都市計画家 石川栄耀  中島直人ほか  2023.4.21.

 2023.4.21. 都市計画家 石川栄耀 都市探求の軌跡

 

著者

中島直人 1976年東京都生まれ。'99年東大工都市工学科卒。'01年同大学院都市工学専攻修士課程修了。現在東大大学院工学系研究科都市工学専攻助教。博士(工学)。専門は都市計画。日本建築学会奨励賞、日本都市工学会論文奨励賞受賞

西成典久 1978年中野区生まれ。'00年東工大工社会工学科卒。'07年同大学院社会理工学研究科社会工学専攻博士課程修了。立教大講師を経て、'09年より香川大経済講師。博士(工学)。専門は景観・都市計画。『石川栄耀研究』(07)で日本都市工学会論文奨励賞受賞

初田香成 1977年東京都生まれ。'01年東大工都市工学科卒。'08年同大学院建築学専攻博士課程修了。現在東大大学院工学系研究科特任助教。博士(工学)。専門は都市史(近現代)・都市計画

佐野浩祥 1977年小平市生まれ。'00年東工大工社会工学科卒。'06年同大学院情報理工学研究科情報環境学専攻博士課程修了。現在立教大アミューズメント・リサーチ・センター・ポスドクフェロー。博士(工学)。専門は国土・地域計画、観光計画

津々見崇 1972年熊本県生まれ。'97年東工大工社会工学科卒。'00年同大学院情報理工学研究科情報環境学専攻修士課程修了。現在東工大大学院情報理工学研究科情報環境学専攻助教。専門は都市・地域計画、まちづくり学習論、観光計画

 

発行日           2009.3.20. 第1刷発行

発行所           鹿島出版会

 

 

序章 都市計画家・石川栄耀への眼差し

l  都市計画の現在地と都市の原論

石川栄耀は我国の都市計画界において最も高名。都市計画学会も学会の最も栄誉ある賞を「石川賞」と名付ける

最も意識的に「都市計画」を探求し、常に既存の都市計画という枠組みを批判的に超越していくことを実践した人物

日本で都市計画という分野が形成されたのは1919年の都市計画法の制定以降――都市計画とは、人口急増と市街地拡大に対して、「計画」的理念と手法によってその制御を試みた社会技術で、基本的に国家が権限を掌握するスタイルを取った日本の都市計画は「近代国家・日本」に相応しい都市の創造という課題に物的環境の側面から取り組んだ

手法としては、さらに強まった市街化圧力を制御する能力と地区レベルでの土地利用、建築形態を詳細に制御する能力の向上を目指して、その手法を行使する主体としては国家から基礎自治体への分権、市民参画の導入を目指して都市計画法が幾たびも改正された

現在では都市の動態が変化、人口減少や地域環境時代の到来により社会技術としての都市計画の根底を揺るがしている。都市そのものの意義を再構築するという課題に直面

徹底的に個人化されてきた社会の功罪を見つめた上で、再び共同や公共といったコンセプトをどのように今日的に意味づけ、恢復させていけるのか、都市の果たす役割とは何か

都市計画とは、都市の概念や理念、都市に対する態度や姿勢から法律や制度、技術までを貫くもので、都市の原論に確かに基礎付けられた1つの社会知のこと

l  石川栄耀という都市計画家

土地区画整理事業による良好な都市基盤の創造に都市計画技師の本務として取り組みながら、盛り場に入り、美化運動を展開し、祭りを創設。実践に力を尽くす傍ら、その根底や背景、基盤としての理論を追求し、都市計画の教科書を執筆、都市計画学の構築を目指す。都市スケールを越えて生活重視の国土計画論を展開し、数多くの著作を残す。東京の戦災復興計画では首都圏レベルの計画の立案から東京の土地利用計画、街路網計画など中心に据えつつ個別具体の商業空間や広場空間の設計も多数試み、さらに全国各地での講演活動や児童向けの書籍による啓蒙、地元でのコミュニティ活動などを積極的に展開

都市計画家とは、都市計画の制度や技術によって規定される何かなのではなく、現実の都市や理想とする都市からの要求に真摯に対応する人物のこと

石川も、戦時中こそ全体主義的な思想を称揚し、皇国都市論を展開したが、戦後は民主主義を解く知識人の1人となる。一貫して都市への強い関心、興味、情熱を維持・持続

都市がもたらす問題性だけでなく、可能性に積極的に目を向け、都市生活者の視点から、人間の郷土としての都市を追求。戦前・戦後を通じて、人生の幸福の基礎的な部分としての都市のありようを問い続けてきた。人間の郷土という都市観の強度と持続性故に注目

l  人物研究としての意義

都市計画という分野を支える「思想」を先達の思考遍歴、実践的態度から学び取るのは、自分たちなりの哲学の構築のため、自らの志を鼓舞し、持続させるために必要な行為

l  石川栄耀の原景

盛岡中学時代(啄木と賢治の間)の盛岡という都市での生活が後々まで郷愁の対象であり、学問の対象としての都市との出会いも中学時代に読んだ『趣味の地理 欧羅巴前篇』

大学時代、文学仲間と『晩餐』という詩集を発行、寄席通いが趣味

1920年、都市計画法によって設置が決まった都市計画地方委員会の技師第1期生として内務省に採用

l  都市計画家としての歩み

'2133年の13年間を名古屋に暮らし、愛知県内各都市の都市計画を担当

‘3343年、都市計画東京地方委員会に転任

‘4351年、東京都成立とともに移籍、道路課長、都市計画課長、建設局長

‘51~年、早大土木工学科都市計画講座初代教授

 

第1章        都市計画技師の本務である土地区画整理事業に関する石川の思想と実践が主題

第2章        本務の傍ら、石川が発展させた独自の盛り場商店街での都市美運動が主題

第3章        東京転任後の本務の活動が主題――都市計画の基盤理論の探究の軌跡を整理

第4章        地方計画論・国土計画論が主題――生活重視の国土計画論

第5章        東京の戦災復興計画が主題――都市計画実務の集大成

第6章        退官後の活動が主題――市民都市計画の実践、次代への継承

 

第1章        都市計画技師、区画整理の探究

1. 都市計画技師としての出発と理念形成

l  内務省都市計画名古屋地方委員会への着任

l  レイモンド・アンウィンとの出会い

'23年、1年間欧米視察の途上、「イギリス都市計画の父」といわれ田園都市の住宅地を設計したアンウィンとの出会いがその後の都市計画思想に多大な影響を及ぼす

名古屋の計画についてアンウィンに高評を求めたところ、産業主体だと批判され、産業中心の日本の都市計画を批判的に見る視点が芽生え、独自の理念が形成される

l  雑誌『都市創作』の刊行

‘25年地方委員会中心の「都市創作会」の機関誌として『都市創作』刊行。論考を発表

l  「夜の都市計画」という視点

まず石川が着目したテーマは「余暇」であり、「夜の都市計画」という概念を提示

日曜祭日と夜こそが人生本態の時間であり、その余地で産業計画を考えるべきと述べる

近代化によって機械化されつつあった人々の生活に問題点を見出し、人と人の親和性を回復すべく「夜」に着目

l  都市の大きさと都市の味

世界の都市を比較、大都市に人が集まる現象を人間の心理的な側面から捉え、肌で都市全体を触れ抱いて愛し住むには3万内外の都市にならなければ本当ではないとする。3万は、アンウィンら田園都市論者が理想として掲げる数字

l  「人と人の心理的関係」から都市を捉える

人間の「相手ほしい心」が都市という集住形態の根本的な衝動と考える。小都市主義

l  郷土都市の話――海外の郷土都市のスケッチ

海外の郷土都市を紹介するが、何れも中小都市。なかでも中世都市に憧憬を持つ

l  都市創作宣言

『都市創作』での執筆活動が、理念形成に重要な役割を担う

手段としては区画整理、精神は小都市主義、態度は都市味到

 

2. 都市創作の手段としての区画整理

l  都市計画は区画整理にあり

道路網を実現するための都市計画事業費の財源はほとんどないので、寄付道路の形式を合理化した区画整理が最も実現性のある事業手法。公園や運河、墓地の造成をも可能とした

l  都市・名古屋への人口集中と市域拡大(大正~昭和初期)

当時重工業中心の好景気に湧き、都市部に人口が集中、名古屋も13年で倍増し100万を超え、’21年には周辺16町村を合併して市域が4倍に拡大、都市計画大綱を定める

l  名古屋街路網計画

石川の最初期の仕事が街路網計画――まずは市街地周辺部への環状道路設置

総延長50里、費用5,6千万の計画に対し、区画整理の手法を適用

l  戦前名古屋の区画整理事業

耕地整理組合が多数組成され、区画整理事業を推進

l  石川栄耀の区画整理論

多くの論考を残し、名古屋の区画整理行政に多大な貢献

l  経営主義

区画整理した上にそこに家を建て人が住み着く工夫を凝らし、単なる換地や減歩に終わらせずに、事業自体の採算をとるとともに、地価上昇に繋げる――その背景には、道路網実現の財源がなく、民間による自発的な組合事業として採算を重視せざるを得ない事情あり

事業費を組合員の負担ではなく、剰余地の処分(宅地分譲)収入によって捻出

l  地主に対する説得技術

徹底して地主の立場になって組合を誘導し、事業を軌道に乗せたが、世界恐慌到来で地価が下落。満州事変以来の戦争時景気で再び事業に息吹を与え、中川運河に買い手が殺到

l  市長というよき理解者

名古屋市長大岩勇夫との良好な関係が功を奏す

 

3. 区画整理で試みた特殊な設計

l  田代地区(現千種区)の区画整理事業

石川自ら快心の作といったのが、田代地区の公園中心の放射環状形街路で構成された区画整理――1.6haの公園を中心とした街路網を実現

l  名古屋区画整理設計の歩み

1929年、田代地区の組合設立――当初は基本的にグリッド状の碁盤割を採用、耕地整理から区画整理へと技術体系が変わり、道路・公園に留まらず、交通機関の誘致や遊興施設の整備など、住宅開発の土地経営的観点から様々な試みがなされ、「有機計画」を採用

l  中心を有する非グリッドパターンの設計

美しい中心(小公園)を持った設計で、夢を実現する区画整理案でなければならない

土地は、都市計画幹線に副って商業的価値を持ち、小公園の周囲より住居的価値が広がる

近代小学校と小公園を区画整理事業の中心とする方法が一般的ではあったが、石川のプランは放射環状形式の街路を配すことで、住民に共通の意識を育ませることを狙った

l  区画整理で試みたアーバンデザイン

放射状街路の交差部では、それぞれの街路からアイストップとなる建築物や緑地を重視し、周辺敷地と建築物を活用した場所づくりを目指すが、区画整理事業では整理後の建築物に触れることができないため、自ずと限界がある

 

第2章        商店街盛り場の都市美運動

1.    名古屋の盛り場へ

l  実利主義の都市から愛の都市計画へ

1929年、地元商工業者や照明家、広告図案家らとともに名古屋都市美研究会立ち上げ

都市の美観、特に夜の都市美を研究――欧米人が都市を造り変え、そこでいかに楽しく暮らしているかに感銘を受け、相互扶助の温かい血の流れる街造りを構想、愛の都市計画へ

l  賑やかさへの着目と盛り場計画

実用価値のみに着目する法定都市計画への自己批判から、「実用価値を離れて生を楽しむ気分=賑やかさ」こそが都市の本質的価値であり、都市の「人生」の要諦であると考え、都市計画家と現実の都市とを確かに結びつける仕事としての盛り場計画を見出した

l  名古屋をも少し気のきいたものにするの会

市民こそ都市づくりの主体と位置付け、都市を市民の化合体とし、「相むつみ合う心」こそ都市の成立の要諦で、市民各自の自覚的、積極的な参画を伴う都市造りを構想

参画の具体的方法として提案したのが、3種の「市民俱楽部」――①アウトドアのレジャーを楽しむ遊楽連盟、②社交サークルとしての隣人俱楽部、③自分の町について気のついたところを政府等に提案する民間組織である都市批判会

1927年、その提案の実践として「名古屋をも少し気のきいたものにするの会」を立ち上げ

l  名古屋都市美研究会の活動

1928年、栄小路、鉄砲町、広小路、鶴舞公園、名古屋中央駅などの改善計画を提案し、盛り場の建設を目的とした組織を「都市美研究会」と名付け、盛り場育成の活動を「都市の美館」に関する都市美運動として展開しようとした

我が国で初めての都市景観の改善に関する本格的な運動だった都市美運動は、1926年誕生の都市美協会が主唱したもので、都市計画における美的価値の導入を目指し、都市の美しさを市民精神の育成やシビックプライドの醸成という課題として捉えた

大須、広小路の2地区の住民を構成員とした盛り場計画を作成、盛り場育成を指導

l  都市美運動を支えた商業者や照明技術者たち

石川の活動を支えたは名古屋商工会議所の商工業者や広告図案家、照明技術者たちで、熱心に協力したのが後の商工会議所会頭で肥料商の高松定一

 

2.    商業都市美運動の展開

l  商業都市美運動の提唱へ

1933年、都市計画東京地方委員会に転任となった後も、照明学会も東京支部に移籍し、街路照明委員会による東京市内主要街路の照明の調査・研究を進める

都市美は常に実用価値を機縁として成立することを歴史的に確認するとともに、都市計画はもともとは都市の産業育成を主目的にしたが、最近は夜の都市計画を始め、都市美、防災、防護、精神的中枢、保健といった非生産部門が台頭していることを指摘

l  名古屋都市美協会の活動

石川の転勤後も名古屋都市美協会は大々的に美化運動を展開

l  広島都市美協会の活動

1935年、広島商工会議所の招聘を受けて石川が講演。盛り場を視察し、広島にも都市美運動を拡散

l  商業都市美協会の設立と活動

1936年、東京で商業都市美協会設立――屋外広告、看板、店頭装飾など、街頭装飾その他商業美術全般にわたる都市美的効果の研究及び指導を目的とした官民学の協働組織

l  東京府の商店街施策と商業都市美運動

1927年以降の金融恐慌による中小商工業の不振と、産業組合法を根拠とした産業組合の発展に対抗する商権擁護運動により、1933年に制定された商業組合法に基づく商業組合が組成され、従来の任意団体だった商店会が商店街商業組合となり大都市を中心に業界横断で結成され、石川も積極的に関与する

戦前の東京府は、各地に商店街活性化の主体としての商店街商業組合、商店街の指導機関としての東京府商店街振興委員会を設立、照明に関しては照明学会や東京電灯と協働する形で商店街施策の枠組みを構築。そのいずれにも都市美協会の主要メンバーが関与

各商店街で、商店街商業組合を中心として美化が進められた

l  都市美協会の都市美運動批判

石川は、新たに独自の商業都市美協会を立ち上げ、都市美協会の純粋都市美運動を批判

一律の都市美ではなく、都市にうごめく大衆という現実を踏まえた都市美の必要性を訴え

l  都市美協会理事としての活動

1938年、陸軍省の嘱託として上海の都市計画提案を練る

1939年、都市美協会理事に選任。機関誌『都市美』の編集担当となり、駅前広場や娯楽施設を特集し、自ら主導する商業都市美の実現に傾斜

 

3.    商店街・盛り場研究者としての石川栄耀

l  石川栄耀の盛り場論の構図

近代以降、人々は月曜から土曜までの平日をイライラしながら「産業時間」に従事する一方、電灯の発明によって夜の価値が発見された。ここに都市計画によって夜を回復する必要があると石川は主張→街路照明、建築物照明、休養娯楽計画、通俗教化計画、親和計画へと話を進め、都市の物的環境に対し強い関心を払い、市民交歓の場を盛り場に見出す

l  体系化の4段階

「理論・分析」では現状や歴史に基づく分析を行い、「計画・設計」では現状改変を提案、さらに「対象の規模」では、街区・都市・地方といった規模別の分類を行うことにより、盛り場論を4段階の理論に纏める――①盛り場動態研究期、②都市計画志向期、③都市・地方経営志向期、④検証・体系化期

l  体系化の意義と戦後に残された宿題

大正~昭和初期、日本の都市は産業化に伴い急速に拡大し、東京では既存の浅草や銀座といった盛り場に加え、新宿を筆頭に山の手にかけて無数の盛り場が勃興し多様化していた

石川はこの動きを、都市計画論の前提として分析、百貨店が商店街を駆逐していく現象も、都市社会学的な対立軸として捉えたのではなく、盛り場論を体系化することで商店街に公共性を見出し、都市計画の対象として位置付けた。盛り場を通俗的なものと見做した批判も多かったが、石川はあくまで都市の本質的な価値を「賑やかさ」に見出す

 

第3章        東京、外地での都市計画の実践と学問

1. 都市計画技師としての出発と理念形成

l  都市計画東京地方委員会における石川栄耀

東京での石川は、先任者の立案した計画の実践が主任務、かつ数多くの人材との協働作業が多く、独創性発揮の余地は限定的。さらには戦時体制の進行で理念の変更を迫られる

かかる状況下で、石川が関わった先進的事業としては、新宿駅西口駅前広場計画と、皇紀2600年記念の宮城外苑整備計画があり、朝鮮・満洲・上海など外地の都市の調査がある

l  新宿西口広場整備事業と照明設計

名古屋駅前広場整備事業の経験を活かして、淀橋浄水場と専売局淀橋工場移転後の新宿駅西口広場の再開発に、新宿駅の改良が加わり、1934年に都市計画と事業化が決定

この事業では、広場に必要な敷地だけではなく、その周囲も含めて事業区域とし、広場の完成後に周囲の敷地を売却することで事業費を捻出する「超過収用」の手法を用いる

前任者の計画を引継ぎ完成させるのが石川の仕事だが、照明は独自の施策を追加

新宿に次いで、193639年にかけ、省線の主要駅(大塚、池袋、渋谷、駒込、巣鴨、目白、目黒、五反田、大井町、蒲田)の駅前広場計画を立案したが、動いたのは渋谷だけ

l  宮城外苑整備事業における地下道計画

1940年東京市が立案し宮内大臣の許可を受けたが、実質的な立案者は石川

宮城外苑を横断していた南北連絡路を地下化して、地上部を苑路を中心とした美観に配慮した一体的な広場とする案で、地上部の整備が先行、道路の地下化は戦況悪化により中止

地上部の計画については、規模や風致破壊の観点から、建築界の佐野利器らが反対したが、道路の地下化には賛成

l  朝鮮・満洲への出張(193436)

l  上海都市計画案の立案(1938)

 

2. 都市計画学への目覚め

l  『都市計画及び国土計画 その構想と技術』の位置付け

実務とは別に、都市計画に関する学問の確立を目指し、掲題の教科書を執筆、'41年刊行

l  『上田都市計画(石川案)』に見る最初期の都市計画論

愛知委員会時代の'2425年に同僚の誘いで立案――特徴は、都市の勢力圏に関心を置いたことと、道路至上主義に対し早い段階から都市計画技術の根底に土地利用計画を置いたことにあったが、産業計画に対する考察の乏しさから都市を経営する観点が欠如、都市が何によって維持され、成長していくのかを見極めて、その性格に相応しい将来構想を描くことの必要性を痛感

l  都市計画学への出発

都市計画を基礎付ける学問の確立を主張――都市田園の文化、哲学上の位置及びその結果から要求される施設の研究、都市構成の人文地理学を基盤として、能率的構成学、美的構成学の2つの手法の研究からなる学問であり、都市構成学に統合されるもの

l  『都市計画及び国土計画』における「都市構成の理論」

石川の実務体験の集大成であり、都市計画を、「都市における土地を根基とする物的構成要素を布置し整備し、これを都市に適応せる交通機関にて組系する技術なり」と定義

 

第4章        生活圏構想と地方計画・国土計画論

1. アムステルダム会議と地方計画への目覚め

l  石川の地方計画・国土計画論とは

1938年、石川の発表した地方計画論登場――都市計画に比べて出遅れを指摘

石川は、アウタルキー(自給自足)的国土計画の熱心な主張者であり、地方計画も、土地に根差したフィジカルプランだった

l  訪欧、地方計画との出会い

1924年、アムステルダムの国際住宅及び都市計画会議の場で、初めて地方計画に触れる

訪欧後、イギリスで訪れたレッチワースに代表される田園都市を理想として、日本にも現出させたいという願いが、地方計画への傾斜を促す

l  欧米地方計画の消化と日本型地方計画の模索

地方計画へ傾斜する世界の潮流に乗って、欧米の地方計画を摂取していく

人口増加や発展を前提とする都市計画に対し、地方計画においては地方ごとの経済諸活動に合わせたTrade Areaを設け、その動態を取り込んだ村落計画が必要だとした

l  独自の地方計画論の構築――主題主義地方計画

主題主義地方計画とは、地域社会が共有できるビジョンの重要性を説いたもの

 

2. 地方計画論から国土計画論へ

l  ナチス国土計画への憧憬

内務省技師によってもたらされたナチスの国土計画が、石川らの国土計画・地方計画の計画論に大きな影響を与える

l  国土計画を必要とした時代

国土計画という言葉は、遅くとも1926年には登場

l  国土計画に関する活発な著作活動

石川の生涯18冊の著作のうち、11冊は194144年に出版され、国土計画に関するものが多い

l  生活圏構想――国土計画論の科学的根拠

1941年発刊の『都市計画及び国土計画 その構想と技術』によって、国土計画の理論が一般化された――国土計画及び地方計画の分類を行い、統制主義と調整主義、振興主義と再編成主義といった具合に、各国の国土計画を類型化

海外の研究を中心に身に付けた生活圏構想の着想は、都市農村動態を把握するための手法となる。労働よりも生活、経済よりも文化、生産よりも消費を重視した点で斬新な構想

l  人間と文化の国土計画論へ

コミュニティを重視した国土計画の実現を強調

国土計画と商店街を結びつける構想力こそ、石川国土計画論の醍醐味

l  戦争に翻弄された国土計画、都市計画

防空対策を主眼としたナチスの徹底した人口・産業の分散政策に大きな影響を受け、国土計画は戦時色の強いものになっていく。さらには植民地主義的な色彩が濃くなり、国土計画本来の目的だった大都市の疎開、地方の振興からは遠ざかる

l  都市計画への回帰

終戦とともに、戦災復興に向けた「開発」を冠した国土計画が新たに求められた

ナチスの戦犯的色彩の濃い「国土計画」という言葉は「国土総合開発」に置き換わるが、問題は人口問題や文化問題にも関心を持って進められるかどうかにかかっている

喫緊の課題に対応した「国土総合開発」という長期ビジョンを欠いた国土計画の出現に、本来の国土計画が抹殺されようとしている現実を危惧した

 

3. 国土及び地方計画の実践

l  東京戦災復興都市計画とその原型

石川の主要業務の1つだった東京の戦災復興計画の下敷きとなった構想は、戦前からの内務省東京地方委員会で策定されたもの。なかでも東京緑地計画は、東京の生活圏を東京駅中心の半径50㎞とし、その外縁に30haの環状緑地帯を整備するという構想

1945年末閣議決定された「戦災地復興計画基本方針」では、「過大都市の抑制並びに地方中小都市の振興」を掲げたが、事業の段階になると予算配分で地方都市が優先され、さらに計画での東京区部人口は終戦時の350万を維持する前提で、東京への人口流入抑制策として外郭都市の整備やTVA方式による利根川流域圏全体の総合開発を構想するなどしたが、実現は出来なかった

 

第5章        東京戦災復興計画の構想と実現した空間

1. 東京戦災復興計画の立案と実現過程

l  石川栄耀が責任者となるまで

1943年、東京都制施行、石川も都市計画課技師係長となり、翌年には都市計画課長になり、東京の大改造計画の研究を進めていたが、終戦とともに戦災復興計画が発表されると、その具体策を復興院の小林一三総裁に説明

1948年には建設局長に就任し、戦災復興計画の責任者となる

l  戦災復興計画の概要

19464月、街路計画・区画整理が、9月には用途地域が、’48年に緑地地域が計画決定

都区部の人口を350万と設定、横須賀・平塚・厚木・町田・八王子などを衛星都市、水戸・宇都宮・前橋・高崎などを外郭都市と位置付け、合わせて750万の東京大都市圏を構想

都区部は内部を人口2030万規模の都市群に分割、それぞれが消費中心や居住地などを備えた小規模で自立した単位都市(隣保区域)となるように用途地域が指定される

こうした区域の周囲には、区部面積の33.9%に及ぶ環状、楔状の緑地がとられ、幅員100m7本を含む広幅街路が放射状、環状に道路網を形成。市街地整備のために区画整理事業が焼失区域を上回る2haで計画

l  用途地域指定の意図

専用地域性を目指し、目的とする都市像に基づいた厳密な土地利用の実現を目指す

敗戦後の沈みがちな人心を引き立たせるため、商店街の持つ盛り場性を重要視し、その復興を中心にして出発

l  特別地区にこめられた都市像

用途地域の1つとして新設されたのが特別地区で、公館、文教、消費歓興、港湾の各地区がある――消費歓興地区としては、4㎞おきに王子、池袋、新宿、渋谷、五反田、大森、銀座、浅草、錦糸町、上野の10カ所

l  街路計画と土地区画整理事業

用途地域制に基づき、公園緑地計画、照明計画、街路計画、広場計画、土地区画整理などの計画が立てられた

l  計画の民主化

計画の概要を周知させ、極力民意を吸い上げる

l  計画の担い手の育成――帝都復興計画図案懸賞と文教地区計画

専門家の育成と民間会社の参画にも注力

日本計画士会の結成――建築士、広告士、計画士の法制化と同時に、建築・土木・造園各界の都市計画関係者を糾合して計画士会とし、石川自ら理事長に就任

文教地区については、各地の主要大学に計画の立案を委託

l  土地問題への対応

1946年には土地問題から計画が行き詰まる

地券による買収案や宅地法による強制収容が検討されたが、何れも実現に至らず

l  計画の評判

前川國男は「100m道路の愚を笑う」と題した投稿で、道路主義に陥っていると批判

l  計画の縮小とその実現過程

1949年、極度のインフレの進行とドッジラインと呼ばれた緊縮財政政策により、復興計画への国庫補助が大幅に削減。特に東京都の計画縮小は顕著で、80m以上の広幅街路はすべて削除、公園緑地も児童公園や運動場以外の帯状の緑地帯は削除、区画整理事業も大幅に圧縮――1983年区画整理事業は終わるが、施行された区域は当初計画の6.1

東京を「首都」として国の直轄事業とし、計画の縮小方針から外すために首都建設法の制定にも注力、1950年法案成立を見るが第一の功労者は石川

l  今に残る石川栄耀の足跡

復興計画には石川の生活圏構想に基づいた都市空間・生活像があった

当初の構想から考えれば、復興計画のほとんどが実現されなかったが、盛り場や商店街、広場といった小さなスケールにおいて各地で決して少なくない数が実現し、現在に至るまでその空間が受け継がれ、多くの人によって利用されている

 

2. 盛り場・商店街において実現した空間

l  創設盛り場という試み

「創設盛り場」と呼ぶ新たな盛り場建設の試み――歌舞伎町(日用品の商店街から、一大アミューズメントセンターに変身、民間事業)、麻布十番、王子新天地(商店街を新たな繁華街に衣替え、歓楽施設をまとめる。地元有志の共同事業)、江東楽天地(小林一三が戦前に作った複合娯楽施設の再開発)、上野(不忍池埋め立て問題を契機に、埋め立てる代わりに一帯を一大盛り場に再開発)

l  東京都美観商店街

美観商店街は、1947年石川の発案に基づき東京都条例で定められたもので、31カ所の商店街が指定され、沿道市民の自覚により街路の美化に努める

l  石川栄耀による商店街の指導

商店街が自ら行うアーケードやネオンサイン、花壇などの都市美的な整備については都市計画外の指導が必要だとして、積極的な商店街の指導を行った

復興の途上にあった商店街が、露店やマーケットなどの商業施設による安価な商品の攻勢に晒される一方で、いずれ復興するであろう百貨店が脅威になるといった課題に対し、商店各自が専門店になると同時に商店街自体が横のデパートとなることを説く。オープンカフェを都市生活の値打ちそのものとし、商店街が社会性を醸し出すことの重要性を訴える

具体的な指導を行った商店街としては銀座があり、歩いて楽しめる盛り場を目指した

浅草の整備では、「浅草は永遠の祭典」という言葉と、オレンジ通りの花壇を残す

歩車分離策の1つとしてアーケードに注目、浅草新仲見世のアーケードを東京で初の試みとして許可して、その後の急速な普及に繋げる

l  駅前広場と地下街

区画整理事業は6.9(ママ)しか実現しなかったが、多くは山手線の主要駅前で、闇市の撤去とも裏腹の関係。そのうち石川自らが指導したのが渋谷と池袋東口一帯

池袋東口では、1950年に1.3万㎡の駅前広場が、併せて’64年には地下商店街が完成

渋谷では、7千㎡の駅前広場が整備され、地下商店街も建設資金捻出のため東急を仲介し、'57年には完成、石川は「地下街の父であり、生涯忘れられぬ恩人」と述懐されている

l  屋外広告と都市美

戦後屋外広告物取り締まりの権限は警視庁から東京都へ移管。石川は都市美的に周到な計画を必要とするとして、都市景観との調和を重視、広告行政を支える組織を次々立ち上げ

屋外広告を、都市美を創造する都市アクセサリーとして積極的に使用しようと考え、地主や民間企業の協力を引き出そうとしたのは先進的だったが、当時は受け入れられなかった

l  不用河川埋め立て事業と東京高速道路株式会社線

石川の東京都建設局が担当したのが不用河川埋め立て事業と露天整理事業

河川を埋め立て事業――江戸以来の貴重な水面を喪失に繋がるが、安井都知事が焼跡の大量の焼けガラを費用をかけずに撤去せよと指示、石川が考えたのが河川への埋め立てによる造成地の売却で、'47年の東京駅前外堀を手始めに、'50年にかけ、三十間堀川、東堀留川、竜閑川、新川、真田掘、浜町川、六間堀川が埋め立てられた。上智大真田掘りグラウンドもこの時大学側が資金を出して埋め立てられたもの。新橋から数寄屋橋経由京橋までの日本初の無料高架高速道路も、外堀、汐留川、京橋川を埋め立てて建設された。建設資金は、三菱地所中心に財界人が集まって東京高速道路を設立し、東京都から埋め立て事業の委託を受け、テナントの賃貸料で回収するという仕組みを考案、PFIの先駆けだった

l  露天整理事業と共同店舗

1949年、GHQの指示で都内行動上から約14千の露店を撤去――建設局長の石川が采配。当初石川は反対したが、軍の出動もと脅され、転廃業者への融資と代替地提供で、'51年末までには撤去を完了。上野公園の西郷会館や渋谷ののんべい横丁、三十間堀川、浜町川などの埋め立て地上の共同店舗、三原橋や渋谷地下商店街などはその名残

 

3. 広場の思想とそのデザイン

l  戦災復興と広場思想

石川の戦災復興計画のキーワードが「広場」――広場のない都市は「寂寞性の現れ」

洋行以来、生涯を通じて「広場」に拘る――「隣保」「親和」を都市計画最大のテーマとし、「人と人との繋がり」を都市計画によって構築することを狙う

l  戦前名古屋大須での試み

1938年頃の名古屋大須の区画整理事業で実現――1923年旭遊郭移転により客足の減った商店街の活性化を期した区画整理事業で広場を創出、戦災復興でも若干拡幅され、現在も大須商店街の「ふれあい広場」として親しまれている

l  新宿歌舞伎町に見る広場の思想

戦災復興の過程で、地元町会からの相談を受け大使川が提案したのが、「広場を中心として芸能施設を集め、新東京の最健全な家庭センターにする」という盛り場創出構想

「広場」という思想のない日本の都市づくりを進めていくうえで、その糸口として「商店街/盛り場」を見出す――西欧広場が社会的に担ってきた共同体の中心、市民同士の交歓作用を日本の商店街に見出し、名古屋時代から精力的に商店街/盛り場の育成に取り組んできた

石川は調査・研究から、盛り場が寺社の境内地や参道を核として形成されること、江戸の盛り場が防火のために作った火除け空地周辺に形成されること(日本に多い広小路は防火用の施設)等から、「空地」が極めて重要な役割を演じていることを指摘

l  歌舞伎町における広場設計の理念と手法

当初の区画整理案は建築資材統制により劇場などの建設が頓挫して変更

    広場の角を入隅に計画――イタリアの中世広場の特徴

    Terminal Vista――広場に通じる道路を貫通させず、広場からの視野を封じる手法で、ヨーロッパ中世都市の広場に共通する特徴(実施図では2本貫通)

    広場正面を向くように劇場を計画し、広場には防火機能も備えた噴水を配置(実施図ではロータリー形式のアイランドに)

    幅員15m以上の広幅員街路が直角に折れ曲がりながら2つの「広場」に繋がる――通常区画整理である程度以上の広幅員道路を設計する場合、交通上の観点から地区内を貫通させるのが一般的

広場周囲の土地利用として、劇場を構想、一旦は資材統制で頓挫するが、’50年代後半には日本でも有数の映画・劇場集積地となる――「人と人を繋げる」という発想が根底に

l  実現した歌舞伎町の広場

石川の設計・構想は、道路計画優先の結果、ほとんど実現せず、広場のロータリーもモータリゼーションの進捗で実質駐車場化。「道路」は道路法により一元的に管理されることに

行政も民間も、矩形の空地の積極的な利用を見出すことができていない

l  麻布十番での実践と設計理念

商店街組合管理の「パティオ十番」と呼ばれる広場状空地の出自に石川が深く関与

1946年の戦災復興道路計画では放射1号線と環状3号線が麻布十番を縦横に走り、十番中心部は全地域道路となるはずだったため、商店街組合が都に陳情、十番盛り場に特別の愛着のあった石川の尽力で第1次区画整理地区の指定を受け、都の復興区画整理事業の一環として、現在の十番商店街として実現

広場状空地と新通りは、一般的な区画整理事業では見られない設計――広場から新通りが一の橋に向かって緩やかにカーブしながら大通り(現国道1)に至る。一般的には直線道路を通すはず。'52年には空地近傍に映画館が2館オープンしており、石川の手法と合致

l  実現した麻布十番の広場

1959年完成した広場状空地は、車道が簡易舗装、歩道は砂利道

1960年代に入り、商店街の高層化が始まり、町名も変更、大きく様変わり

1965年、映画館はスーパーに代わり、広場状空地も歩道と車道に区分、一般的な道路として整備。'80年代に都のモデル商店街の指定を受け、組合は街路のボンエルフ(車と人の共存)化やコミュニティ広場の設置を計画し、’86年空地を現在のように整備(法律上は道路)

l  戦災復興区画整理事業に見られる広場状空地

最終的に事業化された38地区のうち広場状空地が創出されたのは6地区

麻布十番、池袋東口、歌舞伎町は、街路の一部を拡幅して空地を創出

錦糸町、五反田、大森では、街区の角を入隅形に切ることで空地を創出

いずれも減歩によって得られた公共用地から捻出され、ドッジ・ライン政策による縮小以前に事業化されていた

l  石川栄耀が目指した広場とその狙い

商店街や盛り場を中心とした生活圏を構想、賑わいの中に身を寄せ、実用価値から離れて集団的気分に浸ることのできる空間を目指した社会的集団行動の様式であり文化を目指す

 

第6章        都市計画家としての境地、そして未来への嘱望

1. 生態都市計画への展開

l  『都市復興の原理と実際』から『都市計画及び国土計画 改訂版』へ

石川の6年にわたる戦災復興事業への関わりは、東京という大都市の持つ人工誘引力を抑え込むことができず、見直しを余儀なくされ、大枠としては都民の公共心に期待せざるを得なかった石川の挑戦は失敗

‘51年発刊の自著『都市計画及び国土計画 その構想と技術』を10年ぶりに大幅改訂

その間、復興計画の経験に基づいて博士論文『東京復興都市計画論』を書き、東大から工学博士号を授与されたが、博士論文の原型は'46年に書いた『都市復興の原理と実際』

l  『新訂都市計画及び国土計画』での改訂内容

1951年、日本都市計画学会の創設に尽力するとともに、都市計画の学問の確立にも注力

都市計画が都市に創意を加えるべきものではなく、都市に内在する自然に従い、その自然が矛盾なく流れ得るよう、手を貸す仕事だとして、生態都市計画という理解に至る

l  石川の都市計画の理論の特徴

技師として線を引く際の根拠となる基盤理論を探求

生態都市計画から、都市計画家としての展望を手にする

 

2. 都市計画教育と市民都市計画の実践

l  子どもたちに都市計画の本を贈る

1948年、児童書の第1作『私たちの都市計画の話 新制中学の社会科副読本―都市を学ぶ』

l  地理学に機を得た都市計画教育への取り組み

郷土教育の一環としての都市計画教育

l  市民を巻き込む――都市計画への理解・協力・参加

l  子どもに語った「都市」「都市計画」の内容

「明日の都市」と題してコルビュジェの「輝く都市」を提示

l  市民都市計画を担う「市民倶楽部」の提唱

l  目白文化協会――文化・生活・復興の市民都市計画

1946年、自らの地元である目白に、近隣住民とともに「目白文化協会」を立ち上げ、焼け野原となったのを新しい形の都を造るための絶好のチャンスと捉え、新しいユートピア建設を目指す。徳川義親(尾張藩当主、植物学者)を会長に、住民の文化活動を展開

l  「笑い」を通じた市民都市計画

1954年、「ゆうもあ・くらぶ」結成に参加――ゆうもあ大賞を創設、現在まで続く

 

3. 都市への旅

l  東京都辞職後の石川栄耀

1951年、都辞職と同時に早大理工学部教授となり、独自の都市計画を講義

全国地方都市を訪問し、都市計画の考え方や都市ごとのプランを語りかける

l  「都市計画未だ成らず」

法定都市計画の拡張の必要性を唱道

l  戦後都市の変化

l  地方都市での講演活動

l  「那覇市都市計画の考察」

石川の受講者の1人が那覇市都市計画の実質的担当者だった関係から関与

l  岡山百万都市構想

既存の行政域を超えた広域の都市計画を提唱――北九州5市の合併など

岡山についても倉敷とあわせて、京阪神地区の衛星都市となると予測

l  名都と市民感情

名都とは石川の造語で、都市美的によくできている都市のこと――美しい水の存在、公園・緑道の存在、展望できる丘の存在、美しい建築が造型的に集結、歴史・教養・人心のいずれかに関する市民感情が市中に流れる、などの条件を満たす都市

代表的な都市としては、松江、盛岡、釧路、札幌、大分、萩、新潟、尾道、熱海、別府、伊東、那覇 

l  市民へ、次代へ

生態都市計画、名都論として、次代を担う人々へ自らの思いを託している

 

 

 

 

 

 

 

 

『東京人』20133月号(都市出版)

鉄道都市「渋谷」を創った3人のカリスマ――五島慶太、石川栄耀、坂倉準三

 

著者 小野田滋 1957年愛知県生まれ。鉄道技術研究所担当部長。日大文理学部応用地学科卒。博士(工学)。国鉄入社、鉄道技術研究所を経て現職。

 

現在、JR・東急・メトロ・京王の各線が乗り入れるターミナル駅

ホーム位置が地上3階、地下5階という複雑な駅などのようにして誕生したのか

鉄道都市「渋谷」を牽引した3人のキーパーソンを軸に、その歴史を辿る

 

五島慶太 18821959。長野県生まれ。実業家。1911年東京帝国大法科政治学科卒。農商務省を経て’13年鉄道院に入るが6年後に退官して武蔵電気鉄道(のち東京横浜電鉄)常務、社長に。'44年東條内閣の運輸通信相となり、戦後公職追放後の’52年東京急行電鉄会長に就任。田園調布などの沿線都市開発や鉄道経営の多角化に尽力

 

石川栄耀(ひであき) 18931955。山形県生まれ。都市計画家。'18年東京帝国大学工学部土木学科卒。内務省入省、名古屋市で都市計画を手掛け、’33年都市計画東京地方委員会に転じる。戦後は東京の戦災復興計画に携わり、’48年東京都建設局長就任。首都建設法の成立に注力。’51年早大理工学部教授。「盛り場好きのロマンチスト」と評され、目白文化協会、早大落研顧問など様々な文化活動にも関与。日本都市計画学会創設者の1

 

坂倉準三 190169。岐阜県生まれ。'27年東京帝国大学文学部美術史学科卒。'29年パリ大学で建築学を学ぶ。前川國男の紹介で'3136年ル・コルビュジェに師事、モダニズム建築を吸収。'37年パリ万博日本館でデビュー、グランプリ獲得。’40年自身の事務所設立。代表作:神奈川県立近代美術館、羽島市庁舎、新宿駅西口広場

 

 

l  大岡昇平作品に描かれる渋谷の原風景

渋谷駅の原風景は、山手線渋谷駅と玉川電気鉄道によって形成された

1885年、山手線の原型となった日本鉄道品川駅の開業とともに渋谷駅開設。場所は1996年に埼京線ホームが出来た辺りで、渋谷の中心だった宮益坂と道玄坂を繋ぐ大山街道の南外れに位置。玉川電気鉄道の渋谷停留場は道玄坂寄りで、玉電の名で親しまれた路面電車。1907年渋谷―三軒茶屋―玉川間が全通、大山街道に沿って往復、多摩川の砂利を都心に運ぶための重要な路線として機能し、出願も「多摩川砂利電気鉄道」と称した

玉電終点には砂利の集積場があり、東京市電に接続して貨物を都心へと運び、関東大震災を挟んで、’2227年山手線の下を潜って天現寺、中目黒へと路線を延ばした

幼少期ここで育った大岡昇平の自伝的小説『幼年』『少年』に克明に記されている

 

l  五島慶太と東横百貨店の開店

渋谷の発展を語るうえで欠かせない東急電鉄の経営基盤を確立したのが五島慶太。関西の小林一三に倣って私鉄の多角経営に取り組む

1920年、渋谷駅が現在の地に移転、東京横浜電鉄が山手線渋谷駅の東側に接続。沿線には東京高等工業高校(東工大)や東京府立高校(都立大)が誘致され、尾山台や多摩川台(田園調布)などの分譲住宅地が開発、遊園地などのレジャー施設も整備、街づくりを意識した沿線開発が進むが、経営状態が不芳で政府の交付金打ち切り期限が迫る中、五島は新たな財源確保策として百貨店経営に進出、1934年に渋谷川を跨ぐ地上7階、地下1階の東横百貨店を開店。川を跨ぐことに東京市側から抵抗があったが、既設のバス折り返し場の既得権を拡大して実現、設計は和光や東京国立博物館と同じ渡辺仁、白亜の四角い箱は最先端のインターナショナルスタイルで、新しい時代の渋谷の象徴

五島は地下鉄にも進出、東京高速鉄道を設立し’39年には渋谷―新橋間開通。新橋―浅草間の東京地下鉄道との軋轢もあったが、’41年には両者が帝都高速度交通営団へ統合

‘38年には玉川電鉄を合併、省線と市電を除く渋谷の交通機関を独占し「東急王国」を築く

‘42年には京浜、小田急も合併して「大東急」が成立、’44年五島は運輸通信大臣に就任

 

l  石川栄耀と駅前広場の誕生

関東大震災を契機に東京の郊外が注目され、渋谷、新宿、池袋といった郊外の私鉄が接続する駅は乗降客が次第に増加、駅周辺には繁華街が形成、駅前広場の混雑が目立つ中、都市計画の中で駅前の計画的整備が求められる

'34年内務省告示により、新宿駅の駅前広場が都市計画の中で最初に決定、次いで渋谷、池袋、大塚といった'32年の市域拡大で東京市に編入された駅に拡大され、都市計画東京地方委員会が都市計画を推進することとなる。その中心を担ったのが石川

渋谷は渋谷川という地形の制約から、各鉄道を合体させた「共同駅」の設置が提案されたが戦時中で頓挫。戦後、震災復興院が第1次東京特別都市計画事業として渋谷駅周辺の土地区画整理事業を告示。石川は’4851年都建設局長として渋谷駅前の戦災復興計画を推進、最後の足跡はハチ公前広場地下に地元商店街と東急を仲介して実現させた渋谷地下街で、「シブチカの恩人」と讃えられているが、'57年の完成を見届けることなく他界

 

l  坂倉準三が展開した「渋谷総合計画」

石川に代わって渋谷にデビューしたのが坂倉

‘51年公職追放から復帰した五島は、駅前広場の整備計画を事業拡大のチャンスとして捉え、坂倉に「渋谷総合計画」の立案を依頼。最初の事業として完成したのが東急会館

‘54年坂倉の手により東急会館(現在の東急東横店西館、’23年閉館)が完成、東京で初めて絶対高さ制限を超えた高層ビルで、地上11階、地下2階、軒高43m。北側壁面にはカーテンウォールを使用、戦後の建築技術の最先端を採用。銀座線の上を利用して山手線を跨いで、東横百貨店と東急会館を結ぶ3階建ての跨線廊を設け、その構造設計は国鉄に委託

‘56年には東急文化会館が、’65年には東急プラザが坂倉の計画に基づいて完成

その後も何度か再開発計画が発表されたが、カリスマたちの退場とともにしばらく平穏な時期を迎え、駅周辺の商業ビル建設へと移行

 

l  3人のカリスマ終焉後の渋谷の姿とは

3人とも出自も専門分野も異なり、お互い干渉せず、結果的にベクトルとしてうまく作用した結果合力となって、渋谷という個性的な空間を現代の方向へと導いた

 

 

渋谷あれこれ

独歩、花袋、国男の青春~恋に、仕事に、成功したい! 悩める文士、渋谷に集う

1897年、徳富蘇峰の民友社から詩集『抒情詩』刊行。国木田独歩、田山花袋、松岡(柳田)国男、太田玉茗、嵯峨の屋御室、宮崎湖処子という6人の作品のアンソロジー

独歩は、1871年銚子の生まれ、’87年上京し、結婚するが貧乏生活で離婚、失意で移り住んだのが渋谷村上渋谷(宇田川町)。雑木林が点在する長閑な風景に慰められた

花袋は、1871年館林の生まれ、父が西南戦争で戦死、’86年上京、’89年桂園派に入門して小説にも着手

柳田国男は、'75年兵庫県福崎の生まれ、’87年茨城に来て、森鷗外を知り、新体詩を発表

3人は文学を通じ、渋谷の地で交錯。花袋が独歩の渋谷の「丘の上の家」と呼んだ住まいを訪ねる様子は、花袋の『東京の30年』書かれ、花袋と国男は同じ歌塾に通う

『抒情詩』は、「丘の上の家」での語らいから生まれたともいえる

独歩は、1901年『武蔵野』を発表するが、'0837歳で夭折

花袋は、1904年から亡くなるまで代々木3丁目に住み、『蒲団』で自然主義文学者として文壇での地位を確立したが、白樺派の台頭などとともに、表舞台から次第に後退

国男は、東京帝大卒後農商務省に入り、飯田藩主柳田家の養子となるが、花袋は冷ややかに受け止め、国男も自然主義文学を「事実と言いながら真相を得ていない」と批判、文学から距離を置いて農山村を視察、『遠野物語』では都市の青年文士の議論を戯言と批判したが、両者の交流は続き、花袋の葬儀で国男は友人代表を務める

他にも渋谷の文士には、与謝野鉄幹・晶子や北原白秋、竹久夢二、獅子文六、三島由紀夫、志賀直哉など多彩

 

 

春秋

2023419 2:00 [有料会員限定]

新宿・歌舞伎町に「ミラノボウル」という終夜営業のボウリング場があった。飲みすぎて終電を逃し、友人と始発までゲームに興じた。外に出るとカラスがゴミをあさっている。朝の光がまぶしい。駅には通勤客が行き交う。遠い記憶の残像を懐かしむ方もおられよう。

同じビルの「シネマスクエアとうきゅう」にも通ったものだ。「新宿に私の巣ができた」。映画評論家の淀川長治さんが、そう語ったように目利きが佳作をよりすぐって上映した。この劇場で、旧ソ連時代の名画「モスクワは涙を信じない」を鑑賞した。高校生だった。当時の古びたパンフレットが手元にある。懐かしい。

先日、「東急歌舞伎町タワー」が開業した。人びとの思い出が詰まったあの場所が、劇場や映画館、ライブ会場を備えた高層ビルに生まれ変わったのだ。屋台風の飲食フロアは、訪日旅行客などでにぎわっていた。映画館の料金は4500円から。ぜいたくだ。迷ったが入ってみた。音響は坂本龍一さんが手掛けたそうだ。

戦後、都市計画の先達、石川栄耀は歌舞伎町に公共広場を整備した。市民が自由に交歓する空間を、と願った。映画館を出ると、「この広場は『道路』」の表示があった。座り込む行為などを禁じる。かつて噴水があった広場で酔って騒ぐ学生もいた。時代も理想も街も変わる。ちょっぴり感傷的になって繁華街を去った。

 

 

Wikipedia

石川 栄耀(いしかわ ひであき、通称:えいよう、189397 - 1955925)は日本の都市計画家

都市における盛り場研究の第一人者で新宿歌舞伎町の生みの親および命名者。戦前期から戦後にかけて、都市計画分野最大のイデオローグであり、日本の都市計画発展に貢献した。

早くから地方計画地域計画の重要性を認識し、「生活圏」の考え方を提唱、これを国土計画へ拡大する地方計画の考え方の基礎としていた。

長男の石川允も都市計画家として活動した[1]

来歴[編集]

18939月、山形県東村山郡尾花沢村(現尾花沢市)に根岸家の次男として生まれる。父は元軍人、高等遊民。兄は根岸川柳名人根岸栄隆6歳で両親の実弟妹で母親の実家を継いだ石川銀次郎・あさ夫妻の養子になる。養父は日本鉄道の技師で、勤務地の埼玉県大宮町(現・さいたま市)にある小学校を卒業し、旧制埼玉県立浦和中学校(現在の埼玉県立浦和高等学校)に進学するが、親の転勤に伴い、二年次に旧制岩手県立盛岡中学校(現・岩手県立盛岡第一高等学校)に転校し、その後第二高等学校 (旧制) に進学。大学入学まで東北の地で過ごす。またこの時期『趣味の地理 欧羅巴』(小田内道敏著)を愛読。都市活動に興味を持つ。その後父親は会社を退職し、東京目白に家を新築し一家は東京に引越しになる。1915東京帝国大学工科大学土木工学科に入学。大学時代は夏目漱石などを愛読。そのほか寄席に足繁く通う。

1918年、東京帝国大学工科大学土木工学科を卒業する。卒業後米国貿易会社建築部、横河橋梁製作所深川を経て、青木楠男の引き合いで1920年に内務省都市計画技師の第1期生として地方委員会技師に採用され、都市計画名古屋地方委員会に勤務する[2]

名古屋市の都市計画草創期にあって、都市計画原案の作成に携わり、都市計画実現の手法として土地区画整理事業の導入・発達のため尽くし、名古屋都市計画の基礎を築いた[3]

1921年、大連北京漢口に出張。1923年から1924年にはヨーロッパを視察した。

1924年にオランダアムステルダムで開催された国際会議に出席。滞在中にレイモンド・アンウィンの知遇を得る[3]1925年から長野県上田市都市計画を手がけるが、将来像に際し地元商工会との見解で相違があり、変更を余儀なくされる。これをきっかけに後に兄と商業都市美研究会という会を設立し、商店街の研究を開始しはじめる[2]

また愛知では1925年に知多で行われた「文化住宅展覧会」を契機に、愛知電気鉄道(現・名古屋鉄道鳴海駅北東側の斜面において住宅地開発に関する動きが本格化し、ここで当時の社長藍川清成は阪神電気鉄道阪神甲子園球場を視察し、間知石積みの「伊吹スタンド」に3万人の観客を収容する野球場(鳴海球場)を住宅地開発の中心に据えた住宅地の設計を都市計画愛知地方委員会技師であった石川に依頼する。上下水道が完備されたこの住宅地に社内嘱託技師篠田進によって設計された住宅が建てられ、野球場へ至る目抜き通りの両側には商店が建ち並べられた。なるみ荘と呼ばれたこの住宅地内の高台には、中央に給水施設を雅す場に「歌公園」と名付けられた8000坪の遊園地が設けられた。遊園地には 「イチゴ園やダリヤ園」 が造成され、野球場の東に県下17人の盆栽業者による「盆栽村」が設けられていた。

1933年、都市計画東京地方委員会に転じる。また1934年に京城1936年にも朝鮮と満州へ視察出張する。このころ満州国政府の都邑課長推薦を辞退し日本に残る[2]。その間の1935年には広島都市美協会を設立し顧問に就任。1938年(昭和13年)、46歳の時、陸軍省の委嘱により上海に出張し、その都市計画の策定に従事する。

1941年(昭和16年)『日本国土計画論』『防空日本の構成』『都市計画および国土計画』などを刊行した[4]太平洋戦争開始直後の1942年、興亜院嘱託として内務省華北政府から委託を受けた上海都市計画立案作業を中心として取り組むことになるほか、東京帝国大学と早稲田大学で非常勤講師を務めた。

1943年(昭和18年)51歳の時、東京都発足により東京都付を経て、東京都道路課長。翌年、都市計画課長を兼務する。この年に防空上、大都市を適正規模に解体して疎開させ、大都市圏の外に新都市建設する計画を『皇国都市の建設 -大都市疎散問題』で提起した[4]

1945年(昭和20年)53歳で敗戦を迎え、戦後は東京の戦災復興計画を担当。同時に、新宿角筈一丁目に復興協力会を結成した鈴木喜兵衛から被災住宅地を繁華街にする計画案をもちこまれ、本格的に取り組む(プラン等は建築科に通う息子のに描かせていた)[5]。歌舞伎座移転を視野に入れた地区計画をはじめ、地名も「歌舞伎町」という名を提案し1946年に歌舞伎町を誕生させた。同年、東京都内の土地区画整理事業区域を計画決定し、復興計画概要案を立案。また都市文化協会を設立した。1947年、東京都屋外広告研究会を設立する。

1948年、建設局長となり[6]1951年に退職し、初代の東京都参与となる。1949年、東京大学より工学博士の学位を授与される。学位論文の題は「東京復興都市計画設計及解説」[7]1951年、再び青木楠男の引き合いにより早稲田大学理工学部教授に就任した。また同大学の落語研究会顧問を務める。同年の日本都市計画学会発足に際しては首唱者の一人となり、副会長に就任した。

1952年には復興区画整理第一地区に指定していた麻布十番地区の土地区画整理がまとまり、商店街広場が生み出された(麻布十番広場)。またロマン派都市計画家の石川は首都高速道路計画にもかかわり、ビルの屋上に首都高を通すというアイデアを生み出す。有楽町数寄屋橋付近に、1957年戦災の瓦礫で外堀を埋め立て数寄屋橋を撤去した跡地に建設したショッピングセンターの屋上にできた高速道路は「首都高速道路」ではなく、東京高速道路株式会社の東京高速道路、通称、K.K線という区間距離1キロ程度の無料高速道路で、首都高速とは別道路。この区間だけ維持管理は高架下のテナント賃料でまかなわれ料金は無料となっている[8]

19559月、北陸方面の講演旅行から帰京後、頭痛や胸苦しさを訴えて次男の勤務する東京大学医学部附属病院に入院、3日目となる925日に急性黄色肝臓萎縮症により死去[9]。入院から短期間での死去で、遺言も残さなかったという[9]

没後その業績を偲び、日本都市計画学会に「石川賞」が設けられた[10]。また、生前の資料を財団法人都市計画協会が譲り受け、遺族からの寄付基金をもとに、「石川文庫」が設けられている[11]

家族[編集]

妻の清子は山川二葉梶原平馬の長男・景清の長女。子に二男四女(允、中、恭子、倫子、圭子、玲子)[12]

人物[編集]

高山英華は石川を「地域の人達と一緒になってまちづくりをする人で法令条文重視でなく生活優先の人」「さかり場の好きなロマンチスト」と評し、徳川義親は「世話好きのまちのおじさん」と書き残している。のちに都市文化活動として自身が関わる目白文化協会の活動を開始。学生時代、自宅の自分の部屋を「阿伎山房」と名づけていたほか、後には徳川夢声を会長にゆうもあ・くらぶを結成している。一方で自宅のある目白在住の文化人らをあつめ、徳川義親を会長に目白文化協会を設立した。協会では毎月「文化寄席」という名の寄席を主催した。

若い頃から油絵やギター演奏、スポーツなど多趣味であったが、成功したのは落語だけと息子から言われている。落語のほうは、末広亭の演芸が終わった後、柳家小さんや馬琴がわざわざ目白の自宅までやってきて、今日の寄席の感想を求められたという。

青年時代、一時竹久夢二北原白秋の詩を愛していた石川は情緒的な可憐な詩を作ってもおり、また時々俳句なども作るが、俳句よりそうした詩の方がはるかに上手かったという。墓地には自作の詩をきざんだ石が埋められた。

その他の業績[編集]

照明学会照明知識普及委員会委員

新宿西口広場事業および照明計画

名古屋市都市計画、中川運河、河馬の像(名古屋市東山動物園[3]土地区画整理事業ほか、名古屋駅駅前広場計画、豊橋市、岡崎市、一宮市、瀬戸市都市計画担当

那覇市都市計画の考察報告[13]

北九州五市合併構想

岡山県倉敷市広域計画

東京都内全域にわたる細街路街路網都市計画決定

東京緑地計画における保健道路の設定

紀元2600年記念宮城外延整備事業と地下道計画

湯立坂(東京都文京区[3]

早大通り(東京都新宿区[3]

東京の闇市整理 - これにより、渋谷地下街(しぶちか)・上野西郷会館三原橋地下街他が誕生した[3]

池袋駅東口地下街(東京都豊島区[3]

中野北口美観商店街アーケード[3]

首都圏整備法制定・首都圏整備計画/首都圏整備委員会

著書[編集]

『都市動態の研究 愛知県五市を資料として』郷土教育聯盟〈郷土科学パンフレット 第三輯〉、19326月。NDLJP:1118671

『都市計画要項』三重高農農業土木学会〈三重高農農業土木学会刊行叢書 1〉、19353月。NDLJP:1146675

『鮮満都市風景』都市研究会、193611月。

『防空日本の構成』天元社、19414月。

『日本国土計画論』八元社、19415月。NDLJP:1058773

『日本国土計画論』(改訂増補)八元社、19423月。NDLJP:1058774

『都市計画及国土計画 その構想と技術』工業図書〈日本工学全書〉、194110月。

『都市計画及び国土計画』(新訂版)産業図書、19545月。

『戦争と都市』日本電報通信社出版部〈国防科学新書 1〉、19426月。NDLJP:1058754

『国土計画 生活圈の設計』河出書房〈科学新書 38〉、19428月。NDLJP:1058769

『国土計画の実際化』誠文堂新光社194211月。NDLJP:1058770

『都市の生態』春秋社松柏館〈春秋社教養叢書〉、19433月。NDLJP:1058756

『国土計画と土木技術』常磐書房、19436月。NDLJP:1058771

『皇国都市の建設 大都市疎散問題』常磐書房、19443月。NDLJP:1058752

『国防と都市計画』山海堂出版部〈国民科学新書〉、19447月。NDLJP:1058753

『新首都建設の構想』戦災復興本部〈建設叢書〉、19464月。

『都市復興の原理と実際』光文社194610月。

『私達の都市計画の話』兼六館、19481月。

『都市計画と国土計画』三省堂出版19493月。NDLJP:1168177

『都市美と広告』日本電報通信社〈電通広告選書〉、1951年。

『都市』岩崎書店〈社会科全書〉、19535月。

余談亭らくがき刊行委員会編 編『余談亭らくがき』都市美技術家協会、195610月。

石川栄耀博士生誕百年記念事業実行委員会編纂 編『石川栄耀都市計画論集』日本都市計画学会19939月。

脚注[編集]

^ 石川允さんを訪ねて 息子から見た都市計画家石川栄耀の姿とは (PDFえいよう会、201012月、p.1

a b c 石川(1956年)

a b c d e f g h 中島 直人 都市計画史 Planning History - 東京大学都市デザイン研究室(講義用資料、20171016日)

a b 岡田俊裕著 日本地理学人物事典 [近代編 1 原書房2011年、456ページ

^ 石川允さんを訪ねて 息子から見た都市計画家石川栄耀の姿とは (PDFえいよう会、201012月、pp.2-3

^ 上田正昭ほか監修 著、三省堂編修所 編『コンサイス日本人名事典 5版』三省堂、2009年、97頁。

^ 東京復興都市計画設計及解説 - 国立国会図書館サーチ2021620日閲覧)

^ しばらくは都知事の利権の結果と思われていた。例えば『東京の都市計画に携わって : 元東京都首都整備局長・山田正男氏に聞く』著者:山田正男 [] 東京都新都市建設公社まちづくり支援センター:2001.など。

a b 中島直人 et al. 2009, p. ??(巻末年表).

^ 中島直人 et al. 2009, p. 301.

^ 書探訪・蔵書自慢 16 (財)都市計画協会所蔵「石川文庫」 - 住総研

^ 遠藤由紀子「会津藩家老山川家の明治期以降の足跡次女ミワの婚家・桜井家の記録から」『昭和女子大学女性文化研究所紀要』第45巻、昭和女子大学女性文化研究所、2018年、13-36頁、ISSN 0916-0957NAID 120006472849

^ 那覇の戦災復興における都市計画家・石川栄耀の役割

 

 

 

 

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