亡命トンネル29  Helena Merriman  2023.4.3.

 2023.4.3. 亡命トンネル29 ベルリンの壁をくぐり抜けた者たち

Tunnel 29      2021

 

著者 Helena Merriman イギリス在住のジャーナリスト、ブロードキャスター。過去にはエルサレム、エジプト、ワシントンDCなどで長期取材をし、リビアの最前線やエジプトの蜂起、シエラレオネの違法漁業、オバマ大統領の再選キャンペーンなどを調査・報道。本書の執筆・プロデュースのほか、受賞歴のあるBBCのポッドキャスト「The Inquiry」を共同制作している

 

訳者 中島由華 翻訳者。早大文学部英文科卒。出版社勤務を経て翻訳家に

 

発行日           初版第1刷発行

発行所           河出書房新社

 

1962年、冷戦下の夏。学生のヨアヒム・ルドルフは、東ベルリンで待つ人々のため壁の下にトンネルを掘る計画を立てた。これは自由のため闘った若者たちの、壮絶な脱出の記録である

 

 

まえがき

201810月、ヨアヒムにインタビューを申し込み、60年前の行動について質問

世界70か国以上で、何らかの壁あるいは柵が築かれている。たいてい監視塔や「死の地帯」や警報システムを備えており、1961年のベルリンの壁を参考にして作られている

彼のインタビューをもとに、3年かかって関係者を訪ねて話を聞き、東独国家公安局(シュタージ)の膨大な資料を読み解き、トンネルのレプリカに入って記録を取った結果が本書

 

1      ビーチ 1961.8.12. 東ドイツ、リューゲン島

ヨアヒムは当時22歳。夏休みにベルリンから300㎞北の東独のビーチでキャンプ

路上の国境警備兵が増えた

翌朝、拡声器から政府発表が流れ、東西ベルリンの境界が閉鎖されたという

すぐに東ベルリンに戻ると、路上には車も人影もまばらで、馴染みの通りには有刺鉄線が光る

 

2      最初の脱出 1945.2. 東ドイツ

東方から迫る赤軍から逃れるために、ヨアヒムの一家は荷馬車に荷物を積んで西に向けて出発したが、間もなくソ連兵に追いつかれ、父親は連れ去られ、馬も奪われて、仕方なく元の農場に戻る

 

3      長い道のり

2日間かかって辿り着いた故郷の村にはソ連兵がいて、家も占拠されていた

1945.5.2.赤軍がベルリンを占領

ヨアヒム一家も故郷の家を追い出され、ベルリンの親戚を頼って5カ月後に漸く辿り着く

 

4      イメージ一新 1945.11.

ベルリンのソ連化が始まり、赤軍による残虐な行為をリカバーするために、ドイツ人共産主義者たちを使ってイメージを一新させようと試みる。中でひときわ優秀でスターリンが信頼できると考えたのがヴァルター・ウルブリヒト

共産主義の代わりに社会主義を名乗り、見た目を民主的にして、すべてを共産主義者が牛耳る形で組織を作る

 

5      密輸 1949

東西の経済格差を利用した密輸が横行、国境警備兵の検査をかいくぐれば金儲けができた

ヨアヒムも、コーヒーを西側に運ぶ密輸を手伝わされた

西ベルリンの支配を狙ってスターリンは西ベルリンを封鎖するが、アメリカ軍は大空輸作戦を展開し、スターリンも1年で封鎖を解除、このときから冷戦が始まる

 

6      ラジオ 1952

学校で共産主義の教育を受けながら、密かに西ベルリンのラジオ局が流すアメリカ軍占領地区放送局の東ドイツ家庭向けの放送を盗み聞きしていた

 

7      戦車 1953.6.

スターリンの死去で世の中変わると期待したが、東ドイツでは一層厳格な共産主義社会化が進行、反ソ連支配を訴えたデモが起きるようになったが、ソ連軍の戦車に蹴散らされた

初の反政府暴動だったが、市民は限界を知ってその後30年沈黙を強いられる

 

8      品数豊富 1960.2.

友人と毎週のように西ベルリンに行き、近代化の進む都市での生活を賛美

東ベルリンから多くの越境労働者が、日中は西で働いていた

ウルブリヒトは、市民を繋ぎ止める方法を常に探し求め、テレビコマーシャルで映像の最後に「品数豊富」というキャッチフレーズを流すのもその1つだったが、実際とは違った

東ドイツ市民のほとんどが終戦直後よりずっといい生活をしていたが、西に比べれば格段の差があり、しかもあらゆる物事の背景には常に恐怖が存在した

 

9      1000の目を持つ家

シュタージに32年間トップにいたのはエーリッヒ・ミールケ。過去の経歴は不詳

国家による大規模な監視を行い、特に1953年以降急増した「共和国脱出」を阻止

毎月万単位で増え続ける西への亡命者を阻止するために壁を建てることを提案すると、ソ連の人民委員会は愕然としながらも、スターリン主義に拘るウルブリヒトに根負け

 

10   バラ作戦 1961.8.12.(Sat)

ウルブリヒトが東西ベルリンの境界閉鎖を「バラ作戦」として実行に移す。翌朝未明に西ベルリンを武力包囲、壁建設工事を開始。まずはポツダム広場から有刺鉄線で国境検問所を封鎖し、検問所間に鉄線を張り巡らせる。東西ベルリン間の27マイル、東ドイツと西ベルリンの間の69マイルの国境線を封鎖し、西ベルリンに通じるすべての公共輸送機関を遮断、地上下の鉄道線路を撤去し駅を封鎖。13日朝までには作業完了

 

11   袋のネズミ

翌朝何事かと境界に集まる市民に対し、催涙弾が投げ込まれる

慌てて荷物をまとめて西行きの列車に乗った市民もいたが、東ベルリンで終着となる

 

12  

休暇から戻って事態を知ったヨアヒムは、もう一度すべてを危険に晒すかどうかを決断しなければならなかった

 

13   脱出 1961.8.15.(壁建設の2日後)午後

最初の日には800人が強引に有刺鉄線を超え、壁設置の労働者の中にも超えた人が出る

田舎から国境警備に駆り出されたフォポ(人民警察)の若者が、任務に愛想を尽かして自ら有刺鉄線を飛び越えようとした姿が西ドイツのメディアに捉えられ、世界で報じられた

その後67人の国境警備兵が西に脱出

 

14   半ズボンの少年

スタッフから「半ズボンの少年」と呼ばれていたケネディは、大統領就任間もなくビッグス湾上陸作戦で面目を失なった後、6月にフルシチョフと会って、西ベルリンへの干渉をストップさせようとしたが、またしてもフルシチョフの怒りを買うだけどころか、東では何をしても構わないとの言質を与えてしまい、壁建設へのゴーサインとなった

不意を突かれた米英仏連合軍は、東ドイツのことと割り切って何もしなかったため、西ドイツは政府、国民ともに連合軍の弱腰を非難し怒りを爆発

ウルブリヒトは連合軍の不作為を確認し、4日後からコンクリートの壁建設に取り掛かる

漸くケネディが行動を起こし、ジョンソン副大統領を派遣したのは封鎖から7日後のことで、タイミングが遅すぎた

 

15   無知の谷 1961.9.

新学期が始まってヨアヒムはドレスデンの大学の学生寮に戻る。自由ドイツ青年団への加入を拒否したため、好きな学問の選択を許されず、西側での生活を思い描くこともあった

ウルブリヒトは、壁を「反ファシスト防護壁」と呼び、政治犯逮捕が急増、西側に通勤していた者や大学に行っていたなど、西に関係した者への迫害が際立つようになる

外敵から国民を守ると言いながら、国境警備のフォポの銃口は国民に向けられていた

ドレスデンは「無知の谷」と呼ばれ、西側からの電波受信がほぼ困難だったが、他の土地ではアンテナを西に向ければ潜りで西側メディアを視聴することができたため、違法と定められ監視が強化される――違反者のリストが新聞に載ったのを見て今の暮らしに嫌気がさしたヨアヒムは、改めて自分の生活や将来を考え壁からの脱出を決意

 

16   双眼鏡

徴兵された入隊時の忠誠の宣誓を拒否したため大学を退学処分になった親友のマンフレートと脱出の具体策を練り始め、市外の草原に監視の緩そうな場所を見つける

西側とコンタクトしたり脱出しようとする試みは、次々に禁止令が出され、遂には阻止のための武器使用が認められ、12日後には最初の犠牲者が射殺される

 

17   監視塔

9月末近くに徒歩での脱出を試みるが、真っ暗闇で方向がわからないまま辿り着いた消防署のような建物に入る

 

18   収容所

建物は難民の収容所で、東ドイツから逃れてきた人は全て一旦収容される施設

ヨアヒムはCIA職員の尋問を受け、予備軍に入隊していたというと、CIA職員用の特別棟に入れられ、さらなる尋問に答えるよう要請された

 

19   スパイ 1961.9.29.

東西ベルリンの境界に設けられた検問所の中でも、フリードリヒ通りのそれはとりわけ混雑。西から東の家族や友人への面会に行く人だけが通行を許された

シュタージの評価は、情報提供者の獲得数が基準で、年間25人のノルマがあり、国全体では正式に17.3万人、国民63人の1人の割合で至る所に目が行き届いていた

東ドイツにいる恋人に会いに行こうと酒とたばこを隠し持っていた男ジークフリートが検問に引っかかったが、担当のシュタージは新たな情報提供者にしようと目をつける

 

20   ファイル

シュタージが作成したジークフリートのファイルは今も残っている。ベルリンの壁崩壊の際シュタージは資料を破棄しようとしたが、新体制は出来る限り資料の復元を決断した

ファイルには、ジークフリートが禁止されている同性愛者だということも記されており、それをネタに寝返ることを強制された様子が記され、誓約書の署名が残る

 

21   エフィとペーター(それにヴァルターとヴィルヘルム) 1961.12.

エフィとペーターのシュミット夫妻は、西ドイツでの仕事を失しない、遂に脱出を決意するが、四六時中シュタージの協力者ヴァルターとヴィルヘルムが監視していた

 

22   ギルマン・グループ 1962.1.

ヨアヒムは、ベルリン工科大学に入り、通信工学を専攻

ギルマン・グループは、有刺鉄線が張り巡らされたころ、東側からの脱出を支援しようとした学生のギルマンが友人たちと組織した団体で、脱出希望者に似た顔写真のついている西ドイツのパスポートを借り受ける方法で、これまで数百人の脱出を手掛けていた

ヨアヒムは、友人の紹介でギルマン・グループの存在を知り、母と妹を助け出す

有り余る自由に困惑していたヨアヒムのところに、シュミット夫妻の友人のイタリア人留学生カップルが来て、シュミット夫妻を助け出すためのトンネルの計画を打ち明けられる

 

23   未来の家 1962.3.18.

情報提供者となったジークフリートに最初の仕事が来て、脱出を手助けする西側の組織に潜入を試み、「未来の家」と呼ばれていた脱出支援組織ギルマン・グループの本部に行く

ジークフリータが西ドイツのパスポートを持っていたことがギルマンの創立者の1人ボドの関心を惹き、パスポートの運び屋候補として連絡をもらえることになる

 

24   工場

ヨアヒムに声をかけた友人のヴォルフは、トンネルを掘る地点特定のための調査開始――大半は脆い砂質土の上、地下水位が高いことも障壁だったが、境界線に沿って延びる観光客で賑わうベルナウアー通りに目をつけ、地下室付きの建物を探す。たまたま入った建物が東から西に亡命してきた工場経営者で、トンネルの計画を知って建物の使用を許してくれた。東ドイツの出口には、知人のアパートを見つける

 

25   コンクリート 1962.5.9.

ヨアヒムも含む5人の仲間で工場の地下を掘り始める

縦に4m掘り下げ、水平に高さと底辺が1mの三角形の横穴を掘り始める

 

26   墓地

掘削の協力者を2人追加、墓地に潜入して掘削に役立ちそうな道具を入手

 

27   シフト制

8人の仲間でシフトを敷いて順に掘り進める

 

28   新しい名前

ジークフリートは未来の家で、トンネル掘削グループと親しくなる

ギルマン・グループでパスポート作戦を展開するアメリカ人女学生とも親しくなって、彼女から近々「暴力的な突破作戦」があることを聞かされる

 

29   爆弾 1962.5.26.

ギルマン・グループによる強行突破で、真夜中に壁が爆破され直径6フィートの穴が開く

ジークフリートの報告は役に立たなかった

 

30   手のマメ

掘削の進捗は捗々しくない

 

31   テレビプロデューサー 1961.8.(9カ月前)

まだ海のものとも山のものともわからなかったテレビが威力を発揮したのがベルリンでの米ソ対立の報道で、NBCBBCなどヨーロッパ諸国の放送局と契約し、毎晩のように映像を流した。今では全米の80%の世帯でテレビを保有。有刺鉄線が張られる直前、NBCは西ベルリンの難民収容所の様子を撮影、その翌日国境閉鎖の事実をリアルタイムで報道

テレビドキュメンタリーで激しい争いをしていたABCCBSの向こうを張って、いま進行中の脱出劇を撮ろうと動き始める

 

32   取引 1962.5.

ヨアヒムが資金集めを開始、ヴィリー・ブラント市長の補佐官から紹介してもらった政党が2000ドイツマルクを寄付したがまだ不足で、脱出劇に興味を持つNBC5万ドルで話を持ち込み、守秘契約を結んで現場を見せる

 

33   ニューヨーク 1962.6.

NBC7500ドルで引き受ける

 

34   カメラ 1962.6.20.

NBCのカメラがトンネルに入り、掘削している場面を撮影

 

35   傘 1962.6.25.

アメリカ人女学生からジークフリートに、4人の脱出を助ける話が来る。暗号メッセージが隠されている傘を脱出希望者に渡す。ジークフリートは組織に報告した後脱出者とコンタクトを取るが不在。2日前にトンネルを掘って東にいる妻を救出しようとした夫がトンネルの出口でシュタージに射殺される事件が起こっていたため脱出劇は中止となっていた

 

36   デス・ストリップ(国境の無人地帯の呼称)

無線機でトンネルの奥と連絡を取り合い、トンネル内の明かりは電球を一繋ぎにしてぶら下げ、酸欠にはパイプを繋げて送風機で空気を送り込むが、水が浸みだし始める

ようやくデス・ストリップに到達。途端に地上の物音が消え、トンネル内の話し声や物音が聞こえかねないリスクが増す

 

37      ヴィルヘルムの報告 1962.6.20.

ヴィルヘルムによるシュミット夫妻の監視は続くが、夏の2カ月は休暇

 

38      基本原則

NBCはベルリンと本社の間で基本原則を作り、守秘を徹底

 

39      水漏れ

遂にトンネルの先が水没。仕方なく水道局に出向くと、運よくブラント市長の友人で壁崩壊のためなら何でもしようという市の顧問が出てきて、西側の情報機関も巻き込んで水漏れを止めてくれたが、新たな水漏れは止まったが、溜まった水はそのまま

 

40      2のトンネル 1962.7.

壁建設から1年近くが立ち、壁の防備は一層強化され、市民の間には壁病なる症状が蔓延、自殺者が急増

ギルマン・グループから掘り手のいなくなったトンネルの存在を知らされ掘削を進め、ようやく目標の東ドイツの家に辿り着くが、今度は脱出希望者と連絡を取る必要がある

 

41      恋人たち

東西離れ離れになった恋人同士が西で一緒になるためにギルマンの助けを求め、恋人の片割れで西にいたヴォルフディーターが脱出者たちへの連絡役を担う

 

42      前日 1962.8.6. 東ベルリン

恋人は前日脱出口のある家を下見

頻繁に東を訪れていたヴォルフディーターが怪しまれないようにと、脱出当日の連絡役がジークフリートに回ってきた。すぐに東に向かい、シュタージに明日大きなことが起きるとの情報を報告した後恋人のいるアパートに向かうが、なぜか恋人は立ち去った後だった

 

43      87

脱出は午後4時開始と決まる。情報はジークフリートからシュタージの担当に報告されるが、脱出方法の情報はなくトンネルの存在までは気付いていない

ヨアヒムと仲間3人が80mのトンネルの先まで、入り口の穴を開けに武器を持ってトンネルを進むが、入り口付近にはすでにシュタージが張り込んでいた

脱出者は3台のトラックに分乗して脱出口の家に向かう。1台目は張り込んでいたシュタージに気付いて家に入るのをやめたが、徒歩で家に近づいた脱出者は一斉に逮捕。2,3台目のトラックも一網打尽。トラックに乗り遅れたシュミット夫妻と恋人は何とか難を逃れる。ヨアヒムたちも穴を開けたところで家主から逃げろといわれたが、計画通りに集まってくるはずの脱出希望者を救うために穴をあけることに集中

計画の遂行を見届けるために東に来ていたヴォルフディーターは、ジークフリートの通報により帰りの検問で逮捕。恋人とともにすべてを失ったと観念

トランシーバーで作戦終了を伝えられたヨアヒムたちは、何とかトンネルに戻って帰還

 

44      ホーエンシェーンハウゼン(シュタージの秘密の拘置所)

強制収容所での尋問は、肉体的な拷問ではなく、睡眠の剥奪による再生機能の喪失で、全身が衰え死に至る。供述書の最後には、脱出作戦について西ドイツ政府とアメリカ政府が関わる策略の一部だったことが追加され、無理やり署名させられた

 

45      モグラ狩り

「未来の家」ではボドが失敗の原因追及のモグラ狩りに乗り出すが、度重なる失敗の責任を取ってボドはグループを離れるという

ジークフリートは、シュタージで表彰され1000ドイツマルクを授与される

 

46      静寂 1962.8.13.

壁建設1周年にあたり、ブラント市長は正午から1分間の黙祷を呼びかける

1分後、西ベルリンの街中に怒りの騒音が巻き起こる。車の警笛が鳴らされ、列車の警報装置のひもが引かれ、壁を壊そうと石やレンガを投げつけたが、警察に押し戻された

 

47      見せしめ裁判

2,3日後ヴォルフディーターは大勢の前でテレビ放映もある見せしめの裁判にかけられ、7年の拘禁刑の宣告。拘禁中にジークフリートについてだけは尋問されなかったことに気付き、彼こそスパイだったと覚るが連絡のしようもなかった

恋人も一旦は逃れたがすぐに拘束され、3年の拘禁刑に処せられ、法廷で彼と目を合わす

 

48      肉屋 1962.9.

ヨアヒムは最初に掘ったトンネルに入ると、水は完全に干上がって土も乾いていて、掘削を再開。境界ではまた若者が脱出を試みて射殺され、西ドイツ警察も米軍も何の手も出さなかったことに大きな抗議の声が上がるが、いかんともしがたかった

 

49      クラウスの事情

東ドイツの肉屋が一家3人で有刺鉄線突破を試み、妻と子供は捕えられたため、何とか救出しようと、トンネル掘削に2回参加したが何れも崩壊した後、ヨアヒムのチームに参加

ヨアヒムは、前回の失敗の犯人不明のままお互い疑心暗鬼に陥り、突然手伝いを申し出てきた肉屋も信用できず、情報機関に尋問してもらったが、スパイでないという確証も得られないまま、本人の熱心さと誠実な態度に根負けして仲間に入れる

 

50      パリ 1962.8.

NBCのプロデューサーと在ベルリンのスタッフがパリで打ち合わせ、国務省からCBSに対し脱出用トンネルの撮影禁止の指導があり、NBCにも釘を刺してきていたが、NBC社内では脱出作戦を最後まで見届けることを再確認し合う

ケネディはベルリンの米軍の顧問に大空輸作戦を指揮したクレイ将軍を起用、アメリカがベルリン問題に関心を持っていることを示していたが、196110月ウルブリヒトが東独に入ろうとするアメリカ外交官に嫌がらせをしてきた際、クレイは戦車を国境に配備して威嚇、ソ連もそれに応えて戦車を動員、空軍まで出動しかつてないほどの緊張が走る

翌朝両軍とも戦車を撤収して、衝突の危機は回避。膠着状態を保つことを不文律とした

 

51      測定値

トンネルにはまた水が出始め、地上に出るしか選択肢がなくなり、測定値から出された地上地点は目標のアパートの手前で壁から道路1つ隔たったアパートだった。ヨアヒムには、それまでやってきたことの意味を考えると、続行の決断しかなかった

 

52      最後の訪問

決行日だけを決めてシュミット夫妻を訪ね伝える

 

53      メッセンジャー 1962.9.10.

イタリア人留学生の彼女エレンが1年ぶりにベルリンに会いに来た偶然の機会を捉え、脱出希望者への連絡役を頼む。リスクは大きいが、他にやる人がいないということで決断

 

54      調査

ジークフリートは、北ベルリンで掘られているトンネル関連の情報収集に奔走、長さが100mを超えるという情報から起点を特定しようとする

 

55      地図 1962.9.12.

エレンの仕事は、東ベルリンのカフェ3軒を回って脱出希望者にトンネルの準備ができたことを知らせること

 

56      ルーヴェン(NBCのテレビプロデューサー) 1962.9.13.

決行日を翌日に控え、ルーヴェンがベルリン入り

 

57      914

エレンは列車で東ベルリンに向かい、指定されたカフェで脱出者に集合場所を教える

シュミット夫妻も、朝今日が決行日だと知らされ、慌てて荷物をまとめて列車に乗る

ヨアヒムたちは、東側の出口で地上に出る役を誰がするか決める

予定時刻になると続々と脱出者が集まってきて、シュミット一家を筆頭に次々にトンネルを抜けて西に脱出を果たす

エレンは、東ベルリン駅で婦人警官に呼び止められ、荷物と身体検査をされたが、何も見つからなかったようで、無事西行きの列車に乗り脱出

合計29名がトンネルを使って脱出に成功。肉屋の妻と生まれたばかりの子どもも一緒

NBCのカメラが脱出のすべてを捉えていた

 

58      ヴァルターとヴィルヘルム 1962.9.17.

情報提供者からシュミット夫妻が脱出したようだという報告がシュタージに上がる

 

59      捜索

シュタージはシュミット家を封鎖、縁者を見つけて処罰しなければならず、妻の祖父を探し出して出頭を命じる

 

60      フィルムリール

NBC撮影チームはフィルムを現像に出し、翌日昼に映像を見て編集作業にかかる。音声もインタビューもなく、アクションのみだったが、結末が欠けていることに気付き、特別な演出として、関係者全員を集めたパーティを開催し、彼らを撮影させてもらう

 

61      盗聴

シュタージが無線機で西ベルリン市民の会話を盗聴、先週末東から25人がトンネルを使って西に来たことにつき市政府が記者会見するという情報を得たが、ニュース配信後だった

 

62      ベビーカー

ジークフリートが脱出を知ったのは4日後。全く情報から疎外されていたと知って愕然

西側では、西ベルリン市の情報解禁を待って各国がトップ記事で報道

東側のシュタージは必死に地下道の存在を探索、地下室を見つけるが水浸しで仕方なくコンクリートで埋め、次いで脱出者の身元確認に移る

 

63      パーティ

NBC肝入りのパーティが開かれ、関係者全員が顔を揃える

西に脱出してきた人々の感想は様々。物価は高く仕事はないとの不満も

 

64      カヌー

尋問されたシュミット夫人の祖父は、全く知らなかったお陰で無罪放免。かつて孫娘に贈ったカヌーの話も祖父の話に嘘がないことの裏付けになった

 

65      飛行機

ドキュメンタリーの予想外の成功にしたルーヴェンは12000フィート分のフィルムリールを抱えニューヨークに向けて搭乗したが、NBCの痕跡を現場に残さないよう指示していたにもかかわらず、1巻のフィルムを入れた小箱を現場から回収し損ねていた

 

66      2度目のパーティ

2度目のパーティ会場はタガが外れたような雰囲気となり、掘削仲間の1人がグラスを壁に投げつけた。いまだに解放感の気分が抜けなかったが、すべてを失いかねない危険を乗り越えた者が患う後遺症だった。シュミット夫人も、恐ろしかった経験を鮮明に思い出して突然叫び出し、しっかり掴まえておかないと窓から飛び出しそうになったが、この日は着飾って参加、偶然ヨアヒムと目が会い好感を持ち、一緒にダンスに興じる

 

67      記者会見 1962.10.11.

現場に残されたテープがデュポン製であり、同社のテープの使用者はNBCに決まっていたところから、『タイム』誌がスクープ、NBCが資金援助したことまで暴露され、NBCも記者会見を開かざるを得なくなる。放送予定は1031日で、それまでに鎮静化を期待

翌日『ニューヨーク・タイムズ』紙は、NBCがトンネル建設に協力したと伝え、「ささやかな外交問題」に発展、西ベルリン市政府は放映中止を求め、東ドイツ政府はNBCのジャーナリストを厳罰に処するよう米政府に要求、モスクワの国営通信も放映はベルリン情勢に悪影響を与えると主張

NBCは、BGMをジャズベーシストのエディ・サフランスキーにクルト・ヴァイルのエッセンスを少しだけ入れてと依頼、ナレーションを付け加えて完成に持って行ったが、国務省のスポークスパーソンが「国益に反する」と断定

 

68      図書館

シュミット夫人は大学図書館の仕事に就く。壁から解放されると、夫との違いに改めて気づかされ、うまくいかないまま夫はオランダに勉強に行ってしまう

ヨアヒムも、大学ですれ違うたびに恋心を感じるようになってきた

 

69      メッセージ 1962.10.22.

キューバへの偵察飛行でアメリカ軍は島内にミサイルが配備されていることを発見

ケネディはフルシチョフに最後通牒を突き付け、海上封鎖のための艦隊を派遣、国民にも状況を伝える。NBCはトンネルのドキュメンタリーの放送延期を発表

6日後、フルシチョフが折れミサイルの撤去に同意

ドキュメンタリー騒動は下火となり、NBCは憤慨していたトンネル掘りの関係者に金を払い、西ベルリン市政府も放送禁止要求を取り下げ、NBCが登場人物全員から放送の許諾を得て国務省の態度も和らいだが、NBCトップはホワイトハウスの不興を買うことを懸念して放送禁止を決定

ルーヴェンは退職願を出し、今年いっぱいでNBCを辞めることになった

 

70      ドキュメンタリー 1962.12.10.

NBCは一転、《ザ・トンネル》と題するドキュメンタリーを放映、全米の1800万世帯を78分間テレビの前に釘付けにした

翌日各紙は絶賛。「ベルリンの壁が共産主義の失敗の象徴であるとすれば、トンネルは人間の絶え間ない自由への欲求の象徴である」との声に押されたのか、合衆国広報文化交流局はこのフィルムを大量に購入、世界中で上映

数カ月後、ケネディが西ベルリンを訪問。壁建設の際の不作為を謗られる懸念とは裏腹に大歓迎を受ける。展望台から壁の反対側を視察したケネディは、「たったいま地獄を見てきたかのようだった」と語り、視聴者の前で大勢の観衆を前に、出発前に用意してきた原稿の代わりに西ベルリンで溢れ出た感情そのままに、「すべての自由主義者は、どこで暮らしていようとベルリン市民である。したがって、自由主義者である私は、私はベルリン市民であるという言葉に誇りを覚える」と、繰り返し練習したドイツ語を交えて語った

その2日後、フルシチョフも負けじと東ベルリン市内を視察、ドイツ語で私は壁が大好きだと叫んだが、歓声は上がらなかった

ドキュメンタリーが参考になって、その後十数本のトンネルが掘られ、一部は成功し脱出者が登場したが、新たな裏切りも

 

71      手紙 1963.6.

勾留中のヴォルフディーターは合唱団に入り、刑務所内のレジスタンス集団の活動を知る

今の気持ちを恋人に伝えるために、『ハムレット』の一節について考えていると手紙に書く

 

72      『ハムレット』

刑務所で手紙を受け取った恋人は、『ハムレット』に言及した意味を理解しかねていた

所内の図書館に貸し出しを申請、1年後に来た本を見て、彼氏が「自身に誠実であれ」と伝えたかったことを知り、勇気が出る

 

73      金色のメルセデス 1964.8.

ヴォルフディーターは、拘禁2年経ったところで、シュタージ本部に連行され、模範囚として早期釈放を告げられる。東ドイツ政府の委託で囚人の身柄解法に尽力していた弁護士の働きかけがあり、そのまま西ドイツの弁護士に引き渡され、西ベルリンで母親に会う

東西ドイツの間で、囚人の身柄引き渡しの密約がなされ、860人を対象に14万ドイツマルクが払われる。その第1号に選ばれた

 

74      最後の報告書 1976.11.

シュタージは、いまだにジークフリートを不審に思っていた。実績は申し分なく、逮捕者が89人、うち13人は西ドイツの脱出支援者で、いくつもの計画を密告されたギルマン・グループはスパイの潜入を承知していたが発見できず1963年に解散を余儀なくされた

ジークフリートは、背景は不詳ながら、償いから逃げ道を探すようになり、シュタージへの報告も途絶えがちとなり、遂にシュタージも彼を捨てることにした

 

75      空を飛ぶ

ヨアヒムはスカイダイビングに興味を持ち、同好会に入って腕を磨く。3000mからのフリーフォールが好きで、地上600mまで落下したときに、自分は自由であるという感覚を、人生のどの瞬間よりも強烈に味わっていた。顔を上げ、ショルダーストラップを引いたときには、すべてを完全に掌握しているという純粋な感覚に浸ることができた

 

エピローグ 1989.10.9.

半年前、ライプツィヒで自由選挙を訴えるデモが始まり、燎原の火のように拡散

ソ連で、ロシア革命以降生まれの初めての最高指導者が誕生。ゴルバチョフはペレストロイカを進める一方、東欧諸国の国内問題には拘わらないと発表。東欧圏で自由化が進む中、東独だけはスターリン主義に固執。武器取引と囚人取引(3.4万人の囚人と引き替えに34億ドイツマルクを稼ぐ)により秘密の経済を構築していたが破綻は明瞭、にも拘らず莫大な費用をかけて壁の防御態勢を維持、毎年悲劇は繰り返された

トンネルを使った脱出は廃れていたが、’60年代には70本以上が掘られ、19本が使用された。最後の亡命の試みは'893月の気球によるものだったが、制御を失って墜落

ハンガリーとオーストリアの国境が開放され、ハンガリー経由で西側に脱出する東独国民が急増。東独も反体制派に出国許可証を発行するようになる

建国40周年を祝う大規模な軍事パレードが東ベルリンで行われた2日後、シュタージが組織内に厳戒警報を出し、8.5万人余りの逮捕を手配している中、ライプツィヒでは30万人のデモが行われ、余りの多さに武器使用が躊躇われ、なにごともなく終わった

反政府運動は拡大の一途をたどり、党指導部は改革を約束せざるを得なくなる

114日には、東ベルリンで群衆がシュタージ本部を包囲

119日には新たな妥協策として、旅行の規制緩和を発表、すぐに検問所に群衆が詰めかけ、混乱を危惧した司令官が検問所の開放を指示、通行を許可した

 

 

あとがき

1971年、ヨアヒムとエフィは結婚。エフィは6年前離婚していた

反政府デモの参加者たちがシュタージ本部の地下の隠し部屋を見つけ、細断された数百万枚のファイルを復元すると、シュタージがどこまで東側の人々の人生を操作し、支配していたかが明らかになる。1991年ドイツ連邦議会が、シュタージに加担した協力者や情報提供者を炙り出す目的で情報ファイルを精査することを認めたため、大勢の行方不明者や殺された者に関する詳細な情報が得られると同時に、裏切りも明らかにされ、東ドイツのあらゆるところで人間関係の破綻が生じた

ベルリンの壁で殺されたのは136人だけだったが、国家によって死に追いやられた人々の数は推計10万人に上るという

シュタージの長官ミールケは、新しい人民議会に召喚され逮捕されたが、立証できた罪状は警官2人の殺害のみで拘禁6年とされ、健康上の理由から早期釈放され、5年後死去

シュタージから恐ろしい目に遭わされた者の多くは過去に捉われ、自分を裏切った人間を知ろうとした。ヴォルフディーターもジークフリートを捜し続けてるというが、居所を突き止めた後どうするかは決めていないという

 

 

後日譚

ルーヴェン・フランクは、1968年からNBCの社長を2期務める。《ザ・トンネル》は1963年のエミー賞で、most coveted部門、年間最優秀作品部門など3部門を受賞、報道番組では史上初の快挙。2006年死去、「放送ジャーナリズムの父」と紹介された

ヨアヒム・ルドルフは、1971年通信工学の学位取得。教師としてナイジェリアの学校で教える。2012年脱出トンネル掘削の行為によりドイツ連邦共和国功労勲章授与。妻エフィは1992年図書館司書を引退。1972年東ベルリンに祖父母に会いに行ったが、祖父は死去、祖母は認知症でエフィのことも分からなかった

エレン・ゼスタは、トンネル29に関わったことを本に書き、2001年出版

ヴォルフディーター・シュターンハーマーは、しばらく恋人と東西に別れて暮らしたが、1965年恋人は西ベルリン行きを許可され、数年後に結婚

ジークフリート・ウーゼは、1976年のミーティング後シュタージへの協力をしなくなったが、その後の消息は不明で、07年タイで死亡

 

 

Internet Archiveweb siteから視聴可能

 

 

 

亡命トンネル29 ヘレナ・メリマン著

ベルリンの壁 命がけの脱出

2023114  日本経済新聞

世界中が注目したベルリンの壁崩壊からすでに33年。東西ドイツが統一してからも32年が経過し、冷戦時代の記憶は過去のものとなりつつある。ベルリンが1961年から89年まで壁によって分断されていた事実は耳にしていても、その理由や影響について、詳しく知る機会は少ない。

ロンドン在住の放送ジャーナリストであるメリマンの初めての著書は、亡命希望者を救出するために壁の下を通るトンネルを完成させた西の人々や、実際にそのトンネルを使って亡命した人々について、膨大な資料とインタビューを基にまとめたノンフィクションである。75の章から成り、非常に読みごたえがあるだけでなく、プロジェクトに関わった人々の気持ちが鮮明に描かれており、臨場感あふれる物語にもなっている。

軸となる一人の人物を定めたことが、この本の成功のポイントだろう。工科大学の学生だったヨアヒムは、8時間のシフトを組んでトンネルを掘り続けた一人だった。本書はヨアヒムの子ども時代の体験から始まっている。それは、第2次世界大戦末期、ソ連軍の追撃を逃れて難民となり、西を目指した逃避行の記憶だった。戦後、窮乏のなかで育ち、社会主義教育を受けたヨアヒムは、壁の建設後に東独を脱出する。そして、トンネル・プロジェクトに参加するのだ。

東独では、違法に出国を試みる者は容赦なく射撃され、捕まれば刑務所での労働が待っていた。出国の幇助も重い罪になった。国境を越えるトンネルを掘ることには大きなリスクがつきまとった。しかも脱出を支援する団体には、東側のスパイが紛れ込んでいた……

さまざまな困難に立ち向かいながらトンネルを掘り進める若者たちの姿に頭が下がる。巻末の写真を見ると、あらためて、このトンネルが人々の運命をどれほど大きく変えたかがわかる。

このトンネル・プロジェクトについては、約20年前にドイツで映画化もされた。現在のベルリンでは、「アンダーグラウンド・ツアー」でトンネルの現場付近を訪れることもできる。しかし、本書のように多くの証言にじっくり耳を傾けることが、歴史を知る上では重要だろう。関係者の記憶が鮮明なうちに詳細な聞き取りを行ったメリマンの功績をたたえたい。

《評》ドイツ文学者 松永 美穂

原題=TUNNEL 29(中島由華訳、河出書房新社・3740円)

著者は英国のジャーナリスト、放送作家。世界各地で調査・報道を経験。

 

 

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