銃を持つ民主主義  松尾文夫  2023.2.6.

 2023.2.6. 銃を持つ民主主義 「アメリカという国」の成り立ち

 

著者 松尾文夫 1933年生まれ。学習院大卒。56年共同通信社入社後、ワシントン支局長などを歴任。02年ジャーナリストに現役復帰。04年本書で日本エッセイスト・クラブ賞を受賞。英語版もアメリカで07年刊行され、国際的にも脚光を浴びる。著書に『ニクソンのアメリカ』など

 

発行日           2008.3.11. 初版第1刷発行

発行所           小学館 (小学館文庫)

 

本書は、2004年刊行の『銃を持つ民主主義――「アメリカという国」の成り立ち』を加筆訂正し文庫化したもの

2007年、英語版『Democracy with a Gun-America and the Policy of Force』発刊

 

松浦さん『My Life』の「一期一会」で紹介。1996年機内で瀬島龍三の本を読もうとしたら、「瀬島は私の伯父です」といって話しかけられたのが縁で、2019年亡くなられるまで交遊が続く。一貫して「日本版ドレスデンの和解」の成就を唱え、米国大統領による広島平和記念公園での献花を提案。本書についても言及、なぜアメリカは武力行使に走るのかを問い、エッセイスト・クラブ賞を受賞されたという

 

 

プロローグ 「敵」としての出会い

l  ドーリットル機との対面

私とアメリカの関係は、太平洋戦争で始まる。欠陥親爆弾のお陰で命拾いした非戦闘員としての出会い。軍国教育をまともに受けた「少国民」の世代

初めてアメリカ人の顔を見たのは、1942年戸山国民学校(現戸山小学校)3年生のとき、校庭の地上すれすれに飛んできたドーリットル爆撃機隊のパイロットとの対面

l  「欠陥パン籠」で命拾い

福井市に疎開、勤労奉仕に明け暮れた後、1945年香川県善通寺に転居、空襲に追われ、さらに福井に戻って被爆するが、親爆弾が欠陥品で助かった。この親爆弾のことを東京では「モロトフのパン籠」と呼んでいた。大野市の禅寺に収容され終戦を迎える

l  なぜアメリカと戦争をしたのか

福井市で翌年卒業し、東京に戻る

就職でジャーナリストを志すころから、アメリカ特派員になって疑問に対する答えを出すことにチャレンジしたいと思い、1960年外信部配属以降40年アメリカを追い続けている

1964年、ニューヨーク特派員、8402年は経営側でアメリカを追う

l  「近いようで遠い国」

現在の日本にとってアメリカほど身近な国はない。濃密な関係は世界の歴史でも初めてだが、表面的な親密さとは裏腹に、その深層に「すれ違い」状況が堆積しているのではないか

この「すれ違い」こそ、昔も今も日本とアメリカの関係の実像

米国の素顔をキチンと捉え直すことが必要

02年、現役復帰し、ジャーナリストの道を歩み始めたのも、この問いに答えを出すことに改めて挑戦したいと思ったから

本書は、アメリカとの戦争を知る最後の世代に属する私の、自らの原体験に対する拘りとの、終わりのない格闘の記録

 

第1章        ルメイ将軍への勲章

l  「ルメイの爆撃」との出会い

福井で出会った米軍による空襲は、アメリカ側の完全なる制空権の下での、100%非軍事都市に対する無差別爆撃で、アメリカ側も十分日本側の状況に知悉していた

ルメイ将軍が立案・実行に当たった日本焦土作戦こそ、58年後の「ブッシュ・ドクトリン」の元祖ではないか

l  抜擢に次ぐ抜擢

ルメイは1906年生まれ、90年没。オハイオ州出身。オハイオ州立大土木工学科から予備将校訓練コースを経て陸軍航空軍の戦闘機パイロットになるが、近代戦では爆撃機の方が重要な戦力になるため、爆撃機パイロットに転じる。B17の花形パイロットの道を歩む

2次大戦開戦後は欧州戦線で、新戦術を編み出し爆撃精度を飛躍的に高めて一躍有名を馳せた後、44年から対日戦線に転じ、成都を基地に実戦配備されたB29を使って日本本土爆撃を本格化させる。効果の上がらない爆撃戦の切り札として第20爆撃軍司令官に抜擢したのがルメイ少将、38歳で少将に昇進。わずか4年で中尉から少将へ異例の出世

45年初からは日本本土爆撃の全指揮を任される

上官の陸軍航空軍司令官ヘンリー・アーノルドは、1907年陸軍士官学校卒、ライト兄弟から直接パイロットの訓練を受けた、草分けのパイロット。38年から航空軍を率い、40年にはボーイングとB29の開発契約を締結、B29の部隊を大統領が議長を務めた統合参謀本部直轄の軍とし、後に空軍を独立させ、「米空軍生みの親」と崇められる

l  「夜間無差別焼夷弾爆撃」

日本の社会経済基盤全体を破壊し、イラク戦争と同じ様な「衝撃と畏怖」効果によって日本国民の戦意を喪失させ、上陸決戦に持ち込まずに日本を降伏させるというアーノルドの意向に100%応えてルメイが編み出したのが、非戦闘員である一般市民の居住地を含めて都市全体を夜間に焼夷弾で焼き払う「夜間無差別焼夷弾爆撃」の戦術

中小都市まで含め180をリストアップし、11つ焦土化していく

彼の戦術は、アメリカ全体の対日戦争戦略の中から生み出されたと理解すべき――大戦前の‘40年設立の国家防衛調査委員会が、ソルトレークで東京とベルリンの一般市民用住宅の模型を作って開発されたばかりのM69焼夷弾の実験を実施、開発したのはスタンダード石油副社長で、強力なナパーム剤を初めて使用したのが特徴、華氏2400度の火焔を30m四方に飛び散らせる。日本で営業経験のある火災保険会社が日本の住宅の脆弱性についての情報を提供したり、陸軍航空隊戦術学校では'39年の段階で、関東大震災の経験から焼夷弾が日本の都市にいかに恐るべき破壊をもたらすが実証されたと講義していた

l  どでかい花火

アメリカは公式には無差別都市爆撃は行わないと宣言し、ソ連のフィンランド爆撃を非難し、ドレスデン爆撃に対して爆撃機を派遣しながらも、市民を恐怖に陥れることは認めていない。東京大空襲の直前ですら、軍事目標への爆撃を任務とすると建前を語っていた

'44年初、アーノルドはルメイ新戦術を承認、日本人にどでかい花火を届けると指示

2000tの焼夷弾を積んだ325機のB29が東京を空襲、M6938発づつ収められた集束型親爆弾が1機当たり1520発搭載、死者83793人負傷者40918人に及ぶ人類歴史上最大の惨事

l  マクナマラの告白

後年ルメイは空軍士官学校の学生から、「道義的な配慮をしたか」と問われ、「もし負けていれば戦争犯罪人として裁かれていただろう」と率直に語ったが、同じことをベトナム戦争失敗の責任者の1人で国防長官だったマクナマラが2003年になって述懐している

マクナマラは、アーノルドの強い要請を受けてハーバード大ビジネススクールが新設した軍需品生産と調達についての専門コースの助教授として、統計学を使った管理システムの開発で頭角を現し、頭脳の戦時動員として徴用され、ルメイの下で焼夷弾爆撃を効果的に行うための仕組み作りに従事。後に「ベトナム戦争は誤りだった」ことを認めたが、同時に「焼夷弾で殺傷した上で、さらに原爆を投下したのは余計なことでもあった」とも語る

l  原爆よりも爆撃機

ルメイの目標から外されたのが、広島、長崎、小倉、新潟、京都の5都市で、原爆投下目標の候補地。原爆投下はルメイの上層部で決められ、ルメイは投下直前に空軍参謀長に昇格、自ら日米間のB29ノンストップ飛行を操縦した後、「原爆は最悪の出来事、原爆とソ連の参戦なしでも日本は2週間で降伏していた」と断定。陸海軍から独立した空軍を核とする世界の安全保障構想で一杯だったルメイにとって、原爆より爆撃機が大事ということ

l  「反乱」スレスレの行動

ルメイは、戦後ベルリン空輸の指揮をとり、空軍参謀長にまで上り詰めるが、核兵器の積極運用派に転じ、彼の本音がさらに明らかになる。彼の軌跡に、現在の軍事力の絶対優位を背景に武力行使を躊躇わない「アメリカという国」のDNAが見えてくる

終戦直後の演説で、「次の戦争は想像を絶する新兵器で戦われる空の戦争となる。始まったら止めることは不可能なので、空軍戦力を限度なしに強化し、攻撃を受けたら直ちに報復できる状態にしておかなければならない」として、「抑止力」という概念をいち早く提示

しかし、4年後にソ連の核保有が明らかになると、先制攻撃を躊躇すべきではないとの立場を鮮明にし、核戦力の「相互抑止」による平和共存の維持というルールそのものへの挑戦で、何度も対ソ核兵器の先制使用を提言し大統領に拒否されている

朝鮮戦争でも、戦略空軍司令官として無差別爆撃を強行、日本以上の打撃を与えている事実はほとんど知られていないが、休戦協定破棄の場合には即原爆を投下すべきと提言

「世界最強の国でありながら、それを使うのを恐れているのは、意志の欠如だ」とまで言う

l  核戦争の瀬戸際まで

'62年のキューバ危機でホワイトハウスと正面から対立、ついに引導を渡される

米空軍全体が通常の防衛体制であるデフコンDefence Condition5から3へ、戦略空軍に対しては2まで高められた状況を利用、上空待機中のパイロットにはソ連を挑発するよう命じられていたというから、間違いなく核戦争の瀬戸際にあった

l  ルメイが「やりたかった戦争」

ルメイの軍事力徹底使用主義と先制パンチ至上主義は、対イラク先制武力行使に踏み切った「ブッシュ・ドクトリン」と基本精神において同根であり、形を変えて実行に移している

核戦力が持つ「相互抑止」「相互確証破壊」の機能を認めた上で成り立ってきた「恐怖の均衡」の下での平和依存というルールはもはやなく、ルメイが求めてやまなかった「先制攻撃」も可能なアメリカ1人勝ちの時代が到来したという現実を嚙みしめることが重要

「自由の帝国」としての責任を掲げてイラクの民主化から中東全体の変化、さらにはポスト冷戦の世界新秩序作りを目指して、パンドラの箱を開けた

ルメイは、黒人差別の大統領候補ウォーレスの副大統領候補として、キューバ危機の強硬論で有名になったのが理由で選ばれ、ベトナム戦争の政府の弱腰と反戦デモの双方を批判、悪玉のイメージが定着していたが、インタビューする限りは驚くほど「普通の人」

l  ドレスデンとの落差

1995年、ドレスデン無差別爆撃の50周年記念追悼ミサには、ドイツからはもちろん米英のトップクラスが顔を揃え、踏み込んだ鎮魂と和解の儀式が行われた

ドレスデンも、既に敗色濃厚だったドイツに対し、「イギリスのルメイ」といわれたハリスの強い主張で実行された無差別爆撃で破壊し尽くされ、やり過ぎとの批判が出ていた

ミサでのヘルツォーク独大統領は、「ナチス国家の悪行をドレスデンの出来事によって相殺しない。まず何よりも死者を悼む」と演説しているが、日本の場合東京大空襲、広島、長崎の死者を弔う鎮魂の「儀式」がアメリカとの間で済んでいない

同じ頃、スミソニアンでは、エノラ・ゲイ展示計画が、広島、長崎での犠牲者数を記載した展示説明文に在郷軍人会や空軍協会から横槍が入って計画が頓挫したが、日米間の原爆投下という棘を抜く絶好のチャンスを逸した

米国の同盟国としてイラクに自衛隊を派遣することが国益となっている日本にとって、ドレスデンでの「儀式」との落差をまず確認することから始めなければならない

1964年政府は、ルメイの航空自衛隊育成に対する功績を認め、勲1等旭日大綬章を贈る

 

第2章        武力行使というDNA

l  「修正第2条」という錦の御旗

ルメイの武力行使への信念と「ブッシュ・ドクトリン」との連続性を意識すると、アメリカが世界に誇り、世界もそれを受け入れた自由と平等の民主主義の理念そのものに、武力行使というDNAが組み込まれている構図が見えてくる

その現実を直視しなければならないが、それには、アメリカの生立ちまで遡る必要がある

1999年、コロラド州リトルトンのコロンバイン高校での銃乱射事件の直後、全米ライフル協会は、アメリカ合衆国憲法修正第2条を「建国の父たちが建国に際して神のように手に入れ、つくり上げてくれた」権利と称え、銃規制反対運動の錦の御旗として掲げた

l  二百十余年経っても未修正

憲法修正第2条とは、憲法発効3年後に追加された10項目の権利章典部分、基本的人権保障条項10カ条の第2条で、信教、言論、出版の自由、集会、請願の権利を保障した第1条に続くもの。「民兵の必要性を認め、人民が武器を保有し、携帯する権利を侵してはならない」とするが、その解釈をめぐって州権説対人権説の対立があり、前者は民兵(現在の州兵)になる限り市民の銃保持の権利が認められるもので州の権利を保障するものと主張し、後者は、連邦政府の専制化を見張り、市民の自由を守るのに不可欠な個人の権利であり、アメリカ民主主義の生命線だとする

現在は後者の規制反対派が優勢、事件直後の規制強化法は廃案、現在は沙汰止み状態

さらに根元的な問題として、憲法修正は現在まで27回行われ、アメリカ民主主義発展の中で時代に適応する安全弁や思考錯誤の実験場の役割を果たしてきたが、修正第2条はそれをすり抜け存続しているということは、規制反対派の歴史的優位を実証している

l  ガンジーを知らないアメリカ人

1995年、168人の死者を出したオクラホマシティ連邦政府ビル爆破テロ事件の背後には、修正第2条をたてに、主に西部・中西部で活動を続けるカルト的武装集団の存在と、全米ライフル協会NRAの影がちらつく。終身刑になった主犯格の男はガンジーを知らない

l  教科書もお手上げの解釈

修正第2条をめぐるアメリカ国内の状況は建前と本音が交錯し捻じれている

高校の教科書でもお手上げの対立と混乱がある

最大の問題は、連邦最高裁がこの解釈の対立に対し、事実上機能を停止していること

わずか3件しか判例がなく、それも大筋では州権説を取りながら、人権説も完全には否定しない曖昧な内容に終始しているのが特徴

l  腰が引けた最高裁

背景には黒人問題とのからみもある――黒人解放と黒人に市民としての平等な権利が認められた直後だけに、修正第2条を州権説で解釈することにより、市民としての武装の権利から黒人を除外しておこうという思惑だったが、1960年代末期に白人と黒人との間の緊張が高まった時代、マルコムXが「修正第2条で武器保持の権利が認められている以上、すべての黒人は自己防衛のために武装する権利がある」と主張

修正第2条が、白人、黒人双方から「武装の権利」の根拠として主張されるところに、この問題の根深さがあり、同条の解釈がアメリカ社会の様々な種類の対立と微妙に絡み合う状況になっていることが、最高裁が明確な裁定を躊躇う背景で、建国の呪縛の1つといえる

l  NRA支持のブッシュ政権

ブッシュ政権誕生と9.11以後、銃規制派は完全に沈黙、連邦レベルの銃規制もストップ

l  「銃が増えれば、犯罪が減る」

NRAグループの攻勢が本格化してきた背景には、銃の保有を認めることが犯罪を減らすという考え方がアメリカ世論内に浸透してきたという状況がある

既に2.3億丁の銃器が国内に出回り、さらに毎年3400万丁増えるという現実に対処するためには、成熟した責任ある銃保有の文化を作ることこそベストな選択だとする

l  トライブ教授の「変身」

代表的な憲法学者のトライブ教授も、人権説に理解を示し始めた

トライブは、リベラルなハーバードロースクールの人気教授で、著書『アメリカ憲法』は全米のロースクールの定番教科書として使われている

トライブが2000年版でコロンバイン事件を踏まえ、一貫して州権説を取っていたことへの一種の自己批判と同時に、修正第2条解釈の再検討を宣言

 

第3章        「無秩序」からの誕生

l  妥協の束

憲法と権利章典の10カ条は、欧州にないオリジナルな民主主義を作るという、「建国の父たち」の気負いと拘りの産物――事実上の独立国だった13州の妥協の産物であり、州権対連邦政府、大州対小州、東部対南部等々、あらゆる種類の利害の対立の調整の結果

妥協の束として作り上げた憲法の、総仕上げの最後の妥協が権利章典

憲法制定会議は、フェデラリストと反フェデラリストに分かれた駆け引きの場となり、州権を認めた上での連邦制と「小さな中央政府」による新統一国家をつくろうという積極派が前者で、必要悪としての連邦中央政府は認めるが、13州の主体性=州権を最大限確保しておきたい慎重派が後者――連邦議会は人口比の2院制と各州平等の1院制の主張が対立、人口比の下院と各州平等の上院との組み合わせの2院制に妥協。黒人に投票権は認めないが、各州の人口に追加する(下院の議席数に反映される)ことを認める南部と認めない東部の主張が対立、3/5を追加することで妥協。奴隷貿易も、少なくとも20年間は撤廃を発議しないことで歩み寄る

l  既成事実化していた修正第2

この時、一般市民に安心感を与えるために、権利章典を前文に盛り込む提案がなされたが、各州憲法ですでに制定されているとして却下

ほとんどの州で、権利章典部分を含めた州憲法が制定され、民主主義の基本原則が高らかに謳われている。修正第2条の原型も、連合規約や各州憲法・権利章典に規定され、連合規約第6条には全ての州は民兵を武装して保持すべきであり、緊急事態に備えなければならないとしている。いちばん明快なのはペンシルベニア州で、「人民の自分自身と州を守るための武装の権利、平時における常備軍の不保持、軍隊の文民統制」が規定された

l  州権の重み

州権は平等――人口比に応じた下院議員数に、各州平等に割り当てられた2人を加えた人数(現在合計538)が選挙人となり、大統領を選出

建国の父たちは衆愚政治を警戒して大統領選挙人を一般投票で決めるのに反対、実現するのは1835年。上院議員の選出も州議会で行われ、一般投票となるのは1913年以降

選挙人制度を変える憲法修正案は、これまで700回以上試みられたが常に葬り去られた

l  イギリスからの継承

修正第2条全体は、旧宗主国イギリスからの継承――プロテスタントの臣民に自衛のための武器保持を認めたイギリスの権利章典(1689)が原型で、国王の専制に対決する上での市民の権利として武器保持が認められ、その後アメリカ大陸に運び込まれる常備軍対民兵という枠組みが始まる。武器の保持が「自由民」としての自衛上の権利であるのみならず、政治的な権利=民主主義の権利として認識される

l  「規律ある民兵」の誕生

「自由民」は「自由を守る最も確実な方法は武装することだ」と考えるようになり、武器こそが自由の象徴と見做される

規律ある民兵によって我々自らを守ることを考え、イギリスやスコットランドの啓蒙主義が獲得した立憲君主制の権利章典に、規律ある民兵の武器保持の権利が盛り込まれた

常備軍対民兵、常備軍の専制を許さないための「市民皆武装」の概念がアメリカにわたってさらに過激なものとなって値を下ろす。マサチューセッツ州レキシントンとコンコードに貯蔵された民兵の武器弾薬を押収しようとしたイギリス正規軍を、「規律ある民兵」が迎え撃ち、独立戦争が始まる

l  権利章典よみがえる

憲法制定の際権利章典の盛り込みを拒否された反フェデラリストたちは、権利章典の欠如を理由に、憲法そのものの批准拒否の運動を始める

憲法の下での新国家建設を軌道に乗せるために、フェデラリストの面々も態度を変え、「あらゆるかたの政府から基本的人権を侵害する力を取り上げておく」ことを明記することで権利章典を含めた憲法が完成したが、マサチューセッツ、コネティカット、ジョージアの3州が批准したのは制定150周年を祝賀した1939年のこと

l  アダム・スミスの先見の明

1776年、アダム・スミスは『国富論』の中で、アメリカの植民地化は「無秩序と不正」の中で始まったと述べ、勝手に築かれた国との認識を示す。アメリカ経済の歩みは、「レッセ・フェール」というスミス理論実践の場であると同時に、常にそのアンチテーゼを模索する歴史でもあった

 

第4章        原点としてのメイフラワー

l  「モデルのない国」の民主主義

秩序も圧制もなかったアメリカ植民地に、7年戦争(175563)による財政破綻の穴埋めのために課税を強化しようとした英国政府の「専制」に対する植民地側の「規律ある民兵」による決起がアメリカ独立革命であり、その勝利の中から、自由と平等を掲げた「アメリカという国」の秩序が誕生する。「モデルのない国」にオリジナルな民主主義が始まる。武力行使というDNAはその一部となり、アメリカ民主主義を支える。修正第2条が定着し続ける所以であり、革命という武力行使こそが独立を達成させ、オリジナルの民主主義を生んだ

l  タバコで生きのびたバージニア

メイフラワーに先立つこと13年、植民地開発会社「バージニア会社」の手でバージニア州ジェームズタウンに入植、金の発見には失敗したが、先住民に教えられたタバコの栽培に成功、これに綿花が続く。植民地経営が軌道に乗って、政治的基盤と豊かな財力が積み上がり、建国の功労者たちを輩出。ジェファーソンは蔵書家としても有名だが、ライフルと拳銃のコレクターでもあり、銃を常に持ち歩くことは精神の自立と積極性と大胆さを維持するのに役立つというのがモットーだったという

l  「メイフラワー誓約」に署名

1620年、アメリカ民主主義の史的原点とされる「メイフラワー誓約」署名――分離派ピューリタン17名、「よそ者」である出資者が募った入植事業協力者17名、奉公人4名、雇用人3名、計40人の成年男子全員が署名。目的も主義も異にする雑多な構成員の間で、150年後の独立宣言や憲法、権利章典、さらには「アメリカという国」の原型が創られた

l  3指導者の固い絆

ピルグリム・ファーザーズの指導者の中で傑出していたいのはウィリアム・ブルースターで、終始長老としてグループを育て、支えたが、ケンブリッジ大卒後外交官となるが、父没後ピューリタン/分離派の活動に没入、高い社会的地位につき、財力を持つ。その直弟子ブラッドフォードが第2代植民地総督として、33年にわたり植民地運営に貢献。さらに同じ地元出身の牧師ロビンソンも加わった3人の団結は終生続き、植民地興隆の基礎となる

宗教的迫害を受けた3人はオランダに逃れ、13年間の苦節を経てアメリカに渡る

l  ロビンソン・テーゼの意義

メイフラワー号出発に際しロビンソン牧師は、後にプリマスの初代総督となる義弟に宛てた手紙で、「あなたたちは自らの間で、市民による政府Civic Governmentを必要とするため、1つの政治体Body Politicsとなる。誰かが政府組織Office of Governmentの一員に選ばれても、それは他の人より高い地位についたことではない」と述べている

「カトリック・スペインの牢獄よりもアメリカ大陸の未開の蛮人たちによる死」を選ぶという決意の裏側に、国王と国教会の弾圧にも屈しなかった強固な反教会思想、さらにその根っこに密かな反専制思想が秘められていた

「メイフラワー誓約」は、このロビンソン・テーゼを下敷きにしているが、彼自身はプリマスに行く前に死去

l  「それなりの武装集団」

「メイフラワー誓約」の下で、彼ら一団はそれなりに武装を整え、アメリカの民主主義と武力行使は表裏一体で進む――よそ者の職業軍人スタンディッシュの指揮下に組織された武装集団が植民地での生活を切り拓いていくと同時に、タウンごとの民兵も編成

l  インディアンとの平和友好条約

1621年、上陸地付近のインディアンと平和友好条約締結、ブラッドフォード時代の40年弱は平和が続く

l  ボストンの台頭

1630年、ウィンスロップ率いる非分離派がボストンに上陸すると、ピューリタンのシェルターとなって人口が急増。聖職者も先頭に立って「規律ある民兵」が組織され、本国から派遣された正規軍との対決の構図が見えてくる。インディアンとの「ピークオット戦争」はその力試しであり、宗教的使命感が武力行使のDNAを身に付けていたことの証

l  プリマス最後の日

1643年、プリマス植民地は、対インディアン安全保障機構としてのニューイングランド連合に加盟。1675年には全面戦争「キング・フィリップ戦争」に発展し、インディアンを制圧するが、プリマスは1691年マサチューセッツ湾岸植民地に吸収合併される

l  大覚醒運動も一役

ボストンを中心に植民地は急速な発展を遂げ、共和主義運動が各地で高まるが、その一翼を担ったに大覚醒運動Great Awakeningがある――1720年代以降ニューイングランドからジョージアまで広範に及ぶ信仰復興運動。既成の宗教的権威を無視、「アメリカ人意識」を高める場となって、イギリス帝国から分離する素地を築く

l  「多くの種類の人々」

「無秩序」の中で始まったアメリカというアダム・スミスの言葉通り、新大陸という巨大な空間を、様々な背景を持つ移住者たちのグループがそれぞれに切り取り、それぞれが勝手に州となって生き残っていった建国のルーツが見えてくる

イギリスのみならず、スペインはフロリダへ、フランスはケベックからルイジアナへ、オランダはニューヨークへと、「無秩序」な多元性が広がる

 

第5章        「明白な天命」を信じて

l  プリマスの神格化

プリマス入植地とピルグリム・ファーザーズの物語は、国家統合のシンボルとして、アメリカ建国以降、その後の国造りの中で様々な形で神格化される

l  「俳優」の「口やかましい愛国心」

プリマス神格化の延長で、「メイフラワー誓約」に始まるアメリカ型民主主義のオリジナリティを誇り、拘り、自賛する意識が目立ってくる

1783年、ワシントンが引退する際、各州知事に送った別れの挨拶で、「完全な自由と独立を持つことが承認されたアメリカ人は、最も衆目を集める劇場で演じる俳優となる」と述べる。この意識が、やがてその「偉大」さを「見せたがる」意識へと発展していく

若き日アメリカに旅行したトクヴィルは、アメリカ人の「口やかましい愛国心」と表現して辟易としているが、ブッシュも'02年の独立記念日に、「アメリカは、他の国と違って、すべての人は平等で自由だという全人類へのメッセージを手に世界に登場した」と演説

l  「自由の帝国」

プリマス神格化は、「自由の帝国」の責任を意識するところまで「アメリカという国」を舞い上がらせ、「明白な天命Manifest Destiny」というスローガンを見つけ出し、それを信じて、西へ西へと拡大を始める

ジェファーソンの研究者・明石紀雄氏によると、独立戦争中バージニア州知事の頃、既に「自由の帝国」という言葉を使っているし、アメリカの西への拡張を「人類の諸権利のための義務だ」と考える建国の父たちの「帝国意識」のエピソードには事欠かない

l  太平洋との対面

1804年、ジェファーソン大統領は初めて公式の西部調査団を送り出すが、その際、必ず太平洋に達するルートを地図にするよう厳命――セントルイスからミシシッピー川を遡り、さらにロッキー山脈越えに成功、コロンビア川を下って太平洋と対面

l  モンロー主義の実像

ジェームズ・モンローは合衆国発足当初の駐フランス公使、ジェファーソン大統領の特使として、パリでナポレオンと外交戦の末、ルイジアナ購入をまとめ上げた後1816年に大統領、1819年フロリダ獲得、カナダとの国境線を北緯49度に設定。その中で「明白な天命」路線の前座としてのモンロー・ドクトリンが登場

モンロー・ドクトリンは、1823年モンロー大統領が議会宛ての教書の外交部分で明らかにしたもので、絵治政ロシア、イギリス、スペイン、ポルトガルの4か国を対象に、南北アメリカ大陸における新たな植民地化の動きは一切認めないのと引き換えに、アメリカもヨーロッパ諸国の内政には一切干渉しないとの意思表示をした

アメリカによるその後の中南米大陸やアジアへの干渉には一切言及していない

l  「沈まぬ太陽」

アメリカの自らの西部、それを越えて太平洋への拡大は、「明白な天命」と名付けられ、その進路に立ちはだかる多くの障碍は軍事力によって簡単に処理された

l  「クワとライフルを持って」

1839年、「明白な天命」と名付けらジャーナリストのジョン・オサリバンは、「我が国は、神の摂理の素晴らしさを人類に対して示すことを運命づけられている」として、天命の下でのアメリカの西への発展という概念を打ち出しており、アメリカ中心主義が武力行使というDNAと共にはっきり示されている

1845年、第11代ポーク大統領の下で「明白な天命」路線は国策となり、わずか4年のうちにカリフォルニアの併合によって大西洋から太平洋にまたがるアメリカが誕生

l  秘められた人種差別意識

「明白な天命」路線が、強烈なアングロサクソンの選民意識、その裏返しとしての先住民、黒人はもとより、メキシコ人やアジア人全体に対する差別意識に支えられていたことを忘れてはいけないし、その延長線上として米国の対日姿勢や政策の根っこにも常にこの「明白な天命」マインドがあることを忘れてはならない

l  スタート台としての南北戦争

南北戦争は、建国以来の「妥協」の清算――連邦制に対する温度差が発火点

アメリカ国内での銃の普及は、戦争終了後一気に進行、アメリカを決定的な銃社会にした

 

第6章        「差別」と「排除」

l  「差別」で始まった建国

「明白な天命」の下に拡大を続けた「アメリカという国」が引きずっていた黒い影が、入植と同時に輸入が開始された黒人に対する「差別」であり、先住民に対する「排除」

当初から、下院議員選出の基礎となる人口算定の段階から、納税義務のないインディアンを除外し、自由人以外のすべての人数の3/5を加えたものとされた

憲法にも、南部の逃亡奴隷を意識して、引き渡し要求に応じる義務を規定した第4条があり、権利章典が適用されないことを議会が議決し、連邦最高裁も合憲としている

l  「地下鉄道」組織の活躍

1842年、ペンシルベニア州が逃亡奴隷拉致禁止法を成立させ、拉致した男を有罪とした判決に対し、連邦最高裁が州法は違憲、拉致の権利を認めた連邦法は合憲としたが、同時に、逃亡奴隷の連れ戻し業務は連邦政府のみの責任であるとし、州当局の関与を認めないと裁定し、連邦政府の権威を確立するという巧みなバランス感覚を見せる

自由州では、この判決以後、逃亡黒人奴隷に対し、陪審員裁判などを保証すると同時に、その連れ戻し拉致に州施設が使用されることを禁じる自由保護法が数多く制定され、自由州各地の保護監視委員会は協力し合い、連邦執行官の目を盗んで、「地下鉄道」と名付けられた秘密ルートで逃亡奴隷を支援する活動が活発化

l  劣勢の南部諸州

1819年「ミズーリ妥協」は、ミズーリ州の奴隷州化の際、自由州と奴隷州が各11で均衡していたのが崩れるとして、マサチューセッツからメインを自由州として分離独立させた

1850年の妥協」では、メキシコから獲得したカリフォルニアとニューメキシコを自由州とするか奴隷州とするかをめぐる対立を収拾するため、新たに逃亡奴隷取締法を作る代わりに、カリフォルニアの自由州申請を認め、ニューメキシコは准州として将来の選択に任せるとして妥協、徐々に南部が劣勢に追い込まれていく

l  「黒人差別はガス室と同じ」

平均的なイギリス人や自由州のアメリカ人は黒人そのものを嫌った。南部の奴隷所有者は、奴隷としての黒人を理解し、「分を守る」黒人を愛している

黒人差別の壁は、南北戦争という悲惨な内戦によってしか乗り越えることが出来なかった

アメリカ人自身が、奴隷制を敢えてヒトラーやスターリンの残虐行為と同じところに置く視点は貴重で、この国の懐の深い所

1863年のリンカーンの奴隷解放宣言を受けて、'65年の修正第13条で奴隷制が廃止され、合衆国で出生、帰化しその管轄権に服する全ての人は合衆国と居住する州の市民であるとした修正14条、さらに'70年の修正15条では「人種、体色」による投票権の制限禁止措置によって、憲法レベルでの差別は建前としてはなくなる

実態としての差別は残りながらも、「アメリカという国」の多元性エネルギーを担うところまで来ているが、インディアンの排除は変わらず、黒人を州人口の構成員として認めた修正14条でも「納税義務のないインディアンを除外」する規定は消えなかった

l  4世紀たっても同じ人口

インディアンの排除は徹底して行われ、人口統計にも記載がないため、あくまで推計だが、16世紀初頭の人口は2000年の人口調査による247万人とほぼ同一のレベル

インディアン排除の歴史にも、アメリカ民主主義の武力行使のDNAが顕著に顔を出す

l  殺戮の軌跡

友好の歴史もあるが、あくまで例外で、殺戮の記録は枚挙に暇がない

l  細菌兵器の使用

1763年、「ポンティアック戦争」のフォートピット(ピッツバーグ)砦攻防戦でイギリス軍が天然痘細菌を使ってインディアンを殲滅しようとしたことが暴かれているが、これを機にイギリス本国政府の政策が「力による収奪」から「懐柔・保護」に変わるも、現地は無視

l  反故にされる条約

1787年制定の「北西領土条約」では、インディアンの土地と財産は、議会が承認する正当な戦争によるもの以外、侵さないという方針が決められた

独立戦争中は、植民地軍が勝てば白人入植者に蹂躙されるとのイギリス側の説得力が強く、イギリス正規軍に与したインディアン部族が多かったことから、多くのインディアンは「アメリカという国」の正面からの敵となったこともあって、一方的な浸潤が始まる

l  カジノ経営に精を出す日々

現在のインディアンは、保留地内のカジノ経営で活路を見出そうとしている

現存する554部族中330の部族が28州でカジノを保有、売上も急上昇

形の上では「独立国」として合衆国と条約を結び、元々の「領土」を差し出すのと引き換えに、保留地内では「主権」を確保している。今も残る条約は373、納税の義務はない

l  シュワ新知事も利用

カジノ経営に成功した一部族長は連邦政府の政治的影響力拡大に走り始め、巨大な政治資金を提供。’03年のカリフォルニア州知事リコール選挙では、対抗馬の民主党現職副知事とインディアン・カジノとの癒着を指摘して勝利したシュワルツネッガーが、当選後は立場を一転させ、カジノからの献金倍増を目論む政策を連発。武力行使というDNAを最大限働かせて排除してきたインディアン、その保留地でのカジノ収益に、州赤字財政削減の活路を求めるとは、これ以上のアイロニーはない

 

第7章        常備軍とマルチ人種パワー

l  常備軍拒否の思想

アメリカ合衆国の軍隊をめぐるアイロニーにも、「アメリカという国」の武力行使というDNAの実態がよく見える

市民の民兵化によって、連邦政府権力が新たな専制のタネになることを防ごうと憲法修正第2条に織り込んだアメリカ建国の精神が形骸化し、直属の常備軍が誕生、巨人化した

革命そのものが、国王の常備軍駐留に対する植民地側の強い反発から始まったという事実が、重みをもち、常備軍拒否の思想が建国期のアメリカを強く彩る

l  ワシントンの民主主義DNA

独立戦争は当初各州の民兵組織とイギリス正規軍との戦いだったが、大陸会議は大陸軍を組織し、ワシントンに指揮を任せる。ワシントンは常備軍として厳しい自己規制を行い、大陸会議によるシビリアン・コントロールを徹底し、1783年には大陸軍を解散

l  形骸化する民兵

シビリアン・コントロールの伝統は、いまも守られている

民兵精神から生まれたシビリアン・コントロールが、結果として民兵の形骸化を招くが、そのきっかけを作ったのは、民兵精神を大事にしてシビリアン・コントロ-ルを実践したワシントンで、民兵制度の全米同一化の必要を説き、国民兵役法まで提案。1792年には民兵法が成立、インディアンとの戦争のために職業軍人による正規軍が登場

l  ワシントンに聞いてみたい

徴兵制の実施は両大戦期。194873年の選抜徴兵法が最後で、現在は志願制

ワシントンが描いたシビリアン・コントロールの下での民兵の「国軍化」は、南北戦争で完成し、以後「民主主義の軍隊」は全世界へと進出

1970 年以降は、正規軍、予備役、州兵の一体運用体制となり、即応、選抜予備軍の主力を州兵部隊が構成する――陸軍では54%、空軍では33%を州兵が占める

l  マイノリティと女性で40

もう1つのアイロニーは、世界最強の軍隊が、「アメリカという国」の人種統合を必要とし、結果としてその実現にギリギリのところで貢献している――インディアンの「排除」、黒人の「差別」という建国以来の負の遺産を克服するための努力の場となっている

アメリカの軍隊に一番わかりやすく反映している多民族、マルチ人種パワー、「アメリカという国」が必要とし、その達成のために努力しているパワー――少なくとも日本には真似をすることができないエネルギーが、大きく俯瞰すると、この国のこれからの一番大きな資産ではないか――イラク戦争で倒されたフセインの銅像を星条旗で覆って英雄となった兵士はビルマからの移住者だし、捕虜になって英雄視された中には女性兵士もいた

l  赤裸々な自己批判

2003年、連邦最高裁は、合衆国軍将校団の構成を人種的に多様なものにするため、士官学校等での採用にあたり、人種的多様性の確保を意図することは合憲との判断を下す

黒人が兵員では21.7%を占めながら、将校では8.8%に留まっていることを率直に認め、質の高いマイノリティの将校団を増やすために人種多様化を一定限度意識している

l  「是正措置Affirmative Action」は至上命令

是正措置が公文書に使われるようおになったのは1961年の大統領行政命令の中で、政府調達の契約企業に対し、マイノリティ雇用のための措置を義務付けたのが初めて

l  エドモンド氏との出会い

1960年代の激しい白人と黒人の対立の中で知り合ったマルコムⅩの友人で、ブラックパワー運動の原点を教えてくれた

l  ブラックパワー運動の残照

マルチ人種パワー時代の優等生が続々と登場

l  松井、イチローをどう考える

日本人野球選手の活躍は、結果としてアメリカのマルチ人種パワーの渦に呑み込まれ、その一部となっている

ユダヤ系市民の存在も、このマルチ人種パワーの一部として捉えておくべき

 

第8章        分水嶺だった1968

l  ジョンソンの悲劇――「アメリカという国」の挫折と変身

1968年は、ベトナム戦争の敗退が見え始めた年――武力行使のDNAが初めて敗北を経験

この年ホワイトハウス入りしたニクソンは、アメリカを「世界の警察官」から国益を追う「一競争者」へと変身させ、中国との和解という奇策に出て東西冷戦終結のタネをまく

l  ベスト・アンド・ブライテスト登場

パワー・エリートの強力な後押しを受けて、ジョンソンは慎重論を押し切る

いま彼らが、ネオコンとして蘇る

l  ホー・チ・ミンのしたたかさ

ジョンソンのベトナム政策の悲劇は、ハノイに手玉を取られたドラマと位置付けられる

l  蒼ざめた勝利

「ジョンソンの戦争」の非現実性が一気に国民の前に晒され、反戦運動が雪だるま式に拡大し、ジョンソンは責任を取って再出馬を断念、同時に黒人暴動が荒れ狂う

l  リベラル派の自滅

ニクソンの当選は、ジョンソンの自滅のお陰で、「蒼ざめた勝利」と表現された

1968年の自滅は、ニューディール以来、36年にわたる「大きな政府」の政治が主流派の地位から転落したことを意味。ネオコンは、リベラル派に決別した元リベラル派が源流

l  「ケネディの戦争」

元々ベトナムはケネディの戦争

ケネディの大統領選での人工的な勝利は、国内の人種的、地域的、思想的な対立に火をつけ、国民の間に売り込んだ英雄のイメージが、逆に議会対策や外交交渉で迫られる政治的妥協の自由を奪い、結果として八方に不満のタネをまく

l  中国が理解したカンザスシティー演説

ニクソン時代とは、アメリカが「世界の警察官」からなりふり構わぬ「競争者」へと変身した時代で、その集大成が中国との和解

キッシンジャーを北京に送り出した直後にニクソンがカンザスシティで行った演説が中国の関心を呼ぶ――アメリカの国益を第一に、現実的・利己的な「競争者」に変身、今後の多元的な競争に打ち勝つためにも、中国を孤立から救わなければならないとした

l  ベトナム化計画という「出口」

ベトナム撤収の出口の模索が始まり、「名誉ある撤収」を歌い上げ、反戦運動を封じ込める

l  「南部戦略」というシナリオ

「名誉ある撤退」路線を政治戦略として支えたのが「南部戦略」

奴隷州時代から一貫して民主党の地盤だった南部諸州が新しい産業地域として生まれ変わり、全国から流入する新中産階級を共和党に取り込もうとする野心的な計算から、当時のアメリカ社会の深刻な亀裂の存在を前提に、保守化した白人中産階級に照準を当てる

l  自ら掘った墓穴

ニクソンは、受け身の土俵上での成功のゆえに自らの墓穴を掘る

足元をすくったのは、ケネディに敗北して以来しみついていた東部の民主党エスタブリッシュメントに対する過剰なまでの対抗心であり、警戒心で、政府機関内での盗聴が始まる

初の「西部」出身の大統領との脅えに似た緊張感が、やがて「東部」への驕りに変わり、圧倒的な支持での再選達成とは裏腹に、破局への道を突き進む

l  民主党の傷口に触れる

報復としての対アフガニスタン、先制攻撃の対イラク戦はいずれも、ニクソンが「アメリカ兵の命は流さない」としてベトナム撤収の出口を作ったエゴイズムの延長線上にある

米国は大きく変わりつつある。民主党から共和党へというホワイトハウスのレッテルの張り替えがすべてを語った米国の「古き良き時代」はとうの昔に去った

l  分水嶺の証拠

アメリカの政治は保守化ムードで突っ走り今日に至る。民主党、特にリベラル派はいまだに後遺症から抜け出していない

1968年を分水嶺に、アメリカの政治が間違いなく新しい軌跡を描き始め、圧倒的な民主優勢から、両者拮抗状態にまで接近している。労働組合の組織率の低下もそれを裏付ける

 

第9章        ネオコンの実像

l  「ネーション・ビルディング」の試練

イラク先制攻撃に象徴される「ラムズフェルドの戦争」こそ、武力行使というDNAに忠実な「銃を持つ民主主義」の実践だったが、その後のイラク再建では、政権の目算違いの連続

準備不足のツケであり、ツメの甘さの露呈

l  「昂ぶり」との再会

9.11以降アメリカの昂ぶりは続く――新しい「ベスト・アンド・ブライテスト」ともいえるネオコンの出現は、「アメリカの責任」を声高に叫ぶ

l  PNACとの出会い

2001年に生まれた「100の新アイディアと新傾向」の1つとして、「新帝国主義」を推進する組織が「新しいアメリカの世紀のための計画委員会PNAC」で1997年に結成され、アメリカがポスト冷戦の新世界秩序作りで積極的な責任を果たすことを、新しい「明白な天命」として受け入れるべきとするネオコンの主張そのもの

l  「自由の帝国」の責任

現在のアメリカが引き受ける帝国的使命は、民主主義と法の支配をもたらすための戦いで、第2次大戦後のドイツと日本の場合と同じような義務を、イラクに対しても負っている

l  新版「ベスト・アンド・ブライテスト」集団

同じ保守派として、かつては反共産主義路線で協力し合い、自由、平等、民主主義というアメリカ建国の伝統的価値はもとより、その「小さな政府」の政治的原点も共有してきた共和党と激突するところにネオコンの突出度を見る

l  パウエルの監視役

ネオコン・グルプの代表格がウォルフォウィッツ国防副長官。レーガンの「悪の帝国」発言の信奉者で、軍事力の増強によって「自由の帝国」としてのアメリカの責任を果たし、世界新秩序を築こうとひたすら説き続ける

陰の実力者がリチャード・パールで、パウエル国務長官の湾岸戦争時におけるバグダッド進撃中止の判断をいまだに批判し、「パウエルの監視役」を公言。ブッシュの対外強硬路線を演出

l  リベラル派からの決別グル-プ

ネオコンの旗揚げは、40年前の民主党リベラル派内での内政、社会政策での路線対立が原因――ニューディール以来リベラル主流派が信奉するユートピアニズムと平等主義とは決別する一方で、社会保障など一定の社会的セイフティー・ネットは認める点で、国家の関与を拒否する旧来の保守派とは一線を画するのが特徴。1968年にピークに達した反戦デモ、ブラックパワー運動、ホモ容認といったカウンターカルチャーの運動に対するリベラル主流派の容認姿勢に反発して脱リベラルに踏み切った

l  クールなクリストル・シニア

ネオコンのゴッドファーザーと呼ばれるアービング・クリストルは1920年生まれで健在。戦前はトロツキストとしてならし、戦中は兵役につき、戦後民主党リベラル派に属したが、'65年共和党系保守派に転じる。モイニハンやカークパトリックなどを転向させた

l  「明白な天命」の影

ネオコンの外交政策は、反共路線の延長線上にある

ネオコンの第2世代も「自由の帝国」の責任として主張する対外行動へのコミットメントを、一種の宿命として受け止めている。確信的な対外干渉主義ではなく、状況が変わればあっという間に孤立主義に戻る可能性を秘めている論理

 

第10章     「逆襲」と「出口」

l  「綱引き」に乗る大統領

新版「ベスト・アンド・ブライテスト」もオールマイティではなく、イラクなどでの再建に齟齬を来すなか、「運動ではない」本質が顕在化して、内部分裂の動きが見える。その中でペトナム戦争の経験から学習した「出口」への模索が始まっている

l  早寝早起き大統領

ブッシュ・ジュニアは、成績はCクラスだが抜群の記憶力で知られていたノンポリ学生

ワンチャンスを生かしたリーダーとしての資質については、世論の評価は極端に分かれる

メソジストの敬虔な信者で、堅実な私生活に対する信頼感と安定感は、政権内での求心力を高め、ホワイトハウスでの情報管理の規律の良さは歴史的に前例がないという

l  「ベルリン空襲」に例える

ブッシュは、'03年の演説で、「中東の心臓部に自由イラクを樹立することが世界的な民主主義革命における分水嶺になる」と述べ、イラクの再建がテロリストなどの攻撃に晒されている試練を、第2次大戦後のベルリン空輸に例え、それに打ち勝つ必要性を訴えた

既にブッシュの政策には、ベトナム戦争で学んだニクソンの出口戦略のエゴイズムが見え隠れしている

l  「リベラル・ホーク」の存在

「リベラル・ホーク」とは、人道的な立場から人権保護とジェノサイド防止のためのアメリカ軍事力行使を認めようとする考え方を取るグループで、対イラク戦では積極的に支援

l  「逆襲」の深層心理

フセイン政権による大量破壊兵器使用の可能性という「恐怖の芽」を早く摘み取るためには、あえて「先制攻撃」も辞さないとの明快なブッシュ・ドクトリンへの圧倒的支持の裏付け

l  ブーツ氏変身

イラク再建の祖語を見て、ネオコンの若き闘士だったブーツが、国連依存に転換

l  便宜的一国主義

国連抜きで「レジーム・チェンジ」に突っ走った一国主義を、「神学」ではなく「便宜上」のものだと割り切り、イラク再建でアメリカに軍隊と資金が足りない以上、再び国連を利用するのも悪くないとする論理に注目

保守派内でも、一国主義の捉え方について亀裂があることを認めている

l  エゴイズムの現場を見る

かつてのニクソンと同様な戦争の「現地人化」の姿勢に、ネオコンの一国主義の実像を見る気がする。ニクソン・ドクトリンのエゴイズムと同根の発想が含まれている

l  捨てられた南ベトナム政権

1973年、パリ和平協定の一部として、アメリカ軍撤退を条件に米兵捕虜400人の釈放が完了。アメリカ軍の「名誉ある」撤退という「出口」作りが最優先された

l  ネオコンと対立する国防長官

ブーツだけでなく、ラムズフェルド国防長官も「イラク化」によってイラク再建の試練を克服し、アメリカ軍の撤退の「出口」を見つけ出そうという魂胆を露わにし始めている

l  のぞく「出口」戦略

ネオコンは、ラムズフェルドの戦略に真っ向から反対――ブーツとは正反対で、ネオコンが一枚岩でないことを露呈

l  レーガンの安定感

レーガン路線が現在のブッシュ政権とそれに影響を与えるネオコンたちの「お手本」

l  スキのない青い目

レーガン内外性は、したたかな現実主義に支えられている

l  チェイニー、ラムズフェルドとの出会い

ラムズフェルドをメンターとして仰ぐのが副大統領のチェイニー

l  「レーガンを馬鹿にするな」

チェイニーが「レーガンを馬鹿にしてはいけない」といったことが印象的

 

エピローグ 「ドレスデンの和解」をやれるか

l  54か国の顔

ロンドンには、全世界にまたがる英連邦加盟54か国によるマルチ人種社会が定着

l  スクルービー訪問

分離派ピューリタン旗揚げの地、ピルグリム・ファーザーズの出発点

l  修正第2条のないイギリス

「自由人」と呼ばれた一般市民が、自衛のための武器を持つ権利を文書で認めさせた権利章典第7項の存在など、誰も知らない。銃保有は極めて限定的にしか認められない

l  ヘルツォーク演説をもう一度

ヘルツォークは1934年生まれ、キリスト教民主同盟CDU出身で、旧西独連邦憲法裁判所長を経て、1999年統一ドイツ第2代の大統領。前任のワイツゼッカーが1985年の「荒野の40年」演説で、過去から学ぼうと訴えたのを一歩踏み込んで、「死者の相殺は出来ない」と旧連合軍が非戦闘員爆撃の責任を認めることを迫り、その上でかつての敵も味方も、「平和と信頼によって共生を図ろう」と訴える

l  ドイツとの違い

ドレスデンの50周年記念式典はドイツと米英との「傷口」を閉じる極めて高度な外交努力の産物だが、日本でも同様の「儀式」が出来ないか

日本とドイツでは、「戦争責任」の取り方、取られ方が違う

l  いまだに「歴史物語」

ワシントンに常設のホロコースト博物館があり、「ナチの犯罪」が観光客に曝け出され、告発され続けている。こうした徹底した過去との清算の上でこそ、あれだけはっきり「相殺」の論理を拒否したヘルツォーク演説が可能だったのではないか。アメリカの国内でホロコーストという「傷口」を「永遠に」閉じる作業が終わったのを見届けた上での発言だった

日本にはもう1つドイツと違って果たしていないことがある。近隣諸国との過去の清算で、日本が依然として「歴史問題」という傷口を抱えている現実がある

日米の間ですら、いまだに旧日本軍の捕虜が日本企業相手に補償を求める権利を「保全」せよとの議員立法が何件も提出されている

l  広島、長崎の死者に触れず

2003年、エノラ・ゲイをスミソニアン別館に展示する話が起こった際に、説明文に広島、長崎の死者数が触れられないことが判明。同時に「B29が日本の無条件降伏に後見し、東西冷戦初期の核抑止力の大黒柱だった」とする評価する説明文に、「ルメイの爆撃」の残骸を見る気がする。アメリカの立場は昔も今も一貫している

ドレスデン爆撃の立役者の銅像がロンドンに建った時、ドイツは抗議したが、これに対し日本はルメイ将軍に勲一等を贈っている。日米の関係は、このドイツとの落差を認め、現実と向き合い、それを埋めるところからもう一度始めなければならない

l  知覧での衝撃

アメリカとの同盟関係は日本の国益だが、問題はその中身

アメリカとの同盟関係は、仮想の友好関係なのではなかったか。実像とのすれ違いは根の深い問題――マッカーサーの日本占領も「アメリカという国」の占領ではなく、特別の将軍によるドイツとは100%違う特別な占領。アメリカによって開国していながら、ヨーロッパをモデルに立国し、73年後には戦争までしてしまう。明治のすれ違いまで遡らなければならない

 

 

あとがき

学習院大の清水幾太郎のゼミで学んだのは、「を多発して、論理との対決を逃げてはいけない」――本書では、1回も使わずに書いた

 

 

 

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