〈伊達騒動〉の真相  平川新  2023.1.26.

 2023.1.26. 〈伊達騒動〉の真相

 

著者 平川新 1950年福岡県生まれ。76年法大文卒。東北大大学院文学研究科博士課程後期中退。現在、東北大名誉教授、宮城県慶長使節船ミュージアム(サン・ファン館)館長。主要著書『伝説のなかの神―天皇と異端の近世史―』他

 

発行日           2022.11.1. 第1刷発行

発行所           吉川弘文館 「歴史文化ライブラリー」

 

仙台藩の存亡を二度も揺るがした伊達騒動

三代藩主綱宗の強制隠居や原田宗輔の刃傷沙汰など、新出史料を交え事件の真相に迫る

演劇や文学で語られる老中陰謀説や原田忠臣説にも言及、伊達騒動全史の解明に挑む

 

 

伊達騒動はなぜ起きたのか――プロローグ

l  仙台藩の2度の危機

お家騒動とは、大名家に発生した内紛のことで、江戸時代40件を超える

福岡藩の黒田家、佐賀藩の鍋島家、加賀藩の加賀家などが知られるが筆頭は伊達騒動

伊達騒動は2つの事件からなる――最初が放蕩に耽る3代藩主綱宗が親族大名や重臣らによって強制隠居させられた事件で、藩主就任2年で追われたことから、藩主不行跡という見方より、仙台藩乗っ取り陰謀論として語られる素地を残した。次いで、綱宗隠居の後、2歳の亀千代が家督を継ぐが、後見人に一門の伊達兵部宗勝と田村右京宗良が鳴るが、宗勝の専横に不満を持った一門の伊達安芸宗重が野谷地(のやち、未開発の原野や湿地帯)の境界論争を理由に幕府に出訴、その宗重を仙台藩奉行(家老)の原田甲斐宗輔が審理中の大老酒井雅楽頭(うたのかみ)忠清邸で斬殺する刃傷事件を起こし、藩を揺るがす事件となる

l  仙台藩乗っ取り陰謀説

2つの事件は世間の耳目を集め、歌舞伎や浄瑠璃、実録物などで取り上げられ、スキャンダラスな筋立てが事件の真相だと信じられていた

乗っ取り陰謀説を学術的に根拠づけたのが、1912年出版の大槻文彦著『伊達騒動実録』で、老中(ママ)酒井忠清と伊達宗勝(藩祖政宗の末子で、その嫡子の正室が酒井の養女)が連携して仙台藩乗っ取りを画策、原田もそれに協力したところから、宗勝と原田は藩主を裏切った逆臣だと指摘

l  原田宗輔忠臣説

大槻説に反発した代表が山本周五郎の『樅ノ木は残った』(1958年刊)。酒井と宗勝による陰謀は同じだが、原田を忠臣とするもので、完全なフィクションだが検証してみる

l  歴史研究と伊達騒動論

戦後、権力論として捉える視点が出てきた――藩主権力の課程や、朝廷、将軍、大名の関係といった観点から伊達騒動を捉え直そうとした。後見人による藩政運営についても、後見人の立場から藩主権力の確立を目指す進歩的な動きであり、原田の刃傷事件もそれに反発する動きを封じるものとして捉えられる

綱宗の強制隠居も、近世の大名家=藩は、藩主・家臣・領民からなる藩共同体だったことから、不徳な主君を排除する合法的な「主君押込(おしこめ)」という一般的な作法だとする

l  真相に迫るため本書が取り上げる9つの課題

   伊達騒動の経緯の正確な把握――史実に基づく忠実な復元が必要

   綱宗の強制隠居を朝幕関係から説明しようとする解釈の再検討――天皇家に繋がる公家の娘が2代藩主忠宗の側室になって3代藩主綱宗を生んだところから、幕府が伊達家と朝廷の関係に疑心を抱き強制隠居に繋がったという解釈だが、異論が出てきた

   綱宗が3代藩主として家督を継いだ経緯の解釈――兄光宗の急死によって綱宗が3代藩主となるが、忠宗は臨終間際まで綱宗の家督を許していなかったという史実が出来

   綱宗が襲封(しゅうほう)後、わずか2年で隠居させられた謎を解くこと

   宗勝を中心とした後見人政治の実態を明らかにすること――主要な抗争を検討することで後見人政治の在り方を捉え、藩内に不満と批判が充満していく過程を解明

   2の事件の谷地争論の原因と経過を明らかにする――同門の宗重と宗倫(むねとも)による谷地紛争を検証すると、誤解が生んだ紛争の真相が判明する

   谷地争論を全国的な新田開発の動向や仙台藩の新田開発政策と関係づけて理解する視点の提示――列島大開発時代がもたらした紛争

   宗重が幕府出訴に走った理由と藩内の反応及び幕府の対応など、その経緯を確認する

   現代に至るまでの伊達騒動の論じ方の変遷を確認

 

²  1つめの伊達騒動

1. 綱宗の誕生秘話

l  庶子から嫡子へ

綱宗は2代藩主忠宗の6男として誕生、巳之助という

次男万助が嫡子で、元服の際家光の1字を取って光宗を名乗り、従五位下・越前守に任じられる。正室には子がなく、母を失った巳之助を養子にした

l  母貝姫の出自は櫛笥(くしげ)

巳之助の母貝姫は櫛笥家の出自とされる。その根拠は伊達家の姻戚の系図をまとめた『伊達族譜略』にあり、櫛笥家の系図に「女 貝姫 忠宗公側室、綱宗公母君」とあり、その姉隆子は後西(ごさい)天皇の生母なので、巳之助は天皇と従兄弟の関係にある

仙台藩の正史『伊達治家記録』にも、側室の櫛笥藤原貝姫が逝去し善導寺に埋葬とある

l  大内次兵衛物語

綱宗の代に京都留守居などを務めた大内次兵衛の証言記録には、同じく京都留守居役を務めた父から聞いた話として、①「おかい様」が京都の商人の取り持ちによって忠宗の側室に入ったが、2人仙台に向かっており、どちらが側室か不詳、②京都で側室を探す際、「大阪牢人、公家之御娘」は除けとの指示があり、豊臣の残党と公家はややこしいので避けろとの意、③貝姫は公家の出自を隠して側室となったが、死に臨んで自らの種姓(しゅしょう)=出自を明かしたと、貝姫付きの侍女から仰せがあったと聞く、④相国寺(京都?)での貝姫の法事が思いのほか立派

l  貝姫の出自を隠す

素性は知れていたが、隠したのは忠宗で、嫡子光宗に同腹の兄弟がいないため、巳之助を正室の養子にするので、早く江戸に上らせよと国元に指示している

綱宗が幕府から逼塞(刑罰の1)を命じられたのは公家と姻戚関係を結んだからとの説

l  系図の謎

『系図簒要』(1990年刊)の櫛笥家の系図には娘が3人となっており、隆子の名はあるが、貝姫の記載はない

l  年齢のずれ

貝姫の父隆政の没年が1613年となっており、貝姫の生年である1623年頃と矛盾。他の資料も父の没年はほぼ同じで、貝姫の歳については大槻も疑問のままにしている

櫛笥家が家計的に困窮していたため伊達家の経済的援助を当てにしての苦衷の選択というのも、京都留守居役ですら町人の娘だと思っていたのだから、公家からの輿入れに対するほどの謝金が支払われたとは思えない

l  素朴な疑問

櫛笥家系図にある娘3人も宮中の高位女官に仕えたり、大名の正室になっていることから、貝姫だけが町人の娘と偽って、それも大名の側室に甘んじていたのは信じがたい

側室探しをした京都留守居役が貝姫の素性を知ったのは、没後というのも奇妙な話

l  創られた出自譚

貝姫の出自譚を創作とすればすべて辻褄が合う

将軍家綱の右大臣昇進にあたり勅使として下向した良仁(ながひと)親王(後の後西天皇)に進物を献じ、その後もその生母(隆子)も含めしばしば進物を贈っているのは、貝姫の出自譚を櫛笥家に認めてもらったところから急に進物を贈り始めたのではないか

l  忠宗が隠したかったこと

光宗の逝去により、巳之助を正嫡の座に据えるに際し、「町人の娘」では具合が悪いところから、櫛笥家に近づき、貝姫を隆子の妹とすることを認めてもらい、巳之助を「公家の娘」の子として将軍家綱に拝謁させた

l  侍女の証言

櫛笥家は、貝姫の出自を偽ることを承諾したが、仙台藩家中ではなお貝姫を「町人の娘」と見做していたため、死後に侍女に出自を打ち明けたという話をでっちあげ、「公家の娘」であるという作り話を間違いないものとした

 

2. 綱宗の家督相続秘話

l  家督決まらず

忠宗は、光宗の急逝に際し、6歳の巳之助を後継者として将軍家に披露し、認知を得る

1654年巳之助は、元服して家綱の諱1字を拝領して綱宗と名乗り、従四位下・侍従美作守となって、伊達家の跡取りとして忠宗の名代を務める

1658年、忠宗急逝に際し、幕府は綱宗による家督相続を許可したが、仙台藩重臣茂庭氏の事績をまとめた『茂庭家記録』には、忠宗臨終の前年「御父子御不和ノ事」とあって、なかなか家督相続が決まらず、臨終間際に茂庭の進言によりその通り遺命がくだった、とある

l  茂庭定元の功績

茂庭は最古参の奉行として遺命を聴き取り、綱宗の叔父にあたる伊達宗勝もその対応を激賞し、後継藩主網宗を盛り立てていこうという心情を吐露する書状を出している

l  家督未決定の解釈

忠宗が家督決定を渋った背景は、綱宗が幕府が成年とする18歳未満だったからという説があるが、疑問が残る

l  父忠宗の不安

1655年、忠宗は参勤を終えて国元に帰る際、成人した綱宗付きの家臣に対し残した注意書きが2000年代になって発見――不作法なきよう意見すること、一門以外からの招待には応じないこと、下屋敷での鷹狩りや鉄砲撃ちの禁止、能舞台での稽古禁止などが列挙され、忠宗が綱宗の挙動に不安を抱いていたことを想起させる

l  綱宗の覚悟悪し

翌年忠宗が綱宗のことにつき奉行宛に書いた書状が2000年代に発見され、そこには「万事につき綱宗の覚悟悪し」とあり、忠宗が「直々異見」したが綱宗の行儀が直らない、不憫だが「親子ノ中を切り、かんとう申すべくと思ひ候」とある

綱宗への注意は、娘婿の筑後国柳川藩の立花忠茂や忠宗の弟の伊達宗勝にも相談したとあり、2人は綱宗の隠居問題で重要な役割を果たす

筆舌に尽くしがたい「不作法」で、監視を徹底し、収まらなければ勘当もと警告を発した

l  綱宗の酒乱

綱宗付きの小姓たちの身代を没収し、子飼いの新たに綱宗付きとしたが、それほどまでにして監視したのが綱宗の酒乱だったというが、それだけではないようだ

l  勘当状態の綱宗

勘当まで考えていたことを知った重臣たちは、忠宗の意思が明らかにされないまま忠宗が没すれば、後継をめぐって藩内が混乱しかねないところだったので、遺命は必須だった

l  綱宗の心構え

忠宗逝去直後、伊達宗勝は新藩主綱宗と連絡を取りながら、茂庭に細々と指示を出す

父子不和のまま家督を継いだ綱宗が家中に受け入れられるかどうか大きな不安を抱えていたところから、数年間は家臣らに指図することを控え、静かなることを「専一」にすると考え、宗勝も新藩主の心構えに大いに期待していたと思われる

l  綱宗の人事

綱宗は、いずれ江戸と国元を茂庭と奥山大学常辰に交代で詰めさせようとし、両人協調して綱宗を支える体制を描き、さらに徐々に人事を通じた人心収攬を始める。綱宗は、何かと面倒を見てくれる宗勝に対し7000石の加増で応え、宗勝の知行は15800石に

l  国目付との想定問答集

1658年、綱宗は左近衛権少将兼陸奥守となり、幕府は若年の代替わりに対し国目付(仙台目付)として2名派遣を決定――藩内の仕置きは前々の通り、他領の異変への対処は国目付の指示に従う、キリシタン禁制の3点を申し渡し、6か月の領内見分を終え江戸に戻る

国目付を迎えるにあたって仙台藩が用意した想定問答集が当時の事情を物語る――領内総検地で、総高は70万石に新田開発を加え80万石、白石は家康公から政宗が直々拝領したもの故別枠で1.5万石。領内から江戸への廻米(かいまい)1516万石、藩の所有船30艘で江戸へ。借財は7万両

 

3. 強制隠居をめぐる解釈

l  江戸城小石川堀の普請

1659年、初の国入りを許可され、領内巡検

塩竃神社修造と忠宗廟造営の総奉行に、奉行に次ぐ重職の評定役の原田宗輔を起用

1年弱で江戸に戻り、江戸城小石川堀の手伝普請命令が来る――総延長4㎞に及ぶ大工事

l  綱宗逼塞命令と乗っ取り陰謀説

2か月後の1660年、幕府から逼塞を命じられる――伊達家の正史『伊達治家記録』には「故あり」としかないが、徳川幕府の正史『徳川実記』には「酒色に耽り、家士等が諫をも聞き入れざるよし紛れなければ逼塞せしむべし」とある。本当の理由が詮索されたが、最も流布したのは、老中酒井忠清と、政宗の子宗勝や仙台藩奉行原田宗輔が加担した仙台藩乗っ取り陰謀説。歌舞伎などでも採用され、集大成が大槻文彦の『伊達騒動実録』(1912年刊)

l  陰謀説の根拠

大槻が根拠としたのは、『茂庭家記録』の記述で、宗勝の嫡男が酒井忠清の婿だったことから、酒井が仙台藩を分割して婿に30万石分知しようと企んだというものだが、宗勝の嫡子の系図には室は公家の娘とあり酒井の娘の記述はないのみならず、幕府から公家の娘との婚約を命じられたのは綱宗逼塞の4年後のこと。ただ、酒井の正室は同じ公家の娘で嫡子の室と姉妹だったことから、酒井が公家の娘を養女にして嫁がせたとの説が出た

l  「伝えて云う」の意味

『茂庭家記録』は、200年余りにわたる歴代当主の事績を伝来の文書などから編纂した家史で完成は1834年、根拠の不明なものは「伝えて云う」として記載されている

本件の伝聞については、宗勝失脚後藩内や世評で高まった宗勝悪人観が反映されている

特に演劇化される中で創作された可能性が高く、史料としての信憑性には疑念

l  伊達宗勝書状の解釈

大槻の根拠その2は、宗勝が伊達一門で岩出山の領主伊達弾正宗敏に宛てた書状(1660)を挙げる――綱宗の放蕩が始まったのは小石川堀普請開始の後だとし、その前に2人の間で押込め隠居の謀議がなされていたという解釈だが、元々の書状の内容は、「綱宗隠居を幕府に願い出る件は奉行などや貴様から聞いて自分も同心したし、貴様も同心されるだろう」とのことで、隠居の話をしてきたのは宗敏なのに読み違えている

l  綱宗「不行跡」への諫言

綱宗隠居の相談は、仙台藩の一門や奉行、親族大名を巻き込んだ話に発展しており、そのもとになった綱宗の不行跡とは「夜行」などで、奉行が諫言しても聞き入れられなかったので、奉行が揃ってお役御免を願い出かねないものだった

l  「不行跡」は以前から

「不行跡」は普請より遥か以前から続いていて、水戸(徳川頼房)、雅楽頭(酒井忠清)などからも異見されていたもので、宗勝の書状をもって陰謀の根拠とすることはできない

頼房は、父家康の側室の養子、忠宗の正室も同じ側室の養女だったことから、水戸徳川家と伊達家は親族に準じた付き合い

l  後西天皇関係説

1960年、歴史学の側から、綱宗が後西天皇と従兄弟同士だったことを根拠に、綱宗の禁中との密接な関係が幕府の嫌疑を受けたとの指摘が出てきて、その後何人もが補強

l  伊達家と後西天皇退位の関係

後西天皇は、1654年兄後光明天皇の急逝によって兄の子の成長までの中継ぎ的に即位、16639歳の高貴宮が即位して霊元天皇となるが、退位の解釈に諸説があり、その中に幕府が、後西天皇と綱宗の従兄関係を問題視したとの説がある

貝姫は死後に櫛笥家と縁組された関係にあり、櫛笥家の系図にも記載されていないという希薄な関係を理由に、幕府が嫌疑をかけたり天皇に退位を迫ったりすることはあり得ない

l  大名と公家の婚姻関係

大名家が公家から室を迎えるのは一般的に存在――歴代将軍の多くが宮家や五摂家から正室を迎えているが、幕府は大名と公家の婚姻を厳しく統制、必ず許可を必要とした

宗勝の兄は櫛笥家の娘を側室としており、綱宗が幕府から嫌疑をかけられる根拠は乏しい

 

4. 綱宗に隠居を迫る

l  「池田光政日記」から

綱宗逼塞までの経緯――初の国入りが1659年、江戸に戻ったのが翌年。すぐ小石川堀普請の準備に取り掛かる。直後に3奉行から辞任願いが出され、翌月には伊達一門・重臣14人から幕府に隠居願いが出される

岡山藩主池田光政の日記――光政は、叔母振姫が忠宗の正室なので綱宗とは従兄弟同士

親族大名たちが酒井忠清も巻き込んで、綱宗の不行跡に対応しようと画策していた

l  奉行衆を叱責

光政日記によれば、立花忠茂(綱宗の義兄)の相談を受けた光政が酒井に申し入れた内容とは、綱宗の不行跡を叱責しない家老は不届きで、命をかけて諫言すること、役割を疎かにしたものは処分すべきであり、近習を排除しなければならないという厳しいものだった

l  綱宗は「もはやきれめ」

さらに光政と酒井が会談し、綱宗の行状が家を潰すほどのものだったことから、光政は酒井に綱宗は「もはやきれめ」と見限ったことを伝え、伊達一門や親族大名は綱宗を隠居させ、その嫡子亀千代に継がせようと画策していた

l  引退を迫った立花忠茂

筑後国柳川藩の立花家文書にも、既に忠茂が小石川堀普請前に綱宗に送った書状が残されており、忠宗死後に国入りした綱宗の行跡が乱れ、父の戒めを破ったことを強く批判、家督を譲ったうえで「遊乱」を楽しんだらどうかと通告した

l  「御家滅亡、此時」

綱宗の不行跡は酒乱と吉原通いで、立花も酒井からの異見を聞かないのは「公儀に背いた」のも同然で、「御家滅亡、此時」と告げる

l  老中酒井忠清の忠告も無視

小石川堀普請は将軍の命令による軍役で、そこからの吉原通いは幕府の命令軽視に他ならず、奉行は揃って綱宗に対し意見をするが聞き入れられず、奉行職を免じてほしいと訴え

l  綱宗隠居への動き

忠茂と宗勝は3奉行を呼んで綱宗隠居と亀千代相続の幕府への上申決定を告げるが、酒井は家中全体の意思であることの確認を求めたため、重臣14名が連署証文に署名

l  連判した重臣たち

一門は10家あったが、そのうち7家が署名、綱宗の弟2人が参加していないが、奉行や高官はすべて参加、短期間に同意が取れたことは、綱宗の不行跡が早くから藩内の懸念事項だったことがわかる

l  領知削減の可能性

1685年に書かれた奥山常辰(国元奉行)の「覚書」には、連署を求めた宗勝は使者を通じて「領知が半分か1/3になるかもしれない」と伝え、それに対して奥山は減封されるくらいなら潰してもらった方がいいと徹底抗戦する気構えも見せたようだ

 

5. 幕府による強制隠居へ

l  なにゆえ家督は亀千代か

仙台家中は老中に対し、綱宗の弟2人と亀千代の3人から後継を選びたいと打診しており、最終的に亀千代を家督として願い上げたのに対し、老中から何故との問いがあり、実子故と答え、「ご尤(もっとも)の儀なり」となった

l  家督の入札

1685年の奥山の「覚書」によれば、江戸詰の茂庭から奥山に誰を「跡式」にするか問い合わせがあり、亀千代以外にはないと返事したが、その後立花忠茂と宗勝から家督は入札で決めるとの連絡があり、奥山は入札しないと返事

亀千代がわずか2歳だったため、票は綱宗の兄弟たちに分散。嫡子相続の「御大法」があるので亀千代が当然だということが藩内の認識ではなかったことがわかる

l  亀千代に一本化

亀千代と弟2人に絞られたが、最終的に「御大法」が出てきて亀千代に落ち着いた

l  逼塞と閉門の幕府命令

1660年、酒井邸に親族大名の立花忠茂と宗勝、3奉行、評定役原田宗輔が呼ばれ、他の老中立会いの下、「逼塞」との将軍家綱の上意が伝えられるが、その後幕府の使者が仙台藩上屋敷に派遣され、綱宗に「閉門」を言い渡す。「閉門」は監禁刑であり、より重い。なぜ違ったのかは不詳。小石川堀普請の継続が命じられたので藩の存続は認められた

l  近習の処刑

翌日4人の家臣が成敗。綱宗の放蕩を煽った罪で、綱宗閉門により断罪できた

l  幕府、綱宗に隠居を命ず

綱宗は幕府の処置に不満を抱き、奥山に上府して水戸様の指図を仰ぎ善処してもらうよう指示するが、奥山は藩内の動揺を理由に拒否

8月、幕府より、綱宗の隠居と嫡子亀千代の家督相続が命じられ、同時に宗勝と田村実良(綱宗の兄)に後見を命じ、それぞれ伊達領から3万石分知

31年後、藩主の綱村が下屋敷の品川屋敷で隠居中の父綱宗を外桜田の上屋敷に招きたいと幕府に要望したところ却下されているので、まだ綱宗の謹慎が解けていないことを示す

l  徳川光圀、綱宗を叱責する

綱宗は品川屋敷で隠棲し72歳で死去したが、側室との行き来や、奥山の奉行辞任を思い止まるよう要請したり、その後生まれた子には仙台藩から分知され内分(うちわけ)大名になった者もいる。絵を狩野探幽に学び、作刀や彫刻、和歌や書にも通じて悠々自適の生活だったが、1694年綱宗54歳の時、彼の乱行が再び問題となり、光圀が叱責の手紙を出す

l  隠居した綱宗の行状

綱村が光圀への返書に「愚父」と記していることから、その所業に困り果てている様子が窺える

 

6. 後見人政治と藩内の確執

l  田村実良の綱宗再勤願い

1660年以降、幕府は亀千代が成人するまで毎年国目付を仙台に派遣

後見とされた田村は、加増を辞退し、綱宗の再勤願いを老中に出す。連判署名を強いられたことと、宗勝の「私曲(不正)」を聞かされたことが背景にある

l  歩調が乱れる後見人

宗勝と田村は、立花忠茂に対し、協力して伊達家に奉公を尽くすことを誓い、起請文を書いているが、最初から2人の間に不仲をめぐる噂が家中に立っていたから書かせたもの

l  茂庭定元の辞職

元々仲が悪かった奉行の間にも軋みが出て、奥山は筆頭奉行茂庭の責任を追及

茂庭は病を理由に辞任したが、詰め腹を切らされたということか

l  筆頭奉行の奥山常辰

藩政の運営に支障を来さないよう、奥山を筆頭奉行として留める。綱宗からも奥山留任の要請がなされ、隠居の身でありながら藩政に関わっていたことがわかる

l  知行地の確定

一関に領知を有していた宗勝は3万石の加増で衣川を加えたが、両岸を編入しようとしたのに対し、奥山が川の真ん中を境界として幕府に提出。田村も川沿いや山林が御料地にかかったために交代させられたりしたなか、奥山は藩内でも肥沃な土地に知行替えをするなどして新たな知行状が一斉に発給されたが、幼君を背景に筆頭奉行の奥山が力を誇示

l  六カ条問題

両後見人の知行地支配をめぐって起こったのが六カ条問題で、藩主権の範囲と関係

後見人領と本藩の統治の範囲・権限をめぐる争いが、①伝馬、②鳥・肴(初物)献上、③大鷹献上、④人返し、⑤留物、⑥制札の6項目に関して出来

街道通行の際領民から馬と人足を挑発するのが「伝馬」で、事前に担当奉行から許可状をもらうことが必要、②③の献上は後見人が幕府に直接献上することに異を唱えたもの、④は逃げた領民の相互送還の申し合わせ、⑤は特定物資の移出入の制限、⑥は禁令の公布

l  奥山常辰の決意

奥山は上記6カ条につき宗勝と田村に直談判の上江戸で酒井に相談、さらに異例の将軍拝謁まで果たす。酒井が奥山と田村を召し出し、6カ条すべて以前通りと言い渡し、奥山の主張を全面的に認める

l  将軍直参と内分大名

奥山から酒井の意向を聞かされた宗勝は、直接酒井に確認、田村も老中稲葉正則に再確認

両後見人は知行分知により一挙に将軍直参大名に取り立てられたことから、自らの権限を行使しようとしたが、あくまで内分(分知)大名だったため行き違いが生じたもの

l  内分大名に封じ込め

奥山の目的は、あくまで本藩の統治原理の適用と本藩優位の体制確保にあり、両後見人の分知も亀千代宛ての領地判物に明記されたにすぎず、知行地指定は仙台藩の裁量の範囲

奥山の全面勝利だったが、面子を潰された両後見人と奉行衆の間には大きなしこりが残る

 

7. 奥山常辰の失脚

l  奥山常辰弾劾の動き

奥山専横に対する批判が藩内から噴出――筆頭奉行の権威をかさに来た身勝手な振る舞いが目に余り、後見人に奉行職解任の訴えがあり、藩の目付も国目付に奥山の所業を暴く上書を提出。特に自由廻米といって米や大豆を自由に江戸で売っていたのを、藩による独占廻米に変更したのが領民からの強い反発を買う

l  加役一件と伊達宗重(涌谷伊達家)

小石川堀普請で藩財政が逼迫し始め、財政再建案が検討され、惣家中から5年間知行の1/10を借り上げる案が出され、宗重ら数人は共謀して奥山追い落としと後見人の監督責任追及を狙って知行返上に賛同するが、返上者の発言権増大を嫌って先送りに

l  伊達宗勝と奥山常辰

奥山の専横の裏に宗勝がいると不信を抱いた田村だったが、六カ条問題で奥山と宗勝の間も決定的に悪化

l  奉行候補者の評議

1662年、宗勝と奥山の関係が悪化する前に両後見人の間で現行奉行体制の再検討の評議が行われ、宗勝は奥山の弟を推挙、田村は原田宗輔を推挙。田村は兄弟して奉行になることに懸念を示し、宗勝は茂庭寄りの原田の能力を評価せず、結論は翌年に持ち越し

l  伊東重義と原田宗輔

1663年、伊東と原田が新奉行に任命

伊東は過去に奥山批判の書を提出していたが、今回も就任にあたり、両後見人が互いに疎遠であることが混乱の原因と喝破し、両者に誓詞を求めるなど気骨の人だったと推測

l  奥山常辰の更迭

家中への加役については、小姓頭里見重勝から奉行全体の責任だとして人事や知行替えなど全般への不満が噴出。藩政の混乱を恐れた立花忠茂は、六カ条問題までは奥山を支持していたが、一門衆が鉾を収める様子を見せないところから奥山に引導を渡す

奥山は事実上の解任だったが、在職中への恣意的な振る舞いへの不満に加え、辞職後も尊大な振る舞いを続ける奥山に対し、田村は老中にまで処分を上申したが、老中は動かず、両後見人は藩内の混乱回避のため、奥山の弟の評定役を解任することで、家中を説得

 

8. 伊達宗勝の藩政掌握

l  茂庭定元の復活

1663年、伊東が在任数カ月で病死。後任に茂庭が復活。宗勝が画策し、他の奉行を「悪人一味」として分断するとともに、藩政の小事にまで介入の度合いを高める一方、翌年には立花忠茂が隠居して伊達家の家政に関与しなくなった

l  里見重勝の批判

1666年、前年まで小姓頭だった里見が引退後、宗勝の依怙贔屓を批判する意見書を提出

l  目付権限の増大

目付は奉行に対する監察権も持つところから、宗勝はあらゆる会合に目付を出席させ、目付による奉行批判の発言も許すようになり、特定の目付を重用し始める

l  伊達宗勝の反論

里見重勝の批判に対し、宗勝は全面的に反論

l  宗勝の里見重勝への怒り

宗勝は里美を死罪にしようとするも、伊東の倅からも宗勝批判が出され、田村や一門の宗重も処分に反対したため、実行されなかったが、重勝死後嫡子による相続を認めず、里見家が再興されたのは原田の刃傷事件で宗勝が失脚した後の1671

l  席次の変更

1666年の茂庭の死後、幕府の国目付饗応の際の席次が変り、藩内を騒がす重大事件に

奉行格の家柄が後塵を拝する席順に変更

l  原田宗輔の粗忽な判断

参拝は家格の順、正月の振る舞いは役職の順というように必ずしも一定ではなかったが、家柄の無視は身分制社会では御法度。さらには原田が無役の自分の息子を先に出させたのは粗忽と評価されても仕方ない

l  伊東一族の処罰

奉行衆は、席次に異を唱えた伊東一門に対し、宗勝や目付の意向を忖度して死罪を主張したが、田村の弁護によって逼塞の処分に留まる

l  伊達宗勝暗殺計画

伊東一門は処分の告知のため仙台に召喚されたが、宗勝との差し違えに向かう。決意を知った本家の家来が一家の断絶を恐れて注進に及んだため露見し、伊東一族滅亡へ

 

9. 伊達宗勝側近の専横

l  旗本桑島吉宗の手紙

1668年、幕府旗本の桑島から田村に送られた手紙――桑島は伊達藩士だが馬医として幕府に召し抱えられ、その息子は伊達家の家臣

小姓頭や目付が宗勝に重用されて実権を握っている実態が暴露され、縁故者の重用、賞罰の偏在など、彼らが我が世の春を謳歌する内容

l  古内義如の手紙

1669年、奉行の古内が田村の家老に宛てた手紙でも同様の実情を知ることが出来る

原田が宗勝と意を通じて筆頭奉行的に振舞い、小姓頭の渡辺金兵衛義俊が重用される

l  田村宗良への期待

桑島も古内も田村を頼って、後見人としての動きを期待

l  奉行衆の誓詞と原田宗輔の抵抗

1667年、古内は他の奉行の同意も得て奉行の勤め方に関する五カ条の誓詞を作り、両後見人の承諾も得たが、「同役中は腹蔵なく談合すべし」との条文が原田の独断専行を非難するものだったところから原田が署名を拒否

l  田村宗良の奉行不信

田村は、目付の意向を忖度する奉行衆全体に厳しい目を向け、相互不信を指摘

l  田村宗良の改善案

田村は、自身も人事などに関与できるよう、後見人への相談を義務付けるよう、また宗勝の仕置きにも行き過ぎがあるとも指摘したが、生かされた形跡はない

l  小姓頭を評価する伊達宗勝

宗勝は小姓頭の渡辺を高く評価、近習が少祿なのは見苦しいとして加祿するよう指示したり、席次を逆転させたり、宗勝の贔屓ぶりは公然たるもの

 

²  二つめの伊達騒動

1. 谷地(やち)紛争のはじまり

l  赤生津(あこうず)谷地をめぐる紛争

1665年、涌谷(わくや)と登米(とめ)の間の野谷地をめぐって一門の登米の伊達式部宗倫(むねとも)と涌谷の伊達安芸宗重が言い争うが、宗重が譲歩。登米が大規模新田開発により領地を拡大している

l  伊達宗倫による谷地の分与

1667年、宗倫が谷地の一部を徒歩小姓に与えるとの申請を出す

l  争論の地は蔵入地(くらいりち)

対象の土地が元々争論のあったところで、いずれ藩の蔵入地にすることになっていたが、宗倫の申請を受けて代官が手続きを進めようとしたため大事に発展

l  谷地争論の勃発

宗重は、周辺の帰属を明確にするよう郡奉行に申し入れ。両者とも殿様幼少のいま両家で勝手に決めるのは公儀を軽視するものと考え郡奉行に一任

l  伊達宗倫、奉行に訴える

郡奉行も決めかね、お互いの発言も過激になる

l  後見人の裁定

奉行は後見人に相談し、後見人も持て余して大老に昇進していた酒井にあげるが、結局酒井の内意を得て谷地を分割し宗重と宗倫に分与

l  双方不満の裁定

双方とも「亀千代様御為」と説得され、何とか内々に収めたが、不満は両者に鬱積

l  『正保の国絵図』

係争地には幕府の指示で正保2(1645)に作成された『奥州仙台領国絵図』(通称『正保の国絵図』)があったはずだが、参照した形跡はない

元禄10(1697)にも諸国大名は幕府から国絵図の提出を求められ、仙台藩は『正保の国絵図』がなかったので幕府から借用して複製を作っている(複製は仙台市博物館所蔵)

その時になって宗重の主張が正しかったことがわかり、藩に上訴して評定の結果『正保の国絵図』の通りに復することとなった

 

2. 幕府上訴

l  伊達宗重の不安

宗重は裁定を受け入れたものの、宗勝やその一味からの仕返しを恐れる

l  谷地分けの検使

裁定案に基づき検使が派遣され、郡境を明示した絵図が作成される

1か月に及び検分が、仙台藩の屋台骨を揺るがす大騒動の引き金となる

全体では裁定通り宗重1対宗倫2になっているが、個別の線引きでは百姓の言い分に文句が出る

l  検分役人の無礼

検使の横柄な態度と、不利な境界設定に、宗重側の不満が高まる

l  伊達宗重、奉行に訴える

宗重は奉行に対し、亀千代成長の暁には訴え出ると口上書を提出。直後に宗倫死去

l  伊達宗重、後見人に訴える

宗重は両後見人にも、あたかも横領したかのような嫌疑には我慢ならないとして訴え出る

l  田村宗良の苦悩

宗重の不満の根源は、谷地裁定への不満ではなく、検分役人の依怙贔屓による不正と判明

l  怯える奉行

宗勝は、公になることを恐れ、奉行の指図の誤りとして処理しようとしたため、奉行が怯える

l  奉行の一札

奉行も、現地のことはわからず、検地役人らの申し立てを信じて了承しただけと主張

l  強硬な宗重

宗重の狙いは、宗勝の側近で検地を仕切った目付今村善大夫の排除にあり、幕府への訴えも辞さない覚悟

l  幕府国目付への書状

宗重は、藩内を挙げての封じ込めを突破し、国目付に書状を出し、国目付は一定の理解を示す

l  変化した藩内の雰囲気

宗重の一途な行動に、今こそ専横していた目付たちを抑え込むチャンスだと考える者が出てきたのに宗重は勢いづき、国目付に宗勝の悪政を列挙して告発する書状を提出

l  江戸への召喚

堪忍するが忠義か、悪人を詮議するが忠義かという宗重の論理が急速に藩内の支持を得てきた中で、老中に話が上がり、宗重と検分役人の双方が召喚される

 

3. 老中審問

l  伊達宗敏(岩出山伊達家)との和解

宗重の頑固さに憤懣を抱いて宗勝に味方していた宗敏が、宗重に和解を持ちかける

老中吟味の対象となった宗勝との関係を断ち、その一派と見做されるのを回避したのか

l  老中保科正之の発言

宗重の妹は、一門で水沢領主の伊達宗景の母。宗景の妻は旗本の松平忠久の養女。松平が元老中の保科正之に宗重の一件を話したところ、宗勝の行跡に悪さは隠れなく、3年前に処分しておくべきだったが、政宗の子息ということで遠慮したと述べ、さらに、宗勝は酒井の縁者(酒井の妻と宗勝の嫡子の嫁が姉妹)だが、天下の政には代えられないという

幕閣周辺にも、もはや酒井の縁者であっても放置できない事態だとの認識が生まれていた

宗重は、伊予宇和島の伊達宗利(政宗の孫?)にも理解を求める使者を遣っていた

l  谷地の検分絵図

証拠の第1となる検分絵図を保管していた原田が、老中に提出するためになんと吟味される当事者である目付の今村に持って行かせた

l  伊達宗勝と宗重

宗勝も宗重に強い不快感を抱き、まだ12歳の藩主にも宗重が欲張りだと言い含め、藩主をも悪事に引き入れようと企む

l  伊達宗重、江戸に向かう

1671年、250名もの家臣を引き連れた大行列で江戸に向かい、老中も大部隊を容認

l  柴田朝意の覚悟

奉行の柴田も幕府の出府命令を受け江戸へ、原田とともに審問の対象になった

l  申次衆の対立

幕府と藩を取り次ぐ申次衆が宗重らから事情聴取を行うが、谷地の件に留めるか、宗勝の問題まで老中に取り次ぐかで意見が分かれる

l  処分の噂

綱宗不行跡の一件に続いて、江戸じゅうの士庶共々幕府審問の成り行きを見守る

宗重の口上書は老中に届けられ、老中談合がなされた

宗重は不義を申し立てたので幕府より処分が下るという噂もあり、一方で藩主のために堪忍せよと命じられる可能性もあり、堪忍しない場合は藩主にも類が及ぶことを宗重は懸念

l  老中審問の開始

宗重の老中宛の口上書は、宗勝一味の専横を告発するもの、恣意的に処分された100名以上のリストを提示すると、早くから仙台藩の治政の乱れを知っていた老中は好意的な反応

l  原田宗輔の審問

次いで柴田、原田と審問が続く

老中の間で藩主への処分がないという方針が合意されていたことを聞かされ安堵

l  原田宗輔の動き

柴田と原田の話が異なったため、古内が召喚され、少数派となった原田が窮地に追い込まれ、老中の指示だとして両後見人に面会を求め、弁解しようとする

 

4. 原田宗輔の刃傷事件

l  大老酒井邸での評定

1671年、大老酒井邸に宗重と3奉行が出頭。4老中、大目付大岡忠種も列座する総評定

l  原田宗輔、宗重を斬る

一通り審問が終わった後控室でいきなり原田が脇差で宗重の首筋に斬りつけ、宗重は絶命。原田は老中の部屋に向かったので、奉行衆が止めに入ろうとして斬り合いとなり、酒井家の家臣たちによって皆斬り捨てられた。審問で不利とわかった原田が身の破滅を悟り逆上したとみるのが自然。古内だけが生き残る

l  事件の顚末

刃傷事件の記録は多々あるが、既述の違いが大きく、正確な復元は困難だが、宗重も応戦したが絶命したこと、原田が老中の部屋に向かったことなどは共通

l  刃傷事件のあと

直ちに将軍に報告され、酒井邸の前には野次馬の群れが出来たという

老中からは仙台藩邸に対し、藩主は幼少であり、公儀に対して別状なき故、身上は少しも気遣いする必要はないとの連絡が入る

関係者は拘束され、宇和島藩主伊達宗利により谷地検分役人の吟味が再開される

l  伊達家の安堵と後見人の処分

伊達藩は安堵されたが、後見人は宗重の上訴と原田の刃傷事件の責任を問われ、宗勝は高知藩主山内豊昌へ御預け、田村は閉門。後見人同士が不和の上、刑罰も多くて藩内が安堵せず、原田の不届きも両人の「不覚悟」の故というのが理由

宗勝の子も連座して御預け。3万石の領地と家来は仙台藩に返され、宗勝の家は断絶

藩主綱基(後に綱村)は江戸城に召され、領知没収の所若年故に「御宥免(ゆうめん)」とされ、お家断絶だが特別に配慮された。綱基は元服していたので今後は後見人を置かず、分家の宇和島藩主伊達宗利と、親族大名立花鑑虎(あきとら、忠茂の嫡子)と相談するよう指示

l  家臣の処分

宗利と立花は幕府とも相談のうえ、「悪儀の同類」を厳しく処断。原田家の男子の血筋は根絶、他家へ御預けとなったものには断食して死去した者もいる

 

²  村々の伊達騒動――仙台藩の野谷地と新田開発

1. 列島大開発の時代

l  列島全体で新田開発

騒動の発端は、知行地の境界争論で、野谷地の開発をめぐる藩の政策と在地の動向からも騒動を捉え直すことが出来る――民衆社会の在り方とも関わって発生した騒動といえる

17世紀には、幕藩領主の政策として新田開発が促進された――列島大改造の時代

江戸時代を通じて、耕地は1.9倍に増大。人口も2.1倍に

開発を可能にした最大の要因は、天下統一による政治と治安の安定であり、大河川の治水技術の発展や鉱山採掘技術の発達による土木技術の高度化

l  仙台藩の新田開発

163945年の間に9万石の新田が追加――江戸時代の村高の平均は500石、平均耕地面積は50町歩とされるので、30か村分を超える村高が毎年積み上がったことになる

さらに次の40年間で18.5万石の増加となり、それ以降は1/10ほどに急減

特に石巻湾に流入する北上川などの流路を変える大工事で肥沃な水田地帯が造成された

l  米の増産体制へ

新田開発は全国的な傾向だが、17世紀特に仙台藩が発展した背景には、巨大都市江戸の成立がある――莫大な量の食糧確保のため、海運による遠隔地からの米穀移送が求められ、仙台藩の江戸廻米が始まり、可能な限りの江戸廻米が仙台藩の支柱経済となった

さらに、政宗が秀吉によって出羽国米沢から陸奥国岩出山に転封を命じられ、仙台に居城を移すが、秀吉に取り潰された周辺の家の旧臣を集めて家臣団の急増したこともあって、領内耕地を拡大するため、新旧家臣に野谷地・荒地を給付、自力での知行地創出を推進

l  稲作開始以来の積み重ね

1833年の仙台藩総石高は99万石、2/317世紀初頭には開発されていた。全国で見ても54%は耕地化が済んでいたのは、先人の積み重ねてきた開発努力の結果

 

2. 野谷地開発をめぐる藩の政策

l  重臣たちの野谷地拝領

家臣や領民に野谷地を与えて新田開発を進めるのを最も大規模に展開したのが仙台藩

登米や涌谷など上位3家だけで拝領地の過半を占める――開発した分だけ知行地が増えるが、中下級家臣に対しては貫高(1貫文は10)で与えられ、それを超えた開発分は蔵入地に組み入れられ、過剰開発部分は藩が収納

l  家中・百姓たちの野谷地開発

政宗が、大家族の百姓家は家分けをして無主地の荒地を再興させよと指示しており、再開発を促進して新百姓の取り立てを図ろうとしていた

それぞれの重臣の家中でも、足軽、中間、百姓総出で開発が割り当てられていた

l  開発による役免許(免除)期間

予め35年の開発期間を設定し、経過後に検地して未開発地は召し上げ

1660代後半には免除期間が10年まで延長され、開発促進策の最盛期となる

 

3. 涌谷伊達家と登米伊達家の野谷地拝領

l  寛永3(1626)の知行黒印状

伊達騒動の対象となった地域の野谷地拝領の黒印状は、政宗から宗重の父宛のもので、紛争地となった谷地すべてが記載されている

l  涌谷伊達家の谷地は185町歩

黒印状には谷地名と共に面積が記載されており、合計185町歩だが、宗重は郡境まで及ぶと理解し、郡境を定めようと主張。野谷地の用益代も一部支払っていた

l  郡境の問題に

他方、登米伊達家では新知行地を拝領した際、その前に広がる野谷地の開発権は自分のものと考え、谷地の面積ではなく、郡境の問題として理解したところに問題の所在がある

奥山は、以前から紛争のあったこの谷地を蔵入地としようとしたが、失脚と共にこの方針はなくなり、郡境をめぐる争いに発展

しかも、郡境は1645年の国絵図に明記されていたという、驚くべきお粗末さが露呈

l  村どうしの争い

元々谷地をめぐる村と村の争いがあった――周辺住民が谷地を狩場などとして利用していたため、用益権をめぐる争いが頻発していた

l  野谷地争論の発生

1667年、宗倫が領地の一部の開発権を他者に譲渡したため、郡奉行が周辺の了解を取ろうとして宗重側から異論が出た

 

4. 野谷地開発の作法

l  新田開発の手順

藩主が知行地の開発権を与えるほか、上級家臣も開発権を譲渡することが出来た

郡奉行が関係地域の代官に支障の有無を問い合わせる

l  隣郷の同意が「御大法」

1662年の「御郡方御式目」には、野谷地の開発を望む者がいれば、村による年貢納入や入会場の支障にならないよう吟味して許可すると規定――開発に伴うトラブル防止のため

l  開発許可権の変化

開発許認可権は出入司が持つが、もともとは20町歩までを奉行の認可事項とし、それ以上は藩主となっていたものが、幼君ゆえに奉行に権限が委譲され、奉行の権限が出入司の権限になった。さらに後見人の権限に変わったのは、宗勝に藩政の権限が移ったから

 

5. 検分絵図からわかること

l  検分絵図

1669年作成の「谷地検分絵図」からわかること――両郡の百姓たちはいずれも谷地全体を自分のものと考え、それぞれの言い分をきちんと絵図に書き込んでいるのは興味深い

l  桃生郡深谷に入植した給人(家臣)たち

谷地西側(桃生郡深谷)では、給人や百姓による新田開発が進んでいた

l  遠田郡側の開発状況

遠田郡でも北部の谷地に向かって涌谷伊達家の家中や知行地百姓が入り混じりながら、新田開発を進めていた

l  用水堀と潜穴(くぐりあな)

紛争勃発の数年前に、谷地を南北に走る用水堀が引かれ、同時に潜穴というトンネル水路が用水路と排水路として掘削されている(1664年頃)

l  絵図に描かれた沼の所属

谷地内にある3つの沼は、絵図によれば遠田郡に属すとされているが、宗重と宗倫で分割した境塚によれば、3つとも宗倫側に位置しているので、沼の所属と境界線に大きなずれがあった

l  大開発時代がもたらした紛争

紛争の舞台は早くから開発が行われ、特に北上川などの流域には広大な沼沢地が存在し活発な開発の動きがみられる

そうした状況下で、野谷地の境界争論は全国どこでも発生した争論の1つだが、仙台藩はそうした紛争の処理に失敗、伊達騒動を生むことになった

l  昭和50年代まで続いた開発

この谷地北部の干拓工事が完成したのは昭和50年代――名鰭(ひれ)沼竣工記念碑が建つ

 

²  歴史と文学の間――伊達騒動論の系譜

1. 江戸時代の伊達騒動物

l  耳目を集めた伊達騒動

1670年代に書かれた大名評判記の『武家観懲記』にも、不行跡な藩主綱宗、悪役としての宗勝、忠臣としての宗重とっていて、その評判が定着

その後、文学物、演劇物、歴史物など多くの作品を生み出したが、江戸時代の定型的解釈は、「老中酒井忠清・伊達宗勝陰謀説」+「伊達宗勝・原田宗輔逆臣説」が主流

伊達騒動は現在でも歌舞伎や人形浄瑠璃の人気演題だが、史実とはかけ離れた内容に脚色されているのに対し、小説体の実録物は、いかにも史実風だが、フィクションが多い。歴史文学も同様。一方で、騒動の経過を示す史料集の編纂は事件後から行われ、真相究明の歴史研究は明治以降本格化

l  編纂史料

    『桃遠(とうえん)境論集』: 桃生郡の登米(とよま)伊達家と遠田郡の涌谷伊達家とが争った郡境の谷地争論に関する記録で、1699年に涌谷伊達家当主が命じて編纂したもの。立場は明確だが、関係文書を年次的に採録してるため、史料集としての価値は高い

    『茂庭家記録』: 初代当主からの事績を1834年に同家の家臣がまとめたもの。史料と伝聞を書き分ける編纂方針を取り、信頼性が高い

    『田村家記録』: 16581671年の「寛文(時代の)事件記録」で、田村宗良が亀千代の後見人になったことから、それに関する資料が多く収録。最も充実した史料集

    『伊達騒動実録』: 1912年大槻文彦が編纂したもの。関係者の子孫の家に残された騒動に関する古文書を収集。今日伊達騒動研究を継承できる礎となっている

l  実録物(実録体小説)

実際にあった事件などを基に、巷に流れている風説や創作などを交えて書かれた作品のことで、実在の人物名が登場することもあって史実として受容されやすいが、細部は史実ではないことが多いため、フィクションとしての小説に分類される

実在のお家騒動を題材にしていることことから、幕府に版行を禁止されたが、写本として出回ったため、1771年の「禁書目録」には『仙台萩』があげられた

実録物で早いのが『兵甲(ひょうこう)記』で、1717年の自序がある――「兵」は伊達兵部宗勝、「甲」は原田甲斐宗輔。大槻は高く評価、史料集としての価値は高いが、編集目的が宗重顕彰にあり、そうした立場からのコメントも挿入されている

『仙台騒動記』(1718)、『家蔵記』(1734)

『仙台萩』(1754)は登場人物が増え内容も多様化、綱宗をも辻斬りをした慮外な藩主として描かれている

113種類が確認されている。転写の課程で大小の改作が加えられている

l  演劇脚本

最初の歌舞伎は1713年江戸市村座で上演された《泰平女今川(おんないまがわ)

歌舞伎や人形浄瑠璃は人物名も内容も創作され、完全なフィクション。台本が版行されたことから、幕府の禁制に触れないように極端にフィクション化されたのかもしれない

l  「伽羅(めいぼく)先代萩」の筋立て

江戸から現代に至るまで、歌舞伎の伊達騒動もので最も上演されたのは、1777年大坂初演の《伽羅先代萩》。伽羅は香木の良質なもの、銘木ゆえに「めいぼく」と読ませた。藩主綱宗が、貴重品の伽羅を下駄に使うほど贅沢三昧をしたという意味が込められている。「先代」は仙台のこと、「萩」は古代から歌枕として詠まれてきた宮城野萩のことで仙台と重ねる

 

2. 明治以降の作品

l  山路愛山『伊達騒動記』(1901)

山路は、新聞記者を経て評論家・歴史家として活躍

権力闘争として捉え、「役人中の切れ者」と「非役の大身と家中の不平連」を対比させる

戦後の歴史研究では革新的な藩の役人と保守的な一門層の対立として理解する見解が出てくるが、山路は政治力学の視点を入れ、酒井の判断を「天下の大老」に恥じざるものと賞賛

l  大槻文彦『伊達騒動実録』(1909)

「酒井忠清・宗勝陰謀説」+「宗勝・原田逆臣説」を集大成。実証主義者らしく、論の根拠には注の部分に必ず史料を提示。大槻家は、仙台藩の藩医及び蘭学者を歴代輩出。主家の汚名となった伊達騒動は、家臣の学者一族にとっても真相を解明すべき重要な課題だったのだろう。10年かけて調査を行った結果は膨大な引用に表れ、博捜ぶりが窺われる

l  大槻伊達騒動論の不思議

大槻の文書調査の中で、著者が綱宗の不行跡の決定的根拠としてあげた『池田光政日記』など史料2点が欠如しているのは不可解。主家の名誉を守るためか

l  「妄伝」と「事実」

大槻によれば、綱宗の不行跡は幕府老中の耳に入れるほどのことはないにもかかわらず、大ごとになったのは、宗勝がことさらに境に申し入れ、綱宗排斥・お家乗っ取りの布石だったとする。「序言」に宗勝について「志、善からず」とあり、毒殺の噂話が実録物にも残され、歌舞伎でも《飯炊きの場》で乳母の政岡が自分の子を犠牲にして幼君を守ったとして、世間に広く流布しているが、毒殺説は否定している

「妄伝」を除いて「事実」を明らかにすることが「史筆の任」と言いながら、大槻は実録物に拠った不確かな噂話で事件のイメージを作ろうとしたとこもある

l  乗っ取り陰謀説は実証できず

大槻は、乗っ取りの陰謀を必死に探したが、書状の一部を切り取った強引な解釈や、事件から170年後の記録に基づく噂話をまとめたに留まり、明確な根拠を示すことが出来なかった。本書では、綱宗の目に余る酒乱や乱行を持て余した一門や家臣から綱宗隠居の話が出され、老中酒井にまで非礼を働くという不行跡がもとになって、蟄居・隠居まで一気に動いていった過程を明らかにしたが、大槻は綱宗の酒乱は不行跡を起させるために宗勝が唆したと書いて責任を転嫁している。綱宗の過度の飲酒に問題があると気付きながら、不行跡を明らかにする姿勢を見せてはいない

l  田辺実明(さねあき)『先代萩の真相』(1921年刊)

大槻の『伊達騒動実録』を強く批判したもの。田辺は大槻を同郷の師友として敬愛すると書いたが、『実録』については首肯し難いと断罪――田辺は宗勝の知行地出身で、宗勝に藩乗っ取りの徴証は全くなく、逆に宗重の幕府提訴は境界争論に負けた私怨を晴らすためで、藩を危機に陥れた不忠の臣だとする。それぞれの無念を代弁するかのような論

l  朝倉虎雄『伊達安芸と寛文事件』(1929年刊)

今度は涌谷出身の法学者朝倉が、宗重逆臣説に異論を唱えるが、出版元も「伊達安芸公頌徳会」で、宗重顕彰が目的であれば当然。ただ、同書にて原田忠臣説が出てきたとの指摘は興味深い。宗勝の懐に飛び込んで味方のふりをし、仙台藩乗っ取りを未然に防ごうとした原田の言動や、幕府評定の場で刃傷に及んだのは仙台藩を救うためだったとしている

l  真山青果『原田甲斐の最後』

1878年旧仙台藩士の子として仙台で生まれた真山は劇作家・小説家で、’42年芸術院会員に選ばれたが、'31年発表の『原田甲斐の最後』は、老中評定の日を舞台に歌舞伎3幕物の脚本で、幕府による大名改易の対象として伊達家が狙われたというのが基本構図。娘婿に継がせたかった大老酒井の意図を知った原田が宗勝に近づいてお家を守ろうとしたのに、昔気質の一徹物の宗重が幕府訴訟という軽率な行動をとったことに怒って切り付け、老中板倉からお家安泰を聞かされ安心して絶命した

 

3. 戦後の作品

l  山本周五郎『樅ノ木は残った』(1958年刊)の登場

'70NHK大河ドラマ化。酒井と宗勝の陰謀を防いだ原田を忠臣と評価し、刃傷事件も酒井の家臣の仕業として描く。真山の脚本の流れと同じで、最後は、原田が酒井の陰謀を暴いたために、酒井の家臣によって宗重共々斬殺されるが、全てを自分が引き受ければ酒井は仙台藩に手を出せないと考えた原田は、宗重は自分が切ったと言って絶命。幕府も原田が宗重を斬ったと公表。原田の遺骸が祀られる芝増上寺良源院に樅ノ木がある

l  日本文学者蒲生芳郎の評価

‘03年の蒲生が講演で周五郎の作品を評価――周五郎は、由比正雪や田沼意次など通説的な人物像を逆転させる(敗者から歴史を見る)のが得意、原田の犯行が仙台藩安泰に直結するとの関係が不祥、酒井の陰謀を暴く過程にも無理があるとして、作品の史実性を否定

l  「あれは史実です」

山本の描く伊達騒動が評判となって、受け入れる人が多くなると、史実と文学作品による創作とが混同され困惑が広がる。その上、山本もあれ以上に解釈のしようがないという

l  山本周五郎のフィクション

フィクションの一例として、幕府国目付饗応の席次の問題について、原田が席次決定の責任者だったのは明白な事実なのに、原田には言及せずに宗勝の陰謀に作り変えている

l  海音寺潮五郎『伊達騒動』(1965年刊)

山本批判の書。山本解釈の前提にある幕府の外様潰しは一時代前のことだとする。宗勝に専横があったかもしれないとするが、原田は単なる家柄家老で、山本の描く理知的な原田像を否定。わずかな領分のことを大袈裟に幕府に持ち出したお家の恥さらしに憤慨したのが刃傷事件の動機で、私欲に走った宗重の忠臣説を否定

 

4. 歴史学における伊達騒動論

l  伊達騒動論への視点

1970年、戦後歴史学の視点を反映させた伊達騒動の研究所2冊が刊行――忠臣・逆心で人物を論ぜず、史料を踏まえた騒動の経緯を分かりやすく紹介

l  小林清治『伊達騒動と原田甲斐』

一連の騒動を、綱宗強制隠居事件と、原田宗輔の大老邸刃傷事件に帰結する藩内対立の2つの流れで把握。前者については、藩主権力を強化しようとする綱宗と、それを制約しようとする一門の争い、あるいは綱宗の独裁政治に対する家臣の反発と位置付け、後者については、藩の集権的体制を作り上げようとする後見人と一門の対立、および宗勝が重用した小姓頭や目付頭などの出頭人と譜代直臣の対立、さらに一門間の対立など、いくつもの抗争の要素が絡んで展開したとする

大名による権力の確立過程に関する研究が進んだ結果で、奥山や宗勝らの進歩主義と、宗重に代表される家臣たちの保守主義の対立が生んだ騒動だったという結論だが、綱宗の強制隠居は、綱宗の独裁への反発というより、不行跡への失望ゆえに、異論なく隠居の動きとなった

l  平重道『伊達騒動』

外様大名の改易は家光時代までなので酒井の陰謀説は否定。綱宗の逼塞は「身から出た錆」

酒井の態度は始終公平で、仙台藩存続を第一に考えていたゆえに、酒井失脚後も伊達家は謝恩の礼を欠かさず、伊達家にとって酒井は大恩人だったとする

仙台藩が古い身分制度や慣行から脱皮して新しい体制に向かう途上だったとする評価は小林とも共通で、1970年前後に主流となった進歩主義的な歴史研究の影響が見て取れる

l  笠谷和比古『主君「押込(おしこめ)」の構造』

綱宗の強制隠居を、大名家の政治体制が内包する一般的な慣行だとみなし、主君「押込」と表現。主君への忠義よりお家に対する忠義を優先した主君廃位の行為とする

酒井忠清が伊達家担当の取次老中だったことから、事前に相談に乗ったという説もある

 

²  なぜ仙台藩は改易されなかったのか――エピローグ

l  領地召し上げに匹敵

10年間に2度にわたる不祥事は領地召し上げに匹敵するが、最初は、政宗、忠宗2代にわたる将軍家との親密な関係を考慮して逼塞に留まり、2度目も同様の理由か

大槻は、幕府が人選した後見人による失政だったからと推測

l  卓抜な危機管理

家康が病の床にあった時、駆け付けた政宗は忠誠を誓い、感激した家康は秀忠の後ろ盾になることを頼み、ともに涙したと『徳川実紀』にも記載あり、政宗は秀忠からも家光のことを託された

幕府転覆をはかった由井正雪事件(1651)以後、幕府は浪人問題を恐れて改易の方針を転換しており、伊達騒動でもいち早く幼少の藩主の身上に気遣いなしとしている

l  政宗と忠宗の治政

4代藩主も後に強制隠居させられている

政宗から忠宗への政権移行は、政宗存命中に隠居し、譜代の家臣によって守られながら忠宗の藩政運営がなされていて、治政に不安はなかった

l  不安視された3代綱宗

綱宗は、襲封の前から忠宗に素行の悪さを心配され勘当すら考えていた

抑え役の不在が藩主としての独善と放埓を助長させた

藩という体制は、藩主・家臣・領民からなる共同体であり、綱宗の後継者も伊達家の血筋から選ばれているし、綱宗も隠居後側室7人に711女を生ませ、子女を通して伊達一族や大名間の紐帯の強化に貢献した。藩主の血筋は貴種として尊重された

l  4代綱村(亀千代)の強制隠居

事実上の藩主不在と、後見人政治への不信感が藩政の混乱を招いた中で育った亀千代は、学問に励み、儒学の仁政(じんせい)観を反映した治政を目指したが、親政開始11年後の1686年、人材登用が側近政治を招き、儒教や黄檗宗への傾倒から寺社造営が財政を逼迫し、一門衆からの批判を浴び、江戸城中での不穏な言動もあり1703年老中から隠居勧告

l  理想とされた政宗と忠宗の治政

家臣からの諫言書には、政宗・忠宗の治政こそ理想的としたが、家臣が藩主を尊敬して帰服することこそ必要条件だった

一門や親族大名がご意見番として、お家の危機管理に重要な役割を果たす

境一幕府の老中たちも仙台藩存続に意を尽くし、将軍家に対する政宗・忠宗の忠義に応え、仙台藩もまた幕府に強い恩義を抱き続けることが、戊辰戦争の時幕府方であることへの拘りとなったと推測

 

あとがき

本書のきっかけは、NHKの大河ドラマを観て、小説とはいえ筋書きに納得いかない部分が残ったこと

『仙台市史』(2003年刊行)の編纂が始まった時、担当の1つとして伊達騒動を希望。その時書ききれなかった部分を本書は補足するもの

伊達騒動の研究はこれまで、藩政史や朝廷・幕府・大名の関係論として進められて来たが、元々は村どうしの入会場(共同利用権)をめぐる争いに本源があり、地域社会の紛争が知行地支配をめぐる紛争へと拡大し、藩政における権力闘争へと展開していったもので、本書はその連関を、新しく発見された史料にも基づきながら明らかにしている

歴史の解釈は不変ではないし、立場によっても異なる。だから歴史の解釈は常に更新されていく。それが歴史の魅力。本書は、伊達騒動論の現在ということを意識して書いたもので、今後本書と異なる解釈が提示される可能性はあり、その場合には、史料や有力な根拠に基づいた、より合理的な解釈として提示されることを期待したい。それが歴史研究に求められていることだからだ

 

 

 

 

Wikipedia

伊達騒動(だてそうどう)は、江戸時代前期に伊達家仙台藩で起こったお家騒動である。黒田騒動加賀騒動または仙石騒動とともに「三大お家騒動」と呼ばれる。

l  経緯と背景[編集]

騒動は3期に分類され、それぞれが関連性を持っているが、一般に伊達騒動と呼ばれるのは「寛文事件」であることが多い。

(1) 綱宗隠居事件[編集]

仙台藩3代藩主の伊達綱宗は遊興放蕩三昧であったため[ 1]、叔父にあたる一関藩主の伊達宗勝がこれを諌言したが聞き入れられなかった。このため宗勝は親族大名であった岡山藩池田光政[ 2]柳川藩立花忠茂[ 3]津藩京極高国[ 4]と相談の上、老中首座酒井忠清に綱宗と仙台藩家老に注意するよう提訴した。

しかし綱宗の放蕩は止まず、ついに1660万治3年)79に家臣と親族大名(池田光政・立花忠茂・京極高国)の連名で幕府に綱宗の隠居と、嫡子の亀千代(後の伊達綱村)の家督相続を願い出た。718に幕府より綱宗は21歳で強制隠居させられ、4代藩主にわずか2歳の伊達綱村が就任した。

なお、伊達騒動を題材にした読本や芝居に見られる、吉原三浦屋の高尾太夫の身請け話やつるし斬り事件などは俗説とされる[ 5]。また、綱宗の隠居の背景には、綱宗と当時の後西天皇が従兄弟同士(母親同士が姉妹)であったために、仙台藩と朝廷が結びつくことを恐れた幕府が、綱宗と仙台藩家臣、伊達一族を圧迫して強引に隠居させたとする説もある[ 6]

(2) 寛文事件[編集]

綱村が藩主になると、初めは大叔父にあたる宗勝や最高の相談役である立花忠茂が信任する奉行(他藩の家老相当)奥山常辰が、その失脚後に宗勝自身が実権を掌握し権勢を振るった。宗勝は監察権を持つ目付の権力を強化して寵愛し、奉行を上回る権力を与えて自身の集権化を行った。奉行の原田宗輔もこれに加担して、その中で諫言した里見重勝の跡式を認可せずに故意に無嗣断絶に追い込んだり、席次問題に端を発した伊東家一族処罰事件が起こる。

かつて奥山を失脚に追い込んだ一門の伊達宗重涌谷伊達家)と宗勝の甥にあたる伊達宗倫登米伊達家)の所領紛争(谷地騒動)が起こり、一旦宗重は裁定案[ 7]を呑んだものの、宗勝の寵臣の今村を筆頭とする検分役人による郡境検分で問題が生じたことにより、伊達宗勝派の専横を幕府に上訴することになった。

寛文11年(1671125日、柴田朝意は騒動の審問のために伊達宗重より早く江戸幕府より江戸出府の命を受け、仙台より江戸に立つ。また朝意は田村宗良に、自身の老齢を理由に古内義如の江戸出府を要望する。

同年37日に伊達宗重、柴田と原田が老中板倉重矩邸に呼ばれ、土屋数直列座の下で1度目の審議が行われ、最初に朝意が審問を受けた。この審問で、藩主の伊達綱基(後に改名して綱村)への処分がないことが確定した旨の書状を朝意は隠居の綱宗の附家老や田村家家老に送っている。なお、原田と柴田の証言の食い違いにより、古内も呼ばれることとなった。

同年327に当初予定の板倉邸から大老1666(寛文6年)就任)である酒井忠清邸に場所を変更し、酒井忠清を初め老中全員と幕府大目付も列座する中で2度目の審問が行われるが、その審問中の控え室にて原田はその場で宗重を斬殺し、老中のいる部屋に向かって突入した。驚いた柴田は原田と斬りあいになり、互いに負傷した。聞役の蜂屋可広も柴田に加勢したが、混乱した酒井家家臣に3人とも斬られて、原田は即死、柴田もその日のうちに、蜂屋は翌日死亡した。関係者が死亡した事件の事後処理では、正式に藩主綱村は幼少のためお構い無しとされ、大老宅で刃傷沙汰を起こした原田家は元より、裁判の争点となった宗勝派及び、藩主の代行としての責任を持つ両後見人が処罰され、特に年長の後見人としての責務を問われた宗勝の一関藩は改易となった。

刃傷事件の顛末の記録として、当事者のものとしては古内義如の書状や酒井家家臣の記録があり、伝聞としては伊達宗重家臣の川口が事件直後に古内に聞いた話や末期の柴田からその家臣や藩医が聞いた話、同じく虫の息の蜂屋からその息子や娘婿が聞いた話などがあり、公式記録としては『徳川実紀』や『寛文年録』、仙台藩の「治家記録」などがある他、後世の実録物を加えるとその量は多い。また歌舞伎伽羅先代萩』『伊達競阿国戯場』や、山本周五郎の小説『樅ノ木は残った』などの題材となった。

派閥は以下のとおり[ 8]

反伊達宗勝派[ 9]

伊達安芸宗重(一門、反奥山派反宗勝派)

柴田外記朝意(奉行、宗勝から奥山派とされた)

古内志摩義如(奉行、宗勝から奥山派とされた)

茂庭周防良元(若年寄兼評定役)

片倉小十郎景長

里見十左衛門重勝(小姓頭、旧反奥山派)

伊東七十郎重孝

蜂屋(谷)六郎左衛門可広(聞役)

田村顕住(出入司、渡辺と原田から宗重派とされた)

主な伊達宗勝派

伊達兵部少輔宗勝(一門大名、後見役。当初は田村宗良同様に奉行の案を追認するだけであったが、後に実権を掌握)

奥山大学常辰(奉行筆頭、初期には綱宗や立花忠茂の信任により宗勝以上に実権を握り、内分分知両後見人と仙台藩との関係を巡って宗勝や田村宗良と対立し、失脚)

原田甲斐宗輔(奉行、当初は宗勝からは悪評価を受けていたが、奥山失脚後に宗勝の太鼓持ちとして台頭)

津田玄蕃景康(若年寄兼評定役)

高泉長門兼康(江戸番頭)

志賀右衛門由清(徒小姓頭、谷地騒動を寛文事件に発展させた検分役人、但し「悪儀の同類ではない」とされる)

浜田一郎兵衛重次(徒小姓頭、谷地騒動を寛文事件に発展させた検分役人、但し「悪儀の同類ではない」とされる)

今村善太夫安長(目付、谷地騒動を寛文事件に発展させた検分役人。寵臣の中心人物)

横山弥次郎右衛門元時(目付、谷地騒動を寛文事件に発展させた検分役人)

早川淡路永義

渡辺金兵衛義俊(目付小姓頭。寵臣の中心人物)

(3) 綱村隠居事件[編集]

寛文事件が落着した後、藩主としての権力を強めようとした綱村は、次第に自身の側近を藩の重職に据えるようになった。これに不快感を示した伊達一門と旧臣は綱村に諌言書を提出したが、聞き入れられなかった。このため1697元禄10年)、一門7名と奉行5名の計12名の連名で、幕府に綱村の隠居願いを提出しようと試みた。これに対し、伊達家親族の高田藩稲葉正往は隠居願いを差し止めた。

その後も再三にわたり、一門・家臣の綱村に対する諌言書の提出が続いた。1703(元禄16年)、この内紛が5将軍徳川綱吉の耳に達し、仙台藩の改易が危惧されるようになった。このため老中1701(元禄14年)就任)の稲葉正往は綱村に状況を説明し、隠居を勧告した。これに促され、綱村は幕府に対して隠居願いを提出し、綱村には実子がなかったため従弟の伊達吉村5代藩主となった。伊達騒動は綱村の隠居でようやく終止符が打たれることになった。

l  題材にした作品[編集]

伽羅先代萩歌舞伎の演目

伊達競阿国戯場:同上

慙紅葉汗顔見勢:同上

赤西蠣太志賀直哉の小説、およびそれを原作とした映画(伊丹万作監督、1936年、千恵プロ)、テレビドラマ

伊達事変:白井喬二の小説

腰抜け伊達騒動:斎藤寅次郎監督の映画(1952年、松竹)

樅ノ木は残った山本周五郎の小説、およびそれを原作としたテレビドラマ(1970NHK大河ドラマ他)

危し! 伊達六十二万石:山田達雄監督の映画(1957年、新東宝)

伊達騒動 風雲六十二万石:佐伯監督の映画(1959年、東映)

海音寺潮五郎 「列藩騒動録」新潮社 1965 のち講談社で文庫

注釈[編集]

1.    ^ ただしこれは事実でなく、口実であるとする説もある。

2.    ^ 綱宗の父・忠宗正室である孝勝院は光政の叔母だった。

3.    ^ 忠宗の娘婿で綱宗の義兄だった。

4.    ^ 祖父・政宗の娘婿で忠宗の義弟だった。

5.    ^ 万治元年(165912月、隅田川三又(みつまた)で綱宗に遊船の中で吊し斬りにされた。」「仙台侯が請出して56歳で天寿を全うした。」などの逸話が残るが、実際はこの時代には吉原三浦屋に、高尾の名跡の遊女は存在していない。

6.    ^ 伊達騒動関係研究では滝沢武雄[1]、近世天皇研究関係では久保貴[2]、この説を採る。

7.    ^ 谷地を宗重が3分の1、宗倫が3分の2に分割する案。なお、後年の元禄10年(1697)に幕府による新たな国絵図の提出を求められたために、参考のために幕府より借用した正保国絵図で宗重の主張が正しかったことが判明するが、不幸にも仙台藩の持っていた控えが紛失したためか、奉行や後見人が証拠資料として参照していた形跡はない。

8.    ^ 役職は「仙台市史」より抜粋した。

9.    ^ 柴田、古内、片倉、茂庭が宗重の国目付差出を一度妨害したり、古内と柴田が伊東重孝の死刑を上申したりしているので確固たる派閥とは言い難い。

 

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