教育格差  松岡亮二  2019.10.29.

2019.10.29.  教育格差――階層・地域・学歴 

著者 松岡亮二 ハワイ州立大マノア校教育学部博士課程教育政策学専攻修了。博士(教育学)。東北大大学院COEフェロー(研究員)、統計数理研究所特任研究員、早稲田大助教を経て現在准教授。国内外の学術誌に20編の査読付き論文を発表。日本教育社会学会、国際活動奨励賞(2015年度)、早大ティーチングアワード(2015年度春学期)、東大社会科学研究所附属社会調査データアーカイブ研究センター優秀論文賞(2018年度)受賞

発行日             2019.7.10. 第1刷発行
発行所             筑摩書房(ちくま新書)



本書は、戦後から現在に至るまでの動向、就学前~高校までの各教育段階、国際比較と、教育格差の実態を圧倒的なデータ量で検証。その上ですべての人が自分の可能性を活かせる社会をつくるために、採るべき現実的な対策を提案する


はじめに
人には無限の可能性があるがゆえに、限りある時間の中で、どんな「生まれ」であってもあらゆる選択肢を現実的に検討できる機会があればいい
それは、この社会に、出身家庭と地域という本人にはどうしようもない初期条件によって教育機会の格差があるから。この機会の多寡は子供の最終学歴に繋がり、それは収入・職業・健康など様々な格差の基盤となる。つまり日本は、「生まれ」で人生の選択肢・可能性が大きく制限される「緩やかな身分社会」なのだ。
「生まれ」による機会格差という現状と向き合い積極的な対策を取らなければ「いつの時代にも教育格差がある」ことは変わらず、私たちはこの緩慢な身分制度を維持することになる
1章では、2015年の大規模社会調査の個票データを用いて、どの年齢層であっても「生まれ」によって(最終)学歴が異なること――戦後、教育格差が常に存在してきたことを示す
「生まれ」とは、出身家庭の社会階層(以下、出身階層)と出身地域のことで、本人が選んだわけではない帰属的(ascriptive)特性を意味
2章は、未就学段階(出生~保育所・幼稚園)で立ち上がる格差を大規模追跡調査データによって描く
3章は、小学校、第4章は中学校について、様々な観点で、義務教育であっても出身階層と学校・地域によって、機会と結果について大きな差があることを提示 ⇒ 「公立学校には多様な児童・生徒がいる」というのは幻想に過ぎず、公私立格差や通塾格差は重要ではあるが、複雑な格差構造の一部に過ぎない
5章は、学校間格差が大きい高等学校について、データで制度的特徴を浮き彫りにする。「生まれ」と学力に強い関連があるまま高校受験という教育選抜を行うので、結果的に学校間に大きな出身階層格差が生じる。進学校は「恵まれた家庭で育った」生徒の集まり
25章では、このように各教育段階について様々な格差の実態を包括的に描く
6章では、他国と比較しながら日本の教育制度の特徴をまとめ、その上で国際比較データで日本の教育格差について俯瞰。義務教育制度が格差を縮小するほどの力がないことや、高校教育が世界的に特異であることを確認
7章では、前章までの多角的データを踏まえ、私たちに何ができるか、具体的に論じる
1.  現状を把握するために ⇒ 本書が利用するのは、「社会階層と社会移動に関する全国調査SSM(計量社会学者により、55年から10年ごとに実施)だが、人間社会の複雑さからすべてを把握するのは不可能だし、因果関係の特定も特に教育分野では困難だが、国内外の理論や実証研究の知見を基に、観察する項目の精緻化や偏りがない回収など調査実施の地道な改善の積み重ねの上で、結果に留保をつけつつ誠実に解釈すれば有意義なはず
2.  長期的な「答え合わせ」とメカニズム解明 ⇒ 第1章では父学歴が子学歴に影響することを全国調査で示したが、40年前の研究者の視点からすれば、「若者」が実際にどのような人生を送ったのかの「答え合わせ」としてデータの意味はある。更には、様々な理論や研究を援用することにより、学歴再生産メカニズムを解明する「試み」をすることはできる
3.  今を生きる子供たちのために ⇒ 学歴の世代間再生産をデータによって明らかにすることは長期的な「答え合わせ」として学問的には重要だが、今の子どもにとっては格差の生成メカニズムを明らかにして格差是正に取り組むことの方が重要で、そのために家庭環境だけではなく、学校(制度)や地域という集合的水準にも着目した分析結果を紹介
4.  「現実」と向き合う ⇒ 私の研究動機は「改善のための冷静な現状把握」で、極端な例の比較は無意味。「現実」を変えるためには少しでも現状を冷徹に把握する仕組みが必要

第1章        終わらない教育格差
1950年代から後期中等教育が急拡大、70年代半ばには高校進学率が9割を超え、4年制大学への進学率も90年代以降緩やかに上昇し、09年には50%を超えたが、生まれ落ちた社会階層によって人生が制限されているという観点では、大きく変わってきたわけではない。親の社会階層が子に引き継がれる階層再生産の研究は、総じて相対的な格差が多少の変容はあれ基本的には変わらず存在していることを示す
1.   親の学歴と子の学歴
日本社会が急激に変わり平均的に高学歴化したところで、父子の学歴関連の強さは大きく変わったとは言い難い
厳密な研究によっても、出身階層と到達学歴の関連パターンは、戦後多少変動しながらも基本的に安定して推移している

2.   出身地域による学歴格差
3大都市圏出身であると4大卒以上になる傾向
2000年代以前に子供時代を過ごした世代であっても若年層と同じく出身地域による有利不利があった ⇒ 大衆教育社会時代でも出身地格差は存在していた
日本の義務教育は、財政力の低い県に対する国の支援や僻地教育振興法などにより、国際的には平等な教育機会を提供する標準化され制度として評価されているが、それでもなお15歳時点の居住都道府県にって大卒学歴の獲得に格差が存在することを示す
女性の3070代については、3大都市圏出身であることは大卒学歴と関連していないが、20代においてのみ3大都市圏出身であると短大以上卒となる傾向が確認できる
学歴による居住地域の分断化傾向により、地域格差の拡大が懸念される ⇒ 3大都市圏とそれ以外の大卒者割合の差が都市を追うにつれ拡大しているが、その背景には大卒者を雇用する企業の地域間偏在などがある

3.   意識格差――「大衆教育社会」から「階層化社会」へ
格差が立ち上がるメカニズムの1つとして「教育熱」の変容を実証的に示す
教育熱を図る設問としては、「子どもにはできるだけ高い教育を受けさせるのがよい」と「学校教育の他に家庭教師をつけたり塾に通わせた方がよい」で、学歴による意識差はいつの年度でも存在する
95年までは非3大都市圏居住者のほうが教育に対して高い価値志向があったが、05年までに逆転し、15年には3大都市圏居住者のほうが上昇幅が大きい
教育に対する価値志向の地域格差の背景には、集合的な階層――近隣階層によって人々の選択・行動・意識が変わるため、学習指導要領や財政的支援によって公立小中学校を標準化し、日本全国どこでも同じ教育を提供しようとしても、どんな近隣にあるかでその中身が変わってしまうという現実がある

4.   階層と「不利な状況」の打破
個人の努力によって社会階層の上層移動を果たしたことは事実として称賛されて良いが、「不利な状況」を克服した人たちの「生まれ」は偏っていることもデータではっきりしている
「御破算上昇」分析 ⇒ 高校受験で失敗した中で最上位の大学合格を果たしたのは、出身階層が高い人たちに大きく偏る
「有利」「不利」と「大卒」「非大卒」の組み合わせで4群を作り、出身階層に群間差があることは、誰にでも現実的な機会が開かれているわけではないという、目には見えずらい格差の実態を可視化する
出身階層の分析により、日本社会において大卒学歴の獲得機会が誰に開かれてきたのかが実証的に明らかになる
地域格差の他に、同じ地域の中でも学歴達成格差の背景に個人の出身階層による格差がある
塾などの教育産業によるサースの利用経験の有無は、わかりやすい教育(機会)格差の例
父母の大卒学歴は子の大卒学歴と強く関連するが、社会経済的地位は多面的・重層的で、両親が非大卒であっても本人が大卒となった大卒第1世代は、「親非大卒で自分も非大卒」群より親学歴以外の観点で大卒学歴の獲得に資する様々な有利な条件が備わっていた可能性が高い

5.   時代を超えて確認される格差構造
教育格差の時代の趨勢 ⇒ 「生まれ」による教育格差が時代を超えて根強く存在すると言える
     すべての年齢層・性別で、出身階層によって大卒割合が異なる
     経済安定成長期とバブル期に15歳だった中年層においても「子どもの貧困」経験者の大卒割合は低い
     男性はすべての年齢層、女性は若年層について、出身地域によって大卒割合に格差がある
     各年齢層においても、階層によって教育価値志向に格差があった
     階層による教育サービス利用志向の格差は、90年代には確認できないが、00年以降はある
     90年代教育価値志向は地方の方が強かったが、00年代以降逆転し都市圏の方が強い
     90年代教育サービス利用志向に地域格差はなかったが、00年以降は3大都市圏の方が強い
     住民の大卒者割合の地域格差は、戦後一貫して拡大傾向にある
     ほとんどの年齢層・性別で、「不利な状況」を打破して大卒になった人たちの平均的な階層は高い
     すべての年齢層・性別で、「有利な状況」から大卒となった人たちの階層は高い
社会経済的地位SES=Socioeconomic statusの定義 ⇒ 経済的・文化的・社会的要素を統合した地位の意。親学歴と世帯収入は大きく重なり、同じ傾向を示すので、第26章では親学歴をSESの代理指標とし、親学歴の基準は大卒・非大卒とし親大卒人数で0123層に分類

第2章        幼児教育――目に見えにくい格差のはじまり
1.   これまでにわかっていること
アメリカでの研究によれば、認知能力・非認知能力の格差は幼稚園に入る前段階で既に存在し、その後の学力格差の基盤となっている。3歳までに耳にする語数が家庭SESによって3,000万語違うと言われ、親子の会話量とその質が言語能力の発達に重要であり、高SESな親がそのようなコミュニケーションを積極的にしていることが実証的に明らかにされている

2.   異なる子育てロジック
中流家庭の教育を「意図的養育」とし、労働者階級・貧困家庭の教育を「放任的養育」と呼び、全社の親は子供の生活に意図的に介入を行うことで望ましい行動・態度などを形成しようとするのに対し、後者は大人の意図的な介入がなくても子供は育つと考える
幼児教育の地域格差 ⇒ 3大都市圏の幼稚園利用率は高く、各家庭の親大卒者数によっても差があり、日本でも「生まれ」(親学歴と地域)によって幼児教育格差がある
習い事は「意図的養育」の分かりやすい例 ⇒ 親学歴や地域による明確な差がある
テレビ視聴時間では、両親非大卒の幼児は両親大卒の子よりも平均して年間86時間長く見ている。ゲームではゼロの割合を親大卒者数別にみると年齢が上がるにつれ階層差が明確となる。特に男女差が大きく、女児(5.5歳時点)は両親大卒だと62%がゼロ。親が意図的養育として時間に制限をかけていると考えられる
就学前の準備格差 ⇒ 時間の過ごし方に相当な差異がある。総じて高学歴の親は早い時期に行動を起こし、その差は子が大きくなるにつれて拡大している。幼稚園や習い事の中身も異なる可能性があり、大都市であれば複数存在して選択が可能だろうし、大卒層はより質の良い構造化された時間を子供に提供するために、情報収集・参観していると考えられ、さらには大卒の定義を4年制大学や難関大学に限定すれば未就学段階の格差は様々な観点で拡大する

第3章        小学校――不十分な格差縮小機能
「みんな」が同じ条件で小学校生活を開始するように思うが、公立学校は全ての人々に社会的上昇が可能な機会を提供する制度であり、初期条件の平等化装置として期待されているが、「環境」格差は確実に存在し、「生まれ」による有利不利は隠せず、学年が上がるにつれ格差は拡大
1.      子育ての階層格差(個人水準の格差)
両親大卒層の「意図的養育」に基づく教育格差は拡大する一方
親学歴による塾などの学校外教育サービスの利用格差、これらの教育投資は高学歴な親による高い教育期待を具現化するための学歴再生産戦略とされる
経済資本格差は、親学歴によって大きな収入格差が確認できる
文化資本についても、親の大卒学歴は「制度化された文化資本」といえる
小学校入学時点で親学歴によって学力格差が既に生じていることも実証されている
親学歴による習い事への参加格差は、世帯収入などを調整しても確認できる。両親大卒層の平均値は年間2つの習い事を続けている。学年とともに参加種類数は増える傾向にあるが、親が高学歴・高世帯収入だとこの伸びが大きい。高SES世帯は習い事の開始も早いし、種類数増加傾向も強い。すべての層で3年生までは増加し、4年から激減するが、両親大卒層は学習塾へと焦点を変えるので減少幅が大きい
流動性の高い「知識経済」下で自ら学び続けることが求められる社会では、出身家庭によって努力量に差があることが分かってきた ⇒ 高SESの親による積極的な学校外教育の利用、テレビ視聴、ゲーム時間の制限、家庭において子の学習に関わることが、子の学習時間の伸びに繋がる

2.      学校・地域の格差(集合水準の格差)
公立校の「多様な(背景の)児童」がいるというメリットは、同質性が極めて高い2%にも満たない国私立に比べれば多様というだけに過ぎず、学校間で大きなSES格差がある
通学する児童が住む「近所」が均質でないのと同様。現行の学歴獲得競争と親和性があるかどうかという観点
同級生の大半が大学は行くものと考えていれば、大学進学が集合的「規範」となり得るので、「隠れた(潜在的)カリキュラム」と解釈できる。児童生徒が無意識のうちに内在化していく明示されない規範・価値・期待の事をいい、各地域に存在する別々の隠れたカリキュラムによって児童たちは「社会化」されていく
異なる「ふつう」の中で小学生は育つ ⇒ 同じ社会であっても児童は親大卒者数と学校・地域によって、異なる現実を生きている。親の「意図的養育」によって構造化された時間を日常として認知能力を向上させたり、両親大卒層の割合が高く、多くが通塾や長時間学習する「みんな」に合わせていたりすれば、自然と学歴獲得競争で先頭集団を維持することができるだろうが、親の介入度合いの少ない生活を送る「みんな」に合わせて「ふつう」の日々を送った生徒は中学に入ってから陰に陽に「身の程」を「公式」に通知されることになる

第4章        中学校――「選抜」前夜の教育格差
学校制度には大別して2つの機能が期待される。1つは社会に適応できるようにする「社会化」で、個々の能力を一定水準以上にすることが含まれる。もう1つが人々を「能力」によって格付け、「適切」な進路に振り分けることであり、学校制度は選抜装置そのもの。「生まれ」ではなく「能力」によって選抜し、「相応しい人」がより高い教育を経て高い社会的地位に就く
「意図的養育」を行う大卒の親は、この「能力」の定義を理解し、子育て戦略を変容させていく
親大卒者数によって、学習努力量(年間の学習時間)、学校適応指標、大学進学期待の3つの指標には大きな差がある。特に大学進学期待は両親非大卒の場合の23%に対し大卒の場合は60% ⇒ 新入生はそれぞれ異なる経験を心身に蓄積した状態で中学校生活を開始している
1.   階層格差(個人水準の格差)
学力格差は、年齢とともに平行移動

2.   学校・地域の格差(集合水準の格差)
学校間・地域間格差で無視できない小中学校の違いは、私立校進学者が全体に占める割合で、小学校では私立校在籍者割合は全体の1.2%だが、中学校では7.2
中学でも「多様な人がいる公立校」は「生まれ」という観点では幻想に過ぎない。学校間で、生徒のSES属性に偏りがあり、それは「校風」とか「学校文化」と呼ぶものと関係がないわけではない
社会経済的地位SESの地域格差 ⇒ 都市規模が大きいほど収入が高い。3大都市圏の両親大卒層の25%が私立に通い(東京の区部に限定すると43)、両親非大卒層は都市に関係なく私立は6%のみ。両親大卒割合が高いほど、学校の平均的学力が高く(相関係数0.68)、両親大卒割合だけで学校間の学力の違いの46%を説明している
学力上位層が私立校に集中していることは、学校単位の偏差値の最小値と最大値から見てもわかる ⇒ 公立は平均偏差値で4156だが、私立は5065。両親大卒層が「意図的教育」の一環として私立受験を経て集まっているので、SESと学力が高い
公私の学力格差は明らかに大きいが、公立校間や私立校間でも中2の終わりには格差が生じている
親学歴や年収などを含む様々な要素を同時に考慮しても、住んでいる地域の親学歴の高さは地域水準の教育期待を介して通塾と関連している ⇒ 個人SESだけでなく、どんな近隣に住んでいるかによって近隣間で大学進学期待格差があり、それが通塾格差の基盤になっている
学校外学習時間の学校平均格差は、社会経済的な文脈と関係。両親大卒割合と学校外学習努力量の学校平均には相関関係があり(0.66)、これは両親大卒割合が学習時間の学校平均の違いの44%を説明することを意味
小学校入学以後に確認される格差は、義務教育期間を通してゆっくりと拡大。同期間に実際に拡大する格差もあれば、学年が上がるにつれ顕在化する格差もある。前者は学習時間で、親大卒者数による差異が学年とともに拡大。後者はカリキュラム内容が薄く難易度が低ければ表面化しない格差
本章のまとめ:
     親大卒者数による学力格差がある ⇒ 小6から中3までの学力格差は、大きくは縮小も拡大もしない
     親大卒者数によって大学進学期待格差がある ⇒ 学年とともに裨益んちは上がるが格差そのものはあまり変わらない
     高校受験が近づくと、公立校生徒の通塾率は上がり学習時間数も増加するが、その幅が親大卒者数によって違い、結果的には格差は拡大
     「選抜」直前であっても学習努力量が異なる。「生まれ」によって高校受験の段階で全く異なる「練習」蓄積量がある。受験学年になっても両親非大卒層はメディア(テレビやゲーム)消費時間が長い
     小学校時と比べると、学校に関与する親は減少。両親非大卒層は授業参観に無関心
     私立進学割合は、3大都市圏の両親大卒層で高い。東京の区部では地域内部での階層格差が大きい
     公立であっても中学校間でSES格差が存在
     私立に高学力層が集まるが、公立校間にもSESと関連する学力格差はあり、各学校で「ふつう」の学力が異なることを意味
     両親大卒割合によって大学進学期待を持つ生徒の割合は大きく異なるが、これは学校SESによって各学校に違う規範が存在することを示唆
     3時通塾率が最も高い時期で「みんな」が行っているように思えても、その割合は地域・学校SESによって異なる
     学習量とメディア消費量、それに親の学校関与の度合いも学校間で「ふつう」が異なる
高校受験では、選抜が広域で行われると、家庭と通っている学校の「ふつう」では下位となる層が出てくる一方で、SESを土台とした教育熱の高い家庭・学校で育った生徒にとっては競争相手の数が増えたところで、特別なギアチェンジは不要

第5章        高校――間接的に「生まれ」で隔離する制度
生徒を「学力」によって異なる学校に選別するのが高校受験 ⇒ 学力などを基準に生徒を異なる教育プログラムに振り分けることをトラッキングという
日本の高校教育は際立った制度的特徴を持つ ⇒ 学校単位のトラッキング――高校間に大きな学力格差がある垂直的なランキング構造(偏差値序列による高校ランク)は他国に例を見ない
生徒が未来を思い描く「予期的社会化」は、中卒前の進学決定時点で起こっている
偏差値序列は生徒の「多様」な「能力」に応じた「効率」的な制度といえるが、進学校で有名大学を目指した効率的な教育を受けている生徒は、出身階層と高校ランクに関連づけられる。「生まれ」によって学力や学歴獲得競争との親和性に格差があるわけで、「選抜」は実質的にSESによって生徒を別の走路(トラック)に分離することを意味する。あくまで緩やかな身分制度だからこそ、「生まれ」が学校ランクに返還されている傾向を把握するためには、データによる可視化が必要。「能力」選抜によって様々な特性が高校内で均一化するので格差の多くは学校間のものとなる
1.   「能力」による生徒の分離――学校間のSES格差
SESと学力に強い関連がある ⇒ 高ランク・高SES校の生徒の大半は4年制大学以上への進学を希望
「生まれ」と教育熱サウナ
制度による過熱化と塾・予備校利用 ⇒ 入学後3か月の時点で、高ランク・高SES校の生徒は通塾・予備校通いを始める
拡大する学習行動の格差 ⇒ 入学後3か月時点で個人間・学校間には学習時間格差がある
時間の使い方の規範の違い ⇒ ランクとSESによって差が顕著
授業の雰囲気・学習姿勢・学校への帰属意識 ⇒ 学校SESとの相関性が見られる
親の支援・教師の期待・退学 ⇒ 社会関係資本にも学校間格差があり、親の支援が異なる

2.   制度的に拡大化された教育「環境」の学校間格差
学校の特徴は「生まれ」を基盤としている
人生の分岐点

第6章        凡庸な教育格差社会――国際比較で浮かび上がる日本の特徴
PISAを実施しているOECDの報告書では、公平性equityとは、教育結果が同じということではなく、SESなど本人が選べない条件によって結果が異ならないことであると定義されるが、そんな社会はあり得ない
SESによる学力などの格差はどこでも確認できるし、その根底にあるのは文化・教育的資源の偏りであることも世界中で共通しているが、国によって公平性の度合いには差があり、日本は世界標準に比し、公平性が特に高くも低くもなく、凡庸な教育格差社会といえる

1.   全ての社会に格差は存在する
データのあるすべての国で学歴によって収入格差がある
親子の学歴に関連があるので、どの国も程度の差こそあれ、親が高学歴の子は自身の高い学歴獲得を通して高収入を得る傾向にある ⇒ どの国も「生まれ」によって学歴達成格差のある緩やかな身分社会であり、学歴によって社会経済的便益が異なる学歴社会

2.   義務教育の「答え合わせ」
日本の義務教育は国際的には比較的平等な教育機会が提供されていると評価され、特に低SESの児童は未就学段階であまり学習刺激を受けていない分伸びしろがあるので学校教育効果が大きく、先頭集団に追いつけないまでも平均に近づくことはできるだろう
読解力・数学・理科の3分野で日本の平均値は高い ⇒ OECD35カ国中611
日本は、高学力生徒の割合が高く(平均15%、日本26)、低学力生徒の割合が低い(13%、6)
日本は協同問題解決能力でトップ、高能力の生徒の割合も高い(8%、14)
問題解決能力は2位、高能力の生徒の割合も高い(11%、22)
上記結果は、教育実践・政策・制度だけの結果として読むと過大評価 ⇒ 上位ランクの東南アジアの国では、アメリカなどと比べ第1言語を話さない移民の割合が低い事など、国により事情が異なる
国際的に平均は高いが、「生まれ」による格差の度合いは「ふつう」 ⇒ SESが国内下位25%であっても認知能力が国内上位25%である生徒をレジリエント(困難・苦境から立ち直る)生徒と定義するが、その割合が平均11.3%に対し日本は11.6%とあまり変わらず、「生まれ」の影響力が少ないとは言えない。格差が大きいとみられるアメリカでも11.3%、一方教育界で礼賛されるフィンランドでも14.1%に過ぎず、どのような社会であっても相対的に格差を埋めることが難しいことを意味する
個人間のSES格差で学力と同じくらい重要といえる項目が大学進学期待で、同じようにあらゆる社会で観察される事象

3.   「効率」を追求する高校教育制度
学校SESと学力の強い関連 ⇒ 高校では教育の価値軸が大きく異なり、「効率」を重視。生徒間の分離を制度的に推進しているのが高校受験で、学校間でSESの大きな格差が作り出される。日本では個人間SES格差は小さいほうだが、学校間SES格差はアメリカと同程度でOECD平均に近い。日本が特殊なのは、制度的に学校間SES格差を押し広げたことで生じていると考えられる学校SESと、生徒学力の関連の強さ
学習努力量の格差 ⇒ 学校SES格差をある程度まで説明
教員の学業に対する期待
学力水準が高く、格差の度合いが平均的な日本社会

第7章        私たちはどのような社会を生きたいのか
日本社会では「生まれ」が人生の可能性を大きく制限 ⇒ 教育実践・制度が入り混じるなか、出発点の格差は持続。ライフコース(人生の軌跡)研究で明らか
「生まれ」による目には見えずらい機会の格差が存在する緩やかな身分社会という現実に対し、何ができるか
1.   建設的な議論のための4か条
     価値・目標・機能の自覚化 ⇒ 自由と平等のどちらに重きを置くか、相克する価値・目標・機能を意識することで、より具体的かつ多くの子どもたちを対象とした「みんな」のための議論が可能となる
     「同じ扱い」だけでは格差を縮小できない現実 ⇒ 格差が維持される理由は2つ、義務教育に入る段階で「生まれ」格差があることと、制度が「平等」志向でも教育「環境」格差は避けられない
     教育制度の選抜機能 ⇒ 教育は、個人が社会で生きていくための知識や技能などを身につける――社会化する過程であり、教育制度には人を社会的「身分」に振り分ける選抜機能が期待されている。教育制度が選抜しなくなっても他の何かが選抜機能を持ち、選抜機能がある限り、全員が満足することはない
     データを用いて現状と向き合う ⇒ 現状把握に徹しないと対策も的外れ。大学授業料無償化にしても、経済資本の多寡のみで進学格差が生じているという仮定が正しければ政策の意図通りになるかもしれないが、階層と地域を土台に様々な経験の上で大学進学など想像できない生徒が、奨学金によって突如意欲を持ち出すか疑問。受験圧力の緩和を目指した学校群制度も高SES層の私立流出により公立校の大学進学実績が急激に落ち込み、公立校しか行くことのできない低SES層に対して社会的地位上昇の門戸を狭めたことを実質的に意味した。80年代以降のゆとり教育の最大の問題点も、思い込みに基づいた政策で、局所的体験に過ぎなかった受験地獄を普遍的現象と見誤ったことから企図された制度
筆記試験だけでなく「多様」な基準で評価すべきとの声が上がるが、格差問題は避けて通れない
標準化されていない制度など選抜の評価基準が不透明であればあるほど、準備への負荷が高まるので高SES層が有利であり、「優秀さ」の追求には適していても、「選抜」には変わりないし、低SES層には大学進学の障壁が高くなる
大切なのは、あらゆる実践・政策・制度の「よい側面」だけを見て「正しさ」に酔うのではなく、相反する価値・目標・機能の中で葛藤し、総体としての「みんな」の可能性の喪失を最小化すること

2.   (提案1) 分析可能なデータを収集する
「生まれ」による格差とその拡大の兆しを前にして ⇒ 緩やかな身分制度という現実に介入するためにできることの大きな対策の1つは継続的なデータの収集であり、教育改革の功罪を検証した上で建設的な議論に繋げる
分析可能なデータを経時的に取得し、ランダム化比較試験(薬のプラセボテストのようなもの)を行うことが重要

3.   (提案2) 教職過程で「教育格差」を必修に!
教育行政として直接的に手を入れることができる対象は教員で、教育実践の改善に繋がる知識や技能の研修を実施する中、「教育格差」を教職課程の独立した必修科目にすることを提案
「教師のラベリングによる予言の自己成就」 ⇒ 1960年代に指摘された事象。教師の期待・評価が生徒の出身階層によって異なり、教師期待が学力、退学抑制、大学進学などに影響する
教師が社会階層再生産に寄与 ⇒ 平等化装置として期待される(義務)教育制度においても逆機能が内在している

4.   総括――未踏の領域
     いつの時代にも教育格差・子供の貧困がある
     教育意識の地域格差は2000年代以降拡大
     住民大卒割合の地域格差が戦後一貫して緩やかに拡大
     格差は未就学時点で存在。親学歴によって異なる時間を過ごしていた
     「多様な(背景の)子が通う公立学校」は小学校であっても幻想に過ぎない
     中学校入学時点で経験の蓄積に大きな格差があり、中学校教育への適応度と関連
     私立中学進学層が抜けても公立中学校間には大きなSES格差がある
     高校受験を経て、小中学校よりも大きな「生まれ」による学校間格差が生じる
     他国と比較すると、日本の児童・生徒のPISA平均値は高いが、「生まれ」による学力格差については日本は凡庸な社会
     他国と比べて日本の高校教育制度は特異。中退があり得る、教員の期待が低い教育困難な低ランク校は低SES校でもある
     価値・目標・機能の自覚化、「扱いの平等」の限界、教育制度の選抜機能を意識した上で、現状把握なき「改革」のやりっ放しを止めよう
     分析可能なデータの継続的収集・効果測定による実践の漸次的改善を通して、1人でも多くの可能性を最大限に開花させよう
     教育格差を学ばずに教員免許取得が可能な現実を改め、「教育格差」を必修科目にしよう

SESだと遺伝子と認知力・学力の関連が強いことが検証されている ⇒ 社会全体として低SES家庭出身者の遺伝的「才能」を無駄にしていることを意味
11人の潜在可能性を最大限追求すると、家庭環境の影響が減り、全て遺伝で説明できると言われる
そもそも現在の教育制度下では、主に低SES層が社会や教育の制度によって「身の程」を突き付けられ、高校受験前であっても長時間勉強するわけでもなく、低ランク校に入ってからはますます勉強しないで、メディア消費時間も長く、何にどうやって向かっていけばよいのかわかっていない児童・生徒が多いと考えられ、遺伝的に学習に向いているかどうかを判断する以前の問題
まずは、精神的にも物質的にも安定した家庭と学校で、親と教師だけではなく多くの大人に励まされ成功体験を少しずつ積むような真っ当な教育を長時間受ける機会を付与しなければどれくらい可能性があるのかわかることはない。遺伝による支配の到来を憂う前に、11人の潜在可能性を最大化するための教育環境の整備が先。SESの高い低いに関係なく、11人がよりよく生きるために受験勉強だけではなく様々な機会を通して自己の可能性を最大化できる機会に溢れた社会であることが望ましい

おわりに
私は大学で社会教育学を教える、ということは教育格差を高SES家庭出身の学生に教えることで「生まれ」の世代間再生産を強化している
黙っているよりは、自らの行為が内在する有害さを意識し返り血を浴びながら教育と社会の在り方の転換を進める試みに従事する
私自身が実践する3つの架橋計画
     教育機会の格差構造について、大学生や若い人向けの新書を刊行 ⇒ 社会科学のデータが自己理解のためにいかに有用な手掛かりになるかを示したい。11人の軌跡の違いを可視化することで境界を自覚的に越えるよう促すという意味では細かく分離された「社会」間の架橋でもある
     教育課程で必修化すべき「教育格差」の教科書の出版 ⇒ 現場で応用できる研究知をまとめた「研究」と「教育現場」を架橋する試み
     みなさんとオンラインで緩く繋がること ⇒ 関心や個々の実践について共有することで、教育格差を是正する具体的な行動に繋げたい





教育格差 松岡亮二著 厳しい現実もとに政策提言
2019/9/14付 日本経済新聞
子供の学力や学歴は、親が大卒かどうかといった「生まれ」でほとんど決まってしまう。おそらく多くの人がそのことに気づいているはずだ。
(ちくま新書・1000円)
まつおか・りょうじ 米ハワイ州立大マノア校教育学部博士課程修了。博士(教育学)。東北大院、統計数理研究所などを経て、現在は早大准教授を務める。

本書は、幼児教育から小学校、中学・高校に至るまで、学校が生まれによる学力格差を確認し、再生産していくことを冷徹に浮き彫りにしていく。なかには、低偏差値の高校から一流大学に進む例外的な子供もいるが、そこでも「生まれ」による差がしっかり存在する。
学歴格差をめぐっては、これまで数多くの研究が行われてきた。本書が明らかにする現実は、そこから大きく外れるわけではない。しかし、大規模な社会調査から得られた、個人・学校単位の膨大なデータを駆使し、高度で丁寧な実証分析に基づいている点が本書の最大の強みになっている。教育格差は他の先進国でも普通に見られ、日本が「凡庸な教育格差社会」だという指摘も新鮮だ。
著者は、いかなる教育政策も、格差を確認・再生産する教育のメカニズムに向き合うべきだと主張する。例えば、鳴り物入りの「スーパー・サイエンス・ハイスクール(SSH)」は是認できるか。高学力の生徒が進学する学校をSSHに選定し、そこに高額の公費を投入している。結果的に格差拡大に加担していることがどこまで自覚されているのか、と。理想論だけが先行し、本来の意図とは異なる結果も生じかねない。
教育格差は望ましくない。できるだけ格差縮小を目指す政策介入が必要だ。そのためには、政策効果が分析できるデータの継続的収集と、効果測定に基づく改革、そしてその検証、という地道な繰り返ししかない。計量社会学者として誠実で的確な政策提言が示されている。
厚く、しかも熱い本だ。新書なのに約380ページ。文献リストは21ページにわたり、注記も300件を超える。統計分析は冷徹だが、筆致は熱い。読者は、著者の力のこもった、しかし、統計的事実に裏付けされた議論に引き込まれていくだろう。
教育格差という厳然たる現実があるからこそ、教育は一人でも多くの可能性を最大限に開花させることを目指すべきだ、と著者は主張する。あらゆる教育政策にとっての出発点が、本書に示されている。
《評》一橋大学教授 小塩 隆士


(書評)『教育格差 階層・地域・学歴』 松岡亮二〈著〉
2019970500分 朝日
 数字で示す「緩やかな身分社会」
 何事であれまっとうな議論を行おうとすれば「数字・ファクト・ロジックで」「エピソードではなくエビデンスで」語らなければならないことは世界の常識である。書店の店頭に並べられた新刊書を手に取るたび、そういったまともな本の余りの少なさにいつも悲しくなる。本書は、日本の教育の実態を俯瞰的に捉えた数少ない正攻法の力作である。読後感は重いが説得力は半端ではない。教育に興味のある人にぜひとも一読してもらいたい一冊だ。
 著者は前口上で、日本は生まれ育った家庭と地域によって、何者にでもなれる可能性が制限されている「緩やかな身分社会」だと指摘する。最初に、戦後いつの時代にも教育格差があったことを示し、次に教育格差が生成するメカニズムを幼児教育、小学校、中学校、高校と各教育段階ごとに解明していく。公立小学校は平等化装置として機能することが期待されているが(誰もが同じスタートラインに立つ)、「生まれ」によるそれまでの格差をゼロにするほどの力はなく、むしろ学年が上がるにつれ格差は拡大する傾向にある。中学校になると、都市部では高学力層が私立に抜けるため公立校の学力は小学校より均質化(平均が低下)する。日本の高校は特異で偏差値序列によって高校間に大きな学力格差が生じている。国際比較を行うと、日本は公平性が高いわけでも低いわけでもない、とても凡庸な教育格差社会だ。
 人には無限の可能性があるが、本人にはどうしようもない「生まれ」が人生の可能性を大きく制限している現実に対して、何ができるのだろうか。著者は「分析可能なデータを収集する」「教職課程で『教育格差』を必修に!」という二つの提言を行っている。現状把握なき改革のやりっ放しは止めなければならない。分析可能なデータを定期的に取得しなければ病変の広がりがわからない。地味だがとても建設的な提言だ。次は政府、社会が答える番だ。
 評・出口治明(立命館アジア太平洋大学学長)
 まつおか・りょうじ ハワイ州立大博士課程修了。早稲田大准教授(教育学、教育社会学)。論文多数。

NHKニュース
萩生田文部科学相 「身の丈」発言で陳謝 「説明不足な発言」
20191028 2103
萩生田文部科学大臣は、大学入学共通テストに導入される英語の民間試験について「身の丈に合わせて頑張ってもらえれば」などと発言したことについて、「説明不足な発言だった。おわびを申し上げたい」と陳謝しました。
大学入学共通テストに導入される英語の民間試験をめぐって、萩生田文部科学大臣は、先週BSフジの番組で、「裕福な家庭の子どもが回数を受けてウォーミングアップできるというようなことがあるかもしれないが、自分の身の丈に合わせて2回をきちんと選んで頑張ってもらえれば」などと発言し、批判の声があがっています。
これについて萩生田大臣は28日、記者団に対し「どのような環境下にいる受験生も自分の力を最大限発揮できるよう、自分の都合に合わせて適切な機会をとらえて、2回の試験を全力で頑張ってもらいたいとの思いで発言したものだった」と述べました。
そのうえで、萩生田大臣は「そうは言っても実際、国民の皆様、特に受験生の皆さんに不安や不快な思いを与えかねない説明不足な発言だった。おわびを申し上げたい」と陳謝しました。
そのうえで萩生田大臣は、「受験生が安心して受験できるよう一つ一つの課題の解決に努めていきたい」と述べ、改めて不安解消に取り組む考えを示しました。


講談社 現代ビジネス
萩生田大臣「身の丈」発言を聞いて「教育格差」の研究者が考えたこと
大学入試改革が、格差を拡大する可能性            松岡 亮二 早稲田大学准教授
「身の丈」発言と謝罪 萩生田光一文部科学大臣の「身の丈」発言に注目が集まっています。
発言があったのは生放送のBSテレビ討論番組。2020年度実施の大学入学共通テストの概要が紹介され、新しく導入される民間英語試験によって受験生の間に「格差」が生じるリスクが取り上げられました。
シンプルに言えば、費用の異なる民間英語試験を2回まで受けることが可能という制度設計や、試験会場が満遍なく準備されていない状況が「不公平」を生むという指摘です。経済的に恵まれていない家庭では試験の受けられる回数も減るだろうし、試験会場から遠方の地域に住む受験生は試験を受けづらいというわけです(交通費の負担も大きくなります)。大臣はこう反論しました。
「そういう議論もね、正直あります。ありますけれど、じゃあそれ言ったら、『あいつ予備校通っててずるいよな』というのと同じだと思うんですよね。だから、裕福な家庭の子が回数受けて、ウォーミングアップができるみたいなことは、もしかしたらあるかもしれないけれど、そこは、自分の、あの、私は身の丈に合わせて、2回をきちんと選んで、勝負してがんばってもらえば」1
試験会場が少ない地方の受験者に不利であるという点については、会場追加を試験団体に依頼していると言及した上で、「だけど、人生のうち、自分の志で、1回や2回は故郷から出てね、試験を受ける、そういう緊張感も大事かなと思うんで」と述べました。
これらの発言に対してインターネットでは強い反発が渦巻き、野党も注目2。大手メディアは批判的な論調で報道しました。
発言から4日後、大臣は説明不足であったと陳謝3。翌朝、大臣は発言の撤回を明言し、再び謝罪しました4。そして「身の丈」発言から8日後の111日、民間英語試験の導入延期を会見にて表明するに至りました5。今後は1年かけて民間試験の活用有無も含めて制度を再検討し、2024年度からの実施を目指すということです。
「逆境を乗り越えていけ!」という発想
大臣の発言はどのような考え方に基づいているのでしょうか。
発言撤回翌日の衆議院文部科学委員会6では、「私は教育格差の拡大を容認している議員ではなくて、どちらかといえば、経済的に困窮されている子供たちの支援を今までもしてきたつもりでおりますので、そういう思いでのエールを送ったつもりだった」そして、「いろいろ厳しい環境、いろいろ、それぞれ人によって異なるものがあるけれど、それに負けるな、という思いで発した言葉でございます」と答弁しています。
これらの弁明も踏まえて、あえて好意的に「身の丈」発言の意図を汲みとるとしたら、こう解釈できないでしょうか。
現状でも予備校などによって教育機会の格差がある。これくらいの制度変更は「身の丈」にあった準備・努力をして、よい結果を出せばいい。それくらいのことはできるはずだ。若者よ、逆境を乗り越えていけ!――そんなところでしょうか。
もしこのような「大丈夫、自分にあったやり方で努力すれば、逆境だって克服できる」という意図が咄嗟の発言の背景にあったとすれば、実のところ少なくない人が大臣の考え方に同意しているのではないでしょうか。「教育機会の格差は周知の事実だが、義務教育があるし、本人のやる気次第。私だって努力してきた」、と。
「生まれによる格差」は、乗り越えられるか
しかし、日本の教育における不公平さ、いわゆる「教育格差」の実態は、このような激励によって容易に克服できる程度のものなのでしょうか7
詳しくは、拙著『教育格差』(ちくま新書)に様々な視点によるデータをまとめたのでお読みいただきたいのですが、端的に述べますと、戦後日本社会はいつの時代も、「出身家庭」と「出身地域」という、本人が選んだわけではない「生まれ」によって最終学歴が異なる教育格差社会です。
日本全体を対象とした大規模社会調査のデータを分析すると、出身家庭の経済状態などに恵まれなかった人、地方や郡部の出身者が低い学歴にとどまる傾向が、どの世代・性別でも確認できるのです(付け加えておけば、日本の教育格差は、経済協力開発機構(OECD)のデータと報告書に基づいて国際比較すると、OECD諸国の中では平均的——日本は国際的に凡庸な「教育格差社会」なのです8)。
このような実態と向き合っていれば、「身の丈」という言葉も咄嗟に出てこなかったのではないでしょうか。
「実態」と「個人の実感」の乖離
では、なぜ、大臣(と無言の賛同をする人たち)は、教育格差の実態を把握できていない、あるいは教育格差が激励によって乗り越えられる程度のものであると過小評価しているのでしょうか。「身の丈」発言の根底にあるのは、データが示す「社会全体の実態」と「個人の見聞に基づく実感」の乖離であると私は考えています。
それはこういうことです。
データは、出身家庭と出身地域という「生まれ」による教育格差が戦後すべての世代・性別に存在していることを明確に示しています。しかし一方で、経済的に恵まれない家庭や地方の出身であっても、大学に進学し卒業して、親と比べて社会的地位の上昇を果たしたそんな知り合いを思い浮かべるのは、それほど難しくはないでしょう。もしかしたら、これを読んでいるみなさん自身が、このケースに当てはまるかもしれません。
実際のデータで考えてみましょう。ここでは「家庭の経済状態」と大きく重なる「父親の学歴」を基準にします。具体的に考えるために、対象を、2015年時点の20代(198695年生まれ)男性に絞ります。
この年齢層の男性で「父親が大卒」の場合、その80%が大卒になりました9。一方、「父親が大卒でない」場合は、本人が大卒となる割合は35%にとどまります。父親の学歴という粗い分類だけで明らかな格差が確認できるのです。
大きな格差ではありますが、裏を返せば、「父親が大卒でない」場合でも本人が大卒になったという人が35%はいることになります。格差は確実にあるけれども、しかし社会的上昇を果たした実例を見つけられないことはない――萩生田大臣の発言の背景には、こうした状況があると言えるのではないでしょうか。
これほど大きな格差ではないですが「出身地域」でも格差は確認できます。大都市圏や大都市部出身だと大卒となる傾向があるのです。
たとえば、先ほどと同じ年齢層の男性だと、大都市出身だと63%、郡部出身だと39%が大卒になりました。もちろん、地方出身でも大卒になる人たちはいますが、それは同じ地域出身の中では少数派ですし、地方の中で相対的に有利な出身家庭の人が大卒になる傾向があります。
もう一つ例を出しましょう。出身家庭の有利・不利を示す「社会経済的地位(SES)」10という指標があり、このSES指標が高いと高学力であることが知られています。
しかしやはり、少子化とはいえ日本は人口規模が大きいので、相対的貧困層の出身であっても高学力の子を実際に見つけることは、そんなに難しくありません。具体的には、近年の子供の人口規模は1学年120万人前後なので、出身家庭のSESが下位16%の層であっても、そのうちの1.2万人ぐらいは高学力(偏差値60以上)です。
同じく家庭のSESが下位16%で高学力ではない約18万人を無視し、何らかの理由で高学力となった1.2万人だけに視線を注げば、「日本は教育格差を乗り越えられる社会だ」と思い込むことができます。
「生まれ」によって「ふつう」が違う
わたしたちは小学校の時点で「生まれ」によって緩やかに学校間・地域間で隔離されているので、何を「ふつう」とするかの基準が異なります11。ですので、データが示す「社会全体の実態」と「個人の見聞に基づく実感」に乖離が存在するのは自然だともいえます。
社会全体の中で自分がどのような「生まれ」なのかを自覚していないと、「生まれ」によって人生の難易度が大きく違うことを想像することすら難しく、教育格差は乗り越えられる程度のものだ、と考えてしまう。さらにはそうした信念を補強する材料として「実例探し」をしてしまうことになります。
データが示すのは全体の「傾向」です。あるデータが特定の傾向を実証していたとしても「例外なくすべてがそうだ」という意味ではありません。「傾向」と一致しない例を意図的に探し出すのはそう難しくないので、その「実例」をもって、「日本の教育格差はたいしたことがない。頑張れば成功できる」ともっともらしい主張ができてしまうのです。
確かに血の通った実例に説得力はありますが、それでよいのなら、どんなに教育格差がひどい国であっても、全体の「傾向」と一致しない「底辺からの成功」の実例を見つけることができます。自分から探そうとしなくても、アメリカン・ドリームのような成功譚は物語として魅力的なのでメディアを通して実例を知ることになるはずです。
日本では少子化が進んでいますが、それでも1学年あたり100万人近くいれば、困難を克服し突出した「成功者」は出てくるはずです。そのような特殊な事例にスポットライトを当て、「やっぱり本人の志が大切だ」とするのであれば、政府や文部科学省など公共機関は何もしなくてもよいことになります。
いや、むしろ教育予算を大幅に削減し教育制度の弱体化を通じて積極的に混沌を作り出し、それでも這い上がってきた者を表彰すればよいのかもしれません。そんな「ディストピア(暗黒郷)ごっこ」をしている間に、他の社会は教育に投資を続けます。
国際競争力が低下することになったら苦しむことになるのは次世代――自分の選択ではなくこの社会に生まれてきた子供たちです。
大学入試改革と「教育格差」
実は、2020年度実施の大学入試改革は、すでに存在する教育格差を拡大すると考えられます。私が限られた紙面で以下お伝えできるのは、とても単純な「傾向」です。
そもそも志・能力・努力は、出身家庭によって大きく異なります。両親が大卒であると、大学進学を具体的に想定し、学力は高く、長時間学習努力をする傾向にあります。たとえば、中学1年生時点で明確に大学進学を期待する生徒は両親大卒だと60%、親のうち1人が大卒だと41%、両親が2人とも非大卒だと23%です。
この「意欲」格差の背景には、学校外の習い事などを含む、出身家庭による教育経験の蓄積量の差があると考えられます。学力も、小学校入学時点で親の学歴による格差があります。また、親の学歴によって子育て戦略に差があり、小学校4年生から「学校外学習時間」の格差は拡大します。
これらの格差はすべて学校間・地域間でも確認できます。前述した「生まれ」の状況を示す指標であるSESが高い地域であることを背景に、大学進学を目指すこと、学力が高いこと、学習努力をすることが「規範」となっている学校があります。一方、小学校であっても、恵まれない地域では、大学進学を目指す児童の割合が低く、学力も低く、学校外学習の時間まで短いことが「ふつう」である学校があるのです。
大学進学意欲を持つ、一定以上の学力に達する、努力することが「当たり前」になるという受験競争で実質的なスタートラインに立つための条件を誰もが持っているわけではないのです。意欲も学力も学習時間も目には見えません。
子供たちは視界に入る同級生を基準にして自分が「ふつう」なのかを判断しているはずです。しかし、小学校や中学校といった狭い範囲で「ふつう」なことは、大学入試のような全国区の競争の中での「ふつう」を必ずしも意味しません。
出身家庭のSESや出身地域によっては、目に見えない障壁が数多くあり、結果として大学進学に至らないと考えられるわけですが、今回実施が予定されていた入試改革はそんな障壁をさらに増やすことになります。
センター試験に比べれば明らかに試験制度は複雑です。どの民間英語試験をいつ受けるのか、どの大学・学部がどの程度重視するのか、国語・数学の記述式問題で高得点を取るための手法の練習など、選択肢が増えるといえば聞こえはいいですが、ゲームのルールが複雑になると、親、親戚、予備校や家庭教師、進学校といった様々な「支援者」から、上手く立ち回るための援助を受けることができる生徒ばかりが有利になるでしょう12
もともと大学進学意欲を持ちづらい家庭環境・地域の生徒は、そこまでして大学に行かなくてもよい、と「自発的」に受験そのものを諦めたり、背伸びして有名大学を狙う必要はない、と選抜度の低い大学を「志願」したりするようになるかもしれません。
試験制度を単純化し、基準を明確にして筆記試験による選抜にすれば、高SES層の有利さは減ると考えられます。もちろん、高SES層は未就学段階から様々な教育的刺激を受けて育っているので、この層が有利なことに変わりはありません。筆記試験による苛烈な受験競争が話題になった1980年代あたりに大学受験を経験した世代であっても、出身家庭のSESと最終学歴には明快な関連が確認できます。
「生まれ」が最終学歴に変換される経路は数多くあるので、後はどの程度の家庭・地域の有利さ・不利さを社会として許容できるのか・できないのか、という価値判断の問題になります。
では、今回の入試制度改革は、制度を複雑化することで目に見えない障壁を増やし、低SES層と地方出身者を自発的に諦めさせるという代償を払うほど価値のある便益を、一部、あるいは全体にもたらすのでしょうか。
当面は延期になった民間英語試験、それに、国語・数学の一部に記述式問題を予定通り導入したところで、学生が英語を話すことができるようになる、採点可能な範囲の記述式問題の対策をすることでモノを考えることができる、そのような結果を支持する研究はどこにあるのでしょうか13
私が最も気になるのは、制度を変更する前に、きちんとした「データ取得計画」が作られていないことです。これは「改革を実行する」こと自体が目的であって、そもそも効果を検証するつもりがないことを意味します。こうした点を自覚的に変えない限り、今回の入試改革もまた、戦後日本の教育行政で繰り返されてきた「改革のやりっ放し」になります14
おそらく今回の改革についても、制度変更の後、早くて数年後に研究者が工夫して、低SES層と地方出身者に不利な「改革」だったという実証知見を提出することになると思います。その頃には、制度変更によって不利益を受けた生徒たちは成人となり、変更がなければ受けていたかもしれない教育機会を喪失したまま、人生100年時代を生きていくことになります。
「身の丈」に合わせてしまったせいで、低SES家庭の生徒・地方出身者が、自身の可能性を追求できないことは、社会としても非効率です。ただでさえ少子高齢化で子供の数が減っているわけで、恵まれた家庭出身・都市部出身者の中「だけ」から各分野を将来牽引する人たちが出てくることを期待するのは、とても効率が悪いわけです。
SES家庭・地方在住の子供たちが直面する有形無形の経済的・文化的障壁を可能な限り取り除き、一人でも多くの子供たちが挑戦する教育的価値のある選抜試験に向かって切磋琢磨することこそが、この社会を強化します。
今回の制度変更は、この方向の真逆に向かっていく「改革」です。民間英語試験の延期だけではなく、記述式問題を含め2020年度の大学入試改革を延期し、もう一度、ゼロから、一人でも多くの子供たちの潜在可能性を最大限に開花させるためには、どのような選抜制度があり得るのか専門家を交えて議論すべきではないでしょうか。

そして、今後ありとあらゆる制度について、それを変更する「前」から専門家と行政が協力してデータ取得計画を練り、すべての「改革」の効果がデータによって検証され、一人でも多くの子供たちに機会を提供できるよう教育政策が改善され続ける体制が構築されることを願っています。



(耕論)「身の丈」発言 松岡亮二さん、竹内洋さん、斎藤孝さん
2019.11.6. 朝日
 「自分の身の丈に合わせて、頑張ってもらえば」。2020年度から始まる大学入学共通テストでの英語民間試験の見送りにもつながった、萩生田光一文部科学相の発言が浮き彫りにしたものとは――
 「教育格差」のデータ無視 松岡亮二さん(早稲田大学准教授)
 「身の丈」発言の後、萩生田さんは国会で「エールのつもりだった」と釈明していました。おそらく、あの発言に悪気はなかったのでしょう。
 発言の背景には、萩生田さんの考える「教育格差」とは、本人の志・能力・努力によって乗り越えられる程度のものだ、という認識があったのではないでしょうか。とすれば、それはデータが示す実態とは異なります。
 身の丈発言に、内心では同意した人もいるでしょう。社会にどれだけ自分の可能性を「諦めた」子どもたちがいるのかを想像せず、「格差はあっても、努力で乗り越えればいい。私はそうしてきた」というように。
 親の学歴を含む出身階層や出身地域によって、子どもが大学に進学しようと考えたり、日頃の学習意欲を持ったりすることに大きな格差があることは、多くの実証研究で明らかになっています。
 例えば、今年発表した私の研究では、中学1年で子どもが大学に進学することを期待する割合は両親が非大卒だと23%、一方の親が大卒だと41%、両親が大卒だと60%と明らかな差があり、親が大卒であるほど、子の学習時間も長いことが分かっています。
 社会経済的に恵まれない家庭の子どもたちは、ある時点で勉強を諦める傾向もあります。社会構造による教育格差があるのに、「勉強には向いていない」と、自身の可能性を低く見積もり、自分から「身の丈」で生きていこうとしているのだと思います。
 大学入学共通テストの導入は、現存する格差の拡大を後押しすると考えられます。テストの仕組みが複雑で選択肢もあまりに多いため、予備校などに相談し、膨大な情報を親と共に消化できる家庭の生徒ほど有利になるでしょう。
 英語民間試験では、一部受験生に金銭的な助成をするとも報じられましたが、親の協力を得て申請書を提出するのであれば、これ自体、見えない障壁です。
 経済的に恵まれない家庭の子は、自分の親にその申請書を渡すことすら躊躇(ちゅうちょ)するかもしれません。まさに自分が思い込んでいる「身の丈」に合わせようとする行動です。個人の選択ということもできますが、一方には、同じ障壁に悩むことなく受験勉強に打ち込める生徒もいるわけです。
 問題の根本は、これまでの「教育改革」が、データの蓄積や分析なしに、「これからはグローバル時代だ」といった理念で進められてきたことです。共通テストの国語と数学の記述式問題も、マークシートでは能力が測れないから導入するとのことですが、それはどの研究に基づくのでしょうか。理念先行で、ドーンと制度変更し、検証しない。そんな「改革のやりっ放し」はもうやめませんか。
 (聞き手・稲垣直人)
 まつおかりょうじ 教育の実態を様々なデータで計量分析する教育社会学者。近著に新書の「教育格差階層・地域・学歴」。

 近代日本の建前が崩れた 竹内洋さん(関西大学東京センター長)
 明治以降の日本には、誰でも試験でいい点を取れば立身出世できるという「ジャパニーズ・ドリーム」がありました。受験が「身の丈」に左右されないという建前が重視されており、萩生田文科相の発言は、その近代日本の伝統に反するものといえます。
 かつての学習院は上流階級の子弟中心でしたが、中等科を卒業して旧制高校を受験しても、合格率は高くありませんでした。華族の子であっても、優遇されることはなかったわけです。
 それが大正から昭和に入ると裕福な家庭の方が受験に有利という傾向が顕著になります。家庭に本が多い、親が勉強を教えるといったことが子の学力につながるので、必然的にそうなる。明治維新で生まれた機会の均等という建前が徐々に崩れていきました。
 しかし、敗戦で誰もが貧乏になったことで、またリセットが起きます。戦後しばらくの間は、難関大学でも貧しい家庭出身の学生が多くいました。明治維新や敗戦という「ガラガラポン」があったことで、機会の平等が担保されたという側面があるんです。
 明治維新から敗戦までが77年、敗戦から今年で74年ですから、経済的理由で教育格差が広がってきているのは、ある意味、必然ともいえます。
 さらに大きいのは、中央と地方の格差です。旧制高校は一高が東京、二高が仙台、三高が京都、四高が金沢、五高が熊本と各地に分散してつくられました。近代の日本には全国で優秀な人材を育成するという理念がありました。戦後も各都道府県に国立大学が置かれ、広く人材を育てる伝統は受け継がれました。
 しかし今はそれが崩れ、東京と地方では「身の丈」が違う社会になってしまいました。
 右肩上がりの時代は、格差があっても、努力すれば追い越せるという希望が持てました。しかし低成長の時代になるとそれが難しくなる。格差解消の手段として、米国のように、経済的に恵まれない学生らを優遇するアファーマティブ・アクションが言われつつありますが、萩生田文科相の発言はそうした現代の潮流にも逆行しています。
 一方で、格差を容認するような空気も生まれています。昔は、苦学して東大を出て、官庁や大企業に就職すると、裕福な家庭出身の人より高い評価を受けました。いわば「後払いされるアファーマティブ・アクション」です。親が偉いと「七光り」といわれて苦労するくらいでしたが、今は「サラブレッド」として評価されたりします。
 受験で競い合うことで、国が良くなっていく時代は終わりました。でも、その次が見えてこない。萩生田発言を契機に、今後の教育のあり方を議論すべきだと思います。
 (聞き手 シニアエディター・尾沢智史)
たけうちよう 1942年生まれ。専門は教育社会学。著書に「立志・苦学・出世 受験生の社会史」「教養派知識人の運命」。

 受験にはそぐわない言葉 斎藤孝さん(明治大学教授)
 大学入学共通テストのような公的な入試制度では、「公平性」がもっとも重要です。だから、受験者によって条件が異なることを容認していると受け取られかねない萩生田文科相の「身の丈」発言は、そぐわない使い方でしたね。使う文脈を間違えてしまいました。
 「身の丈に合わせて」という言葉は、自分に使えば、謙虚な姿勢を示したり、現実感覚があると受け取られたりして、好感を持たれる表現になります。ただ他人に使うと、「分相応に生きろ」というニュアンスになって感じが悪い。そもそも選択するのは本人で、その力は他人からは測りがたいわけですから。
 「身の丈」という言葉自体は古くからあります。古事記では字面のままの「身長」という意味で使われ、身分制度が固定化すると「身分」という意味が加わりました。身分制度がなくなった明治以降は、「能力」や「経済力」「立場」という意味で用いられることが多くなりました。
 「身の丈」以外にも、日本語には「分際(ぶんざい)」や「分限(ぶんげん)」「身のほど」など同様の意味の言葉があり、昭和までは日常的に使われてきました。それを多用することで、社会の安定性を維持しようとしていたのだと思います。同時に、「身の丈を合わせろ」「○○の分際で」といった言葉は言わば相手の勢いをそぎ、枠をはみ出るような行動を牽制(けんせい)し合うものでもありました。
 しかし平成になって「ハラスメント」への問題意識が高まりました。いま上司が部下に「身のほどを知れ」と言えば、それはもはやパワハラです。次第にこうした言葉はあまり使われなくなりました。
 それが2011年の東日本大震災を機に状況が変わりました。「いまの暮らしが当たり前じゃない」ということを多くの人が意識するようになり、足元を見つめ、身の回りにあるものや関係性を大切にしようとする雰囲気が社会に広がりました。そして「身の丈に合った暮らし」「背伸びせず無理のない生活」が注目を浴びるようになったのです。
 低成長時代でもある現在、書店には「身の丈に合った○○」というタイトルの本が並んでいます。この言葉は、社会に好意的に受容されるようになったのです。自分の状況に合わせて幸せを模索することはとてもいいと思いますが、大学受験に「身の丈」という考え方を当てはめることについては、少し心配です。
 若い人たちは自分の潜在力にあまり気づいていません。大学受験などを機に背伸びや無理をして、「自分にはこんな力があるんだ」と気づくことも多い。「さとり世代」と呼ばれ「身の丈」に収まりがちな彼らのためにも、日本社会にもっと挑戦を促すような空気があってほしいと思います。
 (聞き手・藤田さつき)
 さいとうたかし 1960年生まれ。専門は教育学、身体論、コミュニケーション論。著書に「声に出して読みたい日本語」など多数。

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