江戸→TOKYO なりたちの教科書  岡本哲志  2017.6.9.

2017.6.9. 江戸→TOKYO なりたちの教科書  1冊でつかむ東京の都市形成史

著者 岡本哲志(さとし) 1952年東京都生まれ。法政大工学部建築卒。岡本哲志都市建築研究所主宰。専攻は都市形成史。元法政大教授、都市形成史家。博士(工学)。日本各地の都市と水辺空間の調査・研究に長年携わる。銀座、丸の内、日本橋など、東京の都市形成史を様々な角度から40年以上調査・研究を続けている。0912年、NHK総合テレビ『ブラタモリ』に案内人として計7回出演

発行日           2017.2.25. 初版発行
発行所           淡交社

江戸から近代までの東京の地形は、江戸城、大名屋敷から始まり天皇家、宮家、財閥などの土地を利用して造られた。そこには、庭園、高官の施設や産業施設、美術館、学校としても今も江戸の骨格が残されている場所が随所にある。本書は、江戸から昭和、平成の時代とともに、山の手、下町、埋立地として巧みに地形を利用しながら変化を遂げたプロセスを読み解き、江戸東京の成熟した都市空間を古地図や写真図版を配し、ビジュアル的にも復元する


はじめに
東京の様々な事象から完結した29話を構成

プロローグ 高低差のある地形にできた江戸
土地の履歴=地霊
街道は主に尾根を利用して整備され、街道に沿って大名屋敷が配置される
1654年、玉川上水の整備完了とともに、その水を利用して台地上の大規模な開発が可能となる。それに合わせて低地部に消費の場が生まれ、台地と低地を結ぶ坂道が江戸時代に多く造られた
地下水脈が残した江戸下町の原風景 ⇒ 東京湾に半島状に突起した部分や島に住み着く
大田道灌が江戸城を築く以前には、いくつもの神社が江戸に祀られていたが、なかでも福徳神社と安房神社(神田明神)が江戸の歴史を読み解くときに重要
日本橋室町にある福徳神社は9世紀半ばの創建で武将の信仰が厚く、大田道灌も合祀、家康も信奉
神田明神は、もともとは日比谷入江の奥、現在の将門塚付近にあったが、江戸城の鬼門として再配置

第1章        江戸に描いた家康の都市未来像
外堀通りの上智大グラウンドの下は真田濠(さなだぼり)と呼ばれ、真田幸村の実兄真田信之が手掛けたもので、江戸のグランドデザインを見る時に重要な位置づけ ⇒ 外堀の中で一番標高が高く、南は溜池から虎ノ門経由内海(東京湾)へ、北は市谷濠、牛込濠を経て神田川へと流れる
内濠は、半蔵濠が最も高く、南は桜田濠から日比谷濠へと巡り、北は牛ヶ淵へ至る
玉川上水が真田濠に流し込まれた時を江戸惣構の完成とすると、4代家綱の治世(165180) ⇒ 玉川上水の水によって外堀全体の水が澱まないように高さを調節している
家康入府の際に確保された水源は小石川 ⇒ 江戸の最初の上水として整備。次いで井の頭池を水源とする神田上水、玉川上水へと規模が拡大
鬼門 ⇒ 中国伝来の思想を日本流に進展させ、東北を鬼門、南西を裏鬼門として新しい都市の建設が行われた。京都では比叡山延暦寺が鬼門、石清水八幡宮が裏鬼門、鎌倉では大倉幕府の館から鬼門方向に荏柄(えばら)天神、裏鬼門方向に元八幡宮。道潅の築いた江戸城の鬼門には柳森神社が、裏鬼門には日枝神社が配された
家康の築いた江戸城の鬼門には寛永寺、神田明神が、裏鬼門には増上寺、日枝神社

第2章        大火を呼ぶ江戸の地霊
他の城下町にはない江戸城の特殊なところは、西の丸 ⇒ 秀忠即位後も権力を保持し続けた家康の隠居所として造られた。明暦の大火でもここだけが焼け残る
大名屋敷は、300藩の上屋敷が「の」の字を書くように並べられた ⇒ 西の丸の道潅濠を隔てた吹上御殿の場所に御三家が尾張、水戸、紀伊の順に並び、現在の内濠が外濠の役割を果たす。現在の北の丸から大手町に至る一帯は北の守りとして譜代大名が、8代将軍の時に御三卿(田安、清水、一橋)ができたとき以降は御三卿の屋敷があり、大手町から日比谷にかけての内濠と外濠の間には初期の江戸幕府を支えた立役者ら、天海大僧正、古河藩土井家、津藩藤堂家、加賀藩前田家(明暦の大火後は本郷に移転)、佐倉藩堀田家など
日比谷公園の心字池に今も残る内濠の石垣が丸の内と霞が関を隔てる境で、霞が関から「の」の字の二巡目が始まり、米沢藩上杉家、広島藩浅野家、福岡藩黒田家などがあり、明暦の大火後は吹上が江戸城に取り込まれ、御三家が外濠一帯を埋め、赤坂御門が紀伊家、市谷御門が尾張家、小石川御門が水戸家となる
世界的にも類例を見ない火災都市 ⇒ 267年間に49回、次が京都の9回なので断トツ。小さな火事もいれると1798回。19世紀以降に986回と集中。最後の17年間で506回。権力低下に伴う治安の悪化が最大の原因。最初の大火は1601年で日本橋駿河町が出火元、次いで1641年の桶町火事で大名火消し制度創設の契機となる
江戸の大火の原因の1つは特に冬場の湿度の低さ ⇒ 14月で年間の7割が発生
1657年最大の明暦の大火(振袖火事)の火元は、本郷、小石川、麹町の3か所 ⇒ 本格的防火対策の一環として、吹上が江戸城の避難場所として吹上御殿となり、玉川上水の水を取り入れた大きな池が造成され、さらに大名に中屋敷や下屋敷の用地を与え、火事の際の避難所の役割を付与
1683年の天和(てんな)の大火(八百屋お七の火事)の火元は駒込の大円寺
町家には失火の危険性とともに、火災の際火元と疑われるところから、内風呂がほとんどなく、湯屋や風呂屋が繁盛。火を焚ける時間が暮六つ(6時頃)までという制限もあった
1704年の大火は、水戸家上屋敷が火元で水戸様火事と呼ばれ、吉宗による防火対策が実行される ⇒ 町火消が制度化、屋根の瓦葺き・土蔵造りへの変更
町人地の仕組みとその変化を理解するためには、銀座通り、特に西銀座通りとみゆき通りがよい ⇒ みゆき通りは、銀座通りから並木通りまで約120m=京間60間、その間を40m間隔で裏通り、スズラン通りと西五番街が通されているが、明暦の大火以降「新道(しんみち)」として通され、煉瓦街建設の際全て開通 ⇒ 銀座通りや並木通りには地下に上水としての樋管が通され、敷地境界線に沿って下水溝が設けられた。下水溝に蓋をして人が通れるようにしたところから、「ドブ板新道」と呼ばれる
西銀座通り(=電通通り)は、関東大震災の復興事業で拡幅されたが、もとは並木通りと同じ40m間隔で裏通りが出来ていた ⇒ 地主の吉田紙屋と小林時計屋が道路用地を提供
みゆき通りは泰明小学校のところから山下橋に向かって左に曲がっている ⇒ 銀座で唯一折れ曲がる場所。6代家宣の時(1709)浜御殿が将軍別邸となり、江戸城からのルートが重視された

第3章        成熟した江戸文化の開花
元禄の頃から、町人地が賑わい始め、そのシンボルとなったのが日本橋 ⇒ 魚河岸と薬や呉服の大店が集中
明暦の大火以降、火事対策として設けられたのが広小路 ⇒ 江戸橋、両国橋、上野など
火除(ひよけ)地と商店の集積の繰り返し
芝居街 ⇒ 中橋南地(なんち)の猿若座は、中央通りと八重洲通りの交差点で、八重洲通りは紅葉川が掘削されていた。後に人形町に移転。木挽町にも芝居街が
花街(かがい) ⇒ 1617年吉原(葭原)許可、人形町の土地下賜。明暦の大火で浅草寺裏へ移転
神田祭と山王祭は、行列が城内へと練り込み、将軍が上覧する「天下祭」として有名 ⇒ 神田明神と日枝神社が隔年で実施されたのは、共通の氏子が多くその負担を減らすため

第4章        幕末の動乱とその後の近代化(明治期)
大久保利通の大坂遷都に対し、江戸の価値を謳い上げたのは前島密 ⇒ 決定打は、高密度の人口を維持し続ける大坂に対し、政治と経済を一体化した土地利用を可能とする都市空間の有利さ。京都人の反発に配慮して、「遷都」と言わず首都を東京と定めたという意味の「東京奠都(てんと)」と言った
天皇を継承する可能性のある宮家として、世襲四親王家 ⇒ 伏見宮家、有栖川宮家、閑院宮家、桂宮家
霞が関から丸の内にかけての一帯は、明治10年代、皇居を護衛する目的から陸軍の練兵場とされたが、新首都の都市計画案に沿って、現在の日比谷公園が造成され、霞が関の官庁集中計画が進む
丸の内は、三菱が軍用地の払い下げを受け、84千坪を市区改正計画に基づき道路が整備され、馬場先通りと大名小路の交差点から順に1号館。。。と西洋建築が並ぶ
お堀に面した帝劇(横河民輔設計)と警視庁(辰野金吾、岡田信一郎ら)が帝都の新名所に

第5章        サラリーマンの誕生と郊外生活(大正期)
190607年。鉄道の国有化
都市基盤の整備と不燃化を視野に、88年内務省が市区改正条例公布 ⇒ 最初が上水道整備、次いで市電、さらに下水道整備
90年、東京駅設置の内務省訓令。14年駅舎完成。最初の鉄道は中央本線の延伸、山手線の開通は25
交通機関の発展をバックに、明治末から大正初期にかけて住宅立地の郊外化が進む ⇒ 19年、市街地建物法施行により土地の高度利用が図られ、大久保、淀橋、千駄ヶ谷、大井村などへサラリーマン層を対象とした高層アパートメントが登場
特色ある一戸建て住宅地の開発も進む ⇒ 20年、岩崎家の六義園周辺約54千坪の一部を大和郷として開発。元加賀藩前田家の下屋敷で、岩崎3代目久彌がユートピアを目指す

第6章        昭和モダンと「東京行進曲」
11年の地震被害の手当てが幸いして関東大震災では被害が少なかった丸の内に官庁や企業が集中、一大露店街が出現
425の橋が架け替え
公園をセットに不燃化された復興小学校が旧15区のうち10区に117校誕生し、校庭を広く使うと同時に災害時の避難場所となる
幹線道路整備 ⇒ 昭和通り、晴海通り、外濠通り(西銀座通り)
日本橋魚河岸の築地移転 ⇒ 銀座が食文化の街として成熟する要因になる
24年、内務相のもとに財団法人同潤会設立 ⇒ 耐震耐火、鉄筋コンクリートによる集合住宅で、押上、青山、渋谷、江戸川に建設
関西資本の流入 ⇒ キャバレーと関西割烹の銀座進出
デパートの銀座進出 ⇒ 24年松坂屋、25年松屋、30年三越
29年、「東京行進曲」(西条八十作詞、中山晋平作曲、歌佐藤千夜子、同名の映画主題歌)ヒット ⇒ 歌詞は時代を象徴する単語で鏤められた

第7章        焼け跡から高度成長の時代へ
瓦礫の処理のための掘割の埋め立てが復興の急務 ⇒ 日本橋の浜町川、東堀留川、銀座の三十軒掘川(本通りと昭和通りの間)を対象に、埋め立て後は区画整理して宅地化
繁華街の露天商を統合する形で長屋形式のバラックが各所に建ち始める
最初に銀座の名を入れた商店街は「戸越銀座」
高速道路の建設により、残された掘割の大半も消滅
風致地区 ⇒ 趣のある自然や人々の営みの風景を維持・保全するために、19年に都市計画法で特別に定めた地区で、東京では明治神宮内外苑、洗足、善福寺、石神井など10カ所
昭和30年代後半に改正された建築基準法により、100(31m)という高さ制限撤廃、銀座も52年に耐火建築促進法が施行され、地上11m以上の耐火建築物には補助金が交付、ビル・ラッシュの時代が始まる
地下の利用は、31年地下鉄開通に合わせて開業した商店街・神田須田町地下ストアが嚆矢
戦後最初に開通した地下鉄は54年の丸ノ内線

第8章        超高層の時代をむかえた現代東京
超高層の第1号は、68年竣工の三井霞が関ビル(147m)
1890年、浅草の公園内に竣工した凌雲閣の12階建てが高層建築の走り
58年の東京タワーが戦後初のランドマークとして、東京を3次元的な視野で捉える契機となる




江戸→TOKYO―なりたちの教科書 [著]岡本哲志
[掲載]20170423 朝日
 タモリが日本各地を訪ね、歴史の痕跡を探し、その街の成り立ちに迫るNHKの「ブラタモリ」が人気だ。本書は、この番組に何度も出演した著者が、徳川家康の都市計画から現代の日本橋再開発に至る東京の変遷をたどっている。
 寛永寺と増上寺は、江戸城を忌むべき方角の鬼門と裏鬼門から守るために作られたとされる。だが実際に江戸城天守閣の鬼門と裏鬼門の線上にあるのは、神田明神と日枝神社。著者はこの二社が、江戸城を守っていたのではないかとする。
 首都高速道路が江戸城の掘割の上に建てられ、新宿御苑を始めとする都心部の緑地帯は大名屋敷の跡地であるなど、江戸の町造りは現代とも密接に繋(つな)がっている。こうした興味深い話題が満載の本書は、まさに読む「ブラタモリ」である。
 歴史時代小説ファンは、舞台になった場所にどんな由来があるか分かるので物語がより深く理解できるし、本書を片手に東京を散策するのも楽しいだろう。


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