赤と青のガウン  彬子女王  2024.10.14.

 2024.10.14. 赤と青のガウン~オックスフォード留学記

 

著者 彬子女王 1981年 故寛仁親王殿下の第一女子としてご誕生。学習院大卒後、英国オックスフォード大学マートン・コレッジ(Merton College)に留学され、女性皇族初の博士号を取得してご帰国(専攻は日本美術)。立命館大総合研究機構のポストドクトラルフェロー、特別招聘准教授を経て、現在は日本・トルコ協会総裁、一般社団法人日英協会名誉総裁、公益社団法人日本プロスキー教師協会総裁、公益財団法人日本ラグビーフットボール協会名誉総裁、一般社団法人心游舎総裁、京都産業大日本文化研究所特別教授、京都市立芸術大客員教授など

 

発行日           2024.4.15. 第1版第1刷    24.7.12. 第1版第9

発行所           PHP文庫

 

月刊誌『Voice(PHP研究所) 20124月号~20145月号に連載の『オックスフォード留学記――中世の街に学んで』に加筆を得て再編集し、20151月に刊行されたもの

文庫化に際しても加筆・補整を得ました

 

 

カバー裏

女性皇族として初の博士号取得

瑞々しい筆致で綴られた留学の日々

 

カバー袖裏

この留学記には、彬子女王という人間の人生の記録として、楽しかったことも辛かったこともすべて正直に書き綴ってきたつもりである

これが、私の留学生活を温かく見守って下さった全ての方たちへの、私の心からの感謝の気持ちを込めた「最終報告書」である (25不撓不屈」より)

 

 

娘をオックスフォード大学に留学させるのは、父の昔からの夢だったようだ

私が学んだマートン・コレッジは、オックスフォード大学内で最古のコレッジの1つである

生れて初めて1人で街を歩いたのは日本ではなくオックスフォードだった

孤軍奮闘せざるを得ないことが多い留学生活のなかで、仲間がいてくれるのはほんとうに幸せなことだ

彼らと過ごす時間は、辛いことも多かった留学生活の中で数少ない安らぎのひとときだった

日本だと必ず生餌側衛が付き、1人で旅行に行くことなど皆無の私だが、留学中はたびたび1人で旅行をした

スーツケースを自分で運び、ジーンズにセーター姿で目の前に立っている女の子が、まさか本物のプリンセスだとは思えなかったのだろう

自慢ではないが、私が旅をするとたいてい何かしらの事件が起こる

オックスフォードに大切な家族がいる。それは英国で1人暮らしをする私にとって大きな心の支えだった

留学期間中のロンドンでいちばん長い時間を過ごしたのは、おそらくこの大英博物館のデスクだったと思う

大学院生が着る黒一色のガウンを脱ぎ、D.Phil.の赤字に青のガウンを着せかけられたとき、さまざまな思いが頭を巡った

私の留学生活を温かく見守って下さったすべての方たちへの私の心からの感謝の気持ちを込めた「最終報告書」である

 

1.  百川学海(ひゃくせんがっかい、中国の格言、全ての川は海に至る、転じて、どんな人でも修養・努力すれば、大望を成し遂げることが出来るという意味)

   おわりとはじまり

2011年、オックスフォード大から博士号を授与され、5年の研究生活の成果が認められた

オックスフォード大学では学位によって着るガウンの色が違う。学位授与式とは、古いガウンから新しいガウンに衣替えをする儀式でもある

東北大震災の直後だったが、後悔しないようにと出席の後押しをしてくれたのは父

20019月からの1年と2004年からの5年の2回にわたりマートン・コレッジに留学

父もマートン・コレッジに2年間留学し、コレッジ代表のエイト(ボート競技)に選出された

学習院との間に単位互換の交換留学の制度があったことから、学習院大文学部史学科に進む

中等科でアンデルセンの『みにくいあひるの子』を丸暗記させられ、英語の授業がいやになったが、大学に入って自分の意思で通った英語のレッスンは楽しく、オックスフォード大学留学の資格を得て、聴講生Visiting Studentとして1年留学

   英語の壁

留学して1か月語学学校で学び、オックスフォード大学に入学したが、6割方何を言っているのか分からず、新人歓迎会でも孤立した私を助けてくれたのが3年生のリーダー的存在だった英国人男性のベネディクト。3カ月たって突然話が理解できるようになった

 

2.  大信不約(たいしんふやく、『礼記』の1節、「大信は約せず」、本当の信義は約束などしなくても守られる)

   側衛(そくえい)に守られるということ

EU圏内における2週間以上の滞在の場合、護衛官はつかない。皇族を守ることを警衛、要人を守ることを警護、モノを守ることを警備。国により、身分により異なる

   子どものころからの習慣

寮に入って初めて側衛からも1人だちとなったため、留学当初はそれが一番辛かった

   外国でのハプニング

2008年、奨学金を得て、3カ月間、カリフォルニアのハンフォードにある日本美術館で調査

外国語のほとんど通じない側衛たちのエピソードは枚挙に暇がない

 

3.  苦学力行

   授業のこと

留学直前に皇太子ご夫妻から招かれ、オックスフォード大学留学の経験を聞かせてもらう

オックスフォード大学には40近くのコレッジ(学寮)があり、各コレッジは独自の予算で運営され、キャンパスも異なる。コレッジ間で学力ランキングが発表され、優秀な教員・学生の確保に鎬を削る。その総体がオックスフォード大学

所属コレッジに関係なく専攻の学生が集まるのが「レクチャー」、コレッジで行われる10人程度の「セミナー」、先生(チューター)と学生が1対数人で個人指導されるのが「チュートリアル」

年度末の試験がすべてで、試験の成績が悪ければ進級できない

聴講生の私は試験はなかったが、「チュートリアル」で毎週小論文のタイトルと参考文献リストを渡され、翌週それに基づいた小論文を持参して議論するのは大変

1学期8週間が限界

   古代ケルト史を学ぶ

初めの留学時の専攻はケルト史。もともと興味のあったスコットランド史の源流を勉強

単位交換制度は良かったが、出席が義務つけられたのはチュートリアルだけなので4単位にしかならず、学習院最後の1年は単位を取るのに必死

 

4.  日常坐臥(いつも、ふだん)

   マートン・コレッジの一日

1週間に1度のチュートリアルを中心に生活が回る

   フォーマル・ディナーの楽しみ

 

5.  合縁奇縁(合縁は恩愛から起こる人と人の結びつき、奇縁は思いがけないめぐり合わせ)

   現地の日本人事情

   海外で頑張る日本人留学生たちの進路

オックスフォード大学の日本人は100人くらい

セント・アントニー図・コレッジには日産日本問題研究所があり、日本人の職員と学生が所属

卒業後の就職の問題から、日本からの私費留学生は年々減っている

 

6.  一期一会(茶道の心得)

   JRの恐怖

私が海外で日本美術を学ぶのは、博士論文のテーマが「19世紀末から20世紀にかけて、西洋人が日本美術をどのように見ていたかを、大英博物館所蔵の日本美術コレクションを中心に明らかにする」だったから。大英博物館の日本美術品の総数は約3万、大半が明治時代に収集されたものであり、「日本美術史」の基礎は、ある英国人がその頃に作り上げた土台の上に成り立っている。最初の留学の時に、日本について周囲から聞かれても何も知らなかったことから、2度目の留学の時には日本の代表としてきちんと日本の話ができるようにとの気持ちから選んだテーマ

   「浮世絵はどのようにみるものなのか」

マートンの学長は、中国美術(考古学)専門でジェシカ・ローソン教授、通称JR。元大英博物館のアジア部長。最初の留学の時、JRから日本美術でチュートリアルをしないかと声を掛けられ、JRの恐怖を知らないままに受け入れた。その2回目のテーマが浮世絵で、最初の質問が標題だった。西洋の絵画は部屋を飾るほか、持主の人となりを表すという機能があるが、一度架けたものは先ず取り換えられることはない。一方、日本の絵画は架け替えることによって部屋の中に季節感を生むという機能を持つが、浮世絵は当初は現代の雑誌のようなものだった

西洋人と東洋人では日本美術の見方が違う

   とにかく妥協を許さない人

最初の留学を終えた時、ジェシカに「卒業後はオックスフォードに帰ってこのようなテーマで日本美術を勉強して見たい」と言ったら、自ら指導教授になろうと言われる

2度目の留学では厳しく鍛えられた

 

7.  千載一遇

   アフタヌーン・ティーを女王陛下と

JRから大英博物館の日本セクション長ティム・クラークを紹介され、アンダーソン・コレクションの研究を勧められ、その指導を受ける

   バッキンガム宮殿へのお招きの連絡

JRの紹介で女王からお招きがあったのは1年目の留学の終わり頃。女王自らお茶を淹れてお菓子を勧めてくださる。女王が馬の絵の展覧会のオープニングの話をされたので、私からは大英博物館の上方歌舞伎の役者絵の展覧会にお誘いした。そのことを指導教官のティムに話したら、「I can’t believe it.」と何度も繰り返し、動揺していた

 

8.  危機一髪

   英国の電車の思い出あれこれ

友人たちとの旅行では、英国国内の移動は基本的に電車。車の免許は持っているが恐ろしい

時間に不正確で、私が旅行すると何かしら事件が起こる

   幽霊列車(?)に乗る

故障した電車に乗っていて、乗客は総て途中の駅で降ろされたが、眠り込んでいたために取り残され、車庫に入る電車でそのまま連れていかれ、危うく失踪事件になるところだった

 

9.  多事多難

   パスポートは茶色

皇族は「日本国民」ではないので、海外旅行する時は「外交旅券」と書いてある茶色のパスポートを所持し、外交官と同様。格安航空会社がメインの空港では外交旅券を見たことが無い係員がいて、散々こね回した挙げ句に「本当にプリンセスなの?」と言い、カーティシーをしながらチケットを発行してくれたのには友人もびっくり

   格安航空券の落とし穴

格安航空会社を利用する場合には、離着陸する飛行場の所在を確認する必要がある

 

10.   奇貨可居(きかおくべし、よい機会は逃さずにうまく利用すべき)

   再び英国へ

最初の留学の終わりに、再度の留学について父から許可をもらう

   入学許可に必要なもの

大学院入学必要な書類は、ライティング・サンプル(1500字程度の小論文)3本と英語の能力試験(IELTSアイエルツ)証明書、推薦状3

 

11.   五角六張(ごかくろくちょう、5日に角宿にあい6日に張宿にあう、何をやってもうまくいかない日)

   ヴァレンタインの思い出

皇族は、海外旅行の前と後には皇居内の天照大神をお祀りする賢所に道中の安全を祈願し、帰朝報告する。本来は伊勢神宮に参拝し、その時は新品を着用

   2度目の留学

2004年、2度目のオックスフォードに到着、側衛と別れ研究見習生Probationer Research Student1人暮らしが始まり、共用キッチン付のマートンの大学院生専用の寮に入る

   何をやってもうまくいかない日

日本セクション長のティムにもチュートリアルをやってもらったが、ヴァレンタインのチョコは持っていったのに提出論文を送り忘れ大慌て

 

12.   一念通天(いちねんてんにつうず)

   宝探し in 大英博物館

2年目には大英博物館日本セクションのボランティア・スタッフにしてくれたので、自由に館内の史料調査が出来た

1753年の博物館設立当初から収集された美術品の登録簿から、目的に沿った資料を探す

   法隆寺金堂壁画

アンダーソン・コレクションは1881年に大英博物館入りしている。中に、アーネスト・サトウから贈られたという法隆寺金堂壁画の写しがある。1949年焼失前の壁画を模写したもの。さらにそれがきっかけとなって、1938年京都の便利堂という印刷会社が金堂壁画の写真から制作した白黒の原寸大の複製12幅全部が博物館に所蔵されていたことが判明

 

13.   日常茶飯

   英国の食あれこれ

英国の食は平均的にあまりおいしくないのは事実。ピューリタンが贅沢を嫌ったことによる

インドとタイ料理以外は、似て非なるもの

   1人暮らしの自炊生活

   カバード・マーケット

オックスフォードにある屋根で覆われた市場のこと。秋の狩猟シーズンには首を落とされた「ゲーム」と呼ばれるケモノたちがぶら下がっているので要注意

   友人との食事会

 

14.   骨肉之親(血の繋がりの濃い肉親の間柄)

   英国でおかあさんになる

親友の日英間夫婦の一人娘がゴッドドーターのななちゃん(菜夏子)

   子育ての喜び

 

15.   前途多難

   初めての展覧会で大騒ぎ

ロンドン郊外のセインズベリー日本芸術研究所の所長の専攻は日本陶磁器で、彼女の企画するアルザス・欧州日本学研究所所蔵の日本美術コレクションの巡回展を手伝う

   美術史研究者の試練

巡回展のオープニングはアルザス県。3日間で準備を終える離れ業にぐったり

 

16.   一以貫之(一貫して変わらずおのれの道を進むこと)

   プライスさんのパンケーキ

若冲を世界の人気者にした立役者ジョー・プライスはオクラホマ出身。彼の江戸絵画コレクションは有名で、若冲ブームを巻き起こす

2006年、仕事に行き詰って1カ月の休暇を取り、アメリカでの調査に行き、ジョー夫妻の世話になり、プライス・コレクションの調査をさせていただく。70歳、夫人は日本人

   自然光で見る大切さ

プライス邸で作品を鑑賞するのは、太陽が出ている間だけ。画師が想定した環境下で作品を見なければ、当時鑑賞した人々の感動を味わうことはできないというのが彼の持論

   私の小さな自慢

ジョーのパンケーキなど手料理を食べたのは、家族を除いて私だけというのが自慢

2013年、ジョー夫妻の思いに端を発し、東北3県でプライス・コレクション展開催

 

17.   玉石混淆(真偽顛倒、玉石混淆)

   オックスフォード某重大事件(?)

側衛なしの1人の生活を満喫

   チャリティーショップでお宝発見

リサイクルショップの一種で、ショップ巡りは楽しみの1つ。商品は無償で持ち込まれ、収益金が慈善団体の運営に役立てられる

九谷焼の大家の香合を発見

   謎の侵入者

部屋に鍵をかける習慣がなかったために、夜中に見知らぬ人が侵入してきた

 

18.   古琴之友(こきんのとも、自分をよく理解してくれる友人)

   お雑煮とスコーン

多くの友人に恵まれた

   生れて初めての「お正月気分」

大英博物館の東アジア美術の修復工房勤務でロンドン在住の平山夫妻のお陰で食べたお雑煮が一番の思い出。本来皇室ではお雑煮ではなく、花びら餅の原型である「御菱葩(おひしはなびら)」を頂く

   ジェイミーのスコーン

英国の数少ないおいしいものにスコーンがある。中でもジェイミーの作るスコーンは世界一

 

19.   傾蓋知己(けいがいのちき、初対面で意気投合すること、孔子と程子の故事)

   スイスと私

スイス人の友人が多い

各コレッジにはコレッジ・チューターという制度があって、学術的な指導はしないが、勉強や学校生活のよろず相談に乗る担当教員がいる。その紹介で留学生活最高の友人に出会う

   オックスフォード伝統の社交場

食道のハイテーブルでは、ガウンを着た教員たちがゲストとともに食事をする

   4人のスイス人の友人たち

   アルプスでの休暇

ウェンゲンにある友人の家にスキーに行く

ミューレンでは祖母と叔母が訪問したときの写真に出会う

 

20.   忍之一字(忍の一字は衆妙の門なり)

   理解できない英国あれこれ

英国人をひと言で表現できる形容詞を探すのはなかなか難しい

酒を買う際の年齢チェックが、同じ名前のスーパーでも店によって融通の利かせ方が極端に異なる

   水と熱湯

蛇口が1つだと水と熱湯が混ざり合わないまま別々に噴き出す

   バスの話

英国の電車同様、バスも時間にルーズで悪名高い

   危うく一大事

乗っていたバスが他のバスと衝突、軽い接触事故で事なきを得た

 

21.   当機立断(機会をとらえて素早く決断すること)

   修士課程から博士課程へ

留学は当初2年の予定が5年に及ぶが、その間JRのチュートリアルに堪えたのは誇り

   寝耳に水の提案

研究見習い生として入学した1年目の終わりにTransferと呼ばれるViva(ヴァイヴァ、口頭試問)の申請のための論文を提出。2年目でVivaを通らないと退学。Vivaの試験官2人は自分で選ぶ。Vivaで試験官から、博士号への挑戦を勧められ、JRと父の了解を取って、博士論文の構想に練り直す

 

22.   随類応同(人の能力や性質に応じて、それ相応に指導すること)

   スーパーアドバイザー

私の指導教授はJRと大英博物館日本セクション長のティムでsupervisorと呼ぶ。加えてsuper advisorと呼ぶべき人びとがいる。ロンドン大学のアジア・アフリカ研究所の日本研究の教授たち。中でも日本美術専攻のティム・スクリーチ先生からは、ボストン美術館のフェノロサ・コレクションとの比較検討のアドバイスを頂き、自分でも納得いく博士論文になった

   2つのアドバイス

もう1人のアドバイザーがアンガス・ロッキャー先生。”Think small.(小さいテーマからスタートする)””Always think about a question.”2つの言葉はよく覚えている

 

23.   七転八倒

   博士論文性胃炎

研究の最初のステップは「史料調査」で楽しいが、そこから説得力のある文章にまとめるのは大変で辛い作業。ストレス性胃炎に苦しめられた

   オックスフォードのカフェ

ストレスの解消策として見つけたのがカフェでの論文執筆。いい気分転換となる

   入浴剤の香り、日本からの便り

もう1つのストレス解消法がお風呂。日本の温泉の素(もと)が役立つ

 

24.   進退両難

   博士論文への2つの壁

私の論文は3章からなり、第1章は大英博物館の学芸員オーガスタス・ウォラストン・フランクスの日本陶磁器コレクションについて、第2章はウィリアム・アンダーソンの日本絵画コレクションについて、第3章がフランクスとアンダーソン亡き後、大英博物館のコレクションがどのように発展していったかについてだが、第3章が漠然とし過ぎていると指摘され、その後の大英博物館の日本コレクションの管理を任された学芸員ローレンス・ビニョンを研究の中心に据え、その蒐集方針や日本コレクションの展示の事例を細かく分析することで、大英博物館の日本美術を見る目がどのように変化したのかを明らかにした

完成した論文をもとに、2度目の口頭試問があり、無事に合格

   ティムという壁

ティムは世界で一番忙しい日本美術の学芸員のため、論文を読んでもらうのに一苦労

 

25.   不撓不屈

   人生でいちばん緊張した日

博士論文のVivaの試験官2人のうち1人は、論文の指導に関わらない人を学外から選ぶ。予てから尊敬していた日英の文化交流史などを専門とするロンドン芸術大チェルシー・カレッジ・オブ・アート・アンド・デザインの渡辺俊夫教授にお願いする

論文提出後、一旦帰国、立命館大学に奉職し、翌年初にVivaのために再渡英

   たくさんのおめでとうのあとで……

Vivaでは、いきなり俊夫先生から合格を告げられた後、議論に入る

   生まれて初めての猛抗議

どの時点をもって留学終了とするか宮内庁が煮え切らないので猛抗議をした結果、Vivaの合格をもって終了ということに決まったが、合格を伝えると、父の意向で博士号取得は公表しないことに決定したとの通知に愕然として猛抗議し、意志を通した結果となる

父の意向は、1人の研究者として認められたいとの私の思いからのこれまでの努力を認めてもらえなかったのではと悲しくなる

   心からの「最終報告書」

帰国して見ると、父から最大の褒め言葉を頂き、努力が無駄ではなかったことを実感

認めてもらえなかったのは、私が説明責任を怠っていたからで、その反省の意味を込めて、この留学記には、彬子女王という人間の人生の記録として、楽しかったことも辛かったこともすべて正直に書き綴ってきたつもりである。これが、私の留学生活を温かく見守って下さった全ての方たちへの、私の心からの感謝の気持ちを込めた「最終報告書」である

 

 

特別寄稿 父・寛仁親王の思い出 (2012年薨去、連載を中断して奉悼されたもの)

21年の闘病生活の末薨去。体調急変後はあっという間の出来事

連載を続けることについては迷ったが、今年3月第1回が出た時、「この文章はよくできた」と褒めてくださった父の笑顔に押されて続けることにした

留学の延長を認める代わりに、父から出された条件の1つが『留学記』を出すこと。長期間海外に出て公務をしない以上、それを支えてくださった国民の皆様に対し、きちんとその成果を報告する義務があるとのお考え。ご自身の『トモさんのえげれす留学』と同じ出版社から、姉妹本のようにして出すのが夢だったようだ。出版社は異なるが何とか実現し、草稿にも目を通す

父とやり取りした手紙:

父は数字の語呂合わせが好きで、、細かくて計画魔。亡くなったのは66歳で66日。生まれたのは15日の51分。三笠宮だからといってお気に入りの数字は3.ソルトボールの背番号は41383(よいみやさん)。斂葬の儀当日も、梅雨の晴れ間が広がっていた

極度のアナログ人間で、テレビも録画はダメ、パソコンもメールも携帯もダメだったので、2週間に1度くらいのペースで文通

「医者のいうことは聞かない」:

周囲の人々の父に対する印象は、私たちの持っている父の印象そのもの。表裏のないその姿は、筋が通っていて、かっこいい。「医者のいうことは聞かない」が父のモットー

最期まで「トモさんらしく」:

容体が急変したのは4月。寝たきりとなり会話も通じない。急変したのは、これ以上「トモさんらしく」いられないということに御自身気づかれたからだったのかもしれない

「おとうま」へのプレゼント:

副葬品に選んだ分厚いお財布のカード入れには、私が幼稚園の時に折り紙で作って父にプレゼントした「おとうまのおさいふ」がのぞいていた

子どもを子ども扱いしない方で、親子というよりは先輩後輩のような関係であったと思う

 

 

ご留学記に乾杯!  解説にかえて 学習院大学元学長 福井憲彦  20145

一読して、立派な大人になられたというのが、大学1年生の頃から指導教員として接してきた者の率直な想い。一流の研究者に加えて、素敵なエッセイストにもなられた

私が所属する文学部史学科を選ばれたことが出会いのきっかけ

4年生では、毎年各学年から2人選ばれる「学習院大学成績優秀者表彰」の1

卒論は、ハイランド・ソサエティという協会の史料分析を中心に、スコットランド人が独自のアイデンティティをどのようにして自ら抱くようになったのかを分析したもの

学科の壁を越えて、江戸絵画研究で著名な小林忠教授の下で美術史学の修養も積む

 

 

文庫版へのあとがき              20241

20235月、友人から「彬子様の留学記がツイッターでバズってますよ」と連絡がきた。出版したのは2015年なのに、「なぜいま?」。さらに3万以上の「いいね」がついたという。紙の質感から凝った本なので重版は難しいが、文庫本ならということで生れ変ることになった

法隆寺金堂壁画の模写の後日談。大英博物館を去る日ティムに、「いつか桜井香雲の模写を表具して、大英のギャラリーで展示してたくさんの人に見てほしい」と言ったのが’19年実現。ティムはそのオープニングに合わせたシンポジウムの基調講演者として招待してくれただけでなく、「アキコは大英博物館の家族の一員」と紹介してくれた

 

 

 

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 女性皇族として初めて海外で博士号を取得された彬子女王殿下による英国留学記。待望の文庫化!

 ≪赤と青のガウン。それは、私が博士課程を始めたときからいつか着る日を夢みてきたものだ。五年間の留学生活中、何人もの友人が博士課程を無事修了し、オックスフォードを旅立っていく様子を何度も見送ってきた。晴れ晴れとした表情でこのガウンを身にまとい、学位授与式が行われるシェルドニアン・シアターから出てくる友人たちの姿は、誇らしくもあり、またうらやましくもあった。オックスフォード大学の厳しい博士課程を成し遂げた者しか袖を通すことを許されない赤と青のガウンは、くじけそうになったときにふと頭に浮かび、オックスフォードに来たときの自分に立ち返らせてくれる「目標」だった。≫(「あとがき」より抜粋)

 

 英国のオックスフォード大学マートン・コレッジでの、20019月から1年間、そして20049月から5年間の留学生活の日々――。当時の心情が瑞々しい筆致で綴られた本作品に、新たに「文庫版へのあとがき」を収録。

 

 

好書好日

著者に会いたい

2024.06.20

三笠宮家・彬子さま「赤と青のガウン オックスフォード留学記」インタビュー 飾らない日常が話題に

 

 東京都内の書店でレジの列に並んだら、前の女性が自身の著書を手にしているのが見え、迷うこと無く声を掛けた。

 「ありがとうございます、著者です」。声をかけられた女性は「プチパニックになってらっしゃいました」。

 大正天皇のひ孫であり、女性皇族として初めて英・オックスフォード大で博士号を取得した。その「肩書」だけでは想像できない気さくな人柄がにじむ本書が今、ヒットしている。17日には累計発行部数が16万部に達するという。

 郊外の空港で皇族用の外交旅券を出したら「本当にプリンセスなの?」と疑われる一方で、エリザベス女王とバッキンガム宮殿でお茶を共にしたことも。

 「現代版ローマの休日」とも言うべきプリンセスの日常にほっこりさせられる一方で、「今の自分の基盤を築いた」という留学生活は山有り谷有り。英語が聞き取れず孤立し、新入生が集うバーに入れず自室で涙したこと、明けても暮れても続く博士論文執筆により「ストレス性胃炎」にかかったこと。初めての宮内庁への「猛抗議」まで赤裸々に書き込んだ。

 「上げ膳据え膳で、ただ楽しい留学生活だったんだろうと思っていらっしゃる方もいたかもしれないので、ありのまま書き留めることで知っていただきたかった」と振り返る。

 執筆は、同じく同大に留学し、留学記を出版した父、寛仁さま(2012年に逝去)との約束だった。「皇族として国民の皆さまに留学の成果を報告する義務がある」と考えていたからだ。執筆時には「硬すぎる」「仲の良い人は基本的に実名を出せ」など細やかな助言をもらった。「より臨場感をもって伝えられる文章になった」と感謝する。

 単行本として出版したのは2015年。8年後の昨年5月、X(旧ツイッター)で「プリンセスの日常が面白すぎる」と話題になり、今年4月に文庫本が出版された。「8年経っても見つけてもらえるものを書き残せたことがよかった」とほほえむ。

 「この本で、いつか誰かにこんな経験をした皇族がいたんだ、と知ってもらえれば」(文・中田絢子 写真・上田幸一)=朝日新聞2024615日掲載

 

 

Book Live

あらすじ

ドアを閉めた瞬間に涙がこぼれた。思えば、あれが留学生活最初で最後の「帰りたい」と思った瞬間だった。本書は2004年から5年間、英国のオックスフォード大学に留学し、女性皇族として初めて海外で博士号を取得して帰国された彬子女王殿下の留学記。女王殿下は2012年に薨去された「ヒゲの殿下」寛仁親王の第一女子、大正天皇曾孫。初めて側衛(そくえい)なしで街を歩いたときの感想、大学のオリエンテーリングで飛び交う英語がまったく聴き取れず部屋に逃げ帰った話、指導教授になってくれたコレッジ学長先生の猛烈なしごきに耐える毎日、そして親しくなった学友たちとの心温まる交流や、調査旅行で列車を乗り間違えた話などなど、「涙と笑い」の学究生活を正直につづられた珠玉の25編。最後は、これが私の留学生活を温かく見守ってくださったすべての方たちへの、私の心からの「最終報告書」である、と締めくくられる。

 

 

Wikipedia

彬子女王(あきこじょおう、1981昭和56年〉1220 - )は、日本皇族身位女王敬称殿下[3]お印(ゆき)。勲等勲二等学位D.Phil.オックスフォード大学2010[4]

126代・今上天皇(徳仁)再従妹(はとこ)にあたる。

123代大正天皇ひ孫寬仁親王同妃信子の第1女子。

現在、存命中かつ皇籍離脱していない皇族15名のうちのひとりであり、天皇の血を直系で受け継ぐ男系皇族(親王内親王女王8名のうちのひとりである[注釈 1][注釈 2]

彬子は、現在の内親王女王(天皇と血縁関係にある女子で皇籍にある者)では最年長となる[5]

肩書一覧

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組織

肩書

日本ラグビーフットボール協会

名誉総裁

心游舎

総裁

國華清話会

名誉会長

日本・トルコ協会

総裁

日本職業スキー教師協会

総裁

中近東文化センター

総裁

三笠宮記念財団

総裁

日英協会

名誉総裁[6]

京都産業大学 日本文化研究所

専任研究員

立命館大学 衣笠総合研究機構

客員協力研究員

法政大学 国際日本学研究所

客員所員

京都市立芸術大学 芸術資源研究センター

客員教授[7]

國學院大學

特別招聘教授

国士舘大学大学院 人文科学研究科

客員教授

略歴

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生い立ち

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2014427トルコにて文化観光大臣オメル・チェリック(右)と 201563、エルトゥールル号遭難事件追悼式典にて

1981年(昭和56年)1220日に寬仁親王と信子妃の第一子として誕生した。皇室における女王の存在は、1947(昭和22年)10月に11宮家が皇籍離脱した後の現皇室典範における女王誕生は初である。2005(平成17年)11月の清子内親王皇籍離脱以降、未婚の皇族女子中では最年長である。

松濤幼稚園1年間在籍後学習院幼稚園に移り、以降は学習院で教育を受ける。2004(平成16年)3月に学習院大学文学部史学科を卒業した。これは徳仁と同学科である。

この間、2001(平成13年)に成年に達したことにより、勲二等宝冠章(現:宝冠牡丹章に相当)を受章した。

学術研究と公的活動

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同年9月より、イギリスオックスフォード大学マートン・カレッジに留学し、日本美術史を専攻した。海外に流出した日本美術に関する調査・研究を行う[8]。女子皇族の中では珍しく、学問研究に専念する。

2010(平成22年)1月にオックスフォード大学大学院博士課程を修了して、博士号(D.Phil.)を取得した[9]。博士号取得は博士(理学)(総合研究大学院大学)の秋篠宮文仁親王に続き、皇族として2人目、女子皇族として史上初、海外の大学からの課程博士号取得は皇族として史上初となった。

研究がまとまった2009(平成21年)秋に日本に帰国して、公募採用で同年101日より京都立命館大学衣笠総合研究機構ポストドクトラルフェローに就任した。グローバルCOEプログラム日本文化デジタル・ヒューマニティーズ拠点日本文化研究班に所属。皇族としての公務の合間、同機構でデータベース化作業を行う[9]

2012(平成24年)

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ポストドクトラルフェローの任期が切れた4月より、2014(平成26年)12月まで上皇明仁の幼稚園時代の学友で銀閣寺慈照寺住職を務める臨済宗相国寺管長有馬頼底に依頼し、宗教法人慈照寺研修道場美術研究員に就任している。

2012年(平成24年)

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4月、発起人代表として心游舎を設立し、翌2013年の一般社団法人化に伴い同法人の総裁に就任。

41日より20133月まで、立命館大学衣笠総合研究機構の特別招聘准教授を、20134月から20143月まで、同客員准教授を務めた。51日からは法政大学国際日本学研究所客員所員も務め、文部科学省国際共同に基づく日本研究推進事業欧州の博物館等保管の日本仏教美術資料の悉皆調査と、それによる日本及び日本観の研究に従事し、ドレスデン美術館ポーランドに出張した[10]

寬仁親王の葬儀

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66薨去した寬仁の斂葬の儀において喪主を務めることが宮内庁より発表された。この時は信子妃に代わって寬仁の姉妹(彬子女王のおば)である近衞甯子千容子の助けや、彬子同様に若くして喪主を務めた経験がある東久邇信彦(元皇族)の励ましを受けたと、後に雑誌に寄稿[11]している。また、同手記では、寬仁の薨去をきっかけに、両親の確執から疎遠であった三笠宮本家(祖父である崇仁親王)との絆が強固になったことに、深く感謝している旨を記している。

父母が療養中で自身が留学していた時期には、妹の瑶子女王が公務を代わりに務めた。

2013年(平成25年)612日に、寬仁の後任として日本・トルコ協会総裁に就任。

2014年(平成26年)4月、京都市立芸術大学芸術資源研究センター特別招聘研究員及び公益社団法人日本職業スキー教師協会総裁に就任。2015(平成27年)4月、中近東文化センター総裁に就任した。

2018年(平成30年)1月、201739日付でトルコ政府に認可されている三笠宮記念財団[12]総裁に就任することが発表される。

2019年(令和元年)510日、日本ラグビーフットボール協会名誉総裁に就任[13]

2020年(令和2年)4月、千葉工業大学特別教授および千葉工業大学地球学研究センター主席研究員(非常勤)に就任[14]

2022年(令和4年)31日、寛仁薨去後は空席となっていた日英協会名誉総裁に就任した[6]

2024年(令和6年)

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彬子自身が英国留学時代の体験などを書いた『赤と青のガウン』(2015年出版)が43日にPHP文庫にて文庫化された。

517日、PHP文庫の親会社であるPHP研究所が、『赤と青のガウン』がメディアとSNSで話題になり累計10万部(6刷・520日出来)に到達するベストセラーになったと発表。なお、評判の良さからフジテレビめざまし8との対面取材に応じた際に、次回作を書く予定があるかを尋ねられると「そのあと(帰国後)ということになりますと私の日常で起こった"すべらない話"をまとめるような形になってしまうような気もするので、そうしますとなかなか書くのが難しいこともあるかなと思ったりもいたします」と返答した。

916日、テレビ朝日のトーク番組徹子の部屋』に出演。著書『赤と青のガウン』を綴る切っ掛けとなったエピソードや皇族として生活する上での苦労話、日常での出来事などを親しみやすい言葉を用いて語った[15][16]。また、現在は京都で生活をしており、日本の伝統文化を後世に遺したい”“固有の伝統文化が生き続けることができる土壌を形成したいという願いに共感した有志らと設立した団体「心游舎」の総裁に就任し、次世代を担う子供たちを対象としたワークショップを行っていることも併せて語った[15][17]

「女性宮家」に関する発言

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2012(平成24年)17日の『毎日新聞』のインタビュー記事で皇位継承問題に絡む女性宮家創設問題について、日本国政府の議論が女性宮家を創設するかどうかのみとなっていることに違和感を覚えているとし、戦後に皇族の身分から離れた旧皇族の復帰案もあることを指摘している。また、結婚後に公務を続けることについては「結婚後も公務をすることに抵抗はありません」と語った。この記事の元になったインタビューでは、女性宮家創設は、結婚適齢期の女性皇族にとって今後の人生を左右する問題であることに触れ「決めるのであれば早く決めていただきたい」と答えた。

しかしその後の一部報道で、この言葉があたかも女性宮家創設を推進する発言であるかのように伝えられた[18]

普段のマスコミとの会見は日本国憲法上の理由から叔父の政治家である麻生太郎の話を表立って話すことはないが、最近では高齢で体調が憂慮される祖母にあたる崇仁親王妃百合子の様子を本人の代わりにメディアによく伝えている。

スポーツ振興

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競輪では、GI寬仁親王牌・世界選手権記念トーナメントの表彰式で、優勝者に賜杯を授与する[19][20]GI高松宮記念杯競輪でも20152019[21]2024に、優勝者にカップを授与した。優秀選手表彰式典にも出席する年もある[22]

自転車競技大会で、「寛仁親王記念ワールドグランプリ」(NPO法人CSSシクロ)もある[23]。またクラシックラリーのミッレミリアの名誉総裁でもある。

全日本学生スキー選手権大会のリレー競技では、男子の優勝校に寬仁親王牌が、女子の優勝校に彬子女王牌が下賜される。東都大学野球の始球式を務め、その際に着用したユニフォームの背番号「38」(宮(ミヤ)家にちなむ)は國學院大學硬式野球部永久欠番となった。

2019510日より、公益財団法人日本ラグビーフットボール協会の名誉総裁に就任した[24]

研究活動

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2011528オックスフォード大学学位授与式にて

2004年(平成16年)の学習院大学卒業後、同年9月よりオックスフォード大学に留学した。

2006(平成18年)12月、東京大学(本郷キャンパス)で開催されたジャポニスム学会第四回例会で「標本から美術へ-19世紀の日本美術蒐集:シーボルト、アンダーソン、フェノロサ」と題した研究を発表した。

2007(平成19年)7月、お茶の水女子大学で開かれた第9国際日本学シンポジウムで「ウィリアム・アンダーソン・コレクション再考」と題した研究を発表した。論文は『比較日本学研究センター研究年報』第4号に掲載されており、大学のホームページから閲覧可能である。

2009年(平成21年)2月、日本美術誌『国華1360号にも論文が掲載された。7月、論文「「風俗画」再考 -西洋における日本美術研究の視点から-」が、『風俗絵画の文化学都市をうつすメディア』(思文閣出版)に掲載された。101日から立命館大学衣笠総合研究機構で研究員となり、日本の有形・無形文化財をデータベース化する作業などに携わる。

2010年(平成22年)119、オックスフォード大学での学位口頭試問に合格、オックスフォード大学博士課程を修了して、博士号(D.Phil.)を取得した。論文テーマは“1920世紀に大英博物館が収集した日本の美術品とその展示の事例にみる、英国人の日本美術観の変化について(全文英語、全320ページ)。研究発表リハーサルで、別の日本人院生が担当教授から論文全文書き直しだけを指示された(何が問題なのかは自分で考えなければならない)のを見て自分はプリンセスだから評価に「下駄を履かされている」のではないだろうか、自分が対象だったら何をどうすべきかまで細かく指導を受けたのではないかと落ち込んだこともあったという。

2010131日付で留学を終了した。帰国後は立命館大学衣笠総合研究機構(グローバルCOEプログラム日本文化デジタル・ヒューマニティーズ拠点日本文化研究班)ポストドクトラルフェロー(PD)に就任した。10月にハワイ大学での日本美術のシンポジウムを現地の研究者と共同で企画し、研究発表を行った。

2012年(平成24年)4月から2014年(平成26年)12月まで宗教法人慈照寺研修道場美術研究員として勤務した。また同月から2013年(平成25年)3月まで立命館大学衣笠総合研究機構で特別招聘准教授、20134月から20143月まで同機構客員准教授に就任。20145月より同機構客員協力研究員を務めている。

20125月より法政大学国際日本学研究所(文部科学省国際共同に基づく日本研究推進事業欧州の博物館等保管の日本仏教美術資料の悉皆調査とそれによる日本及び日本観の研究)の客員所員に就任。

20144月、京都市立芸術大学芸術資源研究センター特別招聘研究員、併せて同センター客員教授に翌年4月から就任した。

2015年(平成27年)4月より京都産業大学日本文化研究所専任研究員として勤務している。

著作

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単著

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『赤と青のガウン -オックスフォード留学記-』PHP研究所、2015年/PHP文庫、2024

『日本美のこころ』小学館、201512月(「和楽」の連載をまとめたもの)

『京都 ものがたりの道』毎日新聞出版、201610

『最後の職人ものがたり -日本美のこころ-』小学館、20192月(「和楽」連載の該当号分抜粋)

編著

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『文化財の現在 過去・未来』宮帯出版社、2013年(シンポジウムをまとめた論文集)

学術論文

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「書評 ウィリアム・アンダーソン『日本絵画芸術』および関連文献集成」『ジャポニスム研究』(通号 28) 2008

「ウィリアム・アンダーソン・コレクション再考 (9回国際日本学シンポジウム) -- (ヨーロッパにおける日本美術史の成立と発展--フランス及びイギリスの主要な日本美術コレクションの果たした役割)」『お茶の水女子大学比較日本学研究センター研究年報』(4)20083

「標本から美術へ : 十九世紀の日本美術品蒐集、特にアンダーソン・コレクションの意義について」『國華』114(7) (通号 1360)20092

「解釈の創出 「風俗画」再考」『風俗絵画の文化学』思文閣出版、20097

「風俗画と京都-京都商品陳列所の公式カタログに描かれた風俗画を中心に」「あとがき」松本郁代、出光佐千子、彬子女王編『風俗絵画の文化学II』思文閣出版、20123

「大英博物館所蔵アンダーソン・コレクションの可能性」『豊饒の日本美術 小林忠先生古稀記念論集』藝華書院、20123

19世紀英国における円山四条派理解について-英国人蒐集家が京都の画師に寄せた思い-」『京都イメージ-文化資源と京都文化』ナカニシヤ出版、20123

「英国における日本美術コレクション-特に大英博物館を中心として」『近世やまと絵再考日・英・米それぞれの視点から』 ブリュッケ、201310

「海を渡った法隆寺壁画西洋における「うつし」の役割」」「あとがき」 島尾新 彬子女王 亀田和子編 『写しの力-想像と継承のマトリクス-』 思文閣出版、201312

新聞・雑誌掲載記事(インタビュー)

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「若き皇族の「生活」と「意見」」『文藝春秋200912

「女性皇族で初の博士号を英オックスフォード大でとった 彬子さま」『朝日新聞』朝刊「ひと」欄、2010210

「日々のお暮しとライフワーク 彬子女王殿下」『皇室』第48号、扶桑社、2010年秋

「急接近:彬子さま 典範改正に向けた女性皇族自身の思いとは?」『毎日新聞』朝刊、201217

「寛仁親王殿下逝去90日:彬子さまが葬儀の秘話を語る」『毎日新聞』朝刊、201295

彬子女王/瑶子女王「今だから語れる寛仁親王、父の素顔」『文藝春秋』201210

雑誌寄稿記事

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「彬子女王殿下がご体験 春日大社の「饗応膳」」『和樂』小学館、201010月(撮影:篠山紀信

「彬子女王殿下ご寄稿「私と日本美術」」『皇室』第48号、扶桑社、2010年秋

「日本刀を守るために」『文藝春秋』第19 10号、20127

雑誌・Web連載

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小学館 『和楽』 誌上連載 「日本美のこころ」

伊勢神宮の御神宝」20111月号

「世界中が感嘆した幕末・明治の工芸」 20112月号

「外国人が遺してくれた日本の文化遺産・浮世絵」20113月号

「世界で唯一の芸術、日本の竹工芸」 20114月号

「文人趣味を色濃く残す煎茶」20115月号

大英博物館の「日本」」20116月号

「彬子女王×千宗屋in真珠庵 原点で語る日本美の未来」20117月号

「時空を超えた贈り物」20118月号

石清水八幡宮の「御花神饌」」20119月号

「中世の人々が歩いた道」「月の桂」 201110月号

「二人の日本人陶工がもたらした種」201111月号

「世界に誇る日本の珈琲文化」201112月号

「大道庭園の「生きる芸術」」20121月号

「粘り強くて美しい紙」20122月号

「彬子女王×中村勘太郎改め、中村勘九郎 歌舞伎次世代ここに始まる」20123月号

「京の水で育った食文化」20124月号

「ボンボニエールという伝統」20125月号

「日本神話の高千穂、霧島を巡る 天孫降臨の地へ」20126月号

「被災地・福島の祭を伝承する 相馬の野馬追」 20127月号

「芸術の都・ドレスデンの王侯貴族を魅了した日本磁器の魅力」201289月号

PHP研究所 Voice 誌上連載 「オックスフォード留学記」(20124月号 - 20145月号)

「おわりとはじまり」 20124月号

「側衛に守られるということ」20125月号

「授業のこと」 20126月号

「マートン・コレッジの一日」 20127月号

「父・寬仁親王の思い出」20128月号

「現地の日本人事情」 20129月号

JRの恐怖」201210月号

「アフタヌーンティーを女王陛下と」 201211月号

「英国の電車の思い出あれこれ」 201212月号

「パスポートは茶色」 20131月号

「再び英国へ」 20132月号

「ヴァレンタインの思い出」 20133月号

「宝探しin大英博物館」 20134月号

「英国の食あれこれ」 20135月号

「英国でおかあさんになる」 20136月号

「初めての展覧会で大騒ぎ」 20137月号

「プライスさんのパンケーキ」 20138月号

「オックスフォード某重大事件(?)」 20139月号

「お雑煮とスコーン」 201310月号

「スイスと私」 201311月号

「理解できない英国あれこれ」 201312月号

「修士課程から博士課程へ」 20141月号

「スーパーアドバイザー」 20142月号

「博士論文性胃炎」 20143月号

「博士論文への二つの壁」 20144月号

「人生でいちばん緊張した日」(終) 20145月号

「イノリノカタチ」全16回(20184月号 - 202012月・20211月合併号)

和樂webサイト「美の国ニッポンをもっと知る!」連載「彬子女王殿下が次世代に伝えたい日本文化」(2019124 - [25]

彬子女王の記事一覧(PHPオンライン)[26]

彬子女王殿下が、いつもの「本屋パトロール」中に起きた奇跡的な出来事〈特別寄稿〉(202459日、PHPオンライン)[27]

出演

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徹子の部屋2024916日、テレビ朝日[28]

系譜

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彬子女王

:
寬仁親王

祖父:
崇仁親王
三笠宮

曾祖父:
大正天皇

曾祖母:
貞明皇后

祖母:
百合子

曾祖父:
高木正得

曾祖母:
高木邦子

:
信子

祖父:
麻生太賀吉

曾祖父:
麻生太郎【先代】

曾祖母:
麻生夏子

祖母:
麻生和子

曾祖父:
吉田茂

曾祖母:
吉田雪子

 

 

 

 

 

 

 

 

歴代天皇

 

歴代皇后

 

親王

 

内親王女王

 

臣籍降下

 

 

 

 

大正天皇

 

貞明皇后

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  

 

 

 

 

昭和天皇

 

香淳皇后

 

秩父宮雍仁親王

 

雍仁親王妃
勢津子

 

高松宮宣仁親王

 

宣仁親王妃
喜久子

 

 

 

 

 

 

 

 

  

 

 

三笠宮崇仁親王

 

崇仁親王妃
百合子

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

東久邇成子
(照宮)

 

久宮祐子内親王

 

鷹司和子
(孝宮)

 

池田厚子
(順宮)

 

上皇
明仁

 

上皇后
美智子

 

常陸宮正仁親王

 

正仁親王妃
華子

 島津貴子
(清宮)

 

近衞甯子

 

寬仁親王

 

寬仁親王妃
信子

 

桂宮
宜仁親王

 

千容子

 

高円宮憲仁親王

 

憲仁親王妃
久子

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

天皇
徳仁

 

皇后
雅子

 

皇嗣秋篠宮文仁親王

 

皇嗣妃文仁親王妃紀子

 

黒田清子
(紀宮)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  

 

 

 

 

 

 

 

彬子女王

 

瑶子女王

 

 

 

 

 

承子女王

 

千家典子

 

守谷絢子

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

敬宮愛子内親王

 

 

 

小室眞子

 

佳子内親王

 

悠仁親王

注釈

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^ 現在、は不在。

^ 現行の皇室典範では、女系も男系皇族と結婚すれば皇籍になることが可能であるが、現在において女系皇族は不在となっている。

 

 

 

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