11の国のアメリカ史  Colin Woodard  2018.1.12.


2018.1.12.  11の国のアメリカ史(上・下) 分断と相克の400
American Nations 
~ A History of the Eleven Rival Regional Cultures of North America           2011

著者 Colin Woodard 1968年メイン州生まれ。91年タフツ大卒後、米紙のヨーロッパ特派員を経て、96年シカゴ大大学院修了。歴史家・ジャーナリスト。現在アメリカで最も注目を集めている中堅ジャーナリスト。環境問題や特色ある地方分化に強い関心を寄せる。
16年『アメリカ人の性格――個人的自由と公共善の壮大な闘争の歴史』を著し、今日の合衆国の鋭い政治文化的な対立の根源を、私生活への規制や干渉を嫌い個人の自由と独立を尊ぶ南部プランターの伝統と、教条的で公共善を最重要視するヤンキーダムの価値観との相克に見出し、社会的経済的格差が拡大し混迷を極める現代のアメリカ政治においてリベラルな民主主義の回復に期待を寄せる

訳者 
肥後本芳男 同志社大グローバル地域文化学部教授。アメリカ史。序文・序章・第4部・終章担当
金井光太朗 東外大大学院総合国際学研究院教授。アメリカ政治史。第1部・2部担当
野口久美子 明治学院大国際学部准教授。アメリカ史・先住民研究。第3部担当
田宮晴彦 水産大水産流通経営学科准教授。アメリカ史。第1部担当雄

発行日           2017.10.25. 第1刷発行
発行所           岩波書店


【表紙裏】 北米の歩みを、11のネイション間の分断と相克の歴史として描くユニークな歴史書
上巻では、植民地時代から独立革命後までを扱う。どのような地域文化圏が植民地として作られたのか。統一を欠いたまま発展していった諸ネイションは、なぜ一緒に国家を建設したのか。その斬新な歴史解釈は、現在の合衆国の深刻な亀裂を考える上でも示唆に富む
下巻では、西部開拓・南北戦争から現在までを扱う。「北部対南部」という2項対立の見方を修正し、いかなる南北戦争像を描くのか。20世紀半ばより先鋭化したネイション・ブロック間の対立は、アメリカをどこへ導くのか。北米大陸の再編までをも展望する壮大な歴史叙述

本書で言うネイションとは、主権を持たないものの、特有の歴史・民俗・文化を共有する地域的な文化圏という意味で用いる

1.    エル・ノルテ ⇒ メキシコとその国境沿いの州南部
2.    ニューフランス ⇒ ルイジアナ南部とケベック
3.    タイドウォーター ⇒ イーストコーストのデラウェアからカロライナ
4.    ヤンキーダム ⇒ ニューイングランド及び5大湖西部ミネソタまで
5.    ニューネザーランド ⇒ ニュージャージー、ペンシルヴェニア、マンハッタン
6.    深南部 ⇒ ディープサウス
7.    ミッドランド ⇒ 中西部の北半分と五大湖の北
8.    大アパラチア ⇒ 中西部の南部、アパラチアの西
9.    ファーストネイション ⇒ カナダ北部の先住民居住区
10. 極西部 ⇒ ロッキー山脈の両側
11. レフト・コースト ⇒ 西海岸


日本語版への序文
いくつかのアメリカがあり、そのそれぞれが何世紀も前から独自の価値観を持ってきたのだと論じる
これらの「アメリカの諸ネイション」は、アメリカ植民地と合衆国の歴史の中であらゆる重要な政治問題を巡って対立してきた ⇒ 過去の大統領選の激戦を見れば、同じパターンでネイションが互いに反目し合っているのを確認できる
2016年までの政治的選好は、一方では税金や規制や社会福祉政策や政府権力を縮小することが個人の自由の増進に繋がるとし、他方では自由社会を維持するのに必要なインフラや社会制度、市民活動の基盤に投資することで自由を推進できるとする対立構図だった
16年の選挙ではこの構図が当てはまらず ⇒ トランプは自民族中心主義者として、アメリカ人(主に白人、キリスト教徒、労働者集団)には強力な政府介入や社会福祉政策を誓い、他のアメリカ人(移民やムスリム、批判的なジャーナリスト)には超法規的または超憲法的な処罰を与えることを予告して立候補
北アメリカの歴史はもちろんのこと、アメリカのアイデンティティを巡る闘争や大きく開いた政治的亀裂が持つ意味を理解しようとするならば、北アメリカに深く根差した文化地理を熟知することがいかに不可欠であるかを力説したい ⇒ 世界がしっかりと理解すべき問題

序章
アメリカでは危機を迎えるたびに共有してきた価値観に立ち戻らなければならないと言われてきたが、こうした統合の呼びかけは、紛れもない歴史的事実を見過ごしている
アメリカは当初から深く分裂してきた ⇒ 最初に入植したのは、ブリテン諸島の異なった地域出身の人々と、独自の宗教、政治、民族的特徴を持った仏、蘭、西の人々で、お互いが競争相手であり敵でもあったが、独立革命を勝ち抜き共同の政府を創造するために漸く一時的に協力するようになっただけで、常にそれぞれが連邦からの離脱を考えていた
それぞれの地域が独自の文化の下で、人々や思想や影響力を北アメリカ大陸の相互に排他的な帯状地帯へ広げてきたのであって、1つのアメリカなどないし、かつて存在したこともなかく、代わりにいくつかのアメリカがあるのだ
18世紀の半ばまでに8つの個別のヨーロッパ系アメリカの文化が、北アメリカの南部と東部の周縁で確立、何世代もの間これらの異なる文化の発生地域は、お互いに驚くほど孤立し発達し、特徴的な価値観や慣行、方言、理想などを定着させてきた
アメリカの最も基礎的で永続的な分裂は、合衆国が11の地域的なネイションの全体または一部で構成されている連邦であり、それらのいくつかはお互いを本当に理解していないという事実による ⇒ 州境も国境もお構いなしに離合集散している
ネイションとは、共通の文化、民族的起源、言語、歴史的経験、工芸品、シンボルを共有しているか、あるいは共有していると信じている人々の集団

l  ヤンキーダム
急進的なカルヴァン派によって新しい神の王国、ニューイングランドの荒野における宗教的ユートピアとして、マサチューセッツ湾岸地域に創設
大きな政府で、政府の潜在力に最大限の信頼を寄せ、中流階層の気風を持ち、宗教を基盤とした道徳的社会的価値観を持つ。5大湖の南岸に沿って拡大し、カナダの大西洋岸地域へと拡張

l  ニューネザーランド
17世紀のオランダ植民地で、ニューヨーク市の文化的DNAを築いたので、北アメリカ大陸の発展に長く影響を与え続けた
多民族、多宗教で、投機的かつ強欲で、商業的な自由貿易社会であり続ける
他のヨーロッパ諸国が破壊的とみなしたオランダの新しい2つの価値観を育成 ⇒ 多様性についての深い寛容と、探求の自由への断固たる姿勢で、この理想は現在でも権利章典として引き継がれている

l  ミッドランド
もっともアメリカ的。イギリス系クエーカー教徒によって創設され、多くの国から様々な信条を持つ人々をデラウェア湾沿岸のユートピア的植民地に受け入れた
多元的で中流階級を中心に組織され、アメリカの中西部の文化とハートランド(合衆国の中部地域。保守的で伝統的な価値観を重んじる風土を持つ)を生む
政治的見解は、穏健で無関心
ドイツ系が最大の集団
政府介入には懐疑的で、長らく「標準的アメリカ英語」と見做されている
近隣者が強く自己主張してくる諸課題について、部分的にしか認めないので、政治的に非常に大きな影響力を持つ中道的勢力になってきた

l  タイドウォーター(ヴァージニア東部沿岸地域のこと)
植民地時代と建国期の最も強力なネイションで、基本的に常に保守的な地域
イギリス農村地域の半封建的な荘園社会を再現しようとした、自称「騎士たち」が近隣州の低地帯を奴隷を使って自らの楽園に変え、総じて自分たちの目的を首尾よく果たした
この地域のエリートたちは合衆国創設の中心的役割をなしたが、次第に全国的な諸問題において優位に立つ深南部のプランターたちに追随していたため、19世紀前半には弱体化、さらに今日ではミッドランドにも圧倒されつつある

l  大アパラチア
北アイルランド、イングランド北部、スコットランド低地の、戦争で荒廃した辺境地帯からやってきた、粗野で好戦的な入植者の一団によって18世紀初めに創設された
作家やジャーナリスト、映画監督らによって、「レッドネック」「田舎者(ヒルビリー)」「貧乏白人(クラッカー)」「白人のくず(ホワイトラッシュ)」などと一括りにされる
移住に際し、先住民やヤンキー、メキシコ人などと衝突
戦士的倫理観と個人の自由や個人主権を強く重んじる風土と文化
好戦的な文化が、アンドリュー・ジャクソンやデイヴィ・クロケット、ダグラス・マッカーサーのような指揮官から兵士に至るまで合衆国軍隊の大半を供給してきた

l  深南部
17世紀のイギリスの同時代人でさえ驚愕するような非常に残忍で専制的なシステムである西インド諸島型の奴隷社会として、バルバドス島の奴隷領主によって建設され、アメリカ史の大半の間、白人優越主義と貴族的特権の砦であり、古代世界の奴隷所有国家を規範にした古典的共和主義の一形態の拠点
最も非民主的で一党支配が続く
ヤンキー主導の占領政策に巧みに抵抗した後、州権運動、人種隔離、労働と環境に関する規制解除の中心地
今もなお、人種を理由にして政治的に二極化

l  ニューフランス
ケベック州という形態で国民国家の候補を抱えており、諸ネイションの中でもとりわけ愛国的。1600年代初めに建設
旧体制時代の北フランス農民の習俗と北アメリカの北東部で出会った先住民の伝統や価値観とが融合した文化を維持。堅実、平等主義的で、コンセンサスを重視
ルイジアナ南部のアカディア(ケイジャン)飛び地を含む

l  エル・ノルテ
ヨーロッパ系アメリカ諸ネイションの中で最古、スペイン帝国が北部入植地を建設した16世紀末に遡る
圧倒的にヒスパニックが占め、メキシコシティよりも合衆国を指向する経済を持ち、長らくアングロアメリカとスペイン的アメリカの混成した地域
3の国民国家建設のための連合を望む

l  レフト・コースト
太平洋とカスケード山脈・コースト山脈の間に固定された南北に長い形状のネイション
船で来たニューイングランドからの商人、宣教師らと、内陸を支配してきた大アパラチアからの農民、毛皮商人など2つの集団が入植
個人の自己実現を追求する文化を抱くようになっても、ニューイングランドの知性主義と理想主義の強い気質を維持
近代の環境運動やグローバルな情報革命の発祥地であり、同性愛者の権利運動、平和運動、1960年代の文化革命をニューネザーランドと一緒に共同で創設
極西部の自由至上主義的で企業寄りの方針に対抗して絶えず闘っている

l  極西部
環境因子に民族的な要素が太刀打ちできなかった唯一のネイションで、高地で乾燥した西部奥地は、在来の農業技術や生活様式を撥ねつけ、広大な領域への入植には鉄道や大型の採掘設備、ダム、灌漑施設など莫大な産業資源の配置を必要としたため、在来の大企業や連邦政府によって開発が進み、海岸地帯の諸ネイションの利益のために搾取や略奪をされ、国内植民地として扱われた
西経100度以西のファーストネイションの南方辺境からエル・ノルテの北部境界まで

l  ファーストネイション
厳しい気候を持つ広大な地域、北方森林帯、ツンドラ、極北の氷河を含む
先住民が今なお大挙して居住、思い通りに生き残ることを可能にした文化的慣習と知識を保持

言語学者の方言地図、文化人類学者のモノ利用の民族文化(マテリアルカルチャー)に関する地域的な分布地図、文化地理学者の宗教地域地図、選挙運動戦略家の政治地理の地図、北アメリカ大陸全体の移住パターンを示す歴史家の地図の中にこれらのネイションの概観を見ることができる
宗教が日常生活で重要かどうかを質問、重要と答えた上位10州はすべてボーダーランド人か深南部住民が多数を占めており、下位10州のうち8州まですべてヤンキーが優勢な州であり、最も高い教育を受けている州(学位所有者の割合)はヤンキーのマサチューセッツ羽州(16)、最も低いのはミシシッピ州(6.4)で、リストの上位にはヤンキーが大きな影響力を持つ州が多く、下位にはアパラチア人が多数派のアーカンソーやウェストヴァージニアが入る
多くの問題で、ネイションへの帰属が常に州への帰属意識に勝っている
北アメリカの歴史、政治、統治方法に対するこれらの地域文化の重要性に気付いたのは今に始まったことではなく、過去数十年の間に徐々に認識されてきている。本書の目的は、そうしたネイション意識が最後には民衆の中に入り込む様を考察すること
「アメリカ」や「カナダ」の文化との折り合いをつけたのではなく、初期から特質を有したそれぞれの「ネイション」の文化との衝突だった
1973年に公式化された「初期定住効果学説」では、前の住民が侵略者によって追われる時はいつでも、先着グループの特質が発展可能で持続する社会に影響を与えることができ、その後の地域の社会や文化地理にとって決定的な重要性を持つとする
アメリカの名高い移動性は、ネイション間の相違を解消させるどころか、強固なものにしてきている ⇒ アメリカ人が自らを選り分けて似たような考え方を共有するコミュニティへと移動するにつれて、彼らはまた同じような考えを共有するネイションへと区分けされつつある
本書では意図的に、外国人が支配している地域を外している ⇒ ハワイやフロリダの一部
1つのネイションの成員になることは、たいてい遺伝子的特徴とは無関係であり、全て文化に関わることである ⇒ 人はネイションのアイデンティティを「受け継ぐ」のではなく、子供時代にそれを「獲得する」か、後年自発的な同化を通して多大な努力によって「獲得する」のだ
1部では、基軸となる植民地時代を扱い、最初の8つのネイションの創造と建設の特徴をまとめる
2部では、ネイション間の闘争がいかにアメリカ独立革命、アメリカ合衆国憲法、初期アメリカ共和国の重要な事件を方向づけたのかを掘り起こす
3部では、諸ネイションがアメリカ大陸を横切って相互に閉鎖的なセクションとして自らの影響をどのように拡大したのか、またそれと関連して連邦政府の政権獲得闘争や政府権限を限定するか拡大するかを巡る国内闘争が、いかに南北戦争を引き起こしたのかを論じる
4部では、いくつかの「新しい」ネイションの形成、移民と「アメリカ人」アイデンティティ、宗教と社会改革、外交政策と戦争、そしてもちろんアメリカ大陸の政治について国内で生じた不和の高まりを含む、19世紀末から20世紀、そして21世紀初頭までの出来事を取り上げる
終章では、前途に広がる道のりについて若干の見解を提示

第1部        起源 Origins――15901769
植民地時代に各文化的勢力圏がそれぞれ固有の歴史と文化を伴って創設され、発展していったことを考察
第1章        エル・ノルテの創設 Founding El Norte
最初のヨーロッパ文化は、膨張するスペインの新世界帝国の兵士や宣教師たちによって南方から運ばれてきた ⇒ 合衆国最古のヨーロッパ由来の文化が見られるのは、大西洋岸ではなく、ニューメキシコ北部やコロラド南部の乾燥した丘陵地においてである
この地域にスペイン系アメリカ人の居住が始まったのは1595年 ⇒ 1610年サンタフェに総督邸を築いたのが最古の公共建造物
教皇アレクサンドル6世はスペインを「最もカトリック的」だとして、1493年西半球のほとんど全部の所有権を認めたが、その時の条件が西半球全ての住民をカトリックに改宗させ、良きカトリック的徳育を施すことだった
南北アメリカに豊かな文化を築いていた先住民は、1630年までにヨーロッパ人との接触地点から広がった伝染病と戦争によって、8090%激減
エル・ノルテは、ニュースペインの政治的遺産を受け継いできたが、封建的なメキシコ中心部とは大きく異なり、テキサスのように独立国建設を目指した
メキシコの支配から遠隔地で自由を獲得し独自の文化を形成
牧場や電動区の土地では、牛飼いたちが、有力者の監視から遠く離れた場所で長期にわたって過ごしたし、非改宗者たちは最上の労働条件を求めて牧場から牧場に移動することができた ⇒ アメリカ西部の伝統的カウボーイ文化を発展させたのは、このような独立し、自給自足的で、移動性に富む牛飼いたちだったし、アメリカを象徴する牛の放牧業がエル・ノルテに由来し、スペイン人の先例に基づくということはほとんど知られていない事実
カウボーイ文化をテキサスやカリフォルニアに持ち込んだのはフランシスコ派の修道士で、獣脂や皮革がメキシコの他の地域に出荷できる唯一の生産物だったために放牧し、労働力不足を補うためにインディアンの改宗者をカウボーイに仕立てて活用した
18世紀の末葉、ヨーロッパ系の2つのネイションが人手と資源を武器に侵略を開始
最初の挑戦者はニューフランスで、ニューオーリンズに定住し、ルイ14世に因んでルイジアナと名付けた広大な地域に拡散していた
次いで、北東には大英帝国から独立を勝ちとったばかりの不安定なネイションの連合体が合衆国を形成して迫ってきた

第2章        ニューフランスの創設 Founding New France
1604年メイン州最東端の川の中の島に要塞を築き、フランス農村の封建社会を目指す
先住民の諸部族と友好的かつ敬意に満ちた同盟関係を求めたが、冬の寒さに耐えきれず、春にはノヴァスコシア州アナポリスロイヤルの入江に入植地を移動
1608年シャンプランがケベックを建設
先住民との同化を目指すあまり、図らずも中核をなす価値観や文化的優先順位において、同程度にフランス的でもありインディアン的でもある混血社会が作られた

第3章        タイドウォーターの創設 Founding
イングランド初の永続的な植民地となった ⇒ 従来言われている理想を求めてやってきた人々によって偉大な民主主義の先駆となったという伝説とは裏腹に、ヴァージニア会社の指導者たちは、ジェームズ川流域のマラリアのはびこる沼沢地に囲まれた低地に植民地を建設。水流が遅いため投棄するゴミや排泄物が滞留し病気の培養器となっていたうえに、農業について何も知らなかった
1607年の最初の入植者104人のうち、9か月後に生き残ったのは38
植民者は、先住民を征服して使役することを狙ったが、低地チェサピークに広がる30部族はポーハタンの指導の下、逆にヨーロッパの有用な技術の供給源と見做して植民者を隷属させようとしたため、植民者による先住民の大虐殺に発展、13年には娘のポカホンタスも捕らえられてイングランドに送られた
その後数十年にわたって戦争状態が続くが、チェサピークでのタバコの生育が良いとわかってからは、入植者が急増し、先住民を駆逐し、タバコ栽培のためにインディアンの土地にも開拓を進めていく
タバコの栽培が輸出志向のプランテーション社会に変貌させたことに加えて、1640年代のイングランド大内乱の結果、イングランドから有力家族の大量脱出が惹起され、タイドウォーターの貴族社会形成へとつながる
タバコ栽培は労働集約的で、労働力をイングランドの「白人奴隷」に依存したため、白人人口を増やすとともに、貧富の格差が拡大、一部には黒人も混在
大プランターたちは、極端に封建的なビジョンを抱き、イングランド農村部の上品な荘園生活の再現を目指し、歴史の思いがけない展開から想像以上の成功を収める
タイドウォーターの紳士階層が採用したのが、古代ギリシャやローマに範をとった「古典的」共和主義で、自らの開明的政治思想の根拠をリベルタスという古典古代ローマの概念に求めており、ヤンキーダムやミッドランドの政治思想の特徴をなすゲルマン的フライハイト(フリーダム)の概念とは根本的に異なる
ゲルマン的フライハイトとは、自由民の生得権であり、生まれながらに自由で、法の前に平等であり、タイドウォーターの採用したリベルタスとはほとんどの人は隷属状態に生まれつき、自由とは与えられるものであり権利ではなく特権であるとするもの
労働者不足を解決したのが奴隷貿易商人であり、深南部からタイドウォーターに拡大

第4章        ヤンキーダムの創設 Founding Yankeedom
ニューイングランドの中心的な植民地は、タイドウォーターのあらゆる価値と全く相反する立場に立つ人々によって創設
教会や学校からなる倫理国家であり、それぞれの共同体が自治的共和国として機能
実践的宗教ユートピア、カルヴァンの教えに基づくプロテスタント神政国家建設が目的
ニューイングランドの大半を支配下に置いたマサチューセッツのピューリタンは、1630年代に短期間に25,000人が移住、自分たちの宗教に異議を唱える者は追放した
計略によって自分たちの植民地に対する王の特許状を入手し、自分たちで治めようとした
ヤンキーダムの初期移住者たちのほぼ半数は、ブリテン諸島で経済的に最も進んだ地域であるイーストアングリア出身であり、海峡を隔てたオランダのカルヴァン主義や共和主義を含む文化の影響が顕著、ゲルマン的自由の観念の擁護者で王に敵対する議会を強く支持。これらの特徴の多くがニューイングランドに移植された
植民者の多くは、家族単位で、熟練職人や法律家、医者、独立自営農民たちで、1640年以降の1世紀間に入植した移民はほとんどいなかったが、人口構成上の長所と伝染病が無かったこともあって、1世代ごとに2倍となり、1660年代までにニューイングランドの人口は1世代先行していたタイドウォーターの人口の2倍以上に達し、しかも最もまとまりがあった
土地貴族や世襲的特権に批判的で、土地はほぼ平等に分配され、自分たちの所属する共同体(タウン)の公共善を目指して共に働いた ⇒ タウンには自治権が賦与され、権威主義的で不寛容な場所ではあったが、当時の水準からすれば驚くほど民主主義的で、全成人の3035%が投票権を持ち、地方の主体性や直接民主制の伝統はこの地方の文化の中心となって残る
全ての人が聖書を読むことを通じて神の啓示と出会わなければならないというピューリタンの信仰から、広範に渡る様々な意味合いが派生 ⇒ 高い識字率、高い教育水準のエリートを生んだが、一方で自分たちのやり方を他の人に押し付ける強い「使命感」が災いして他のネイションから強く嫌われることとなる
ピューリタンが先住民を野蛮人として殲滅する征服計画を実行した中に、アメリカ帝国主義時代の政治的イデオロギーの核心がある ⇒ アメリカ人が神に選ばれし民だとするアメリカ例外主義と、神がアメリカ人に太平洋から大西洋までアメリカ全土を支配することを願うという明白なる天命が対をなす
一方のタイドウォーターの貴族社会で形成されつつあったのが、「ノルマン人の」文化的アイデンティティを含む価値観
イングランド内乱では、多数のピューリタンがクロムウェルの急進派に加担して、ノルマン人の侵略者からアングロサクソンの国土を解放するために戦っており、ニューイングランドとタイドウォーターの緊張状態はその後も継続、クロムウェル派の勝利は、ヴァージニアへの「王党派支持者の脱出」を引き起こし、一方マサチューセッツのピューリタンには近隣の地域を併合する機会を与えた
ヤンキーにとってのタイドウォーターは、反動勢力の砦であり、その領主たちはノルマン人の祖先の始めたイングランド人の奴隷化を永続させることに執着しているとした

第5章        ニューネザーランドの創設 Founding New Netherland
ニューネザーランドの創設は1624年。メイフラワー航海の4年後、ピューリタンがマサチューセッツ湾に到着するより6年前のこと。現在のバッテリー・パーク近辺に砦を築く
毛皮交易所が設けられ、商業第一主義の移住地となっていて、オランダ西インド会社が町を支配
人口も多種多様で、多様性、寛容、社会的上昇志向、個人的起業心の重視など、今日のアメリカらしさと見做されるものは、実際はネーデルランド連邦の遺産から来ている
1600年代初期、オランダは世界の最も近代的で洗練された国
オランダにとって、北アメリカの商業的価値は低く、ビーバーの毛皮取引を独占した程度で、通常通商に成功した僅かの人々だけが植民地を形成した結果誕生したのが、母国オランダと同じように寛容で多様性に富んだ植民地
ユダヤ人やイスラム、ジプシーにも同様に接し、インディアンの人口が凌駕するに任せた
ニューネザーランドは本来商業社会であり、支配的なエリートたちの多くがオランダ西インド会社と結びつき、道徳を欠いて、利得が先行 ⇒ 本格的な奴隷制が現在のアメリカに導入されたのは、マンハッタンの商人たちによってであり、1626年の11人を皮切りに、1655年には西アフリカから300人の奴隷を輸入、公共の競りにかけている
1664年イングランド艦隊が到着、ニューネザーランド人は独自の降伏条件の交渉を行い、オランダとの通商を認められ、ニューアムステルダムはイングランドとオランダという2大通商帝国と同時に連携する世界で唯一の都市となるが、最も重要なことは宗教的寛容が保障されたことで、ニューヨークと名を変えた後もその文化は継続
ニューヨークという新しい植民地は、チャールズ2世の弟で後継者のヨーク公ジェームズがチャールズからもらった個人的な領地であり、オランダ人支配を退け、粗暴な帝国部隊を駐屯させて専制的な支配を行う ⇒ 最初の革命の引き金に

第6章        諸植民地の最初の反乱 The Colonies’ First Revolt
専制的なイングランドの支配に対する反乱の萌芽は1680年代で、それぞれの地域が独自の文化や政治制度、宗教的伝統などを守ろうとして立ち上がったもの
ジェームズは1685年王位に就き、軍事的圧力をもって諸植民地を統合し、重税を課そうとしたが、本国で甥と結婚した自分の娘の反乱に会いフランスに亡命し、無血クーデターが終了
それに呼応するように、植民地で1689年にまず反乱を起こしたのはヤンキーダム
反乱は1日で成功、その報を受けてニューヨークは再びニューネザーランドとなり、イングランドの支配に対抗
タイドウォーターでもプロテスタントが立ち上がり、ヴァージニアとメリーランドは一体化してチェサピーク湾一帯をタイドウォーターの文化で統合
3か所の反乱は成功したが、イングランド政府の特許状は地域によって異なっていた、ニューネザーランドでは更なる内乱から混乱が続く

第7章        深南部の創設 Founding the Deep South
167071年イギリス植民地のバルバドスから海路チャールストン沖に投錨、西インド諸島の奴隷制国家を持ち込もうとした ⇒ サウスカロライナの低地から急速に広がり、ジョージア、ミシシッピ、アラバマ、テキサス東部、フロリダ等の地域に支配的な文化、すなわち富と権力の極端な不平等に基づき、一握りのエリートの権力の裏付けとなるテロ行為によって強制された完全な服従を要求する社会を生む
ヤンキーをライバルとして衝突するコースを進み、今日までアメリカを悩ませ続ける軍事的、社会的、政治的紛争の種となっていく
17世紀末のバルバドスは、イギリス領アメリカにおいて最も古く最も豊かで最も人口稠密な植民地で、富と権力は寡頭制を形成する貪欲で見栄っ張りなプランテーション所有者の手に集中。その基礎をなすのが残虐な奴隷制
タイドウォーターと深南部においてのみ、奴隷制は経済と文化の中心的組織原理となったが、両者の間には根本的相違があり、同じ寡頭支配でもそれぞれの価値観にある微妙な相違を浮き彫りにしている ⇒ 後に自由州と奴隷州の境界とされるヴァージニア州の南端境界の延長である北緯3630分のメイソン・ディクソン線の南側のいたるところで両者が衝突、タイドウォーターの奴隷人口の比率は低く、家庭生活はより安定し社会進出も進んでいた
深南部では、アフリカ系アメリカ人は白人文化と並行して1つの文化を形成、その文化を相互に分離しておくことがネイションの少数派白人の法律や基本的価値観の上で大切とされてきた ⇒ 16701970年の3世紀の間、カースト社会が維持されたが、そのカーストは階級と異なり、黒人が支配カーストに加わることは許されなかった。最大のタブーはカーストの線を越えて結婚すること

第8章        ミッドランドの創設 Founding the Midlands
諸ネイションの中で、最もアメリカらしい原形が作られたのが1680年代に最後に建設されたミッドランド ⇒ 寛容で多文化で多言語の文明社会、信心深く平安な暮らしを望む
フィラデルフィアからアパラチア山脈を越え、広大なアメリカの中心地帯を横切って広がるが、本質的な特性は維持し続けている
イングランドのたたき上げの提督ウィリアム・ペンはイングランド内乱で議会側に立って戦い、後に王政復古を支援、クロムウェルが没収したアイルランドの土地を与えられて金持ちになる。その息子をオックスフォード大に送ったが、国教会の礼拝を非難して放校となり、息子は異端宗教のクエーカー教に入信。父の死後息子は国王への貸し付けの見合いに1680年ボルティモア卿のメリーランドとヨーク公のニューヨークの間の土地45千平方マイルの土地を下賜され、亡父の提督に因んでペンシルヴェニアと命名、クエーカー教徒のための国造りを始める ⇒ 信仰を重視、軍隊を持たずに周辺の先住民とも平和共存、投票権をほとんど全ての人に広げようとした
アイルランドやオランダ、ドイツの広い範囲で植民を募集、自らの土地を売却して町の建設費に充て、1682年には2000人の植民者を送り込んだので、4年後には8000人となり、タイドウォーターが25年、ニューフランスが70年かかってやることを短時日のうちに成し遂げる
クエーカーたちは本来的に、あらゆる機会に権威や社会の決まりに立ち向かうので、政治は混乱に陥り、互いに競い合う利益集団からなる党派的組織が取って代わる

第9章        大アパラチアの創設 Founding Greater Appalachia
植民地時代に創設された最後のネイションで、混乱そのもので、政府を欠いた文明として始まる
入植者は、ブリテン島北部の戦乱で疲弊した境界地帯から来たボーダーランド人で避難所を求めてやってきた ⇒ 個人の自由と自己の名誉を何より重んじた
171776年の間に10万人以上が移住し、土地を求めて西部へと移動

第2部        ありそうもない同盟 Unlikely Allies――17701815
統一を欠いたまま発展していった諸ネイションが、なぜ一緒になって本国イギリスからの独立へと向かったのか ⇒ ネイション毎に違った地域事情や民族文化的な理由から、忠誠派(多くは中立派)と愛国派に複雑に分離していた結果、6つの個別に闘われた解放戦争の総体が独立戦争の実相であり、独立後の連邦共和国は文化地理的に極めて不安定な土台の上の構築された
第10章     共同の闘争 A Common Struggle
アメリカ独立革命は、ゆるく結びついたに過ぎない諸ネイションが戦った、心底保守的な行為で、それぞれが各自の文化、国民性、権力構造を保持するか再建するかに最大の関心があったので、革命とは言えない ⇒ 統一国家形成は目的ではなく、共通の脅威に直面して一時的な提携関係に参加したに過ぎない
その脅威とは、ロンドンの中央から全土を一様に支配する帝国に彼らを同化させようとする英国エリートの雑な企てで、ニューネザーランド、ミッドランド、ニューフランスは反抗せず、残りのヤンキーダム、タイドウォーター、大アパラチア、深南部が反乱しただけ
アメリカの反乱は、175663年に英仏間での7年戦争がきっかけで、イギリスがニューフランスに勝利したため、アメリカ先住民が頼りにできる唯一のヨーロッパ勢力が排除されたことから、北米大陸の勢力均衡に大きな変化が生じた
当初弱小だったイングランドが力をつけて新しく形成された野心的なエリート層によって
帝国型の支配強化が多分野で一気に進行 ⇒ アメリカ植民地の平均的課税負担が本国の1/26だったことがやり玉に挙げられ、中には社会変革を方向付ける意図のある学位の付与や法律家の免許にかかる新規料金を本国よりも高額にして、野卑な連中が影響力のある地位を占めないようにした
植民地の課税強化に伴う収入増によって、北アメリカに大規模な常備軍が派遣された
最初に反乱を起こしたのはヤンキーダムで、相手はイギリス国教会 ⇒ 1773年ボストン港で東インド会社のお茶を港に投げ込身、それに対してイギリス議会はマサチューセッツ政府の特許状を取り消し、ボストン港を閉鎖、戒厳令を敷く
1774年マサチューセッツの反乱指導者は植民地会議の開催を全タウンに公示、軍事的な対応の指示を代議政治によって行う
タイドウォーターの反応は分かれた ⇒ ワシントンやジェファソン、マディソンらの率いるヴァージニアは山脈地帯を越えた土地が有望だったので自立可能と確信し、イギリスに対抗する道を選び、中核部の入植地出身の紳士層は植民地民兵連隊の組織に反対したが、最終的に内部対立にまでは至らず、社会的連帯を維持
大アパラチアはそれぞれがばらばらでどちらかのサイドでまとまることはなく分裂していたが、戦う目的は抑圧者を撃退することで一致
ミッドランドは革命に関心がない ⇒ ロンドンの集権化策を歓迎、特にドイツでの戦争の恐怖から避難してきたアーミッシュ派やメノナイト派、モラヴィア派では宗教的な平和主義が重要な役割を果たす
ニューネザーランドは親英派最大の牙城で、革命によって現支配層のエリートたちが追放されるのを恐れた
深南部の大プランターは大体イギリス国教徒で、民主的な思想に敵意を持ち、タイドウォーターの紳士層同様、王党派的な意味合いを込めて自らをノルマン人か騎士階層の出自と信じ、サウスカロライナ低地地方とジョージア、ノースカロライナ南部を支配。帝国が税収を上げる試みには反対を表明したが、あくまで帝国の枠内でのことだった
1774年フィラデルフィアでの第1回大陸会議は、植民地全体で政策を調整しようとする諸ネイションの指導者の最初の集まり ⇒ 4つのニューイングランド代表とヤンキーが入植したニューヨークのサフォーク郡、ロングアイランド郡、オレンジ郡は一致してイギリス製品の完全通商禁止と対イギリス即時完全な輸出禁止、イギリスへの税支払いの拒否を呼び掛け、自分たち自身の民兵軍、暫定政府設立を求める
タイドウォーターのピードモント地方からの代表が支持 ⇒ ヴァージニアのパトリック・ヘンリーやワシントン、メリーランドのジェファソンが加わる
深南部のうち、ジョージアは代表派遣を拒絶、サウスカロライナ5代表のうち4名は帝国との亀裂に反対
ニューネザーランドは、9人の代表のうち5人は公然たる反乱と完全独立に反対
ミッドランドは全員一致して消極的で、イギリスの議会と立法権を共有し相互に拒否権を有する「アメリカ議会」を要求
大アパラチアは、各植民地の立法部から参加が認められず
大陸会議は5つのネイションをまとめたものの、国家党小郷への第1歩ではなく、イギリス製品のボイコットと、ロンドンが75年中頃までに要求受入措置を取らないなら輸出を一時停止するという決議のみで、国王に対し王の権威を認めて自分たちの不満の救済を請願したに止まり、植民地の要求に譲歩する気のないイギリス支配階級によって弾圧が始まる

第11章     6つの解放戦争 Six Wars of Liberation
アメリカ独立戦争は4つの異なる戦いの総称という説がある
    ニューイングランドの民衆反乱
    南部の武人としての「紳士同士の戦い」
    奥地の残忍な内戦
    ミッドランド地域のエリートが先導した「非暴力による経済的、外交的な闘争」
解放戦争はまったく別個に6つあり、関与したネイションにとっては1つの戦争
うち2つは、アメリカのネイションの1つが他のネイションに侵入する侵攻を含む
イギリス軍の見られないところでの血なまぐさい権力闘争も絡み、それぞれのネイションが何を目的に、どのような戦い方であったかを認識することが不可欠
最初の戦争はヤンキーダムで発生、イギリスが地域の自治や中核的な文化的諸制度を解体しようとしたのに対する民衆的な蜂起で、ニューイングランド、ニューヨーク、ペンシルヴェニアのニューイングランド人が民兵隊を組織、アングロサクソン生来の権利である地元の自治、ピューリタン教会の優越、専制からの自由を求めて立ち上がる
754月マサチュセッツのコンコードに蔵匿されていた弾薬の没収にイギリス軍が派遣されたところから戦闘が開始、ワシントン率いるヤンキーダムがイギリス軍を撃退し、763月には独立を勝ち取る ⇒ 以降、ニューイングランドが他のネイションでの解放軍の最も重要な拠点となる
ニューネザーランドは、北メリカ忠誠派の拠点となり、イギリス陸海軍が駐屯していたが、レキシントンの知らせで少数の反乱支持派が蜂起、762月にはヤンキー主流のワシントン軍が合流して勢いを増したが、夏にイギリス艦隊が到着するとニューヨーク市域は奪還された ⇒ 7710月ニューヨークのサラトガでヤンキー軍が勝利、フランス軍が参戦を決意したこともあって、独立戦争の決定的転換点となり、81年ヨークタウンでイギリス軍が降伏し終戦に。83年に全13植民地でイギリス領からの独立が決まる
平和志向のミッドランドは中立を保持しようとしたが、大陸会議でヤンキーダム他がペンシルヴェニア州政府を制圧するとしたため愛国派の少数勢力が権力を掌握して反乱軍に加わる ⇒ イギリス軍によってワシントン軍は撃退されたが、サラトガが転機となってイギリス軍は撤退
深南部は、レキシントン以前は解放戦争に懐疑的だったが、奴隷を保持するために独立に向かうが、78年イギリス軍の南部戦略実行により敗北、イギリス軍がジョージアや南北カロライナのアパラチア地域まで介入する必要がなければ、南部戦略は確実に成功したであろう
多くのネイションが独立に葛藤があったにもかかわらず植民地が帝国から解放されることになったのは、タイドウォーターの紳士層が自己の個人的独立に強く打ち込んでいたからであり、さらにはペンシルヴェニア、両カロライナ、ジョージアに於いて抑圧しようとする勢力には誰であれ喜んで戦おうとするアパラチアの多数派勢力がいたから
大アパラチアは、貧しく孤立していたため、コミュニティごとに違った関わり方をした
ペンシルヴェニアではボーダーランド人が革命の突撃隊になり、76年の憲法を起草したのも同じアイルランド人指導者で、戦争終結までにはミッドランドからもイギリスからも解放された
ノースカロライナのボーダーランド人は、タイドウォーターのエリートを抑圧者と認識し、イギリス軍侵入の際も内戦状態の中で撃退
サウスカロライナとジョージアの奥地も内戦状態に陥り、お互いが凄惨な殺し合いとなり、そこへイギリス軍が侵入し、終戦までにこの地域は完全に荒廃
タイドウォーターは、最終局面まで戦火から逃れていて、この地域の解放はかなり早い時期にほとんど流血もなく達成。帝国側は挽回を期して奴隷が国王のために武器を取れば自由を与える布告を発令したが、81年にフランス艦隊の出動により終戦となり、25万人の奴隷が自由になる希望を失う
共同の脅威に晒されていたにもかかわらず、諸ネイションは戦争中一体となることはなく、ニューネザーランドやミッドランド、アパラチア南部は負けることになる側で戦い、83年に敗退。勝者であるヤンキーダム、タイドウォーター、深南部、アパラチアの北部は戦時の同盟関係をどのような条件にして構築するかを含め勝利の利得を巡って争う

第12章     独立か革命か Independence or Revolution?
解放戦争の終了で、東部6つのネイションの相互の関係は以前になかったほど強まる
支配的なネイションは、自分達のアイデンティティや慣習に対する脅威を排除することに成功し、平和主義のミッドランド人や忠誠派志向のニューネザーランド人を打ち負かした
個別文化を守ろうとすることから、2つの予期せぬ副産物が生じた
    幾分国家的性格を有する緩い政治連合
    民主主義を求める民衆運動
戦争開始時に諸植民地が共有した唯一の構成組織は外交的な組織である大陸会議のみだが、その本質は諸州間の条約締結のための集まりで、条約に強制力を持たせるためとイギリス軍の脅威を撃退するために合同軍事指揮機関を設立し大陸軍と称し、単独の最高司令官ワシントンの指揮下に置く
戦闘を経る間に、条約集団の団結の必要性が認識・共有され実現したのが合衆国憲法、連合規約だった ⇒ 戦争中に起草、81年批准されたが、州政府の連合体という程度の主権国家の自発的な同盟であり、一定の権限を共同の行使に委ねることを合意したもので、指定された権限は基本的にかつてイギリス国王の責任だった対外関係、および開戦と戦争遂行に限定され、各州は主権と自由と独立を保持し続けた
7787年ヤンキーのニューイングランドは、タイドウォーター及び深南部から来た南部4州と対立
民主主義の台頭 ⇒ ヤンキー以外ではほとんどの民衆は財産資格を欠くため法的に投票権はなかったのみならず、無知な大衆の間では独立とは、富裕な人々からの独立でありすべての人間の望んだ通りのことができる政府の形式であるという期待が盛り上がり、解放戦争は純粋に革命的な変革の要求を煽っていた
「下層階級」の勃興に危機感を抱いた全米の指導者の多くは、自らの安全と権力保有には連邦の強化により、民衆の意志と諸州の独立を抑える手段を備えることが必要と考え、87年の憲法制定会議で、ヤンキーダム、タイドウォーター、深南部の代表は大統領と上院を指名制とする強力な中央政府を構想する「ヴァージニア・プラン」を提唱、一方ミッドランド、ニューネザーランドは「ニュジャージー・プラン」という緩やかな同盟関係を主張、前者が7州対5州で勝利。立法議員の代表制を巡る議論も、上院は州毎に同数を割り当て、下院の議席は人口比例とする最終妥協案が5州対4州で可決。分裂はヤンキー対深南部で残る
諸州での批准会議における投票結果の地理的な分布を詳細に分析すると、ネイションの線に沿って分かれていることが分かる ⇒ ヤンキー地域では全般に連合規約から憲法への転換を支持。ニューネザーランド及びミッドランド、深南部、タイドウォーターも支持
反対したのはアパラチアと、ニューハンプシャーのスコットランド系アイルランド人集団、マサチューセッツ西部で反乱を鎮圧された農民、ニューヨーク北部のヤンキー不満分子とスコットランド系アイルランド人農民
合衆国憲法は競い合うネイションの複雑な妥協の産物故に、同盟関係も不安定で、すぐに連邦を解体し兼ねない分離運動が、最初はアパラチアから、次にヤンキーダムから起こる
l  タイドウォーターと深南部の紳士層が主張する「選挙人」が選ぶ強力な大統領制
l  ニューネザーランドの権利章典=個人の良心、言論、信教、集会の自由を保障
l  ミッドランドは、イギリス流の国民議会のもと強力な統一国家になることを拒否し、州主権を強く主張
l  ヤンキーは上院で小州も平等な発言権を保障、人口比例を唱えたタイドウォーターや深南部を退けた
l  ヤンキーは、下院議員定数の人口比例配分に際し、奴隷人口を3/5とカウントすることを認めさせた

第13章     北方の諸ネイション Nations in the North
カナダが存続しているのはなぜか
独立革命の際、北アメリカの18州ではなく13州だけが反乱に至ったのはなぜか
設立から日の浅いジョージアと比べ、同じく日の浅いノヴァスコシアがイギリス帝国に強い絆を持つことになったのはなぜか
ニューフランスが10年前にイギリスに征服されたばかりなのに、占領者を捨てて主権国家或いは連邦の一員になろうとしなかったのはなぜか
いずれの疑問も、答えはすべてそれぞれ当事者の文化と、生き延びるためにベストだと考えるものに関わっている
1775年ノヴァスコシアやニューブランズウィック地域に住むヨーロッパ系アメリカ人23千のうち半分はヤンキーで、反乱軍の侵攻を支援すると見られていたが、76年イギリス軍の大規模な援軍到着により、いかなる蜂起の見込みもなくなった
ニューフランスも同じような様相で、イギリス軍によってフランス語話者は浄化され、わずかに残った人々はまだフランスが支配していたルイジアナ南部の泥湿地帯に集まってニューフランス文化の中核的特質を保持し続けた
ケベックは人口が多く民族浄化仕切れなかったため、1763年の講和会議でイギリスは7万の人々にフランス語使用及びカトリック信仰を保障したが、アメリカ軍は戦略的な重要性を認めて7576年に大陸軍が侵攻、モントリオール人は防衛するどころかニューイングランド人を解放者として歓迎するも、ケベック包囲戦はイギリス軍の援軍の到着で退却を余儀なくされ、その際地元に反感を残して立ち去ったため、その後2世紀が経過してニューフランスは再び独立を掴もうとしている
アメリカ独立革命から逃れてきた忠誠派難民は、英語話者系カナダの文化的DNAを定着させることに失敗し、ニューフランスの文化を消し去ることは全くなかった。カナダ沿海部にイギリス帝国のユートピアを作り上げようとする試みはその地域が隣接するニューイングランドとケベックから強い影響を被り続けたために失敗し、オンタリオでの同様の企図も、移住した圧倒的多数がミッドランドやニューネザーランドからのドイツ系、クエーカー教徒、オランダ系だったために帝国の官僚はイギリス領カナダの政治的発展を手掛けたものの、中核となる文化的伝統はミッドランドで変わらなかった
ブランズウィックは、国王ジョージ3世の生家であるブランズウィック家にちなむ名のもとにニューブランズウィックが創設されただけに文化的なまとまりは強く、一方イギリスが1783年後半にニューネザーランドという本拠地を明け渡したときの大量の引き上げの一部としてやってきた避難民からなる忠誠派と呼ばれた雑多なグループはいかなる文化的なまとまりもなかったため、彼らの職業や文化は遠くのロンドンを志向するより近くのボストンを志向し、1812年の米英戦争ではアメリカに加担
オンタリオは、イギリス土地のケベックから切り離された真っ新な地に忠誠派がイギリス帝国にふさわしい景観、地名を創り出したもので、車のナンバープレートにもイギリス王冠の飾りを描き、カナダ連邦の政府所在地となったが、共有する文化的背景は持たず、1812年までに定常的な流れとなってやってきたが、大半はミッドランドの貧しい農民で、最終的には彼らの寛容で多元的な文化の遺産が五大湖北岸に根付いてゆく
オンタリオ、ケベック、沿海部は、政治制度の発展にはあまり発言せず、18世紀末~19世紀を通じてロンドンの官僚が植民地統治の実態を握っていて、アメリカの反乱に懲りて植民地が独自の政治的制度や価値観を発展させることがないよう政策を配慮 ⇒ 文化的に相互に違っていながら、遠隔地にある権力に支配されるという経験を共有、自己の運命を自ら決めることを要求するようになるまでさらに1世紀が過ぎる

第14章     最初の分離運動 First Secessionists
1789年の憲法批准の後も、憲法が目指す民主主義の行き過ぎを抑圧するための制度に対し、タイドウォーターや深南部以外の地域の新興勢力から反発が起きる
ヤンキーダムでは多くの人が新生合衆国を支持せず、戦争中からニューヨーク北部のヤンキー入植者は、分離してヴァーモントという独立共和国を形成、奴隷制と投票の財産資格を廃止する政府を目指し、そこにマサチューセッツ西部やコネティカット北西部の農民が合流しようとしたが何とか合衆国加盟に同意
憲法の変革に対する抵抗が最も激しかったのが大アパラチア ⇒ 生まれながらの自由への信奉心を踏みにじっているとして、エリート支配の連邦政府創設に断固反対。現在でもその感覚は生きている
解放戦争の兵站は、大陸会議が発行した政府の借用書で賄われ、州税の納税通貨として利用されたが、ペンシルヴェニア州でその制度を廃止したため、農村の大部分では借用書を言い値で交換せざるを得なくなり、富裕な投機業者が不当な安値で買い取ったあとに、連邦財政政策が変更になって紙屑となった借用書を額面に6%の利息までつけて買い戻すことになる。サラニ、アパラチアで現金に一番近いのはウィスキーで、現金収入のもとになっていたが、連邦政府はこれに目をつけ厳しい課税をしたため、大アパラチアは二重に連邦政府に怒りを爆発させる ⇒ メリーランド、ヴァージニア、ノースカロライナ、ウェストヴァージニア、メンタッキー、テネシーまでの地域で1784年から10年以上にかけて抵抗運動が続黄、フランクリンという主権州を創設して大陸会議に加盟しようとしたが、2/3を獲得する前にノースカロライナの軍隊がフランクリンに侵攻して、88年には民兵隊が敗北、さらにチェロキーとの戦争が勃発し、ノースカロライナの保護下に戻らざるを得なくなった
ペンシルヴェニア西部一帯のボーダーランド人による独立の動きも10年にわたって続き、
民兵を組織し、1794年にはピッツバーグを襲撃、独立国家建設の寸前まで言ったが、ワシントン大統領によって鎮圧された
1796年ニューイングランドのジョン・アダムズが第2代大統領に就任すると、ヤンキー文化とその政治的価値を他のネイションに無理強いしようとして、悪名高い外人法、治安法を成立させたが、他のネイションの反発を招き、次の四半世紀の間はアパラチア、ミッドランド、ニューネザーランド、タイドウォーター、深南部が相互の違いを別において、ニューイングランドの「共同体的な自由」と内部での服従という理念を拒否して連携した
ジェファソン大統領の下で、連邦政府はフランスと連携し、イギリスと敵対し西部に進出
1803年フランスがスペインから割譲されたルイジアナの828千平方マイルの土地を購入し、ニューイングランドの支配はさらに弱体化
1807,08年に抑圧的な出港停止法成立により、ヤンキーの連邦離脱問題が噴出
1812年マディソン大統領がイギリスに宣戦布告したため、マサチューセッツ州知事は断食で抵抗、州民兵部隊の連邦軍編入を拒否、自分たちだけの国旗を掲げ始めるが、連邦政府と交渉の最中にイギリスが講和条約に署名、合衆国がニューオーリンズでイギリス軍に勝利を挙げたことでヤンキーは秘かに要求を取り下げ、土壇場でアメリカに勝利をもたらしたフランクリン州出身のアンドリュー・ジャクソンを称えた

第3部        西部獲得の戦争――18161877
独立革命後アパラチア山脈を越えて広がった西部領土への4つのネイションの勢力拡張を描き、エル・ノルテのアングロによる征服とレフト・コーストという新たな民族文化圏の創設に言及
第15章     西へ拡張するヤンキーダム
独立戦争後4つのネイションがアパラチアを超え西へ拡張、大陸中間部の一帯が個々のネイションが混ざることなく4つの文化で分断
ニューイングランド人は、ペンシルヴェニアからオハイオ、イリノイ、アイオワ、ミシガン、ウィスコンシン地域で優勢 ⇒ 東海岸北部の痩せた土地は開拓し尽くされていたため、18世紀末新たに来た農民たちは土地を求めて西へ行かざるを得なかった。イギリス国王の発行した特許状もあって周辺に土地の権利を主張して進出
ミッドランド人は中心部に広範に広がる ⇒ ヨーロッパ各国人が混在
アパラチア人は、オハイオ川を下りその南岸を勢力圏としながら、テキサス中央部の丘陵地帯まで広がる
深南部の奴隷主たちはフロリダからメンフィスへ、西はテキサス東部沿岸まで拡張
1786年オハイオと中西部の北部地域が連邦政府により「北西部領域」として元来のインディアンの土地を指定し、各州は管轄権を放棄
ヤンキーの入植者たちは、近隣家族と集団を作って新たな土地に向かい街を作っていった
入植開始後9年で、多くのニューイングランド様式の大学のうち、最初の大学を設立、文化的なインフラを整備していくとともに、地域の政治をほぼ完全に牛耳る
オハイオを南北に2分する旧国道(現在の40号線)の北は、典型的なヤンキーの街並みが整然と並ぶが、南部は貧しく教育も受けていない人々が暮らす
ヤンキーは新参者に自分たちの文化規範を押し付け、他人の事情に介入しようとするというのが定評で、カトリック教徒との相性が悪かった。多文化主義がヤンキーの特徴となるのは大分後のこと
投票パターンを精査してきた政治学者は、元来階級や職種が投票行為に影響を及ぼすと考えてきたが、全くの間違いで、特に19世紀の中西部では、50年代以降ずっと、ネイションの出自が最優先していることが判明 ⇒ 南北戦争直前、ヤンキーが先行して入植していた地域は、設立後間もない共和党(現在の共和党のルーツ)の支持基盤となっていった
中西部の北部の大部分は、大ヤンキーダムの一部だが、その中心地シカゴは、1830年代ヤンキーによって建設されたが、ヤンキーとミッドランド西部を繋ぐ交通と地上交易の中継地点としての役割を果たし、新たな入植者に圧倒され、ニューイングランド人はすぐ北にエヴァンストンという自分たちの町を作る
19世紀にはニューイングランドにおける宗教の正当性は衰えを見せたが、神の王国と類似する地上の社会を築くことは可能であるという、ヤンキーに深く根差した信仰心はそのまま受け継がれた

第16章     西へ拡張するミッドランド
大半がドイツ語話者であるミッドランド人は、中西部の中央に広がる ⇒ 多元的文化をハートランドにもたらし、隣人関係を重んじ、家族を中心に社会を発展させ、現実的政治を支持し、大きな政府に対する不信感を持つという特徴がある
互いに寛容なエスニック集団の集合体として、かつて東部地方でそうであったように、非寛容で共同体主義的な道徳観を持つ大ヤンキーダムと、個人主義的な享楽主義を掲げる大アパラチアの間の緩衝材としての役割を果たし、多くの信仰や民族的出自を持つ人々が、互いに干渉せずに隣接して住む、節度と寛容さを備える中心地として発展
1830年代以降ドイツから膨大な数の移民が到着、文化的な親しみのあるこうした環境を気に入り、シンシナティに集まる
ミルウォーキーは「アメリカにおけるドイツ首都」とみずからせんげんしていたが、そこにいたるまではヤンキーの抵抗を克服するための多大な時間と労力を費やした
セントルイスもミッドランドの拠点で、1852年ドイツ移民がバイエルン・ビール工場を設立、数年後にアンホイザーとブッシュに売却
ウィーン体制を終わらせた1848年革命後の軍事独裁政権から逃避した多くのドイツ人が、新ドイツン建設地を求めて入植 ⇒ いずれの州でもドイツ生まれの人口が多勢を占めることはなかったが、183060年にかけて大量のドイツ人が祖国を去ったことで、多様で寛容なミッドランド人文明がアメリカの中核地帯を支配することが確実となる
クエーカー教徒の移住も小規模ではあったが、同じような理由で中西部に移り、19世紀初頭フレンド派は、社会からの孤立を求め、人口過密な東部沿岸から離れ、オハイオやインディアナ中部へと移住、奴隷制を嫌悪してタイドウォーターと深南部を捨て、1850年代にはインディアナが北アメリカにおけるクエーカー教徒の拠点となる ⇒ 今日でもリッチモンドはCity of Brotherly Love(フィラデルフィアの別名)に次いで多くのクエーカー教徒人口を有する
大ミッドランドでは、ヤンキーと同様、隣人同士の複数家族からなる集団単位で移住が行われたが、ヤンキーとの違いは、近隣コミュニティを同化しようとせず、お互い不干渉状態にあり、郡単位では総じて多元的様相を持つ
ドイツ人集団は総じて高いレベルの教育、農業技術、、職業能力を持っており、多くの人々が半狂乱になってフロンティを目指す国で、移住した土地に永住するためのインフラ投資を行う ⇒ アメリカ中西部の文化に対するドイツ人の最も持続的な貢献
ヤンキーの文化帝国主義に反抗、ヤンキーの支配する共和党に反対して民主党を支持したが、50年代末頃になるとキリスト教の教義上の方針に沿って分裂を始め、その結果あらゆる問題について連邦政府と連携か分裂かを左右する浮動票を抱える巨大な地域となる
奴隷制については共和党を支持 ⇒ 主としてドイツ人の間で支持政党が変動したことにより、リンカーンが政権につき、深南部は連邦を離脱

第17章     西へ拡張するアパラチア
アパラチア人の中でもボーダーランド人は、積極的にアメリカ先住民の領土に向かい、先頭を切ってアパラチア山脈を越えた
ヤンキーやミッドランドは、連邦軍がインディアンを駆逐するまで、彼らの居住地に侵入するのは踏みとどまっていた
最初の先住民との軋轢はテネシー中部でのチェロキーとの出会い
Old Dominion(ヴァージニアの異名)や他の東部諸州からの大規模な人口移動は「大移動」として知られるが、大半はアパラチア人で、ヴァージニアは最大の人口を持つ州としての地位から転落
1850年にはテキサス北部にまで拡大
大アパラチアは、粗野で素朴なネイション。個人単位あるいはごく小規模な単位で動き、共有施設に投資しようとはせず、識字率も低い。農業もその場しのぎの破壊的な作業で、森林地帯を求めて移動、貧しい人ほど移動頻度は高まったという
アパラチア人が大勢を占めるインディアナでは、彼らはフロンティアの田舎者を示す南部の方言で「フージャー」と呼ばれる
ヤンキーとは全く異なる政治的傾向を持っていて、高学歴の専門家や富裕層、南部の奴隷主を毛嫌いし、「正直な農民と職人」であることを最も敬った
個人的理想を追求するうえで最大の脅威となったのがヤンキーだったので、公民権運動の時代が来るまでは一貫して深南部人主導の民主党支持
元々アパラチアのいたところには先住民のチェロキーがいて、同じ先住民のイロコイ、クリーク、ショーニーの侵入から土地を守り、ボーダーランド人を追い払い続けていた
アパラチアとチェロキーは、対立関係にもかかわらず、文化的かつ生物学的な交流は継続的に行われ、アパラチア人がチェロキーの中に入って一ケースも、チェロキーがキリスト教に帰依するケースもあった
1929年アパラチア人から最初の大統領ジャクソンが出る ⇒ ボーダーランド人、先住民クラークを撃退したこともあり、ニューオーリンズ(14年秋~151)の戦いでイギリスを打ち負かした後は国家的ヒーローとなって頭角を表わす。奴隷所有者。反インディアン戦士として、スペイン領フロリダに侵略して先住民のセミノール・インディアンを征伐。メイソン・ディクソン線以南の全票を獲得、アパラチア、タイドウォーター、深南部での圧倒的な支持を得て大統領に当選、小さな政府、最大の個人的自由、積極的な軍事力の拡大、白人優越主義、各ネイション間の相互不干渉と個々の文化尊重が信念
就任式のお祝いには支持者がホワイトハウスに大挙して押し寄せ、無頼の限りを働き、「敵の戦利品は勝者がいただくルール」を生み出す
チェロキーの駆逐はジャクソンの最優先事項、インディアンの強制移住法を公布しジョージア内のチェロキーをオクラホマに移住させ、その土地を抽選で白人に配布。最高裁が併合を違憲としたのも無視して、さらにはアラバマとミシシッピが先住民の土地を併合したことにより、そこに居住していたクリークとチカソーも同様な憂き目にあう
「南部高地」の文化は、奴隷制が存在するため、同じボーダーランド人が入植しているオハイオ川以北の文化と異なるというのが歴史家による伝統的な解釈だったが、大アパラチア人にとってはどこに住もうが、奴隷制があろうがなかろうが、一貫した文化的な価値観や特徴を共有していたが、平原地域の同輩より南部高地の山間部フロンティアの人々はより危険で、不確かで、予測不可能な生活と直面、無法地帯で常に闘争状態
ボーダーランド人の信仰的遺産は、かなり感情的でかつ衝動的なもの、個人的救済、神との相互交渉関係、来世での応報を強く唱える信仰で、福音主義的な信仰に近い

第18章     西へ拡張する深南部
1830年代までは、「南部」は奴隷制をいずれ消え去るに任せるべき時代錯誤的な構造であると見做していたが、30年以降「南部人」たちは次第に奴隷制を称え始める
誕生しつつあった南部連合で奴隷制が神聖化されたのは、大陸に存在する2つの主たる奴隷文化であるタイドウォーターと深南部が持つ相対的権力が大きく変化した結果
3の勢力であるアパラチアは、南北戦争後に初めて、ディキシーと呼ぶ連合に真に加わわるようになった
タイドウォーターは、1820年まで大陸の南東部で勢力を誇り、特にヴァージニアは最大の人口を誇る州として独立戦争はもとより、合衆国憲法の知的基盤を作り、初代から5番目の大統領のうち4人を輩出。アパラア人の州から正式な代表権を剥奪。国家的な問題についてはタイドウォーターこそが「南部」を代弁、奴隷制を恥じていた
2030年代にかけて、急速に拡大する深南部を前にタイドウォーターの影響力が衰退
19世紀初頭の大移動期、ボーダーランド人に封じ込められて影響力を西に向けて拡大できなかったが、その間深南部が勢力圏を拡大、新たな州を設立したり既存の州への影響力を広げ、莫大な利益を生み出す資源を完全に支配することによって、ボーダーランド人を手中に収める ⇒ タバコに代わって綿の市場価値が高まり、小規模家族経営の綿花農家が次々とプランテーション奴隷所有者に駆逐され、地球規模の綿花生産が3倍に増加した一方で、深南部の生産量は50年で9%から68%へと増大
1803年に合衆国に併合されたルイジアナ南部にはニューフランスの飛び地があり、湿地帯に住むアカディア人難民の子孫やフランス西インド会社の砂糖プランターや商人が居住していたが、スペインやフランスにおける寛大な奴隷制度と人種関係を引き継いだニューオーリンズでは奴隷に自由を買う権利を与えていたため、自由黒人が高い社会階層まで与えられ、スペイン系とフランス系の白人住人であるクレオールと共生。独自のアイデンティティを保持し続け、みな共和党を支持、南部の連邦離脱に反対。他の地域への同化に反発し、21世紀に至るまで孤立を保っている
深南部から新しくやってきた人々はそれを嫌悪、両者の溝は深い
奴隷制が浸透しえない極西部への進出は深南部にとって困難、変わって着目したのが熱帯地域で、メキシコからカリブ海諸国、特にキューバの併合を声高に主張、政府も深南部の支持を期待して試みたがいずれも失敗、ただこの時点でメキシコ領の大半は既に合衆国によって征服されていた

第19章     エル・ノルテの征服
1821年メキシコ独立するも、既に財政破綻状態、国内の大部分の地域が放置状態に置かれたため、政府から見放されたエル・ノルテの指導者たちは、交易を禁止されているにもかかわらず合衆国に接近
エル・ノルテは、メキシコ中央部と比較しても個人主義的意識が強く、自活を重んじ、経済活動を重視する傾向があり、常にメキシコ内の革命と改革の最前線と言われている
アメリカからの移民が後を絶たず、遂にテキサス地域が独立闘争をはじめ1836年にメキシコから独立 ⇒ エル・ノルテはサンアントニオの北方コーパスクリスティの南の地域に押し戻され、テキサスの北東部、北中央部、中央部はアパラチアに吸収され、メキシコ湾岸地域の北半分は深南部に併合、ヒューストンとダラスの境界、つまりヒル・カントリーと湾岸平原、そしてヒスパニックの南部とアングロ系の北部を分けるテキサスの典型的な地域区分が作られた。州北部に突き出た地域には後にミッドランド人が入植し、他の地域とは一線を画す
45年合衆国は、テキサス共和国に対し奴隷州として連邦構成州の地位を付与するための法案を議論
同年、リオ・グランデ渓谷の係争地を含む新たな境界線をめぐってアメリカがメキシコに宣戦を布告、48年終戦 ⇒ ヤンキーは最初から侵略戦争に反対していたが、アメリカ軍はメキシコシティまで占領、最終的に人口希薄のメキシコ領北半分のみを獲得。現在のアリゾナ、ニューメキシコ、カリフォルニア、ネバダ、ユタを含む。深南部はそれ以上の併合については人種混交が進んでいて、白人種の政府には不要と反対した
合衆国に併合された旧メキシコ領の大半は、真の意味で植民地化がされていたとはいえず文化的にもエル・ノルテの一部ではなかった ⇒ 先住民から奪った土地に迅速に建設された2つの新しい民族文化的ネイションを生み出そうとしていた。それが極西部とレフトコーストで、全く正反対の方向に、さらにその南部に広がるスペイン語圏のネイションとも相反目しつつ発展していった

第20章     レフト・コーストの創設
カリフォルニア北部、オレゴン、ワシントンの3州の沿岸部は、同じ州内にある他の地域と比べてニューイングランド的な風土を色濃く持っている ⇒ 投票傾向から文化戦争、外交政策に至るまでヤンキーダムと同盟関係を保ち、当初から南や東の隣人たちと折り合いが悪かった
その理由は、レフト・コーストの初期入植者の大半が、北太平洋岸に第2のニューイングランドの建設を夢見て海上から入植したヤンキーだったから。ただ、東部の同盟者とは常に根本的な気質上の差異を有していたうえ、この地にユートピア的理想主義の痕跡を残し、そのため恭順なエル・ノルテやリバタリアンの極西部の隣人と衝突
19世紀初頭はまだ先住民チヌーク・インディアンの居住地、スペインの勢力もモントレー北部までで、サンフランシスコ以北はイギリスの毛皮交易複合会社=ハドソン湾会社が事実上統括
1834年北部メソジスト派の伝道師がオレゴンのセーラムに伝道所設立、ニューイングランドからの入植を勧誘、一方でボーダーランド人も積極的に農地を確保し、人口ではヤンキーを圧倒したが、町の支配はヤンキーが掌握次々に州を独立させた
46年合衆国がカリフォルニアを併合
48年アメリカ川(サクラメント川の支流)で金が発見されたことで、レフト・コーストと内陸部が分裂
カリフォルニアのヤンキーは、49年に金鉱を探しにカリフォルニアに来た野蛮人たちフォーティナイナーから土地を守らなければならなかった ⇒ もう1つのピルグリム的任務を果たす使命に燃える
カリフォルニア沿岸地域で、ヤンキーのエリートたちが抱いていた道徳的、知的、ユートピア的な熱意と、アパラチア人や移民の大多数が重んじる自活重視の個人主義が混在。そこで生成された理想主義的だが個人主義的な文化は、内陸部の金の採掘地域とは異なっていたが、オレゴン・ワシントンの両州西部とは類似した、まさに新しい地域文化で、後に連邦を変革するためにヤンキーダムと連携することになる

第21章     西部への戦い
南北戦争は「南部」と「北部」の争いとして描かれているが、この2つは文化的にも政治的にも実際には存在しない地域
メリーランドとミズーリの間、テネシーとルイジアナの間、インディアナ、ヴァージニア、テキサス間に深く刻まれた差異の説明ができない
さらには、戦争の原因が奴隷制だったのか、それともケルト系対そのライバルであるアングロ系およびゲルマン系との民族対立だったのか
州単位で分析しても、さらに混乱を招くだけ
大陸を地域民俗学的諸ネイションの集合体という視点でとらえると、南北の地域が戦争に向かった動機、大義、そして行動原理が明らかとなる ⇒ 南北戦争は2つの同盟間の戦争で、1つは深南部とその衛星地域とも呼べるタイドウォーター、もう一方がヤンキーダムで、他のネイションは中立を望み奴隷主(深南部)やヤンキーの両方から干渉されない独自の連合を設立しようと画策
19世紀前半、ヤンキーダム、ミッドランド、アパラチア、深南部の4つはそれぞれ自分たちの文化をアパラチア山脈以西の土地に展開しようと、支配権をめぐって競合したが、突出したのがヤンキーダムと深南部で、特に深南部は砂糖と綿花の需要の高まりで得た膨大な富を背景に奴隷文化を西部に向けて拡大、かつての盟主タイドウォーターを凌駕し、白人至上主義によってアパラチア人からの支持も獲得。膨張主義的戦争によって連邦全体に永久的な支配権を獲得しようとしていた
深南部やタイドウォーターから排除された外国人移民はヤンキーや中西部のミッドランドの地域に向かい、1850年には奴隷州の人口1人に対し自由州では8人の外国生まれの居住者が存在、さらに西海岸でのヤンキーの影響力が高まってレフト・コースト3州が自由州として合衆国に加わると深南部を凌駕する政治力を持つに至る
ヤンキーは、世界を改善していくという自らの使命に駆り立てられ、誰もが認める中心的担い手として奴隷制即時廃止運動を担ぐ
奴隷制に対する「南部」の意見はかなり多様であり、州や階級、職業上の境界ではなく、民族地域的な境界で分断されていた ⇒ 南部の中でもアラバマ北部、テネシー東部、テキサス北東部におけるアパラチア人の入植地は連邦離脱に反対、それ以外の深南部人が入植する地域では連邦離脱を支持
リンカン大統領の誕生で深南部人の支配する諸州が連邦を離脱、アラバマに新政府を樹立
タイドウォーターとアパラチアの諸州は参加せず、独自の連盟を組織しようと画策
サウスカロライナがチャールストン港を守るサムター要塞を攻撃する前には、ヤンキーダムは孤立し、深暗部の反乱を武力で抑え込もうとする信念に同調するネイションは皆無
リンカンはサムター要塞で物資が不足した際にも、慎重な対応をし、武器ではなく食糧を供給、南部連合の政府も事情を理解して国務長官のラザーズも戦争を仕掛ければすべてを敵に回すと警告していたが、デイヴィス大統領はそれを無視、後にこの決断は北アメリカ史上最悪の誤算と証明された
ニューネザーランドは、奴隷制をもたらした張本人であり、深南部を熱心に支持、寛容さはその文化の中心であり、奴隷所有に対しても同様だったが、ニューヨーク州政府の支配権をヤンキーに奪われ、奴隷制が禁止されてしまう。ただ、ニューヨーク市内では多くの不法奴隷売買人が存在し、南部に奴隷を供給していたので、ほとんど南部に属していたようなもので、事実60年の選挙では、リンカンの政敵であるスティーヴン・ダグラスに投票
ニューヨーク市では、ロングアイランドとともに低税率の都市国家としての独立も検討
サムター要塞への攻撃が全てを一夜にして変え、合衆国に対する極端な愛国心が湧き上る
ミッドランドは、歴史上長きにわたって奴隷廃止の心情を持っていたにもかかわらず曖昧な態度をとり、南部の平和的な離脱を期待。60年の選挙では圧倒的にリンカンを支持したが、ヤンキー支配には反対してアパラチア人が支配する諸州と一緒に中央連合国の建設を画策、ヤンキーと深南部の緩衝地帯になろうとした
タイドウォーターの人口は少数派。奴隷制を巡る対立が深まるにつれ、文化的差異に関わらず、保護を求めて深南部側につかざるを得なくなる ⇒ タバコ市場の縮小とともに、タイドウォーターの指導者層は奴隷を南部に売り渡し、深南部のイデオロギーを受け入れたが、南北の対立をアングロサクソンの専制からノルマン人を解放するための戦争と位置付けることで、より問題視される奴隷制についての議論が賢明にも避けられた
サムター攻撃とリンカンの開戦宣言の後になって、ヴァージニアとノースカロライナが離脱、メリーランドとデラウェアが残ったが、4州の動向にはボーダーランド人が決定的な役割を担っていた
大アパラチアは、最も曖昧な態度をとった ⇒ 人種平等を執拗に主張し道徳的聖戦と称して他者の行動を左右しようとするヤンキーを嫌悪する一方で、貴族的な奴隷所有者たちの下で何世代にもわたりその圧政に苦しんできたことから南部プランターにも反抗
60年の選挙では決定的に分裂 ⇒ アパラチアの支配する4(ケンタッキー、ヴァージニア、テネシー、テキサス)では、穏健派のベルが辛うじて多数票を獲得したが、リンカンはペンシルヴァニアのアパラチア人票を、ダグラスは中西部のアパラチア人評を獲得
サムター攻撃後は、アパラチアの多くが北側に着く
65年の南部連合敗北後は、ヤンキーやミッドランド人の理想に従って南部連合の民主化が進められ、多くの黒人連邦議員が誕生したが、76年の北軍撤退の後、「再建された」地域の白人はヤンキーの政策を悉く破棄、クー・クラックス・クランが「横柄な」黒人を暗殺

第4部        文化戦争――18782010
世紀転換期に大量に押し寄せた新移民がもたらした社会や文化への影響に始まり、南部再建期以後急速に台頭した2つの相対立する大きな勢力(ヤンキー・ブロックとディキシーーブロック)の形成過程と宗教・世界観の衝突を描く
第22章     極西部の創設
極西部は北アメリカ最後の入植地 ⇒ 南北ダコタ、ネブラスカ、カンザス、オクラホマを2分する西経98度から始まる西側で、雨量が少なく、土漠と砂漠、アルカリ塩で汚染された土壌では穀物が育たない
長らく、必要な資本を持っていた北のより古いネイションや連邦政府の内陸植民地だった
47年最初に来た集団がヤンキー系のモルモン教徒。49年に来たフォーティナイナーたちはアパラチア人気質の極めて個人主義的なフロンティア人
59年にカムストック銀鉱脈がネバダの山脈で発見されたが、64年には枯渇、地下に潜ると大企業の支配下になり、やがてその地域の政治をも支配
鉱山地区以外の極西部への進出は鉄道の敷設とともに拡大 ⇒ 連邦政府が鉄道会社に沿線の土地を交付、大規模な販売キャンペーンで入植者を惹きつける
1886年の冬に極寒状態に見舞われ、その後は旱魃が続いて90年までには独立自営農民の大半がこの地を脱出
鉄道会社と鉱業利害関係者、先住民の保留地以外は連邦政府が管轄 ⇒ 現在でもモンタナとコロラドの1/3、ユタ・ワイオミング・アイダホの1/2、オレゴンの極西部風土帯地域の2/3、ネバダの85%が連邦政府の所有
2次大戦まで、経済的ポピュリズムや労働組合主義、社会主義の温床
連邦政府に対する極西部の敵意のお陰で、この反権力的な地域はアメリカ大陸の最も権威主義的なネイションとの、他ではあり得ないような同盟を結ぶことになり、その同盟が北アメリカと世界にとって永続的な影響を及ぼしている

第23章     移民とアイデンティティ
地域的なネイションの文化は、1830年以降の大量の移民の波に飲み込まれたものの、「アメリカ全体の文化」を変化させたのではなく、アメリカの個別地域の諸文化を変化させた
移民の第1波は183060年の約450万で、アイルランド・ドイツ・イギリスのカトリックが大半、第2波は6090年の約900万で、前記+スカンジナビアと中国から、901924年の第3波は約1800万、南欧・東欧からで、3/4がカトリックかユダヤ教徒
1924年「劣等人種」への移民割り当て法で移民の波が突然終わる ⇒ 外国生まれは全人口の14%がピーク(1914)
移民のもう1つの注意点は、ニューヨーク、フィラデルフィア、ボストン、シカゴ、サンフランシスコなどの少数の拠点都市に集中したこと ⇒ 移民の大半が強固な貴族政や封建制から逃げてきたため、深南部やタイドウォーターには向かうはずもなく、大アパラチアはまだ貧しく仕事もなかった
移民はアングロ・プロテスタントのアメリカ人に変容させられたというアメリカのるつぼ概念は、実際はヤンキーの矯正法を指す
今日メキシコからの第4波は合衆国内のメキシコ人人口を急増させ、アングロ・プロテスタント文化に同化することもなく、エル・ノルテのアメリカ領を再び支配、同地域のノルテーニョ文化に同化しつつあり、地域の起源に戻ったと言え、いずれ彼ら独自の共和国を建設するであろう

第24章     神と布教活動
移民が南北戦争後の数十年にネイション間の差異をより際立たせた一方で、根本的な価値観の差異が、ネイションを緩衝州で分離された敵対的なブロックに二極化した結果、文化を巡る冷戦となり、負けたディキシー・ブロックが勝ち誇った社会改革志向のヤンキーやニューネザーランド、レフト・コーストの連合と対抗 ⇒ 1960年代に突如顕著な対立に発展
南北戦争後、全アパラチアを含む南部はヤンキーによって地域全体が作り変えられようとしたため、被支配州は2000年の世紀転換期には強力なディキシー連合を作り上げる
ディキシー連合が個人的救済と伝統的な社会的価値の擁護を軸に連携している間に、北部同盟はそれとは大きく異なる価値を目指した宗教のもとに形成されつつあった ⇒ ヤンキーダムの牧師や知的エリートによって陣頭指揮されていたが、他のネイションでも圧倒的に支持され、個人よりも社会の救済に焦点があてられた
北部同盟の顕著な変化は、禁酒、子供の福祉保障、女性の参政権、対抗文化的運動への寛容さ、善行を通じて世界を浄化しようというピューリタン的使命などに現われる
ディキシー同盟では、近代主義や自由主義神学、不都合な科学的発見に反対する動きが顕著。学校で進化論を教えることを非合法とした州も多く存在

第25章     文化衝突
ディキシー・ブロックでは、アフリカ系アメリカ人が人種隔離とカースト的社会制度に抗議して立ちあがる ⇒ 公民権運動として北部同盟が支援、5060年代を通じて「第2の再建」と呼ばれ、64年には公民権法案が成立したが、ディキシー・ブロックの私的プロテスタントの価値観を変えることはなかった
一方北部同盟では、若者による文化的反乱に直面 ⇒ 「若者運動」の創設文書とされる62年のポートヒューロン宣言はヤンキーとミッドランド人の中心的価値観の融合体。全世界の武装解除や戦争経済の終焉を謳い、所有や特権あるいは境遇に根差した権力を終わらせ、参加型民主主義の確立を求める。ヒッピー運動はサンフランシスコとマンハッタンのビート族から生じたものだし、「民主社会のための学生同盟」は北部同盟の各ネイション内の主要大学のキャンパスで最も強固に支持された

第26章     戦争、帝国、軍隊
ディキシー・ブロックのネイションは、1830年代以降事実上あらゆる戦争を断固として支持、同時に合衆国の力を拡大し維持するための武力行使を支持
極西部とエル・ノルテは、常にキャスティング・ボートを握るネイション ⇒ スウィング・ネイション
アメリカ帝国建設への反対者は、常にヤンキーダムが中心 ⇒ 外国領土の占領は、アメリカ独立革命を戦った原理、とりわけ代議制の自治政府を持つ権利に著しく違反するとして反対
2次大戦では、戦争準備の必要性について連邦内が分裂、真珠湾攻撃のあと、諸ネイションは後にも先にも決して経験しないほど互いに結束
ヒトラーと裕仁天皇は、歴史上他のどの行為者よりも極西部とエル・ノルテの地域の発展に多大な貢献 ⇒ この2つのネイションに連合軍が戦争に勝利する産業基盤が集中
2000年の選挙で、ディキシー・ブロックは46年ぶりにホワイトハウスと上下両院を同時に掌握、伝統的な外交政策の原則から即座に根本的に転換し、9.11で加速
イラク戦争は、合衆国の一方的な軍事力の行使に対する諸ネイションの熱意を測るリトマス試験紙となる ⇒ ディキシー・ブロックは熱烈支持、南部人は6234%で支持、中西部人は4744%、レフト・コーストは06年の増派に反対、ヤンキーダムやエル・ノルテも反対、ミッドランドとニューネザーランドは賛否両論

第27章     権力闘争I――民主党支持ネイション
北アメリカのネイションは創設以来、お互いに闘争してきたが、その目的は連邦政府機関である議会やホワイトハウス、裁判所や軍隊を支配すること
1877年以降アメリカ政治は、基本的に階級闘争や農業と商業の利害対立でもなく、競合する党派的なイデオロギー間の緊張でさえなかった。決定的な政治闘争は、民族地域的な諸ネイションの移り変わる同盟間の衝突であり、1つは常に深南部に率いられ、他方はヤンキーダムによって統率されていた
最も強固で長く続いてきた連合は、1840年代にヤンキーダムとレフト・コーストの間で形成されたもの、改革的でユートピア的課題を抱いたヤンキーダムがいつも基調を打ち出したが、その基調とは「公共善」の推進を追求することで、その推進手段は税制基盤と共有資産に支えられ、慎重に管理される無駄のない有能で実行力のある政治を確立すること
187797年ヤンキーダムとレフト・コーストは、連邦の周りに関税障壁を築いて製造業を保護、関税収入は連邦歳入の60%にも達し、その半分以上が北軍兵士に恩給年金の形で還元された
人口過密で強力な都市国家のニューネザーランドは、保護関税に反対してディキシーの綿業王たちと連携する一方、20世紀に入ると巨大で複合的な都市拠点として効率的な政府と費用の嵩む公共インフラを求める必要上ヤンキーダムとの共通利害を見出した。文化的多様性、良心の自由、表現の自由を重視、最も社会的にリベラルなネイションであり、深南部の熱狂的行動に反対し、ヤンキーと運命を共にする以外選択肢はなかった
ヤンキーに率いられた3つのネイションによる北部同盟は、共和党のテディ・ローズヴェルトの「保守的」政権から民主党のオバマの「リベラル」な政権まで、強力な中央政府の維持や連邦による企業権力規制、環境資源の保全を支持
20世紀前半、共和党は「北部の政党」であり、大恐慌まで連邦政府を支配
18971932年までウィルソンを除き6人の北部共和党員が大統領 ⇒ 3人がヤンキー(マッキンリー、タフト、クーリッジ)1人がオランダ系ニューネザーランド(テディ・ローズヴェルト)2人がミッドランド(オハイオのハーディング、ドイツ/カナダ系クエーカー教徒のフーバー)で、自由放任の資本主義時代の指揮を執ったにもかかわらず、フーバー以外はアフリカ系アメリカ人の公民権を支持し、クーリッジを除けば皆連邦政府の権力拡大と企業や財閥の権力の抑制を支持。減税に反対はしなかったが、富裕層にだけ利益を集中させるようなやり方での減税はしなかった
ローズヴェルトは巨大なトラストを解体し、鉱山労働者に有利な解決を保証すべく主要なストに介入し、国立公園局や全米野生動物保護区、米国林野局を設立、史上初のユダヤ教徒の閣僚を任命
タフトは、マサチューセッツのピューリタンの子孫、イェールで教育を受け、ローズヴェルトの反トラスト捜査を推し進め、連邦所得税と連邦上院議員の直接公選制導入のための憲法修正を支持
ハーディングは、企業と富裕層の所得税を減らしたが、他方で行政予算管理局や会計検査院を設置して政府をより効率的なものに変えようとした。復員軍人援護局を創設
クーリッジは、銀行や企業の規制に反対したことで名を挙げたが連邦政府の肥大化回避が根底にあった。マサチューセッツ州知事時代は労働者の立場からの保護策や賃金保障などを実行、大統領就任後も減税をしたが、富裕者にとって有利でないやり方をとる
フーバーは、国立公園や退役軍人の病院制度を拡大、連邦教育省と司法省の反トラスト部門を設立、低所得者の税金削減や普遍的な老齢年金制度設立(不成功に終わる)に奮闘
以上の最も保守的な北部同盟の大統領は、ディキシーから見れば、大きな政府を掲げるリベラルと見做され、1950年代の北部同盟主導の共和党もまた同じように見られる
アイゼンハワーの最初の任期では、共和党が議会両院とホワイトハウスを支配したが、保健教育福祉省を創設、公民権判決を強制するために連邦軍をアーカンソー州に派遣し、台頭しつつある「軍産複合体」によって引き起こされる民主主義への脅威を警告
198820083つの北部ネイションは、一貫してより進歩的な候補を選択し、同一の大統領候補を支持 ⇒ 父ブッシュよりデュカキスを、ブッシュよりアル・ゴアを、マケインよりオバマを選択。同様に、50年代はアイゼンハワーを、64年にはゴールドウォーターよりもリンドン・ジョンソンを支持
この時期、北部同盟出身の大統領は4名のみ ⇒ 共和党ではフォードと父ブッシュ、民主党ではケネディとオバマで、4人とも政府事業計画を通して社会を改善させ、市民権保護や環境保全を拡張しようとした
フォードは、男女平等の憲法修正条項と、全米に連邦の資金による特別支援教育計画を創設、最高裁判事にリベラルのスティーヴンスを任命
父ブッシュは、レーガンから財政赤字を引き継いだが、富裕層への税率を引き上げ、政治的に不利になるのを承知で資本利得税削減に反対、公民権を身体障碍者に拡張、大気汚染防止法の再認可を支持、教育や研究振興、保育に連邦の支出を増やす
ケネディは、64年の公民権法となるものを提案、黒人の南部大学に入学させるために連邦軍まで派遣、最低賃金と手ごろな価格の住宅や精神衛生事業のための連邦基金を増加、環境問題に関する重要な転機となる調査を開始、環境保護庁設立に向けた基盤を敷く
オバマは、連邦の医療保険業界の刷新、金融サービス業の規制、温室効果ガス排出の削減努力を支持したが、全て強力なディキシーの反対に抗って行われた
公民権闘争直後、ディキシーの保守主義者が共和党の支配権を握ったとき、北部同盟の共和党員とディキシーの黒人は党を捨てた
195698年の間、共和党候補者に投票したニューイングランド人の割合は、55%から33%へと低下、ニューヨーク市民(ヤンキーとニューネザーランド)の割合も、54%から43%に低下
ヤンキーの中西部も、21世紀最初の10年間に共和党支持の低下が加速
2010年までに共和党は、3つの北部同盟ネイションにおいて、全ての州議会下院と1州を除くすべての上院で少数派、北部同盟が優勢な13州のうち7州で知事職を失う
巨大な政治再編の中で、民主党が北部同盟の政党になり、「リンカンの政党」はディキシーの白人たちの目的達成手段となった
父ブッシュ時代、北部同盟の共和党連邦議員はほとんど排除されん、共和党はその生誕を見た地で基本的に消滅
北部同盟の下院議員は、政党の所属に関わらず、彼らのネイションの政策課題を支持
70年代末には、ディキシーの「労働権」法を禁止したり、連邦職場安全検査から小規模会社を免除し、大規模建設地での労働者のストを事実上禁じる法律の変更を支持
80年にはまだ多くの北部共和党員がいたが、全てのヤンキーとニューネザーランドの連邦議員は、3名を除いて、特定の消費者コミュニティでの実際の寒冷状況に応じて連邦低所得者暖房費補助配分を支持、レフト・コーストも加州を除き賛成
10年のオバマ・ケア法案の下院議員の投票は、圧倒的な差で支持、世界の銀行システムがほぼ壊滅状態に陥った直後の金融規制制度強化の法案でも同様だったが、両方ともディキシーは民間市場への不当な侵害として猛烈に反対
連邦議会が厳格な党路線に沿って投票する時でさえ、共和党の離反者はいつも北部同盟かミッドランド出身だった ⇒ 99年のクリントンの不倫疑惑での弾劾を拒否したのは共和党の4名の下院議員であり、10年のオバマの財政改革計画案に対し共和党員の3名が反対したが全員がニューイングランド出身者
21世紀の初めまで、北部同盟の民主党員と共和党員は、ディキシー・ブロックのそれぞれ同じ党員に比べて、お互い同士の間で遥かに多くのものを共有 ⇒ 南部連盟は北部人が大切にしているほとんどすべてのものに反対を表明

第28章     権力闘争II――共和党支持ネイションと無党派ネイション
ディキシー・ブロックは、特に安定した連盟ではなかった ⇒ 深南部と第アパラチアは、歴史のほぼすべてを通じて宿敵、独立戦争でも南北戦争でも一戦を交えている
格下のパートナーであるタイドウォーターは、南部の隣接ネイションに比べてアパルトヘイトや権威主義にあまり関与せず、今日ではミッドランドの影響下に入りつつある
深南部の寡頭支配は、自らの経済的利害にとってブロックのお陰があるので、自身の地域の黒人に有権者資格を付与せざるを得ず、さらにタイドウォーターのエリートの紳士的穏健さの傾向や、ボーダーランド人の強力なポピュリスト的感情にも対処しなければならず、こうした勢力の全てがディキシー連合を掘り崩す恐れがあった
深南部の寡頭政治の目標は、4世紀以上もの間一貫して、労働や仕事場の安全、医療や環境規制を可能な限り最小限に保ち、従順で教育程度の低い低賃金労働力を利用した天然資源の採掘と大規模農業に依拠する植民地的経済を維持することで、一党独裁体制を堅持すること。元奴隷と下層白人を政治過程から排除するため人頭税や識字テストを導入、労働力需要を満たすためにカースト的社会階級とシェアクロッパー制度(小作人となった解放黒人に対し農作物の1/31/2を地主に納入する条件で土地使用を認める制度)を発達
公職に就くと富裕者への課税をカットし、寡頭政治の支配者のアグリビジネスと石油会社へ巨額の補助金を注入、労働規制と環境規制を除去、発展途上国からの安価な労働力確保のため「ゲストワーカー」計画を立て、北部の高賃金の産業から製造業の仕事を横取りすることに専念
寡頭政支配者にとって最大の課題は、大アパラチを自らの連盟に引き入れ、留めること
ボーダーランド人は、平等主義と自由を称揚、あらゆる形態の貴族政を毛嫌い
アパラチアには強力なポピュリストの伝統があり、深南部の寡頭制支配者の願いに逆行するもので、偉大な南部ポピュリストの大半はボーダーランド出身のたたき上げの男で、リンドン・ジョンソンやロス・ペローなどがいる。ディキシーに多くの進歩主義者をもたらしたがその中にはクリントンやアル・ゴア、コーデル・ハルがいる
アパラチアの大部分が南北戦争で南部連合に対して戦ったという事実が、深南部の寡頭制支配者の戦略をさらに複雑にしている
人種主義と宗教が寡頭制支配者に有利に働く ⇒ 南北戦争の時、ボーダーランド人はユニオン(連邦)のために闘ったのであり、アフリカ系アメリカ人を救うためではなかったので、ヤンキーが黒人を解放し、選挙権を付与しようとしたとき反抗。また、ボーダーランド人やタイドウォーターと深南部の貧困白人は共通の宗教的伝統を持つ。それは社会改革を拒否した私的プロテスタント主義の形態で、聖書にある奴隷制の正当化を見出し、世俗主義やフェミニズム、環境主義や近代科学の重要な発見の多くを神の意思に反するものとして非難
南北戦争後でも、公民権や自由選挙に反対するディキシーの議論は、人種差別的なもので、ほとんどすべての黒人と大半の貧困白人は投票権を奪われ、プランテーションのエリートたちはこの地域への覇権主義的な支配を確立
ディキシーの連邦政治への影響は、20世紀初頭にローズヴェルトが革新党を創設して北部同盟の票が分裂しウィルソンが大統領になったときだけで彼は筋金入りの人種差別主義者
ウィルソンは、ボーダーランド人家庭に生まれたアパラチアの南部人
民主党のケネディとジョンソンが公民権法案を成立させた際、ジョンソンは法案への署名直後に「今度長期にわたって南部を共和党へと引き渡したと思う」と語ったという
実際この時、ディキシー連合の大半がポピュリストのアパラチア人大統領と民主党をあっさり見捨てた ⇒ 68年のディキシーの大統領候補は南部の急進的な人種差別主義者のウォーレスであり、狙撃されて負傷しなければ72年も立候補したかもしれない
代わりに候補に選んだのが、エル・ノルテのアングロ系少数派出身で新しいディキシー型の共和党員だったニクソンとレーガンで、共和党の北部同盟支配を転覆させることに成功
60年代半ば以降、常により保守的な大統領候補を支持 ⇒ オバマよりマケイン、ケリーよりブッシュJr.、モンデールよりレーガン、マクガヴァンよりニクソン、68年はハンフリーよりニクソンとウォーレスで、逸脱が起こったのはカーターやクリントンといったディキシー出身の候補が出たとき
ディキシー・ブロックの有権者は、一貫して超保守主義を支持 ⇒ 09年に18名の現職連邦上院議員がアメリカ保守連合から100点満点で90点以上の生涯の功績評定を受けたが、全員が極西部かシキシー・ブロックの出身者
60年代には公民権法に反対、70年代にはユニオンショップ協定の禁止に賛成、8000年代には富裕層への税金引き下げ、相続税廃止に賛成、03年にはイラク侵攻を支持、10年には医療保険改革と財政規制改革や最低賃金引下げ阻止に賛同
90年代から、ディキシーの連邦政府への影響力は強大となり、94年にはディキシーに先導された共和党が40年ぶりに連邦議会両院を支配、06年までその勢いを堅持
カーターの進歩主義に失望したのか、00年ついに1850年以来初めて彼ら自身の中から大統領を出したのがブッシュJr.で、大統領としての国内政策の最優先事項は、深南部の寡頭制支配者のもの。富裕者への減税、社会保障の民営化、エネルギー市場の規制緩和、沖合の採掘装置への環境や安全規制の中止、海外タックスヘイヴンの黙認、二酸化炭素排出規制や自動車に対する厳格な燃費基準の成立阻止、低所得者の子どもたちへの医療扶助金の成立阻止、石油探査のために保護区域の開放、政府の福祉事業を宗教団体に譲渡
16年間のディキシー支配の終わりまでには、所得格差と富の集中は歴史上最も高い水準に達した ⇒ 1%の富裕者の富の割合が3倍に膨れ上がる
北部同盟とディキシーの間に起こる権力交替の原因は、3つのスイング・ネイションの行動にある ⇒ ミッドランドとエル・ノルテ、極西部の3
18771933年北部同盟は、極西部とミッドランドの支持を得て連邦を支配
198008年のディキシーの支配時代は、極西部とミッドランドとの同盟に基づいていた
どちらのブロックも真に優勢でない時期でさえ、支配的多数派はネイション間の連携を通して形成された
ニューディール期には、ディキシー、ニューネザーランド、ミッドランドが提携
60年代には、北部ネイションと、アパラチアの進歩主義者との間で連携
オバマの選挙では、エル・ノルテ、タイドウォーター、北部同盟の間で連携
3つのスイング・ネイションは何を求めているのか
ミッドランドは、最も信条的に自立しており、干渉的で救世主的なヤンキーと、権威主義的なディキシー狂信者の両方を警戒する一方、中産階級社会というアイデンティティをヤンキーと共有、政府の干渉に対するボーダーランド人の不信感、文化的多元主義へのニューネザーランド人の傾向、大胆な行動主義に対する深南部の嫌悪感を共有。真に中道的なアメリカ社会であり、どちらか一方に与するということはなかった。30年代にフランクリン・ローズヴェルトを、80年代にレーガンを、08年にはオバマを一方的に支持したのは、国内的緊張が一気に高まり、行き過ぎを是正しようという時期と重なる。ミッドランド出身の大統領であるトルーマンとアイゼンハワーは、党派とは関係なくブロック内に対立競合を生まないように抑えることができた「妥協的候補者」だった
極西部は、対照的に、生活様式が依拠している連邦補助金の流れを維持しつつ、北部同盟の植民地的支配から逃れることが課題。ニューディールや第2次大戦、冷戦を通じて連邦政府の支出によってインフラが整備され、新しい産業が興された結果、1880年代に極西部が出現したから1967年までは北部同盟の票に同調していたが、6804年の間、大企業の利害に資するように連邦規制力を弱体化させるという共通の利害から、ディキシーと連携、ディキシーがリベラルな南部人を選んで保守派を拒否したとき以外はディキシーと共に行動。議会下院では減税を通し、医療改革や財政改革に反対、環境規制を後退。ただ、極西部は市民的自由を規制することに強く抵抗するリバタリアン的性格を帯びているため、ディキシーとの親密性は薄区、08年の選挙ではディキシーの政治綱領を支持した極西部の地元の息子マケインより北部の候補(オバマ)に投票するなど連携に亀裂が見え始める。共和党支持はほとんどすべての郡で衰退、「超保守的な」モンタナでさえマケインの勝利は薄氷の差
エル・ノルテは、20世紀後半まで他のネイションは、いずれどこかのネイションに吸収され、アメリカ先住民の道を辿ると目されていたが、ヒスパニックとの関係性において、ノルテーニョが再び政治や文化の主流になろうとしている。サンアントニオからロサンゼルスまでの知事、議会に代表を送り、合衆国最大の少数派となり、レコンキスタ(国土回復運動)の話題をもたらす。ニューメキシコではノルテーニョが過半数。ディキシーはノルテーニョの心を掴もうとしなかったので、エル・ノルテの活動家や政治指導者は北部人と連携、1988年以降の大統領選ではヤンキーダムに投票。ディキシーと極西部のポピュリストがメキシコ人移民の脅威を激しく煽っているので、エル・ノルテはしばらくの間北部ブロックを支持するだろう
1867年に創設されたカナダは、東方にはカナダの古い英語話者の社会とニューフランスがあり、中央にはミッドランド人が定住したオンタリオ南部とマニトバがあり、多元的で平和主義的な傾向を持つ。西経100度以西の極西部はサスカチュワン、アルバータ、ブリティッシュコロンビア内陸部、ユーコン、ノースウェスト準州南部にもリバタリアンの思想と資源採掘経済を持ち込む。西海岸はレフト・コーストの延長で、環境保全の意識が高い。インディアンに対するニューフランスの温和な態度の陰で、多くの北部先住民(カナダ人の用語ではファーストネイションと呼ばれる)は、いまや北アラスカからグリーンランドまでの伝統的な領土(カナダ大地)の過半に及ぶ地域に主権を再要求しつつあり、全てのネイション中で最大のネイションの出現を加速させている

終章
ネイション間の権力闘争は、将来にどのような意味を持つか ⇒ 合衆国はグローバルな卓越性を失いつつあるように見え、衰退する帝国の古典的な兆候を示してきている
膨大な対外貿易赤字と国債残高、軍事的に過剰な展開、国民総生産では金融サービス部門の割合と国政面では宗教過激派の役割を共に増大
メキシコ連邦は、さらに悪い状態にある ⇒ 麻薬の蔓延で、政治的にも経済的にも破綻状態にあり、エル・ノルテのメキシコ側半分が解放されて北方へと向かうのは容易に想像
亀裂の入ったカナダの状況は、ニューフランスが独立への動きを加速させたが、1つだけの優勢な文化を持つ国民国家という幻想を退けてきたがゆえに、3つの北アメリカの連邦国家の中で最も安定した連邦となっている
合衆国が現状維持を保てるかもしれない1つのシナリオは、諸ネイションがカナダと同様、統合のために様々な文化的懸案について妥協することだが、容易には実現しそうにない
恐らく各州にもっと権限を与えるか、中央政府の機能の多くを解体するために連邦議会で団結し、合衆国は存続するがその権力は国防、外交政策、州際通商協定に限定されるかもしれないし、州レベルでもテキサスやイリノイ、カリフォルニアなどは州がさらに分裂することも考えられる
確かなことが1つある ⇒ アメリカ人が合衆国を現在のような形で存続させたいのであれば、連合の基本的な信条を尊重するのが一番良いということ。公正かつオープンで効率的に機能するような中央政府の存在こそが合衆国を繋ぎとめている数少ない信条
カナダのファーストネイションは、地理的にはすべての中で断然最大のネイションで、共同性の強い社会、すこぶる強力な環境倫理を持ち温暖化が自分たちの生活様式を破壊するとして気候変動の闘いの先頭に立つ。グリーンランドは09年にデンマークから自治権を得てほぼ独立した存在となり、女性が過半の政治的地位を握る。このネイションは21世紀のグローバルな課題に向けて北アメリカ大陸や世界の他の諸国とはかなり違ったアプローチをとるだろう。すでに自分たちのネイション国家を次々に建設しようとしている






11の国のアメリカ史(上・下) コリン・ウッダード著 地域性で解く分裂のリスク
2018/1/6付 日本経済新聞
 アメリカには11もの国がある。単一のアメリカなどない。これが本書の主張である。「国」はネイションということばで表現される概念であり、主権の有無と関わりなく、固有の歴史・民族・文化・価値観を共有する地域である。本書では、アメリカ合衆国、カナダ、メキシコ北部が視野に入れられている。
原題=AMERICAN NATIONS
(肥後本芳男ほか訳、岩波書店・各2900円)
著者は68年生まれ。米新聞社の欧州特派員を経てシカゴ大院修了。歴史家・ジャーナリスト。
書籍の価格は税抜きで表記しています
 その中でとくに重要なのは以下の国々である。(1)ヤンキーダム。急進的なカルヴァン派によって創造され、改革を求める道徳的社会的価値観を持つ。ニューイングランドからミネソタに至る州、そしてカナダの大西洋岸地域にまで広がる。(2)ミッドランド。政府の介入に懐疑的であるが、政治的見解は穏健。ペンシルヴェニア州東南部からカンザス州、そしてカナダのオンタリオ州南部までを含む。(3)大アパラチア。北アイルランドやスコットランド低地からの好戦的な入植者によって創設された地域が発祥だが、アパラチア山脈からテキサス州の一部にまで広がる。社会改革について懐疑的である。
 (4)深南部。長期にわたる白人優越主義の砦(とりで)。サウスカロライナからテキサスにおよぶ。(5)レフト・コースト。カリフォルニア州モントレーからアラスカ州ジュノーに連なる海岸地域。環境運動、同性愛者の権利運動などの拠点。(6)極西部。アリゾナからカリフォルニア、アラスカに至る内陸部。連邦政府の介入に反発する。
 アメリカの地域的多様性はよく知られているが、それは同時に政治的多様性も意味している。本書はこの点を教えてくれる。
 アメリカ政治の主導権は、これらの国々の連合によって左右される。かつて(1)は南北戦争で南部を圧倒したが、近年(4)を中心とする南部連合は(2)(3)(6)といった浮動勢力をうまく取り込めると(1)を中心とする北部連合に勝利できる。アメリカの分裂は、人種、宗教、信仰派と世俗派の対立、イデオロギーなどさまざまな角度から分析されてきたが、地域性との関係を認識することも重要である。
 最近の分断の特徴は、二大政党のイデオロギー的分極化と、地域的対立とが重なり合っていることである。著者が、アメリカは再び分裂する可能性があると指摘するゆえんである。今必要なのは、対立を煽(あお)るのでなく、妥協を促す指導者である。
《評》東京大学教授 久保 文明
(書評)『11の国のアメリカ史 分断と相克の400年』(上・下) コリン・ウッダード〈著〉
2018.1.14. 朝日新聞
 混沌のレース、行方やいかに
 アメリカ開拓レース、ゲートオープン!
 バラついたスタートになりました。まず先頭を奪ったのはスペイン産「エル・ノルテ」、しかし母国の衰運に引きずられて早々に失速です。ついでフランス産「ニューフランス」、イギリス紳士「タイドウォーター」。
 なんとピューリタン発「ヤンキーダム」が伸びてきました。新社会建設の理想に燃え、多数の学校を設立して教育力を武器に、みるみる加速しています。負けじとドイツ農民「ミッドランド」は家族経営で手堅く、イギリス辺境民「アパラチア」はダート向きの荒々しい走りで追います。
 独立戦争コーナー通過。各馬足並み揃(そろ)わず、相互に駆け引きをしながら、連邦型のゆるい馬群を形成しています。あ、「ニューフランス」、カナダ方面へコースアウトですね、残念。
 ここで大外を回って「ディープサウス」、奴隷が生み出す砂糖と綿の富を力に、たくましい馬体がぐいぐい先頭に並びかけます。
 南北戦争コーナー通過。「ヤンキーダム」、ハナ差リード。「ディープサウス」は進路を「アパラチア」に遮られて怒っています。独立不羈(ふき)の「アパラチア」がお節介(せっかい)焼きの「ヤンキーダム」に味方するとは予想しなかったのでしょう。
 世界大戦コーナー通過。アメリカは世界に打って出るべきか。積極派の「ディープサウス」は「アパラチア」と折り合い、慎重派の「ヤンキーダム」は「ミッドランド」に西海岸の「レフト・コースト」も巻き込んで、競り合いが続きます。
 21世紀到来。おっと序盤で失速した「エル・ノルテ」が、メキシコの破綻(はたん)を吸収して盛り返してきました。
 ごらんの通り、アメリカは400年間、出自も主義も異にする11の勢力が併走し、合従連衡と叩(たた)き合いを繰り返してきたのです。混沌(こんとん)きわまるレースの行方やいかに。合衆国というゆるい結び目は、ほどけてしまうのか? 世界の未来がかかっています!
 評・山室恭子(東京工業大学教授・歴史学)
     *
 『11の国のアメリカ史 分断と相克の400年』(上・下) コリン・ウッダード〈著〉 肥後本芳男ほか訳 岩波書店 各3132円
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 Colin Woodard 68年生まれ。米国の歴史家・ジャーナリスト。本書は11年に本国で刊行、話題になった。


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