ラグビーの世界史  Tony Collins  2019.11.4.


2019.11.4.  ラグビーの世界史 楕円球をめぐる200
THE OVAL WORLD ~ The Global History of Rugby   2015

著者 Tony Collins 1961年生まれ。英国の歴史家。ラグビーリーグの研究における第一人者。英国スポーツ史学会会長をはじめ、学術誌『Sports in History』編集長や、英国スポーツ史学会の重職を歴任。ラグビーフットボール協会RFU博物館分科委員会委員、ラグビーリーグのサポート団体Rugby League Caresの歴史問題などラグビー関係の役職も多い
現在、デ・モントフォート大学名誉教授。北京体育大客員教授。スポーツ全般及びラグビーの歴史や文化に関する論文を多数発表し、BBCやヒストリーチャネルなどのテレビやラジオ番組の監修にも携わっている。主要著書に『Rugby’s Great Split(1999年アバーデア文学賞受賞)、『Rugby League Twentieth Century Britain(07年アバーデア文学賞受賞)、『A Social History of English Rugby Union(2010年アバーデア文学賞受賞)など

訳者 北代美和子

発行日             2019.6.10. 印刷         7.5. 発行
発行所             白水社

序章 少年と楕円球
本書の起源は、1970年初頭のブリテン島、泥んこのグラウンドにある。それが語る物語、それが答える疑問、それが解決しようとする謎は、ファンであろうと偶々の観戦者であろうと、ラグビーの試合を見たことのあるすべての人の頭に浮かぶ謎
ラグビーとは、僕らが暮らす世界とそれがどうやって創られたかの歴史である

第1部          キックオフ
第1章          伝統
車輪の発明がテクノロジーの発達に重要だったように、ボールの発明は人間のレジャーの歴史に重要な役割を果たした。すべての大陸と文化を超えて、人類は文明の黎明から球技をプレイしてきた
ブリテン島で「フットボール」と呼ばれるゲームについての最も古い記述は1174年にウィリアム・フィッツ・ステファンによって書かれ、ロンドンにおけるその人気を記録にとどめている
現在のラグビーの本拠地レスターシャーでは、少なくとも1790年にラットビー村が試合を主催して以降の試合が記録されている
足を使ってプレイされないのになぜ「フットボ-ル」という名称が与えられたのか ⇒ 何世紀もの間、ヨーロッパのいたるところでボールを手で扱い、キックし、プレイヤーがタックルを受けるフットボールがプレイされてきた。その伝統に最も深く根を下ろしているスポーツはサッカーではなくラグビー

第2章          「ラグビー」と呼ばれる学校
1857年発刊の『トム・ブラウンの学校生活』は、ラグビー校のOBが息子のラグビー校入学を祈って書いたベストセラーで、「学園小説」の嚆矢、19世紀末には50版に達するが、ラグビー校独自の「フットボール」が極めて重要な1要素となっている
ラグビー校は、1567年ロンドンの食糧雑貨商ロレンス・シェリフによって、地元の少年たちに文法を無料で教えるために設立。1818年にはイングランドで2番目に大きな学校となり、生徒数約400名を超える。「フットボール」は生徒たちの日常生活の基本構造にピタリとはまり込んでいた
1845年ラグビー校が最初のルールブックを印刷発行
工業の発展と工場システムの厳格な規律によって、伝統スポーツが世の中の隅に追いやられる中庶民の伝統スポーツはラグビー校のようなエリートのパブリックスクールに生き残り、大きな成長を遂げる
『トム・ブラウンの学校生活』発刊の頃のラグビー校は、少年たちの人格の発達に力点を置き、英国の社会・産業・帝国の指導者は競争精神の中で教育しなければならない、競争こそが経済発展を前進させる起動力となり、その実践にラグビー以上に良い方法はない
人数は無制限だが大体1チーム5060人、時間制限もなく、最初に2ゴール上げたチームが勝者、途切れなく継続するスクラムに基礎を置き、スクラムの後には通常キックが続き、またスクラムとなる。「トライ」はゴールキックを試す機会を提供するだけで得点にならず、トライ後のゴールが決まるとトライが消えてゴールとなる(「トライをゴールにコンバート(変更)する」という)
1870年代になってもなお、ラグビーは主として足を使ってプレーされるゲームで、しばしば綴られていた通り「フット=ボール」で、ハンドリングは厳しく制限され地面に落ちてバウンドしたボールを拾った場合だけボールを持って走ることが認められた
1823年試合中にボールを拾い上げて走ったウィリアム・ウェッブ・エリスがラグビーの「発明者」とされる ⇒ 1895年のラグビー校OB会の企画の調査では証拠が見つけられなかったが、OB会は主張し続けた

第3章          次にトム・ブラウンがしたこと
新しく出現した産業社会ではエリート層の大多数はホワイトカラーとしてデスクワークに縛り付けられ、健康を損な兼ねないとスポーツが奨励され、ラグビー熱が徐々に成年の世界にも溢れ出し、各地にクラブが結成された
ルールも多様化、大きな変更はハッキング(脛を蹴る行為)の禁止。もっとも奇抜なルールは、「ボールがゴールバーを越えるのを妨害するためにバーの上に立ってはいけない」と明記
パブリックスクールのあらゆるスポーツの中でラグビーだけがシニアのクラブでも盛んになったのは、ルールの優越性に絶対の自信を持っていたから
1871RUF誕生 ⇒ 興隆するサッカーに対抗して国際試合をするためにイングランドにラグビーフットボール協会を設立、ラグビー校のプレイ・システムに基づくルールブックを作る。ヴィクトリア中期の英国に出現した多数の若きジェントルマンのクラブの1つで、75年にはスコットランドとアイルランドの定期戦が始まり、会員数も急増、王国全土に影響力を行使するようになり、大成功を収める
地元にボール産業が創出される ⇒ ラグビー校の真向かいにあって生徒に人気のあった地元の靴職人ウィリアム・ギルバートが1820年からボールを製造。現在のものより球形に近く、1892RUFが楕円球の使用を決定するまでは統一された形はなかった
統一楕円球の製造は、ギルバートの弟子のリチャード・リンドンによる技術的前進の結果として実現 ⇒ 豚の膀胱を包み込むように皮の小片を縫い合わせていたが、口で膨らませたために死んだ動物からの感染リスクで妻を失い、代わりにゴムの内袋を使用する方法を考案。ヴィクトリア朝工業時代の偉大な発見の1つであるゴムの加硫処理によって曲げやすくなったのと、ボールを膨らませる真鍮の器具の発明により安全にボールを膨らませられる。さらにボールの形も標準化、近代の楕円球の発明となる。リンドンは特許を取らなかったために金持にはならなかったが、近代ラグビーボールの探求を通じてラグビーの未来を形作った男

第4章          ラグビー大分裂
19世紀末大活躍したディッキー・ロックウッドな、71年のRUF結成後にラグビーが辿った劇的な変化の象徴 ⇒ 1870年代末に始まって増加を続けた州杯争奪戦がラグビー人気を盛り上げ、多数のクラブチームが結成された。州杯争奪戦で最も成功したのは1877年に始まったハリファックスのカークストールとウェイクフィールドによるヨークシャーカップ。人気の高まりとともに特に労働者階級出身のプレイヤーは結果に対し報酬を期待
1885年フットボール・アソシエーション(サッカー)がプロを公認し、瞬く間にプロチームがサッカーを支配
1886RUFは選手に対するあらゆる形の支払いを禁止。アマチュアスポーツに徹したためで、ロックウッドは89年自らの潔白を示すために法廷に立ち無罪を勝ち取るが、徹底した魔女狩りがサッカーに遅れを取る原因になり、協会は分裂

第2部          5か国対抗に向けて
ラグビーはイングランドだけのものではなく、スコットランド人もラグビー遺産を誇る。アイルランドでも唯一無二のステータスを獲得。ウェールズ人にとってラグビーはナショナル・アイステズヴォット(ウェールズ語で音楽・文芸祭)で国民文化の一部となった
どんなスポーツにもまして、ラグビーは国同士の競争関係を助長もしたが、ブリテン諸島の国々をより近づけもした。
第5章          スコットランド(「ラグビーフットボール――二つの国の真のスポーツ」)
1870年サッカー史上初の国際試合となったイングランド対スコットランド戦は引き分けとなったが、その成功を背景にすぐ2試合目が行われ、スコットランドが負けたことにラグビー信奉者が不満を爆発させ、イングランドに挑戦状をたたきつけ、スコットランドが勝利
国境の両側でラグビーは同じような経路をたどって発展。スコットランドのラグビー発展の起動力はエリートのパブリックスクールにあった
1868年にはスコットランド全チームのための統一ルールが印刷(緑本と呼ばれた) ⇒ 15人制やトライを得点の一部に加えること、ラインアウトのスローイングの位置などは後にイングランドでも採用
「ショートゲーム」(7人制=セヴンズ)は、1883年スコットランドのメルローズが起源

第6章          アイルランド(国のアイデンティティ)
ダブリンのトリニティ大学はアイルランドにおけるラグビー揺籃の地
1854年ラグビー校出身のトリニティの学生が最初のクラブを創設。68年にはルールを成文化
北アイルランドでも同じ頃ラグビー校のOBがダブリンの同窓生の伝道活動を真似てクラブを結成、エリート校や大学に根付かせる
1875年にはイングランド代表が初めてアイルランド本国で国際試合をするためにアイリッシュ海を渡る
アイルランドの教育専門家は、学校を『トム・ブラウンの学校生活』の筋肉的キリスト教の伝統の上に築いていたので、ラグビーは自然に学校生活の中心を占めるようになる
ラグビー支持層が薄かったため、なかなか当てなかったが、94年には初のトリプルクラウン(4か国対抗で全勝)を達成、96年にも優勝(21分け)3年後にまたトリプルクラウンを取り戻したが、その後は50年間偉業達成はならず
1912年アイルランド自治法が導入され、翌年結成されたアルスター義勇軍の軍事訓練のためラグビー場も徴用、ラグビーは実質的に活動を中止
1次世界大戦では、統一主義者と国民主義者のアイルランドは一時的に、ドイツに対する愛国熱の中に共通の大義を見出し、大戦の真っ最中でもラグビーはアイルランドを2つに裂く紛争を逃れることができなかった

第7章          ウエールズ(ドラゴンの抱擁)
スポーツは19世紀半ばのエリート教育拡大の一環としてウェールズに持ち込まれた
特にラグビーは、ランピターのセントデイヴィッズ大学経由で入ってきた。この大学は1822年牧師養成のために創設され、6年後には王の特許状を受け、オックスブリッジやスコットランドの諸大学を除いて、ブリテン島で最も古い大学で、1850年にケンブリッジ大でラグビーに心酔していた副校長の着任でラグビー校式ラグビーをカリキュラムに導入
1871年以降シニアのクラブを作り始めたが、18801910年にかけて無尽蔵と見える石炭供給をエネルギー源として唐突な工業化が進み、30万人の炭坑や鉄工業の労働者が殺到
工業化のエンジンはウェールズの社会全体を異常な速度で近代へと走らせ、ラグビーはその最前線にいた ⇒ サッカーの興隆に刺激されてチャレンジカップを創設
81年イングランドと初の国際試合で惨敗するが、1年後にはアイルランドに勝利、スコットランドに勝つまでには7年、イングランドに初めて勝ったのは90年、93年にはトリプルクラウン達成
私立学校や大学のネットワークがなく人口の少ないウェールズではすべての階層からラグビーの才能を受け入れなければならず、RFUのアマチュア主義を受け入れてはいたものの実践的なアプローチをとってある程度の報酬を黙認
アマチュアリズム堅持で分裂したイングランドに代わってウェールズが台頭
1900年代、ウェールズは新しい国民的アイデンティティを確立しつつあり、大きく増加を続ける人口を過去と現在のシンボルの周りに統一。05年デイヴィッド・ロイド・ジョージは商務委員会委員長に指名、ウェールズ人としては過去200年間で最高位の公職に就き、同年カーディフは市の資格を得、07年ウェールズ国立図書館と国立美術館が創設され、20世紀最初の10年間で近代国家に変身を遂げる
ウェールズは大英帝国におけるイコールパートナーしてイングランドとの平等を求め、ラグビーほどこのことをよく示す文化な力はなかった ⇒ この10年ウェールズはトリプルクラウン5回も達成
05年には遠征27戦で総得点801に対し失点22という無敵のオールブラックスを撃破したが、それはノーサイド直前にニュージーランドがゴールラインを割ってコンバージョンを確実にするために方向転換した一瞬にとびかかったウェールズの防御を認めてニュージーランドのトライ認めなかった疑惑の判定による。当時のレフェリーは英国に広まっていたオールブラックスのスクラム戦術に対する嫌悪を共有していたと思われるスコットランド人だった。ハカ(ウォークライ)に対抗してウェールズは国家を歌ったが、国際試合の前に国家を歌う伝統はこの時始まった。全ての人がラグビーをウェールズの国技、その再興とその全人口の統一のための力の象徴と認めざるを得なかった瞬間であり、エリート校と大学で蒔かれた種から30有余年を経て、ラグビーが全国民の花へと開花。ウェールズでは国家とラグビーは一にして不可分

第8章          フランス(男爵、赤い処女、そしてラグビーのベル・エポック)
パリのバガテル城はブローニュの森にあって、マリ・アントワネットが義弟アルトワ伯爵と、3か月で新しい城が建設できるかどうか賭けをして63日で建設されたが、1892年フランス初のラグビー選手権決勝が行われた。レフェリーがクーベルタン男爵 ⇒ 15人制でトライが1点、コンバージョンが2
クーベルタン(18631937)は、10代で『トム・ブラウンの学校生活』に魅了され、ラグビー校校長のトーマス・アーノルドを偶像化し、88年英国式スポーツをフランスの教育カリキュラムに組み込む
ラグビーとサッカーがイギリスからの移住者によってフランスに持ち込まれたのは1870年代。ドイツやオランダでもフランスより先にラグビーをプレイし始めていたがサッカーが国民的スポーツとなる
1871年の普仏戦争での敗北と、続くパリ・コミューンにおける労働者階級の蜂起は、クーベルタンのようなフランスのエリートにとって、トラウマ、体制に対する強烈な衝撃となり、躍起になってフランスの国際的威信と国家の栄光を再構築しようと、答えを東に求める者はドイツで最も人気のスポーツだった体操に目をつけ体操クラブをいくつも作ったが、クーベルタンはイギリスとその帝国に学ぼうとラグビー校を訪問し、その主張に賛同した名門リセ(高校)はラグビーをゆっくりと採用していき、80年代末にはエリート高校の基本的カリキュラムの一部となっていた
英国式スポーツ礼賛は、ベル・エポック(18711914)の間増大を続け、92年にはフランス運動クラブ協会が誕生、クーベルタンが会長になり、最初のイベントが選手権の開催
歴史的にパリに敵対してきたボルドーでも80年代初めにはラグビーが始まり、南西部に拡散。この地域は「ロヴァリー」(楕円球の土地)と呼ばれ、99年初めてパリ以外のチームが選手権を勝ち取る。1908年を最後に以後50年間はパリのチームが勝つことはなかった
1911年スタッド・ボルドレが22戦全勝でタイトルを奪還した時には、赤いジャージーの男たちが挙げた穢れなき記録に因みチームにラ・ヴィエルジュ・ルージュ「赤い処女」のニックネームがつけられた
ラグビーが、次第にフランスの国民的プライドの象徴にもなった ⇒ ラグビーの中心には英国愛好があり、フランス人の支持者たちは英仏海峡越しの接触を熱心に促進
06年初英国遠征の帰路のオールブラックスを迎えた試合では38-8で敗れはしたが、8点は遠征中の最高失点となり、フランスのラグビー史上もっとも偉大な日として記憶されているばかりでなく、続く数年間に長足の進歩を遂げる

第3部          ラグビーを世界へ
19世紀、大英帝国とその彼方の世界で、スポーツは英国と英語圏諸国を1つに結び付ける文化的絆であり、ラグビーはすぐに帝国の代表的な冬のスポーツとして浮上
ニュージーランドでは国民文化に深く根を下ろし、南アフリカではアフリカーナーのコミュニティと英語話者のコミュニティ間の反目を克服する1つの情熱に育っていく。オーストラリアではラグビーリーグとラグビーユニオンに分裂しラグビー校ルールで始まった南部諸州ではユニークな新しいスポーツに発展。カナダと合衆国では2つの全く異なるスポーツの出発点になる
第9章          ニュージーランド(白く長い雲のたなびく国のオールブラックス)
『トム・ブラウンの学校生活』でラグビーの手ほどきをしてくれたトムの親友が、続編で大英帝国の新たなフロンティア征服を助けるためにニュージーランドに移住するのだから、ニュージーランドがラグビーの超大国になるのは既定路線
英国人入植者が最初にニュージーランドに到着したのは1800年代初め。先住民のマオリ人の呼ぶ「アオテアオロア(白く長い雲のたなびく国)」は、1840年ワイタンギ条約によって大英帝国の一部となる
最初に記録に残る試合は1854年、最初のクラブは63年結成、イングランドのバークシャーにあるラドリー校で行われていた22人制でサッカーに近い
60年代のゴールドラッシュでオーストラリアから探鉱者が押し寄せ、オーストラリアン・ルールも敷衍
ラグビーとして記録に残る最初の試合は70年。ラグビー校のルールによる18人制
1876年州政府制が廃止され、独自の政府を持たなくなった各地域がプライドを表明するためのはけ口となったのがラグビーで、州と州のライバル関係を巡って猛烈で濃密な舞台を提供。同時に全国の鉄道の軌道が統一され、電信・新聞・汽船による移動も急速に進展、ラグビーの発展にとって通信革命から格段の利益を得る
すぐにタスマン海峡を越えてオーストラリアとの間でのラグビー交流に発展、クリケットに匹敵する商業的潜在力も見込まれるようになる
88年ネイティヴでチームを組んで英国に遠征、英国外からきてイングランドでプレイする初の代表チームであり、ハカを演じ、象徴となる黒のジャージーと黒のパンツを身につけた最初のニュージーランド・チームでもあった。戦績は最初の25試合で1672分け、14か月で107試合、78236分け。興行的には成功だったが、ラグビー内の深い亀裂にも光を当て、RFUの厳しいアマチュア規定に抵触すると疑われていた
1905年の遠征は最後にウェールズ代表選の疑惑の判定で唯一の傷がつけられたが、国民的英雄として故郷に錦を飾るとともに、ラグビーがニュージーランド国家唯一の最も重要な文化的象徴となり、遠征チームの偉業は国の神話の一部となる ⇒ 同じ年の対馬沖海戦(日本海海戦)に匹敵する時代を画した出来事であり、古い秩序は打ち破られ、新しい力が勃興、空気の中には革命があった

第10章       南アフリカ(ゴグのゲームからスプリングボクスへ)
1900年の第2次英国=ブーア戦争で捕虜となったアフリカーナー(南アのオランダ系白人)の間にラグビーが広がり、英国人の看守がサッカーしかプレイしなかったこともあって、ラグビーが初めてアフリカーナー民族主義の象徴となる
南アフリカのラグビーユニオンは、自らの英国性を誇る英語話者と、英国性を拒絶する決意を固めたアフリカーナーの間のパートナーシップの上に築かれる ⇒ 第2次ブーア戦争終結から4年後の06年、南アの異なる2つの白人コミュニティの間に国民的統一の感覚を醸成するためスプリングボクスの英国遠征が計画された。2つのコミュニティから平等に選ばれた選手が1つのチームに溶け込む
コミュニティの多くが1814年英国がケープ植民地を購入した後に移住した英国出身者
最初にフットボール型のスポーツが組織されたのは1849年、ケープタウンに設立されたカレッジで、61年イングランドから来た学長オーグルヴィーがウィンチェスターカレッジ版のフットボールをプレイ、学長の綽名にちなんで「ゴグのゲーム」と呼ばれ、ケープ植民地全体のエリートに広がっていく
1860年代末には後にキンバリーとなる場所で広大なダイヤモンド鉱山が発見され、大量の探鉱者が流入する中、ラグビーもアフリカーナーの中にも浸透し始める
1870年代末から激動の時代を経験したことがラグビーの繁栄を可能にする ⇒ 英国軍の進出と、金発見による探鉱者の大量流入により、新興都市ヨハネスブルクが生まれ南アの経済を変えていくが、経済と移民が南アの諸地域を1つにまとめるにつれ、ラグビーは国家統合の役割を果たし始める。83年にトーナメント方式でチャレンジカップが始まり
86年には、白人のクラブと競技団体から締め出された非白人クラブがカラード・フットボール協会を結成、98年にはト-ナメントも開催
人種差別による抑圧と貧困の現実は、試合の組織が困難で施設や設備も優劣があり、試合のための移動も極めて困難だったが、呆れるような条件下にありながらラグビー熱は20世紀に入っても燃え続けた
元々アフリカーナーの間ではチームスポーツよりも射撃が一番人気の趣味だったが、1891年大英帝国の絆を強めるためイングランドとスコットランドからラグビーの選抜チームが派遣され20戦全勝の戦績を残したことから、アフリカーナーの間でも急速に注目度を上げ、ラグビーのフィールド上で政治的軍事的に英国に抵抗してきたと同じ事が出来ると思わせた。その時の船会社の所有者に因んだトロフィーが授与され、後にカリーカップとして知られる南ア各州間の対抗選手権のトロフィーとなり、ラグビー界で最も有名なトロフィーとなった。また、この後イングランドが南アフリカ代表チームに勝つのは78年後となる。第2次ブーア戦争でラグビーは冬眠状態に入るが、戦後英国政府が南ア白人の統一を推進したので、アフリカーナーにとってラグビーの重要性は増大し、大英帝国の民間外交におけるラグビーの役割がさらに大きくなった
その後の英国遠征を通じて南アチームは、オランダ人とイギリス人をほぼ1つにして、人種的な統一に向かって大きな一歩を踏み出した

第11章       オーストラリア(ワラルーズとカンガルーズ)
1788年英国からの船隊の到着とともに近代の白人オーストラリアが始まる
100年後最初のラグビー遠征チームがオーストラリアに到着
1901年統一国家になるまで、独立した諸植民地の大陸であり、植民地間は英国性の感覚の共有のみによって結ばれていた。ある歴史家が「英国の郊外」と呼ぶほど、オーストラリアは全てが英国的で、食事も新聞もスポーツもみな英国のもの
1859年ラグビー校で教育を受けたオーストラリア人の呼び掛けで、クリケット選手の冬季の体調維持のために「フット=ボールクラブ」ができ、ルール集が作成されたが、全く違うスポーツに発展 ⇒ 楕円形の球場で行うメルボルン式フットボール
70年ワラルー・クラブ設立 ⇒ ワラビーとカンガルーに極めて近い固有種の動物に由来する名前
RFUの指導に従っていたが、イングランドの重いスクラムよりはパスを回すオープンなラグビーを好み、アマチュアリズムもそれほど厳格ではなかった
1908年シドニーの主な地区すべてにラグビーリーグのクラブが結成されたが、その最初に結成されたのは、労働者階級地区の中心地だった ⇒ (ラグビー・)フットボール(ユニオン)を統制する諸条件が、オーストラリアの人々の民主主義と社会条件には不適切であるとして、リーグが生まれた。同年オーストラリアとニュージーランドの間でラグビーリーグ初のテストマッチが行われ、この時オーストラリアはジャージーにカンガルーをつけてプレイしたことから、これ以降ラグビーリーグのオーストラリア代表は「カンガルーズ」と呼ばれる

第12章       アメリカ合衆国とカナダ(ラグビーからアメリカンフットボールへ)
1924年オリンピック・パリ大会のラグビー決勝戦で合衆国がフランスを圧倒するとサポーター同士の乱闘が勃発、結果は世界ラグビー史上最大の衝撃 ⇒ ルーマニアを加えた3チームのみの出場で、アメリカはフランスの招待に応じて参加
4年前のアントワープ大会でもアメリカが予想外にフランスを破って優勝
アメリカでは当時、ラグビーはカリフォルニアの一部でしかプレイされておらず、選手は大半がアメフトと元ラガーマンで構成
『トム・ブラウンの学校生活』は北米でもベストセラーとなり、アメリカでもカナダでもスポーツを青少年に道徳的価値と体育を教える重要な手段と見做し始める
特にアメリカのWASPのエリートの多くは、相変わらず英国文化との深いつながりを感じていて、1870年代には東部の有力大学はフットボールのラグビー版を採用
すぐに改革が始まり、スクラムは非アメリカ的と考えられて80年に廃止、代わりにフォワードが1列に並んで向かい合う形となる
その5年前、カナダでも全く同じ提案がなされ、スクラムなしでラグビーをプレイした
11人制が一般的となり、ボールが後方のクォーターバック(スコットランドのラグビーではスクラムハーフの呼び名)にパスされるスナップバックと、82年には「ダウン」ルールが導入され、3ダウンのうち5ヤード進まないとボールが相手に渡る(後に4ダウンと10ヤードに変更)ことになった。06年には守備の暴力性を減じるためにフォワードパスが承認
独自のアメリカンフットボールを冬の1大イベントに仕立て上げたため、オーソドックスな形式のラグビーは故国を離れた英国人のためのスポーツに押しやられた
ニュージーランドやオーストラリアの代表チームの遠征でラグビー熱が盛り返し、カリフォルニアの大学のラグビーチームが対戦したが、1913年のオールブラックスのカリフォルニア遠征では13戦全敗508失点で得点はペナルティゴールの2本のみという屈辱で、ラグビー熱は完全に消え去る
カナダでは1780年代末から様々なタイプの非公式のフットボールがプレイされ、19世紀中頃にはクラブが結成されてきたが、ルールを統一する段階でスクラムが単調で危険とされて排除され、西海岸を除いてRFUのルールがほとんど姿を消し、カナディアンフットボールが主流に

第4部          嵐迫りくる中の黄金時代
ラグビーユニオンとラグビーリーグのどちらにとって、第1次大戦前の数年間は間違いなく黄金時代であり後のモデルを設定したが、14年の世界大戦勃発でラガーの生活は終了
第13章       ハロルド・ワッグスタッフとバスカヴィルの幽霊
最も偉大なラグビーの試合の1つは、ほとんど開催されないはずの試合であり、チームの監督と選手が望まない試合だった ⇒ 1914年開戦の1か月前シドニーでラグビーリーグ英国代表9人がオーストラリアの13人を相手に146で勝利。短期間に強行軍の3連戦で、最後は負傷者続出で中止も考えられたが、本国からの激励に残る力を振り絞っての勝利で、ラグビーリーグの将来を確かなものにしたが、その時のイングランドのキャプテンがハロルド・ワッグスタッフ
北部のNUは、RFUの狂信的アマチュアリズムにも助けられ、北部が能力主義と競争の開かれた真のイングランド、商業と興業と真剣なプロスポーツの中心地となる ⇒ 1922年公式にラグビーリーグという呼称が認められる
NUによるラグビー革命は、05年のオールブラックスのヨーロッパ遠征の衝撃によって、南半球にラグビーリーグの波及を引き起こす ⇒ 『近代ラグビーフットボール』の著者でオールブラックスのトッププレイヤーのバスカヴィル率いるチームがイングランド遠征を発表すると、RFUは「好ましからざる人物」と宣告し全てのグラウンドへの立ち入りを禁止したため、「幽霊チーム」と揶揄されたが、07年に遠征先の英国では大歓迎を受け、帰国後のNU代表とのテストマッチ興業は大成功裏に終わり、その莫大な利益は選手間で山分けされた
ラグビーリーグの急速な人気上昇に、ニュージーランドのラグビーユニオンは大混乱に
悲劇的なことに、ニュージーランドに13人制を導入したバスカヴィルは、母国に定着するのを見る前に08年インフルエンザから肺炎を併発し25歳で急逝

第14章       1次世界大戦以前の英国のラグビー(屈辱を忍んで目的を達成する)
イングランドのラグビーは、1895年の分裂後、ラグビーユニオンが劇的に縮小、国際的なレベルでも存在感のある力であることをやめ、長い後退の時期に入る
1910年伝統的にホームネーションズ選手権と呼ばれていたものにフランスが漸く加入を許され5か国対抗選手権に変える

第15章       さらに偉大なゲーム? ラグビーと第1次世界大戦
軍隊とラグビーには深い繫がりがあり、多くの英国のラグビーユニオンのクラブは国防義勇軍と密接に関わる。私立学校で教育を受けた選手のかなりの数が学校や大学で将校養成団に参加していたので、1914年の宣戦布告は、「これほど長い間準備してきた試合」が始まったようなものだった
RFUは各クラブに対しプレイを続けるのが「望ましい」と告げていたが、あまりにも多くのプレイヤーが入隊したのでそのシーズンは全試合を中止とし、全プレイヤーに軍への志願を呼び掛ける。ラグビーリーグの試合は続けられたために非愛国的との非難が広まり、既に両者の間にあった深い敵対関係に油を注ぐ結果に
一方で軍人によるラグビートーナメントが活発化、ロンドンがその中心地となったが、サッカーの人気には勝てなかった
合計で130名のラグビーユニオンの国代表級選手を始め数千名の一般プレイヤーが命を落とすが、何人かのプレイヤーは良心的兵役拒否者を宣言。スポーツは戦争ではないし、戦争は決してスポーツではない

第5部          両大戦間における挑戦と変化
1次大戦終了までの激動の数十年の後ラグビーは一層強化されて戦争を抜け出し、その戦歴は世界中のラグビーユニオンファンに、このスポーツが持つ精神力を明らかにし、伝統的な支持者の心をなおいっそうしっかりと捉えたし、ラグビーリーグもまた経済不況のただ中にあってさえ労働者階級のコミュニティに一層深く根を下ろし、その魅力をフランスにまで拡大して、最終的にはその地で生死を賭けた戦いに身を投じる
南アが初めてニュージーランドと対戦した時、新たな競争関係が生まれ、それは両国をラグビー世界の至高権を巡る戦いに巻き込み、それがこのスポーツの未来を形作ることになる
第16章       オールブラックス対スプリングボクス(世界をめぐる戦い)
1919年イギリス陸軍省の要請により、大英帝国に属するラグビー国の軍代表チームによるキングスカップ開催(1987年のワールドカップ以前のトーナメントでワールドカップに最も近い試合) ⇒ マオリ人選手は排除
英国のラグビーと南半球諸国のラグビーの差はプレイの規範において遥かに大きく、ニュージーランドは常にラグビーをまず第1にハンドリングとランニングのスポーツと見做し、RFUが蛇蝎のごとく嫌う交代も認めた
ラグビーの政治は帝国の政治を反映し、「白い自治領」(豪・加・ニュージーランド・南ア)は英国との大きな平等を求め、26年帝国議会は両者が対等の地位を持つ自治国であると発表(バルフォア宣言)5年後にはウェストミンスター憲章が自治領に法的平等を与える
ただ、国際フットボール協会IRBは英国政府ほど柔軟ではなく、アマチュア規約についての議論は拒否、自治領がIRBに代表を送ることも拒絶したが、国内ルールについては同意
英国の豪州・ニュージーランド遠征でルールやアマチュアリズムの違いが表面化
ラグビーユニオンの上層部にとっては、政治、特に人種を巡る政治が最優先事項

第17章       死のラグビー、13人のラグビー、そしてヴィシー風ラグビー
1920年代のフランスはファッション熱に捉えられていた ⇒ ピレネ山脈の麓の小さな村キヤンで帽子工場を手に入れた男が、拡販の宣伝のためにブクリエ・ド・ブルニュス(フランス選手権)を手に入れようとして強いチームを買収、29年のブクリエ争奪戦に勝ったものの決勝戦はノーサイドの後も選手と観衆の間で揉み合いが続き、両チームとも決勝戦中の行為でフランスのラグビー執行部から試合停止の処分を受ける。試合中の暴力や商業主義、アマチュア主義への軽蔑はフランスラグビーの危機を要約、続く5年の間トップクラブは離脱し、フランス代表は32年に5か国対抗から追放。反対にキヤンのチームはラグビーリーグを確立
フランスでは戦後ラグビー熱が過熱、「乱暴者たちの試合」となって、文字通りの死闘から死者を出したため20年代末は「死のラグビー」の時代として知られるようになり、伝統主義者は一層不安を募らせ、試合の入場収入をクラブ間で共有するとの決定を機に協会を脱退し、アマチュアラグビー協会を結成するが、アマチュアに留まるのは至難
フランスでもラグビーリーグが誕生、13人制の新式ラグビーはフランスのラグビーユニオンの特徴となっていたフォワードに基礎を置く消耗戦よりも速く、よりスキルフルで、非暴力的として人気が出た上に、ラグビーユニオンが失ったトップクラスの国際的ラグビーの対戦が可能という利点があった
193839年のシーズン末はフランスがラグビーリーグで最も明るく輝いたときだが、ヒトラーによる蹂躙で政府はヴィシーに後退し、「国民改革」に着手。その価値の1つがアマチュアスポーツ信奉で、プロ禁止は全てのスポーツに及んだため、ラグビーリーグはその使命を終える

第18章       英国のラグビー・ラッシュ
1923年ラグビー校にて、ラグビーユニオンはラグビーフットボールを創造したウェブ・エリスの歴史的行動の100周年を祝う ⇒ ラグビーユニオンは戦後勢いを取り戻し、イングランドが完全復活。ホームネーションズ(フランスの5か国対抗からの追放で32年以降第2次大戦前の39年まではホームネイションの4カ国で戦われた)にも2回優勝
1922年イングランドとスコットランドの定期戦カルカッタカップで初めてイングランドの選手が背番号入りのジャージーを着る ⇒ 背番号の最初は1897年のニュージーランド。ラグビーリーグでは1911年には義務付けられたが、ラグビーユニオンが15から始まって下がっていく独特の背番号システムを採用するのは1966

第19章       はるか彼方に(ラグビーリーグ、191939)
デトロイトがフォードの自動車を量産するように、ラグビーリーグのスターを量産したのがヨークシャーの炭坑村シャ―ルストン
ラグビーリーグのチャレンジカップは、サッカーのFAカップを目指して1896年に始められたが、両大戦間に最も威信のあるトーナメントに発展、北部最大のスポーツイベントとなるが、国民的スポーツイベントとするために、1923年からサッカーのFAカップが開催されてきたロンドン郊外に新設されたウェンブリー・スタジアムを29年から本拠地として開催
オーストラリアのラグビーリーグは、ライバルのラグビーユニオンに対し比較的寛大
ニュージーランドのラグビーユニオンは、新しいスポーツラグビーリーグに対して遥かに攻撃的な態度をとる ⇒ ラグビーリーグはマオリのコミュニティに深く根を下ろす

第20章       2次世界大戦中のラグビー
1927年以降仏独は国際親善試合を行う。フランスが最強国だったが2年目にしてドイツに敗れるという衝撃的な結果となる。次にドイツがトライをするのは6年後。1934年ラグビーユニオンはヨーロッパ大陸のラグビーを組織化し、ヨーロッパ選手権を開催
戦争では国際ラグビーのスターの多くが戦死。フランス8名、アイルランドも8名、オーストラリア10名、イングランド14名、スコットランド15名、最大はドイツで16

第6部          ラグビーの新たなる地平
戦後ヨーロッパ大陸に新興国が出現。イタリアの台頭で5か国対抗拡大に繋がる。南半球では太平洋の島々が承認を求めて挑戦を始め、アルゼンチンも成長
新たな地平で最も重要だったのはジェンダー上の地平 ⇒ 女子ラグビーの台頭で、ラグビーというスポーツそのものを根本的なやり方で転換させようとしている
第21章       ヨーロッパのラグビーとイタリアの勃興
戦後のヨーロッパ大陸におけるラグビー人気は大部分をフランスに負う ⇒ 48年には国際アマチュアラグビー協会FIRAを再興、リーグ戦が確立したが、冷戦により東西のスポーツ交流は50年代半ばまで凍結
ソ連とその同盟国の東欧諸国はスポーツ活動にかなりの資金をつぎ込み、外交関係を助長するためにスポーツによる国際交流を推進。52年のソ連圏のオリンピック参加がスポーツ界を刺激。ラグビーではルーマニアが圧倒的に強かった
東ドイツが56FIRAに加盟したのを機に続々と東欧諸国が参加。73年からはFIRAトロフィーと改名されたネーションズカップが興隆。ソ連がセカンドティア内の新興国となるがその多くはジョージア(グルジア)からもたらされた
90年をピークにルーマニアが衰退、ラグビーユニオンのプロ化で有力選手がフランスの提供する高報酬に引っ張られたためで、代わって5か国対抗に新しい国を入れる決定がなされた時イタリアが選ばれ6か国対抗となる
イタリアは1980年代の税制改革により、経済自由化の一環として控除対象となる「コミュニティ・プロジェクト」に企業の総売上高の一部を使うのを認め、スポーツチームと競技会を後援することが企業の利益となるようにしたため、ラグビーが人気の「コミュニティ・プロジェクト」になる。ベネトン始め大企業がこぞって有名選手を集め、着実に力をつけ、ラグビーユニオンがわずかばかりヨーロッパ大陸色を強めることに貢献

第22章       アルゼンチンと南アメリカ(サッカー大陸のラグビー)
アルゼンチンはサッカーの国。リーグ戦は1891年に始まり、最初の10年間はラグビーもプレイするクラブが強かった
アルゼンチンの牛肉と羊毛は大英帝国各地の英国人消費者の必需品で、1880年代初め以来英国商人や技術者がアルゼンチンに定住、1900年にはアルゼンチンは植民地でこそなかったが、非公式の大英帝国と呼ばれるものの最も重要な前哨地点として広く認められていた
ヨーロッパ同様、スポーツは国家建設の重要な助けと見做されるようになり、1898年司法・公共教育省は全ての学校が体育の授業を行い、スポーツクラブの設置を義務つけたため、続く10年でサッカーの有名なクラブが創設され、12年にはチリとともに南米初のFIFA加盟を果たす
ラグビーは英国人や上流階級に属する工学系の学生たちが中心だったために遅れを取るが、グローバルな帝国ネットワークの一部だったため、「英国世界」全体から、特に南アから有力選手を引き寄せた
1946年ペロンが鉄道と銀行の英国の権益を国有化し独立した外交を模索
1951年ウルグアイ、チリ、ブラジル、アルゼンチンの4カ国で南米トーナメントが始まる
3国ともラグビーは英国によってもたらされ、エリートの英語話者の学校のお決まりとなった ⇒ ウルグアイでは1865年からともいわれ、チリは1890年代から、ブラジルではサッカーの大衆性がクラブの運営者である英国で教育を受けたエリートには耐えられなくなって1912年サッカーを放棄してラグビーを優先
1980年代のワールドカップ到来は、断固たるアマチュアリズムに固執したアルゼンチンの衰退に繋がり、多くの有力選手がフランスやイタリアに流出したが、073位になって完全復活を遂げ、間違いなくトップティアを維持

第23章       日本、アジア、アフリカ(スクラムの帝国)
アジアやアフリカの大英帝国を統治に出かけた数多くの英国人実業家や兵士たちは、酷暑の中でもラグビーを思いとどまることはなく、貿易が国旗の後を追ったとすれば、楕円球はしばしばそのすぐ後に続くことができた
「白い自治領」とは異なり、他の英国世界ではラグビーは大部分が国を離れた教育のある英国人エリートのスポーツであり、インドがその好例で、1870年代初めにカルカッタとマドラスに駐在していた英国海軍戦艦のチーム同士が対戦したが、それ以上に広がることはなかった ⇒ イングランドとスコットランドのカルカッタカップは、1873年設立のカルカッタクラブがわずか4年で解散する際手元のルピー銀貨を溶かして作ったカップが、サッカーのFAカップに倣って毎年ラグビーユニオン全クラブが争奪戦を演じるためのカップとしてRFUに寄贈されたものの、全てのクラブの参加は無理として転用したもの
インドでは、ラグビーを自分たちのものと信じる植民地エリートがインド人にプレイを奨励しなかったため、1997年までインド代表がフィールドに出ることはなかったし、パキスタン代表の国際舞台デビューは2003
英国のインド植民地で唯一実質的な歴史を持つのはスリランカで、1870年代英国人のプランテーション管理人たちによって導入
東南アジアではマラヤが帝国ラグビーの前哨地。錫とゴムによって1824年英国の支配下に入り、1920年代まではヨーロッパ人がプレイ。1884年ロイヤル・セランゴールが創設、02年にはシンガポール・クリケットクラブとの間で対抗戦開催。1921年になってマレー人のエリート校に導入され、23年にはマレー人によるチーム結成。60年までの内戦の終了・独立でラグビーの人種分離構造は解体
65年シンガポールがマラヤから分離し、国外在住者たちの本拠地になった後、国内のトーナメントが始まり、68年にアジア・ラグビーフットボール協会設立の核となり、15人制の変形の1つである10人制ラグビーの先駆者となる
中国でも他の地域と同様、ラグビーは英国人によって香港では1885年に、上海では1870年代にもたらされるが、共産党革命後の復活は1990年代
ラグビーが極東において最大の影響力を獲得したのは日本 ⇒ 維新後に英国の教育システムが導入され、スポーツがカリキュラムの中心となる
1899年慶應大にラグビークラブ結成
1918年全国高等学校ラグビーフットボール大会開始
1926年日本ラグビーフットボール協会JRFU創設
ラグビーユニオンがまず第1にスポーツというよりは社交だった古いアマチュアリズムの伝統を熱心に守り、イングランドのクラブラグビーの儀式の多くを模倣 ⇒ 95年ラグビーユニオンをプロ化する決定に日本は反対、競合社会人チームによるトップリーグが発足したのは2003年であり、多くの国代表チームが代表監督の国籍要件を廃止した何年も後の07年になって漸く元フランス代表のエリサルドを代表ヘッド・コーチに指名
近代化のために英国の伝統をモデルにした国にとって、21世紀に於いてはこの伝統にいつまでも囚われていることがその近代化を押しとどめている
フランス人植民者は、帝国的使命の一環として英国人同様、特にアフリカにラグビーを持ち込む ⇒ アルジェリアとモロッコ、チュニジアが最初で、西アフリカでは長くサッカーの後塵を拝する

第24章       フィジー、トンガ、サモア(南太平洋からきたビッグ・ヒット)
1951年フィジーがオーストラリアに遠征し、奔放なランニングラグビーで観客を魅了
翌年の遠征ではワラビーズを破り、ラグビーのテストマッチ史上最大の衝撃
18741970年英国の植民地、1880年代にラグビーが英国人によってもたらされ、次第に地元民に拡散、1924年にはサモア、トンガと初の国際試合
1973年トンガ・ラグビーの50周年を祝ってオーストラリアに招待されたトンガ代表チームが、主要ラグビー国とのテストマッチの僅か第2戦で最高の勝利を収める
トンガは立憲王国で植民地だったことはないが、南太平洋の英国圏に不可欠の存在となり、英国が19世紀に南太平洋に影響力を広げるにつれ、伝道師と教師がラグビーをトンガにも導入、寄宿学校に広めた
海外で暮らすトンガ人の増加が1980年代半ばのトンガにおけるラグビーの発展に繋がる
95年ラグビーユニオンがプロを承認した時、トンガのラグビーは激しい嵐に吹き飛ばされ、00年にはニュージーランドに0102で大敗したかと思うと、11年のワールドカップでは準優勝したフランスに勝っている
サモア諸島は英米独の権益が絡み合い、1899年東のアメリカ領と西のドイツ領に分割するが、第1次大戦勃発直後にニュージーランドが西サモアを併合、同国初の植民地西サモアとなり、97年サモアとして独立
ニュージーランドによる占領がサモア人に不幸をもたらし、191819年にはインフルエンザが持ち込まれて人口の1/5を失う
ニュージーランドからラグビーも移入されたが、すぐには広がらず、サモア初の卓越した選手となったのはニュージーランドに移民した人々の子どもたちだった。特に50年代以降の大量移民の中から生まれたウィリアムズはオールブラックスの南ア遠征に非白人として初めて選ばれ、南ア政府も遠征中「名誉白人」とした
91年のワールドカップでは、大方の予想を裏切って決勝トーナメントに進出、続く2大会でも同様の成績。2011年にはワラビーズに歴史的勝利を収め、太平洋のラグビー国の必須となっている通過儀礼を果たす
ラグビーリーグでも95年ワールドカップに初出場、フランスを圧倒

第25章       アメリカ合衆国とカナダ(ラグビーの北アメリカン・ドリーム)
1つのスポーツの将来性が完全に消滅したことがあるとすれば、それはアメリカのラグビーで、1924年オリンピックでの金メダルは祖国で全く無視され、チームはロスに戻った直後に解散。フィールドに戻ったのは52年後の事
20年代はアメフトの全盛期
30年代南カリフォルニア在住英国人コミュニティがラグビーの再興を果たす。東海岸でも大学を中心にプレイが始まり、60年代になると人種差別の撤廃された大学を中心に急成長
80年代にはラグビーリーグも浮上、87年にはカナダとの間に初の国際試合
1975年アメリカ初の全国的統括団体USAラグビーフットボール協会(USAラグビー)設立、翌年64年ぶりに代表チーム(愛称イーグルス)をロスのフィールドに送り出す。87年のワールドカップに出場
ラグビーリーグも1980年代末に再浮上、87年カナダとの間で初の国際試合開催。2013年にはワールドカップに出場、予想を裏切って準々決勝に進出したが、注目されることはなかった
カナダのラグビーは、「白い自治領」仲間のラグビーと、合衆国に君臨するアメフトの間で2分。さらに20世紀の最初の1/3には「ラグビー」にもラグビーとカナディアンフットボールの2種類があり、最終的にフォワードパスを公認してアメフトに近づく
1966年ブリティッシュコロンビアがオセアニア遠征から帰国途上だった国代表のブリティッシュ・ライオンズを撃破した歴史的勝利によって劇的な再生を果たす。83年にはイタリアを破ってヨーロッパのチームに対する初の勝利を記録、87年のワールドカップに招待されトンガには勝ったものの予選で敗退、91年には準々決勝進出。90年代が黄金時代
合衆国カナダ両国は、ラグビーの本質そのものへの挑戦に決定的な役割を果たす ⇒ 障碍者のための新しいスポーツとして車椅子ラグビーが76年ウィニペグで始まり、急速に合衆国で普及、96年にはパラリンピックの公開競技になり、現在では正式競技。90年代末には合衆国でラグビーのマッチョ的慣行に疑問を呈するゲイ=フレンドリーなラグビークラブが台頭、01年にはワシントンでセブンズのトーナメントを開催
米加でなされた最大の飛躍的前進は、70年代の女子ラグビーの台頭。車椅子は男女混合

第26章       女子がラグビーの半分を支える
2010年のワールドカップ決勝はイングランドとニュージーランドの間で好勝負が展開されたにもかかわらず、ラグビーファンの記憶には残らなかったのは女子だったから
ラグビーユニオン、ラグビーリーグとも、女子の成長はラグビーが20世紀最後の10年間に遂げた大きな前進の1
1889年には「女を相手にしない」、32年になっても「我々のスポーツは女子のために創設されたのではない」として、ラグビーの人気は女性なしで社交的な付き合いができることにあった。酔っ払っての振舞、通過儀式、猥褻な歌、行き当たりばったりの破壊行為(「ハイジンクス」として片づけられる)は全て、ラグビーユニオンの偏執的男性文化の一部
1次大戦終戦時、女子サッカーは盛んだったが、ラグビーは僅かに記録が残る程度で、英国以外でも同様。大戦中工場での「男の仕事」従事が多くの若い女性の地平線を広げたものの、ラグビーはユニオンもリーグも反対して蕾が摘み取られた
1970年フランスで世界初の女子ラグビー・アソシエーション創設されるが、フランス・ラグビー協会の承認を得るまでには10年を要した
女子ラグビーがスポーツとして初めて存在感を示したのは70年代北米の諸大学において、女性解放運動と男女平等法可決に刺激された結果で、男子ラグビー自体が軽視されてきたので組織的偏見には遭わなかった。78年には全国トーナメント開催
ヨーロッパでも、男子ラグビーがメイジャーなスポーツではない国々で女子ラグビーが人気を博する様になる ⇒ オランダでは75年から、スペイン・イタリアでは79
80年代にはラグビーユニオンの競技団体が女子ラグビーを真剣に扱い始め、91年にはワールドカップがスタート。出場12カ国のうち男子でトップティアの国は4カ国のみ
セブンズの興隆も女子ラグビーの力になる

第7部          伝統と変化
1880年以来アマチュアリズムがラグビーユニオンを規定してきたが、1960年代と70年代の変化する世界は古い信念と確信に疑問を投げかけ、政治とスポーツは不可分となり、ラグビーが南アと結んだ深い絆はこのスポーツをこれまでにないほど傷つけた。1世紀に及ぶラグビーリーグのプロフェッショナリズムも、その中心だった古い工業世界の終焉によって厳しい試練を受ける。19世紀において1895年がラグビーを決定したように、1995年がラグビーを永遠に変えることになる
第27章       スプリングボクス、オールブラックス、そしてラグビーの政治
ラグビーを考え出したのは英国だが、南アとニュージーランドが、ラグビーを強さとスキルを試すものから、1国の体力、政治的利益、外交的影響力を試すものに変えた
1920年に初めて対戦して以来両国は仲が悪く争いを続けてきた
1937年オールブラックスがホームのテストマッチシリーズで南アに敗れたことは、ニュージーランドのラグビーに深い傷跡を残し、大戦もあって49年まで雪辱の機会がなかったが、またしても南アのスクラム・テクニックに抗しきれず4戦全敗どころか、ローデシアのチームにも惨敗、さらには同時にニュージーランドに招いたオーストラリア代表チームにも2戦惨敗となり、同国のラグビーユニオンは過去最低のどん底に落ちる
56年南アがニュージーランドに来た時は、オールブラックスには元ヘビー級ボクシングのチャンピオンまで登場し猛烈で荒っぽい乱闘となり、何とかニュージーランドが面目を果たし、国民的自信を取り戻すが、友人は得られず、何十年にもわたる伝統に反して、どちらのチームも終了後にジャージーを交換しなかった
1948年南アではアフリカーナ―の国民党が圧勝し初の政権を取り、アパルトヘイト体制を作り上げ、英国統治下で導入された慣習を正式に承認。翌年スプリングボクスがオールブラックスに圧勝した時、アフリカーナ―とラグビーユニオンの絆は両大戦間に強化され、前年の政治的な勝利と49年のスポーツにおける勝利がラグビーとアフリカーナ―の民族主義を1つの不可分の統一体に融合した ⇒ ラグビーが非公式に容認してきた人種差別を国家の政策が是認したため、49年のニュージーランドの遠征チームは国内での抗議にも拘らず全員が白人だったのは、南アと分かち合うラグビーの絆のほうが人種間の平等より大切だったから
56年のスプリングボクスの遠征を最後に以後40年、南アで次第に大きくなった抑圧に対し国際的な反アパルトヘイト運動が湧き起こる
1961年の英連邦からの南ア追放に対して、IRBは「ラグビーにおける南アの立場は全く変わらないというのが全加盟国の見解」と告げる。64年と68年のオリンピックから南アが排除されたことや、アパルトヘイト政権とのスポーツをボイコットせよとの国際的な圧力の増大も、ラグビーの統轄者たちにはほとんど影響を与えなかった
ラグビーユニオンは国際政治と切り離せないように絡み合い、続く25年間国際政治がラグビー内の政治を形作る

第28章       紳士と選手(ウェールズとイングランド、194595)
1971年トライの得点が3点から4点に引き揚げられトライの得点がゴールを上回り、68年には負傷交代が可能に
6879年はウェールズの黄金時代 ⇒ 5か国対抗で単独優勝8回、同時優勝2回、グランドスラム3回。この時期は英国でカラーテレビが導入された時と一致、赤いジャージーが映えた
英国で、スポーツ、特にアマチュア主義に対する姿勢が変化しつつあり、クリケットは62年にアマチュアとの分離を破棄、「ジェントルマン(アマチュア)対プレイヤー(プロ)」戦の終了に繋がる。ローンテニス協会も67年にアマチュア主義を放棄したが、ラグビーユニオンは65年に「営利企業から贈られる」褒賞の受け取りを選手に禁じた
ラグビーのスポンサーになることを求める企業側からの圧力に抗しきれず、71年には「ラグビーの利益になる限りは、後援と商業的支援は受容可能」と方針転換し、72年末には何の努力もなしで11の企業スポンサーを集めていた
RFUは、ノックアウト方式のトーナメントでも前言を翻し、7132チームの参加で実施、75年にはインペリアル・タバコが310万ポンドでスポンサーとなり、トーナメントはジョン・プレイヤーカップになる
RFUは歴史的に、リーグ戦をプロフェッショナリズムの入口と見做していたが、70年代イングランドの戦績が落ち込み代表チームの弱体化を、スポーツ報道におけるもっとも重要なメディアにありつつあったテレビ中継が白日の下に晒した結果、プレイの水準を上げるためのドラスティックな行動を求める声が高まり、リーグ戦への熱が高まったものの、導入にはさらに10年が掛かる
80年に再びイングランドがグランドスラムを達成する頃、英国は激しい変化を遂げる寸前で、変化の中心には金があった。多くの観客を集めた試合の収益金はどこに行ったのか、公正な分け前を手にしているのかという疑問が関係者に湧いてくるのは当然の成り行き
79年サッチャーが政権を取ると、86年シティは「ビッグバン」を経験し、OBネットワークと行動規範を、身分よりもむしろ金銭が決定原理となる「自由市場」原則と規制緩和で置き換えた。ラグビーユニオンをプレイし、運営してきた人々は、この変化する世界の一部であり、多くはシティに勤務し、重要な試合は金融界の社交と企業接待の一部になる
87年遂にイングランドにリーグ戦が導入され、1000以上のチームが108のディビジョンからなるリーグ戦に組織された ⇒ 選手の争奪戦が激しくなったが、同時にイングランド・ラグビーの再興に寄与したことも間違いなく、続く8シーズン、グランドスラムを3回達成、91年にはワールドカップ決勝にも進出。RFUが伝統的に他のないよりも大切にしてきた原則、アマチュアリズムは放棄され、ほとんど誰も異議を唱えることなく受け入れられたばかりか、来るべき時代にさらに大きくイングランド勝利に貢献

第29章       ブレイヴハーツ、タイガース、ライオンズ(戦後のスコットランドとアイルランド)
スコットランドのラグビーユニオンは伝統的であることを伝統とし、長い間アマチュア規則緩和の試み全てに反対。国際的な遠征もプロの1形式だとして対戦を拒否さえし、背番号をつけることも32年まで許さなかった
それが戦後になると最も革新的に変身。71年にはプロフェッショナリズムへの最も滑りやすい坂道の1本と見做していたコーチによる指導を導入、73年には国内にリーグ戦を導入したのは50年にイングランドに勝利して以降敗戦が続き、52年には遠征してきたスプリングボクスに044で惨敗、「マレーフィールド(スコットランドのホームグラウンド)の虐殺」として不名誉な記録となったことが背景にある
それらの成果が表れるのは80年代。67年スコットランド国民党党首が初めて英国下院議員となり、74年の総選挙で同党がスコットランドにおいて39%以上の得票率を獲得、79年の国民投票では僅差でスコットランドへの権限移譲は回避されたが、80年代の社会不安のためイングランドからの疎外感は強まり、スコットランド代表が70年代半ば以降非公式の国家として歌っていた《スコットランドの花》を90年の5か国対抗から公式の国家として歌い、スコットランドのプレイ水準は民族主義の潮に乗って上昇を開始
プロフェッショナルであるチームの建設に取り掛かり、84年にはトリプルクラウンを楽々と達成した後の1回勝負の無敗のフランス戦に勝って59年ぶりのグランドスラムを達成
90年にはイングランドを破ってグランドスラムを達成、社会不安と政治的放置によってひどく苦しめられた10年間の終わりに、政治と社会、そしてスポーツが1つになった。時代を超えて残り続ける瞬間だったが、スコットランド・ラグビーの黄金時代の頂点だけではなくその終焉をも記した
大戦で中立国に留まったアイルランドは戦争による混乱なしに成長を遂げ、48515か国対抗で3回単独優勝、48年はグランドスラム。それまでの65年間単独優勝は4回だったので様変わりだったが、54年対スコットランド戦の前に英国国家を歌うのを拒否した時、チームの統一に激震が走り、選手の意向を入れて以後ベルファストでは国際試合を行わないと決定
60年代から保守主義の一部が放棄され、コーチングも禁句ではなくなり、61年初めて南ア、次いで67年豪州に遠征するなど、南半球のチームとも互角に戦ったが、72年再び政治が介入、「血の日曜日」では北アイルランドに入った英国軍に射殺された人が出て両国間に亀裂が走る。ダブリンで予定されていた5か国対抗は大戦中を除き初めて延期され、翌年唯一5か国がタイトルを分かち合う
フォワードの強化で8285年とトリプルクラウンを達成。更なる高みを目指して91年にはリーグ戦創設。アイルランド経済が自由市場、低税率の「ケルトの虎」(19952007年までのアイルランド経済の成長を指す)に変革されるにつれてラグビーもその航跡を追う
戦後の5か国対抗ではイングランドが優位、次いでウェールズだったが、ブリティッシュ・ライオンズ(ラグビーリーグのほうは47年に国代表チームを公式にグレート・ブリテンに改名)となると、キャプテンは残る2カ国が優位で、5093年までの13回の遠征のうち10人はアイルランド人かスコットランド人
ラグビーの世界でも国家間の緊張関係は、変化する政治情勢をある程度までは反映。大英帝国の古い絆がほどきかけ、歴代の英国政府が欧州共同市場入りを追求し、2国間の特別な経済関係を終結させたので、ニュージーランドは英国との伝統的な優遇関係を失う。インドやパキスタンからの移民抑制を目標とした入国審査の厳格化もニュージーランドとオーストラリアの白人に打撃を与え、かつては本国だったが最早そうではない国に自由に入る資格を失う。南アは60年のシャープヴィル虐殺に続き、61年には共和国宣言し、49年創設の英連邦から追放され、ラグビーはフィールドの内外で、政治と国家間の敵意と敵意がぶつかり合う闘技場となる
66年以降のライオンズの南半球遠征の典型的に逆説的な指示は、「やられる前にやり返せ」だったが、74年の南ア遠征でも同じ教訓が厳しく適用され、1896年以来初の南アとのテストマッチの勝利を勝ち取ったが、乱闘の悪名高い合図「99コール」(南アから報復行為を受けた場合、「99」コールを合図に全員が乱闘に加わるか、近くの南ア選手を攻撃するという戦略)が助けていた
遠征は、ブリタニアが世界の海を統治し、スポーツが英国とその植民地を1つにする文化的な絆の一部だった時代に生まれたが、今帝国は死に、本国の諸国は分離を始め、過去の伝統は世界の至る所で挑戦を受け、そこにはラグビーユニオンの伝統も含まれていた

第30章       勝利するフランス
フランスは、50年に南アシリーズで初めて勝利した遠征チームとなり、54年には初めてオールブラックスを破ったが、悲願は1910年以来参加している5か国対抗でのグランドスラムだったが、長年にわたってIRBからアマチュアリズム厳守に関し厳しい要求を突き付けられたものの両者の化かし合いは継続。戦後ラグビーリーグが急速に力をつけ世界最強になるとラグビーユニオンもより高額の報酬を提供して復活を遂げ、54年には5か国対抗で初の同時優勝、着実に力をつけてきたが、50年代後半はフランス自体が深刻な政治危機を経験。58年にはドゴールの第5共和制が宣言され、国家の統一と国際的な特権の象徴として「勝利するフランス」を要求、新政府はスポーツをフランス人の生活の中心に据えた
それに応えたのがラグビーユニオンで、595か国対抗で単独優勝、60年はイングランドと同時になったものの、続く2年は単独優勝し、フランスのGNPが初めて英国を上回ったこともあって、ラグビーはスポーツにおけるフランスの成功の象徴となる。55年に初めて国際試合を放映したテレビの普及がラグビー人気を後押し
68年に、相手を消耗させるスクラムによって遂にグランドスラムを達成。その後もフォワード支配のラグビーが洗練され、フランスを80年代北半球で最も成功した国にする
1987年のワールドカップはラグビーユニオンのアマチュア主義終焉の始まり
フランスではアマチュアとプロの垣根は低く、1970年代半ばにはフランスで提供される利益のために選手たちが英仏海峡を渡っていったし、ラグビーリーグの選手とも契約

第31章       ラグビーリーグ(テレビ時代の大衆スポーツ)
北部工業地帯の衰退に合わせて50年代末には英国のラグビーリーグ・ブームは終わり、ラグビーユニオンが、一度でもラグビーリーグでプレイしたことのある選手をユニオンから追放したためこともあって低迷が続き、次に復興するのは商業的スポンサーシップの発展が新しい金を運んできた70年代以降。80年代半ばには初めて選手をクラブが完全雇用しラグビーリーグに革命を起こす
2次大戦終了時、オーストラリアのラグビーリーグは間違いなく英国より格下だったが、50年には30年ぶりでイングランドに勝利、56年にニューサウスウェールズでスロットマシンが解禁されると、ギャンブルとレストラン、コミュニティ活動を組み合わせた「リーグクラブ」の創設に繋がり、ラグビーリーグにかなりの財源を新たにもたらし、フィールド内での活動に気前のいい金銭的な支援が可能となり、さらに59年には選手の居住要件が廃止され、英国との資金面での競争が可能となって選手強化が進み両国の力が完全に逆転
1961年英国が独断で欧州共同市場に加盟申請し、62年にはオーストラリア人の連合王国への自由出入国が終了したことから、両国間の距離は広がり、多くはアメリカの方を向き始める
2次大戦中にオーストラリアがラグビーを持ち込んだパプアニューギニアは、5060年代オーストラリアによる植民地化の進行とともにラグビー人気が先住民の間に広まり、70年代には国民的スポーツとなり、77年にはオーストラリアでのワールドカップの帰路立ち寄ったフランスに圧勝、ラグビーリーグ史上最大の衝撃となる
1988年のワールドカップに初出場する頃には世界5番目の強国になっていた
テレビ産業の規制が緩和され、衛星放送とデジタル技術の発達は全く新しい有料放送の消費者マーケット興隆に繋がり、マードックなどのメディアの帝王がスポーツが有料テレビ網確立のための起爆剤になると気づき、莫大な放映権料が入るようになると金を巡る分裂が起こり、ラグビーユニオンにも重大な影響を与える
68年のウェンブリーでのラグビーリーグ・チャレンジカップ決勝は豪雨の直後にモンスーンのような嵐の中で行われ、終了間際のトライでコンバージョンを決めれば逆転勝利となり、しかもゴールを狙うプロップはラグビーリーグで最も尊敬される大ベテランの1人で当日の試合の立役者、ゴールキックは過去15年間で700本近く蹴ったゴールキックの殆どが目の前にある1本より遥かに難しかったにもかかわらず、無情にもボールはポストを外し、ギリシャ悲劇の主人公となったが、マン・オブ・ザ・マッチとしてランス・トッド・トロフィーが与えられ、最大の勝利と最大の悲劇が1つの同じものになったように、ラグビーリーグがこれほどの大金や商業的利益を前にリーグの存在そのものが脅かされ、最大の勝利の瞬間が最大の災厄の瞬間となった

第32章       ラグビー、1995年にいたる道
1995年ヨハネスブルクでのワールドカップの決勝は正真正銘の世界最高のチームを決定する試合となり、スプリングボクスがオールブラックスを破ったが、重要だったのは南ア初の黒人大統領マンデラの勝利だったこと。キャプテンの背番号をつけたジャージーを着て応援し、キャプテンにワールドカップを手渡したが、僅か10年前には自尊心ある南アの黒人ならだれも、アパルトヘイトを象徴するスポーツの1つのジャージーを身につけることはもちろん、スプリングボクスを応援することなど考えもしなかったろう
68年イングランドのクリケットが南ア遠征を企画した時、ケープタウン生まれの万能選手で60年イングランドに移住した選手の受け入れを南アが拒否、遠征は中止されたが、続く69年南アの英国遠征の際は反アパルトヘイトのデモ隊に迎えられ、試合のたびに群衆がグラウンドに出てきて中断
反アパルトヘイトの動きにもかかわらず、全般的にラグビーユニオン上層部はスプリングボクスを支持
76年のオールブラックスの南ア遠征は、ヨハネスブルクで警察によってデモ隊に多大の死傷者を出した直後で、なおかつモントリオール五輪の直前だったため、アフリカ諸国が南アとのスポーツ交流禁止違反を犯すニュージーランドの五輪チームを締め出すよう呼び掛け始め、国際オリンピック委員会がニュージーランドの排除を拒否すると、27カ国がオリンピックをボイコット。南アとニュージーランドのラグビーの絆がスポーツの世界を引き裂いた
ニュージーランド自体も2つに引き裂かれる ⇒ 労働党政権は人種差別に反対して南アの遠征受け入れを拒否、国民党は81年に16年ぶりにスプリングボクスを招聘、体裁作りのために初のカラード選手を含んでいたが一戦も出場せず、各試合とも機動隊に守られて行われ、最終戦はデモ隊が飛行機からグラウンドに小麦粉爆弾を落としたので中断、ニュージーランドが経験した内戦に最も近いものとなった
南アは第2次大戦以前、南半球でRFUに最も恭順だったが、選手への報酬支払いを巡って徐々にIRBRFUの間に亀裂が入るなか、南アも遠征選手により高い費用の支払いを求めたのは、南アがアマチュアリズム遵守を謳いながら、多くのアフリカーナ―がアングロサクソンの熱意を完全に分かち合っているのではないことを明らかにした
スプリングボクスの選手の多くが金のためにイングランドのラグビーリーグに吸い寄せられていき、1979年ケープタウン生まれの選手でイングランド北部に移住した選手が、英国生まれでない選手として初めてグレートブリテンの一員として豪州遠征
南アが国際的に孤立を深める中、アマチュア主義に対してはより柔軟に振る舞え、60年代を通じて南アのラグビーの商業化が一気に進み、ビール会社とタバコ会社がスポンサーになる
ラグビーユニオンのアマチュア時代を終わらせる決定的な1打は最終的にオーストラリアから来た ⇒ 1983年最初にワールドカップの構想を持ち出したのはオーストラリアで、多くの人が不可避と見ていたプロ化の動きを統制するための対策として、」IRBがワールドカップを組織しなければ誰かほかの人がやると説得、87年の第1回大会をオーストラリアとニュージーランドで開催することを決定。87年の成功が91年のイングランドでより大規模に再現され、テレビの高視聴率、急成長する広告収益、ますます利益に基づくようになったラグビーユニオン内部からの提案は、商業主義の危険を巡る古くからの懸念をすべて吹き飛ばす
95年ワールドカップ南アフリカ大会がアマチュアリズムの葬儀の場となる
87年アパルトヘイト・ボイコットのため南アはワールドカップに招待されず、国際舞台復帰の条件として出された白人と非白人の協会の合併により92年国際ラグビーの世界に戻る。94年にはマンデラが黒人初の大統領に選出される
IRBはアマチュア主義の未来を論じるためのワーキング・グループを結成するが、95年の報告書ではラグビーユニオンがアマチュアのスポーツである理由を説明さえできなかった
アマチュアリズムの終焉の引導を渡したのは、95年ニューズコープによるラグビーリーグ(スーパーラグビー)創設の提案がオーストラリア・ラグビー連盟に拒否され、ラグビ-リーグ内でラグビー内戦が勃発したこと。当初ラグビーユニオンは喜んでみていたが、両陣営が内戦に注ぎ込む数億ドルにラグビーユニオンの選手も誘惑される恐れが現実化し、プロ化しなければならないとの声に繋がりオーストラリアとニュージーランドのラグビーユニオンはニューズコープとの接触を決定。ニューサウスウェールズの協会は公式にラグビーユニオンはもはやアマチュのスポーツではないと発表
スプリングボクスとニュージーランドの結晶の2日前、両国とオーストラリアの各ユニオンはニューズコープと契約金550百万米ドルで10年の契約を締結
南アフリカ国家の未来は95年のワールドカップによって決定。IRBもプロフェッショナリズム解禁の決定を公式に追認。ラグビーリーグとラグビーにおけるプロフェッショナリズムの原型を確立した分裂からちょうど100周年に2日足りないだけ

第8部          21世紀へ
95年の決定が新たな機会の対象になり、創設者たちが想像したのとは全く異なる未来が待つ
第33章       縮む世界、グローバルの楕円球
05年の5か国対抗で1978年以来のグランドスラムを目指すウェールズとの戦いに挑むイングランドのキャプテン・ジェイソン・ロビンソンは初の黒人のみならず、ラグビーリーグの選手として生まれ育った。多くのチームにラグビーリーグの選手が参加し、ほとんどすべての強豪国にはラグビーリーグで学んだコーチが少なくとも1人はいた。楕円球の世界は180度回転したように見えた
A World in Union: ラグビーユニオン・ワールソカップのテーマソング《全世界が1つになって》
南半球の巨人3か国は「南アフリカ・ニュージーランド・オーストラリア・ラグビーSANZAR」を結成マードックとの取引を背に、2つのフラッグシップ競技会を組織。5か国対抗を模した「トライネーションズ」と、地区対抗戦の「スーパー12(後に14となり、1115になってスーパーラグビーと改名)NZ5SA4AS3のチームが参加。どちらも当初はニュージーランドが圧倒的に強かった
本当に重要なのはワールドカップで、ニュージーランドは第1回に優勝しただけであとは疫病神に憑りつかれたようだったが、11年地元開催で復活、15年も連覇
南アフリカは95年の優勝の後2階は低迷したが、04年近代化のために新しいコーチが任命され、07年には返り咲く。プロ化はほとんど影響なく、非公式の同意を契約書の形にしただけだが、人種差別のほうもあまり変化は見られず、07年の優勝時も非白人は2人のみ。19年には黒人キャプテンの下圧倒的なスクラム力で3度目の優勝
ラグビーリーグのほうは、2000年末期シドニーにおけるオーストラリアのラグビーリーグの大衆的人気がピークに達し、分裂していた2つのリーグの和解が成立し、以後10年間はラグビーリーグ史上最大の成功
イングランドでは95年のプロ解禁後、RFUとその草の根クラブ、プロチームの間で三つ巴の争奪戦が勃発、プロチームの殆どは億万長者の実業家に買収されていたが、それでも財政的に持たなくなり、ロンドンで生き残ったエリートクラブはもはや歴史的な本拠地でプレイしているのではなくなった
03年のワールドカップでの優勝がイングランドのラグビーユニオンの変身に重要な役割を果たす。延長戦最後の29秒のドロップゴールで勝敗が決しイングランド史上最高の勝利で、イングランドのラグビーを1つにしたが、クラブラグビーと国代表チームの間の緊張は表面化で燻り続け、以後6か国対抗で1度しか優勝していない(15年現在)
ウェールズでは、ラグビー政治への執着がしばしばラグビーそのものに対する国民の情熱と同じように高いところに位置づけられ、経済の中心だった製造業の衰退により、ラグビーは国のレベルでもクラブのレベルでも疲弊しきっていたが、国レベルではニュージーランドから代表監督を招聘して強化、0512年の8年間にグランドスラムを3回達成するまでに回復。弱いクラブチームの原因は基盤の脆弱さに尽きる
スコットランドはプロ化に伴い先見の明をもって地区チームに移行したものの、元々ユニオンの競技人口が極めて少なく、アマチュア時代はそれが技術力の差になることは少なかったが、プロ化によって薄い選手層の欠陥が顕在化、99年の最後の5か国対抗(翌年からイタリアの参加で6か国対抗に)での優勝を最後に他の後塵を拝し、「キルトを履いたキィウィーズ(ニュージーランド人)」に頼るようになる
アイルランドはスコットランドと対照的に、最初はプロ化に反対していたが、95年のプロ化はアイルランド経済の新たな活力と時期を同じくしており、絶好のタイミングだった。マードックの資金が世界の英語圏全体でプロ化を下支えし、90年代末と2000年代には有名選手を多数輩出、ライオンズに最多で16名が選抜されたことは15年間の圧倒的成功に花を添える。9912年のハイネケンカップ(6か国対抗出場国のクラブによるクラブ対抗戦、現ヨーロピアン・チャンピオンズカップ)6回優勝。12年はアイルランド同士の決勝。地区の成功を国代表がさらに拡大、04年からの10年でトリプルクラウンを3度、09年には48年以来2度目のグランドスラムを達成。地区チームの成功と裏腹にクラブチームは衰退に向かい、活発なクラブ構造のないまま08年の経済崩壊が「ケルトの虎」の牙を抜き去る
グローバル化の中でラグビーの未来を国境の中に押し込めておけないことは明らか
サッカーのUEFAカップの人気と商業的な成功に想を得て始まったハイネケンカップは初年度こそイングランドとスコットランドのクラブがボイコットしたが、すぐにメディアと大衆の心を虜にし、クラブラグビーに国際的な魅力を与える
フランスとのライバル関係は国代表戦での長年の敵対関係のみならず、ハイネケンカップで常勝しているからでもある ⇒ フランスではアルコール飲料の広告を禁止しているためHカップと呼ばれるが、14年までの19回のうち7回優勝、うち4回までは決勝がフランス同士。サッカーが98年のFIFAワールドカップで優勝した後ですら、ラグビーがフランスを世界最大のラグビーの単一市場にしている。トップ14リーグには14年現在220人の外国選手が活動し、スコッド(チ―ムのこと)60%以上フランス人がいるのは2チームだけで、国代表チームの成績は上がったり下がったり
フランスにとってもやはりワールドカップが最大の関心事で、優勝以外はすべてをやってきた ⇒ 99年決勝進出、03,07年は準決勝でローストビーフと軽蔑するイングランド相手に屈辱
ジダン率いるサッカーの多民族チームと白人のラグビーユニオンチームとは対照的で、人口移動と多民族文化の21世紀の世界でフランス・ラグビー最大の力がいずれそのアキレスの踵になるかどうかはこれからの問題
太平洋諸島の選手たちにもグローバル化の波は押し寄せ、フランスの220人中48人はフィジー・トンガ・サモアの出身、英国でも同様程度に浸透、オーストラリアでは全選手の38%にも上り、太平洋諸島の経済にラグビーの技術が持つ重要性は、06年度にフィジーの選手が海外で稼いだ金額がフィジーに送られる金額の11%を占めたことからも測れる。ただ、自国の選手がグローバルに広がっても、代表選のレベルで安定して戦う力にはなっていない。プロ化は強豪国をより強くし、07年のフィジーを除きプロ時代にはワールドカップの決勝トーナメントに到達していない

結論 ラグビーの魂
09年クーベルタンの2つの情熱であるラグビーとオリンピックが再び1つに結ばれ、IOC16年のリオ五輪でセブンズを競技種目に採用決定
IRB94年に国際団体としてIOCに承認され、ラグビーユニオンの五輪採用が議論された。IOCIRBはアマチュア主義を最後に放棄した主要な国際競技団体として共通点があったものの、IOC15人制に難色を示しセブンズを提案、IRBも少人数のラグビーの最高レベルとして位置付け、促進のためセブンズ・ワールドカップを放棄(その後五輪との隔年開催で復活)することに同意してスタート
セブンズは70年代に香港で始まり、99年からワールドシリーズを開始、急速に世界を転戦。IRBも積極的に支援、現在では各大陸の競技大会で採用されているが、15人制の拡大に繋がるかどうかは今後の展開次第
オリンピックにセブンズが採用されたことは、ラグビーが直面し続けている矛盾を明るみに出す。IOC会長のロゲはラグビーユニオンのベルギー代表だったが予てよりよりオープンにすることを主張。グローバルメディアもよりスペクタクルを提供する必要性を取り上げ、92年にはトライの得点を5点に引き揚げ、ボールを支配すチームがボールを動かさざるを得ないようにルールが改定され、95年のプロ化ではラインアウトのリフティングが容認され、プロ化自体がラグビーのスピードを上げた。ルール改定の多くは先立つ数十年間にラグビーリーグが作ったパターンを踏襲。ラインアウトやスクラム、キックは減り、パスの回数とトライ数が増加、
ラグビーユニオンがラグビーリーグ選手のユニオン転向禁止を終了させたお陰で、スター選手が両方のラグビーで活躍できるようになり、両者のスポーツが再統一されるとの憶測がある。選手以上にラグビーリーグのコーチがラグビーユニオンに大量に流入したことはより重要 ⇒ 03年のワールドカップで準々決勝に進出した8チームのうち、コーチングスタッフに元ラグビーリーグ関係者がいなかったのはニュージーランドだけ
ただ、両者はいずれも伝統が重くのしかかる ⇒ フォワードによるボールの奪い合いがラグビーユニオンの精神的支柱である一方、ラグビーリーグの魂はオープンなパスのゲームという違い以上に、フィールド上では如何に似ていようとも2つの異なる文化
19世紀半ばに姿を現して以来、ラグビーは多様な顔を持ってきた。教育専門家のツール、政府の道具、冒険者たちの遊び。人間性の中の最善のものを促進し、最悪のものを支持するために使われてきた。希望と歓び、悲しみと絶望をもたらした。気高いもの、そうではないもの、人間の感情すべてを包み込んできた。無数の人々が世界を、そしてときには人生そのものを理解するのを助けてきた ⇒ 単なる楕円のボールによって提示される無限の可能性に人類が果てしなく魅了されてきた結果




ラグビーの世界史 トニー・コリンズ著 資料と逸話でひもとく200
2019/9/21 日本経済新聞
ラグビーのイメージといえば、ノーサイドの精神と呼ばれる分け隔てのないフレンドシップと、フェアプレーあふれるスポーツといったあたりだろうか。とはいえ、こうした性善説みたいなものがすべてではなく、200年の歴史には濁りもあった。
原題=THE OVAL WORLD
(北代美和子訳、白水社・5800円)
▼著者は61年生まれ。英国の歴史家でラグビーリーグ研究の第一人者。
※書籍の価格は税抜きで表記しています
原題=THE OVAL WORLD
(北代美和子訳、白水社・5800円)
著者は61年生まれ。英国の歴史家でラグビーリーグ研究の第一人者。

時あたかも、アジアで初めてとなるラグビーワールドカップ日本大会の開催を迎えて(920日~112日)、楕円球に興味を抱かれた読書好きに、画期的な「読み物」を紹介したい。それが、英国のスポーツ史家にして、ラグビーに関する数多くの優れた著書を世に出してきたトニー・コリンズによる『ラグビーの世界史 楕円球をめぐる二百年』という大著である。
タイトルにはラグビーの歴史とあるが、内容は歴史にとどまらず社会的奥行きがあって、スラスラ読み進めるエンターテインメント本のようでもある。やや偏ったたとえになるが、良家の出自で正義感と無意識の差別感を併せ持ったグループ(アマチュアリズムに固執するラグビーユニオン派)が、アスリート能力は高いが経済的には弱者のグループ(プロ化へ進むラグビーリーグ派)の求める試合出場への対価について、受け取りを禁じて、スポーツの表舞台から閉め出そうとしたたくらみからストーリーは動きはじめる。
やがてラグビーユニオン派は、政治力を発揮して大英帝国とその植民地・自治領、更に欧州、アフリカ、南米、アジア諸国との間に楕円球を通じた精神的絆を構築してゆく。
話は2度の世界大戦中のエピソードに触れる。また、名勝負の場面では登場人物が映像を見るように巧みに再現される。同じ試合が、対戦した2カ国の異なる立場で2度紹介されるので、分かりやすい。さらに、人種差別が制度化される前の南アフリカにあった、人種混交のラグビーにも話が及ぶ。資料で裏付けられた物語は、プロ化後の変化や、女子ラグビーの未来にも触れて申し分ない。
著者のコリンズは最後に、2世紀にわたりラグビーを前進させてきたものについてこう語っている。「単なる楕円のボールによって提示される無限の可能性に人類が果てしなく魅了され……」と。
《評》コラムニスト 小林 深緑郎



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