ドクター・ハック 日本の運命を二度にぎった男 中田整一 2015.6.20.
2015.6.20. ドクター・ハック 日本の運命を二度にぎった男
Friedrich Wilhelm Hack
著者 中田整一 ノンフィクション作家。1941年生まれ。熊本県出身。66年NHK入局。プロデューサーとして現代史を中心としたドキュメンタリー制作に携わる。文化庁芸術最優秀作品賞、日本新聞協会賞、放送文化基金個人賞など受賞多数。退局後、大正大教授を経て執筆に専念。『満州国皇帝の秘録』(05年)で第60回毎日出版文化賞、第35回吉田茂賞受賞。『トレイシー――日本兵捕虜秘密尋問所』(10年)で第32回講談社ノンフィクション賞受賞
発行日 2015.1.21. 初版第1刷発行
発行所 平凡社
序章 神戸港に降り立った密使
1936年 2月東京に記録的な大雪。神戸に日独合作映画の撮影隊一行到着。監督は山岳やスキー映画の第一人者として知られたアーノルド・ファンク。その一行にプロデューサーとして加わっていたのがハックだが、真の狙いと素顔を知っている者は誰もいない
ハックの目的こそ、リッペントロップと大島浩陸軍駐独武官との間で進んでいた外交交渉だった
ハックは、日独合作映画『新しき土』(ドイツ名『武士(サムライ)の娘』)の影の立役者、原節子がスターダムにのし上がるきっかけとなった作品 ⇒ 当初は田中絹代の予定だったが、ファンクが京都の撮影所で直接原に会って決めた
第1章
フライブルク(「自由の砦」の意)
ハックは1887年フライブルクの生まれ。父は医学博士、母は児童文学者。プロテスタント。地元のギムナジウム(9年の中高一貫校)を「優」で卒業、ジュネーヴ、ミュンヘン、ベルリンの各大学で国家経済学を学び、フライブルク大学で経済学博士号取得。博士論文のテーマは中国の通貨と銀行制度。ファンクが同大学の2年後輩でいた
指導教授を通じて、満鉄の東京にあった東亜経済調査局(後の満鉄調査部)に就職の口を紹介され、顧問として満鉄にいたヴェーネフェルト(後にクルップの総支配人から駐米ドイツ大使)の秘書として採用され1912年に来日、ヴェーネフェルト帰国後はその後任として日本軍部の上層部とも知遇を得る
1914年 たまたま青島に滞在している間に日本が対独宣戦布告、ハックは文官の予備役中尉として従軍するが、3か月で青島が陥落、福岡俘虜収容所に拘束。日本語と日本への該博な知識を通して俄かに存在感が増し、その後5年間に及ぶ福岡と習志野の収容所での活躍が始まる
終戦を迎え、ハックには日本語の語学力を生かした青島包囲戦での活躍と収容所での捕虜と日本人との意思疎通に貢献したことが認められて第一級鉄十字勲章が授与されたが、ハックはそのまま日本に残り、解放直後に三菱製紙と、三菱グループがドイツを中心にヨーロッパへ技術視察団を派遣する際の水先案内人として契約している
第2章
二つの顔――武器商人と秘密情報員
『武士の娘』の題名は、杉本鉞子が1925年に出版した同名の本にヒントを得てハックが提案したもの
盟友酒井直衛との出会い ⇒ 軍人でも外交官でもなく、ベルリンの日本海軍武官事務所の書記に過ぎなかったが、情報収集と対外折衝にあたり、東京の軍令部にも名前が聞こえるほど、海軍事務所にとっては無くてはならない人。2人の信頼に結ばれた強い絆は、死の直前まで続く。合作映画もスイスにおける終戦間際の日米の和平工作もあり得なかった
リッペントロップが日本海軍に日独接近の第1歩を画策。その使者となったのが軍事ロビイストだったハックで、ハインケル航空機と日本海軍の仲介をし、1935年の山本五十六の訪独を促し、ヒトラー・山本会談は日本がヨーロッパの戦争に巻き込まれることを懸念した松平恒雄駐英、武者小路公共駐独両大使の反対に遭って実現しなかったものの、36年には日独防共協定締結に漕ぎ着ける
後にドイツとの3国同盟反対の急先鋒だった山本の中にも、すでにナチスへの警戒心が芽生えていたに違いない
ドイツが連合国と戦うためにロシアとの間に密約を結んだことから、滿洲進出を進める日本にとってはロシア勢力の極東振り分けが脅威となり、ドイツとの間に防共協定を結ぶ案が浮上、その先兵として大島が派遣された ⇒ 極東裁判では、大島がドイツ側から持ちかけてきたことを証言し、1票差で死刑判決を免れているが、ハックの覚書でも、また大島が死の直前インタビューに応じた際も自ら仕掛けたことを明言している
第3章
原節子と「武士の娘」
1935年 創立7年目にして全盛期を迎えようとしていた欧州映画の輸入会社、東和商事の川喜多長政・かしこ夫妻にドイツから日本初の国際共同制作の誘いが来る ⇒ 日独協会理事だった酒井直衛が大衆娯楽の映画によって日本文化の理解を図ろうと考えてハックに相談、ハックが後輩のファンク監督に話を持ち込まれ、多額の製作費で台所が火の車だったファンクが飛びついたもの
晩年は落魄の身となる運命のファンク監督にとって、監督人生の起死回生の映画となった
ハックは、ゲッペルスから製作費を引き出し、
川喜多かしこは、ドイツ側がナチスの支援を受けていることを45年経って初めて知る
ストーリーは単純な日本人の良家の子女と養子の恋物語だが、ゲッペルスの意向で国策映画の色彩が濃く出て、共同監督となった伊丹万作がファンクとことごとに衝突、ハーケンクロイツと日の丸が並んで強調される場面が日本の伊丹版ではユニオンジャックに差し替えられたりしている
当初主演予定の田中絹代は松竹で、配給権を確保するためには断念せざるを得なかった
脚本の相談に乗ったのは、ドイツ大使館の書記官ハンス・コルブ博士
伊丹は、芸術性とかけ離れた異質なテーマの映画を作らねばならないことへの精神的な苛立ちから現場にも顔を出さなくなり、川喜多の決断で日本版とドイツ版、2つの作品を作ることにした
音楽の作曲は山田耕筰、演奏はファンク版が新交響楽団、伊丹版が中央交響楽団
第4章
二・二六事件と日独接近
ドイツ撮影隊来日直後に二・二六事件勃発
滞在中の平河町万平ホテルは反乱軍占拠地域にあり、滞在者は全員拘束された
ハックは、ドイツ紙の東京特派員でドイツ大使館の駐在武官・オット大佐の私設の政治顧問だったゾルゲと頻繁に接触
ハックの本来の来日目的で、陸軍の独断で交渉が先行していた日独防共協定の話も、ゾルゲからモスクワに筒抜け
第5章
運命の岐路
二・二六直後、ハックは満洲に亘り皇帝溥儀(西太后の甥の息子)と会見、溥儀からは関東軍に対する不満がでたが、ハックの真の目的は、満洲国を通じての日独経済協力の実現にあった ⇒ 滿洲大豆を輸出する代わりにドイツの工業製品を満洲に輸入
第6章
漏洩した日独の秘密
1935.12. イギリス共産党の機関紙が「日独秘密協定」の存在を暴露
大島武官と東京の参謀本部との暗号電報がナチスの秘密機関に傍受され、それがソビエト赤軍の諜報機関に漏れた
大島とリッペントロップの間で始まった日独交渉は、1936年1月になって漸く日本の陸軍、海軍、外務省のすべてが知るところとなる
1937年2月(日本)、3月(ドイツ)で封切られた合作映画は空前の大ヒット、新聞も大絶賛
ナチス外国組織部の東京支部が、ハックの隠密行動を不審に思って密告 ⇒ 37年7月ハックがゲシュタポに逮捕。ナチス内部の政治的抗争の犠牲となった格好。酒井の奔走で日本大使館が動き、ハインケルの新規購入計画をダシに釈放に成功。そのまま日本海軍の斡旋でスイスに移住、その後の航空機の大量購入の手数料と併せ、晩年のハックを支える
ハックは、ヒトラーの政治的野望がもたらす脅威を鋭く洞察、日本がドイツによって戦争に引きずり込まれることを予言、日本がドイツの軍事的潜在能力を過大に評価していると警告、ドイツの敗戦を確信し、酒井に対しても3国同盟締結の愚を諭した
第7章
スイスの諜報員
一人の外国人で、戦争中、ハックほど日本の講和をいち早く説き、終戦を案じ続けた人物は稀 ⇒ 日米開戦の愚を説き、戦争をしている当事者間に秘密の接触と確実な連絡を保つことの重要性を強調していた
日本海軍を命の恩人と思い、スイスから情報を発信し続ける ⇒ 開戦以来ベルリンの日本海軍武官府宛に28通の膨大な量の戦況報告書を送っている
アメリカに帰化して、アメリカ戦略情報局OSSの欧州における責任者だったアレン・ダレス(後のCIA長官、国務長官フォスター・ダレスの弟)の秘書となって反ナチス抵抗運動に加わっていた恩師の息子ゲーロー・ゲヴェールニッツと再会、その仲立ちでダレスとも会見、対米和平工作作戦(サンライズ作戦)への端緒となる
第8章
和平工作とハック
1945.4.1. 米軍による沖縄上陸作戦開始
4月23日 ハックは、ベルリンの日本公使館付き海軍武官補・藤村義朗(本名義一)からアメリカとの和平工作について正式に仲介の依頼を受け、直ちにダレス機関の有力者と接触、日米の直接和解によって日本が戦争から抜ける道を探る
最初の和平工作の動きは43.9.で、ベルリン駐在海軍武官の命令により酒井がハックに申し入れ
藤村の和平工作関連の記録は、48年ダレスの了解をとった上で、『米国代表ダレス氏との米日直接和平交渉』という陳述記録として残されている
既に2月のクリミア会談で、ソ連はアメリカの強い意向を受け入れて対日参戦を決定済み
藤村はダレスに直接会って和平工作を持ちかけ、ダレスはワシントンの了解を取るまでになったが、日本の海軍省からの返電は下僚局員からのもので、陸海軍を離間させようとする敵側の謀略故に注意せよとの内容、軍務局長にも伝わっていなかった
海軍省にはダレスに関する情報が全くなく、米内海軍大臣も和平交渉については慎重にとの訓令を発出
藤村の巻き返しにより、和平交渉の可能性を知った海軍省のトップは、交渉の主導権を外務省に移管
ベルリン海軍武官府の独断で始めた和平工作であり、直接携わったのが補佐官の中佐であったことも、海軍省全体を動かすまでには至らなかった原因
第9章
刀折れ矢尽きて
45.7. ゲヴェールニッツがハックからの情報として、「陸軍の強い反対が終戦への決断を鈍らせている」とのCIA内部保存文書がある
終戦工作に加わったスイス日本公使館の加瀬俊一公使についてハックはダレス機関に対し、「政府に怯えきっていて分別も知性もない、三流の輩」と報告している
同時に陸軍ルートからもダレス機関に和平工作を働きかけていた ⇒ 国際決済銀行に出向していた理事を通じてスウェーデン人ペル・ヤコブソンに仲介を依頼。ダレス機関はハックに参加を要請
終章 ハックの遺言
晩年をチューリッヒで過ごしたハックは持病の高血圧に苦しみ、スパイだった過去の幻影に脅かされ、ナチの残党からの追跡を逃れた恐怖の日々を過ごしながら、次第に精神を病んでいき、1949年死去
ゲーローが、ハックを追悼して戦後20年目に書いた手記『原爆は本当に必要だったのか――スイスにおける米国、ドイツ、日本の諜報員たちの秘密接触 広島の3か月前』の最終章が、ハックの人生を的確に物語っている
ハックが、身を捨てて守ろうとした日本は、戦後70年を迎え、再び戦争への道を1歩踏み出して、歴史の岐路に立とうとしている
ドクター・ハック 中田整一著 日米和平交渉にも関与した独スパイ
2015/3/22付日本経済新聞朝刊
本書は、一人のドイツ人の行動を通じて、20世紀前半の日独関係史をたどろうとする魅力的な歴史書である。ドイツ人の名はフリードリッヒ・ハック。日独関係の現代史に通じる人でなければほとんど無名の人物であろう。しかし、その人生行路は複雑極まる。
(平凡社・1700円 ※書籍の価格は税抜きで表記しています)
フライブルク大学で経済学博士号(ドクター)を取得した知識人であり、来日して満鉄で働く傍ら、日本語を修得、第1次世界大戦時には青島の日独戦で捕虜になり福岡俘虜(ふりょ)収容所に収容される。そこで将校らの脱走に加担し、軍法会議を経て一年ほどの懲役刑に服している。戦後は流暢(りゅうちょう)な日本語を活(い)かして日独兵器貿易に従事し、同時にドイツ国防省防諜(ぼうちょう)部の諜報員となる。要するに、武器商人でありスパイであった。
その後ハックが日独関係の裏面に残した軌跡は極めて興味深いが、詳細は本書に譲る他はない。ここでは二つの事例を挙げるにとどめよう。一つは、1935年9月に始まり、翌年11月に調印された日独防共協定の交渉で、日独の非公式な橋渡しをしたことである。交渉中盤でハックは日本に派遣され、日本の当局者との根回しをしているが、訪日は日独合作映画『新しき土』の制作を表向きの理由としていた。日本では原節子のデビューに立ち会い、さらに二・二六事件の一部始終を平河町の万平ホテルから実見した。
もう一つは、戦時中スイスで従事した日本と連合国の間での和平工作である。37年末、ナチス内部での権力闘争の巻き添えを喰(く)う形でハックはスイスへの亡命を余儀なくされるが、ベルリン駐在日本海軍武官府はその後もハックを貴重な情報源として活用した。一方ハックの側は、真珠湾奇襲攻撃後、日本に対して早期に連合国と講和することを期待し、アメリカ合衆国の在欧州諜報機関である戦略情報局(OSS)およびその長アレン・ダレスと緊密な連絡をとっていた。45年5月7日のナチス・ドイツ崩壊と前後して、ハックを通じた日米交渉が開始される。しかしその交渉は、日本本国の上層部が同ルートを過小評価したことにより、最終的には潰(つい)え去ってしまう。
本書は、ハック自身が残した文書や、日本の地方新聞、戦略情報局文書、関係者の自伝・回想録、当事者へのインタビューなど各種史料を縦横に用いてハックの数奇な運命をたどり、現代日本への警句をも含みながら、歴史の深淵を見事に照射しているといえよう。
(成城大学教授 田嶋 信雄)
Wikipedia
フリードリヒ・ヴィルヘルム・ハック(Friedrich Wilhelm Hack, 1887年10月7日[1] - 1949年)は、ドイツのブローカー・政治工作者。1920年代から1930年代にかけて大日本帝国海軍にドイツ航空機の売り込みを行い、その関係を利用して日独防共協定のきっかけを作った。また、1941年の真珠湾攻撃の直後から日米間の終戦工作を行った。国家学の学位を持っていた[1]ため、「ドクター・ハック」と通称された。
経歴[編集]
1887年にフライブルクで生まれる[1]。1912年にフライブルク大学の経済学部を卒業すると、オットー・ヴィートフェルト
(Otto Wiedfeldt) の秘書として極東に赴く[2]。1912年より南満州鉄道東京支社の調査部に勤務した[3]。第一次世界大戦では義勇兵として青島に参じ、予備陸軍中尉[3]・膠州湾総督府のスタッフ(通訳・情報収集)となる[4]。青島の戦いにドイツ軍が降伏したことで日本の捕虜となり、福岡俘虜収容所に送られた(送られる途中の薩摩丸船内では青島篭城の講義も行う)[要出典]。日本語が話せたハックは、そこでも通訳を務めた。福岡収容所時代に、被収容者のドイツ将校4名の脱走を助けたとして1916年1月の軍事法廷で懲役1年6か月の判決を受けるが、のちに13か月に減刑されて1916年12月に仮出獄、福岡収容所に戻る[3][5]。1918年3月に習志野俘虜収容所に移り、その地でドイツ休戦による俘虜解放の日を迎える[3][6]。
1920年ドイツに帰国。ハックは退役陸軍少佐でクルップ社の日本代表の経歴も持つアドルフ・シンツィンガーと共に、シンツィンガー&ハック商会
(Schinzinger & Hack Co.) を設立した[4]。ハックはこの会社を通じて日独両海軍の技術面での情報交換を進めることになる。大木毅はその背景として、日英同盟の廃棄でイギリスの技術導入が見込めなくなった日本と、ヴェルサイユ条約で潜水艦や航空機の保有を禁止されたドイツとの利害の一致があると指摘している[7]。ハックと日本海軍の接触は、1920年に渡欧した三菱の技術者を案内したことが記録に残る最初で[8]、1921年頃にはベルリンの日本海軍事務所の顧問のようになっていた[9]。ハックは日本海軍にハインケル社の航空機などを売り込み、関係を強めた。さらに1923年には当時のドイツ海軍統帥部長官、パウル・ベーンケ(de:Paul Behncke)大将を説き伏せ、日本海軍に技術を供与する意向がある旨を伝える書簡を書かせ、帰国する駐独大使館付海軍武官・荒城二郎に手交させた[10]。またハインケル社とも密接な関係を築き、後には同社の対日代表にも就任した[11]。
1934年、ベルリン日独協会の会員であったハックは、第二次ロンドン海軍軍縮会議予備交渉のために訪欧中の山本五十六とドイツ海軍総司令官エーリヒ・レーダー、軍縮問題全権ヨアヒム・フォン・リッベントロップとの会談をセットした。
1935年、駐独大使館付陸軍武官の大島浩と会談、大島とのリッベントロップとの会談を成立させた。また、同年10月には大島、国防軍情報部長のヴィルヘルム・カナリス、国防相ヴェルナー・フォン・ブロンベルクと共にフライブルクでの日本との軍事協力に関する会合に参加し、11月15日のリッベントロップ邸での会談にも参加した。出席者はリッベントロップ、大島、カナリス、ナチ党外交部のヘルマン・フォン・ラウマー (Hermann
von Raumer) らであった。
1936年2月8日に宣伝大臣ヨーゼフ・ゲッベルスに後援された日独合作映画『新しき土』の撮影チームとともに来日した。この際、彼はリヒャルト・ゾルゲがソ連軍スパイであるとも知らずに日独軍事協定締結交渉のために来日したことを暴露した。
1936年11月25日、ハックらの努力が実を結び日独防共協定が締結される。
1941年12月、太平洋戦争が始まると、戦争の終結を目指し活動を再開する。そして、米戦略局(Office of Strategic Services、略称OSS)のアレン・ダレス(後のCIA長官)と接触、以降、ベルリン海軍武官室の酒井直衛や藤村義朗中佐らとダレス機関との交渉の準備・仲介を行う。本国の日本海軍側が「アメリカによる陸海軍の離間策」を疑ったため、交渉は成立しなかったが、終戦直前まで工作を行った。また、1945年3月頃にスイスの国際決済銀行理事で横浜正金銀行職員だった北村孝治郎とOSSの工作員を自らの仲介で引き合わせたことが、ダレスがアメリカに送ったレポートに記録されている[13]。北村は後にスイス駐在陸軍武官の岡本清福中将からの依頼で、同僚の吉村侃とともに(日本公使館の加瀬俊一公使の内諾も得て)、国際決済銀行顧問のペル・ヤコブソン
(Per Jacobsson)
を介してダレスと和平のための接触を持つことになるが、その動きにもハックは関係していたことになる。
1949年、スイスのチューリッヒで客死。生涯独身だったため、最期を看取ったのは甥だった[14]。「私は死んでも墓はいらない、名前もいらない。流浪の旅人となって消え去るだけだ。それが私には一番ふさわしい」という言葉を遺し、故郷フライブルクの中央墓地に作られた墓には名前も刻まれなかった。1986年にNHKテレビの取材班が訪れたときには、ハックの墓があった場所はすでに他人の墓所になっていた[15]。
脚注[編集]
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2.
^ NHK“ドキュメント昭和”取材班、p.20,
#大木ハックp.22. 元海軍嘱託の酒井直衛が戦後に記した『ウェスタン・トレーディング株式会社小史「二十年のあゆみ」』にはヴィートフェルトを「ヴィーネフェルト」と記されたため、それに近い表記を採用した文書(『ドキュメント昭和』など)もある。また、酒井の回想ではヴィートフェルトは「南満州鉄道(満鉄)総裁の後藤新平から満鉄の顧問として招かれた」とあるが、ヴィートフェルトが台湾原住民について記した論文を紹介した文章においては、「日本の鉄道省顧問として1911年に来日し1914年にドイツに戻った」とある[1]。後藤が満鉄総裁の職にあったのは1906年から1908年までであり、1911年当時は鉄道院の総裁を務めていた(なお、鉄道院が鉄道省に昇格するのは1920年である)。これに鑑みると、ヴィートフェルトは満鉄ではなく鉄道院の顧問であったとみられる。
3.
^ a b c d ドイツ人俘虜人名・位階・官職・前職等一覧(小坂清行のホームページ)。なお、満鉄東京支社時代に「総裁の後藤新平の秘書を勤めていた」とあるが、上記のとおり当時の後藤は満鉄総裁ではない。
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