後美術論  椹木野衣  2015.6.22.

2015.6.22. 後美術論

著者 椹木野衣(さわらぎのい) 美術批評家。1962年秩父市生まれ。多摩美術大学教授

発行日           2015.3.25. 初版第1刷発行
発行所           美術出版社

初出 『美術手帖』201011月号、113,6,9,12月号、123,6,7,9,12月号、133,6,9,12月号に掲載

第1章        音楽と美術の結婚
黒田精機の油絵を美術と呼ぶのは自然だが、「アート」とは言わない
英語のARTなら、美術もアートも含まれる
アートは、美術ではないしARTでもない ⇒ 以後の叙述の出発点
急逝した美術評論家・若林直樹: 漢字は絵画と同じような視覚情報伝達機能を持ちつつ、普遍的な共感覚と共概念を獲得すべく開発された高度な絵文字、ピクトだ。外来語をめぐるそうした絵文字化を放棄してしまった現代の日本語の表音化(カタカナ化)については、面倒な訳語探しを棚上げする手抜きの目的で外来語を取り入れる安直さを生むとし、外来語単語の音を模倣するだけで概念レベルの意味理解を捨てている。その最たるものが和製英語という語彙ジャンルで、横文字言葉や意味不明の和製外国語は突き詰めると誰も意味の規定していない言葉で、このような単語を頻繁に組み込んだ日本語を使っていると、言葉とは正確な意味を伝えるものではなく、雰囲気を伝えるものだと思えてくる
これまで「美術」は、よかれあしかれ「美」と共にあったが、「アート」は意味から意義へ、音から絵文字への翻訳ではないので、空虚な音だけからなる表音文字の模倣でしかない
定義のないただの音で、誰もどう使われても規制できない
この音の「響き」を存分に活用することで、日本語のアートでしか可能にならないような、自由で無方向な文化の運動を思い描くことは出来ないか
本書は、オノ・ヨーコの前衛美術とジョン・レノンのポピュラー音楽という営みを、同じ「アート=後美術」と呼びうるような事態を目指して書かれている ⇒ 2人は
ともにアーティストであり、お決まりの制度によって隔てられない創造の地平があるはず
2人が一緒になってから生まれたそれぞれの作品は、互いに兄弟であり姉妹でもあって、それまでの前衛美術やポピュラー音楽にとって代わる存在に他ならない

第2章        新スロヴェニア芸術と動物園TV
東西ドイツが統合された1990103日にベルリンを訪れたアイルランドのロック・バンドU2によるツアー・プロジェクト「ZOO TV」と、翌年6月に独立を宣言したスロヴェニアの片田舎から出たアーティスト集団「ライバッハ」の活動の軌跡を辿ることで、今ある「美術」の〈後〉を展望する

第3章        スローターハウスの聖母(マドンナ)たち(前編)
第4章        スローターハウスの聖母(マドンナ)たち(後編)
第5章        残虐行為への展覧会
第6章        次は溶解だ(メルト・ダウン・イズ・ネクスト)(前編)
第7章        次は溶解だ(メルト・ダウン・イズ・ネクスト)(中編)
第8章        次は溶解だ(メルト・ダウン・イズ・ネクスト)(後編)
第9章        地獄と髑髏(へルター・スケルター)(前編)
第10章     地獄と髑髏(へルター・スケルター)(中編)
第11章     地獄と髑髏(へルター・スケルター)(後編)
第12章     「歌う彫刻」と「人間=機械(マン・マシーン)(前編)
第13章     「歌う彫刻」と「人間=機械(マン・マシーン)(中編)
第14章     「歌う彫刻」と「人間=機械(マン・マシーン)(後編)









後美術論 []椹木野衣
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音楽との関係解読、ジャンルの解体へ

 本書の第一印象は、20世紀のポピュラー音楽を美術的な文脈から解読するものに見えるだろう。例えば、第1章「音楽と美術の結婚」では、二つの半身が求め合うように夫妻となったジョン・レノンと現代美術家オノ・ヨーコを通じて、彼女のアートが彼の音楽にあたえた影響を指摘している。またロック・バンドU2による1992年のZOO TVライブが、メディア・アートに先駆けて、冷戦後の世界体制に対応した大規模なメディア・インスタレーションだったと論じたり、パティ・スミスと写真家ロバート・メイプルソープの交流、パンク・バンドのセックス・ピストルズの仕掛人マルコム・マクラーレンは美術の勉強をした後に状況主義者の方法論を誤用したことなどを語り、考古学者のごとく、美術史上のミッシング・リンクを次々と発掘していく。
 だが、本書は単に美術と音楽を交差させるものではない。アカデミックな美術史では捉えきれない、歴史に埋もれた事象を拾いあげながら、美術そのもののジャンルを解体する試みだ。もともと椹木は、デビュー作の『シミュレーショニズム』のほか、『ヘルタースケルター』や『原子心母』の著作で、ハウス・ミュージック、ヘヴィ・メタル、プログレッシブ・ロックなどを横断する批評を展開していたが、600ページを超える大著となった『後美術論』はその集大成というべき内容である。本書の冒頭で、彼は「ART」でも「美術」でもない、「アート」という言葉が和製英語であることを積極的に捉えなおし、「歴史や定義の重力から解き放たれた」響きを活用して、「自由で無方向な文化の運動を思い描くことはできないか」という。それが新しい表意概念としての「後美術」である。
 椹木の批評は、個人的なエピソードを交えながら、思考を飛翔(ひしょう)させていくが、本書のもとになった連載の途中で、311を迎えており、第3章では文脈を遮って、そのときに感じたことを唐突に挿入している。社会の動きと『後美術論』がシンクロした瞬間だろう。第68章「次は溶解(メルトダウン)だ」を経て、既成の制度にもとづくジャンルの壁は瓦解(がかい)する。最後は、人間=機械のテクノポップを志向するPerfume/クラフトワークと放射能/ギルバート&ジョージの歌う彫刻/マイケル・ジャクソン/自身を作品化したアンディ・ウォーホルのトピックが鮮やかに連鎖していく。誰も読んだことがない野心的な現代美術論だ。そして帰るべき家=ジャンルを失った椹木は、現在、『後美術論』の第二部として直接的に震災を論じる流浪篇(へん)を連載している。
    
 美術出版社・5184円/さわらぎ・のい 美術批評家、多摩美術大学教授。62年生まれ。著書に『日本・現代・美術』『シミュレーショニズム』『戦争と万博』、手がけた展覧会に「日本ゼロ年」展など。


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