章
ユダヤ人問題の最終解決
アウシュヴィッツは、ポーランドの政治犯収容のためにドイツ軍によって名付けられたが、施設の司令官ルドルフ・ヘスは急増する死者のために死体焼却場を設置。親衛隊町ヒムラーは、収容所を利用した金儲けを企み、奴隷労働力を使って第三帝国の富を生む場所にしようと計画。ダッハウの強制収容所と同じスローガン「働けは自由になる」を掲げ、収容所を近隣のビルケナウに拡張して、男女収容者15万に強制労働を命じる
さらに’42年7月に追加された役割が「ユダヤ人問題の最終解決」。ユダヤ人対応担当の議長ハイドリヒが主導したユダヤ人絶滅計画の一環。「労働を通じた絶滅」により死ぬまで働かせる。最初はポーランド北部のヘウムノ強制収容所で、真珠湾攻撃の翌日開始
ヴァルターは、カナダで見たものから、自分が殺人施設の被収容者で、絶滅されようとしている集団の1人だと認める
第8章
ビッグ・ビジネス
ナチスは、アウシュヴィッツを大量殺戮に加えて、経済の中心として機能させ、利益を上げたがった。そのためにカナダでの任務は営利事業となる。移送者から強奪した品々を本国に送り、有効活用する。宝石・貴金属類や外国通貨に加え、髪の毛や金歯まで、ポーランド中の強制収容所からの儲けは現在価値で20億ドルに上る
カナダでの作業にはそれなりの役得もあり、それによって収容所で様々な取引が発生し、被収容者の生活にも差が生じ、序列ができる
第9章
荷下ろし場で
ヴァルターは、整理隊でカポのための運び役となったのが露見して命拾いをした後、駅の荷下ろし場に回される。移送者から荷物を取り上げ、貨車を空にする仕事
狂気の中でもヴァルターは周囲の全てを観察することに集中、一旦パターンを発見すると、新たに、今起こっていることを世の中に知らせようとする固い決意が沸き上がる
ナチスが目の前に繰り広げている犯罪は、大規模な恐るべきごまかしに基づいていることに気づく。絶滅計画のあらゆる段階で、何度も犠牲者たちに嘘をついてきた
移送を「東への再定住」と偽り、殺戮は婉曲表現で偽装され、毒ガスすら無臭に変えられた
ナチスが移送者に最後まで運命を知らせないように躍起になっていたのは、殺人システムを抵抗なしにスムーズに機能させるためで、観察を通じてからくりを見抜いたヴァルターは、殺戮を阻止する第1歩は、ユダヤ人に真実を知らせることで、脱走して警告しなければならないと考え、新たな使命を感じる
第10章
記憶する男
プラットフォームで荷物を運んでいる時に、板の隙間から敷板と地面の間に3mほどの空間があるのを発見。荷下ろし場はアウシュヴィッツとビルケナウの中間にあり、各収容所の警備エリアの外にある。空間に潜んで脱出する計画を立てるが、不可能だと知る
ヴァルターは、日々殺戮を目にし、自分がその協力者であることを知りながら沈黙を余儀なくされ、何もしないでいることに意味が欲しかった。「生存者の罪悪感survivors’ guilt」という言葉は知らなかったが、自ら感じ取り、自らの手で消そうとした
新たな使命が芽生えた頃、目にした全てを記憶した。整理隊にいることで、他の被収容者の目に触れない、ガス室などの場所を目の当たりにした
第11章
ビルケナウ
ヴァルターの脱出計画を助けてくれる人々との出会いの仲介者は、チフス菌を持つ虱だった。チフスに罹ったことで、地下組織の存在を知るが、地下組織は一種の互助会としてメンバーだけに安定をもたらす団体で、賄賂と恐喝を活用し、暴力的な元犯罪者のカポを政治犯に置き換えることで、収容所の死者は劇的に減少し、収容所を人間らしい場所にしようとし成功しつつあったが、「死の工場」の破壊や妨害までは活動に含まれない
第12章
「これまで楽しかった」
'43年夏、新たなチフスの蔓延で、ヴァルターは死亡者の記録係の仕事に就く。上司は同郷で地下組織のメンバー。すぐに助手から昇格し、ナチスが悪臭を嫌って死体置き場に近づかなかったことから、かなり自由になり、さらなる新情報へのアクセスを手に入れる
ナチスの欺瞞の1つに家族収容所があり、赤十字の視察に備え、移送前と同じ生活が保障されたが、期限が来ると特別処置が施された。彼らに将来の運命を伝えたが、信じる者はおらず、家族収容所でも今を楽しむ生活が続く。ヴァルターは、自分を待つ運命について知るだけでは不十分だと知り、そのためにも外の世界にいるユダヤ人に伝えるために早く脱走しなければとますます思いを抱く
第3部
脱走
第13章 脱走は「死」である
脱走の最初の1歩は学習。他人の失敗から学ぶ。次いで収容所の上層部の人間から脱走計画について聞かされる。カナダからの戦利品で親衛隊と買収し、数人で脱走する計画を立てたが、'44年1月実行に移すが逃走が発覚、見せしめのために公開で惨殺された。買収されたふりをした親衛隊に裏切られたもので、他人を信じてはいけないという教訓となる
それでも脱走は増加し、’43年には3倍増の154人となったが、いずれも非ユダヤ人
ビルケナウはアウシュヴィッツに比べ警備が1/4ほどに手薄で脱出の可能性はやや高い
第14章 ソビエト兵捕虜の教え
記録係の仕事の利点は、収容所内のあらゆる物と人の出入りがよく見えることで、ヴァルターはその利点を生かし、新たな火葬場までの鉄道敷設に携わる作業員の責任者に顔見知りを見つける。新たに運び込まれる予定の初めてのハンガリーからのユダヤ人の到着と、鉄道新線によってさらに死体処理作業が加速されることを予知して、脱出の決意は一層逼迫したものに
脱出に成功したのはポーランド人に次いでソビエトの戦争捕虜が多いことを知って、彼等の集団のボスに近づく。ボスはザクセンハウゼンからの脱出の成功体験を話す。ソビエト製の煙草をガソリンに浸し乾かすと追跡犬から逃れられることを教わる
故郷の村からは600人以上が移送されたが、今残っているのはヴァルターと6歳上のアルフレート・ヴェツラー(通称フレート)だけ。2人は6年ぶりに再会、今は同じ記録係で同じ区画で作業をしており、ヴァルターにとってフレートだけは信頼に足る友だった
ヴァルターは、脱出計画への地下組織の支持を期待したが、邪魔はしないが支持は却下
第15章 隠れ家
収容所の會日は、夜間は内側の三、サーチライトによって警備兵が見守り、昼間は外側だけ移動式の高い木造の監視塔によって強制労働の一帯を監視。警備システムの唯一の穴は、逃亡発覚から72時間経つと脱走と判断され、捜索は外側を警備する親衛隊に引き継がれ、警備は内側だけとなり、外側エリアが警備されなくなるところ
警備システムの弱点を発見した他の4人が計画を実行。無事4日目に国境近くまで逃げ延びたが、ドイツ人と出くわしたために拘束、収容所に連れ戻され懲罰隊に入れられた
第16章 みんなを行かせてくれ
ヴァルターの決行の日は'44年4月3日。4回の中止のあと、7日の5回目で隠れ家に潜むことに成功
親衛隊員の気まぐれで命が助かったことは何度かある。ある意味で、アウシュヴィッツ=ビルケナウでまだ息をしている全てのユダヤ人は、同じ様にして命を繋いできた。荷下ろし場で、親衛隊員の指が右か左に振られることで選別されたことから始まり、カポが一発のパンチで殺せるかかけをするために囚人を選ぶときや、衰弱のために殺すと医師が診断するときなど、何百もの気まぐれを潜り抜けて。生か死かは直感によって瞬時に決定され、簡単にひっくり返ってしまうのがヴァルターが目にした収容所の実態
第17章 地下で
80時間余りの後無事に脱出。潜んでいた穴倉は、後からの脱走者のために元に戻しておく
第18章 逃亡
9日になって2人の逃亡がゲシュタポ本部に報告。東部の全てのゲシュタポ隊に知らされたが、2人は何度かの幸運に遭遇しながら南のスロヴァキア目指して進む
第19章 国境を越える
国境近くの山中で一旦警備兵の銃撃を受けながら、地元のパルチザンのような老人に助けられて21日国境を越えるが、スロヴァキアもナチスの同胞に支配されていたため油断は出来ず、老人に教えられた支援者を訪ねる。ヴァルターがすぐにでも残っているユダヤ人に伝えたいことがあるというと、地域医療のために移送を免れているユダヤ人の医師を紹介してくれる。たまたまヴァルターが知っていた人で、収容所の事実を伝えると、一族皆移送され行方不明になっていた医師は震えが止まらなかった。プラチスラヴァにまだ機能しているユダヤ人評議会があると聞かされ、慎重に変装しながら組織に迎え入れられる
第4部
報告書
第20章 黒と白
すぐに組織の代表から事情聴取を受け、手元の移送者名簿で本人の確認が取れると、2人の鮮明な記憶に代表は驚嘆し、証言の完全な記録を作ろうと決心
2週間組織の建物に隔離され、2人別個に証言が聴取され、直ちに報告書にまとめられた
ヴァルターにとっては、ユダヤ人評議会はナチスの移送に手を貸した協力者であり、命がけで逃亡してきた2人の証言にも拘らず、それに対し何も行動を起こさない代表たちに苛立ちが募るが、それを抑えてあらゆる質問に答える
報告書の最後には'42年からの2年間のガス室での殺されたユダヤ人に関する慎重な概算として国別に総計176.5万人が記されていた。ただ、内容は事実に限定され、予告や推測は入れないこととされ、ハンガリー系ユダヤ人への警告も目的に逃亡してきたにもかかわらず、その記載は削除された
国際指名手配されている2人には生粋のアーリア人新しい名前と偽証明書が与えられ、ヴァルターはルドルフ・ヴルバとして生まれ変わり、生涯その名で通した
第21章 神の子たち
ハンガリーのミクローシュ・ホルティ執政は、第1次大戦後に政権の座に就くと反ユダヤ主義を政策の中心に据え、聖職者も多くはそれを支持していたため、レジスタンス経由でハンガリー語に翻訳してから上位聖職者に渡し、政府に移送中止を勧告してもらおうとしたが、首座大司教は無力を嘆くばかりで、行動に移すことはなかった
第22章 わたしに何ができるのか?
ビルケナウでは、ユダヤ人記録係は全員職務停止となり、重労働が課された
'44年6月6日に更に2人のユダヤ人が脱走に成功。別な容疑で尋問中に評議会の代表とルディは面会に行って、「死の工場」の生産が劇的に増えたことを聞かされ、最初の報告書の補遺として追加された
報告書はマルティロッティ教皇大使(モンシニュール)の手に渡り、ルディらは直接インタビューに召喚される。カトリックの司祭も殺されているとの話を聞いた大使は気絶、意識が戻ると「わたしに何ができる?」と尋ねたので、すぐに警告を発するよう懇願
大使は、世界に向けて情報を発信することを約束したが、何日経っても何も起きなかった
第23章 真実の発信
評議会の作業部会は連合軍に報告書を届けようと腐心。要約版が作成され、各国語に翻訳され、イギリス人ジャーナリスト・ギャレットによって、初めてスイスで新聞記事となる
ギャレットはさらに連合国のトップやカトリックの大司教たちにも打電
アメリカの戦略諜報局のアレン・ダレスにも報告書が届けられ、即報告するとの言質を取ったが、実際には戦争難民局に回しただけで、報告書の公表に価値があるとは判断せず。過度なユダヤ主義と見做され、英語で活字になったのは証言から7カ月後の'44年11月、ワシントンでの記者会見の席上で、その時にはナチスは最後の13人を殺した後、死体焼却場とそのガス室を取り壊すのに懸命になっていた
連合軍にも情報は届いたが、線路の空爆要請には応じなかった。アメリカの爆弾によってユダヤ人が死ぬことになり、「おぞましい所業に加担したと責められる」ことを懸念
報告書はチャーチルにも渡ったが、「何ができる? 私に何が言えるんだ?」と絶望。外相イーデンに指示したが、空軍のシンクレアは、「線路の爆破」は自分たちの能力を超え、かつ昼間の爆撃が必要だが、米英の間で昼の空爆は米軍と決まっていたため、英空軍は動かず
第24章 ハンガリーのユダヤ人
ルディたちにとって本当に自分の言葉を聞いて欲しいのは同胞のユダヤ人だったが、報告書の内容の信憑性を疑う人もいて、’43年設立の中心的なシオニストの委員会の提唱者かストネルは、ユダヤ人コミュニティに警告を発することに反対
カストネルらは、「ユダヤ人問題の最終的解決」の責任者となったアイヒマンと秘密交渉しており、巨額の現金と引き換えにユダヤ人を解放する交換条件が決まり、さらに賄賂でも取り扱いを緩和することに成功していたが、のちにすべてナチスによる欺瞞と判明。ナチスはカストネルの目先だけ誤魔化して、着々と移送を進める
ルディは、地下組織で働いていた幼馴染みで後に妻となるゲルタ・シドノヴァと再会
ブタペストからの移送の直前、ホルティ執政は息子の未亡人から報告書の内容を聞かされ、連合国が勝った場合、ユダヤ人殺戮に何ら抵抗しなかった責任を問われることを懸念して移送列車を止めようと動き出し、連合軍の空爆にも助けられ、移送は停止された
第5部
影
第25章 銃といっしょの結婚式
'44年8月にはナチスがスロヴァキアに侵攻、2年ぶりに検挙と移送が再開される
ゲルタは、偽のアーリア人証明書をもってハンガリーからスロヴァキアに戻る
ルディは、レジスタンス活動に参加するためスロヴァキア西部で組織に入り、訓練を受けて親衛隊相手に妨害活動などをしているうちにソビエト軍が入ってきて、戦闘は終了
ルディは、第2スターリン・パルチザン旅団の古参兵として数々の勲章を受け、共産党員になる。すぐに元軍人用の特別学校に入り、戦争で失われた教育を受ける
プラハで勉強している時に、母親とゲルタに再会。母親も移送されたアウシュビッツではなく無事生還していたが、ルディのあまりの変わり様に、最初逢った時はわからなかった
ゲルタはプラハで医学生となり、ルディと交際を始め、’49年結婚するが、ルディは全く別人になっていて、溝は埋まらず。ルディは偏執症の矛先をゲルタだけでなく、研究室の同僚にも向ける。誰も信用しなかったからこそアウシュビッツで生き延びられた
女児が2人出来幸せに見えたが、2人の口論は続き、別々に過ごすことが多くなり離婚
ルディは、大学で活動委員会の会長に推されたが、反共産主義活動家の排除命令に従わなかったために辞任させられ、博士号を取得しものの、研究者とした雇うところはなかった
プラハでは、社会主義国に相応しくない人間の取り締まりが厳格化
ルディは、論文がモスクワ大学の上級研究員の目に留まり、失脚者の立場は取り消しとなる
第26章 新たな国イギリスへ
ルディは、チェコの共産主義からの脱出を計画。論文が認められてパスポートが与えられ、'58年海外での学会出席の機を捉えてイスラエルに亡命。イスラエルでは'50年制定の帰還法によりユダヤ人はイスラエル市民権を自動的に得られた。ルディは新しい職も得たが、あまりにも排他的で馴染めず。過去にナチ協力者だったり、ルディの報告書に対し何も行動を起こさなかった人々が新しい国でのさばっているのは許せなかった。その頃、ユダヤ人指導者の戦時の行動が問題視され、カストネルがやり玉に挙げられ、’55年の一審判決では、ナチスに「全面的に協力」し、「悪魔に魂を売った」と非難されたが、最大の罪は、ヴルバの報告書の内容を知っていたのに公開せず、ユダヤ人の逃亡や抵抗を促さなかったことだとされたが、最高裁前に暴漢に襲われ射殺。死後の裁判では、善意から多くの人々を救おうとしていたというカストナーの主張が認められ、裁判長は「汝、その立場になるまで隣人を裁くな」と述べた
同時に、ゲルタも海外での会議出席の機に亡命しており、ルディはそれを知ってイギリスに渡ることを決意。1960年、若い頃に挫折した目標を20年後に達成
ルディは医学研究評議会で職を得て、精神的ストレスを極限まで与えると生物はどうなるかを一貫して研究しながら、ゲルタとは新たな緊張関係が始まる
'60年、アイヒマンが逮捕され裁判が始まると、世間はナチスのユダヤ人殺戮に関心を示すようになり、ルディにもテレビ・ラジオ出演の依頼が舞い込み、新聞社はルディに科学者としての年収に相当する報酬を渡す。新聞連載が話題を呼ぶが、事実があり得ないと信じられない読者の存在に、ルディはもっと説明する必要があると思い、『わたしは許せない』という自伝を出版する。読者は、許せない相手はヒトラーとナチスと推測しただろうが、ゲルタはルディが情報を世間に伝えなかった人々に対し激しい怒りを向けているのを知っていた。その相手はカストネルだった
アイヒマン裁判では、ルディは証人として列席を申請したが却下され、代わりにロンドンのイスラエル大使館で、宣誓証言を行うことで妥協
子どもたちを巡るゲルタとの争いは収まらず、ますます会うことが困難に
ルディの偏執症は仕事上でも顕在化し、上司が自分の研究成果を盗んだとして訴えたために職を失う
第27章 本当のカナダへ
失職したルディは、共産党員だった繋がりから、赤狩りでカナダに亡命したアメリカの共産主義者の紹介で、ブリティッシュ・コロンビア大学の薬学部の准教授となる
'72年カナダの市民権獲得。翌年にはハーバード大の客員講師とマサチューセッツ総合病院の研究にも携わることになり、’75年には娘のような女性と結婚。性格も一変
カナダにいてもアウシュビッツはついて廻り、'62年以降ナチスの戦争犯罪者の裁判の証人として何度も呼ばれる。被害者としても法廷に立つ。ポーランドが収容所の跡地に作った産業センターの産業科学者の職のオファーは論外。カナダに逃れたナチス戦犯に追及ついても協力
'70年代に、ホロコーストを否定する言論が急速に広まりつつあることについても、否定者の動向に目を光らせ、特にドイツ生まれでトロント在住のエルンスト・ツンデルと接触。『本当に600万人も死んだのか?』を出版して偽情報を広めた罪で、’85年に裁判にかけられた。被告はツンデルだったが、事実上、ホロコーストの真実を問う裁判で、ルディは重要証人の1人だった。法廷では圧倒的な存在感を放ち、世界にアウシュビッツの真実を継げ、ツンデルは有罪を宣告される
第28章 わたしは脱出方法を知っている
ホロコーストの歴史の記録者の中には、貴重な情報源としてルディを訪ねて来る者もいた
‘70年代にはドキュメンタリー制作にも協力。その代表が《ショア》
逃走仲間のヨゼフ(フレート)とは、彼がアウシュヴィッツの生還者と結婚して以来疎遠になっていたが、彼は依然としてチェコに留まり、自からの体験を『ダンテが見なかったもの』という小説にして出版。ルディとの説明に齟齬が明らかにされる。最も意見が分かれるのは、脱走の手柄がどちらのものかという点で、ヨゼフは西側にいる人は体験の公表で利益を得ていると非難したが、結局はルディもヨゼフも有名にはなれなかった
ホロコースト犠牲者を追悼するイスラエルですら、2人のことはほとんど知られていない
ルディの自伝は’98年までヘブライ語に翻訳されなかったし、国立ホロコースト記念館ヤド・ヴァシェムでもアウシュヴィッツ・レポートは作者名の記載がないまま保管
ルディがあまり評判にならなかったのは、ユダヤ人を「シオニスト」として非難したため。以前はイスラエルの支持者だったが、カストネル初めルディを裏切ったシオニストへの怒りは抑えられず、ことあるごとに彼らの責任を追及した
ルディの自伝がヘブライ語で出版され、ハイファ大学の名誉博士号が授与されることになった時は、激しい反対が起きた。イスラエルのホロコースト歴史家の第一人者イェフダ・バウアーは、ルディに批判的なことで最も有名であり、「ホロコーストの天才的英雄」と呼んだが傲慢で、「ユダヤ人指導者やシオニストに対する深い憎悪」が判断を誤らせたという
ノーベル平和賞のエリ・ヴィーゼルのドキュメンタリー番組《戦争のときの世界》では、協力者としてプリーモ・レーヴィのすぐ後に名前が載ったが、彼らほど有名にはならなかった。それはルディが、世間がホロコーストの生還者に期待するイメージに同調しなかったからでもあった。健康でエネルギッシュな彼が、とても同じ出来事を経験したとは信じられなかった。彼は許すことができず、怒り続けていたので、ユダヤ人コミュニティに参加しようともせず、周囲も彼を不愉快で攻撃的で傲慢な人間と感じた
第29章 虚無の花
ルディの長女ヘレナは、医者でフェミニストとなり、ルディを男性優越主義者と見做して嫌悪。マラリアの研究にパプア・ニューギニアに行って不倫の果てに'82年自死
ルディは絶望に沈み、周囲のあらゆる人やものごとに攻撃的になる
遺書の傍らには『虚無の花』という本が置いてあったが、虚無主義による自殺は、人生を味わい尽くすというルディの信条と反する。彼にとって自殺とは、1つの命を奪うだけでなく、周りも傷つける「流れ弾」のようなもの。何年たっても娘の死の理由を考え続けた
60代になると、かつては強固だと思われたすべてのものが揺らぎ始めた
それでも彼は打ちのめされなかった。’90年になって突然明晰さを取り戻し議論をやめた。ようやく癒しが訪れた
第30章 多すぎて数えられない
‘80~’90年代、ルディはこれまでより認められるようになり、’88年にはバンクーバーのユダヤ人コミュニティに講演者として呼ばれ、翌年にはハイファ大学から名誉博士号授与
‘88年、ヨゼフ死去。最後は「みんなに忘れられ、憤慨する飲んだくれ」にたっていた
ルディの信念だった、「世間にアウシュビッツの事実を知らせれば、必ず連合軍は動き、ユダヤ人も移送列車に乗らなくなって「死の工場」は停止する」という確信は何十年かで揺らぎ始める。'42年末には、亡命ポーランド政府が国連の設立に向けて『ドイツに占領されたポーランドにおけるユダヤ人の大量殺戮」というタイトルの書面を提出。連合軍の指導者たちも、戦時のユダヤ人に対するナチスの行動の目撃証言を得ていた。収容所の情報は、非ユダヤ人脱走者を含むポーランド地下組織を通じて西側にもたらされていたが、戦争に対する支持が続く限り、国民のための戦争だと明確にするためにナチスのユダヤ人殺戮をプロパガンダの枠外に置くと決めていた。「人間は自分の死を描こうとはしない、移送=殺戮という事実の否定は最も楽な”脱走”だった」ということを、ルディはようやく理解
ハンナ・アーレントでさえ、最初にヴルバの報告書を読んだとき「信じなかった」という
ルディは複雑な真実を理解した。情報は必要だが、情報を信じさせなくては知識にならない。情報を信じたときだけ知識になり、それが行動に繋がる
ルディは、同胞や娘の死という大きな喪失を味わったにも拘らず、抑鬱にもならずに、人生を愛し、謳歌し、貪欲に生きようとした
'90年代半ばに膀胱癌が見つかり、'05年手術して一時恢復したが、翌年死去
ユダヤ人には、1つの命を救うことは、全世界を救うことだ、という格言がある。ルディの報告書によって20万のハンガリーユダヤ人の命が救われたが、ルディは救った人の数より、救えなかった人々を重視していた
ルディも脱出王で、アウシュヴィッツから、過去から、生れたときの名前からも脱出した。故国から脱出し、いくつもの国に居移り住んだ、何度も脱出に成功したが、自分が経験し、世界の人々に伝えた恐怖からは、ついに自由になれなかった
ルドルフ・ヴルバは、20世紀で最も偉大な功績の1つを成し遂げた。彼のお陰で多くの人々は長く豊かな人生を送ることができた、その数は多過ぎて、彼には数えられなかった
訳者あとがき
大量殺戮の現場を目の当たりにし、今すぐ世界に伝えたい、収容所への「再定住」を装った移送が死を意味することをユダヤ人に知らせなくては、という使命感が2人の脱出の決意を強固なものにした
2人の報告書を題材にした同名の映画《アウシュビッツ・レポート》は2020年に制作
2025.1.27.は、アウシュビッツ解放80周年。生存者の1人の証言はとりわけ重い:「アウシュビッツで知ったのは、人間の本質だ。人間はどこまで非道になり、どれほど強くなれるのか」
ホロコーストは戦争が生み出した悪夢だが、そうした愚行を繰り返さないことは、次世代を担うすべての人間の責務
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ユダヤ人初、収容所からの逃亡に成功。アウシュヴィッツ・レポート作成者の数奇な人生
ナチスによる殺戮を今すぐ伝える、それがユダヤ人を救う唯一の方法だ――19歳のヴァルター・ローゼンベルクは危険を冒して強制収容所から脱出し、瀕死の状態のなか「死の工場」の実態を暴いた。驚異的な記憶力を持つローゼンベルクの証言によって、詳細な報告書が作成された。まもなく報告書は世界中に配信されてユダヤ人解放へとつながり、多くの命を救った。歴史を動かし、自身も歴史に翻弄された男の功績と生涯を明らかにする。
アウシュヴィッツ脱出 ジョナサン・フリードランド著
虐殺 見過ごす人々への怒り
2025年6月14日 2:00 [会員限定記事] 日本経済新聞
本書は1944年、アウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所を脱出したユダヤ人、ルドルフ・ヴルバを描いたノンフィクション。驚異的な記憶力を持つルドルフの証言から作られたアウシュヴィッツ・レポートは、初めて「死の工場」の実態を世界に公表し、ブダペストから収容所へ移送間近だった20万人のユダヤ人を救った。
ホロコーストを描いた作品は数多くあるが、本書が特筆すべきなのは、ルドルフが生還者でなく、自らの意志で脱走した点だ。アウシュヴィッツから脱走に成功したユダヤ人は、彼と相棒フレートの2人が初めてだったのだ。
名も属性も奪われて番号で呼ばれ、人間性を極限まで否定された状況で、彼が脱走の意志を持ち続けられたのは、〈究極の悪を前にして沈黙を余儀なくされ、何もしないでいることに意味がほしかった〉からだった。目撃したことを証言できたら、自分が生き延びたことに意味を与えてくれるのではないか。ヨーロッパ各地から移送されてきたユダヤ人の荷物を仕分けしたり、死体置き場で想像を絶する任務についたりしながら、彼は強制収容所の全体像の把握に努め、ひたすら機会を窺った。世界がこの真実を知ったら、ユダヤ人を救えるはずだと信じて。
脱走計画も手に汗を握るのだが、本書の主題はむしろ、脱走後の彼の苦悩にある。真実を知ったのに信じようとしない人たち。信じたものの、政治的駆け引きの中で動こうとしない人たち。連合軍にもレポートは伝わったが、ドイツ降伏が決定的になるまで動かなかった。真実を明かしさえすれば救出できると信じたルドルフは世界に裏切られる。故国のチェコスロヴァキアからイスラエルに脱出するも、イスラエルではナチスに協力したユダヤ人指導者たちが高い地位を得ている現実に幻滅。怒り続ける彼は「典型的なホロコースト生還者」のイメージから逸脱していたため、ユダヤ人社会からも弾かれ、最終的にはカナダまで逃れることになった。
ルドルフは生涯、救った命よりも救えなかった命に苛(さいな)まれ続けた。しかし彼が歴史を変えたことは事実だ。自分ならどうする? 彼の投げかけた怒りは、戦争や迫害が終わることのない世界に生きる私たちの胸に突き刺さる。
《評》ノンフィクション作家 星野 博美
原題=THE
ESCAPE ARTIST(羽田詩津子訳、NHK出版・2970円)
▼著者は英ガーディアン紙コラムニスト。2014年にジョージ・オーウェル賞受賞。
命を賭けて初めて世界に真実を伝えた男。
映画化「アウシュヴィッツ・レポート」証言者の数奇な人生
2025/04/25 NHK出版
1944年4月、19歳でヴァルター・ローゼンベルク(ルディ・ヴルバ)はユダヤ人として初めてアウシュヴィッツ強制収容所からの逃亡に成功。彼の正確な証言により作成された60ページに及ぶ「アウシュヴィッツ・レポート」はユダヤ人解放への道筋をつけ、結果的に20万の命を救いました。
歴史を動かし、自身も時代に翻弄されたローゼンベルクの功績を描く『アウシュヴィッツ脱出――命を賭けて世界に真実を伝えた男』(ジョナサン・フリードランド/羽田詩津子訳)が、NHK出版より4月25日に発売されます。アンネ・フランクやオスカー・シンドラーらに比肩する男の数奇な人生をはじめて明らかにしたノンフィクションです。
荷下ろし場で
ヴァルターは駅の荷下ろし場で働くことになったが、当初そこは使われていなかった。当時のプラットフォームはヴァルターにもなじみがあったが、彼が派遣されたのは最近使用されるようになった別のプラットフォームだった。そこはオシフィエンチムで以前に使われていた貨物列車の駅で、アウシュヴィッツ収容所と、そのすぐ後に建設されたもっと大きなビルケナウ、別名アウシュヴィッツ第二収容所にはさまれていた。最近、大量のユダヤ人がそこに移送されてきており、「古いユダヤ人荷下ろし場」と呼ばれていた。
ヴァルターの仕事は到着した列車から降りてきた乗客の荷物を取り上げ、彼らを運んできた列車を空にすることだった。
ユダヤ人が最初に到着する荷下ろし場
移送者たちは、自分たちの運命を決める審査団の方へ近づいていく。移送者たちは知らなかったが、そこで選別を受け、右に行かされれば被収容者として登録され労働をさせられ、たとえわずかな期間でも生き延びるチャンスを与えられた。左側へと指示されたら、すぐ先に死が待っていた。
それでもヴァルターは屈せず、正気を失うことはなかった。反対に、化学の教科書から独学で学んだ頭脳を使って、自分の目にしたものを理解しようとした。それが彼の対処の仕方であり、意図的に現実と距離を置く方法だった。他の者たちが目を逸らそうとしていたとき、ヴァルターはより緻密にすべてを観察していた。
さまざまなことにヴァルターは気づいた。親衛隊員はある夜は親切にふるまうが、翌晩にはステッキやブーツで暴力をふるった。ある晩は1回しか移送がないのに、翌晩は5回、6回と移送があった。新着者の75パーセントがガス室送りになることもあれば、95パーセントのときもあった。
しかしヴァルターはパターンを観察することが大切だと知っていた。まもなくパターンを発見した。いったんわかると、あとは確認するだけでよかった─ それによって新たな固い決意がわき上がった─今起きていることを世の中に知らせよう。
黒と白
何時間も続く聞き取りで、ユダヤ評議会の最高位の一人クラスニャンスキーはいくつも質問をし、答えを聞き、詳細を速記した。結論としては、ユダヤ人が大量虐殺されているという証言だったが、どんな感情を抱いたとしても、彼は顔に出さなかった。ただ次々に質問をして、記録していった。
ヴァルターはよどみなく、早口で話すかと思うと、言葉を探しているかのように、ゆっくりと話すこともあった。正式な聞き取りの前でも、法廷でのように事実をもとに証言していたが、感情を抑えられず、語りながら過去が甦った。細胞や毛穴にいたるまでアウシュヴィッツに戻ったかのように感じられた。1時間後、ヴァルターは消耗していたが、まだ最初のほうしか話していなかった。
ヴァルターは紙とペンを受け取り、話を始めた。彼は地図を描いた。わかるかぎり実物の寸法に忠実に。まず、アウシュヴィッツ強制収容所の内側をスケッチした。それからもっと複雑だったが、ふたつの地区とA、B、Cなどたくさんの区画を含めてビルケナウ強制収容所を描いた。その中間に荷下ろし場を描き、そこで見たものと、自分がしていたことについて説明した。巨大なドイツの軍事産業─―I・G・ファルベン、シーメンス、クルップなど─―がどこに工場を持ち、奴隷労働者を働かせているかを示した。ビルケナウのはずれで大量虐殺がおこなわれていることを伝えた。四つの死体焼却場それぞれに焼却炉が設置され、ガス室とつながっていることも。
ヴァルターによる強制収容所スケッチ
真実の発信
「作業部会」は脱走者の証言がナチスと戦っている連合軍に伝わることを期待していたが、どうやって伝えたらいいのか考えあぐねていた。そこで、しかるべき相手に届くことを期待して、海外に報告書をばらまくことにした。
遠回りはしたが、最後には報告書は正しい相手に届けられた。報告書を読んだトランシルヴァニア出身のマンテッロは、この報告書を広めるために、すぐに行動を起こすべきだと決意した。
マンテッロの報告書はハンガリー語の5ページの要約で、スロヴァキアの正統派のラビによって作成された。そこで彼はさまざまな学生や専門家の力を借りて、この要約版をスペイン語、フランス語、ドイツ語、英語に翻訳した。1944年6月22日、彼は要約版をイギリス人ジャーナリスト、ウォルター・ギャレットに渡した。ロンドンに打電されるとすぐに、ギャレットは記事を広めるために行動に移った─―世紀のスクープはできるだけ広く配信しなくてはならない。こうしてヴルバ=ヴェツラー報告書が、その日の午後、初めて新聞記事になった。
ルドルフ・ヴルバとアルフレート・ヴェツラーの言葉が初めて正式に英語で活字になったのは、1944年月11月15日、ワシントンでのマスコミ向けの会見だった。ヴァルターたちが証言をしてから7か月がたっていた。まさにその11月25日、ナチスは最後の13人を殺したあとで、第二死体焼却場とそのガス室を取り壊すのに懸命になっていた。
やがてヴルバ=ヴェツラー報告書はロンドンにたどり着いた。今回はエルサレムでシオニストの指導をするユダヤ機関の職員によるメモがつけられていた。「今、何が起きているか、どこで起きているかを正確に知った」とあり、報告書の重要性が強調されていた。メモは外務省に届けられ、そこからイギリス首相チャーチルの手元に送られた。
チャーチル首相が外務大臣に送った手紙
首相は報告書を読み、大量殺戮の手法の詳細について知った─―シャワー室に見せかけたガス室、選別、死体焼却場。そして、線路と「死の工場」を爆破という請願。そこで、外務大臣のアンソニー・イーデンに走り書きのメモを送った。大帝国の権力を大戦にふるっていた男にしては、チャーチルの口調は悲しげで、絶望がにじんでいた。「何ができる? 私に何が言えるんだ?」
アウシュヴィッツ・レポートがアメリカ政府の迷路をのろのろと移動しているあいだ、イギリスではたちまちトップの手に渡り、大きな効果を上げたように思えた。
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