我が人生 ミハイル・ゴルバチョフ自伝  ゴルバチョフ  2023.2.21.

 2023.2.21. 我が人生 ミハイル・ゴルバチョフ自伝

2017年(原書出版)

 

著者 ゴルバチョフ

 

訳者 副島英樹 1962年姫路市生まれ。朝日新聞編集委員。東大文卒。86年朝日新聞入社。広島支局、大阪社会部を経て、99年モスクワ特派員、08年同支局長。核と人類取材センター事務局長、広島総局長。19年ゴルバチョフと単独会見

 

解説 佐藤優 1960年東京都生まれ。作家。元外務省主任分析官。同志社大大学院神学研究科修了。外務省入省、在ロシア連邦日本国大使館勤務。02年背任と偽計業務妨害容疑で逮捕、起訴、有罪確定(懲役26か月、執行猶予4)

 

発行日           2022.7.30. 初版印刷  8.10. 初版発行

発行所           東京堂出版

 

23-01 ミハイル・ゴルバチョフ  変わりゆく世界の中で』参照

(原書は、本書の方が先だが、和訳出版はなぜか後になっている)

 

 

読者へ

時勢の成り行きに迎合することなく、声を大にして自らの立場を述べ続けてきた

1980年代半ば、改革を求める声がどれほど普遍的で根強いものだったかを思い出してほしい。その主題はただ1つ、「この先、このままではいけない」というものだった

難しかったのは、我が国にはどんな変化が必要なのか、どの方向に進み、ペレストロイカの戦略と戦術はどうあるべきか、という問いに答えること。多くの犠牲を払って我が国の工業化のピッチを上げることを可能にした体制が、なぜ故障し、発展にブレーキがかかったのか、理解する必要があった。明らかになってきたのは、体制が人々の潜在能力を引き出せていないこと。発展を阻む最大のブレーキは自由がないことにあると理解するまでには、一層多くの時間を要した。必要なのは、政治的、経済的、文化的な自由だった

政治局の上に行くに従って、従来の方法では国の問題は解決できないト確信

問題解決のためには、人々を取り込む必要がアルト信じた、だからこそペレストロイカの基本テーマとなったのは民主化で、そのことが民主化によって成し遂げられるブレークスルーや、その途上で直面することになる困難や悲劇的な衝突の原因となった

変化のプロセスはもはや過去には戻らない地点にまで導かれた。これはペレストロイカの最も重要な結果である

20世紀前半は戦争と革命の時代、後半は世界的な核の悲劇的結末の瀬戸際まで人類を追い込んだ。冷戦を「熱い」紛争に変えないこと、軍拡競争を止めること、核のストックを大幅に減らすこと――この目的に、当時のソ連指導部の全メンバーが同意していた

クライマックスは、レーガンとの会談。そこで初めて最高レベルで核兵器のない世界の展望について具体的に話し合った。レイキャビクで初めて軍縮協定を締結

署名された条約は、双方とも同等の水準や条件、厳しい管理規則を想定していた

我が国の戦略的安定性や安全保障に関わる話であることを理解した上で、我々は大きな責任を背負ってこれらの問題にアプローチした。あの時署名された条約が何十年にもわたってロシアの安全保障に貢献し、あの時確立された管理規則が2010年米大統領によって署名された新たな戦略兵器削減条約(START)の基礎となったのは偶然ではない

当時の我々の外交政策の最も重要な転換点に関わる出来事について難しい決断が求められ、それらを解決する際我々は長期的な我が国の利益と、新思考の基本原則に基礎を置いた。「新思考」とは、全人類的利益の優先であり、グローバルな試練と脅威に向き合う国家間協力を必要とすることであり、選択する自由のこと

その後の時代になって、この原則が頻繁に無視され、国際法の基本が侵され、「冷戦の勝利」で理性を失った西側の政策が、冷戦終結によって到達できた最も重要なものである国家間の信頼を壊したことに気付き不安を覚える。信頼回復は容易ではないが、他に道はない

対話し、双方の利益を考慮し、歩み寄って解決を模索するしかない。ここ何十年かの経験から我々が汲み取らなければならない教訓である

政治とモラル、道徳的価値は共存できるという確信を持ち続けている

社会的な格差や環境破壊の脅威など、警報は鳴り続けているが、政治は事態の急速なテンポやグローバルな変化についていけていない。それが意味するのは、市民社会は、自らの声を上げていかなければならないということであり、責任ある道徳的な政治のためには、力強い社会運動が必要。世界は破滅する運命にはなく、自分自身でより良いものにできると信じている人々を見ると、喜びや希望が湧いてくる。なぜなら、結局のところ、すべては私たち11人にかかっているから。私はいつもそう信じてきた

 

第1章           幼年時代、少年時代、青年時代

l  家族の歴史

曾祖父の時代に来たコーカサスへ移住して定住。母方の祖父はウクライナの貧農出身、全ソ連邦共産党員。コルホーズ(集団農場)の立ち上げに参加、初代議長になるが、1937年で反革命の地下組織の一員とされ逮捕・訴追されるが釈放

父方の祖父は、第1次大戦に従軍した後は、コルホーズに入らず個人農のまま、33年の大飢饉で、種まき不履行のかどで逮捕、シベリアでの森林伐採の強制労働に送られるが、2年後に解放、コルホーズに入って養豚場の指導者となる

強制労働中も一家は故郷に残り、長男は1929年結婚。31年私が生まれる

l  戦争

戦争の直前になって生活は落ち着き始めたが、19416月開戦で、男は全て動員

その年の冬は珍しく10月初めから大雪に見舞われ、村が雪に埋もれた

ドイツ軍が村を蹂躙、バクー油田に迫ったところでようやく進軍が止められたが、4カ月半の占領生活が始まる。共産党員だとして制裁を受ける直前、我が軍が村を解放

44年初の飢饉が始まると、物々交換で手に入れた食糧で辛うじて生き延びる

同年夏、父戦死の報が入るが誤報、死線を潜り抜けて455月の終戦を迎える

l  学校への復帰、MTS(機械・トラクターステーション)とコルホーズでの仕事

44年の晩秋になって学校に通い始める。物理、数学、歴史、文学に興味

私設演劇サークルのコムソモールの書記として、地方公演もこなす

父がコンバインの修理をする仕事も手伝う

身分証で縛られた農民の暮らしは、すべてを税の形で供出させられ、そこへ飢饉が襲う

47年末漸く配給制度廃止、翌年久しぶりの豊作に沸き、生活が落ち着く

l  モスクワ大学

1950年ロモノソフ記念モスクワ国立大学法学部入学

大学の空気は限りなくイデオロギー化され、秩序だった体制によって頭脳が全面的にコントロールされ、粛清の波は学生たちにも及び、教師に批判的な意見を述べただけで成績を落とされ、学生が批判的思考法を身に付けるのを防ぐためにあらゆる手が尽くされていた

1952年共産党に入党。医師団陰謀事件以後、スターリンの歯止めのきかない反ユダヤ主義の実力行使が始まる

私は、決して反体制派ではなかったが、53年夏故郷近くの地区の検察で法務実習に参加した際、典型的な「指導的地区組織」と衝突、胸の内に反抗心が膨らんでいく

l  ライサとの出会い

寮の学生仲間のダンスパーティで哲学部に所属するライサと出会い、一目惚れして結婚

l  スターリンの死

1953年、早すぎる同志の死を悼む以上に重要なことなどなかったように思えた

ベリヤが逮捕され、個人崇拝とマルクス・レーニン主義との不一致についての記事が掲載され、文化の分野での「雪解け」がはっきりと目に見えるようになった

大学での最後の2年、学内の雰囲気は変わり始めたが、党機関やその他の組織はイデオロギーの手綱を放すつもりはなく、多様な意見が花咲くまではまだほど遠かった

l  学生結婚

1953年、2人だけで結婚、ライサは1つした。重いリウマチに罹ったことがあり手術を受けたが、57年には無事に長女出産

l  プリボリノエへの旅

初めてライサを家族に紹介するが、息子を取られた母は失望を露わにする

l  大学卒業

1955年、卒業論文のテーマは、「地域ソビエトを実例とした国家運営における大衆参加」

大学進学のオファーは、コルホーズ法の専門学科だったが、「コルホーズ法」に対しては極めて非科学的だと考えていたので論外。ソ連検察庁に派遣され、国家保安機関の事件処理を監督する検察の新設部門に配属されることになったが、中央政府機関の業務に法科の大学卒業生を採用することを禁じる秘密決定がなされていて、地方の検察庁のポストしか空いていなかったため、故郷に近いスタブロポリ(北カフカスの中心都市)の検察庁に入る

 

第2章           スタブロポリ――出世街道の始まり

l  スタブロポリに到着して

1955年、地方検察庁での研修が始まる

セントラル・ヒーティングはもちろん、上下水道施設もない町

検察庁職員の無礼さに嫌気がさして、罵られたが、コムソモールの地方委員会と連絡を取り、地区委員会での働き口を探し、宣伝プロパガンダ課の次長職を手に入れる

l  コムソモール(共産党青年団)での仕事の始まり

コムソモールには若い連帯の精神が息づいていて、仕事は熱意によって支えられていた

ほどなくして、党やコムソモールの機関での仕事は、それ自体が腹黒いものであることを悟る。単なる共産党の下請けで、主体的に振舞ったり真実の追求は危険ですらあった

大学での教育を「悪用した」とのかどであからさまな批判を受けることも

l  スターリン個人崇拝の断罪

1956年春、フルシチョフのスターリン批判演説は、我が国に一種の政治的、心理的ショックをもたらす。激震をもたらし、内政と外交の再評価と歴史的事実の分析が始まるが、直後に演説の通知文書が撤回され、守旧勢力が復活

(天声人語)ウクライナ侵攻1年  2023224

 旧ソ連のフルシチョフ第一書記は1956年の党大会で、独裁者スターリンを名指しで批判した。専横ぶりを糾弾する演説に聴衆から声があがった。「その時あなたは何をしていたのですか」フルシチョフがにらんだ。「いま発言したのは誰か。挙手していただきたい」。誰もいない。フルシチョフは言った。「いまのあなたと同じように、私も黙っていた」。川崎浹(とおる)著『ロシアのユーモア』が伝える小話だ自由のない社会では、為政者の言動に沈黙で応じるばかりか、称賛の拍手を送らねば身の危うい時もある。「戦争を始めたのは(西側の)彼らである」。戯言(たわごと)としか思えないプーチン大統領の年次教書演説を、神妙に聴くロシアの人々の映像を見た。その心中には何がよぎったのだろうウクライナ侵攻から今日で1年。ゼレンスキー政権を転覆させるというプーチン氏のもくろみは失敗し、主戦場はウクライナ東部や南部に移った。イジューム、マリウポリといった美しい響きの街の名が、悲しいニュースと共に記憶に刻まれる。そんな1年でもあった進軍エリアを色分けした地図を見るうちに、いつのまにかこの戦争を高みから眺めようとしている自分に気づき、恥じ入ることがある。違う。地図に描かれた小さな点の一つひとつに、多くの命の営みがあるのだ人々が生死のふるいにかけられ、別離の涙が流されている。忘れてはならない。あなたは何をしているのですか――。プーチン氏に抗議の声をあげ続けねば。

l  娘の誕生

19571月、娘誕生。リウマチで子供は無理と通告されていただけに、嬉しかった

託児所に預けて2人で働く。トイレや台所を共用とした集団生活が一般的

l  新たな職務

1958年、全ソ連邦レーニン共産青年同盟(コムソモール)の代表団に選ばれ、大会後は地方委員会の第一書記に就き、62年まで務める

同年、フルシチョフがスタブロポリを訪れた際、初めてよく観察する機会を得て、より地位の低い多くの指導者が彼のスタイルを真似していたが、単なる借りものであり、全体の低い文化レベルと相俟って低俗な色合いを帯びたことは困りものだった

l  22回ソ連共産党大会代議員

初めて党大会に参加。大会には当時の矛盾が明確に反映されていた

スターリンの個人崇拝が完全否定され、各地のスターリン像の撤去が始まるが、代わりに始まったのは行き過ぎたフルシチョフ賛美で、それを満足げに聞く彼に私の不快感は募る

l  党職への移行

1960年、カザフスタンで暴動勃発、戦車が投入された直後、「流刑」のようにして同地の第一書記からスタブロポリの第一書記に来たのがベリャーエフ、1年半後にはクラコフに

私は、党地方委員会事務局員候補に選ばれ、党の職務に専念しオルグになって地方を回る

各部門の管轄にノーメンクラトゥーラ(特権階級)と呼ばれる基幹要員がいて、すべての権力を掌握。クラコフの後任がエフレーモフという党中央委員会事務局第一次長

1966年、スタブロポリ市委員会の第一書記に就任。スタブロポリはロシアの僻地特有の性格を帯びた典型的な田舎で、インフラは貧弱。再建計画が立案されたが、資金調達が問題。大学分校開設に始まり、住宅建設が進んで街区が現れ、都市整備が進む

私は、農業大学の経済学部を終え、ライサは哲学準博士の学位を取得、生活も豊かに

1968年、党地方委員会第二書記に選出、猜疑心の強いエフレーモフとは離反

l  ソ連共産党スタブロポリ地方委員会第一書記

1970年、エフレーモフがモスクワに異動し、党地方委員会第一書記の後任に選出される

初の地元出身者だが、周囲は年上ばかり

国家体制のメカニズムを理解するには、党の共和国中央委員会、州委員会、地方委員会の第一書記が果たす特殊な役割を理解する必要がある。彼らを通してすべての国家社会的構造が1つにまとめられ、ソ連共産党中央委員会の大部分を構成。社会のあらゆる階層から優秀な者をスカウトし、ノーメンクラトゥーラを育成。第一書記の多くが農業の専門家で、各地域で完全に権力を掌握、あらゆる組織を支配下に抑え、連邦管轄下の場合でさえ人事は軍需産業を唯一の例外として、第一書記を経ずして行われることはなかったが、モスクワの後ろ盾ゆえに地位の脆さと矛盾があり、監督機関での評価により簡単にひっくり返る

私の場合も、段階を経て面接が行われ、最後は書記長のブレジネフと面談

当時既に、刷新への理解が薄く革新者を拒否する体制への疑問、反抗的な考えが浮かぶ

1978年、クラコフは党中央委員会書記だったが60歳で急逝、任務の重圧に耐えかねての最後だったが、ブレジネフや政治局のメンバーは同僚の死に対し、休暇中を理由に葬儀参列を拒否、権力の頂点に導かれる運命になった人々が信じられないほどお互いに距離がある関係なのだと理解した

 

第3章           モスクワへの異動

l  さらばスタブロポリ

クラコフの後継者に推薦されてモスクワへ。直前に娘が結婚

l  新しい、不慣れな世界

住居が提供されたが、使用人と護衛将校がいて、「尾行されている」かのような精神的不快感があった。党内のヒエラルヒーの中で地位が変わるたびに住まいも変わり、地位の違いはあらゆるところに根深い俗悪主義の名残が見て取れる

l  ブレジネフ時代

ブレジネフは当初、フルシチョフの失脚による派閥間の妥協の産物とされていたが、権力を志向する者を互いに疑心暗鬼にさせる抜群の能力を発揮して比類なき存在となる

脳梗塞と鎮痛剤多用による無気力にも拘らず、固く守られた側近の従属関係によって危うい均衡が保たれた。私もその末席に座ったが、自らの任務に邁進するほかなかった

l  首都での生活

隣近所にいる中央委員会の同僚とすら行き来することが憚られたし、家族間のパーティーなど論外。横柄さと猜疑心、おべっか、互いの無神経な振る舞いが充満

l  孫の誕生

1980年、同居していた娘夫婦に女児が誕生。娘婿は外科医、娘も医学準博士

l  ブレジネフの死

1982年死去。ブレジネフの18年は、フルシチョフが後年着手した独裁モデルの改革の試みに対する保守的な反動の時代で、新スターリン主義の強硬路線を走り、異端派に対する前例のない闘争を展開、多くの者が迫害に遭い、経済は肥大化と赤字路線で破滅へ向う

巨費を投じて米国との軍事戦略的均衡を成し遂げたが、科学や技術の大きな変革に乗り遅れ、長期的な停滞と深刻な社会危機へと向かう運命にあった

ブレジネフの死で、何よりもまず政治指導部の刷新が必要だった

l  誰が新しい書記長になるのか

3年のうちに3人の書記長(コスイギン、スースロフ、ブレジネフ)が亡くなり、さらに次の3年にも4(ペリシェ、アンドロポフ、ウスチノフ、チェルネンコ)が亡くなる。体制自体が滅び、よどんだ老人特有の血液は既に生命力を失っていた

1979年、ソ連共産党中央委員会政治局員候補となり、翌年政治局員となる

1985年、チェルネンコの死を知らされ、直ちに政治局会議が招集される

l  この先、このままではいけない

指導部に派閥が存在したのは事実だし、私も絶対的な支持がなければ引き受けられない

l  ソ連共産党中央委員会臨時総会(19853)

総会の議長席に着くと、すぐにグロムイコが私を候補に推薦し、他の面々もそれを支持

ゴルバチョフだけは許せないと言っていたチーホノフですら賛意を表明

書記長就任直後の演説では、社会経済的前進の加速化に言及し、科学技術の最先端領域への到達と労働生産性の世界最高水準達成をすべく、経済メカニズムと行政システムを改善し、民主主義の向上と発展、社会意識の形成に関心を強めるとともに、党、ソビエト、国家機関や社会機関の活動でのグラスノスチ(情報公開)の必要性を強調。対外政策では平和と進歩の路線を引き継ぎ、軍拡競争の停止、核兵器庫の凍結、ミサイル展開の停止を提案

l  4月総会

ペレストロイカの歴史の起点は3月だが、その全体像を4月総会で明確にする

もっとも重要なのは、発展を邪魔する全てを取り除くことにあり、「第一読会」で枠組みが作られた新し政策を提案した

l  人事異動

対外政策の激的な改革のために外相グロムイコの交代が必須とみて、彼を最高会議幹部会議長に異動させ、シュワルナゼを指名。グルジア人でもあり、専門家でもなく異例のこと

 

l  エリツィンの政治的出世の始まり

ソ連共産党モスクワ市委員会第一書記(俗にいうモスクワ知事)とモスクワ評議会議長は、いずれも前時代の遺物で、交代が必至だったが、内部に適当な候補者がいないまま、中央委員会の建設部長だったエリツィンに白羽の矢が立つ。第一書記としての演説で見せた熱い批判精神を支持して、政治局の決定に従った

 

4章と第5章は、1987年出版の自著『ペレストロイカと新思考 我が国と全世界のために』に基づいている。米国の発行人から提唱されて実現した本で、64言語160か国で出版、総発行部数500万部。今日明らかなのは、当時の我々が自分たちの引継いだ経済メカニズムの可能性についても、未改革の党が変化の先頭に立つ覚悟や能力についても、社会全体とその最も活動的な部分である知識層の可能性についても、過大評価し過ぎていたことだが、社会主義的な理想と価値観に対する信念がなければ、ペレストロイカは始まらない。こうした価値観や理想を汚したスターリンの全体主義体制から社会主義を切り離すことを目指すのは、我が国を過去の重荷から解放し、民主主義へと向かっていく上で欠かせないステップだった

 

第4章           ペレストロイカ、スピードアップ、グラスノスチ

l  ペレストロイカ――起源、本質、革命的な性格

就任直後にレニングラード市委員会の活動家に面会し、国の社会政治的現実の再建が必要と初めて語ったが、その際我々全員が「自分の考えを変える(ペレストライバッツァ)」ことが必要だと述べたのが起源。必要に迫られたもので、我々の社会主義社会の深い発展プロセスから育まれたもの

70年代後半から、我が国の活動の速度は鈍化、経済運営にトラブルが増加・深刻化するとともに、生産効率や品質、科学技術の発展においても、先進国との格差が拡大

量的拡大を目指した成長の惰性が、経済的な行き詰まりや成長の停滞へと我が国を引きずり込んだ。理念的な価値や道徳的な価値が蝕まれ始めていた

まず取り上げたのが経済状況の健全化――秩序を導入し、規律を強化、組織力や責任感を高め、後れを取った分野を底上げした。次いで経済の抜本的な構造的再建に着手、科学技術進歩の最重要方針に関する大型の複合的プログラムを策定、機械製造の近代化を期す

あらゆる創造性に満ちた多様性のある国民こそが歴史の主人公であり、ペレストロイカの最初の課題とその成功の保証は、人々を目覚めさせ、本当の意味で活動的になって物事に関心を持ってもらい、各人が国の主役であり、自らの企業や機関、大学の主役であると感じるようになるまで導くことにあった。我々の生活のあらゆるプロセスに人を関与させることは、我々が取り組むすべてのことの核心であり、刷新された社会を作りたいと願った

「各人はその能力に応じて、各人にはその労働に応じて」という社会主義の原則を全面的に復活させることを望み、社会的責任や要求のレベルを引き上げた

ペレストロイカ自体、民主主義を通してのみ、民主主義によってのみ可能で、社会主義下での民主主義の発展に重点を置き、精神的な分野、社会の意識、活発な社会政策に注力

1987年、中央委員会総会で「経済運営の根本的再建についての基本原則」が承認

ペレストロイカとは、停滞したプロセスを断固克服し、ブレーキをかけているメカニズムを壊すことであり、社会の社会経済的発展を加速させる希望に満ちた効率的なメカニズムを構築して、社会に大きな躍動感を与えること。大衆による生きた創造が大黒柱となり、民主主義、社会主義的自主管理の全方位的な発展であり、イニシアチブと自主活動の奨励であり、規律と秩序の強化であり、社会のあらゆる生活分野での情報公開、批評や自己批判の拡大であって、個人の価値と尊厳に対して高い敬意を払うもの

l  ペレストロイカの始まり

1985年基本方針策定、翌年の党大会で大きな議論の末に、大規模な行動計画を採択したが、懐疑主義者を中心に浸透は捗らず、翌年の総会で原因を自己批判的に分析

民主主義の発展を最重要理念として推進したが、まだ他人事に受け止められていて、高まりを見せる大衆の積極性と、権力機関や行政機関、党組織の活動の旧態依然とした手法やスタイルとの間にある、危うい齟齬に対し、断固たる措置を取る必要があった

新しい機運が最もはっきりと表れていたのは、幅広いグラスノスチにおいてだった

ペレストロイカ開始にあたり、党中央委員会は、マスメディアの力を最大限に活用

l  西側とペレストロイカ

ペレストロイカが世界の関心の的となり、全世界の発展と国際関係によい影響をもたらすことを待ち望んだ

 

第5章           わが国と全世界のための新思考 

l  新しい政治思考

1970年代のデタントは事実上崩壊していたし、ソ連の外交政策は空回りしていた

軍拡競争の新たな高まりの中で、政治家の手に負えなくなる前に、世界が偶然の支配下に置かれる前に、世界平和を実現するための新しい政治思考を打ち立てる必要がある

l  人間味ある国際関係樹立のために

世界の多様性を認め、幅広い国々との協調を土台にした考え方が基本

核戦争は、政治、経済、イデオロギー、その他いかなる目的を達成する手段にはなり得ないというのが基本原則で、歴史上初めて、国際政治の基礎に全人類的な道徳的、倫理的規範を据えること、国際関係を血の通った人間味あふれるものにすることが強く求められる

安全保障は不可分であり、何よりも必要なのは対話

l  米国との関係改善に向けて

1987年、シュルツ国務長官との対話で、現実の世界で生きることを試みようと提案

l  軍拡競争という深刻な問題に向き合う

米ソ両国の関係を阻害している軍拡競争に歯止めをかけることから手を付ける

l  レーガン大統領との会談――ジュネーブ合意へ

1985年、全面的核実験停止の交渉再開を表明し、米大統領との会談。核戦争は許さない、起こさない、勝者はいない、という共通認識を確認し合う

l  ソ連による核実験の一時停止と米国の反応

1986年、ソ連が核実験の一方的なモラトリアムの期限を延長したが、米国は変わらない

l  チェルノブイリの教訓

1986年の事故は、核の脅威が現実となればどうなるかを見せつけた

l  レイキャビク会談という転換点

漸く米国が我々のイニチアチブを受け入れ、両国の首脳会談実現

戦略攻撃兵器の5年間での廃絶、中距離ミサイルの廃棄、核実験の段階的禁止などで合意したが、米国がSDIに固執したため、両国の歴史的妥協という夢の実現は阻止されたものの、世界史における転換点となり世界情勢を好転させる可能性を示したのは間違いない

l  核なき世界のために――ソ連による具体的な提案

1987年、モスクワで国際フォーラム「核なき世界のために、人類が生き抜くために」開催

西側首脳にも中距離ミサイルに関する協定締結を呼びかけたが、一様に核兵器放棄を拒否

 

第6章           ボリス・エリツィン――何が起きたのか?

l  エリツィン問題

1987年、「エリツィン問題」が始まる――ペレストロイカの民主的な本質に反した行政手法への拘りとポピュリズムが原因。モスクワのトップでありながら政治局員でなかったことが彼の自尊心と虚栄心を傷つけたが、なにより自制心が足りなかった

l  中央委員会総会で混乱を起こす

私と直接話し合う前に総会で、ゴルバチョフへの個人崇拝が始まっていると言い、議長のリガチョフの支持がないために政治局でのポストが得られないと不満を言い、モスクワ市委員会第一書記を降りると言い出した。モスクワ市党委員会と協力して処理するよう決議したが、直後にエリツィンは自殺を図ったように見せかける。エリツィンは私に手紙で引退を申し出たが、中央委員会メンバーとして留める決定がなされ、閣僚級のポストが与えられた。私が彼にとどめを刺さなかったと言って、多くの人が私を非難したが、自分が党に定着させようと努めていた精神を第一に考え、口汚い口論に巻き込まれることはせず

l  良心に従って行動した

権力が欲しくて仕方なかったエリツィンの完全な見誤りで多くの反感を買ったが、民主化路線に踏み出したばかりであり、いきなり党指導部を非難するものを排除することが民主主義とはいえないと思い、良心に従って行動した

エリツィンは、最高指導部に入ってから全く実力を発揮できなかったが、ペレストロイカを進めた結果様々な不満が高まるにつれ、彼の過激でポピュリズム的な能力が求められるようになり、その能力によって時代の波に乗り再び政界に戻ることができた

 

第7章           政治改革

l  特権を失いつつあるノーメンクラトゥーラ

1988年、政治改革を決定。共産党が独占していた権力を、憲法の規定通り本来の持ち主である人々の手に、人民代議員の自由選挙で選ばれたソビエト(議会)に引き渡すこと

人民代議員大会では、全体の1/3に当たる750議席を社会団体代表制に割り当て、うち100議席は中央委員会選出の共産党代表で、後は労働組合、コムソモール、女性団体、芸術家たちの同盟、学者たちの連盟などから選ばれた民主活動家のグループで、将来の政党の萌芽となるべきものが形作られつつあった。サハロフも科学者たちの連盟から選出

l  国民の政治参加とマスメディアの役割

19893月、選挙キャンペーンが進むにつれ、激しい論争が繰り広げられ、これまで知られなかった多くの悲惨なことが表面に噴き出す

代議員の85%は共産党員が占めた(これまで最高会議ではほぼ50)ものの、最高指導部は選挙結果を敗北と受け止め、直後の政治局会議では出席者の多くは意気消沈していたが、私は権力が完全な形で合法性を獲得したこと自体が大きな成果と受け止める

選挙キャンペーンの課程で指導部に向けられた批判は、政府にとって重大な警告

原発事故やアルメニア地震の事後処理のもたつき、アフガニスタンでの無謀な試み、経済政策の失敗から来る市場の悪化などなど、批判は最もと思えるものばかりだった

l  動揺が広がる党指導部

民主主義、市民権、生活の水準と質を保証する効果のある政策によって国民の支持を得なければならず、共産党の改革は可能だと私は信じていた

l  選挙の余波

共産党やノーメンクラトゥーラに対する批判がますます頻繁に聞かれるようになる

地方では特に行政機構や党の機構がブレーキを踏んでいた

中央委員会のメンバーの入れ替えも進み、100人余りが去る

共産党に代わって人民代議員大会が我が国の今後を決める主要な政治フォーラムとなる

これは急旋回であり、真の転換点で、古い権力構造とそれが象徴する物事が少しづつ変化していかなければならない

 

第8章           1回人民代議員大会

l  波乱に満ちた始まり

1989年、クレムリン宮殿で第1回人民代議員大会開催

改革の全般的な目的は、階級独裁の原則と決別し、社会の分断を終わらせることにあり、市民紛争の深く張った根を断ち、社会階層間や人々の間の関係性が政治を通して明確になるような憲法の仕組みを作ること

l  政党の結成

主にモスクワやレニングラードの知識層から出てきた急進的な代議員たちがグループを作り、「メモリアル」が組織化され、自らを地域間代議員グループと名付け、そこから「民主ロシア」が誕生。リーダーはサハロフだが、それ以外はほとんどが共産党員だったので、党中央はモスクワに来た代議員たちを細かく指導し、中央委員会の指令に沿って投票させればよかったが、そうはならなかった

l  最高会議議長に選任される

共産党書記長と最高会議議長の兼任が可能かどうかが最重要議題として提起され、『プラウダ』の副編集長からは私に書記長辞任の提案まであったが、大会は圧倒的多数で私を議長に選出。最高会議の選挙でも新たな議会政治の基礎を作る体制が整う

エリツィンは落選したが、当選した議員が議席の譲渡を申し出て承認された

政治局会議開催は不可能だったが、非公式の集まりでは党独裁の終焉に気落ちしていた

l  新たな課題

経済については、公共財産に関して思い切った刷新と活力ある市場の形成を提案

政治改革については、「権力をソビエトへ」の実現のため代表機関を再構築し、その権利と権限を全面的に拡大し、党機関を無条件で従わせることが必要と述べる

1993年、エリツィンは国中のすべての個々のソビエトを破壊、国民の権力を破壊し、憲法までも議会の権利を極端に制限している

民族関係についてはまだ完全な改革プログラムは用意できていなかったが、全体的な方向性としては、連邦内の共和国や民族共和国の権利を大幅に拡大し、各共和国と連邦との関係を整えること

外交分野においては、新しい政治思考から導き出される原則が確認され、核兵器の廃絶を目指すこと、武力の行使や力による脅しを認めず、対話と交渉に依拠すること

ペレストロイカを前進させるための基礎が固められたはずだったにも拘らずうまく機能しなかった原因は、権力の運営についての新しい機構作りよりも、解体のプロセスの方が先行してしまったから。急進的民主主義派である反対勢力が中央との闘いを展開して、シニカルなポピュリズムと民族主義を煽り立てる手法で、政権の基盤を揺さぶり始めた

 

第9章           ソ連大統領

l  ペレストロイカ第13

1(198588)は、体制の明らかな欠点を正すことを目指した模索と実験、そして失敗の時期であり、共産主義信仰の絶対的規則を敢えて乗り越えることはなかった

2(88春~90)は、民主化への理解を見出すことができた時期で、全面的な改修が不回避であり、革新的手法を効果的にするためにも政治体制の根本的な再建が必要と悟り、記録的短期間で自由選挙を実施、反対勢力誕生の土壌を作り、政治的自由を取り戻した

3(9091)は、社会的、民族的、政治的勢力が自由に凌ぎを削り合った時代

l  大統領のポストを設ける

1989年、最高会議幹部会議長のグロムイコが亡くなり、私が慣例に従い兼務したが、その後憲法改正で幹部会は最高会議となり、代議員大会で私が議長に選出

憲法修正第6条では、諸政党の立ち上げが認められ、全国民からの信任の象徴としての大統領ポストが新設され、90年の臨時人民代議員大会で私が大統領に選出される

l  ペレストロイカで顕在化した問題

ペレストロイカに従って実際に国の経済と政治体制を変えるプロセスが開始されたのは1989年で、すぐに自主性を得た企業の利益競争で市場が過熱、人々の不安を巻き起こす

共産党大会は、ボリシェビズムとの決別と党改革を決議するが、不満も残る

 

第10章        1991年――8月クーデター 

l  前日に

右派のヒステリーが高まり、クーデターの噂は伝えられていた

国民から権限を得ているわけでもないのに国民を代表して統治を続けていた政権党や、新思考に基づく政策の実施や軍縮プロセス、防衛的ドクトリンによって根本的な改革を迫られていた軍では、当然予想された展開で、全体主義へ戻す試みだった

l  反動勢力と民主派勢力の闘争

積もり積もった矛盾の行き着く先として、起こるべくして起こったこと

1年前から対立は先鋭化

7月にはソ連大統領と9共和国の代表が集まって共同声明を発表、連邦条約案には6共和国が署名するはずで、クーデターはそれに対する抵抗

l  フォロス岬での3日間

クーデターが危険なものであったのは、その首謀者たちが大統領の周囲にいた指導部中枢の人々だったからで、個人的に何より辛かったのは裏切られたこと

条約署名の準備がすべて整ったところで休暇に出かけた

いきなり一味の4人が乗り込んできて、非常事態宣言の大統領令を出すよう要求され拒否すると辞任を迫られた

l  クーデター一派の敗北

クーデターの参加者は、西側パートナーとの新たな国家関係についての評価でも深刻な見込み違いをしていた。西側はほぼ一致してクーデター一派にノーを突き付けた

彼らの計画を狂わせたのは、ソ連大統領とロシア指導部の姿勢で、各共和国でも方向転換が始まる。大きな役割を果たしたのはエリツィンの闘いであり、ジャーナリストとマスメディアの大部分が正しい選択をしたこと。多くの軍の司令官も命令を遂行することを拒否

クーデター失敗の直後から、反動として国家解体の大規模なプロセスが始まる。クーデターに対する各共和国の一種の自己防衛として、示威的な行動や独立宣言が次々と続く

l  クーデターの教訓

クーデターは、ペレストロイカが最終的にどこに向かうべきかという点において、基本的な見解の相違を顕在化させた――改めて、民主化とグラスノスチがもたらした変化が不可逆的なものであることを確認させ、新たな生き方に向けて真のブレークスルーが起きた

圧倒的多数の人が自分は市民だと自覚し、市民にとっては自由こそが最上の価値となった

ソ連最高会議が機能せず、ロシアはすぐ最高会議が動いてクーデターに抵抗する上で大きな役割を果たした。ソ連共産党は刷新できると考えていたが、クーデターで頓挫。党指導部には、クーデターに立ち向かって法を守る勇気が足りなかった。失敗発覚の直後、私は党書記長を辞任、党の各組織には今後やるべきことを自ら決めるよう任せ、中央委員会に自主解散を勧告

 

第11章        「私は統一国家のために闘った」

l  連邦は改革された形で必要だった

古い連邦のあり方では国の要請に応えられないことは連邦中央の能力からみて明白であり、地方分権化は必至と考え、新連邦条約を起草

一方で、民主主義が分裂へと変わることを許してはならない

l  連邦条約にチャンスはあった

19919月の人民代議員大会は、主権国家連邦の創設と、条約の修正案作成を決定したが、エリツィンは連邦国家も連合国家さえない案を提案

エリツィンは賭博師であり山師、密かにウクライナ、ベラルーシと3者で国家共同体の設立を画策、ベロベーシ合意が成立していた

同年12月、アルマアタでの共和国指導者たちとの会談で、ベロベーシ合意が追認された

l  クレムリンでの最後の日

同年クリスマスに大統領職の職務停止を宣言、ロシア大統領のエリツィンに戦略核兵器の管理を委譲する命令書に署名。すぐにエリツィンは大統領執務室に入ってきた

l  連邦は維持することができた

ソ連の崩壊は、ペレストロイカが進んだ結果起きたわけではない

我々が敗北したのは、民族問題に取り組むのが遅れたからで、連邦を改革して刷新することは可能であり、かつ必要だった

ソ連崩壊を企てた者たちは、別々になってよりよく生きることを始めようと主張したが、過ぎ去った年月が、これが誤りであったことを証明した

 

第12章        対外政策の総括 

l  軍拡競争を止める――対米関係の改善

1991年クリスマスのテレビ演説で、ペレストロイカ時代における対外活動について総括

「冷戦」は終わり、核ミサイルによる軍拡競争が止められ世界戦争の脅威は除去、他国への介入をやめ、平和と民主主義に基づいた現代文明の再建のための主要な砦の1つになった。諸国民、諸民族は、自己決定の手段を選ぶことのできる本物の自由を得た

l  中国との関係の正常化

1986年、中国との善隣関係を築こうと呼びかけ、鄧小平もこれを歓迎

1989年、アフガニスタンからの撤兵完了直後に北京を訪問、鄧小平は過去に終止符を打って未来を切り拓こうと言い、両国関係の正常化に向けて端緒が開かれた

l  東欧のビロード革命

198991年、東西ドイツ統一とビロード革命によって、最終的にヨーロッパの分断の克服に至る――85年の書記長就任直後からワルシャワ条約機構の加盟諸国の指導者に会おうと決め、クレムリンで会合、対等な関係や主権の尊重などを確認。それは、自国の状況にそれぞれの党が完全な責任を負うことを意味し、「ブレジネフ・ドクトリン」の否定を意味したが、必ずしも理解されてはいなかった

l  東西ドイツの統一

私もコールも統一は21世紀になるとみていたが、ドイツ国民が自ら声を上げたのが聞き入れられた。統一の最大のヒーローは国民

l  NATOの東方拡大禁止」をめぐって

難題は統一ドイツのNATO加盟問題――「24(東西ドイツ+米ソ英仏)方式の交渉と、ブッシュとの2者間交渉を通じ、東西間の軍事・政治同盟の改革を進めることと統一問題の解決とを有機的に結びつける努力が重ねられた

ドイツはNATOメンバーになることを選択し、1990年に署名されたドイツ最終規定条約に反映された――NATOの軍事インフラを旧東独領内に展開しないこと、核兵器その他の大量破壊兵器を配備しないこと、西独の大幅な軍備削減などを盛り込む

今になって、NATOとの間で「NATOの東方拡大禁止」に関する条約に署名すべきだったという批判があるが、ドイツは課せられた義務を全て履行したし、履行し続けている

1988年末の国連総会での演説で世界秩序の新たな原則を提案――国際安全保障は国際法を尊重するという条件での国家間の協力にあり、超大国に求められるのは自制並びに他国への武力行使を行わないことであり、法治国家の世界共同体を理想とする

 

第13章        独立国家共同体(CIS)――「ゴルバチョフなき連合」

ゴルバチョフは各共和国に大幅に権限を委譲する新連邦条約を調印予定だったが、クーデターにより見送り。各共和国でも完全独立論が台頭するようになり、ウクライナ国民投票90%以上の賛成を得て完全独立を決定すると、ソ連の崩壊は決定的となる。その結果を受け、199112ロシアウクライナベラルーシベロヴェーシの森で、ソビエト社会主義共和国連邦の消滅と独立国家共同体(CIS)の創立を宣言(ベローシ合意)、グルジアを除く8か国も参加してアルマトイ宣言に合意

l  葬り去られた連邦

ペレストロイカが始まった段階で挫折したのは辛いこと

クーデターに続く分離主義者と協力した急進派らによる暴走という2度の打撃により連邦は崩壊し、ロシア指導部は解体後の空間の支配を狙って、ソ連に取って代わろうとした

西側世界特に米国は「冷戦の勝利」による多幸感で満たされた。勝利者意識は悪しき助言者

l  「ショック療法」

エリツィンは経済のショック療法に突き進む――1つの経済的有機体だったソ連が崩壊した結果、物価が急騰、買い占めによる商品の払底により急速に状況は悪化し、その回復には15年もの期間がかかるほどの混乱状態に陥る

l  大統領の保証はなく

辞任した大統領がモスクワ政府住宅政策委員会から得た住まいは、全体の友好面積140㎡、うち居住面積65.1㎡だけ

国際社会経済・政治研究基金という財団を同志と共に創設し、今後の活動の拠点としたが、いかなる「大統領の保証」も期待せず、国の支援も受けていない

l  仕事での救い

財団の仕事は、多くの支援者に支えられ順調に軌道に乗る

ソ連共産党資金の浪費などの中傷で非難が起こったが、検事総長による調査で無実が証明

l  「ソ連共産党訴訟事件」

エリツィン政権の強引な改革路線の軋みが沸点に達したのが1992年の人民代議員大会で、ソ連とロシアの共産党解散を命じるエリツィンの大統領令の合法性をめぐって、党専従者らが憲法裁判所に提訴、人民代議員大会の憲法委員会は共産党自体の合法性について審理を求め、裁判所は両者を一本化して「共産党訴訟事件」となったが、両者の意図は「ゴルバチョフに対する裁判」にあり、政治闘争における清算や圧力の道具として司法を濫用

l  「ショック療法」の最初の結果

「ショック療法」と、旧ソ連共和国間の経済的繋がりの切断によって、経済は危機的な状況

年間で物価は26倍に跳ね上がる中、大統領は議会に無断で国有財産の民営化を進める

l  クーデターから1

クーデター1周年を期して意見を求められ、連邦崩壊に加わった人々の中にロシア政権も含め、主権国家連合条約締結の可能性を摘み取ったことを非難

l  19931034日、流血の惨事

大統領と最高会議との激しい対立が招いた権力の危機は続き、9月にはエリツィンが人民代議員大会と最高会議の権限停止の大統領令に署名、新たな立法機関となる連邦議会の選挙まで議会の開催中止を憲法裁判所に勧告。憲法裁判所はエリツィンの行為を憲法違反と断定、最高会議もエリツィンによって国家クーデターが行われたと宣言

私は、憲法に則って大統領選挙と議会選挙の繰り上げ実施を呼びかけ、総主教も立上がる

モスクワでデモ隊が市庁舎を占拠、非常事態体制が取られ、銃撃戦へと発展

l  非常事態体制――それは安定への道ではない

非常事態体制導入の際、エリツィンは、「これが安定をもたらし、民主化への道を切り拓き、改革を遂行しやすくする」と約束したが、すべては逆方向に進んだのは明らか

12月ロシア連邦「国家院」の選挙では、親政府の党で以降次々と交代していく「政権与党」の最初の党「ロシアの選択」は、過激なスローガンを掲げた反政府の「自由民主党」に敗退

l  エリツィン憲法の不備

選挙と同時に、ロシア連邦の新憲法についての国民投票も行われ、エリツィン憲法が誕生

大統領の個人的な権力を正当化するもので、やりたい放題で、あらゆる欠陥を抱え込む

l  騒然とした1994

経済政策の失敗が指摘される中、改善の兆しは見えず

l  チェチェン――戦争を避けるチャンスはあった

この戦争の前史は、思慮の足りない決定と無責任な冒険主義の連鎖そのもの

スターリンの強制移住による辛い記憶の残るチェチェン・イングーシ民族が主権と独立を掲げドゥダーエフ将軍を大統領に推し立てたのに対し、エリツィンは武力での鎮圧を期してロシア軍を動員したが、対立は激化、ロシアは敗北を認めざるを得なくなる

l  1996年の大統領選挙

1996年の大統領選でエリツィンは2期目を目指したが、第1回投票では過半数に届かず(35.28)、市場唯一の2回目(決選投票)の結果、漸く大金とメディア支配により当選

私も参加したが、7番目、悪質な選挙妨害や投票の改竄が横行

l  1998年の危機

極めて厳しい経済・財政状況は続き、エリツィンは首相の首をすげ替えて切り抜けようとしたが失敗。国債のリスケとルーブルの変動相場制移行に追い込まれ、下院はエリツィンに権限行使の期限前停止を勧告する決議を採択

l  「プーチン時代」の始まり

1999年、エリツィンはプーチンを首相代行に任命し、自らは身を引くと漸く決断し、さらにプーチンを大統領代行に指名

チェチェンの隣の共和国に騒動が燃え広がり、プーチンは新首相としてチェチェンでどう行動するかが問われる事態に

プーチンは『千年紀の境目のロシア』という論文を新聞に発表。強い国家の再建なしにロシアの問題は解決できないとし、我々がなすべきことはロシア国家を国内の経済的並びに社会的勢力の利益バランスを図る効率的な調整役にすることだとするとともに、「国家は必要な程度だけそこにある、自由は必要な程度だけそこにある」という社会民主党の綱領に盛り込まれていた原則を打ち出した。私はそれを見て、国や人々のためを思う痛みのようなものを感じ取った。警戒心を抱かせるその性格やスタイルといった特徴にも注意を向けたが、この困難を乗り切るにはある程度の権威主義は恐れるべきではないとも考えた

 

第14章        新生ロシア 

l  ウラジーミル・プーチン大統領の第1期と第2

1(2000)では、原油価格の急上昇もあって、経済危機から脱出に成功

2(04)では、貧富の格差が拡大、経済は独占化され、教育、医療、学術分野でも大きな不安が生じ、「腕力の統治」に綻びが出始める

2000年の大統領選挙後すぐにマスメディアへの弾圧が強まる――私もNTV(テレビ局)からの要請で同局の社会評議会を率いることに同意、2021年ノーベル平和賞を受賞することになるムラトフもいたが、会長が逮捕され、税務調査が来る

l  ユーコス事件

2003年、石油会社ユーコスは、ペレストロイカの時期にビジネスを始め、業界のリーダーになった富豪だが、彼らオリガルヒの一団はエリツィンが96年の大統領選挙で再選された際大きな貸しを作り、大統領は国有財産の一部を二束三文で彼らに分配、以降も政権との癒着は進んでいたが、ユーコスの代表だったホドルコフスキーが脱税で逮捕される

l  すべては政治に突き当たる

プーチンの第2期は、オイルマネーで国民の被害が大分回復され、早々に第1回投票で再選され、新たな貪欲な一派やグループが「統一ロシア」という政党を形成

l  「後継者」作戦

2008年の大統領選では、憲法の規定によってプーチンは立候補できず、メドベージェフを推薦――70%を超える高い投票率を記録したが、真に民主主義に則った選挙とは言い難く、また、経済を回復させたとして人気の高かったプーチンが首相に収まる

l  金融経済危機

2008年、リーマン・ブラザーズの破綻に起因する世界的な金融経済危機

当初は、影響は軽微と思われていたが、確実に景気後退が始まっていた

l  新たな停滞?

人々の不安が高まり、国家は衰退し、社会はモラルを失っているのに、ロシア政権には、政治的な意志も現実的な解決法を模索する気構えも足りない

l  「キャスリング(たすき掛け人事)

2011年の「統一ロシア」の党大会で、プーチンが大統領に立候補し、メドベージェフが首相になるたすき掛け人事が発表され、スターリンやブレジネフ時代を彷彿とさせた

同年末の下院選挙が実施され、「統一ロシア」が勝利するが、なりふり構わぬ不正選挙で、モスクワでは大規模な平和的な抗議行動が現れる

自由な選挙とは程遠い状況では政権が民主的な手続きや制度に立脚しているとは言えない

選挙前に大統領任期が6年に延長されていた

l  「ねじを締め上げる」路線へ

プーチンの垂直的な統治が復活

依然として我々には、大規模で長期的な政治的プロジェクトの実現に向けた組織づくりの能力が不足している。他方、自らの周りを新たなノーメンクラトゥーラで固めている政権側には、既存の秩序を長く維持するための自身の計画がある

大統領就任式当日、モスクワの街頭では平和裏に集まった民衆に対し、治安部隊が投入され、多くの刑事事件が仕組まれた。新たな集会法に大統領が署名し集会の自由が奪われた

2012年末までには、社会を国に従わせ、市民の活動を制限するというロシアの政権の方針が最終的に決定づけられた

l  権力と社会との対話が必要だ

政治はますます、民主主義の模造品へと姿を変えている。すべての権力が大統領に集中し、議会も司法も自律性を喪失。経済は独占的で、企業のイニシアチブは制限された

l  この先には何がある?

政治においても経済においても、現行の統治モデルが機能していないのは明らかだが、それに代わるアイディアがないし、新たな人材の参入もない

l  ウクライナ危機

危機の原因は、ウクライナによる欧州連合との協力協定への署名問題で、EUはロシアと協力する機会すら拒み、3者で話し合うことを一切拒否。ウクライナのヤヌコビッチ大統領も最後はEUとの協定書に署名しないと決断したが、ウクライナの人々の不満と抗議を呼び、次第に急進派が主導権を握る

私は、プーチンとオバマに書簡を送り、交渉のイニシアチブをとるよう呼びかけたが、徒労に終わる。西側は全てはロシアに非があると主張するが、根本的な原因はペレストロイカの挫折とソ連解体にあり、ウクライナ指導部がソ連の改革プロセスをサボタージュしたことにある。ウクライナ紛争の解決の糸口は、ミンスク合意(2014年両国政府、同国内の親ロシア派との間の合意)の履行しかない

国際関係における信頼という概念そのものを支持したい。双方が互いに尊重し、互いの利益を考慮するときに生まれるもの。西側が冷戦における自らの勝利を表明した時に信頼は損なわれ、それがここ数年起きた出来事の原因の1つとなった

「クリミア問題」は、西側と協議しなければならない問題ではない。かつて民の意見を聞くことなくソ連の法律に基づいてウクライナに併合されたことに対し、今回は民自身がその誤りを正すことを決めたもので、歓迎すべきもの。常に民の自由な意思表示を支持したい

l  ロシアと西側諸国の関係

1980年代後半、米ソは共同歩調を取り、双方ともそれによってどちらの安全保障も損なわれることはなかったと認めたにも拘らず、ソ連崩壊後にロシアの弱体化に付け込んで、我こそ冷戦の勝利者だと宣伝。交際関係における平等の原則は忘れ去られた

米ソ関係の正常化は可能。歩み寄って包括的な関係を正さない限り、行き詰まりを打開するのは困難。あらゆる分野で「目録づくり」が必要。互いを尊重し、対話を重ねること

20177月、プーチンとトランプの初会談が行われた。会談の実現は歓迎すべきことだが、米国の新政権誕生から半年もかかったのは残念

リーダーたちによる働きかけが必要で、相互協力のメカニズムを整えなければならない

西側のリーダーたちに助言をしたい――ロシアに対しては敬意を払うに値する国として真摯に対応しなければならない。これは最低限必要なこと

l  グローバル世界の不安

グローバルな世界は、新たな行動ルール、別のモラルを求めているが、世界のリーダーたちはそこまで手が届いていない。そのことに今日のグローバルな混乱の一番の原因がある

l  世界は戦争を準備しているのか?

1980年代後半、米ソは核兵器の削減と核リスクの低減というプロセスに着手し、核兵器の80%以上が廃棄された。双方の安全保障を損なうことなく行われたばかりでなく、世界中が安心して息ができるようになった。これが可能になったのは、核戦争は許されないという核超大国のリーダーたちの認識があったから

 

第15章        私の社会民主主義的選択 

l  ロシア社会に必要な理念

ロシアには強力な社会民主主義政党が欠けている。社会民主主義の理念とその具現化が必要

l  古き友ズデネク・ムリナーシ(193097)

モスクワ国立大学時代で一緒に学んだ友で、チェコの政治家でプラハの春の指導者

社会主義とは、世界観で、現在の世界では社会主義的な価値がなければ政治を打ち立てることはできないと確信する。不平等は最も深刻なグローバルな問題であり、世界中の政治家はこのことに対応しないわけにはいかない

l  ロシア統一社会民主党ROSDPの設立

スターリン主義が批判されて徐々に共産主義者と社会民主主義者が接近し始めた

ペレストロイカの挫折と「ショック療法」によって社会の分断が激化した状況下、社会発展戦略において別の選択肢を提案できる政党が必要で、その課題を担ったのが社会民主主義者らのばらばらだった組織を1つにまとめたROSDP2000年に私が率いた

l  ロシア社会民主党SDPRが目指したもの

社会民主主義政党が1つになって2001SDPRが誕生

 

第16章        記念の時間

l  80歳を迎えて

80歳を迎え、メドベージェフは大統領任期終了直前に、ロシアの最高勲章である聖アンドレイ勲章を授与してきた

l  娘からの感動的なメッセージ

l  それでも闘い、生きる

 

第17章        家族――ライサ 

l  すべてを分かち合っていた

19997月、白血病が判明、2か月後逝去

l  娘や孫たちに囲まれて

1人娘(1957年生、78年結婚)2人の孫娘(80年生と87年生)2人のひ孫(女児08年生と男児17年生?)

 

附録 ゴルバチョフ論考「ペレストロイカを理解し、新思考を貫く」(20218月発表)

ペレストロイカという名の変化が始まってから35年以上が経過

何を意味し、我が国や世界に何をもたらしたのか、常に考え答えを探している

遠い過去の話ではなく、ペレストロイカの経験と教訓は今日も生きているし、ロシアにとってだけのものではない

ペレストロイカは、様々な段階を経て、模索や見当違い、失敗や成果を重ねながら進んだ

最初から1つの主題があった。ペレストロイカは国民に向けられたもので、その目的は人々を解放し、誰もが自分たちの運命や国に主体的に関われる存在とすること

l  新思考

ペレストロイカは、国内的な理由とともに、外的要因によってももたらされた

急速に高まる核戦争の脅威に直面した世界情勢に対する不安の解決策として、正常で人間的で健全な思考に則って考え、行動しようと試みることを意味した

l  権力の枠組み

ソ連での急激な改革は、党指導部によって上からのみ可能だった

改革初期には、現存体制の改善だけを目指し、その体制の枠内でのみ進めることが可能だった。現存する権力の枠組みを一刀両断することは不可能

市民自身を刷新のプロセスに引き込まなければ、党と権力の分離を進めなければ、ペレストロイカの政策は行き詰まるのは明らかで、そのための政治改革が必要

l  グラスノスチのニュアンス

国民を変化へと引き付ける最も重要な梃子になったのがグラスノスチ

古くからあるロシアの言葉「グラスノスチ」には多くの意味が込められている。社会の開放、言論の自由、政権による人民への説明責任でもある。ソ連指導部にとっては、国民に真実を伝えることであり、人々の知る権利でもある

l  価格に手を出すな

経済改革では、モノとお金の供給量の間に生じたギャップを埋めるために価格改革に着手したが、ポピュリストの掲げた「価格に手を出すな」という標語に国民が踊らされた

l  いくつもの世界からなる世界

ペレストロイカには、民族政策や連邦関係の分野でも厄介な遺産がもたらされた

民族が混在する国を維持し、刷新していくことは、極めて困難な課題

共存と共創の経験が生かされなかったのは、スターリン時代の抑圧的な中央集権体制に代わる対話と自主管理が機能しなかったことにある

ナゴルノ・カラバフでもグルジアでも武力が行使され、流血の惨事に発展

l  ジュネーブ、レイキャビク、そして核の世界

我々のパートナーとの交渉に当たっては、関係省庁の代表らが参加する重層的な相互協力の中で練り上げられ、多くの論争を経て政治局で審議され、統一されたスタンスに至り、それを交渉の場で守り抜いた

l  社会を目覚めさせる

1989年党大会で基本決定がなされた政治改革の考え方は、権力を独占している政党から、人民によって選ばれた組織体へ権力を移譲することにあり、官僚組織の敵意が想定されるなか、代議員の2/3は空前絶後となった自由選挙で選ばれ、国民の政治参加への道を切り拓いた。その結果民主主義や自由、グラスノスチの試練に党が耐えられないことが判明

l  統一ドイツとロシア国民の寛大さ

反ペレストロイカ的な動きが表面化し、党指導部の分派化が露呈されるなか、分裂にまでは至らなかった。国際政治に大変革が起き、冷戦の終結とドイツ統一のなかで、我々の対外政策に統一性を保つことができたのは何より重要。こうした過程の原動力になったのは、我が国で起こっていた変革であり、それぞれの国の自主性を尊重する不介入の原則で、選択の自由についての我々の約束が間違いないものだったことを証明したのがドイツ統一

私が何より頼りにしたのは、我が国民の意志と寛大さ。ロシア人はドイツ人の悲願に理解を示しそれに応じた。ドイツもまた統一プロセスの中で課された義務を遂行

l  イラク―クウェートと米国の関係

1990年の中東危機では、新思考と冷戦後の新たな国際関係に試練が突き付けられた

ソ連とイラクの間には友好協力条約があり、多数のソ連国民がイラクにいたが、イラクの侵略を非難し、クウェートの主権回復のために共同歩調をとることに賛成

l  連邦のための闘い

民族関係や連邦関係の問題と経済の問題とは密接に絡み合い、その解決のためにはこれらの関係の近代化と急進的な経済改革を断固として進めるしか方法はなかった

連邦の維持と改革は、武力行使や流血の事態なしに、政治的手法で解決できると確信していたが、91年にはリトアニアで軍が大統領令もなしに勝手に動いて市民に犠牲者を出し、バルト3国離脱阻止への努力が水泡に帰した

3月の国民投票では、7割以上が連邦維持に賛成しており、その結果を踏まえて9共和国が連邦条約案起草に合意

l  「時の要請との相違」

90年、9共和国の合意を踏まえてG7首脳会議の後西側の代表と面談した際、経済危機の克服や経済改革は自ら進めるが、それに対する西側からの呼応措置の必要性を説いたが、西側代表者はソ連の改革の速度は不十分で、呼応措置は限定的だと突き放した

首相を辞任したばかりのサッチャーは個別の会談で、達成された合意内容は時の要請に応えていないといった。政治的、軍事的分野に続いて、世界経済にソ連を統合するための障碍を除去する取り組みが始まったのは大きな前進だったが、十分とはいえなかった

l  それはもはやゴルバチョフではないだろう

ペレストロイカにとって致命的となったのは、クーデターとベロべーシ密約(合意)

クーデターによって連邦大統領の立場は弱まり、各共和国が次々と独立を宣言

エリツィンは、表向き連邦の成立を確信すると言いながら、クレムリンに君臨したいとの抑えがたい願望から、連邦を犠牲にした

権力を維持するために武力を行使するなら、それはもはやゴルバチョフではない

l  ペレストロイカの価値

ソ連崩壊でペレストロイカは中断したが、何世紀にもわたるロシアの歴史の中で転換点になったという意義や、全世界にもたらしたポジティブな結果に照らして評価されるべき

変化のプロセスを後戻りできない地点まで導いたのは具体的成果

l  歴史の試練

退任後も、ペレストロイカを理解し、新思考を貫くという信念に従って行動してきた

世界の現状は不穏なものと認めざるを得ず、その原因は複雑に入り組んでいるが、自らを冷戦の勝者と宣言し、世界政治における「特権」を自ら手にした人たちの責任について言及せずにはいられない

米大統領選で勝利のスローガンが聞こえてくるようになった時、その後の世界の流れを決定づける亀裂と転機が起こった。ここに新しい国際政治の土台をぐらつかせた誤りや失敗の根がある

新思考の重要な原則の1つは、政治とモラルを結びつける志向であり、反核・非軍事

l  時代の絆

過去と現在の対話が途切れないよう時代の絆を保ちたい

過去について真実を知り、将来への教訓を引き出すことは、移り行く世界の中で誰もが必要とすること

 

訳者あとがき

20222月のロシアによるウクライナ侵攻は決して許されるものではなく、ゴルバチョフも黙ってはいなかった。一刻も早い停戦と和平交渉開始を呼びかける。「相互の尊重」と「双方の利益」という新思考の理念が込められている

開戦直後のゴルバチョフの91歳の誕生日に当たり、ウクライナ危機をどう見るか記事にしたところ130万回というアクセス数に達した

ゴルバチョフは、危機の原因を2013年のEUとウクライナの連合協定署名問題にあるとし、その後は2014/15年のミンスク合意こそ解決策だと言っているが、今回ロシアはその合意を破棄して軍事侵攻に踏み切った。「ウクライナ国民にとって利益となるのは、民主的でブロックには属さないウクライナと確信している。そのような地位は国際的な保証と共に憲法で裏付けられなければならない」とも述べるが、氏が強調するのは国際関係における信頼の概念

ゴルバチョフは、2017年に本書の原書となる自叙伝『オプチミストのままで』(邦訳タイトル『我が人生―ミハイル・ゴルバチョフ自伝』)を出した翌18年、米ソの核軍縮交渉や冷戦終結、ドイツ統一を世界のリーダーたちとどう導いたのかを記した回想録『ミハイル・ゴルバチョフ 変わりゆく世界の中で』を出版

なぜ今回のロシアのウクライナ軍事侵攻が防げなかったのか。目をそらしてはならないのは、「冷戦の勝者」を自任する西側が冷戦終結後の対ロシア戦略を誤り、東西をカバーする安全保障の国際管理に失敗したという現実

東西冷戦終結後も、なぜ西側軍事ブロックのNATOだけが残ったのか、統一ドイツのNATO加盟は、「東西の共同作業」だったはずなのに、なぜ米国は「冷戦の勝者」として一極支配を進め、国際秩序を主導するのか。ロシアから見れば、NATOEUもロシアを排除する「壁」にしか見えない

 

 

解説 佐藤 優(作家、元外務省主任分析官)

キリストは「予言者は、自分の故郷では歓迎されないものだ」といった

現在のロシアには「混乱の90年代」という言葉がある。ゴルバチョフの末期とエリツィン時代にロシア国家は最も弱体化し、社会が混乱し、国民は苦しい生活を強いられたという歴史認識

プーチンに対する肯定的な評価――①エリツィンが引き起こしたチェチェン騒動を力で収集したことを評価したように、必要な武力行使は認めている点で、絶対平和主義者ではない、②国家再建に明確な哲学を持っていたところに思想的にも強い共感を示す

2012年大統領復帰後のプーチンに対しては批判的な視点を持つ

ゴルバチョフは、民主主義を普遍的概念と考え、ロシア特有の「管理された民主主義」とか「主権民主主義」というプーチンの発想に異質なものを感じている

1968年、ソ連軍を中心とするワルシャワ条約5か国軍がチェコに侵攻した際、ソ連は「社会主義共同体の利益が既存される場合、個別国家の主権が制限されることがある」という「制限主権論」(ブレジネフ・ドクトリン)で侵攻を正当化した。現在のロシアは社会主義国ではない。プーチンの発想は地政学に基づいている。いわば「ロシアの地政学的利益が大きく毀損される場合、個別国家の主権が制限されることがある」という新種の制限主権論で、「ネオ・ブレジネフ・ドクトリン」とも呼べるが、国連憲章に抵触する考え方

今回の侵攻の大きな動因は、将来起こり得べきウクライナのNATO加盟を実力で阻止すること。NATOの東方拡大という問題はワルシャワ条約機構が存在している間は存在しなかったので、当然不拡大の合意もないが、東方拡大は東西ドイツ統一の精神に違反するのでゴルバチョフは厳しく批判する

 

 

 

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内容説明

東西冷戦終結から30余年。20222月、ロシアによるウクライナ軍事侵攻により現代史は新たな段階に入った。プーチン大統領がたびたび引き合いに出す、冷戦終結時NATOが東へ拡大することはないという約束についてしばしば議論となっているが、本書はまさに東西冷戦終結の「当事者」であるゴルバチョフが当時の息詰まる交渉プロセスを振り返る。加えてペレストロイカの意義、ソ連崩壊について、ウクライナ問題、プーチン・ロシアへの評価など、「何も隠し立てせず、私の信念に基づいて正しく行われたことについて、そして我々の失敗についても、率直に語った」作品である。本書のもう一つの読みどころは、旧ソ連時代の幼少時のエピソード、貧しかった戦中・戦後の話、村の学校を出たのちに入学したモスクワ大学での青春時代、最愛の妻ライサ夫人との出会いと、病気で彼女を失ってからの日々など、政治家としてのゴルバチョフだけでなく、一人の人間としての素顔が端々からうかがえることだ。同様に、ゴルバチョフの生涯はソ連・ロシアの現代史そのもので、第二次世界大戦を経てロシアがたどってきた困難な道のりや当時のロシアの人々の暮らし、社会状況を知る上でも絶好の作品である。核戦争の脅威から世界を救うという平和への強い思いでもって冷戦終結を成し遂げ、その後も国内外で積極的に平和へのメッセージを発信し続けているゴルバチョフ。その言葉は、国際秩序が崩壊し第三次世界大戦勃発の危機について語られる今こそとりわけ大きな意味を持つ。附録に最新論考「ペレストロイカを理解し、新思考を貫く」を掲載。佐藤優氏解説。

 

 

『我が人生 ミハイル・ゴルバチョフ自伝 (原題)Остаюсь оптимистом』ミハイル・ゴルバチョフ著(東京堂出版) 3960円

2022/09/23 05:20 讀賣

国分良成(国際政治学者・前防衛大学校長)

 

初代大統領 離れ業の背景

評・国分良成(国際政治学者・前防衛大学校長)

Михаил Горбачёв1931~2022年。1985年、旧ソ連共産党中央委員会書記長、90年旧ソ連初代大統領。

 本年830日、旧ソ連の最高指導者ゴルバチョフが91年の生涯を閉じた。本書の翻訳出版はこれに重なった。

 米ソ冷戦の 終焉 からすでに33年、いうまでもなく、彼はそれを演出した主役である。ロシアでの彼の評価は賛否両論だが、西側世界の評価は圧倒的に高い。本書はソ連からロシアへの移行に関する貴重な歴史証言に満ちている。自伝特有の自己正当化は見られるが、向けられた批判にも 真摯に対応している。

 ソ連権力の頂点を極めた共産党書記長がなぜペレストロイカ(立て直し)やグラスノスチ(情報公開)を掲げて一党独裁を排し、党権力を国家に委譲して自らが初代大統領になるという離れ業を演じたのか。出世階段を上り詰める過程で経験した党内の腐りきった組織と人間関係、父方母方それぞれの祖父がスターリニズムに翻弄される悲惨な体験をした記憶、モスクワ大学で出会ったライサ夫人という最高の「同志」との信頼関係、そうしたものが背景として浮かび上がる。

 過去の指導者の描写も面白い。スターリンを批判したものの自身も個人独裁的に振る舞ったフルシチョフ、猜疑心が強く忠実でない人間を排除したブレジネフ、面従腹背が得意で、新憲法によって大統領権限を強化し独裁化したエリツィン等々。ロシアの復権を図るプーチンについては期待感を示しつつも、その権威主義傾向に一定の懸念を示している。

 自伝は2017年までの記述で終わっているが、実母とライサ夫人がウクライナ人だということもあってか、ウクライナ問題への言及も多い。彼は根本的な原因がソ連解体を許したエリツィンら当時のロシア指導部にあると言うが、それは民主化の必然の帰結ではなかったのか。

 本書を通読すると、一人の不世出の政治指導者の世界に浸ることができる。民主主義を基本理念に、固い信念と行動力によって他者と対話し、自らへの批判に向き合い、最後は権力にしがみつかず、家庭を大事にする。本書は現代史研究者の必読書だが、リーダー論としても有用である。副島英樹訳。

 

 

【戦争と平和】 軍事・非軍事で見る近現代史 保阪正康

 日本近現代史を私は実証的に検証してきたが、近代史は「軍事」、現代史は「非軍事」と見るのが妥当だと思う。戦争と平和というほど現代史は平和たり得ていないからだ。朝鮮戦争、ベトナム戦争の時代、日本とて平和な状態とは言えなかった。

 日本の近代史は、ほぼ10年おきに戦争を続けてきた。そのため戦争に便利な制度、思想、教育、社会構造を維持してきた。敗戦から現在までの現代史は、その解体、調整を試み、非軍事の制度、思想、教育などを持てるかどうかの歴史でもあった。

ファシズムとは

 その近代史の軍事を分析したのが丸山眞男の『現代政治の思想と行動』である。戦後政治学は、ある時期まで丸山による日本の超国家主義、ファシズムの分析が中心になっていた。丸山自身、軍に召集されたため体験と研究とが一体化し、正確な分析がなされた。日本のファシズムを3期に分け、その特異性を指摘している。家族主義、農本主義、大亜細亜主義などの特質があると述べ、担い手は国民の中間層であったと説く。そして膨大な「無責任の体系」はそのまま軍事に援用されていったのである。軍事の時代の枠組みが非軍事の時代にも存置されていないか、検証を怠ってはならない。丸山政治学が社会を撃つ目は、アカデミズムを離れ、庶民にとっても、重きをなすべきものだと私は考えている。

 国際社会においては、軍事と非軍事という対義語は存在しにくい。ただし、ファシズムとの闘いに、どれほどの覚悟と使命感が必要だったかは記憶しておくべきだろう。マデレーン・オルブライトの『ファシズム』を挙げておこう。米国初の女性国務長官として、クリントン大統領の2期目を支えた。プラハのユダヤ人家庭に生を受けた彼女は、ナチスに人生を大きく変えられた。英国に逃れ、戦後母国に戻るが、共産主義化に伴い米国に亡命した。この書には、スターリニズムを含めファシズムとの闘いが自分の人生だという覚悟と、米国には果たす役割があるという信念が溢れている。

 各国の指導者に関する記述もこの書の特質だ。ロシア大統領プーチンの性格を実によく見ている。「真顔で見えすいた噓をつき、みずから侵略の罪を犯したときにも、被害者の側に責任があると言い張る」。ウクライナ侵攻前に書かれた書だが、非軍事の世界には不必要なタイプと言いたいのではないだろうか。

 元ソ連大統領ゴルバチョフは、プーチンが作り出したあまりにも理不尽な軍事の世界にどんな考えを持っているか。夫人と本人の母親はウクライナ人だという。今、彼の書『我が人生 ミハイル・ゴルバチョフ自伝』(副島英樹訳、東京堂出版・3960円)も注目されるべきであろう。

=朝日新聞2022813日掲載

 

 

 

「畜生!」繰り返したゴルバチョフ氏 許せなかったトランプ氏の決断

編集委員・副島英樹2022831 1200分 朝日

 今年32日の91歳の誕生日は、ロシアのウクライナ侵攻のもとで迎えた。

 東西冷戦の終結から三十余年を経て、ウクライナ危機が戦争へと至ったことで、高齢の体は心身とも深い打撃を受けたに違いない。

 「私の母はウクライナ人だった。妻のライサもウクライナ人だった。これはプロパガンダとして扱ってはならない問題だ。ロシアとウクライナの間に敵意をあおり、両国の関係を悪化させることに関心を持ち、それを必要とする者がいる」

 2017年にロシアで刊行した自叙伝「ミハイル・ゴルバチョフ オプチミストのままで」(日本語版は「我が人生 ミハイル・ゴルバチョフ自伝」)にはそう書いていた。

 今回の事態でウクライナの親類とも連絡が十分取れず、気力が心配だと関係者から聞いていた。それでもプーチン大統領が「特別軍事作戦」を宣言した2日後の226日、ゴルバチョフ氏が総裁を務めるゴルバチョフ財団(モスクワ)は、一刻も早い戦闘停止と和平交渉開始を呼びかける声明を出した。

 「世界には人間の命より大切なものはなく、あるはずもない。相互の尊重と、双方の利益の考慮に基づいた交渉と対話のみが、最も深刻な対立や問題を解決できる唯一の方法だ」

西側諸国とロシア国内、分かれる評価

 ゴルバチョフ氏は約30年前、新思考外交で初の核軍縮と米ソ冷戦の終結に導き、1990年にノーベル平和賞を受賞している。対立ではなく協調を模索し、人類共通の利益を優先するゴルバチョフ氏の「新思考」の理念が、この声明に込められている気がした。

 ゴルバチョフ氏の評価には常に二面性が伴う。共産党が支配する全体主義国家・ソ連でペレストロイカという民主化政策を進め、西側諸国を熱狂させた。その一方で、ソ連崩壊を招いた頼りがいのない人物だとして国内での人気は低かった。

 それでも、彼の残した人類への功績は大きい。

 85年、レーガン米大統領と「核戦争に勝者はなく、決してその戦いはしてはならない」と合意して初の核兵器削減を実現し、それを冷戦終結につなげ、ドイツ国民の統一の悲願をかなえ、統一ドイツの北大西洋条約機構NATO)加盟まで認めた。

 その出発点は、これだけ大量の核兵器を抱えた世界で人類が生き延びるには、戦争の芽を摘み、核兵器は全廃すべきだという思想だった。

 共産党書記長時代の1986年に起きたチェルノブイリ原発事故も、「たった1基の原発が爆発しただけでこれほどの核被害が出る。まして戦時下で核兵器が使われたら」と考えさせる機会となり、彼の背中を後押しすることになる。

 核大国の現職大統領として被爆地(長崎)を訪れ、被爆者と直接握手したのはゴルバチョフ氏が初めてだった。米ソの核軍縮条約締結に反対する核抑止論者のサッチャー英首相と激論を交わし、「あなたは火薬の樽(たる)、すなわち核の上に座って有頂天になっている」「核兵器はいつか火を噴く」と主張した。

冷戦終結30年で実現したインタビュー

 マルタでの冷戦終結宣言からちょうど30年の2019123日、モスクワの財団でゴルバチョフ氏へのインタビューが実現した。歩行器を押しながら現れ、その歩行器に「マリヤ」と母親の名前を付けていると言って愛嬌(あいきょう)も見せた。

 その年の8月、初の核軍縮と冷戦終結の起点となった米ロの中距離核戦力(INF)条約が、トランプ米政権の意向で失効した。条約の生みの親であるゴルバチョフ氏がそれをどう考えているのか、直接聞きたいと取材を申し込んでいた。

 このインタビューの中で、ゴルバチョフ氏がとりわけ力を込めたのは、レーガン大統領と交わした「核戦争は許されない。そこに勝者はない」との合意に言及した時だった。マルタでブッシュ(父)大統領と「お互いを敵とは見なさない」と固く握手した瞬間を振り返った時も、生き生きとした表情を見せた。

 逆に、珍しく声を荒らげたのは、INF全廃条約を闇に葬った張本人、トランプ米大統領に話が及んだ時だ。

 「こんな言葉を使って申し訳ない」と断りつつ、「チョールト、パベリー」と何度か口にした。日本語に訳せば「くそ!」や「畜生!」の意味になる。約30年続いたその条約を葬り去ったトランプ氏が許せないのは明白だった。

巨人の遺言、人類の指針に

 91歳の誕生日を迎えた今年32日は、例年通り財団本部のオフィスに仲間が集まった。世界各国からお祝いメッセージが届き、プーチン大統領も祝電を寄せた。ゴルバチョフ氏はコロナ対策もあって病院の部屋で過ごし、お祝いの会にはリモートで参加した。

 会には、プーチン政権を批判するリベラル紙「ノーバヤ・ガゼータ」のムラトフ編集長も姿を見せた。その日は自紙のサイトに、プーチン大統領の核による威嚇に警鐘を鳴らす声明を出していた。報道の自由を貫き、昨年のノーベル平和賞を受賞した人物だ。

 ゴルバチョフ氏は同紙の株主であり、90年にノーベル平和賞を受賞した際には賞金で同紙のコンピューターを買いそろえた。私の取材にゴルバチョフ氏は、「ノーバヤ・ガゼータ」について、ペレストロイカ改革の一環として進めたグラスノスチ(情報公開)を体現したものだ、と答えた。それが強く印象に残っている。

 こうした事実は、ゴルバチョフ氏とプーチン氏との今の関係性を物語る。

 ゴルバチョフ氏の側近は今年1月、「もう長い間、2人はコンタクトをとっていない」と明かした。その翌月、ロシアのウクライナ侵攻が起きた。

 ゴルバチョフ氏の礎として一貫しているのは、「相互の尊重」と「対話と協調」、そして「政治思考の非軍事化」の思想である。

 握手した手は分厚かった。本にサインしてくれたその筆圧も力強かった。20世紀の巨人の遺言は、今世紀でも人類の指針になりうるはずである。それだけに、ウクライナ戦争のさなかに逝くのは無念だったに違いない。

 モスクワ市内にあるノボデビッチ修道院の墓地で、生涯愛したライサ夫人のお墓の隣で永眠することになる。(編集委員・副島英樹)

 

 

 

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