ユグルタ戦争/カティリーナの陰謀  サルスティウス  2023.1.12.

 2023.1.12.  ユグルタ戦争/カティリーナの陰謀

 

著者 ガイウス=サルスティウス=クリスプス BC86頃~BC35頃。ローマ共和政末期の異才の歴史家。完全な形で現存するのが『ユグルタ戦争』と『カティリーナの陰謀』。帝政期の歴史家タキトゥスをして「ローマの歴史についての最も華々しい書き手」と評せしめた。以下『23-01 カティリーナ』のWikipedia参照

 

訳者 栗田伸子  東京学芸大教育学部人文科学講座教授。共著に『興亡の世界史 通商国家カルタゴ』

 

発行日           2019.7.17. 第1刷発行

発行所           岩波書店 (岩波文庫)

 

 

22-12 〈内戦〉の世界史』(3)で、17世紀に最も人気を博したイングランドの悲劇のもとになった物語として紹介

他に、『23-01 カティリーナ』も参照

 

 

²  ユグルタ戦争

第1章         

人間は自らの本性について、弱く、寿命が短く、徳よりも偶然によって支配されると言って嘆くが、誤りである。なぜなら、反対によく考えれば、これほど偉大で素晴らしいものは他に1つもないのであり、また人の本性に欠けているのは強さや時間というより勤勉さであることに気が付くであろうから

 

第2章         

すべてのことと我々のあらゆる営為は、あるものは肉体の、他のものは精神の本性に従っている

 

第3章         

政務官職や諸命令権など、およそ公共に関わる務めは、栄誉が徳に対して与えられるわけでもないし、欺瞞によってそれを得た者が安泰なわけでも、その分、誉れが増すわけでもないので、魅力がない

 

第4章         

才能によって達成されるべき事業のうちでも、第1に有益なのは、なされた事の叙述

 

第5章         

私が書こうとしているのは、ローマ人がヌミダエ(ヌミディア)人たちの王ユグルタとの間に起こした戦争

2次ポエニ戦役の時代、ヌミダエ人たちの王マシニッサは、大スキピオと協力して西部のシュパックスを破ったが、その息子ミキプサが政権を握ると、妾腹の子だとして臣下に留め置かれていた甥のユグルタを、我が子と同じ扱いで王宮に住まわせる

 

第6章         

ユグルタは、成長すると突出した才能を示し、ヌミダエ人たちの熱狂的な支持を得る

 

第7章         

イベリア半島でのローマ軍の戦いの支援にヌミダエ軍を送る際、ミキプサはユグルタを派遣、危険の矢面に立たせて運試しをしようとしたが、逆効果で、すっかり名を上げて帰還

 

第8章         

大スキピオはユグルタに贈り物を与え大いに称賛

 

第9章         

ミキプサは、ユグルタの評判を聞いて養子に迎え、息子たちと同等の相続人に指定

 

第10章      

ミキプサは、息子2人とユグルタに、兄弟仲良くするよう諭した後死去

 

第11章      

早速弟の方がユグルタの生まれの卑賤さを理由に排除しにかかり、ユグルタも対抗

 

第12章      

3人の意見の不一致から共同統治は見送られ、領土を分割、財宝を分ける段になって、ユグルタは弟を襲撃して印を挙げる

 

第13章      

ユグルタの裏切りの話は瞬く間にアフリカ中に知れ渡る

ユグルタは、ヌミダエ人の多くを支配下に加える一方、兄はローマの元老院に訴え出る

ユグルタは、手にした莫大な財宝を使ってローマ人を買収しようとする

 

第14章      

兄はローマの元老院に対し、父の教えに従って、ローマと友好関係を保つべく努力してきたが、ユグルタは王権とすべての財宝を奪ったと非難し、ローマからの庇護を求める

 

第15章      

ユグルタ側は、死者が賄賂の方を頼みに、弟は己の残忍さゆえにヌミダエ人たちに殺されたのであり、兄は自分から戦争を仕掛けて負けた後に不正行為の失敗を嘆いているに過ぎないと主張

元老院はユグルタを全面的に支持したが、富よりも善と公正さを大事に思った少数の議員は兄を救援して、弟の死に対して厳重に報いるべきと主張

 

第16章      

ユグルタは、大部分の議員を買収によって味方につけ、領土分割において、ヌミディア西部の土地も人口もより豊かな部分を獲得し、東部の実質より見かけに優れ、港湾により恵まれ、建造物はより多く備わった部分が兄のものとなった

 

第17章      

アフリカの境界は、西方ではわれらの海(地中海)と大洋の海峡(ジブラルタル)であり、東方は傾斜した幅広い土地(リビアのキレナイカ地方、エジプトはアジアの一部と見做されていた)で、この傾斜地を住民はカタバトゥモス(奈落)と呼ぶ

 

第18章      

原初アフリカに住んでいたのはガエトゥリー人とリビュエース(リビュア)

時代とともに、メディー(メディア)人、ペルサエ(ペルシア)人、アルメニ―(アルメニア)人が船でアフリカに渡り。原住民と通婚によって混血しながら定着し、ヌミダエと称した

 

第19章      

ユグルタ戦争の頃には、ポエニの町々の大多数とカルタゴ人が末期に持っていた領土は、ローマ人民が政務官を通じて統治

 

第20章      

ユグルタは、温厚で無防備の兄の領土に侵入、略奪を始める

 

第21章      

兄は武器を取ってユグルタに立ち向かったが敗走、ローマ人の守る街に逃げ込む

兄がローマに助けを求め、ローマから派遣された使節は、両者に法による決着を要請

 

第22章      

ユグルタは使節に対し、元老院を尊重するが、兄は計略で自分の命を狙ったものであり、自分はその犯罪に対抗しただけと釈明

 

第23章      

ユグルタは兄が籠る街を包囲し攻め立てる中、兄は必死に使節をローマに送る

 

第24章      

兄は自らの窮状と、ユグルタがローマの使節の指示に従わないことを元老院に訴える

 

第25章      

さらに元老院から使節が派遣され、ユグルタに出頭するよう指示。ユグルタは、まずは兄を攻め落とそうとしたが、なかなか落ちないため、仕方なく使節からの召喚に応じる

使節団は、ユグルタを脅して善処を指示したが、空しく立ち去る

 

第26章      

兄は、支援してくれていたイタリア人たちに説得され、身の安全を条件にユグルタに降伏する。ユグルタはまず兄を責め苦にかけて殺し、次いですべての武器を持ったヌミダエ人を殺害

 

第27章      

ユグルタの行為が元老院で論じられ始めると、ユグルタに買収されていた議員たちの揉み消し工作に対し、次期護民官のメンミウスがユグルタの犯罪を見逃さず、アフリカに軍隊を派遣することが決まる

 

第28章      

ローマは何でも金で買えると固く信じていたユグルタだったので、再度買収を画策したが失敗。ローマの執政官で職務管轄としてヌミディアを割り当てられたカルプルニウスは軍勢を率いてヌミディアに入り、多くの人間といくつかの都市を攻め取る

 

第29章      

ユグルタは金銭で誘惑し、形の上で降伏を申し出、わずかな家畜と銀で降伏が認められ、ローマ軍とヌミディアの間には平和が訪れた

 

第30章      

アフリカでの経緯が風聞によって知れ渡ると、ローマではあらゆるところで激しい怒りが起こり元老院議員は動揺、メンミウスが民衆の心を煽り立てた

 

第31章      

メンミウスは、「少数の門閥貴族が富を我がものとするのを看過してはいけない。ユグルタの降伏は見せかけだけだ。騙されてはいけない。元老院の権威が侵されている」と警告

 

第32章      

ユグルタをローマに出頭させるというメンミウスの提案は、全門閥が狼狽するうちに採択され、プラエトル(執政官に次ぐ職)のカッシウスが派遣され、ユグルタの説得にあたる

 

第33章      

ユグルタは哀れみを乞いにローマに来るが、またしても護民官らを買収、激高する民衆を宥めてメンミウスがユグルタに、自らの口で父や兄弟への罪のすべてを懺悔するよう迫る

 

第34章      

ユグルタやベスティア(=カルプルニウス)の厚顔無恥が勝利を収め、人民は愚弄されて集会から去る

 

第35章      

ローマにいたマシニッサの孫に、元老院にヌミディアの王位を求めるべきと唆す陰謀があり、聞きつけたユグルタが孫を暗殺させるが、実行犯が捉えられて自白、揉み消しを図る

 

第36章      

戦争で決着をつけようとした執政官がヌミディアに出征するが、ユグルタは戦う姿勢を見せたり引っ込めたりしながら執政官を愚弄

 

第37章      

この時期ローマでは護民官たちの争いによって国家が著しく混乱

現地に残された軍勢が、王の財宝を求めて動き出す

 

第38章      

ユグルタはこの軍勢の隊長たちを買収して、夜陰に乗じて軍勢を包囲、死の恐怖との交換で和平条約を結び、ローマ軍は引き揚げて王の平和が戻る

 

第39章      

このニュースがローマに知られると、恐怖と悲嘆が市民を襲う

元老院は条約の無効を宣言、執政官はアフリカに残る軍勢で反攻しようとしたが、潰走した軍勢は使い物にならなかった

 

第40章      

ローマでは民衆の間に、門閥貴族への憎悪からユグルタ側に立つ者たちの糾弾が始まる

 

第41章      

カルタゴの滅亡以前はローマの人民と元老院は穏やかに中庸を保ってお互いの間で国家を運営しており、栄光や支配をめぐる争いは市民の間には存在しなかった。敵への恐れが市民団をよき慣習の中に繋ぎ止めていたが、恐れが去ると放縦と傲慢が襲って来た

門閥貴族は地位を、人民は自由を濫用し始め、すべては2つの党派に引き裂かれ、国家は破砕されたが、門閥層は派閥によってより強力である一方、平民は結束が弱く弱小

 

第42章      

グラックス兄弟が平民の自由を主張し、少数者の悪行を明るみに出し始めると、門閥貴族は狼狽し、抵抗して兄弟を殺害、手段を選ばぬやり方は多くの偉大な国々を滅亡に導く

 

第43章      

新たな執政官のうち、ヌミディアを管轄したのはメテッルスで、新兵を募ってヌミディア征服に向かう

 

第44章      

メテッルスがアフリカで引き継いだ軍勢は、規律もなく、気質に節度もないもの

 

第45章      

メテッルスは、まず怠惰を一層、厳格な規律を取り戻し、陣営を動かし緊張感を高める

 

第46章      

ユグルタは、メテッルスが買収し難い人物であることを知って、降伏の使節を送るが、メテッルスはユグルタの真意をはかりかね、使節に寝返りを要求する傍ら、自ら兵を率いて確かめに出る。最後尾に配置されたのは副官のガイウス=マリウス、後の民衆派の巨頭

 

第47章      

メテッルスは着々と補給基地を確保する一方、ユグルタはたびたび使節を送って恭順の意を表すが、メテッルスは使節たちが裏切りを実行するのを辛抱強く待つ

 

第48章      

メテッルスがじわじわと迫ってくるなか、ユグルタは戦うことを決意

 

第49章      

ユグルタ軍が待ち伏せしているところにメテッルス軍が出没

 

第50章      

ユグルタ軍は、メテッルス軍を包囲し、土地勘に勝る優位を活用してローマ兵を襲う

 

第51章      

両軍入り乱れての戦いは、計画や命令によってなされることは何1つ亡く、偶然がすべてを支配。勝敗の行方は混沌

 

第52章      

メテッルスには兵の武勇の点で利があったが地形の点では不利、他方ユグルタは兵以外のすべての点で有利

 

第53章      

ローマ兵は、ヌミディア軍の象部隊を撃破

 

第54章      

真正面から戦っても勝敗の帰趨がはっきりしないところから、メテッルスはヌミディアで最も豊かな地域に進軍し、農地を荒らす戦略に出るが、ユグルタはゲリラ戦で対抗

 

第55章      

メテッルスの戦績にローマでは歓喜が巻き起こり、メテッルスの名声は赫々たるものとなり、彼は一層熱心に勝利を追求

 

第56章      

ローマ兵が地方の王国の砦を攻めようとした時も、ユグルタ軍はいち早く待ち伏せ。糧秣調達のため移動中のマリウスの軍隊にも襲い掛かる

 

第57章      

砦の攻防戦は続く

 

第58章      

ユグルタの攻勢も、メテッルスは撃退

 

第59章      

翌日も城壁をめぐる攻防が続く

 

第60章      

翌日もまた城壁をめぐって戦いが続く

 

第61章      

メテッルスは、夏が終わったのを見て、冬営のために布陣するとともに、ユグルタの副官の買収を策略。副官は不実な性分の上、ローマとの和平の際は処刑のため引き渡されることを恐れていた

 

第62章      

副官は、ユグルタに敗北を認めて降伏することを勧め、ユグルタは勧めに従って、メテッルスに使者を送り、その命令に従って武器も人員も資金もすべて差し出す

アフリカ属州に召喚されたユグルタは、良心の疚しさから報いを恐れ始め、再び心変わりして戦争に着手

 

第63章      

執政官職を渇望していたマリウスだったが、その資質は十分備わっていて、短期間に頭角を現し、次々に様々な官職を手にしていた

 

第64章      

ある日マリウスは占い師から、偉大で驚くべき未来の前兆を告げられ、メテッルスに賜暇を願い出る。驚いたメテッルスは自重を求めるが、逆にマリウスの欲望と押し留められたことへの怒りに火が付き、メテッルスのやり方への批判を始める

 

第65章     G

マリウスは、メテッルス軍にいたマシニッサの孫に接近し、王者の格式に倣って処遇するよう主張すると同時に、ローマにいる縁者たちにもマリウスを司令官とするよう働きかける。平民が、門閥貴族が腐敗によって訴追された後の新しい為政者を求める動きに合致

 

第66章      

ユグルタは戦争再開を周到に準備、祭りの日を狙って油断したローマの守備隊を襲撃

 

第67章      

守備隊は、隊長1人だけが奇跡的に無傷で逃れたほかはすべて殺戮

 

第68章      

メテッルスは直ちに反撃に出、復讐に向かう

 

第69章      

メテッルスから戦利品略奪を約束されたヌミディア人騎兵は、味方だと思って城から出てきた民衆を皆殺しにして、略奪の限りを尽くす

 

第70章      

ユグルタの副官は、ユグルタの片腕でもあった巨万の富を持つ貴族を篭絡して、ユグルタに詭計を張り巡らすが、貴族は逡巡

 

第71章      

貴族は、部下の機転でユグルタに詭計が漏れたことを知り、ユグルタに弁解し許しを乞う

 

第72章      

ユグルタは直ちに副官とその一味を殺害するが、以降狂気の如き恐怖にかき乱される

 

第73章      

メテッルスは副官の破滅を知って新規の戦争を始めるための準備を行う

ローマでは平民たちが、メテッルスとマリウスを比較、前者が門閥貴族であることに嫌悪を抱き、いやしい出自のマリウスに人気が集まり、執政官職が与えられ、対ユグルタ戦の司令官もマリウスに交代

 

第74章      

ユグルタの周囲からは友人も去り、不決断の日々を送る中、メテッルス軍の攻撃に敗走

 

第75章      

ユグルタは、財宝を隠した村を最後の砦として籠るが、そこもメテッルスが攻撃

 

第76章      

ユグルタは放浪の旅に出て、メテッルスは破壊され尽くした村に入る

 

第77章      

フェニキア人が作った町レプティスもメテッルスに恭順の意を表す使節が送られてくる

 

第78章      

レプティスは、ヌミディアから遠く離れていたこともあって、その王の支配から独立を容易に保つことが出来た

 

第79章      

この場所は、カルタゴ人(ポエニ人)がアフリカの大部分を占めていたころ、植民してきたギリシャ人との間で境界を定めた故事に関連する。両者が境界に関する争いに疲れ、共通の敵に対処するためそれぞれの使節が出発して遭遇した点を境界にすることとしたが、お互いの使節が遭遇した地点がギリシャ側により過ぎているとギリシャが何癖をつけ、カルタゴの使節に対し、「相手が自国民のための境界線だと主張するその場所に生き埋めになるか、それとも同じ条件で自分たちを好きな場所まで前進させるか選べ」と迫り、カルタゴの使節は自己の生命を国家のために差し出し、進んで生き埋めになったという

 

第80章      

放浪のユグルタは、野蛮で未開な種族だったガエトゥリー人(18章参照)の村にたどり着き、彼らの王ボックスを懐柔してローマ兵に立ち向かわせる

 

第81章      

メテッルスが戦利品や捕虜を置いていた町の攻撃に向かう

 

第82章      

メテッルスは、ユグルタの蜂起に立ち向かうべく準備を進めるが、マリウスが執政官に就いてヌミディアの管轄になったことを知って悲嘆にくれる

 

第83章      

メテッルスは、ボックスに対し、理由もなくローマ人民の敵になるなと忠告し、ユグルタとの離反を画策。やりとりしている間戦争は引き延ばされた

 

第84章      

執政官となったマリウスは、門閥貴族を大々的かつ激烈に攻撃、敵対していた元老院からも軍団の補充の承認を取り付け、人民に軍団への参加を呼びかけ

 

第85章      

マリウスは、自分の下に結集して、ユグルタに対しても共に労を取ることを人民に呼び掛ける

 

第86章    

マリウスは、決議された以上の軍勢を率いてアフリカに向かう

 

第87章      

執政官は、粛々と軍を進め、手に入れたものはすべて兵士たちに与えた

ユグルタは、峻険な土地に逃げ去り、ローマ軍の規律が弛緩することを狙う

 

第88章      

ローマに戻ったメッテルスは、予期に反して平民にも貴族にも、喜んで迎えられた

反撃の機会を狙うユグルタに対し、ボックスの方はマリウスに友好を望む使節を送る

 

第89章      

マリウスは徐々にヌミディアの町を征服していく

 

第90章      

夏の終わりの乾燥した時期で、ローマ軍は穀物の不足に悩まされる

 

第91章      

マリウスは、全軍を集めて慎重に準備し、ユグルタの拠点を急襲し、火を放つ

 

第92章      

この作戦の成功で、マリウスの名は偉大で著名となり、さらなる奥地の要塞へと迫る

 

第93章      

攻めあぐねていたが、自然の要害を背後から攻める道を見つける

 

第94章      

背後からの攻撃によって、要塞は陥落

 

第95章      

財務官ルーキウス=スッラが騎兵の大軍とともに陣営に到着

スッラは後に閥族の巨頭となり、元老院の後押しでマリウスと対立、内戦に勝利して独裁官の新体制を築き、多くの反対派市民を無慈悲に大量処刑

 

第96章      

スッラは、マリウス陣営内で兵士たちに恩恵を施し、多くのものに貸しを作るよう努力した結果、マリウスにも兵士たちにも最も愛される存在となる

 

第97章      

ユグルタは、逡巡するボックス王を、無傷で戦争が終わったらヌミディアの1/3を与えるといって誘惑し、ともにローマ人に立ち向かわせ、冬営陣地に向かうローマ軍を襲う

 

第98章      

マリウスは苦戦する味方の兵をまとめて、退却のための場所を確保

 

第99章      

マリウス軍を包囲して、勝利に酔うヌミディア軍がようやく疲れて寝たところで反撃を開始、一気に相手を殲滅

 

第100章   

マリウスは、予定通り冬営陣地に向かい、自身も武装して気を引き締め、同様のことを兵士にも強いた。自ら歩哨の番兵たちを見回り、労苦を分かち合った

 

第101章   

ユグルタ軍は4つに軍勢を分けてローマに挑むが、幾つかは敵の背後を突くとの期待は裏切られる。ローマ兵の敗勢を救ったのはスッラの騎兵部隊で、ボックスの軍勢を打ち破り、ユグルタも辛うじて逃げ延びる

 

第102章   

ボックスはマリウスに和睦を求める

 

第103章   

ボックス王はマリウスに許しを請い、そのアドバイスに基づいて元老院に使者を送る

 

第104章   

元老院はボックスに対し、過ちへの許しを与える

 

第105章   

スッラがボックスの下に派遣される

 

第106章   

途中でユグルタが待ち伏せ

 

第107章   

スッラは、恐れずにユグルタの陣中を強行突破。予想外の行動にユグルタも手を出せず

 

第108章   

ボックスは、スッラとユグルタを天秤にかけ、両者を同時に平和の希望で引き留めていた

 

第109章   

スッラはボックスと2人だけでの話し合いを求める

 

第110章   

ボックスは、ローマ人との戦争は望まないし、ミキプサとの境界は今後も侵さない、ローマ人が望むようにユグルタとの戦争をしてほしいとスッラに自分の真意を伝える

 

第111章   

スッラはボックスに対して、ただ自分の領土に引き籠るだけでは元老院もローマ人民も納得しない、ユグルタを引き渡すことを要求したため、初めてボックスは固く拒む。王にとっては人民がユグルタと親しく、ローマ人を嫌っていることで難色を示したが、最後は折れてスッラの言う通り約束

 

第112章   

ボックスはユグルタを説得にかかり、ユグルタは納得はしたもののマリウスを信用していないので、平和のための3者会談には応じるが、スッラを自分に引き渡してほしいと要求

ユグルタは、スッラのような門閥貴族が国家のために敵の手に落ちたとなれば、ローマも放っておけず、元老院か人民の命令によって条約が成るだろうと考えた

 

第113章 

ボックスは、スッラとユグルタの双方に同じことを約束し、3者会談の場が設けられる

最後の段になってボックスはスッラを呼んで、彼の望みに従ってユグルタに詭計を向ける

会談当日、ユグルタが約束に従って非武装で会場に来たところを待ち伏せして捕縛され、マリウスの下に連行される

 

第114章   

同じ頃、ローマはガリア人と戦って敗れる(BC105年アラウシロの戦い)

ヌミディアでの戦争が終結しユグルタがローマに連行されると、マリウスは不在のまま執政官にされ、職務管轄としてガリアが与えられる。ローマ人は、ガリアとは栄光のためではなく安寧のために戦うのだと考えてきた。マリウスは、翌年初執政官として凱旋し、国の希望も力も彼の裡に存した

 

 

 

²  カティリーナの陰謀

第1章         

自らを他の動物に優越させようと欲するあらゆる人にとって、人生を家畜の如く黙々と過ごしてしまわぬよう全力を挙げるのが務めである

我々の力のすべては精神と肉体に存する。精神は支配のために、肉体は隷従のために用いる。それゆえ、肉体的能力より、天賦の才能によって栄光を求め、輝かしく永遠の徳を長く記憶することがより正しいものと思われる

軍事的な事柄が成功するのは、肉体の力と精神の徳の双方が援け合ってはじめて実現

 

第2章       

原初、諸王は自分のもので満足していた。その後、支配欲を戦争の原因となし、最大の栄光は最大の支配権の中にあると考えるようになり、然る後、初めて危険な事業を通じて戦いにおいては知性が最も役立つことが認識された

 

第3章         

国家のために善く行動することは美しく、善く語ることでさえも決して無価値ではない

他人によってなされたことを書き記すのは特別に困難な事業であると思われる

若かりし頃、私は多くの人と同様、熱情によって政治へと運んでゆかれ、そこには多くの逆境が待ち受けていた(元老院からも追放された)

 

第4章         

心穏やかになって、希望からも恐れからもまた政治の諸党派からも自由になった現在、ローマ人民の事績を、記憶に留める価値あるものを記述しようと決意

犯罪と危険の新奇さゆえに第1級の記憶さるべき事件として、カティリーナの陰謀を真実に即して簡潔に語ろうと思う

 

第5章         

ルーキウス=カティリーナは門閥貴族の生まれ、精神的にも肉体的にも巨大な力の持ち主だが、悪い歪んだ天分の者、内戦、虐殺、略奪、市民間の不和に青年時代を費やし、すさんだ精神は桁外れに信じ難く、スッラの後釜として国家権力を手に入れたいという大きな欲望に憑りつかれる

 

第6章         

最初にローマを建設し居住したのは、アエネアスを指揮者としたトロイア人で、そこにアポリギネス人が加わる。法による支配を確立し、近隣とも友好関係を築く

当初の王政が傲慢と専制により廃止され、1年毎の支配権と年2名の支配者が設けられた

 

第7章         

市民団は栄光を求めて短時日のうちに強大となる、若者たちの武勇がすべてを従えた

若者たちはお互いに競い合い、それこそが富であり名声・名望と考えた

 

第8章         

アテナイ人の事績は最大のものとして世界中で喧伝されているが、それは天才的な文筆家が称揚したからで、評判よりは些か劣る。一方、ローマ人はこのような手段に恵まれなかった。誰もが肉体を持ってしか天分を行使せず、最も優れた人は皆、語るより行動によって、その功績が他人に称賛されることの方を選んだ

 

第9章         

国内でも戦場でも良き習俗が培われ、正義と善とは彼らの間では法に基づく以上に天性によって行き渡っていたし、戦争における大胆さと平和がもたらされた時の公平さをもって自己と国家に心を配った。平時には恐怖より温情、復讐より赦免によって支配権を行使

 

第10章      

カルタゴ滅亡後、運命は狂乱し始め、すべてを混乱に陥れる

閑暇と富が、重荷とも災いの元ともなり、金銭欲と支配欲が増大、あらゆる害悪の原料

 

第11章      

初めは貪欲より野心が人々の心を駆り立てた。野心のうちはまだ美徳に近かったが、貪欲はまるで猛毒のように雄々しい肉体も心も蝕む

スッラが武力によって政権を獲得し、良い始まりから悪い結果をもたらし、ローマ人民の軍隊は腐敗した。順境は賢者の心をも弱らせる、堕落した者の自己抑制はきかない

 

第12章      

富が名誉となり、支配権がこれにつき従うようになると、徳は色褪せ、贅沢と貪欲が傲慢と共に若者を侵食、被征服者からは全てのものを奪い取った

 

第13章      

富を築いた者は瞬く間に蕩尽し、犯罪に走り、ますます激しく富の獲得と蕩尽のためにあらゆる手段に身を委ねた

 

第14章      

堕落しきった市民団の中で、カティリーナはあらゆる破廉恥と犯罪に手を染める

 

第15章      

青年期からカティリーナは、法にも宗教にも反した行為を行い、邪な婚姻のために邪魔な継子を殺すなど、顔にも面差しにも狂気があった

 

第16章      

カティリーナは、当時全土を通じて借財が社会問題化していたことと、スッラの兵士たちの大部分が財産を蕩尽し、新たな勝利と略奪を求めて内乱を渇望していたことを悪用して、国家転覆の計画に憑りつかれる。ポンペイウスは東方に遠征中、元老院は少しも警戒せず、執政官を狙うカティリーナにとっては絶好の機会

 

第17章      

カティリーナは、元老院身分の者や、特に平和より戦いを好んだ門閥の若者を多数誘い込んで陰謀に加担させる

 

第18章      

BC66年にも国家に対する陰謀があり、カティリーナも加担。国家攪乱を狙う門閥の青年を推し立てて、執政官の殺害を企てたが未遂に終わる

 

第19章      

この門閥貴族の青年は、ピスパニアに派遣されたが、配下の騎兵によって殺された

 

第20章      

(17章に戻って)集まってきた仲間に対し、カティリーナは、今の指導者たちの専横に対し立ち上がることを呼びかける

 

第21章      

多くの者が具体的な見返りを示すよう要求し、カティリーナは、富裕者の追放や借金の帳消しなどを約束、自らアントニウスと共に執政官に立候補することを宣言

 

第22章      

カティリーナは演説の後、自分の犯罪の仲間たちに誓約を強いる際、人体の血を葡萄酒と混ぜたものを皿に入れて回し、呪詛の後全員がそれを味わった時自分の計画を打ち明けた

 

第23章      

陰謀の一味のクリウスが、不義の相手に急に大判振る舞いを始めたので不審に思った相手が問い詰めたところ、簡単に陰謀を吐露。相手は出所を隠したまま複数の人に漏らしたため、キケロを執政官に推す人々の熱情に火が付く

 

第24章      

民会が開かれ、キケロとアントニウスが執政官に選ばれ、落選したカティリーナはあらゆる手段を使って反撃に出る

 

第25章      

有力な貴族出身で有能な女センブローニアが贅沢と窮乏のために転落して、カティリーナの仲間に加わっていた

 

第26章      

カティリーナは翌年の執政官にも立候補、その間にもキケロにあらゆる計略を仕掛ける

アントニウスもキケロ側についたため、カティリーナは戦争に訴えることを決意

 

第27章      

計略を張り巡らせ、武装した仲間を各所に配置、自ら武器を持って立ち上がる

 

第28章      

クリウスの通報で詭計を知ったキケロは、暗殺者たちを戸口で阻止し、危機を脱出

カティリーナは、スッラの配下で百人隊長だったマンリウスを買収して、スッラの支配下で財産を費消し尽くした平民を扇動して、革命へと立ち上がらせる

 

第29章      

キケロは危機が迫ったことを元老院に訴え、元老院は戦争の遂行権限を与える

 

第30章      

マンリウスの武装蜂起が告げられ、元老院は、周辺地域へのレックスほかの将軍たちの派遣とともに、ローマでは全市で夜警の配置が決議された

 

第31章      

ローマでは、突然の緊急事態に様相が一変

カティリーナは、身の潔白を訴えに元老院にやって来て、貴族の出の自分が国家を転覆を望むはずもなく、国家を救うのが外国生まれのローマ市民キケロだなどとは考えないでくれと哀願するが、全員が騒ぎたち敵呼ばわりしたので、すべてを破壊すると捨て台詞

 

第32章      

カティリーナは、軍団が召集される目に自らの軍隊を増強し、執政官への計略を急ぎ戦争の所業を準備するよう指示

 

第33章      

マンリウスハレックスに使者を送り、武器を取ったのは祖国に対してではなく、執政官の不公正さが奪い去った庇護を回復して欲しいからで、願いを叶えてほしいと懇願

 

第34章      

レックスは、元老院に対して求めるものがあるなら、武器を放してローマに赴くがよいと説得。一方、カティリーナは、偽りの罪名に取り囲まれているが、国家を静穏に保つため、あえて市民権を放棄して外国に亡命するとの手紙を多くの有力者宛に送る

 

第35章      

その手紙とはずいぶん異なった内容の手紙をもらった元執政官で閥族派の巨頭カトゥルスは、それを元老院で読み上げる――自らの威信を守るために身を引くとした

 

第36章      

カティリーナは、マンリウスの下に走り、元老院は両者を公敵と宣言、配下の者には免罪と引き替えに投降を呼びかけ、アントニウスに両者の追討を命じる

 

第37章      

ローマの市民は多くの理由から自暴自棄だったため、全平民が革命への熱望のためカティリーナの企てに賛成――多くの不良難民がローマに流れ込んでいたうえ、多くの者がスッラの勝利を覚えていて、勝てば王者の暮らしが出来ると期待し、国家が混乱する方がマシだと考えた

 

第38章      

BC70年に護民官の職権が回復されて以来、若い平民の代表がこの職権を得て、元老院を糾弾することによって平民を扇動し、一方門閥層も元老院のためと見せかけて、実は自己の勢力拡大のために全力を尽くすようになり、お互い節度のない闘争に突入

 

第39章      

執政官側が多くの上級官職を手にして圧倒するが、両者の対立は過熱

カティリーナは、ローマで積極的な勧誘を行い、味方を増やしていく

 

第40章      

カティリーナはガリア人にまで手を伸ばし、借金の棒引きと引き替えに味方するよう説得

 

第41章      

ガリアの部族は、ローマの窓口に相談、それを聞いたキケロは、陰謀に加担するよう装うことを指示

 

第42章      

カティリーナ側の勢力が、ガリアなど各地で軽率に動き始めたため軋轢を引き起こす

 

第43章      

カティリーナの軍勢がローマに近づいた時点で、護民官が平民集会を開いて、キケロの行為を訴えるよう手配、同時に市内各所に火をつけ、武力でキケロを襲うことを計画

 

第44章      

カティリーナの計略が着々と進められる

 

第45章      

計略を事前に知らされていたキケロは、ガリア人を待ち伏せる

 

第46章      

陰謀が露見して市民団が喜ぶ一方で、多くの高官が関与していたことに心を痛めたキケロは、元老院ですべてを明らかにすることを決意

 

第47章      

元老院で陰謀の真相が明らかにされ、加担した者はそれぞれ拘束された

 

第48章      

陰謀が明らかになると、革命を渇望していた平民たちもカティリーナの計画を呪い、キケロを絶賛。さらに巨富と絶大な権力の持ち主だったクラッススの名が一味から出ると、皆は驚きつつも、キケロの策略ではないかとの疑念が生まれる

 

第49章      

キケロ側の中には、ガイウス=カエサルが陰謀に加担していると糾弾する動きもあったが、個人的な恨みによるところが大きく、元老院から出てきたカエサルを剣で脅かした

 

第50章      

陰謀の一味が仲間の奪還に動くのを見て、キケロは元老院を召集して拘禁者の処分について問う。次期執政官のシーラーヌスは元老院が国家反逆罪とした以上、死刑が妥当と判断したが、後に再審議の意見に賛成

 

第51章      

次期プラエトルのカエサルは、激情にかられることなく、公平な判断を促すと同時に、寛容と憐れみこそ賢い判断だとし、極刑については恨みだけを残すとして反対

 

第52章      

前財務官で次期護民官の小カトー(大カトーの曽孫で、娘がカエサルを暗殺したアントニウスの妻)は、少数の悪人の助命によってすべての善き人を破滅へと赴かせてはならぬと反発

 

第53章      

元老院はカトーの意見通りに決議

過去のローマ人の事績を知るにつけ、雄弁ではギリシャ人が、戦いの栄光ではガリア人が勝っていたにもかかわらず、ローマがこれほどの成功を収めてきたのは、少数の市民の卓越した徳がすべてを成し遂げたと気付いた。今国家が疲弊し市民団が堕落して長きにわたって誰1人、徳において偉大な者が出なかったが、漸く性格は異にしながらも非凡な徳を備えた2人、マルクス=カトーとガイウス=カエサルが現れた

 

第54章      

両者は、家柄、年齢、雄弁の点ではほとんど同等

カエサルは、パトリキ(ローマ本来の貴族)の氏族ユリウス氏の出身、BC100年生まれ

カトーは、ノービリス(門閥貴族)BC95年生まれ

カエサルは慈善と気前の良さによって大とされ、カトーは生き方の高潔さによって尊敬

前者は寛容と憐れみによって名を輝かし、後者は厳格さが威厳を加えていた

栄光を求める分が少ないだけ、余計に栄光がカトーを追いかけた

 

第55章      

キケロは議決に従って処刑を手配、コルネリウス氏という最も光輝ある氏族出身の貴族(パトリキウス)のレントゥルスは最期を遂げる

 

第56章      

カティリーナは、マンリウスの全兵力を動員、アントニウスの追撃をかわしながら反撃の機会を窺うが、処刑を知って脱走者が相次ぎ、アルプス越えの逃亡を決断

 

第57章      

ローマ軍にガリアへの退路を断たれたカティリーナは、覚悟して決戦に挑む

 

第58章      

カティリーナは決戦を前に兵士を鼓舞

 

第59章      

決戦に向けて態勢を整える

 

第60章      

両軍が激突、死闘の中でカティリーナは最後の突撃に向かい、戦いながら刺し貫かれた

 

第61章      

戦い終わってみると、カティリーナ軍の全員が前面に傷を受け屍となっていた

ローマ人民軍も大きな痛手を被り、陣営から検分のためあるいは略奪のために出かけた多くの者は、敵の死骸をひっくり返し、友人や親戚の者を発見、個人的な敵を見出したりした。様々に喜悦が、慟哭が、悲嘆が、歓喜が渦巻いた

 

 

 

訳者解説

『ユグルタ戦争』はマリウス台頭の契機ともなったBC2世紀末のヌミディア王ユグルタとローマの間の戦争を、『カティリーナの陰謀』はBC63年に要人襲撃によってローマの政権奪取を試みたカティリーナ一味の陰謀の顚末を主題とする

l  歴史家サルスティウスの形成

ローマ市郊外の名士の生まれ。全イタリアにローマ市民権が与えられ、元老院への進出が始まったころで、サルスティウスもキケロもこの動きの先端を歩み、旧来のローマの支配層との間に幾らかの緊張を引き起こしつつ独自の活動分野と、それと同時に独自のラテン語の文体を獲得していった

サルスティウスの政界入りはBC55年頃。BC52年、最大の実力者ポンペイウスの政界席巻を背景に、ローマ市民衆を扇動するクローディウスの徒党と、元老院・閥族派の徒党を率いるミローとの数年来の街頭での衝突が、ミロー側によるクローディウス殺害で決着した流血の年。ミローは訴追され、長年クローディウスとの確執に悩まされてきたキケロはただ1人ミローの弁護に立つが、サルスティウスは護民官としてキケロとミローを激しく攻撃、ミローを有罪に追い込んだものの、2年後には元老院から追放

BC49年、カエサルがルビコンを越えた時、サルスティウスもこのクーデター軍の中にいたし、内戦の最終局面であるアフリカ戦役にも参加しているが、軍への貢献度は高くなかったようだが、カエサルは北アフリカにあった古くからのローマの同盟国ヌミディア王国を廃絶して属州とし、総督にサルスティウスを抜擢。これがサルスティウスの政治的経歴の最後で、離任後ローマに戻ると、総督としての搾取を理由に訴追され、カエサルによって辛うじて断罪を免れる。その翌年BC44年カエサル暗殺もあって政界を引退

ローマ共和政の没落を描いた歴史家というのがサルスティウスの最も一般的な評価だが、共和政打倒を目指したカエサル派だったにもかかわらず、共和政没落を嘆いている。共和政末期の社会の堕落を描いているが、共和政を何か別の政体と取り替えることなど全く念頭になく、その点で帝政期の「共和主義者」である歴史家タキトゥスの評価に耐え得る、共和政の伝統に立脚した歴史家だった

共和政の没落を記述することによって何を言いたかったのか

l  サルスティウスの作品

ローマ人による歴史叙述はBC3世紀末のファビウス=ピクトル(ギリシャ語)に始まるとされるが、多くは都市ローマの建設から始まる編年体のもので、年代記の形式をとるのが伝統的かつ一般的で、後のリウィウスも年代記的な構成をとるが、サルスティウスは最初の2作において、その伝統から離れ、ローマ人民の事績を、記憶にとどめるに値すると思われるものを個別にとりあげて記述する「事件史」の形式をとる

ポエニ戦争史を書いたポリュビオスに代表されるギリシャ・ヘレニズムの歴史学が前例で、ポエニ戦役は地中海世界の様相を一変させ、連綿と続く過去からの切断と、前例なき時代としての「現代史」への関心を呼び起こし、同時代に起こった比類のない事件を主題としてその原因と結果を分析するという、一種近代的ともいえる歴史意識の発生が見られる

このタイプの歴史叙述の淵源はトゥキュディデスで、彼のペロポンネソス戦争史からの強い影響がみられ、ギリシャ語で行っていたことをラテン語で実現しようとしている

散逸した遺作『歴史』の記述の起点はBC78年とされるが、そこでは現在一般に共有されている共和政末期についての歴史観とされる、「ポエニ戦役後ローマ社会の退廃が始まり、グラックス兄弟による改革とそれに対する門閥貴族層・元老院側の反動から党派的争いが発生してローマ市民団全体の分裂と破局に至る」いう歴史像」を非常に明確に示した歴史家だったが、彼が優先させたのは全体史的叙述ではなく、自己完結型の事件、特にシンボリックな事件の叙述だった点に彼の独自性が見られる

BC2世紀末のユグルタ戦争は、BC111105年、共和政ローマとヌミディア王ユグルタの間の戦争。ヌミディア王国はカルタゴの後背地にあった北アフリカ先住民の国で、第2ポエニ戦争(BC218201)でローマに協力して勝利して以来、ローマの代表的な友好国

当時の王の孫の時代の実子兄弟と庶子(ユグルタ)という従兄弟同士の王位継承戦争にローマが実子兄弟に味方して参戦、マリウスがユグルタを破り、ユグルタはスッラに引き渡されローマの勝利に終わる――興味深いのは開戦までの経緯で、先王は戦功をあげたユグルタを養子としたため、先王の死後王位継承をめぐって兄弟3人の争いとなり、ユグルタが勝利、実子はローマに援軍を求め、6年に及ぶ戦争の発端となる

サルスティウスが注目したのは、この戦争が共和政末期の政治的社会的変動の起点の1つとなる要素であるマリウスの軍制改革を生み出した事件として特筆されるから――従来の武装自弁の市民軍の原則を捨て、無産市民を兵士として登録、職業的軍隊の成立と将軍による軍の私兵化をもたらし、「軍閥」的な政治家たち(スッラ、ポンペイウス、カエサル)の台頭による共和政崩壊を招いた

腐敗しきったローマの門閥貴族層を巧みに買収して自らに有利な支援を引き出していたユグルタは、沈黙から目覚めたローマ市民に推された「新人」マリウスによって捕縛される

近現代史の展開の中で、ユグルタを古代における「(ローマによる)植民地主義」に対する抵抗者として捉える見方もあり、民族独立の英雄として解放運動史上に位置付ける

『カティリーナの陰謀』は、サルスティウスが20代のBC60年代にローマ市内で起こった事件。ローマ本来の貴族の家の出で野望家のカティリーナが、執政官選挙でキケロに敗れた後、政権奪取の陰謀を働く。イタリア各地で武装蜂起を計画するが、事前に洩れてキケロ暗殺計画は失敗、キケロは元老院で弾劾演説を行い、カティリーナはローマを去るが、さらに執政官アントニウスらの討伐軍によって戦場の露と消える

カティリーナはローマ社会の不満分子を代表していたとはいえ、所詮陰謀事件の首魁というほかなく、事件の叙述を通してサルスティウスが成し遂げようとしたことは何か

近代歴史学の実証主義を当てはめると、キケロの弾劾演説という1次史料に対して、事件から20年後に書かれた本書は二次史料となるが、カエサルのカティリーナ事件への関与を否定する論を展開しながら、同時に共和政末内戦の敗者として葬り去られるかに見えた小カトーとその共和主義の居場所を確保した独特のやり方で公平を保った歴史家だった

キケロがカティリーナを国家転覆の犯罪者として断罪し、陰謀事件発生の社会的必然性などへの言及は避けたのに対し、サルスティウスは、カティリーナのような怪物を生み出したローマ社会の闇に分け入り、陰謀家予備軍の発生の現場、事件を準備した歴史的諸条件を指摘する方が課題であり、それはスッラの独裁官時代に生み出された新体制が確立される過程における凄まじい流血と不正だった

『ユグルタ戦争』が生み出すサスペンスが帝国とその庇護国家をめぐるコロニアルな文脈の問題に関するものであるのに対し、『カティリーナの陰謀』はローマ自身の社会の内奥に潜む階層的緊張と衝突、それが政治の表面に露呈したものとしての「党派」のサスペンスに満ちている。それぞれ独立の事件を扱いながら、相互に有機的な繋がりがあり、共和政末期のローマ社会の危機についての構造的な把握を可能にするものといえる

l  サルスティウスと現在

サルスティウスの名声は古代を通じて続き、ルネサンス期以降も古典中の古典として読まれ、近代市民社会へと向かう啓蒙期の政治思想にも影響を与え続けたが、19世紀における実証主義的歴史学の成立とともに評価は一変し、年代記的な詳細な記述に富んだリウィウスの史料的価値を高く評価する一方で、自己の価値判断を明確に示すサルスティウスを歴史史料としては敬遠する傾向が生まれてくる

19世紀にサルスティウスの真価を再発見したのは、歴史家ではなく文学者で、フランスの詩人ランボーは、アルジェリアの解放闘争にユグルタ戦争を重ね合わせた作品を書く

「現代史家」だったサルスティウスは、私たち自身の現代を突然に意識させる。共和政の没落を眼前で進行する危機として嘆きつつも凝視し、危機の構造を捉えようとした彼の歴史叙述は、その当事者性(政治性)を帯びた分析のゆえに読者を各々の社会的現実へと否応なく直面させる。それは古代ギリシャ・ローマの最終的に失われる直前の最後の発露ともいうべきものであり、古典古代から「現在」へと手渡され続ける稀有なテクストなのだ

 

 

 

 

Wikipedia

ユグルタ戦争(ユグルタせんそう、ラテン語: Bellum Iugurthinum)は、紀元前112から紀元前106にかけて、共和政ローマヌミディアユグルタの間で行われた戦争である。ローマの体制内の倫理的な退廃が浮き彫りになった戦争であると共に、ガイウス・マリウスの権威が上昇し、後にローマの独裁官となるルキウス・コルネリウス・スッラの出世の先駆けとなった戦争としても位置づけられる。

l  ヌミディア内乱とユグルタの登極[編集]

ヌミディアは、共和政ローマの長らくの宿敵カルタゴに近いアフリカ北部、現在のアルジェリアに位置していた王国であった。第二次ポエニ戦争スキピオ・アフリカヌスに協力したマシニッサにより統一され、その後、ミキプサが王位を継いでいた。紀元前118年にミキプサが死去した後、ヌミディアには3人の有力な後継者が存在した。ミキプサの2人の息子であるアドヘルバル(en)、ヒエンプサル(en)、そしてミキプサの甥で養子となっていたユグルタである。ミキプサは3人が協力してヌミディアを統治することを望んだが、ユグルタはヌミディア単独の王位を望んだことから、殺人・賄賂・裏切り行為・暗殺など、あらゆる陰謀を駆使することとなる。ユグルタはスキピオ・アエミリアヌスによるヌマンティア攻撃時に援軍として赴いており、その際にローマ軍の軍略を学んでいた。

まず、ユグルタは2人の暗殺を謀り、ヒエンプサルは殺害されたが、アドヘルバルは危険を脱して、ローマへ支援を要請するために逃げ込んだ。紀元前116、ローマの仲介によりユグルタとアドヘルバルはヌミディア分割の協定を結んだが、ユグルタはローマの使節団を贈賄で絡めとって、自らに有利な領土を得ることが出来た。暫くは平和な状態であったが、紀元前113年にユグルタは突如としてアドヘルバルの領地へ攻め込んで、アドヘルバルの王国の首都キルタ(現:コンスタンティーヌ)を包囲した。アドヘルバルはキルタに住んでいたローマ人と協力して抵抗した為、ローマは両軍を仲裁する使節をヌミディアへと送ったが、ユグルタは再びこの使節団に対しても賄賂を送り、ユグルタによるキルタ攻撃を黙認させた。ユグルタはキルタを陥落させて、アドヘルバルを殺害し、アドヘルバルに協力した多数のローマ人を殺戮した。ローマ元老院はこのユグルタの行為を受けて沸騰し、紀元前112年にヌミディアに対して宣戦を布告した。

l  戦争の経過[編集]

紀元前111年から紀元前110年の戦争[編集]

ヌミディアの地図

紀元前111年にローマの執政官(コンスル)となったルキウス・カルプルニウス・ベスティア(en)がローマ軍団を率いてヌミディアへと侵攻したところ、敢え無くユグルタは降伏したが、降伏したユグルタにとって有利な協定を与えた。ユグルタはベスティアを買収したようにも考えられる。

ユグルタは協定調印のためにローマへ到着した後、再び陰謀を図り、ユグルタに不利な証言を行おうとした護民官を買収し、ヌミディア王の有力な潜在的候補者であったユグルタの従兄弟にあたるマッシウァ(Massiva)の暗殺未遂事件を起こしたため、ユグルタはローマから追放され、ヌミディアへと戻った。

紀元前110年末から紀元前109年の初旬にかけて、プラエトル(法務官)であったアウルス・ポストゥミウス・アルビヌス(en)率いるローマ軍がヌミディアへ侵攻したが、ユグルタはローマ軍を撃破した。この際にもその年の執政官の親類者に対する賄賂などを行ったとされる。ユグルタはヌミディアの正当な支配者としてローマが認めるよう要求したが、元老院はこれを拒否した。

l  紀元前109年からの戦争[編集]

紀元前109年の執政官クィントゥス・カエキリウス・メテッルスが率いるローマ軍がユグルタを破るためにアフリカ北部へと派遣された。メテッルスは直接的にはユグルタ戦争の終結に寄与しなかったが、後に「ヌミディクス」の尊称を得ることとなる。

メテッルスは直接的な攻撃を仕掛けたが、ユグルタはまともに相手をせずにゲリラ戦に徹した。メテッルスはコンスルの任期終了後はプロコンスルとして引き続きユグルタとの戦争に当たったが、戦争は長期化した。逆にローマ軍の内部での争いが拡大しつつあった。即ち、メテッルスとその配下の武将であったガイウス・マリウスの間の争いである。

紀元前108年にメテッルスの許可を得てマリウスはローマへと戻り、紀元前107年のコンスルの選挙に立候補し、コンスルに選出された。マリウスの立候補はユグルタとの戦争における指揮権を狙ってのことであり、メテッルスに代わってマリウスがユグルタとの戦争に当たるように示した法案が元老院によって許可された。

l  紀元前107年からの戦争[編集]

紀元前107年、コンスルとなったマリウスがメテッルスに代わってユグルタ戦争の指揮を取るためヌミディアへ到着したとき、ユグルタは隣国マウレタニアの王で自らの義父であったボックス(en)と協力関係にあった。マリウスは幾つかの戦いでユグルタ軍に勝利を収めたが、ユグルタ軍に決定的な打撃を与えるには至らず、メテッルスを苦しめたユグルタによるゲリラ戦術により戦争は再び長期化の様相を示し始めた。

マリウスは戦闘でユグルタを打ち破るのは容易でないと判断し、謀略によってユグルタを倒す方針を決めた。ユグルタの協力者であったボックスに的を絞り、クァエストル(財務官)として従軍していたルキウス・コルネリウス・スッラにボックスによる裏切り工作を行うように指示した。スッラはヌミディア王国の一部領域をマウレタニアへ譲る内容の提案を行い、ボックスをローマ側の協力者に仕立てることに成功した。ボックスは会議の席でユグルタを捕えて、ユグルタをローマへと引き渡した。

ユグルタはローマへ送られて、トゥッリアヌムへ抑留され、紀元前104年に行われたマリウスの凱旋式の際に処刑された。

l  ユグルタ戦争の意味合い[編集]

ユグルタとの戦争によって、この時期の共和政ローマの問題点が浮き彫りになった。ユグルタが買収によってローマ軍を抑え込み、ローマの支配体制へ影響力を行使したことから、ローマの体制内の倫理的な退廃が明らかとなったのである。ローマ軍の組織力の低下も露呈したが、それらの体制を変更させたマリウスの権威は上昇した。また、ユグルタ捕縛の決定的な役割を担ったスッラの出世の先駆けとなった戦争であり、後のマリウスとの内戦のきっかけともなった。

ガイウス・サッルスティウス・クリスプスは、共和政ローマによる倫理観の退廃を強調しながら「ユグルタ戦争」を題材とした「ユグルタ戦記」を記した。

 

 

 

カティリナ弾劾演説Catiline Orations)は、紀元前63ルキウス・セルギウス・カティリナクーデター計画に対し、当年の執政官マルクス・トゥッリウス・キケロが行なった弾劾演説である。

古代ローマ最高の弁論家として名声の高かったキケロの演説の中でも、代表的名演説で、事件の3年後に出版された。

l  一覧[編集]

演説は、全部で4つの演説で構成され、一貫してカティリナ及びその一派の陰謀に対する糾弾とローマ市外への追放を含め厳罰をもってあたることを主張した。

1演説:元老院議会での演説(紀元前63118日)

2演説:市民集会[2]での演説(紀元前63119日)

3演説:市民集会での演説(紀元前63123日)

4演説:元老院議会での演説(紀元前63125日)

l  背景[編集]

カティリナを非難するキケロフレスコチェザーレ・マッカリ 1882-1888.

l  当時の政治状況[編集]

クーデターの首謀者カティリナは古いパトリキ(貴族)出身で、前82年の政変ではルキウス・コルネリウス・スッラの下で行動し、紀元前68には法務官に選出された。

さらに執政官の地位を求め選挙出馬への意欲をみせるも、紀元前66、前65年の選挙には、属州担当時代の不正を告発されて立候補を断念。翌紀元前64の選挙にようやく立候補の資格が認められるも、2名の執政官ポストに対して7名が乱立し、さらにキケロからの妨害工作(ネガティブキャンペーン)も重なり落選した。この年当選したのがキケロとガイウス・アントニウス・ヒュブリダである。

翌前63年に再び立候補し、今度は貧困層を取り込むべく「借金の棒引き」を公約に選挙戦を臨むも、選挙を主宰するキケロがわざとらしくカティリナの不穏さをアピールして落選し、これら一連の選挙活動の結果、彼の元には膨大な借金のみが残ることとなった。政治的にも経済的にも追い込まれたカティリナは、非合法(武力)によるクーデター以外に方法がない状況に追い込まれてしまう。ただ、このクーデター計画はずさんなもので、キケロはフルウィアという女性から情報を仕入れていたというが、キケロによるねつ造を疑う学者すらいるという。

確実な証拠がなく元老院でもあまり真剣に討議されなかったが、クーデター計画の書簡を手に入れたキケロは、1028日が決行日であるとして、「両執政官は共和国の損害を防ぐべし」とする元老院最終決議を受け取った。しかし当日になっても何事もなく、キケロに疑いの目が向けられたが、各方面で蜂起の動きがあることが報告され、クーデターの密告が奨励された。

カティリナは共謀者の元老院議員の庇護を受け、のらりくらりとローマに留まり、118日にキケロを襲撃した上でエトルリアで募集した軍に合流する手はずを整えたものの、この襲撃計画はフルウィアによってキケロに知るところとなり失敗。キケロはユピテル・スタトル神殿 (紀元前3世紀)に元老院を召集した。ところが、意外なことに渦中の当事者であるカティリナも当議場へやってきて、クーデター計画を否定し、身の潔白を証明しようとした。キケロは議会内で第1演説を行い、カティリナへの厳然とした態度を表明する。

l  1演説(前63118日 元老院議会の議場にて)[編集]

議場でキケロは第1演説を行い、カティリナを糾弾するとともに、カティリナのクーデター計画は、さまざまな証言や言質からもはや明白な事実であるとして、カティリナに対して即刻ローマ市から立ち退くことを要求した[1]。カティリナは追放の元老院決議を行うよう反論したが、このキケロからのカティリナ追放要求に対して議場からは特に反論の声もなく、カティリナはローマ市を退去し、エトルリアへ向かった。

l  2演説(前63119日 市民の集う中央広場にて)[編集]

カティリナのクーデター計画と元老院議会での次第を広く市民へ知らせることを目的として、キケロはローマの中心にある中央広場にて第2演説を行った。キケロは演説の中で、カティリナに対するローマ市からの追放を宣言する。その上でキケロは、ローマ市内には未だカティリナのような叛乱を起こしうる(潜在的な)勢力が居座っているとして、これらの勢力を6つのタイプに分類した上で、未だローマ市内にもクーデターや叛乱を起こしうる勢力があり、潜在的な危険は去っていないとして、市民に注意喚起を求めた。

11月中頃、カティリナがエトルリアの軍を掌握したとの報告があり、元老院は彼を「公敵」と宣言し、執政官ヒュブリダが差し向けられた。この間、キケロは友人の告訴を弁護している(『ムレナ弁護』)。

その後、123日の元老院議会にて、ローマ市内に居住するカティリナ一派による陰謀の事実が判明し、首謀者が逮捕されるという出来事があった。キケロはこの事実をもってローマ市内におけるクーデターが未然に防がれたとして、再び市民の前に現れ、事態の経過について報告を行った(第3演説)。

l  3演説(前63123日 市民の集う中央広場にて)[編集]

キケロはローマ市内で発生したクーデター未遂に係る事態の経過について報告した。冒頭キケロは、"ローマ市民諸君。今日、国家は救済された。と述べ、今回のクーデターを未然に防いだことに対する自らの功績を示した。

ところが、演説の翌日にローマ市内で陰謀を企てた罪で逮捕され別々の場所に監禁中であった首謀者5名を奪還を企てる動きが発生した。キケロは首謀者らの処断を早急に行う必要性を説き、彼自身は首謀者の死刑が相当であると考えていた。しかしながら、当時の次期法務官であったカエサルが、ローマ市民への死刑判決はローマ市民で構成される「民会」(裁判)でのみ決定され、元老院議会や執政官にはその権利を行使する権限がないこと、むしろ首謀者らを終身刑に処するのが厳しい処断であるとして、首謀者に対する死刑に反対し、彼の見解が元老院議会の賛同を集めたことから、キケロは元老院議院にて死刑の妥当性について説明することとなった(第4演説)。

l  4演説(前63125日 元老院議会の議場にて)[編集]

キケロは演説において、今回の(クーデター首謀者に対する)処断が差し迫った事態であるとの認識を示した上で、次期執政官デキムス・ユニウス・シラヌスの死刑提案とカエサルの示した対案(終身刑)とを比較し、ローマの国益のためには死刑が相当であること、国家に対して反逆を企て、国家の敵となった首謀者たちは、もはや「ローマ市民」たりえず、今回の場合にはローマ市民の死刑に対する法的権限は民会のみという原理原則は当てはまらないとの認識を示した上で、死刑こそが最善の選択である、と結論付けた。

この後、死刑を主張するキケロの意見を支持する次席護民官小カトーの提案が採択され、即日首謀者らに絞首刑が執行された。

l  その後[編集]

弾劾演説のあった翌年の前621月、カティリナは叛乱軍を率いて武力によるクーデターを企図するも、あえなく鎮圧され、3,000名の兵士とともに玉砕した。

一方、今回の件で主導的役割を果たし、声高に業績を主張したキケロ自身も、今回のクーデター首謀者らに対する死刑判断がいささか強権的であり、市民の生命に係る判決は、民会の法的権限において実施されるという原理原則に反するとの批判を受け、自らもローマを追われ、国外へ亡命することを余儀なくされることとなった。

脚註[編集]

1.    ^ ローマ市民等に国政等に関する重要情報を広く伝えることを目的として開催される集会。今回はカティリナ一派の陰謀に関する報告を目的として開催された。

2.    ^ 当時、ローマ市からの追放はローマ市民が死刑を逃れるための唯一の手段であった。ただし、当時のローマにおいて、執政官も元老院議員も市民を処刑したりローマ市外から追放する法的権限はなく、ローマ市民で構成される「民会」の票決で決定された点に留意する必要がある。

 

 

 

 

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