まいまいつぶろ  村木嵐  2024.10.8.

 2024.10.8. まいまいつぶろ

 

著者 村木嵐 1967年京都市生まれ。京都大学法学部卒業後、会社勤務を経て、95年より司馬遼太郎家の家事手伝いとなり、後に司馬夫人である福田みどり氏の個人秘書を務める。2010年『マルガリータ』で第17回松本清張賞受賞。『まいまいつぶろ』で第12回日本歴史作家協会賞作品賞、第13回本屋が選ぶ時代小説大賞受賞、第170回直木三十五賞候補。

 

発行日           2023.5.25. 第1刷発行      

発行所           幻冬舎

 

書き下ろし

 

第1章        登城

吉宗の嫡男の乳母で上臈御年寄滝乃井は、吉宗がまだ世継ぎを決めていないのでそれ程重んじられてはいなかった。大岡越前守忠相を城中奥に招き、14歳の嫡男長福(ながとみ)丸が、来年の元服を控え、将軍継嗣に相応しい扱いを受けていなかったが、長福丸の言葉を聞き取る少年大岡兵庫が現れ、小姓に取り立てるべく、忠相の遠縁に当るところから事前に言い含めておくよう依頼

忠相は、側用人制の復活を危惧して反対。吉宗の享保の改革を率先して推進してきた立場からも、関わりたくない話

特別に少禄の旗本の子弟ばかりを集めて御目見得をした際、初対面にも拘らず、2人の間には会話が成り立ち、喜んだ長福丸は兵庫を小姓にすると言い出す

2人の会話の内容から、長福丸の利発さが判明したが、同時に兵庫が小姓となると、悪い方に化ける恐れもあり

 

第2章        西之丸

長福丸は15で元服し名を家重と改め西之丸に移る。西之丸は隠居した将軍か将軍継嗣が住む場所なので、次の将軍はほぼ決まりだが、弟の小次郎丸も元服して宗武を名乗り二之丸に移ると、非の打ちどころのない宗武の方が継嗣に相応しいとの声が高まる

老中首座となった松平乗邑(のりさと)も密かに宗武を推す

兵庫は家重の口として、御神酒徳利の如く家重に従い務めを果たす。家重は伏見宮の姫比宮(なみのみや、吉宗の正室の姪)との結納が決まる

(こう)は、権中納言梅渓通条(うめたにみちえだ)の娘、天皇の末裔、村上源氏の堂上公家の家柄。同じ乳母で育った比宮に気に入られ、女房として江戸に同行

 

第3章        隅田川

享保16(1731)比宮、江戸へ降嫁。6年越しの婚儀をあげる

兵庫も元服して大岡忠光となる

比宮は、最初の御披露目で初めて見た家重の姿に愕然とするが、5日もたつと周囲が蔑みの目で家重を見ることに怒りさえ覚える一方、老中酒井忠音(ただおと)から、忠光が家重の口代わりとなって詞を伝えることを聞き、たちまち2人は打ち解ける

吉宗が密かに家重の小姓として紀州から抜擢したのが、少禄の小納戸頭取の息子で家重より8つ下の田沼意次

家重と比宮との間に2年後子供ができる。死産だったが、家重に子が出来ることが証明され、比宮は、家重の言葉が理解できるようになる

 

第4章        大奥

宗武は二之丸を出て田安門の側の屋敷に移る。田安家を創始し、将軍家の御控えに廻ったことを意味した

比宮は、産後の肥立ちが悪く、後事を女房の幸に託し急逝

比宮の死から3年の後に幸は懐妊し、1737年男児を出産。吉宗は竹千代の名を授ける。家康から家綱と、将軍の世継ぎが授かって来た、ただ1つの格別な幼名

 

第5章        本丸

1745年、吉宗は大御所となる決断をし、家重を9代将軍にしようとしたが、松平乗邑が一身を賭して反対、忠光の存在が側用人を作ることになるというのが理由だったが、家重の子家治が家重を補佐すると宣言して将軍継嗣に決着がつく。乗邑は老中を罷免

家重は35歳で将軍を宣下

 

第6章        美濃

4年後、家重の評判は上がる。忠光は正式に御用取次(将軍と老中の取次)に任じられる。家重が将軍になるまでは皆忠光の私曲(しきょく、不正)を案じていたが、全て杞憂に終わる

1751年、吉宗死去

享保の改革の仕上げは進んでいたが、全国的な凶作から百姓の強訴が相次いだ

木曽3川の治水事業を薩摩藩に命じるが、領国の尾張と美濃からの嫌がらせに遭って工事は難渋を極める

 

第7章        大手橋

忠光は、岩槻藩2万石の大名となり若年寄に昇進

郡上藩の検地に関し藩主から老中まで絡んだ不正事件発覚。藩主は改易、老中はお役御免

家重は50を機に将軍職を家治に譲る。それを機に忠光も家重に別れを告げる

 

第8章        岩槻

大岡忠喜は、16年前父忠光の跡を継いで岩槻藩主となり奏者番(そうしゃばん、大名や旗本が将軍に謁見する際に取次や儀礼の進行を司る役職)を務める。同じ年10代将軍となった家治の日光社参を居城で出迎え

1760年、家重が将軍退隠を宣下。直後に忠光死去。翌年家重死去

家治も父の言葉を聞き取れなかったし、忠喜も父が巧みに噓を吐いているだけではないかと思い続けた。同じ思いを持った者同士打ち解ける

家重に重用された田沼意次は、忠光のことを慕い、家治の下で権勢を揮うが、同時に賄を始終受けているところから「まいないつぶろ」と落書された

 

 

 

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作品紹介

暗愚と疎まれた将軍の、比類なき深謀遠慮に迫る。口が回らず誰にも言葉が届かない、歩いた後には尿を引きずった跡が残り、その姿から「まいまいつぶろ(カタツムリ)と呼ばれ馬鹿にされた君主。第九代将軍・徳川家重。しかし、幕府の財政状況改善のため宝暦治水工事を命じ、田沼意次を抜擢した男は、本当に暗愚だったのか―― 廃嫡を噂される若君と後ろ盾のない小姓、二人の孤独な戦いが始まった。

12 日本歴史時代作家協会賞作品賞、第13 本屋が選ぶ時代小説大賞 受賞。

 

 

徳川家重の悪評を小説でひっくり返す ハンディキャップを等身大に捉えて見えたもの三宮麻由子(エッセイスト)/村木嵐 対談

 

202310月「日本歴史時代作家協会賞 作品賞」、11月には「本屋が選ぶ時代小説大賞」も受賞! 文芸誌「小説幻冬」にて続編「まいまいつぶろ 御庭番耳目抄」の連載もスタートした『まいまいつぶろ』が、「これまでの第九代将軍・徳川家重観を一変させた」と話題だ。

半身麻痺のために口が回らず、意思疎通のできない家重の御口になったのは、彼の言葉を唯一人理解することができたという大岡忠光。想像を超えた忠光の力とその人物を描くとき、村木嵐さんの助けとなったのは、4歳で視力を失い、感性の力でこの世界を見てきたエッセイストの三宮麻由子さんとその著書だったという。

二人の対話のなかに現れる視点から見ると、『まいまいつぶろ』という物語が、様々に姿を変えていく――

*   *   *

目が見えなくても見えている

―― お二人の出会いのきっかけとなったのは一冊の本、4歳で視力を失った三宮さんが、鳥の声によって広がった感性の世界を綴ったエッセイ『鳥が教えてくれた空』だったそうですね。

村木嵐さん(以下、村木) 私がその一冊と出会ったのは、作家になる以前、司馬遼太郎先生の奥様(福田みどり氏)の個人秘書を務めていた頃でした。最寄りの駅前には3軒の本屋さんがあって、棚に並ぶ本の背表紙を眺めるのが好きだったんです。ある日、そのなかに『鳥が教えてくれた空』を見つけ、何気なくページを開いたところ惹きつけられ、最後まで立ち読みしてしまいそうだったので購入しました。読後、感動のあまり呆然としていたら、よかったら感想をとアドレスが記してあったのですぐに送ったんです。

三宮麻由子さん(以下、三宮) 単行本が刊行されてすぐメールをくださっているから2000年の少し前のこと。もう20年ほど前のことになりますね。ブランクはありましたが、嵐さんとはあれからつかず離れずの距離で交流をさせていただいて。記憶に鮮やかなのは、嵐さんが『マルガリータ』で松本清張賞を受賞されて、お祝いのご連絡をしたときのこと。あれから嵐さんは急に忙しくなってしまわれましたね。

村木 あのあと奥様が亡くなられ、親の介護のために京都に帰り、と、いろんなことが押し寄せてきたんです。

―― 20年以上も親交を深めてこられたお二人が、実際に顔を合わせたのはつい最近のことだったとか。

三宮 初めてという気がしませんでしたね。中学生の頃からの友人と喋るように盛りあがって。嵐さんが帰る電車の時間がなかったら私たち、一日中喋っていたかも(笑)。

村木 二人で喫茶店に向かうとき、驚いたのが、「あのお店、まだ閉まってる!」って麻由子さんが突然おっしゃったこと。店の前に着くと、お店の人が掃除機をかけていて、まだ準備中だったんです。距離もだいぶ離れていたのに、どうしてわかったの? ってもうびっくり。

 麻由子さんは著書やインタビューのなかで、シーン(風景)がレス(ない)=シーンレスという独自の言葉を使われていますよね。目が見えないということはシーンがないだけで、でも見えているという風に私は理解してるんですけど、やっぱりそうなんですよね? 喫茶店の前でも確信したのですが、何冊著書を読んでも、やっぱり麻由子さん見えているよね? と私は思っているんです。

三宮 イエス、ノーで答えるとすればイエス、見えていると思います。けれど当然、目の見えている人とは違う見え方です。シーンレスとは私の作った和製英語ですが、『鳥が教えてくれた空』に書いたように、視力を失ってからは、音を聴くことをはじめ、いろんな五感を磨いていきました。生きるために必要な実用のための訓練を経て、それを感性のレベルにまで引き上げてきたわけです。感性を使うことができるようになるとすごく楽しくなっていくんです。そのとき、シーンレスがシーンフルに変わったんですね。フルというのは、風景がいっぱい目の前にあるという意味ですが、音を聞き分けて空間を把握すると、目の見える人とは別の形のシーンが出てきて、シーンフルになる。

 ただ、私のように幼少期の視覚を記憶している人が再現するシーンと、昨日まで見えていた人の中で再現されるシーン、あるいは生まれてから一度も見るという経験をしていない人がイメージするシーンはすべて異なるので、人の数だけその風景はあるはずです。私は4歳までの視覚記憶が脳の中で比較的機能してくれているらしく、目の見える人が使っている文字や楽譜が立体的な絵のように見えるんです。そういうイメージを失わずに勉強できたので、視覚的な感覚が働いてくれているのだろうと思っています。

 最近ではiPhoneのような視覚的デバイスを使うことで刺激される経験や、書道の個展を開いた経験から、視覚で見えている方に近い景色がある程度ながら味わえているのではないかと思っています。

村木 圧倒されてしまって、正直、麻由子さんのお話に追いついていけていないのですが、いつかちゃんとわかるようになりたい。私にとって麻由子さんは魔法使いのような存在。見える、見えないの境界を軽々と越えていかれる魔法使いなんです。

忠光の力を恐れずに書けたのは『鳥が教えてくれた空』があったから

―― 村木さんにとって「歴史小説を書くことは自分がミステリーのなかに入り込んでいくこと」であると。『まいまいつぶろ』のミステリーの入り口はどこでしたか?

村木 資料を調べていくと、当時、老中職にあった松平乗邑が突然、失脚しているんですね。その半年ほど前には一万石もの加増を受けているにもかかわらず。どうして? と考えていくと、その間に何かあったんだという思いが巡っていって。その後、田沼意次の主導により、郡上一揆が解決したのですが、それもいったい、彼はどういう風に解決したのだろう? と疑問が次々と湧いてきたんです。そういうことってあまり記録には残っていないので。でも執筆の端緒となったのはやはり第九代将軍、徳川家重は愚鈍だった、と書かれている資料を読んだこと。いや、それはちょっと違うんじゃないかという疑問が自分のなかから頭をもたげてきました。

―― 半身が麻痺しているため、口が回らず、不明瞭な言葉は誰にも通じない。尿意もコントロールできないため、歩いた後には尿を引きずったあとが残る皆から蔑まれたと伝わる家重。『まいまいつぶろ』では唯一彼の言葉を解し、常に側に控えた大岡忠光と家重の数十年にわたる絆が描かれていきます。

村木 大岡忠光という人だけが家重の言葉を理解していたという記録は残っていますが、彼はどんな人だったのか? と資料を紐解いていくと、ひと言ずつくらいしか記録に残っていない。それも賄賂まみれの人だったというものと一点の曇りもない清廉な人だったと両極端なもので。これは一体、どういうこと? 家重の生きた時代は謎ばっかりだなとミステリーのなかへ分け入っていきました。

―― 家重の言葉を唯一聞きとることができ、一言一句、正確に通訳する忠光を造形する際、助けられたのが、『鳥が教えてくれた空』だったそうですね。

村木 忠光の持つ力は本当に信じられないような力なんですけど、実際にそういうことできる人なんている? それを書いたらおとぎ話になってしまうのではない? という思いを巡らせていたとき、麻由子さんはそれをしているじゃないか!と気付いたんです。自分には想像もできないけれど、その想像を超えたことを実際にしている人がいる。だから恐れずに忠光を書こうと思うことができたんです。麻由子さんがいるから大丈夫、ここに証拠がある! って、突っ走っていくことができました。

三宮 冒頭に忠光の少年時代が描かれていますが、小鳥の声を聞くのが大好きな少年である、という場面を読んだとき、あ! と思いました。そして彼は家重の言葉を他の人に伝える通訳でもある。執筆活動とともに、私は外資系通信社で経済を中心とするニュースの翻訳に携わっていますので、小鳥と通訳ってもしかして私のこと? とワクワクしながら読み進みました。

村木 麻由子さんが『鳥が教えてくれた空』で書かれているように鳥の言葉に耳を澄ます人、その声の意味することがわかる人は、心でわかる人のような気がするんです。毎朝、庭に来る鳥たちをじっと眺めているのですが、その囀りを聞きながら何か話しているよなって思うんですけど、私にはわからない。わかったらいいな、わかる人はいるんだろうな、羨ましいな、という気持ちが、小鳥が何を話しているのか聞き取ることのできる忠光の像を結んでいきました。

家重を等身大に捉えてみる

―― 麻痺を抱え、廃嫡さえ噂されていた家重を描いていくとき、大切にしたことは何でしたか。

村木 将軍、そして家重のような嫡子は特権階級の中でも特権をもつ人なので、等身大の人を描くということに一番心を砕きました。誰もが悩みは持っているのだから、将軍だって悩んだはず。でも彼は特権階級だよね? という読み方をされてしまうと、家重にとっても不幸だと思ったんです。一方、彼の体が思うようにならないことについては執筆中、ほとんど意識していませんでした。家重が抱える障がいに、正面から取り組まれてというご感想をいただいて初めて、「そうか、私は障がいについても書いていたのか」と気付いたほどでした。

三宮 家重に光を当てる以上、障がいに注目しないわけにはいかなかったと思いますが、私が良かったと感じたのは、本作が障がいを真正面から書いた小説ではないということ。テレビドラマなどでも家重のハンディキャップは、かなり生々しく、重々しく描写されていることがありますね。でも『まいまいつぶろ』は、そこに焦点を当ててはいなかった。嵐さんが最も注力したと語られる等身大。その目線は階級の面でも、ハンディキャップの面でも一貫していると思います。

村木 彼に寄り添う忠光も非現実的な人物にならないよう、最初から最後まで気を張り詰めながら書いていました。自分にとってのリアリティをちゃんと伝えなければと、頑張って書いていたんです。

三宮 いや、頑張らなくても、嵐さんは書けたであろうと私は思っています。入院中の奥様(司馬遼太郎夫人)と一緒に病院で寝泊まりしたり、ご自身のお父様の介護をされたり、常に弱い立場にある人に寄り添う姿勢を取っておられるから。20年前からそう感じていました。

 私はある意味、社会的には弱者という立場であるので、ハンディキャップのない人よりは助けが必要です。そんな私のところに突然飛び込んできて、友だちになってくれた嵐さんは、弱い人に慈悲をかけるという目線ではなく、この人を助けながら一緒に歩もうと同じ方向を見る。相手に速度を合わせ、その人の能力が100パーセント発揮できる方向を懸命に考え、それを実践しようと心を尽くす。嵐さんがそういう風にしていらっしゃるからこそ、忠光のこの視点が生まれてきたのだと思うんです。

 忠光が非現実的な人物にならなかったのは、頑張ったからというより、嵐さんの本来の才能、清らかさがあるからではないかと。弱い人に上から優しくするのはある意味、自然にできることともいえます。でも助けが必要なその人が自分より能力のある人であったときこそ、助けの質が問われてきます。嵐さんは、相手の能力の一部として行動されていると思います。まさに忠光が家重に行ったことです。ご自身がそれを実践していないといくら頑張っても、こういう風に書けなかったと思います。

村木 もう、泣きそうです。奥様にしても、父にしても、看病しているとき、自分の方が上の立場だなんて思ったことはなかったんです。自分のなかでは当然過ぎて、気付くことのできなかった思いを麻由子さんが言葉にしてくださって今、すごくうれしい……

献身才能のひとつ

三宮 大学時代、大変一所懸命助けてくれていた友人が、別の友達に「自分が助けてあげている人のほうが成績がいいと、やっぱり悔しい」と話しているのを聞いてしまったんです。そういう心理があるのかと驚くとともに、助けられる側にも配慮が必要なのだと学びました。忠光は家重を自分より弱い人だと捉えず、対等な視点で献身をします。それは心の中にギフトがある人じゃないとできないこと。

村木 そう言っていただけてうれしいです。

三宮 まだ長福丸であった頃の家重が、そなたが先であれば良かったなと、自分を疎ましく思っている弟の小次郎丸に、やさしくつぶやく場面があります。ハンディキャップのないそなたが嫡子であればよかったのに、と。あれも嵐さんの心で家重を見ていないと書けないセリフでしょう。家重を馬鹿にする弟に、忠光はそんな家重の広い心を伝えたい、でも忠光は涙を溜めながら、家重の言葉を自分のなかに押し留めます。そうした場面は才能ある書き手なら書くことができると思いますが、そこに心が入るかとなるとまた別の話です。読み手の心を震わせ、読後も尾を引いていくそうした場面のひとつひとつがリアルに書かれているのは、やはり嵐さんの経験と心理に裏付けられているからだと思います。

村木 あぁ、うれしい。

三宮 もうひとつ注目したのは、目と耳になってはならぬ”“そなたは御口代わりだけを務めねばならぬと、遠戚の大岡忠相から言い渡され、忠光は通訳に徹すると決意し、実践するところ。通訳や翻訳のように意訳するのではないから厳密には「伝達」なわけですが、架け橋になるという点が共通しています。

 私はかれこれ30年翻訳の仕事に携わってきました。翻訳は前提としてまず原文の意図に忠実でなければいけません。一方で、原文を書いた人以上に原文の意味を理解していないと訳せない。それも、読者にすっと理解され、共感される論旨と表現でさらりと訳さなければならないのです。伝達においても、この点は同じでしょう。

 作品を読むと忠光は家重以上に家重の心がわかっていたであろうと感じました。通訳や翻訳の経験をお持ちでないのに、よくここまで心情を分析されたと驚きました。やはり嵐さんが寄り添う力を持っているがゆえに、このように通訳者、翻訳者の気持ちを理解することができたのだなと感じました。

―― 忠光を造形する助けとなったのは三宮さんの存在であると村木さんから伺いましたが、三宮さんのお話を伺っているうち、忠光は村木さんご自身でもあるのだなと。忠光はお二人が一緒になって生まれてきた人物だと感じました。

史実の悪評は小説でひっくり返す

三宮 この小説を通し、何らかのメッセージを送りたいと思われましたか。

村木 それはなかったのですが、家重に関し、あまりにも酷いことばかり記録に残ってるので、それはちょっとないよな、小説でひっくり返したいな、という気持ちはありました。それは本作に限らず、どの作品の主人公に対しても思っていることなのですが、良い評価が残ってる人に対してわざわざ悪い評価に書き換える必要はないと思うけれど、逆に悪いことばかり言われてる人には本当にそうだったのかな?と思う癖みたいなものが私の中にあるんです。メッセージではありませんが、そうしたものが作中には現れてきたかもしれません。

三宮 私が『鳥が教えてくれた空』を書いたときも、何かのメッセージを伝えたかったというより、とにかく鳥が可愛かったから書かずにいられなかっただけだったので、その気持ちはわかります。言われっぱなしの人を救いたいという気持ちも。

 なぜメッセージについて伺ったかというと、この小説にはもうひとつとても大事なメッセージがあると私は思っているんです。それは素晴らしい援助者が現れたとき、その人だけに頼ることの危険性です。一人だけに頼ってはいけないというのは私が実践で学んだことであり、座右の銘でもあるんです。なぜならどんなに素晴らしい理解者、援助者であっても、その人が欠けたとき、破滅が起きてしまう可能性があるから。忠光の旅立ちを予感して、家重はもう自分は将軍職を務めることはできないと引退しますね。もし忠光がほかの誰かに家重の言葉の聞き取り方を教えていたり、他にも通訳のできる人がいたりしたら、二人の絆はここまでにはならなかったとしても、家重はもう少し仕事を続けられたかもしれないとも思ったのです。本作の最後に描かれる家重の姿は、一人の援助者に頼る危険性を警告する厳しい指摘の形でもあったと思いました。

三宮さんが「ありがとう」と言いたくなった、外側のバブルの描き方

―― 三宮さんは、社会的なシステムを『まいまいつぶろ』のなかに感じられたそうですね。

三宮 この対談で一番言いたかったことです。私がこの小説の最大の価値だと思ったのは、家重と忠光の物語であることの前にお仕事小説として読めたことです。

 たとえばヘレン・ケラーは偉い、サリバン先生も偉い、ホームズはすごい、ワトソンもすごい……たしかにそうですが、物語が中心にいる二人だけで成立したかと言えばそうではない。サリバン先生は偉かったし、ヘレンも頑張った、でもお父さんが惜しまずにお金を出してくれたからヘレンは高いレベルの教育を受けられたわけです。講演に招くなど、彼女を人材として求める人たちがいたから、サリバン先生が亡くなった後も、ひとりの職業人として生きていくことができた。

 社会には、当人たちの外側に、もう一つバブルがあるんです。これがきちんと描けていないとお仕事小説にはならないのです。家重と忠光の二人には吉宗という強力な助け手、田沼意次をはじめ、それとなく二人を後押ししてくれる人が何人もいた。外のバブルできちんとバックアップする人、しかも社会的に発言権のある人が行動し、組織を動かしてあげないと、職業人としての道は実現しない。

 本人が頑張れば、個人的な自己実現はかなりできるチャンスがあります。頑張る人の前に、サリバン先生的なサポーターが現れてくることは多々あるからです。けれどそれだけでは、個人的な実現はできても社会的な実現には至らないんですね。

―― その社会的な実現ということについてお聞かせください。

三宮 私が大学院を終えて通信社に就職したとき、周りも私もどうしていいかわからなかったんです。

 まず新入社員によくあるように、新人教育担当者=メンターに任命された先輩が、新社会人である私の面倒を見てくださったわけです。と同時に、直属の上司から支局、さらには本社につながるライン全体が一つとなり、会社全体として私が働ける環境とシステムをしっかり作ってくれました。たとえばエレベーターの音声をどうするか、ウォーターサーバーの位置はどこがいいか、といった日常の細かいことから、パソコンの整備などを含め、翻訳の業務をどのように、どんな手段で行うかといった根幹の細部まで、あらゆる点で現場から経営陣まで全員が関わらないとそのシステムは実現できません。

 執筆も同じで、私を起用してくださる編集者や講演主催者、メディアの方がいて、初めて私はエッセイストとして仕事ができるわけです。忠光一人だけいても家重はきっと将軍にはなれなかった。トップダウンで周りを動かすことのできる吉宗がいて、周りの理解者がいて、みんなでサポートして良い将軍として務めてもらおうと盛り立てて、家重が将軍として務められるシステムをきちんと作った。その結果、家重は稀有な能力を発揮してしっかりと将軍を務めました。そこが描けているかどうかがお仕事小説の勝負どころだと思うんです。

『まいまいつぶろ』は、外側のバブルから描かれています。中心から放射状に見ていくのではなく、外から中心にアプローチしていく。円の外側から外堀を埋めつつ、中心にアプローチしていくと、そこに家重という光がある、そして忠光という人がその光をさらに輝かせる。作品の最後にも、別のハンディキャップの人物に大名が務まるかと問う人に、周りが支援すれば能力は発揮できると答える場面があります。大変印象的な会話でした。本作のバブルの描き方は助けられながら努力し、開拓してきた自分の経験を踏まえると「ありがとう」と言いたくなるものでした。

―― 「ありがとう」に込められている思いとは?

三宮 東京パラリンピックはきっかけの一つになったと思いますが、日本の一般社会にもダイバーシティの感覚が浸透し、コロナ禍ではいろんな働き方が出てきました。たとえばハンディキャップという観点ではなく、それぞれの特色として受け入れていこうと。さらにはオンラインで働けるようになったから住んでいる場所で仕事を限定されることも少なくなっていった。そうした多様性が日本でも現実的に受け入れられるようになってきたタイミングで、この小説が出てきたわけです。時代に受け入れられるべくして生まれ、生まれるべくして書かれたのだといえるのではないでしょうか。

 私はこの作品をお仕事小説として読みましたが、介護小説として読んでも輝いているし、友情や絆、師弟関係、主従、そういう観点から読んでも、あるいは時代背景を鋭くとらえた歴史小説としても、どの角度から読んでもクリスタルのように輝く力がある。でもやっぱり私はハンディキャップ当事者として仕事の道を切り開き、人の助けや自分の努力を常に見つめながら歩んできたので、この作品を書いてくださった嵐さんには、「お仕事小説として読めるものを書いてくださってありがとう!」とお伝えしたいです。

村木 お仕事小説と言っていただいたのは初めてのことです。自分でも意識していなかった。麻由子さんご自身が歩まれてきた道のりを、この物語に重ねて読んでくださって本当にうれしい。感無量です。

 20231110日収録 「小説幻冬」1月号掲載)

 

 

まいまいつぶろ

2023.06.27 公開  ポスト

文芸評論家 細谷正充

【書評】時代のうねりの中、実在人物躍動する 御神酒徳利の物語村木嵐

徳川十五代将軍の中でも、九代将軍の家重は、あまり歴史小説の題材として取り上げられることがない。なぜなら扱いが難しいからだ。生まれたときから家重は、重い障がいを抱えていた。顔が引き攣り、片手片足が不自由だ。指先が震えて、文字が書けない。さらに口から音を発することはできるが、何を言っているか分からない。したがって意思疎通が困難であり、よく癇癪を起す。また頻尿であり、漏らすことも多い。尿を引きずった跡が残るためまいまいつぶろ(かたつむり)と陰口を叩かれたりする。描き方によっては差別表現と受け取られる可能性があり、常時、気を遣って書かねばならないから大変だ。だが村木嵐が書き下ろし長篇で、家重と向き合ってくれた。それが本書である。

八代将軍吉宗の嫡男として生まれた長福丸(後の家重)は、本来なら次の将軍職を継ぐ立場である。しかし障がいにより周囲から侮られ、廃嫡が噂されている。弟の小次郎丸(後の宗武)を次期将軍にという意見も根強い。そんなとき、長福丸の口から発せられる音を、言葉として理解できる人物が現れた。まだ少年の大岡兵庫(後の忠光)だ。長福丸の乳母を務めていた上臈御年寄の滝乃井は、このことに狂喜。兵庫の親戚である江戸町奉行の大岡忠相を呼び出し、彼を長福丸の小姓にするという。しかし忠相は、五代将軍綱吉の時代から続き、吉宗の代で断ち切ることのできた側用人政治が復活することを危惧。自ら見極めようと兵庫に会う。ところが聡明で忠義心の厚い兵庫を認め、幕府内で厳しい道を歩むことになる彼の、精神的な支えになろうとするのだった。

という第一章を経て、家重と忠光の二人三脚ともいうべき生活が始まる。実は非常に聡明であり、周囲から侮られ続けた体験から、他人の気持ちを深く理解する家重。忠相の忠告を守り、ただ家重の発言を正確に伝えることに徹する忠光。主従でありながら、互いを心の底から信頼するふたりを見て、老中の酒井忠音など、しだいに家重を次期将軍にと考える人も増えてくる。家重の正室となった比宮(増子)が妊娠したことで、血の継承にも問題ないことが分かった。残念ながら子供は死産であり、比宮も亡くなってしまう。しかしその後、比宮の侍女だった幸が家重の子を産んだ。後の十代将軍家治である。

さて、この調子で粗筋を書いていると、それだけで原稿が終ってしまうので、ここから読みどころに触れていこう。一番の注目ポイントは、家重と忠光である。他者とのコミュニケーションの方法が、首を振ってイエス・ノーを伝えるだけであった家重にとって、忠光の存在は奇跡といっていい。しかも彼は、碌な後ろ盾がない状態で、権臣になることもなく、ひたすら家重に尽くすのだ。ふたりを中心とした場面は、清々しく、美しい。

とはいえ、家重と忠光を認めぬ人も多い。障がいのある家重に将軍職は無理だと思う人がいるのは、無理もないところである。忠光が本当に家重の言葉を伝えているのか疑う人がいるのも納得できる。しかしふたりと比べれば、彼らは我欲に塗れている。権謀術数の渦巻く江戸城で、将軍とそのであることを貫いた、ふたりの毅然とした生き方に胸打たれるのだ。

もちろん他の人物も活写されている。最初の出会いで失望するが、家重と心を通わせる比宮。幕閣の中で、しだいに頭角を現していく田沼意次。いい加減なところがあるが、どうにも憎めない老中の松平武元。長年にわたり家重と忠光を見ていた御庭番の万里。それぞれに個性的なキャラクターが、ストーリーを彩っているのだ。

さらに、物語の背後に置かれている時代の流れにも留意したい。前半は、享保の改革の真っただ中だ。改革の内容は多岐に亘るが、そうしなければならないほど幕府そのものにガタがきていた。改革が失敗すれば、幕府が崩壊する恐れすらあったのだ。したがって、改革の後を受け継ぐ九代将軍を誰にするか、吉宗は慎重にならざるを得なかった。長子相続の決まりを破って宗武にするのか。しかし忠光の登場によって、家重が聡明であることも明らかになった。そこに父親としての情が絡む。なかなか吉宗が決められなかったのも当然だろう。

ついでにいえば、家重が将軍となった後半で、宝暦治水工事と郡上一揆が大きく取り上げられている。木曽三川の治水工事を幕府から命じられた薩摩藩の苦闘は、あまりにも有名であろう。これを幕府側の視点から描き、将軍という立場のままならなさを掘り下げているのだ。なお作者には、宝暦治水工事を題材にした長篇『頂上至極』がある。本書と併せてお薦めしておきたい。

郡上一揆も、幕府側の視点で捉えられている。なるほど幕府側からだと、このように見えるのかと感心。大きな問題を的確に処理しながら、死んでいった農民に思いを馳せる家重が魅力的。時代の大きなうねりの中で、多くの実在人物が躍動しているのである。

それにしてもだ。主従という言葉には収まり切らない、家重と忠光の関係を、どう表現すればいいのか。バディ(相棒)・親友・盟友・魂の兄弟。どれも合っているようで、しっくりこない。あれこれ考えているうちに浮かんできたのが御神酒徳利だ。もともとは、酒を入れて神前に供える一対の徳利のことを意味する。しかしそこから、いつも連れ立っている二人組も意味するようになったのである。本書のラストを読めば分かるが、忠光は常に家重を優先し、家族を顧みることはなかった。家重の口として、栄達を求めることなく、ひたすら寄り添い続けたのだ。まさにふたりは御神酒徳利だったのである。

 

 

好書好日  2024.2.20.

村木嵐「まいまいつぶろ」 歴史小説の特異性を存分に

 

 「歴史小説の特異性ってなんなんでしょう?」

 

 仕事柄よく頂く質問だが、いつも対応に苦慮している。歴史小説は「過去に材を取る」小説であるから、作家の親世代の青春を描いた作品も歴史小説に分類しうる。しかし、歴史小説には言語化しがたい特異性があり、一般の方に説明する際に色々の骨折りを要するのである。しかし、そんな悩みを解決する快作が今、大いに読まれている。本作である。

 時は江戸時代中期、江戸町奉行の大岡忠相(ただすけ)が上臈(じょうろう)御年寄の滝乃井に呼ばれ、江戸城中奥を訪ねるところからこの物語は始まる。滝乃井はかつて八代将軍徳川吉宗の嫡男(ちゃくなん)、長福丸(後の家重)の乳母だったが、重い病で片手片足が動かず、言語不明瞭な長福丸の未来を憂えていた。そんなある日、長福丸の言葉を解する少年、大岡兵庫(後の忠光)を知り、長福丸の小姓に取り立てたいと忠相に相談したのだった。乗り気ではなかった忠相だったが、ともあれ、人品を測るべく、兵庫と顔を合わせることに。かくして、心優しい将軍徳川家重と、忠相に認められ家重の言葉を伝えることのみに徹した忠光の主従が伏魔殿・江戸城に立つ。

 本作は、家重と忠光によって善の側に引き込まれる人々を描いた物語である。ある者は忠光の忠義を疑い、またある者は家重の外見に失望し、またある者は家重の器を疑う。しかし、家重と忠光の確固たる善性によって相対する者の邪心が覆されて他の者に伝播(でんぱ)し、謀略の場である江戸城を、そして天下の様相をも塗り替えていく。

 裏を返せば、本作は家重・忠光主従の善性で支えられた物語といえるが、作中描写は勿論(もちろん)、過去に家重・忠光という麗しい主従が実在したという確固たる歴史的事実で担保する側面もある。本作は、過去に仮託して、人間の奥底にある剝(む)き出しの善性を描くことのできる歴史小説の特異性(の一つ)を利用した作品なのである。=朝日新聞2024217日掲載

    

 幻冬舎・1980円。18刷・7万部。昨年5月刊。「尊敬といたわりの関係が丁寧に描かれ、歴史小説ファン以外にも読まれている。読者層は30代~70代、女性の方がやや多い」と担当者。

 

 

語れぬ将軍の孤独な戦い 縄田一男氏が選ぶ一冊

まいまいつぶろ 村木嵐著

2023615 5:00 [会員限定記事] 日本経済新聞

この一巻は、本年度の歴史・時代小説界において、最も心震える人間記録の一つであろう。"あろう"と記したのはまだ半年残っているからで、しかしながら私はこの作品を凌(しの)ぐ傑作はそうそう出るまいと考えている。

主人公は第9代将軍徳川家重とその小姓大岡忠光。家重は指が動かず、呂律が回らず、歩いた跡には尿を引き摺った痕跡が残るためカタツムリ=まいまいつぶろと呼ばれ、廃嫡寸前にまで追い込まれていた。だが、家重の届かぬ声を、唯一、聞き分ける事の出来る男がいた。忠光である。権謀渦巻く江戸城におけるたった二人の孤独な戦い――

この戦いに正室比宮(なみのみや)が加わり、家重と心通わせてゆく過程は、同時にまいまいつぶろにもう一つの意味が加わるそれでもあり、涙無しには読めない。私は本書を読みながら幾度か嗚咽を洩らさずにはいられなかったが、襲い来る悲しみや苦しみをはねのけ、家重が「私は本気で、将軍を目指してもよいか」と問うシーンはもうたまらない。本書は、苛酷な運命に対して、どれだけ人間の真実が抗し得るかを描いた奇蹟の一巻である。

(文芸評論家)

 

 

Wikipedia

徳川 家重(江戸時代中期の江戸幕府の第9将軍(在任:1745 - 1760)である。

生涯

将軍になるまで

正徳元年1221日(1712128日)、和歌山藩主(後に征夷大将軍)徳川吉宗の長男として江戸赤坂の和歌山藩邸で生まれる。母は家臣・大久保忠直の娘・須磨子(深徳院)。幼名は長福丸。

吉宗が将軍に就任すると同時に江戸城に入り、享保12年(1727)に元服、それまでの将軍家の慣例に倣い、通字の「家」の字を取って家重と名乗る。生来虚弱の上、障害により言語が不明瞭であった[注釈 1]ため、幼少から大奥に籠りがちで酒色にふけって健康を害した。享保1612月(1731)、一品邦永親王の王女比宮(増子)と結婚した。

発話の難に加え、猿楽)を好んで文武を怠ったため、文武に長けた異母弟宗武田安徳川家の祖)と比べて将軍の継嗣として不適格と見られることも多く[注釈 2]、吉宗や幕閣を散々悩ませたとされる。このため、一時は老中首座松平乗邑によって廃嫡および宗武の擁立をされかかったことがある。吉宗は家重を選び、延享2年(1745)に吉宗は隠居して大御所となり、家重は将軍職を譲られて第9代将軍に就任した。しかし宝暦元年(1751)に死去するまでは吉宗が大御所として実権を握り続けた。病身の家重の将軍職継承については、才能云々で次男などに家督を渡すことが相続における長幼の順を乱すことになり、この規律を守らないと兄弟や徳川御三家などの親族さらに派閥家臣らによる後継者争いが権力の乱れを産む、と吉宗が考えたから、とされている。吉宗自身が徳川本家外から来た人間であり、将軍としての血統の正統性が確実ではなかったため、才覚云々ではなく「現将軍の最長子が相続者」という規則を自らが示し守らねばならなかったこと、吉宗自身が将軍後継争いの当事者であったことが背景にある。またこれとは別に、家重の長男家治が父とは逆に非常に聡明であったこと、つまり次世代に期待ができると判断されたことも背景にあったと言われている。家重は吉宗存命中に松平乗邑を老中首座から次席とし、さらに罷免し、さらに減封(加増分没収)、さらに隠居、さらに跡を継いだ乗祐に対し下総佐倉から出羽山形に転封を命じた。弟の宗武には謹慎を命じ、3年後に謹慎を解いた後も生涯謁見を許さなかった。

将軍として

家重の時代は吉宗の推進した享保の改革の遺産があり、綱吉が創設した勘定吟味役を充実させ、現在の会計検査院に近い制度の確立、幕府各部局の予算制度導入、宝暦の勝手造り令酒造統制規制緩和など、幾つかの独自の経済政策を行った。しかし負の遺産も背負うこととなり、享保の改革による増税策により一揆が続発し(直接には宝暦5年(1755)の凶作がきっかけであるが、本質的には増税が原因である)、社会不安が増していった。郡上一揆では、家重は真相の徹底究明を指示し、田沼意次評定所の吟味に参加し、老中本多正珍、西丸若年寄本多忠央大目付曲淵英元、勘定奉行大橋親義らが処罰され、郡上藩相良藩2藩が改易となった。百姓一揆で幕府上層部にまで処罰が及んだ例は郡上一揆が唯一である。また薩摩藩に対して木曽三川の工事を命じ、膨大な財政負担を薩摩藩に負わせた(宝暦治水事件)。京都で宝暦事件が起きたのも、家重が将軍職にあった時期である。また次男重好に江戸城清水門内で屋敷を与えて徳川姓を許し、御三卿体制を整えた。ただ、健康を害した後の家重はますます言語不明瞭が進み、側近の大岡忠光のみが聞き分けることができたため彼を重用し、側用人制度を復活させた。田沼意次が大名に取り立てられたのも家重の時代である。

重用された大岡忠光は、権勢に奢って失政暴政を行うことはなかったと言われる。宝暦10426日(176069日)に忠光が死ぬと、家重は513625)に長男家治に将軍職を譲って大御所と称した。

宝暦11年(1761年)612日、田沼意次の重用を家治に遺言し、死去した。享年51(満49歳没)であった。

人物・逸話

家重の言語不明瞭は、脳性麻痺による言語障害とする説がある。

あまりに頻繁に尿意を催していたせいで口さがない人々から小便公方と揶揄された。

江戸城から上野寛永寺へ出向く道中(数km)に23箇所も便所を設置させたとされ、少なくともこの時期、いわゆる頻尿であったことは確認できる。

御簾中(ごれんじゅう、貴人の正室)が死去したのち、側室・お幸の方を寵愛した。やがて長男・家治が生まれ、お幸の方は「お部屋様」と崇められた。しかし家重は後に、お千瀬の方を寵愛するようになった。女だけでなく酒にも溺れるようになった家重に対し、お幸の方が注意をしたもののそれを聞かず、むしろ疎むようにさえなった。そうした中、側室との睦みごとの最中にお幸の方が入ってきたことで癇癪を起こし、お幸の方を牢獄に閉じ込めた。それを聞いた吉宗が「嫡男の生母を閉じ込めるのはよくない」と注意し、お幸の方は牢から出られたものの、2人の仲が戻ることはなかったという。

太平洋戦争後、増上寺の改修に伴い、同寺境内の徳川将軍家墓所の発掘・移転が行われた。この時、歴代将軍やその家族の遺骨の調査も行なわれた。

死後、埋葬された歴代将軍の中でも家重は、最も整った顔立ちをしており、様々な行事で諸大名に謁見した際に非常に気高く見えたという『徳川実紀』における内容の記述を裏付けている。しかし、肖像画ではひょっとこのような顔で描かれており、顔面麻痺によるものとする説がある。

歯には約45度の角度での磨耗が見られ、これにより、少なくとも乳歯から永久歯へと生え変わって以降、四六時中歯ぎしりを行なっていたと推察された。これはアテトーゼタイプの脳性麻痺の典型的症状としても見られるものである。また頻尿は排尿障害によるものと考えられ、死因は尿路感染尿毒症のためと推測されている。

血液型A型であった。

四肢骨から推定した身長は156.3cmであった。これは、当時の男性の平均身長(157.1cm)よりわずかに低く、当時の女性の平均身長(145.6cm)より10cm高い。

評価

徳川実紀』には、「近習の臣といえども、常に見え奉るもの稀なりしかば、御言行の伝ふ事いと少なし」・「御みずからは御襖弱にわたらせ給ひしが、万機の事ども、よく大臣に委任せられ、御治世十六年の間、四海波静かに万民無為の化に浴しけるは、有徳院(吉宗)殿の御余慶といへども、しかしながらよく守成の業をなし給ふ」と記されている。つまり、無能な将軍だったが、幕閣の大岡忠光や父・吉宗の遺産もあって、平穏を保ったと言われているのである。

その一方で、大岡忠光や田沼意次のような優秀な幕臣を見出して重用していたり、勘定吟味役を充実させたりしていることから、井沢元彦は「人事能力は優れている」・「隠れた名君である」と評し、『徳川実紀』の評価を、障害ゆえに知性も低いという偏見、あるいは抜擢した意次の低評価によるものとしている。また甲斐素直も、障害があっても頭脳は怜悧で強力なリーダーシップで政治実権を握った将軍であり、綱吉同様、幕閣に不人気だったために低評価になったとの見方をしている。

経歴

享保9年(17241115、将軍後継者となる。

享保10年(172549従二位権大納言に叙任。元服して家重と名乗る。

寛保元年(174187右近衛大将を兼帯。

延享2年(1745112正二位内大臣に昇進。右近衛大将元の如し。併せて征夷大将軍源氏長者宣下。

宝暦10年(176024右大臣に昇進。41、征夷大将軍を辞す。

宝暦11年(1761612、死去。724、贈正一位太政大臣

注釈

注釈1.   ^ 徳川実紀』には「御多病にて、御言葉さはやかならざりし故、近侍の臣といへども聞き取り奉る事難し」とある。

注釈2.   ^ 一条兼香の日記『兼香公記』では「武道は修めるも文道に及ばず、酒色遊芸にふけり狩猟を好まず」とある。

 

 

 

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