スペイン無敵艦隊の悲劇  岩根圀和  2015.6.17.

2015.6.17. スペイン無敵艦隊の悲劇 ~ イングランド遠征の果てに


著者  岩根圀和 1945年兵庫県生まれ。神戸市外大修士課程修了。神奈川大名誉教授

発行日           2015.3.30. 第1刷発行
発行所           彩流社

まえがき
「無敵艦隊」という呼び名は、スペインの資料にはないし、当時誰も「無敵」とは思っていなかったが、戦闘終了直後にイングランドで出されたパンフレットに使われたのがきっかけで世界中に広まった。スペインではただの「Armada艦隊」
実際には初戦で敗退
正式な宣戦布告もなく、兵士は新大陸へ向かうとして集められただけ
世界史上4大海戦の1つと言われるが、実態は意外に知られていない
イギリス艦隊がそれほど強力だったわけでもなく、激闘が行われたこともなく、スペイン艦隊は飢えと渇きと病気、そして悪天候による強風と嵐による難破の被害がほとんど

序章 フェリペ2世の崩御
15989月 フェリペ2世が42年にわたって統治したあと崩御

第1章        スペイン艦隊総司令官メディナ・シドニア公
15882月 メディナ・シドニア公がスペイン艦隊司令長官拝命
イングランド遠征を最初に進言したのは歴戦の勇者サンタ・クルス公アルバロ・デ・バサンで、フェリペ2世は1583年にポルトガルを併合して得た艦船と併せて、イングランド遠征艦隊の立案を命じたが、あまりの規模の大きさに躊躇
ドレイクを始めとするイギリス海賊による掠奪行為にスペインが手を焼いていた
1568年 メキシコのサン・ファン・デ・ウルア港で、イングランドの海賊が占拠したところに奴隷貿易のスペイン船が入港しようとして交戦。この時辛くも逃げ延びたドレイクがその後長期に亘ってスペインを苦しめる
スペインとイギリス間には古くから商業取引が盛んに行われていたが、エリザベス女王がポルトガルの王位を僭称するドン・アントニオの後ろ盾になって両国の交易を邪魔するに至って、両国の国交が閉ざされる

第2章        イングランド遠征計画
イギリスが有力貴族を含んだ王室ぐるみで私掠船団を編成してのカリブ海での海賊行為はますますエスカレート、最終的にスペインがイングランド遠征を決断する契機となったのは、ドレイクがスペイン本国のビーゴを襲撃した1586年のこと。その前年にはスペイン領のオランダにイギリスの軍勢が上陸している
特に、新大陸からの船団を襲う国家ぐるみの海賊が頻繁に出没するに至って、フェリペ2世も災いの根源を絶つべく決断

第3章        サンタ・クルス侯の死去
フェリペ2世が艦隊の出撃を急がせたが、スペイン大西洋艦隊総司令官だったサンタ・クルス公は冬場の出撃を嫌って動かず、そのうち15882月チフスに罹患して逝去
後任がメディナ・シドニア公 ⇒ スペイン随一の裕福な貴族、艦隊の遠征に不可欠な兵站部について誰よりも詳しく実績もあったが、一旦は航海経験がないと言って断るもほぼ既成事実としてフェリペ2世の出撃計画を遂行する

第4章        メディナ・シドニア公に王室旗の譲渡
15884月 リスボンにて総司令官就任の宣誓式の後、イングランドに向けて出港
目指すのはロンドン東部のマーゲイト岬、そこでフランドル軍を率いる総督
パルマ公と合流してイングランドを攻撃する

第5章        コルーニャ出撃 721
冬の海に手こずって、イベリア半島西北端のコルーニャを出港したのが7

第6章        プリマス沖戦闘 731
イギリス海峡では早朝から昼まで潮は西へ流れ、午後からは東へ逆流となる
スペイン艦隊が最初にイングランドに着いたのがプリマス湾
帆船同士の戦いでは、風上が絶対有利とあっていち早く風上の西に位置したのがイギリス艦隊。両軍合わせて200隻の帆船が砲撃戦に入るという人類史上初めての海戦だが、続いたのは2時間で、砲撃の効力もほとんどなかったと言っても過言ではない

第7章        スペイン艦隊の大砲その他の火器
艦船に搭載されていた大砲は、カノン(キャノン)砲とカルバリン砲 ⇒ カノン砲は大型の野戦砲で、波動する不安定な洋上では効果が薄いが、スペインはこれを主戦力とした。イギリスが主戦力としたのはカルバリン砲で、射程距離が最大6㎞と最も長いが、命中率・破壊力は問題外で、有効射程距離は600m前後

第8章        「ロサリオ」放置事件
戦闘中の2時間にスペイン艦隊では火薬爆発による火災が1件、衝突事故によるマスト破損が1件発生し、4番目に大きな花形の主力艦を放棄せざるを得なくなる ⇒ ドレイクに拿捕される

第9章        ポートランド沖戦闘 82
スペインが最初で最後の風上に立つ好機を迎えたが、イギリス艦船が軽快な操船技術で射程距離外へと去る
砲撃は5時間ほど続いたが、イギリス側の弾薬不足で自ずと戦闘は収まる

第10章     カレー沖 88
カレーから先の沿岸は浅瀬が複雑に入り組んでいるので喫水の深いガレオン船には魔の領域だったため、潮流の激しい危険な場所ではあったがスペイン艦隊は停泊を決意。同時に30㎞先のダンケルクにいたパルマ公が合流することを期待したが、なぜか動かず
イギリス海峡では常に西風が吹いているので、風上のイギリス艦隊を突破してスペインに戻ることはほとんど不可能
カレー沖に停泊しているスペイン艦隊に対して、イギリス軍は火船攻撃を仕掛ける
7隻の火船による攻撃で、130隻のスペイン艦隊は慌てて錨索を切断、260個余りの錨をカレー沖の海底に残したまま東へと動き始めるが、逃走の混乱が艦船同士の衝突を多発し、航行不能となったり座礁したりしてイギリス軍の餌食となる

第11章     出撃してこなかったパルマ公
パルマ公には、河川仕様の小さな箱船しかなく、最初からスペイン艦隊が海峡を掃討して渡峡船団を護衛するものと考えていた
もともとイングランド遠征よりも自分が鎮圧に苦労しているネザーランド反乱軍の掃討を先にすべきというのがパルマ公の主張だった

第12章     グラベリーヌ沖海戦 88
とどめを刺す好機と見たイギリス艦隊が接近を開始
最大の海戦となって、スペイン艦隊が四散したが、イギリスにとってもスペイン艦隊の撃滅は最終目的ではなく、スペイン軍の上陸を阻み、風下へ追いやれば十分だった

第13章     北海からスコットランドへ
風下に追いやられたスペイン艦隊を待ち受けていたのが、ダンケルクから先15㎞に北東に広がるゼーラントの魔の浅瀬。北西の風と潮流に乗って浅瀬で自滅するのをイギリス側は待つのみ ⇒ 風が南西に変わったためスペイン艦隊は北に進路を変えて浅瀬を脱出
パルマ公の合流がない段階での採るべき進路は2つ、再度イギリス海峡へ引き返してパルマ公との合流を目指すか、北海からスコットランドを迂回して3600㎞先のスペインに戻るか ⇒ 風向きが変わらない以上スペインに戻るしかなかった
イギリス艦隊も弾薬と食糧が底をついていたので、スペイン艦隊に悟られないよう黙って追尾を続けていた
スペイン艦隊のより深刻な問題は食料と水の欠乏で、補給地を確保していない非常識は戦略の弊害が重くのしかかるが、食料と水の厳格な統制が始まる
スペイン艦隊は、沿岸航行には熟達していたが、満足な海図も持たず天測航法に熟達した者はほとんどいない中では、艦隊編成の厳格な維持が必須

第14章     フランシスコ・クエジャルの苦難
北海を北上する中にあって、不注意から艦船2隻が旗艦より3.6㎞も先に出たため、隊列を乱すとして艦長が処刑 ⇒ 「サン・ペドロ」の艦長クエジャルは戦争中の功績が認められて降格で済む
無罪放免となったクエジャルの乗せられた船がアイルランド沖合で隊列から落伍、嵐で陸地に打ち上げられ、多くの乗員が原住民にとどめを刺された。クエジャルのみ幸運にも生き残り、敬虔なキリスト教徒に助けられ、スコットランド経由ダンケルクに戻って漸くスペイン領に逃げ込んで命拾いをする

第15章     アイルランド沖難破、消えた54
スペイン艦隊の損失は、コルーニャ出港直後の嵐で4隻、イギリス海峡では7隻を失った(戦闘による被弾で沈んだのは1隻のみ)ので、119隻が北海経由帰還の途に就いたが、メディナ・シドニア公の最終報告書ではスペインに無事帰還したのは65隻。残りの54隻が帰途遭難
夏には珍しい嵐と豪雨と濃霧で全体の編成を保てなくなり24隻が離脱、921日には総旗艦がイベリア半島北部のサンタンデール港に投錨
遭難した54隻の大半はアイルランドに漂着し、イギリス軍や原住民の殺戮に遭って命を落としており、詳細な記録はない
帰還兵の総数は1万人を割り込み、ほぼ半数が戻らなかった ⇒ 純粋に戦死と呼べるものは千人に満たず、他は病死、溺死、虐殺
スペインの記録に対し、イギリスの艦船に関する詳細は不明な部分が多い ⇒ 戦死者は100人を越えないという説もあるが確証はない

第16章     スペイン艦隊のその後
両国間に正式な宣戦布告はなく、スペインにしてみれば勝ったわけでもなく負けた訳でもなく、全てはうやむやに始まってうやむやに終わった
戦争を仕掛けたフェリペ2世は、深刻な病気にあったが、作戦の失敗を冷静に受け取っていたのは間違いない
メディナ・シドニア公も病床にあって帰宅療養の許可を求め、国王も許可する
カレー沖でスペイン艦隊に待ちぼうけを食らわせたパルマ公には非難が集中、贖罪のためか捕虜の身代金を気前よく払い、89年末には多くの解放された兵士たちの帰還が始まる
1595年ドレイクがカリブ海で病死の朗報も束の間、翌96年にはイギリス艦隊がオランダと一緒になってイベリア半島南部のアンダルシアに出現、ジブラルタルの北の港町カディスに上陸・占拠、同地方の沿岸警備総司令官だったメディナ・シドニア公が再び立ち向かい、身代金を支払うことで漸く英蘭軍は撤退

終章 メディナ・シドニア公の死
その後もゼーラントにおけるオランダ反乱軍との戦いは激しさを増し、アフリカ沿岸のバーバーリーは不安状況が続いてイスラムの海賊がスペイン沿岸の村を脅かして止まるところを知らなかったが、イングランドとの戦争はエリザベス女王没後の1604年には終わりを告げる
メディナ・シドニア公は、最晩年の1615年貴族として最高の栄誉である金羊毛騎士に叙任せられ、直後に死去。享年66
フェリペ2世は1598年死去までにもう3度艦隊を派遣 ⇒ 1596年の第2回目はアイルランドのカトリック援助が目的だったが、11月に出港したため嵐に遭ってポルトガルへ吹き戻され失敗に終わる。翌97年第3回目はファルマスに上陸してコーンウォールを占拠する計画だったが、またしても猛烈な嵐の逆風に遭って帰還。最後の第4回目は国王死去の直前で、フランドルのスペイン軍増強のためだったので、イングランド攻撃が目標ではなかった
イングランド側にもドレイク没後は、スペインの財宝船を襲うだけの度量のある指揮官も戦力もなく、双方ともに人員と経費の無益な消耗を嫌い、戦いは自ずと静かに終わりを迎え、やがて和平条約が結ばれる




スペイン無敵艦隊の悲劇 岩根圀和著 敗者の資料精査し海戦を再構築
2015.5.3. 日本経済新聞
 世界史上の四大海戦の一つと言われる「ドーバーの海戦」。1588年にスペインとイギリスが国家の威信をかけて戦った海戦で、覇権交代のきっかけとして知られる。結末は約3万人の将兵を乗せた約130隻のスペイン艦隊がイギリス海峡でイギリス艦隊に撃破され、帰還したのは65隻、将兵1万3千人。スペインの惨憺たる敗北であったという。
 しかし、この戦史はイギリス側の資料に準拠したものである。ちなみに「無敵艦隊」という名称は、戦闘後にイギリス側が皮肉を込めて付けたのであり、スペイン側は「艦隊(アルマダ)」と呼んでいた。本書は、スペイン側の資料を精査。従来の資料を睨みつつ、この海戦を再構築し、新たな見方を示す意欲作だ。
 総司令官シドニア公の作戦はフランドルに駐屯中のパルマ公軍に6千人の補充兵を送り込み、同時にイギリスへ進攻するパルマ公軍の渡峡船団を警護することであった。イギリス側の作戦は、「艦隊」の上陸を阻止することであった。
 7月31日、イギリス海峡入口のプリマス沖、7キロに広がる防衛陣形をとって進む130隻の「艦隊」と80隻のイギリス軍が激突する。大型の花形戦艦2隻が衝突事故と火災事故で喪失。だが、「艦隊」は、イギリス艦隊に追尾されながらも、そのまま狭い海峡を航進し、目睫(もくしょう)の間のパルマ公軍との合流を図るが、何故か、パルマ公軍が出撃しなかった。虎口を脱出した「艦隊」は北海へ入り、スコットランド北端から西へ、アイルランド沖を南下し、スペインまで3600キロ航海することになる。結局、スペインが喪失した艦船は7隻であった。
 しかし、この「動く要塞」と怖れられた「艦隊」は、8月13日から18日まで続いた途轍(とてつ)もなく激しい嵐に襲われ、難破、座礁などで、54隻を喪失する。乗員は溺死するか、漂着地で待っていたのは殺戮の地獄であった。こうして「艦隊」は、海の藻屑と消えてしまった。
 この海戦の結果は、果たして敗北なのか、あるいは遠征の失敗だったのか。実は、この海戦後40年間もスペインの大西洋支配は不動であった。この敗北に致命的な瑕疵があるなら、それは1492年のグラナダ制圧以来、軍事行動は国民的「十字軍」であるという信念に深刻な動揺を与えた点である。この海戦史の例を出すまでもなく、現在まで幾多の大戦争の結末は戦勝側の戦史のみが歴史として刻印されている。それが敗者側の戦後処理に重大な影響を与えていることも忘れてはならない。
(彩流社・3500円)
 いわね・くにかず 45年兵庫県生まれ。神奈川大名誉教授。著書に『物語 スペインの歴史』など。
《評》法政大学名誉教授 川成 洋


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