塞王の楯  今村翔吾  2024.10.2.

 2024.10.2.  塞王の楯

 

著者 今村翔吾 1984年京都府生まれ。2017年『火喰鳥 羽州ぼろ鳶組』でデビューし、18年同作で第7回歴史時代作家クラブ賞・文庫書き下ろし新人賞を受賞。同年「童神」で第10回角川春樹小説賞を受賞(刊行時『童の神』と改題)20年『八本目の槍』で第41回吉川英治文学新人賞、『じんかん』で第11回山田風太郎賞、21年「羽州ぼろ鳶組」シリーズで第6回吉川英治文庫賞、22年『塞王の楯』で第166回直木三十五賞を受賞。その他の著書に「くらまし屋稼業」シリーズ、「イクサガミ」シリーズ、『幸村を討て』、『茜唄』、『戦国武将を推理する』、『海を破る者』など。

 

発行日           2021.10.30. 第1刷発行     2022.1.16. 第4刷発行

発行所           集英社

 

初出 『小説すばる』20198月号~202012月号、202138月号

 

幼い頃、落城によって家族を喪った石工の匡介。彼は「絶対に破られない石垣」を造れば、世から戦を無くせると考えていた。一方、戦で父を喪った鉄砲職人の彦九郎は、「どんな城も落とす砲」で人を殺し、その恐怖を天下に知らしめれば、戦をする者はいなくなると考えていた。秀吉が死に、戦乱の気配が近づく中、琵琶湖畔にある大津城の城主・京極高次は、匡介に石垣造りを頼む。攻め手の石田三成は、彦九郎に鉄砲作りを依頼した。

大軍に囲まれ絶体絶命の大津城を舞台に、信念をかけた職人の対決が幕を開ける

 

 

浅井家への支援が失敗し、朝倉家の一乗谷には織田軍が踏み込んでくるとなって騒然。農民は城に迫るが、御屋形様は既に落ちた後。匡介は8歳、はぐれた父と妹を探し続ける途中で町を守る楯を作るはずだった飛田源斎に救われ北に落ちのびる

 

第1章        石工(いしく)の都

「石頭(せつとう)」と呼ばれる鉄の槌を使って岩を削る

飛田は、近江国穴太(あのう)に代々根を張って石垣づくりの特技を持つ穴太衆と呼ばれる集団の長で、匡介を副頭にして後継者に指名

穴太衆の技は3種。石を切り出す山方、現場まで運ぶ荷方、石垣に積み上げる積方

穴太衆では石垣のことを楯ともいう

穴太衆の中で当代随一の技を持つ者が塞王の称号を名乗る

 

第2章        (かかり)

本能寺の変のあと、近江の諸大名が次々と明智に下るなか、蒲生賢秀・氏郷親子だけは信長の家族を保護して日野城に籠り抵抗。信長は氏郷の岳父。日野城は改修の最中。飛田屋に石積みを要請

飛田屋を総動員し、突貫で石積みを行うことを「懸」と呼ぶ

修復が終わる前に明智方に味方した甲賀衆が攻めて来たので、要石を外して火薬を仕掛け、石垣を爆破して敵を撃退、和議に持ち込む。結局明智勢は秀吉軍に敗れ、日野には来ず

 

第3章        矛盾の業(ごう)

秀吉の伏見城移築は片桐且元が奉行となり、源斎にすべての縄張り(配置図)を引かせる。その間、大津城の修復の要請が来て、匡介に任される

大津城城主は京極高次。京極家は北近江の守護大名だったが、浅井の下克上でその地位を追われ、足利没落とともに織田に人質として出されたのが高次。明智に味方して追われるが、妹を秀吉の側室に差し出して大名に返り咲く。高次は浅井の娘初を正室に迎えると、初の姉の茶々を秀吉が側室に迎え、高次は加増され大津城城主となる。閨閥という尻の光による出世から、高次のことを人々は陰で蛍大名と呼んだ

北近江の国友村は古くから鍛治の村として知られ、現在は至高の「矛=鉄砲」を作り、国友衆と呼ばれ、日本一の生産量を誇っていた

鉄砲の登場以降、山城の戦略的価値は大きく下がり、それに伴って石垣が重宝されるようになり、鉄砲と石垣の技は、奇しくも戦の表裏として競い合うようにして磨かれた

国友の頭領は三落で、穴太衆の「塞王」に対し「砲仙(ほうせん)」と呼ばれ、次代を担うのが国友彦(げん)九郎

大津城は珍しい水城、その縄張りは天守閣のある本丸が湖上に突き出し、南側の外堀に向って徐々に高くなるため、外堀正面は空堀。改修に当って、匡介は空堀を擂鉢状に掘り下げ外堀に沿うように暗渠を作り水を引き込もうと考える

 

第4章        湖上の城

慶長3(1598)大津城改修完成

 

第5章        泰平揺()

豊臣による天下泰平と共に石積みの仕事はなくなったが、没後には再び諸大名がそれぞれ身を守るため城の守りを固めようとする。太閤の遺言にも伏見城の強化があった

源斎は秀吉の遺言を守って伏見城の増強に取り組む

国友衆の彦九郎は、近江守護の六角氏の家臣吉田家の嫡男。織田家の火縄銃の威力の前に父が倒れたのを見て、彦九郎は武士の身分を捨て国友衆の下に弟子入り。戦乱の世になって、穴太衆の積んだ城を鉄砲で征服する最後の機会と捉え、先ずは内府(家康)が籠る伏見城攻略戦のため西軍に鉄砲を売り込む。伏見城には既に源斎が入っている

 

第6章        (いしずえ)

は味方に落ちる城の増強は既存の城壁の上部に「扇の勾配」と呼ばれる武者返し/忍び返しを積み上げ、その隙間に鉄砲狭間を作って反撃をする構造。敵方の銃弾は自陣へ跳ね返るが、最後は城に潜り込んだ甲賀衆が寝返って場内に放火、さらに雨の中を攻め手の銃弾が間断なく飛び込む。雨では勢いの落ちる火縄銃に代って国友衆が開発したのが火打石と回転の摩擦を利用した新式銃。源斎は城の石積みをしながら国友衆の手の内を見届け、匡介に使いをやって知らせるが、自らは銃弾を受け城と運命を共にする

三成はさらに内府を追って東征に兵を進める。大津城の京極高次は当初内府に味方したが、内府が上杉征伐に向かう間に畿内はほぼ西軍一色となり、高次もやむを得ず西方に付くが、三成が大津城を最前線にしようとしているのを知って孤軍立ち向かおうと匡介に助けを求める。高次の兵は3千、攻め手は2万。そこには秀吉が「日の本無双の勇将」と称えた立花宗茂の5千が加わる

 

第7章        蛍と無双

攻め手の毛利勢が攻めあぐね、東軍が美濃辺りまで戻ってきていることから、攻めを急ごうと立花勢が全面に出て城に攻勢をかける。大津城は三の丸まで破られる

 

第8章        (いかづち)の砲(ほう)

京極勢は、殆ど犠牲者もなしに本丸に逃げ込み、毛利・立花勢は彦九郎の進言に従い、とっておきの高性能の大筒で本丸を攻める。大砲が命中し始めると場内の避難民が一斉に城から逃げ出そうと混乱。彦九郎はさらに精度を上げるために大砲を城近くに移動させる

 

第9章        塞王の楯

匡介はそれを見て伊予丸の石垣を積み増して天主閣を防衛。大砲で崩れた石垣を、次の弾が来るまでの間隔に合わせて補修を繰り返し、天守閣を守る。遂には領民までが手伝いに加わるが、終に要石が打ち砕かれ補修もこれまでとなり、高次も城を明け渡す決断を下す

 

高次は降伏を決めるとすぐ城を出て園城寺に赴き剃髪。死を覚悟したが、見事な戦いぶりを認められて一命を許され、代わりに大津を離れることを命じられ高野山に向かう

その日美濃国関が原で東西両軍の決戦が行われ、毛利・立花らは決戦に間に合わず。家康は大津城による足止めを激しく賞讃。高野山の高次を迎えで若狭85千石を加増転封

戈と楯、泰平の形・質は矛が決める訳でも楯が決める訳でもない。決めるのは人の心であると匡介も彦九郎も気づいた

 

 

 

 

 

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「最強の楯」×「至高の矛」

近江の国・大津城を舞台に、石垣職人穴太衆と鉄砲職人国友衆の宿命の対決を描く究極のエンターテインメント戦国小説。

著者コメント

あらすじ

塞王の楯 上

対談=北方謙三

時は戦国。炎に包まれた一乗谷で、幼き匡介は家族を喪い、運命の師と出逢う。石垣職人

"穴太衆"の頂点に君臨する塞王・飛田源斎。

彼のように鉄壁の石垣を造れたら、いつか世の戦は途絶える。

匡介はそう信じて、石工として腕を磨く。一方、鉄砲職人"国友衆"の若き鬼才・国友彦九郎は、誰もが恐れる脅威の鉄砲で戦なき世を目指す。相反する二つの信念。対決の時が迫る!

塞王の楯 下

解説=加藤シゲアキ

太閤秀吉が病没した。押し寄せる大乱の気配。源斎は、最後の仕事だと言い残し、激しい攻城戦が予想される伏見城へと発った。代わって、穴太衆・飛田屋の頭となった匡介は、京極高次から琵琶湖畔にある大津城の石垣の改修を任される。立ちはだかるは、彦九郎率いる国友衆と最新の鉄砲。関ヶ原前夜の大津城を舞台に、宿命の対決が幕を開ける! 最強の楯と至高の矛、二つの魂が行き着く先は――

匡介(きょうすけ) 越前・一乗谷の生まれで、幼き頃に戦で父母と妹を喪う。積方の小組頭にして飛田屋の副頭。

飛田源斎(とびた げんさい) 穴太衆・飛田屋の頭目。鉄壁の石垣を積み上げることから「塞王」の名で崇敬を集める。

玲次(れいじ) 荷方の小組頭。同い年の匡介によく悪態をつく。源斎の甥。

彦九郎(げんくろう) 国友衆の次期頭目。その腕を豊臣秀吉にも認められた、国友衆始まって以来の鬼才。

 

城の石垣を作る石工(いしく)を描いた物語!

『塞王の楯』刊行 今村翔吾インタビュー

戦う勇気よりも終わらせる勇気に、人間の強さを感じるんです。

今村翔吾の最新作『塞王の楯』は、安土桃山時代末期を舞台に、城の石垣などを作る「穴太衆(あのうしゅう)」の石工を主人公に据えた物語だ。とにかく、べらぼうに熱い。

聞き手・構成=吉田大助/撮影=山口真由子

―― 「小説すばる」20198月号で『塞王の楯』の連載が始まった時のことはよく覚えています。舞台は豊臣の世となり戦争の火が消えた、安土桃山時代の末期。なおかつ主人公は石垣を作る職人、「穴太衆」の石工です。静か動かで言えば静、地味か派手かでいうと、地味ですよね。ところが、全編読み終えた今はまったく異なる感情を抱いています。活劇としてもべらぼうに熱い、ある意味でど真ん中の「戦国小説」だったんです。まずはどのように新連載を立ち上げていったのか、詳しくお伺いできたらと思います。

 ここ数年の間に僕が書き始めた小説は、大きく2つのテーマに絞っています。1つは日本というものを見る枠をぐっと広げて、「世界の中の日本」をテーマにした作品。倭寇と長宗我部元親を描く『海鬼(かいらぎ)の国』(「STORY BOX20201月号~)や、元寇を題材にした『海を破る者』(「別冊文藝春秋」20203月号~)がそうです。もう1つが、日本の歴史の細部にギュッと寄っていったところに現れるものを書く作品。要は「引くか、寄るか」の2パターンですね。集英社では「寄り」でやってみようと思ったのが、『塞王の楯』の出発点でした。つまり、普通の戦国小説であれば完全に脇役というか、風景をなす一要素でしかない石工にギュッと寄ってみる。ただ、普通に石を積んで終わりでは、僕らしい躍動感が出せません。合戦が描け、その中で躍動する石工たちの姿を描けるとしたらどこだろうとなった時に、大津城の戦いのことがパッと思い浮かんだんです。

――近江国大津城を巡って行われた、関ヶ原の戦いの前哨戦としても知られる、史実に残る戦いですね。物語の後半部を占めています。

 僕は京都出身で、今は滋賀、かつて近江国と呼ばれていた地域に住んでいます。近江国って、不思議なんですよ。当時、甲賀みたいな諜報の技術を売りにする人々もいれば、国友(くにとも)衆という鉄砲の技術の研鑽を積む集団もいて、穴太衆という石工の集団もいた。いわば「技術大国・近江」だったんです。そして国友衆と穴太衆が直接激突したのが、大津城の戦いだった。ここを舞台にすれば、職人がメインの戦いを描けるぞ、と。大津城城主で蛍大名とも呼ばれ戦国時代の「愚将」の代表格である京極高次と、「四国無双」と名高い立花宗茂の顔合わせも非常に面白いんですけどね。でも、言ってみればこの作品は職人が主人公で、武将が脇役なんです。

―― 石垣の構造や石工という職業についての詳しい記述が出てきますが、もともと知識はおありだったんでしょうか?

 子供の頃から歴史が好きだったので、城やなんかを見に行って「この石垣は野面積(のづらづ)みやな」とか「あの石の積み方は珍しい」とか、よくやっていましたね。戦国から江戸期まで通じ石積みの大半は穴太衆が関わっている、ということも知識としてはありました。ただ、実際に石を積む石工さん達についての知識というか情報は、ほぼ持っていなかった。資料も読みつつ集英社にお願いして、穴太衆の末裔の職人さんのところへ取材に行かせてもらいました。滋賀にある株式会社粟田建設の社長の、粟田純徳(すみのり)さん。2016年の震災で崩れた熊本城の石垣の、再建作業に当たっている方です。

―― 取材で得たものとは?

 いっぱいありましたよ。例えば、職人さん達の手が異様に綺麗だったんですが、その理由は塩で手を洗うことで、手の感覚を研ぎ澄ましているからだとおっしゃっていました。石垣を作る時にはまず最初に、「栗石(くりいし)」と呼ばれる拳大の石を敷き詰めて地固めをするんですが、その作業ができるようになるまで15年は修業が必要、とか。石積みは軍事機密だから資料を残すことができず、口伝(くちづ)てで技術が受け継がれているというのも面白かった。その話を聞いて、剣術みたいな、論理よりも感覚を重要視する分野の「師匠と弟子」の関係に近いなと思ったんです。この作品が「師匠と弟子」の物語として始まり、「時代を超えて受け継いでいくもの」を描くことになったのは、取材させてもらったおかげです。

 

戦場に立つ石工の視線から戦争のリアルを描く

―― 物語の主人公は、匡介。序章では戦国時代ゆえの残酷な情景が現れ、彼は家族を失います。そんな少年の前に現れたのが、飛田源斎。穴太衆千年の歴史の中でも「天才」との呼び声が高く、当代随一を意味する「塞王」の異名を持つ人物です。源斎は焦土のただ中で、匡介を穴太衆にスカウトする。匡介の言動から、「石の声を聞く」という異能の持ち主であることを見抜いたんですよね。今、つい異能と表現してしまいましたが、石積み職人にとってこの感覚はもしかしてあり得ないことではない?

 穴太衆の粟田さんは、「石の声が聞こえるようになって一人前だ」とおっしゃっていました。だって、ただ石を積んでいくだけで、堅牢な壁を作ってしまうわけですからね。実験によると、現代の科学で作ったコンクリートよりも、石積みで作った石垣の方が強度は高かったそうです。特に、粟田さんのおじいさまがものすごかったらしいんですよ。どの位置にどの石を置けばいいか、無数の石をパッと見るだけで全部ピタッと言い当てられたそうなんです。石にまつわる超能力のようなものを持っていた方が現実にいたんだからと、小説の中でもそのあたりは自信を持って書いていきましたね。

―― 本編では22年後に時間がジャンプし、30歳になった匡介が登場します。飛田源斎により後継者に指名され、穴太衆随一の技能で知られる「飛田組」の副頭として働く姿がいきいきと綴られていく。その過程で、匡介は源斎に向かって強烈な一言を浴びせます。「俺はあんたを必ず超える。塞王になってみせる!」と。実は、『ONE PIECE』のルフィ(「海賊王!!!おれはなるっ!!!!」)をちょっと思い出してしまいました。

 僕も思いましたよ、そのセリフを書いた時。ああいった自分の思いをさらけ出すようなセリフって、僕が言わせているというよりは、匡介が勝手に言っているんです。ちょっとルフィみたいだと思ったけど、匡介の言葉だからと思ってそのまま載せました(笑)。

―― 匡介は、少年漫画の主人公のような熱さがありますよね。かといって、熱いだけの人物像ではありません。本作の主人公像は、どのように探っていかれたのでしょうか。

 穴太衆は何をやっているかというと、敵襲から人々を「守る」ための石垣を築くこと。匡介は、少年時代に母や妹たちを「守れなかった」ということを常に傷として抱えています。つまり、自分にはかつて「守れなかった」という悔恨があるからこそ、石垣造りを通して「守るとは何か?」と考えて考えて、考え続けているんです。ぐだぐだ迷うしいつも悩んでいる匡介は、もしかしたら僕の小説の中で一番、一般人に近い男かもしれません。

―― 匡介が心を許す盟友は、石を運搬する「荷方(にかた)」の頭領の玲次(れいじ)。一方の宿敵は、国友衆始まって以来の鬼才・国友彦九郎(げんくろう)です。石垣という「楯」と、鉄砲という「矛」。世に言う「矛楯」の対決が、前半部で数度にわたって描かれていきます。

 最強の楯と最強の矛が対決したら、どちらかは必ず勝つんです。その勝敗をもとにお互いさらなる研鑽を積んで、最強たらんとする技術を磨き上げていく。職人たちのその様をきちんと見せたい、という思いは強くありました。だから大津城の戦いの前に、何戦かはさせなければならなかった。ただ、石垣の仕組みを生かして表現できるギミックって、限られているんですよ。「石垣でこんなことできるの!?」というエンタメ的にも視覚的にも派手なものはできる限り大津に取っておきたかったので、少ない資源で接戦を演出するのは苦労しました。

―― 合戦の中で躍動する石工たちの姿を象徴しているのが、「懸(かかり)」です。敵が進撃してくる状況において、戦場の真ん中で、全員総出の突貫工事で石垣を修復する行為です。

 そのあたりは僕が考えました。「懸」は造語ですね。穴太衆が戦争中も石垣を修復した史実はあるので、そこから着想を得て、という感じです。これは池波正太郎先生から学んでいることで、池波先生って造語を作るのがめっちゃ得意なんですよ。「それってフィクションじゃん」みたいに断じられるかもしれないですが、「戦地に入る石工の技術者集団」というのを読者に分かりやすく伝えるうえでは、言葉を作る必要がありました。

―― 太平の世が続いているためここ14年間は、懸の号令が出ていない。しかし、秀吉が亡くなり豊臣家が弱体化し、徳川家康が覇権を握りつつあるなかで、近江国にも徐々に戦(いくさ)の気配が漂ってくる。懸という字面(じづら)が現れるたびに、緊迫感が増していった気がします。

 14年前の懸のシーンを書いていて思ったのは、こんな状況で石垣を作るのって本当に怖かったやろな、と。石垣を作る場所は当然、戦の最前線ですから、石工の居場所って足軽と同じなんですよ。例えば目の前に銃弾が飛んでくるという描写って、ありそうであんまりない。それって、足軽視点で戦を書いた小説が少ないからだと思うんです。そこをしっかり描くことで、戦争のリアルを描きたいと思っていました。戦場ではいつ誰がどういうふうに死ぬかも分からない、死神がうろついているような世界を描きたかった。

 

戦争の歴史とは、戦争を終わらせてきた歴史でもある

―― 物語の後半部は、大津城の戦いです。切磋琢磨してきた最強の「矛」と「楯」が、自らの力を出し切りますね。

 匡介たちは国友衆の猛攻に対抗し、荒唐無稽な方法ではなく、あくまでも今まであった石垣の積み方であったり工夫の仕方で、大津城を守っていく。それまで出し惜しみしておいたネタを全部、出し切りました(笑)。幸いにもと言うべきか、大津城は廃城となってしまったために城の形や大きさも分からなければ、戦の被害もよく分からないんです。だから、意外と書きやすかったですね。残された数少ない史実に寄りかかりながら、思い切って膨らましていきました。

―― 石垣という題材でこんなにも躍動感のある展開を次々生み出せるのか、と驚きました。と同時にこの躍動感は、カメラワークによるところもあるのではないかと感じたんです。戦場を俯瞰したロングショット(引き)と、戦場に立つ者どもの細部を高解像で見つめるクローズアップ(寄り)のスイッチングが絶妙で、エモーションを搔き立てられます。

 僕の小説は「映像的」ってよく言われるんですけど、実際その通りで、僕は頭の中にはっきり映像があるんです。そして、確かに僕はカメラをよく動かす(笑)。例えば、匡介がめっちゃしんどそうに地面にへばりつているってなったら、その姿全体を引きで見せるよりも、匡介の口元を見せるほうが格好いいやろうなって思うんですよね。グッと寄っていってぜえぜえした息で砂がふーっと舞い上がるところを、僕は見てみたい。そのカットを思い浮かべて、それに見合った描写を書くという感じかもしれません。その逆に、あえてぼやかすというか細かく書き過ぎないことで、読者に自由に想像してもらうこともあります。常に考えているのは、読者の想像力を最大限引き出すような文章を書くことなんです。

―― 合戦描写は本当に大興奮でした。しかも、史実にもある通り、大津城の戦いは戦国時代にとどめを刺す「最後の戦」です。なぜ戦争が起こるのか、どうしたら戦争を止められるのか? 武器があるから戦争は始まるのか、武器があるから止められるのか? そうしたテーマ系が、戦の最中において一気に噴出していく。匡介たちの複雑な内面描写もまた、本作の大きな魅力だと思います。

 日本は今、一応の平和を謳歌していますが、76年前は戦争をしていたわけですよね。アフガニスタンをはじめ世界中の至るところでたった今、戦争は実際に起きています。関ヶ原の戦いで戦国は終わったと言っても過言ではないですが、その道筋を決定付けた大津城の戦いを描くことによって、何かを考えるきっかけになるのではないかと思いました。戦争の歴史は、戦争を終わらせてきた歴史でもあるわけですよ。戦う勇気よりも終わらせる勇気に、人間の強さみたいなものを僕は感じるんです。戦争と言わずとも、例えば学校のクラスでの小さな争いでもいいんです。人間が生きていて、ダメだと分かっているのに絶対に起こる争いというものを、どうやったら止められるのか。僕自身は、この問題に答えはないと思っています。ただ、考えること自体を放棄している世の中にはなってはいけないということだけは分かるんですよね。僕も考えます、みんなも一緒に考えましょうよというメッセージを、この小説には込めたつもりなんです。

―― 間違いなく、今まで誰も読んだことのない「戦国小説」になっていると思います。

 僕は結構な量の歴史時代小説を読んできたほうだと思うんですが、司馬遼太郎先生が全盛であった時代、その前の海音寺潮五郎先生や吉川英治先生の時代、さらにその前……と過去から現代に続く流れを見ていったなかで、「いまだないものって何だろう?」と。誰もやっていないことをやりたい、というのは大前提としてあるんです。『塞王の楯』に着手した時から、これはうまいこといけば類例がない小説になるだろうとは思っていました。目標としては穴太衆の石垣のように200年後、300年後も読まれているものになっていたら嬉しいです。今後もそこは挑戦し続けたいですね。

 

 

Wikipedia

大津城の戦いは、慶長597(16001013)~同年915(1021)まで、近江国大津城を巡って行われた戦い。関ヶ原の戦い前哨戦と位置付けられる。

経緯

豊臣秀吉の死後、徳川家康と、石田三成らの対立は、慶長5年の会津征伐を契機として表面化する。三成は家康が会津攻めに赴いたことを好機として、大谷吉継毛利輝元らの諸大名を糾合して挙兵した。そして、家康が畿内を留守にしている隙をついて伏見城を落とし(伏見城の戦い)、次いで北陸伊勢方面の平定に乗り出していた。

北陸方面の平定には、越前敦賀の大名である吉継が担当することとなった。そして、この北陸方面軍の一員として、近江大津城の城主・京極高次が加わっていた。ところが吉継が北陸から美濃へと転進する最中に、高次は突如東軍に寝返り、手勢3000名を率いて大津城に籠城し、防備を固め始めた。もっとも、家康は上杉討伐に向かう前に大津城で高次と会談して支持を取り付けており、高次は最初から東軍の一員であったが、東軍加担の事実が発覚するのを避けるため西軍の動きに一見応じる姿勢を見せ、三成ら西軍諸将がその事実に気づかなかっただけだとする説もある。

大津城は城自体が琵琶湖に面した舟運基地であり、また城下には東海道中山道西近江路が束ねられ、西軍の進出している越前・美濃・伊勢方面と西軍本拠の上方を結ぶ交通における要衝であったことから、西軍側は早急に寝返りに対処する必要があった。籠城中、大津城に大坂城から使者が送られる。使者は城内にいる初(常高院)、龍(松の丸殿)を守るために送られたもので、淀殿北政所の連携によるものである。

西軍側は毛利元康を大将とし、それに立花宗茂小早川秀包筑紫広門ら九州方面の諸大名の軍勢を中心とした総勢15000人の軍勢をもって、97日より大津城に対して包囲攻撃を開始した。

911夜から12日の夜明けまでに、京極方の赤尾伊豆守・山田大炊[注釈 1]は兵500を率いて夜中に城外へ討って出て、毛利や筑紫の陣所に乗り込んで戦ったという。しかし、宗茂は城方の夜襲を予見し、さらに家臣の十時連貞が敵将の丸毛萬五郎・箕浦備後・三田村安右衛門の3人を捕縛した。

12日の戦では、宗茂は高さ1(約1.8m)の土塁と城からの矢弾を防ぐ竹束を置いて、千鳥掛のような幅1間半(約2.7m)、深さ1間余の塹壕を掘り、ここより鉄砲射撃を行わせた。「早込」[注釈 2]を用いた立花勢は他家の鉄砲隊の3倍速で銃撃し、城方は激しい銃撃に耐えられず鉄砲狭間を閉じた。

13日に立花勢の先鋒大将・立花成家[注釈 3]内田統続らが城の外壁を破るのに奮戦し、由布惟貞が一番乗りを果たし、続いて中江新八清田正成らは数多く敵を斬り払って三の丸から二の丸まで突破したという。また、同日に立花勢より大砲を城内に撃ち込んだ。砲弾は天守にも命中、城内は混乱した。「立花勢、長等山より城中に大筒を打ち入れ、これより防戦難儀にをよぶ」と伝えている。

14、元康は大坂城からの使者・高野山木食応其上人と新庄直忠を遣わし、降伏を勧めたが、高次はそれに従わず徹底抗戦の構えを見せた。その時、宗茂が高次の一命を助けようとの保証の書状をしたため、家臣の世戸口政真が大津城に立てられる高次の馬印に矢文を見事に命中させた。その書状の内容を読んだ高次は宗茂の厚情に感じ入り、かつ北政所の使者・孝蔵主を受け、老臣の黒田伊予の説得もあり、遂に降参した。宗茂は一族の立花政辰(立花三郎右衛門・臼杵新介)を人質として城中へ送った一方、15に高次は園城寺に入り、剃髪染衣の姿になって下城したので、宗茂は身柄を受け取り、高野山へ送った。

影響

この攻防戦は西軍の勝利に終わったが、大津城が開城した915日は関ヶ原の戦いの当日であった。そのため西軍は、本来ならば関ヶ原にあったはずの15000人の兵力を欠いたまま東軍と戦うという状況に陥った。結果として、大津城の落城という戦果は、その日のうちに無意味なものとなった。

立花宗茂は大津城を開城させた後、軍勢を率いて草津まで進出したが、そこで西軍の壊滅を知って大坂城への退却を余儀なくされ、戦後に改易された。

一方、敗軍の将である京極高次に対して徳川家康は、関ヶ原戦後に高次の弟・京極高知(関ヶ原で東軍の将として功を挙げた)を使者として高野山に派遣し、大名としての復帰を許しただけではなく、若狭一国・85000を与えて功に報いた。また、その翌年には近江国高島郡から7100石が加増され、あわせて92100石となった。家康は高次が宗茂らを大津城に引き付け、関ヶ原へ向かわせなかったことを称賛したという。

備考

石田三成は慶長5912日付で増田長盛に宛てた書状で、伊那侍従(京極高知)の存在を見落としていたことを悔やんでいる(高知が東軍についている時点で兄の高次も東軍とつながっている可能性があったのに気づいていなかったことを指したものか)。

板坂卜斎は「大津の城を攻め候を、京の町人共重箱を提げ、水筒を持たせ、三井寺観音堂にて、恐しげもなく日夜見物申し候なり」と覚書に記しており、攻防戦を場外の遠くから見物している群衆がいたことが知られる。

脚注

1.     御厨論文では、山田は高次の命によって高知の部隊に加わっていたとしている。

2.     早合」ともいう。1発分の火薬を詰めた竹筒の束を鉄砲隊の肩にかけさせる工夫。

3.     薦野増時の嫡男。立花吉右衛門。

 

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