昭和将棋史 大山康晴 2023.6.18.
2023.6.18. 昭和将棋史
著者 大山康晴 1923年倉敷市生まれ。Wikipedia参照
発行日 1988.1.20. 第1刷発行
発行所 岩波書店 (岩波新書)
カバー裏
15世名人大山康晴は昭和10年に12歳で木見金次郎8段に入門。以来50年余、名人をはじめとするタイトル獲得数・優勝回数は120を超え、現在もなお現役で活躍。本書は昭和将棋の歴史を自己の歩みとともに描いたもの。木村、升田、中原ら多くの名棋士との激闘の跡を振り返り、将棋界の将来について抱負を述べる
I.
戦前の将棋界
1
入門の頃
l ただ強くなりたいだけ
1935年、将棋の専門棋士(当時のプロ棋士の呼び名)を目指して、関西将棋界の代表者木見8段の門下生になる。ただ「強くなりたい」だけの少年。升田幸三が兄貴分の内弟子
東西に分かれ、交流はなし
l 大阪在住の棋士たち
木見一門以外には、神田辰之助7段一派、高島一岐代などの中立派、「王将」の坂田三吉は昔でいう「名主」的存在
l 内弟子生活
関西には新聞棋戦が少なく、地方新聞では「タバコ銭」程度の稼ぎにしかならず、主な収入は教授料。最高位は8段で、段位が上がるほど教授料も上がる
軍隊に入るとき6段だったが、それまで内弟子生活を続けていた
l ありがたい後援者
田中房太郎は木見の熱心なファン
大阪にはプロとしての棋力を計る機関がなく、内弟子同士で盤に向かうしかない
田中と木見が奔走して、大阪にも東京と同じ「奨励会」が発足。棋力の上昇と、段級位を決める機関となった
l 数人だけのプロ棋士
将棋だけで生活が成り立ったのは、木見、神田、坂田らごく少数
l 希望あふれる東京棋界
東京には、関根金次郎13世名人を頂点として多くのプロ棋士がいて、日本将棋連盟を組織。新聞社がプロ将棋に注力、各紙が独自の将棋欄を持ち将棋界をバックアップ
「新進棋士奨励会」が新人を競わせていた
関根名人は現代棋士の生みの親
2
名人戦の開始
l 実力名人制度
1935年、「実力名人制度」創設――関根名人までは、「一世一代名人制度」で、周囲が暗黙の裡に名人位を認めるのが習わしだったが、関根名人自ら実力制度創設を英断
l 希望にふくらむプロ将棋界
7人の7段が集まって名人戦開始、棋譜の掲載紙は毎日新聞(東京日日と大阪毎日)
年間契約が6.5万円(現在の5億円)だったので、8段の月給は300円(旧制中学校長が90円)となり、にわか成金が続出
l 関根と坂田の対戦 1917年6月15/16日
「王将」でいう「勝たねばならぬ」相手が関根で、127手で坂田が勝つ
l 執念の勝利
関根・坂田戦は、「相がかり戦法」のはしりで、勝敗には執念の差が出た
l 古きよき時代の人情
大阪の代表は木見8段。よく周囲の面倒を見ていた
l 大天才の土居
土居は、関根の一番弟子で、典型的な天才肌の棋士。攻めが強く、様々な「術」を用いて相手をかき回す指し方が得意
l 意地を貫いた青春譜
勝負を攻め一辺倒にかけた土居に対し、守り抜いてみせると粘りに粘った木見
3
ゆれる将棋界
l 仲間割れ
第1期実力名人戦に漏れた大阪の神田7段が、大阪朝日新聞の後援を得て、東京の7,8段と対抗戦を企画し、名人戦に対抗
l 水掛け論
神田は7人の8段全員に勝ち、周囲も8段昇格を後押しするが、反対者もいて日本将棋連盟が分裂。神田派は「革新協会」を組織して対抗し、仲間割れに発展
l 小菅名誉名人
関根の奔走で仲裁に入ったのが関根の兄弟子で引退していた小菅元8段。出身地四日市で実業界に転身し成功していたが、翌1936年に両者の手打ちが成立。日本将棋連盟は「将棋大成会」と改称して再出発。小菅には14世名人位を呈して経営面の指導を乞うが、辞退したため「名誉名人」とした
l 坂田の活躍
神田が8段に昇格して名人戦に参加すると、朝日新聞も将棋に注力
さらに、讀賣新聞も坂田を引っ張り出して、名人候補の花田や木村と対戦。68歳の坂田では勝ち目がなかったが、将棋界を盛り上げた坂田の功績は大。坂田は第2期名人位挑戦者決定リーグに参加し、8勝8敗と気を吐き、プロ棋士として有終の美を飾る
4
木村名人の時代
l 木村実力名人出現
実力名人戦の第1期は、戦前の予想通り木村義雄の圧勝で、1938年就位式が行われ、現代のプロ棋界が始まる
l プロとは言えなかった
当時、5段になると「一人前のプロ棋士」といわれるのが通例。自分は1941年19歳で5段になり一人前になった。毎日新聞の嘱託となり、月給100円
8段までは内弟子と決めていたので、収入には関心がなく、プロとは言えない
l 戦争
戦争が始まっても新聞の将棋欄は健在で、多くの新聞がそれぞれ別の棋戦を掲載
大阪在住の棋士は、新聞棋戦への参加が許されなかった。木見は特別待遇だったが、第2期名人戦は不参加
l 木村名人と初顔合わせ
大阪の升田・大山の強さが鳴り響いたのに目を付けたのが、名古屋地方の新聞が合併してできた中部日本新聞。合併記念企画で、'42年11月に木村名人対大山の左香落戦が実現し、大山が勝利
l 緩みが見えた
戦前は「コマ落ち戦」が多かった――「香落ちで勝てるなら”平手”もじき勝てるようになる」ときかされ、コマを落とされた方(下手という)にとっては難解なハンディキャップ戦
6,7段でさえ木村名人の香落ちにあまり勝てなかったと言われ、名人にスキが出た
l よい訓辞
第2期の挑戦者になったのは13戦全勝の土居だったが、54歳の年齢には勝てず、木村名人が2期連続名人位に就位
木村名人の持論は、「全盛期を長く続けることによって、本当の強さも、価値も出てくる」
5
戦時下の将棋界
l 悲壮な名人戦
1942年の第3期名人位決定戦は、神田8段が挑戦者となり、初の東西対決として沸いたが、4対0であっけなく木村名人の勝利に終わる。両者とも健康を害しての対戦で、神田は直後に死去。名人戦はその後中断状態に
l 笑い話に大まじめの論議
1943年、「昇降段戦」という棋戦を経て規定通りに6段昇進が決まったが、「俺を負かしていないのに昇進は認められん」という先輩が出て大まじめな論議に発展
l 本音
当時は国民徴用令があったが、軍関係の仕事に就いていれば徴用免除なので、郷里の軍需会社の社長から、徴用のことならうまくやってあげると言われた
l 戦後は遠くなりにけり
大成会事務所は、赤坂から麹町、小石川と移転したが、最後は小石川が空襲で焼け落ち、対局の場所もなくなった
l 無理を承知
1944年いは7段を目前にしてお呼びがかかる。入隊前の7日間で6局指せれば7段昇進が見え、木見も奔走し対局を決めたが、既定の6勝は出来ず昇段は消える
l うれしかったこと
修業時代、初段になる前から「ラジオ対局」や「新聞将棋」などに出してもらえたのは嬉しかった
l 棋道報告会
戦時中は「報告会」ばやりで、大成会も日本棋院と合同で「棋道報告会」を結成、慰問隊を派遣した。木村名人は、満州や中国にも派遣
新聞紙上から「将棋」の文字が消え、新聞社から棋譜掲載中止の知らせが毎日のように届く
l 運のよい人間
2等兵で入隊したが、内地勤務、それも衣服作りの軽い仕事。さらには上官から将棋を教えろと言われ特別待遇になったり、南九州に移動した際は、参謀長が将棋好きで、参謀長付きの雑役夫となり、恵まれた兵隊生活を送る
l 将棋大成会消える
'45年5月、小石川の本部が空襲で焼失、新聞将棋の消滅で収入の道も途絶え、会長の木村名人も大成会の解散を宣言
II.
名人への道
1
終戦直後の苦労
l プラス、マイナスの入り混じり
終戦で、3カ月ほど参謀長の残務整理を手伝った後、故郷に戻るが、腑抜け状態
l 故郷へ
父親が糊口をしのぐために製粉業を始めたので手伝ったが、これが大当たり
l 順位戦開始
'46年初、大成会から棋戦再開の知らせが届く
木村名人の提唱で、過去の「段位」を捨て新しい出発とするために「順位戦」を企図
63名のプロ棋士を養うために、将棋愛好家の日本ハップ製薬社長が将棋欄に自社製品名を入れるという条件で共催を申し出
l インフレに悩む
順位戦のお陰で東京と大阪が対等になったのは嬉しかったが、凄まじいインフレのせいで2年目の順位戦は中止。復刊直後の月刊誌『将棋世界』も危うく身売りになりそうだった
l 順位戦の不安
順位戦は、過去の実績を勘案し、A,B,Cの3クラスとし、8段14名をA級、6,7段20名をB級、4,5段29名をC級とし、A級の優勝者を名人位挑戦者とする
主催した毎日新聞は、ハップの薬品名掲載に難色を示したため、前途には不安も
l 任意団体なのには閉口
インフレ抑制のためのモラトリアムで、現金引き出しの制限に加え、銀行も大成会を木村名人個人のもと見做したため、運営費の捻出に支障をきたす
2
高野山の決戦
l 塚田新名人誕生
'46年第1期順位戦開始、翌年3月の第6期名人戦は塚田正夫8段が木村名人に挑戦、予想を覆して塚田が新名人となる。木村はショックで、その年の順位戦でも精彩を欠く
戦前の3日がかりの勝負ではなく、持ち時間8時間の不慣れな1日勝負の重圧に粘りを欠いたのが敗因で、短期決戦に強味を持つ塚田の優位に働いた面は否めない
l 段位復活
対局料が少なくメシが食えないとの不満から、「プロ棋士」としての体面を保つためにも一定の肩書が必要となって、わずか1年で段位が復活
‘47年には規約が変わって、A級の上位3人とB級の1位が3番勝負で挑戦者を決めることになり、B級1位の大山が、A級の3位、2位に勝って、A級1位の升田と対戦
l 高野山の決戦
‘48年3月、兄弟子升田との一戦は、大山の無心の勝利に
l 升田の鋭い攻め
l 平常心を忘れる
3番勝負の1戦目を勝ち、2戦目は欲が出て平常心を失い、あまり得意ではない当時流行りの「相腰掛け銀」戦法に持ち込まれ、攻め一方の升田の術中に嵌る
l トン死で勝ちを拾う
3戦目は土壇場で升田が「トン死」の大ポカを指して大山に勝ちが転がり込む
l 対局場設営の苦労
対局場は毎日新聞が設営、1週間近くも滞在するので持ち込み物資の調達だけで大難事
3
名人位へ初挑戦
l 粉屋をやめる決意
名人戦挑戦者決定戦の予想外の結果に、心無い雑音も聞こえてきたり、怨念を持ち込むケースも現れる。8段に昇段が決まったことで余計妬みを買った恐れもある
名人挑戦者になったのを機に、製粉はやめる
l 悲報
'46年関根名人逝去。病気の治療がままならないままの悲報も多く、さらに戦死の報告も相次ぐ。坂田三吉も関根の後を追うようにして死去
l なぜか燃えない対局
「打倒木村名人」を目標にしてきたゆえか、塚田が相手では気持ちの乗らない感があり、緊迫感の少ない雰囲気に終始
l 勝って望みをつなぐ
l ガンコがマイナス
2勝2敗に追いつき有利な状況を作りながら、次の2戦を連敗してタイトルは箱根を越えず。6戦目の直前、突然対局場の変更通告があり、理由も明らかにせず予定を変更するのは信に悖ると拒否したが、マイナス条件を自分で作り出したのが結果的に悪く影響した?
l くやしい思い出
作戦面で、当時流行の型を用いたのが今思うと悔やまれる。流行形に顔を背ける勇気がなかったのと、「若いくせに」との雑音を心配する気持ちもあった
l 名人戦の移転
「取引高税」の出現で、収入のすべてに10%の税金がかかるようになり、法人間取引は非課税だったため、いよいよ大成会も法人化の必要に迫られ、社団法人化すべく毎日新聞に契約金値上げを申し入れたが拒否にあう。当時、名人戦を朝日新聞へ移転する話が起こり、背に腹は代えられない大成会は、朝日の申し出に乗ってしまう
l 2度目の挑戦も実らず
名人位を失った木村はかなりのショックで次の順位戦では辛うじてA級に残留の成績だったが、その翌年は会長職も辞して盤上一筋に打ち込み、見事第8期の挑戦権を奪還
厳しい社会情勢のため、5番勝負に短縮、第5局は皇居内の済寧館、空前絶後の対局場
木村は10歳若い塚田相手に、見事タイトルを奪還
‘50年の第9期名人戦では、念願かなって木村名人への挑戦権を獲得したが、大山の若さが災い、2勝4敗で夢を逃す。世間では木村名人を称える声が一段と広がり、プロ棋界隆盛の起爆剤となったのは間違いない
4
名人位に就く
l 社団法人日本将棋連盟('49年発足)
中野に対局場と事務所を新設。正式に朝日新聞への名人戦移動を決める
l 毎日新聞将棋休載
順位戦がご都合主義的にコロコロ変わるために、雑音も増え、不満が募ってきたが、生き残るには自力に頼るしかないという時代
‘49年毎日新聞が将棋欄の休止を発表。名人戦を奪われた怨念の表れとはいえ、普及を謳い文句にした連盟にとってはかつてないほどの痛手
l 初の9段位に就く
将棋に力を入れていた讀賣新聞が「9段戦」創設を呼びかけ、'50年の第1期9段戦で大山が優勝し、初代9段に
戦前は「名人即9段」が習わしで永久9段だったが、今回のはあくまで1期限り
l 連盟の理想実現
毎日新聞も「王将戦」の提案。王将決定戦では3番負け越した方が香落ちというハンディキャップ戦を指すという条件付き。名人に香落ちの対局を強いるのは名人の権威に悖るとの反対もあったが、毎日新聞に負い目のある連盟は、正式なタイトルとしないという条件で受け入れ。毎日新聞の将棋欄が復活。地方紙も大新聞に負けないほどの棋戦を掲載
秩父宮が将棋がお好きで、プロ棋士への理解も深く、9段戦に秩父宮配を賜る
l 話したくないトラブル
'50年度の順位戦では升田8段が勝って挑戦したが、戦前の予想と違って木村名人が持ち直して防衛
'52年升田の対局拒否事件勃発――升田が前年末に始まった第1期王将位決定戦に勝ち抜いて、相手の木村名人を香落ちの手合いにしたのが空前の出来事として王将戦の人気が沸き上がったが、会場の神奈川県鶴巻温泉陣屋旅館の態度が気に入らないと、升田が対局を拒否。木村名人の名裁定により、その局は升田の不戦敗、7戦目は升田が平手番で快勝、第1期の王将位に就く。理由の如何に拘わらず、プロ棋士が対局を拒否するのには賛成できない
l 堅い決意
‘51年度の順位戦は大山が升田に勝って挑戦権を獲得。第11期名人戦の対局前には木村名人引退の噂も出たが、名人の勝負にかける執念は変わらず、大山の2勝1敗になった第4戦、東西対抗の意識は大分薄れたが、名人の気力が急激に衰えていくのを感じた
l 変則作戦不発
l トップの座の重み
第4戦で名人が変則作戦に出たのを見て、名人が諦めたと感じた
l 念願の名人位に就く
第5局に勝って念願の名人位を獲得したが、29歳と若く、重責に嬉しさも中くらいの心境
l 木村14世名人
「良き後継者を得た」の名言を残し、木村名人は間もなく引退。公式対局を指さない
木村名人の引退直後に第14世名人に推挙、5期以上名人位にいれば永世名人とするとの規約にも従う
5
永世名人になる
l 名人防衛線
'52年度、第12期名人戦の挑戦者は升田。無事防衛を果たすと、度胸も据わり余裕も出てくる。以降第15期まで連続5期名人位を守り、永世名人の資格を獲得。'77年現役のまま15世名人を名乗ることを認められる
l 花村さんらしい作戦
'56年、第15期名人戦第1局。花村8段は中年近くにアマチュアから転向、力将棋には定評
l 記念すべき年
第1局では、野戦の雄といわれた花村が、当時はまだ変則だった振り飛車作戦をとってきた。変則作戦の怖い所は、「独特なムード」を醸し出すところ、誤魔化されてはいけない
III. 5冠王時代
1
升田さんとの対決
l 会長交代劇
昭和30年代前半までは、名人、九段、王将の3棋戦のみで、大山、升田、塚田の3人が交代でタイトルを争っていたが、名人になった以上3冠王を目指す
将棋連盟の運営面は大きく変わり、会長が短期間に相次いで交代、不安定な心理状態に
l 屈辱の時代
永世名人獲得に気力を集中していたため、9段戦、王将戦は敗退。特に王将戦では升田に3連敗し、香落ちに追い込まれ屈辱を味わう。名人戦も升田の挑戦を受けたら永世名人も危なかったが、花村8段だったので気分的には楽に戦うことができた
l なりふりかまわず
第16期名人戦は、予想通り升田の挑戦を受け、1勝3敗と追い詰められ必死の思いで第5局を勝ち取る
l 全盛期の升田
第6局の升田は気合十分で押し切られ、名人位を失う
升田は、3棋戦を独占し「3冠王」と呼ばれ、「升田時代来る」の見出しが躍る
第17期名人戦の挑戦権を握ったが、返り討ちに遭う
l 傷心から立ち直る
故郷に戻って、原点に立ち返り、出直した結果、升田から王将位、9段位を奪還
順位戦も塚田と名人挑戦権を争い、勝って升田への挑戦権を得る
l 名人に返り咲く
'59年、第18期名人戦は、升田の健康がすぐれないこともあって楽にタイトルを奪還
l 「ライバル」の言葉に反発
世間は、升田と大山を宿命のライバルと呼ぶが、「ちょっと違う」と反発したい。2人は同門で苦楽を共にしてきた間柄で、大山は升田に指導される立場
2
新棋戦の出現
l 加藤治郎会長
加藤は早稲田大出身、学士プロ第1号。新会長のもと新将棋会館作りが始まる
棋戦でも、'60年中日新聞が中心となって「王位戦」が出現。東京新聞では高松宮杯争奪棋戦が掲載され人気を博し、両社合併により、棋戦も統合され王位戦に1本化
他の新聞社も、企画を争う形で将棋を取り上げ、それにつれてプロ棋界も発展を続ける
l 王位戦の誕生
3冠王としては負けられない新棋戦の誕生。塚田との間の7番勝負に勝って、初代王位に
l 駆け引きだけでは勝てない
当時振り飛車が好きになった大山に対し、塚田はもつれ込む形の振り飛車を嫌ったのに、対戦では塚田が自ら嫌う振り飛車を指す意表戦術に出てきたため、大山は居飛車で対抗、駆け引きだけの振り飛車に圧勝
l 将棋会館完成
千駄ヶ谷に新しい将棋連盟本部ができ、「将棋会館」と称した
3
5冠達成
l 棋聖戦出現
'61年、サンケイ新聞が新たな大型棋戦づくりを提案。3大タイトル戦とのバランスに悩んだ挙句、江戸時代の天野宗歩があまりの強さゆえに与えられたという呼称「棋聖」を選択
9段戦は、’62年から10段戦に昇格していたので、大山は4冠王の地位で新棋戦に挑戦
l 5冠王となる
棋聖戦の決定戦は、’63年大山と塚田の5番勝負となったが大山が初代棋聖に
l 将棋一筋だった塚田
塚田の将棋は「わが道を行く」がぴったり。一切駆け引きをしない棋風
棋聖戦は年2回開催、持ち時間7時間の1日勝負。新タイトルでもあり、年2回と頻度も高いところから、ほかの4大タイトルに比べると気合の入り方が違うのは否めない
l 将棋界にも新しい波
「新人類」と呼ばれる若者たちの登場――そのトップが二上達也9段
昭和30年代後半は大山の1人頂点で、’60年の王将戦で二上8段の初挑戦を受け、’63年には3度目の挑戦を受けて初めて敗退
l 二上の振り飛車
l 平常心を忘れる
二上は振り飛車退治に棒銀作戦を応用して大山を苦しめ、大山もムラ気が出て敗退
l アマチュア棋界もにぎやかに
プロ将棋界の隆盛がアマ将棋にも好影響を及ぼし、愛棋家の腕前もアップ
社団法人設立のときの一番の念願は将棋の普及にあり、様々な大会、催しを支援
IV. 新世代との対抗
1
中原名人の誕生
l 大天才出現
昭和40年を過ぎるころ、中原誠出現。'70年の第9期10段戦で初対決。まだまだと楽観していたのが災いしてタイトルを失い、'74年にも棋聖戦で敗退
l 悔いの最たる一戦
名人位は長い歴史と伝統を持つ地位で、棋士生命をかける意気込みで持ち続ける称号
'72年の名人戦で、中原の初挑戦を受けた第7戦は大山の生涯に悔いを残すものとなる
l 恥ずかしい千万の大ポカ
大山が土壇場でポカをやる。負けるはずがないという驕りが原因
‘73年には挑戦者にもなれず、’74年には挑戦して敗退。以降’86年まで挑戦者にもなれず、「大山時代去る?」などと書かれた
2
将棋連盟会長として
l 現在の将棋会館の完成
千駄ヶ谷の将棋会館は木造2階建てで手狭となり、かつ日本棋院の市谷の5階建てビルに対して見劣りがするので、建て替えに動く。寄付を募るにあたり理事を一新、会長に塚田、副会長に大山と中原などプロ棋士総出の布陣となり、’76年鉄筋5階建ての新会館完成
東京では日本船舶振興会が支援、大阪にもということになり、自転車振興会の支援で完成
l 大きなプラス
新会館作りに奔走、複雑な人間関係に出会って、人の世の甘さ、辛さを知ったのは大きい
l 望外の挑戦権
'85年、難病を克服して順位戦に復帰、第44期名人戦の挑戦権を獲得したが中原に敗れる
l よき後継者
3戦目の作戦が図に当たって勝ち、ひょっとするとと思った矢先に好防手を指されて敗退、中原の気構えと実力に関心
l 会長職の難しさ
‘77年会長就任。最大の難問は人事
名人戦の主催紙の問題――'35年に毎日新聞との合意で「実力名人戦」として始まった棋戦が、戦後の契約金を巡るいざこざで朝日新聞と連盟の共催に変更されたが、またも契約金が折り合わず、毎日新聞に戻ることに
l プラスか、マイナスか
プロとして碁の世界と同等の待遇を望み、契約金増大の要求は当然に思われたが、朝日新聞の反応は厳しく冷たかったため、毎日新聞に名人戦を復帰
l プロ棋界の損失
戦後のプロ棋界では多くの大棋士・名棋士が故人となる
特に印象に残るのが山田道美9段。'68年の棋聖戦でタイトルを奪われているが、連盟の在り方・行き方に高い識見を持ち、将来の連名を背負うと期待したが、’70年早逝
l 文化の名の重み
‘79年紫綬褒章、NHK放送文化賞などのほか、’87年の東京都文化賞には、将棋が公的に日本の文化の1つとして受け止められたものと、特に感激を覚える
将棋が、人間の英知を生み出したものであり、その中に溶け込んで、人間社会の進歩に何らかでも貢献できるものなら、これにすぎる喜びはない
数年後の将棋界は、谷川浩司が中心になり、高橋道雄や中村修、羽生善治などが競り合うことになると予測するが、彼らには将棋の技術だけではなく、将棋界を背負って立っていくにふさわしい物の見方、考え方をも身につけてほしいと切に願う
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十五世名人大山康晴は昭和十年に十二歳で木見金次郎八段に入門した.以来五十年余,名人をはじめとするタイトル獲得数・優勝回数は百二十を越え,現在もなお現役で活躍している.本書は昭和将棋の歴史を自己の歩みとともに描いたものである.木村,升田,中原ら多くの名棋士との激闘の跡を振り返り,将棋界の将来について抱負を述べる.
(天声人語)将棋の神様への捧げ物
2023年6月2日 5時00分
名人戦で勝てるのは、名人になるべき者だけである。名人とは「将棋界全体が選んだ、将棋の神様への捧げ物」(河口俊彦八段)であるのだから――。そんな不可思議な名言がいくつも存在するぐらい、将棋界における名人のタイトルは特別な意味を持つものらしい▼藤井聡太・新名人の誕生である。史上最年少であり、七冠という偉業の達成でもある。私たちはいま、歴史に刻まれるべき、藤井時代を見ているのだと痛感する▼きのうの対局後の感想戦が、何とも印象深かった。互いに自らの一手一手を考え直しながら「桂は考えてなかった」「歩を打つとか」「あっそうか」。熱戦の直後とは思えぬ、穏やかなやりとりが30分以上も続いた。極限まで考え抜き、無言の対話を続けた2人だからこそ、わかり合える世界があるのだろう▼「感想戦は敗者のためにある」。新名人の好きな言葉だという。勝者は喜びを露(あら)わにせず、未見の最善手を追求する。敗者は悔しさをぐっとこらえ、失敗からの学びを次につなげようとする。それは将棋というゲームの深みである▼昔は3時間に及ぶ感想戦もよくあったというから驚く。昭和の名人、升田幸三は鬼手を胸中に秘めて局後の検討を楽しんだ。十五世名人の大山康晴は、感想戦では「どんなことでもいえる」と言い放っていたとか▼新名人はタイトルの奪取に緩むことなく、さらなる高みを目指す。いったいどこまで強くなるのか。「捧げ物」を受け取る神様も、さぞ楽しみに違いない。
Wikipedia
大山 康晴(おおやま やすはる、1923年(大正12年)3月13日 - 1992年(平成4年)7月26日)は、将棋棋士。十五世名人。棋士番号26。木見金治郎九段門下。
主な記録としては、公式タイトル獲得80期(歴代2位)、一般棋戦優勝44回(歴代2位)、通算1433勝(歴代2位)等がある。永世名人・永世十段・永世王位・永世棋聖・永世王将の5つの永世称号を保持。
順位戦A級に在籍しながら、1976年(昭和51年)12月から1989年(平成元年)5月まで日本将棋連盟会長を務めた[1]。弟子には有吉道夫、中田功、行方尚史などがいる。1990年(平成2年)には将棋界から初めて文化功労者に選ばれた。正四位勲二等瑞宝章。岡山県倉敷市出身で、倉敷市および青森県上北郡おいらせ町の名誉市民・名誉町民。
生涯[編集]
生い立ち~戦前期[編集]
1923年(大正12年)3月13日、岡山県浅口郡河内町西阿知(現・倉敷市)に生まれる。5歳頃から将棋を覚え始める。
才能を注目されて、1935年(昭和10年)に大阪に出て、同じく岡山県出身の木見金治郎八段(当時)に入門し、内弟子となる。同1935年、創設されたばかりの関西奨励会に6級で参加[2]。順調に昇段し、1937年(昭和12年)には二段になった[3]。
二段時代に、中外商業新報(のちの日本経済新聞)の主催の若手勝ち抜き棋戦において、初の公式戦を体験する[4]。
木見門下の兄弟子に大野源一、角田三男、そして終生のライバル升田幸三がいた。内弟子時代、はじめは兄弟子の升田幸三が受け将棋で大山は攻め将棋だったが、二人で数多く対局するうちに、升田は攻めが強くなり、大山は受けが強くなったという。
しかし1938年(昭和13年)には、師匠の弟であり、木見家に居候していた木見栄次郎(中将棋の名手、将棋と囲碁はセミプロの腕前)と、中将棋と囲碁に明け暮れる毎日を送り、この年は二段のままであった[3]。
一方で、この時期に中将棋を学んだことで、駒の連携を重視する、用心深く、粘りのある大山の棋風が生まれたと大山自身が述べている。また、この時期に囲碁を本気で勉強したことは、大山が戦時中に兵役に就いた際に身を助けた(後述)。晩年に至るまで大山は囲碁を趣味としており[5]、1950年代には日本棋院からアマ五段の免状を受けていた[6]。
1940年(昭和15年)に四段、1941年(昭和16年)に五段、1943年(昭和18年)に六段(前年の昭和17年に六段への昇段点を満たしたが、早すぎるとして昇段を保留された[7])[8]。1942年(昭和17年)には、大阪毎日新聞(戦後の毎日新聞大阪本社)の嘱託となり、月額100円の手当を支給されるようになった[* 3][8]。
戦中~終戦[編集]
太平洋戦争中の1944年(昭和19年)に召集され、5月1日に、岡山市北部に兵営があった陸軍の「四十八部隊」に入営した[8]。大山は、4月18日に倉敷の自宅で召集令状を受け取った時点で、六段で11勝3敗の成績であり、あと4勝で七段に昇段できる状況であった[8][* 4]。大山は直ちに大阪に行き、入営の前に4局指させて欲しい(全て勝って七段になって入営したい)と師匠の木見に願い出た[8]。大山の希望は叶えられ、4月20日から23日の間に、大野源一・八段、高島一岐代六段、松浦卓造四段、星田啓三・四段(段位はいずれも当時)と4局を指したが、松浦四段に1敗を喫し[10]、3勝1敗の成績で昇段はできなかった[8]。
将棋大成会(日本将棋連盟の前身)は、出征すれば生還を望めない状況を鑑み、出征が決まった棋士を無条件に昇段させていた[11]。河口俊彦は、大山も何もしなくても七段に昇段できたはずなのに、あくまでも実力での昇段を望んだのは、真の将棋指しであった大山の人柄を表している、と評している[11]。
同じく河口俊彦は、当時の大山に勝てる棋士は関西に存在せず(升田幸三・七段は、昭和18年11月に二度目の召集を受けて出征していた[12])、そもそも、死にに行く出征棋士に勝とうなどと思う棋士がいる訳もなく、大山が1敗を喫したのは不思議である[11]。大山は勝つのが当然と油断しており、その隙を松浦四段に突かれて負けたのだろうと推定している[11]。
負けたとき、大山は自分が仲間に嫌われていること、勝負は油断してはならないことを身にしみて感じたであろう。この事件が後の大山の生き方に大きな影響を与えたのは間違いない。— 河口俊彦、[11]
入営して二等兵(歩兵)となった大山は[8]、厳しい初年兵訓練を1カ月受けたが[7]、その後に縫工(ミシンを使って裁縫作業をする配置)に回された[7]。同僚の兵は多くが沖縄戦に投入され[13]、生還できなかったが[8]、大山は戦地への動員を免れて岡山に残留した[13]。岡山県出身の上官(氏名は出典に記載なし)が、特殊技能を持つ兵は岡山に残す、と判断した結果のようであった[13]。
私は、小学校時代から将棋の師につき、木見門に入り、永世名人になって百二十四回の優勝をかさねてきた。そのためには自分なりに努力をしたつもりだが、ひとつには運に恵まれていたと感謝する。ことに軍隊では幸運をつかんでいなければ、沖縄戦に参加して、おそらくは生きて帰れなかっただろう。— 大山康晴、[13]
1945年(昭和20年)4月25日に大山の所属部隊が再編成され、本土決戦に備えて南九州に進出した[8]。そこで所属部隊を離れて上級部隊である第154師団の司令部附となり、宮原健雄大佐(第154師団参謀長[14]、陸士36期・陸大47期[14])の当番兵となり、終戦を迎えた[8]。
以下は、宮原健雄大佐の戦後の証言による[8]。
「 |
終戦の1か月前、昭和20年7月16日付で第154師団長が交代し[15]、二見秋三郎少将(陸士28期・陸大37期[14])が着任した。二見師団長は囲碁が趣味で、「囲碁の強い兵隊を探せ」と部下に指示した。条件を満たす大山が所属部隊を離れて第154師団司令部附となり、師団長の囲碁の相手をすることになった。しかし、昭和13年に1年かけて囲碁と中将棋を学んだ(前述)大山は囲碁が強すぎ、全く勝てない師団長が閉口して、大山はお役御免となった。大山はここで所属部隊に戻される筈であったが、それは大山が可哀想だと同情され、大山は宮原参謀長の当番兵になった。なお、参謀長は将棋の心得があったが、大山が将棋の専門棋士だとは知らず、大山と将棋を指すことはなかった。(要約) |
」 |
20代初のタイトルホルダーに[編集]
戦後に復員して棋士に戻り、創設された順位戦にB級六段として出場。1947年(昭和22年)に七段昇段。同年、妻・(旧姓・中山)昌子と結婚[16]。1948年(昭和23年)、時の塚田正夫名人への挑戦者は升田幸三八段と見られていたが、大山はB級1位ながら当時の変則運用によりA級棋士を連破して、A級1位の升田にも「高野山の決戦」(第7期名人挑戦者決定三番勝負)で辛勝して初めて名人挑戦者となる。25歳での名人挑戦は、当時の史上最年少記録であった[* 5]。また、20代での名人戦登場は史上初のことであった。しかし、第7期名人戦は2勝4敗1千日手で敗れる。この年、A級八段に昇段。
1950年(昭和25年)、A級順位戦に優勝し名人挑戦者決定戦も制して、第9期名人戦で木村義雄名人に挑戦するも2勝4敗で敗れる。その後、新設された、第1期九段戦で、優勝して、初タイトルとなる九段を獲得[* 6]。27歳でのタイトルホルダーは、当時の最年少記録であり、20代でのタイトル獲得も史上初のことであった[* 7]。
史上最年少名人の誕生[編集]
1951年 九段のタイトルを防衛。 1952年(昭和27年)、29歳の、大山は第11期名人戦で木村義雄名人に挑戦して4勝1敗で勝利、当時の、史上最年少名人が、誕生した。20代での名人獲得は史上初であった。また、九段のタイトルも保持していたため、史上初の二冠達成。ただし、九段位は、直後に、塚田正夫挑戦者に奪われる。「名人位の箱根越え」は、坂田三吉以来の悲願の成就であった(対局後、勝った大山が負けた木村に深々と頭を下げたことは、象徴的な場面として知られる)。以後、5連覇して1956年(昭和31年)には永世名人(十五世名人)の資格を得る。1952年 - 1954年には名人・王将の二冠を3年間保持した。1956年以前の九段戦は名人不参加であったため、当時の大山は全冠独占とは扱われないものの、出場しているタイトルは全て獲得していることとなる。
関西在住だったが、1955年(昭和30年)に東京に居を移す[* 8][17]。
升田幸三との闘争[編集]
「高野山の決戦」に敗れ、名人挑戦・名人獲得と大山の後塵を拝していた升田幸三であったが、「新手一生」「名人に香車を引いて勝つ」[* 9] を標榜しながら巻き返しを狙っていた。1955年(昭和30年)度、升田は大山から王将位を奪取、二冠の一角を崩す。このとき、王将戦の規定(指し込み制)で升田は大山を香落ちに指し込んで屈辱を味わわせ、「名人に香車を引いて勝つ」という念願を達成している。この時の心境を大山は『ハラワタがちぎれるほど悔しかった』と言っている。1956年(昭和31年)の第16期名人戦において、第12期・第13期と升田を退けてきた大山は、ついに升田に名人位を奪取され、無冠に転落した。升田は、名人・九段・王将の全冠を独占して、棋界初の三冠王となった。
その後大山は、1957年(昭和32年)度の王将戦、1958年(昭和33年)の九段戦、1959年(昭和34年)の名人戦と、升田から次々とタイトルを奪回して無冠に追い込み、棋界2人目の三冠王(全冠独占)となった。この頃の「助からないと思っても助かっている」という大山の言葉は、扇子の揮毫などでよく知られている。以後、升田は、タイトルを一つも獲得できなかった。
五冠王時代[編集]
1959年(昭和34年)に三冠王となった大山は、1960年(昭和35年)創設の王位戦で王位を獲得して初の四冠独占をし、そして1962年(昭和37年)創設の棋聖戦で棋聖位を獲得して初の五冠独占(名人・十段・王将・王位・棋聖)を果たした。
1959年 - 1966年(昭和34年 - 昭和41年、36歳 - 43歳)頃はタイトル棋戦でほぼ無敵の極盛期であり、1962年 - 1970年(昭和37年 - 昭和45年)頃も四度、五冠王になった。特に、1963年(昭和38年)から1966年(昭和41年)にかけてはタイトルを19期連続で獲得し、その間、他の棋士達にタイトルを一つも渡さなかった。大山の全盛期は、1950年代後半 - 1960年代の日本の高度経済成長期とほぼ重なっている。
二上達也・山田道美・加藤一二三・内藤國雄といった若い俊才たちが次々に挑みかかったが、大山の正確な受けによる「受け潰し」に阻まれた。また、木村義雄・升田幸三らと同様に、大山もしばしば「盤外戦」を駆使したといわれている。
中原誠ら次世代の台頭、記録への挑戦[編集]
しかし、1960年代末期(昭和40年代半ば)になると、山田道美と、その研究グループ「山田教室」で腕を磨いた中原誠が台頭してきた。山田は夭折したが、中原は大山攻略術を編み出した。桂馬を巧く使うことが、大山の堅い囲いを崩すのに有効だったという。あるいは、中原には大山の盤外戦が通じなかったともいわれ、大山は中原だけには非常に相性が悪かった。中原とはタイトル戦で通算20回戦っているが、うち、大山の獲得数は4、中原の獲得数は16である。1968年 - 1972年(昭和43年 - 昭和47年)度にかけて、大山は中原によって次々とタイトルを奪取され、50歳目前の1973年(昭和48年)王将戦で無冠となった。大山が無冠となったのは16年ぶり。中原はこの年に四冠王(後に五冠王)になり、「棋界の太陽」と呼ばれ、「大山時代」が終わって「中原時代」が来たと言われるようになった。
その1973年(昭和48年)、無冠になった大山は特例で現役のまま「永世王将」を名乗ることが認められ、1976年(昭和51年)には同じく現役のまま「十五世名人」を襲位した。これらの永世称号を名乗るのは原則として引退後であるが、大山が既に将棋界の一時代を築いてきた実績を持つ棋士であることを考えると、称号なしの「九段」とは呼べないという連盟側の配慮であった[* 10]。
しかしながら「中原時代」の大山も、分の悪い対・中原戦を除けば依然として強さを発揮し、50歳代にもかかわらず十段1期・棋聖7期・王将3期の計11期を獲得した(59歳の王将位獲得は、タイトル獲得の最年長記録)。また、谷川浩司によれば、通算成績においても、20歳代の時より50歳代の時の方が多く勝っているとのこと[18]。その他では谷川、羽生善治などにも負け越している。
連盟の運営、将棋の普及、顕彰[編集]
倉敷市芸文館に併設されている、倉敷市大山名人記念館
1974年(昭和49年)には「将棋会館建設委員長」となって日本将棋連盟本部である「将棋会館」の建設に、1977年(昭和52年)には「関西将棋会館建設副委員長」として「関西将棋会館」の建設に尽力。1976年12月から1989年5月(昭和51年 - 平成元年)[1]には、第一線のA級棋士で王将を3期連覇しながら日本将棋連盟の会長を務め、プレイングマネージャーとして将棋界総本山の運営にも精力的に従事した。戦後に日本将棋連盟が発足して以来、会長とタイトルホルダーが兼ねていた唯一の事例である。
会長に就任した頃から、将棋の普及活動に、ひときわ熱心に取り組むようになった[19]。
少なくとも名人でいる間は、大山は悪役だった。棋士の大半が好感を持っていなかった。しかし、五十歳を過ぎ、会長になってから人間が少し変わった。ファンに誠意を持って接し、サービスの限りを尽くした。晩年はファンからの大山の悪口を聞いたことがない。— 河口俊彦、[19]
大山は、1978年(昭和53年)4月、55歳の時に、将棋普及のために青森県上北郡百石町(現・おいらせ町)を初めて訪れた[20]。それ以来、大山は同町を繰り返し訪問し、「第二の故郷」と呼ぶほどの深い交流を持った[21][22]。 1989年(平成元年)には百石町名誉町民の称号を贈られ(2005年(平成17年)に「おいらせ町」が発足してからは[23]、おいらせ町名誉町民[20][* 11])、没後の2004年(平成16年)には大山を顕彰する町立の施設「大山将棋記念館」が建てられている[20]。
出身地である倉敷市からは、1953年(昭和28年)に倉敷市文化賞を[25][26]、1970年(昭和45年)に倉敷市名誉市民の称号を贈られ[27][* 12]、没後の1993年(平成5年)には「倉敷市大山名人記念館」が建てられ[29]、同じく1993年に女流棋士のタイトル戦として「大山名人杯倉敷藤花戦」(倉敷市ほか主催)が創設されている[30]。
1990年(平成2年)には、将棋界から初めて文化功労者に選ばれた。 このほかの大山の表彰・顕彰としては、次のようなものがある。
また、現役棋士としても、下記の賞を受賞している。
·
1982年 通算1200勝達成の表彰
晩年期の闘い[編集]
晩年期の大山は、肝臓がんと闘病しながら何度も復帰してA級順位戦を闘い、さらにはタイトル獲得に挑み続けた。還暦を過ぎた60歳でNHK杯テレビ将棋トーナメントで優勝し[31]、63歳となった1986年(昭和61年)に名人戦で中原名人に挑戦し、平成元年度の1990年(平成2年)には棋王戦で66歳にして南芳一棋王に挑戦した[* 13]。この棋王挑戦は、タイトル挑戦の最高齢記録である(五番勝負は0-3で奪取ならず)[* 14]。
この年代になって、順位戦で降級の危機に瀕することはあった。「A級から落ちたら引退する」という大山の決意はファンにも知れ渡っており注目を集めたが、A級の地位を維持した。1987年(昭和62年)度は、生涯最低の3勝6敗の成績ながらも、最終戦を待たずして残留が決定していた。1990年(平成2年)度は、最初に5連敗したが、その後4連勝して降級を免れた。
さらに1991年(平成3年)度(1992年(平成4年)3月まで)の順位戦(第50期)では、がん治療中の身でありながらも名人挑戦権を争い、残り1局の時点で単独トップの谷川浩司四冠王(当時)を最終9回戦で破って、6勝3敗の4人でのプレーオフに持ち込んだ。プレーオフはパラマストーナメントのため、リーグ表で下位の大山は3連勝をする必要があったが、プレーオフ初戦の高橋道雄との対局で敗れ(勝勢になったが決め手を見逃して敗局)、これが大山がフル出場した最期の順位戦となった。
大山は最期まで現役を貫いた。没年となった1992年(平成4年)度の順位戦も休場せず、A級1回戦で田中寅彦との対局(1992年6月11日)に臨んだ。その3日後、1992年6月14日に高松市「高松市民会館」で行われた第13回将棋日本シリーズ1回戦(公開対局)での小林健二との対局において勝利し(147手)[* 15]、公式戦通算成績を1433勝とした。これが大山の棋士人生最後の勝利となった。
1992年6月25日の棋聖戦二次予選での中村修との対局(146手で中村の勝ち)が大山の生涯最期の公式戦対局となり、53年間余りの公式戦通算成績を1433勝781敗(勝率0.647)として棋士人生を終えた。それから1ヶ月後の7月26日、大山はA級の地位を守ったまま死去した[32]。A級在籍のまま死去した将棋棋士は山田道美に続き史上2人目であり、後に村山聖もA級在籍のまま死去したが、山田と村山は将棋棋士として絶頂期と言える若い年齢(36歳と29歳)で死去したのに対し、大山は69歳という高齢でA級の地位を維持し続けていた点が特筆に値する。大山が残した69歳4ヵ月のA級在籍記録は将棋史上最年長であり、現在も破られていない。
棋風[編集]
史上最強の棋士は誰かと聞かれれば、「大山康晴」と私は答えることにしている。実績において大山を破る者があるとすれば羽生善治だろうが、それでもまだ今後の活躍次第と言っていいだろう。— 米長邦雄(2012年没)の遺稿より、[33][* 16]
米長邦雄は、大山の、終盤での強靭な粘り、最善手ではない、敢えて相手の悪手や疑問手を誘うよう手を指す逆転術を「終盤が二度ある」「二枚腰」と評した[35][要ページ番号]。
同じく米長邦雄は、大山将棋の神髄は受けにあり、守りの要となる金の使い方の巧みさでは並ぶ者がない、と評している[33]。
大山が1992年に死去した後、藤井猛が大山の棋譜を徹底的に研究して藤井システムを創案し、それを駆使して1998年度に初タイトルとなる竜王を獲得した際に、藤井の将棋と大山の将棋が酷似していると感じた米長邦雄は、「嫌な者」(大山)が生き返ってきたかのようだ、という趣旨の発言をしたという(河口俊彦による)[36][* 16]。
羽生善治は、大山の棋風について「読んでいないのに急所に手が行く」「最善手を追求しない」と評している[37][要ページ番号]。大山との実戦では「まあこんなところだろう」という感じで手が伸びてくるのがピッタリ当たり、まさに名人芸という指しまわしであったと評している[38][要ページ番号]。
若い頃の大山は、その当時の主流であった矢倉や腰掛銀などの居飛車が多かったが、突如振り飛車党に転向、特に美濃囲いでの四間飛車とツノ銀中飛車を好んで指した[* 17]。この転向について、勝又清和は「ファンに喜ばれる将棋を指そうと考えたため」と説明しているが、大山の場合は多忙の中、兄弟子の大野源一から序盤がある程度決まっている(序盤の研究を省略できる)振り飛車を勧められたためとも言われている[39]。
しかしその一方で相振り飛車は極端に嫌っていて、相手が飛車を振った場合は必ず居飛車で指していた(大山が公式戦で相振り飛車を指した棋譜は1局しか残っていない)。
鈴木大介は、大山が相振り飛車を嫌っていた理由として、当時の相振り飛車で一般的に使われていた金無双の右銀の使い方に苦心していたためではないかと話している。その根拠として、大山が最後に指した相振り飛車の対局では、大山は二枚金の形にはしたものの右銀は2八に上げずに3九に置いたまま戦い、最終的に終盤で取られてしまうまで3九から動かすことは無かった[40]。
相手の手番のときには、相手が盤上のどこを見て考えているか視線の方向を観察していた。
盤外戦[編集]
高島一岐代(右)とともに(1955年)
対局相手に無形の圧力を加えるなど、いわゆる「盤外戦」を駆使した面がしばしば強調される。
例えば有名な高野山の決戦である。A級1位だった升田が塚田正夫への挑戦者で当然だったが、名人戦を当時主催していた毎日新聞社は、自社の嘱託棋士であったB級1位の大山を強引に参画させるため、突然A級上位3名とB級1位のプレーオフで名人戦挑戦者を決める変則を実施した。朝日新聞社の嘱託棋士であった升田には[41]、対局の日程も場所も事前に通知がなく[42]、真冬の高野山に行く升田に同行者を出さないという冷遇をした[42]。しかも、十二指腸の具合がよくなかった升田は温暖な場所での対局を依頼していたが、毎日新聞社は寒冷な高野山を選ぶなど、升田は対局する以前に大山側から強烈な盤外戦を喰らっていたという説もある。
一方、河口俊彦は、毎日新聞社が、朝日新聞社の嘱託棋士であった升田に悪意のある仕打ちをしていたというのは、升田の考えすぎであろう、という趣旨を述べている[43]。
1948年(昭和23年)の「高野山の決戦」の後の1953年(昭和28年)に毎日新聞社に入社し、長く観戦記者を務めた井口昭夫は、下記のように述べている[44]。
·
「B級1位を参画」という制度変更は、「順位戦の開始前」にされていたはずだ。(升田は知らなかったかもしれないが)順位戦が終わった段階での、制度変更は考えられない。なお「B級1位を参画」は七段時代の升田が、木村名人との五番勝負に勝った結果として「B級の逸材にも挑戦のチャンスを与えよう」という流れである。
·
井口は、高野山での対局を毎日新聞社で担当した者に話を聞いた。当時は食糧難で対局場所を探すのも困難であり、食糧が十分確保されている高野山が対局場所として適所としてあげられた。なお、「途中は寒くても、寺に入ってしまえば防寒の用意は発達している」と高野山側の説明を受けていた。
·
毎日側は升田に連絡しようとしたが、升田の所在がわからず困惑していた。朝日新聞側の担当者も、升田に連絡がつかないことを心配していた。
敗戦から3年を経た1948年、未だ日本の食糧事情は厳しく、「高野山の決戦」については、対局の前夜に供されるすき焼きの材料は主催社の毎日新聞社が提供し、高野山滞在中に関係者が食べる白米(出典には「銀飯」とある)は高野山が提供し、左党の升田に欠かせない酒は後援者が提供した[45]。食糧確保のための関係者の努力は多大なものであった[45]。
なお、大山の側も、朝日新聞社が名人戦を主催するようになって以降は相当の盤外の圧力を被っていたという説もある。升田が勝てば役員総出で大宴会になり、大山が勝ったらそのまま全員帰った、大山が升田に敗れればカメラマンが何度も投了の瞬間を再現するよう迫ったという逸話が伝えられている[46]。これで奮起した大山は2期後に名人位を升田から取り戻し13期連続、通算18期名人位を獲得し、その後二度と終生のライバルであった升田にタイトルを譲ることはなかった。
その他の棋類[編集]
日本の古典将棋である中将棋の権威でもあり、さらにはチェスでも日本チャンピオンになり、日中国交正常化の翌年1973年に日中象棋協会(後に日本シャンチー協会に改名)を設立して会長職を務めてシャンチー(中国象棋)の普及にも努め、日中協会の役員[47] にもなって日本将棋の中国への普及にも努めた[48]。
昇段履歴、永世称号襲名・襲位[編集]
·
1935年月日 : 入門
·
1941年月日 : 五段
·
1943年月日 : 六段(B級)
·
1958年4月17日 : 九段(1954年時点での名人3期達成による)
·
1976年11月17日 : 十五世名人を襲位(特例、将棋の日)
·
1992年7月26日 :
A級現役のまま逝去(69歳没)
主な成績[編集]
タイトル・永世称号[編集]
登場・連覇の 太字 は歴代最多記録。
詳細は大山康晴の戦績を参照。他の棋士との比較は、タイトル獲得記録、将棋のタイトル在位者一覧を参照
タイトル |
獲得年度 |
登場 |
獲得期数 |
連覇 |
永世称号(備考) |
- |
0 |
- |
- |
||
1952-1956,
1959-1971 |
25 |
18期 |
13 |
||
1960-1971 |
15 |
12期 |
12 |
永世王位 |
|
- |
0 |
- |
- |
一般棋戦時代の優勝9回 |
|
- |
2 |
- |
- |
||
1952-1954,
1957-1961, |
26 |
20期 |
9 |
||
1962後-1965後,
1966後, |
22 |
16期 |
7(2度) |
永世棋聖 |
|
旧タイトル |
獲得年度 |
登場 |
獲得期数 |
連覇 |
永世称号(備考) |
1950-1951,
1958-1961 |
8 |
6期 |
4 |
||
1962-1967,
1969, 1973 |
14 |
8期 |
6 |
永世十段 |
|
登場回数合計112、 獲得合計80期 (歴代2位) |
|
一般棋戦優勝[編集]
·
王座戦 9回(1953-1955,
1959, 1964, 1966, 1968, 1980-1981年度)
·
NHK杯テレビ将棋トーナメント 8回
= 歴代2位(1954-1955,
1961, 1964, 1970, 1972, 1979, 1983年度)
·
全日本選手権戦(名人九段五番勝負)
4回(1950-1951,
1953, 1955年度)
·
名人A級勝抜戦5勝以上 4回(1952後期=6連勝,
1954後期=5連勝,
1956前期=7連勝,
1958前期=7連勝)[49]
·
早指し王位決定戦 4回
= 歴代1位(1954-1957年度)
·
日本将棋連盟杯争奪戦 4回
= 歴代1位(1972,
1975, 1978-1979年度)
·
早指し将棋選手権 4回
= 歴代1位タイ(1973年度前期,
1974年度前期,
1975年度後期,
1976年度後期)
·
東京新聞社杯高松宮賞争奪将棋選手権戦 2回
= 歴代1位タイ(1960-1961年度)
·
全八段戦 1回(1952年度)
·
産経杯争奪トーナメント 1回(1953年度)
·
名将戦 1回(1979年度)
·
JT将棋日本シリーズ 1回(1982年度)
·
オールスター勝ち抜き戦5勝以上
1回(1985年度=
5連勝)
合計44回(歴代2位)
この他、東西対抗勝継戦5勝以上 1回(1955(第4回))がある。本棋戦は本来は名人の参加しない一般棋戦だが、この年は「特別模範勝抜戦」と題して名人の大山が特別に参加した。この優勝相当成績は日本将棋連盟の公式の一般棋戦優勝回数には含まれていない。
将棋大賞[編集]
·
第1回(1973年度) 最優秀棋士賞・最多勝利賞
·
第2回(1974年度) 特別賞・最多勝利賞・最多対局賞
·
第3回(1975年度) 特別賞・最多勝利賞・最多対局賞
·
第4回(1976年度) 連勝賞
·
第7回(1979年度) 最優秀棋士賞・最多勝利賞・最多対局賞(いずれも最年長記録、56歳)
·
第13回(1985年度) 特別賞
·
第19回(1991年度) 特別賞
·
第20回(1992年度) 東京将棋記者会賞
主な記録[編集]
生涯成績
1433勝781敗 勝率0.647
·
通算勝数 1433勝(歴代2位)
·
通算優勝回数 124回(歴代2位、タイトル戦80・一般棋戦44・非公式戦0)
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通算公式戦優勝回数 124回(歴代2位、タイトル戦80・一般棋戦44)
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タイトル戦獲得 80期(歴代2位)
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タイトル戦連続獲得 19期(歴代1位、1963年度名人戦
- 1966年度名人戦)
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タイトル戦連続登場 50回(歴代1位、1957年度名人戦
- 1967年度十段戦)
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順位戦A級在籍・名人在位 連続45年44期(歴代1位)
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名人在位 18期(歴代1位)
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十段位在位(九段戦込み)
14期(歴代1位)
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同一タイトル戦連覇 13期(名人戦)(歴代2位)
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同一タイトル戦連続登場 21期(名人戦、王将戦)(歴代2位)
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タイトル戦最年長奪取 56歳11か月(王将戦)(歴代1位)
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タイトル戦最年長防衛 59歳 0か月(王将戦)(歴代1位)
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タイトル戦最年長失冠 59歳11か月(王将戦)(歴代1位)
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タイトル戦最年長挑戦 66歳11か月(棋王戦)(歴代1位)
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名人最年長防衛 48歳 3か月(歴代1位)
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名人最年長挑戦 63歳 2か月(歴代1位)
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最年長A級 69歳4か月(A級棋士のまま死去)(歴代1位)
主な対戦相手との勝敗[編集]
対戦相手 |
対局 |
勝 |
敗 |
タイトル戦 |
2 |
2 |
0 |
||
27 |
16 |
11 |
獲得1
敗退1 |
|
75 |
45 |
30 |
獲得2
敗退2 |
|
167 |
96 |
70 |
獲得15
敗退5 |
|
52 |
43 |
9 |
獲得2
敗退0 |
|
69 |
45 |
24 |
獲得3
敗退0 |
|
162 |
116 |
45 |
獲得18
敗退2 |
|
125 |
78 |
47 |
獲得7
敗退1 |
|
69 |
40 |
29 |
獲得4
敗退0 |
|
68 |
50 |
18 |
獲得3
敗退1 |
|
104 |
58 |
46 |
獲得4
敗退2 |
|
162 |
55 |
107 |
獲得4
敗退16 |
|
22 |
6 |
16 |
||
9 |
3 |
6 |
||
2 |
1 |
1 |
||
2 |
1 |
1 |
※升田と二上の対局数は、タイトル戦での持将棋各1局ずつ含む。
※有吉、米長、谷川、羽生の対局数と敗数は、大山の死去に伴う不戦敗扱いを各1局ずつ含む。
在籍クラス[編集]
順位戦・竜王戦の在籍クラスの年別一覧 表示 |
人物[編集]
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大の麻雀好き。タイトル戦を戦っている最中にも控室に顔を出し、その場にいる棋士や観戦記者達に「早く仕事(=麻雀)をしなさい」と場を立てさせようとするほどで、2日制のタイトル戦では毎夜雀卓を囲むことが珍しくなかった[50]。そのため立会人を務める棋士についても「麻雀を打てる人にして欲しい」とリクエストしていたほどで、時には封じ手の時間を「みなし長考」扱いにして繰り上げてまで麻雀を打ったこともあるという[51]。田丸昇はこれらの行動について「対局場を仕切って自分のペースにするのも戦略だと思っていた。麻雀はその小道具だった。ひとつの盤外戦術といえる」と分析している[51]。
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「ゴルフを初めてやった大山は、「こんな面白いものが将棋に悪くないはずがない」と言ってきっぱりやめてしまった」と伝えられることも多いが、実際はゴルフもある程度、熱心にたしなんだ後に、「将棋によくない」ときっぱりやめた[52] とされるが、河口俊彦『大山康晴の晩節』によると、晩年の大山は「健康のためのゴルフ」を熱心に行っていた。
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大山は健啖家だったが、酒は好きではなかった。大山の盟友であった丸田祐三も酒を嗜まなかった。
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食べ物では「嫌いなものは特にない」一方で「辛いものが好き」。カレーライスでは30倍カレーを普通に平らげるほど辛さに強く、同じく激辛好きの林葉直子と意気投合することが多かった[53]。
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NHK杯テレビ将棋トーナメントやテレビ将棋対局では、非常にわかりやすい解説に定評があった。
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自宅最寄り駅の荻窪駅から自宅へ帰る途中や将棋会館最寄り駅の千駄ケ谷駅から将棋会館へ歩いて向かう途中、人に追い越されると悔しくて抜き返したという。
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升田とは兄弟弟子でありながらお互いにトップ棋士となった頃には上記の通り盤外戦でも嫌がらせの応酬に終始したと伝えられるが、升田が逝去したときには真っ先に駆け付け、「面会謝絶」と留められるのを振り切って死に顔に面会した。
その他[編集]
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1968年にビクターレコードよりリリースされた三沢あけみの楽曲「勝負」を作詞した。
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河口俊彦が大山の人物像を描いた「大山康晴の晩節」は、第15回(2002年度)将棋ペンクラブ大賞を受賞している。
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河口俊彦によると、大山に禁煙を勧められた河口が「(やめた方がいいのは)わかってはいるんですけどねえ」と答えると、「わかっているのに実行しないとは信じられない」というような目で見られたという。
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藤井猛九段は『大山康晴全集』の全棋譜を並べるほど熱心に大山将棋を学んだという。このため、藤井の指し手には大山将棋の影響が表れていると言われる。
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坂口安吾の小説『九段』には、若き大山九段のウヌボレ屋な一面と、坂口安吾との偶然の縁が描かれている。
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バトルロイヤル風間の将棋4コマ漫画にも初期にはよく登場し、将棋と全然関係ないシーンで大山が「ワシにまかせろ!」なる怒号と共に出てきて、強引に片付けてしまうのが定番のギャグだった。風間によると「ネタに詰まるとすぐ大山」だったとの事で、これが縁で大山と風間の対談も実現している。対談は漫画にされ将棋マガジンに掲載された。風間は「大山は将棋しか考えない鉄人だった」と語っている。この時、国会議員に立候補しないのかと風間が聞いたところ、大山は「たとえなっても歩にすぎないので馬鹿馬鹿しい。王将にだったらなるが」という意味の返答をした。
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55年組の強豪の南芳一九段は、かつて「リトル大山」の異名を取った。
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渡辺明は、その風貌、終盤の強さや逆転術などから、四段時代より「大山の再来」といわれてきた。
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コンピュータ将棋については、まだ本将棋を指せず、詰将棋プログラムが先行して研究されていた頃から反対していた。「人間が負けるに決まってるじゃないか」[54] というのがその理由である。また、「コンピュータに将棋なんか教えちゃいけないよ。ろくなことにならないから」が口癖だった[55]。大山の生前はコンピュータ将棋はプロの棋力には遠かったが、2013年の第2回将棋電王戦で、初めて公にプロ棋士がコンピュータに敗れた。
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コンピュータ将棋『早指し 二段森田将棋』の題字は大山の筆である。発売されたのは、大山の死後である1993年6月18日だった。
主な出演[編集]
CM[編集]
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多胡本家酒造場 -
『加茂五葉(かもいつは)』(昭和40年代:岡山県ローカル。地方ローカル局(山陽放送)のみ)
(※当時、同時期のCMで俳優・長門勇の「『御前酒』(加茂五葉同様、岡山県の地酒)飲まにゃあ、ええ酒じゃ」が流れていたので、それに対抗して大山名人曰く「酒は断然!『加茂五葉』ですね」が決まり文句だった)
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ライオン -
『エメロン石鹸』(1974年:ACC CMフェスティバル 第14回テレビフィルムCM部門秀作賞)
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毎日新聞(1979年)
主な著書[編集]
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『将棋・勝つ受け方』(1984年6月、池田書店、ISBN
4-262-10263-7)
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『大山流勝負哲学』(1985年4月、産能大学出版局、ISBN
4-382-04856-7)
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『四間飛車のポイント 大山流振飛車の真髄』(1987年6月、日本将棋連盟、ISBN
4-8197-0116-9)
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『背水の陣で生きる―ガンを克服した63歳の挑戦者』(1986年7月、光文社カッパ・ホームス、ISBN
4-334-05129-4)
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『昭和将棋史』(1988年1月、岩波新書、ISBN
4-00-430007-X)
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『大山康晴全集』(1991年5月、毎日コミュニケーションズ、ISBN
978-4-89563-546-2)
o 第1巻 五冠王まで(昭和11年
- 37年)
o 第2巻 無敵時代(昭和38年
- 46年)
o 第3巻 記録への挑戦(昭和47年
- 平成3年)
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『棋風堂堂―将棋と歩んだ六十九年間の軌跡』(天狗太郎編集、1992年10月、PHP研究所)
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新版『大山康晴 人生に勝つ』(1999年12月、日本図書センター、ISBN
4-8205-5767-X)
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新版『勝負のこころ』(2009年2月、PHP研究所)
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新版『不動心論 あるがままに身を置いて心ゆるがず』(2017年6月、ロングセラーズ、ISBN
4-8454-5024-0)
弟子[編集]
棋士[編集]
名前 |
四段昇段日 |
段位、主な活躍 |
1954年 |
五段 |
|
1955年5月15日 |
九段、棋聖1期、一般棋戦優勝9回、A級在籍21期 |
|
1986年4月30日 |
八段 |
|
1993年10月1日 |
九段、タイトル挑戦2回、一般棋戦優勝2回、A級在籍6期 |
(2019年11月14日現在)
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市川は1967年に将棋連盟を退会[56]。
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有吉は大山とのタイトル戦で4度の「師弟対決」。大山・有吉以外で、タイトル戦の師弟対決は起きていない[57]。
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中田の弟子・大山の孫弟子に当たる佐藤天彦が実力制第十三代の名人となり、3期在位。名人の孫弟子が名人になったのは初めて[58]。
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行方は大山死去後の1993年にプロ四段昇段。名人戦挑戦1回。
脚注[編集]
[脚注の使い方]
注釈[編集]
1. ^ 四段昇段年
2. ^ 名人18期を含む
3. ^ 戦前、「月給100円」は相当な価値とステータスを有していた[9]。
4. ^ 大山康晴『棋風堂々』(PHP研究所、1992年)には、召集令状を受け取った時点で六段で10勝2敗の成績で、後6勝すれば七段に昇段できるので、師匠の木見に頼み込んで20日から25日までに6局指したが、4勝2敗で昇段が成らなかった、とある[7]。
6. ^ 当時、段位は最高で八段までで、九段はタイトルであった。その後、九段のタイトルは十段、竜王へと移行し現在に至る。詳しくは十段戦を参照。
7. ^ のちに中原誠が、当時の最年少となる20歳で棋聖を獲得し、大山の記録を塗り替えた。
8. ^ 同年に升田も同様に、東京に転居している。
9. ^ 香落ち(自分の香車を落とすハンディ戦)にしてまでも勝つこと。
10. ^ 後に中原も同様の理由で現役のまま永世十段を名乗ることとなった。
11. ^ おいらせ町が発足した2005年に制定された「おいらせ町名誉町民条例」には、附則2として「この条例の施行の際、合併前の百石町名誉町民条例(昭和38年百石町条例第18号)の規定により名誉町民の称号を贈られた者は、この条例の規定により名誉町民の称号を贈られた者とみなす。」とある[24]。よって、大山は、おいらせ町名誉町民である。
12. ^ 47歳の若さで名誉市民になるのは全国的にも異例であり、棋士が名誉市民になるのは史上初であった[28]。
13. ^ この棋王戦挑戦者決定トーナメントにおいて、19歳で竜王にあった羽生善治に勝っている。
14. ^ このため谷川浩司は『NHK杯 伝説の名勝負』
p.88で、「大山先生の60歳は晩年と言うイメージではなかった。」と、その後の名人挑戦、棋王戦にも言及しつつ語っている。
15. ^ 大山の死後、羽生善治との日本シリーズ2回戦の対戦予定(8月30日)は羽生の不戦勝扱いとなった。
16.
^ a b 河口俊彦によると、米長邦雄は大山と気性が合わず、仲が良くなかったという[34]。
17. ^ 振り飛車は、当時のアマチュアには棒銀と並んで人気があった一方で、プロ棋界ではいきなり角道を止める振り飛車は受け身で消極的とされ、若手棋士が指すと年輩棋士から叱責を受けるほどだった。そのような風潮の中で、升田・大山の両巨匠が振り飛車党に転向したことは衝撃的なことだった。
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