両大戦間の日仏文化交流  松崎碩子他編  2015.5.15.

2015.5.15. 両大戦間の日仏文化交流
Revue Franco-Nipponne 別巻

編者
松崎碩子 東京都生まれ。ソルボンヌ大学博士課程前期修了。コレージュ・ド・フランス日本学高等研究所前所長。『フランス士官が見た近代日本のあけぼの』(2005)、『満鉄と日仏文化交流誌『フランス・ジャポン』』(2012)、復刻版『Revue Franco-Nipponne(2014)
和田桂子 1954年兵庫県生まれ。神戸大大学院文化学研究科博士課程単位取得退学。清泉女子大英語英文学科教授。比較文学。
和田博文 1954年横浜市生まれ。神戸大大学院文化学研究科博士課程中退。東洋大日本文学文化学科教授。文化学・日本近代文学。『シベリア鉄道紀行史』(2013、第39回交通図書賞歴史部門受賞)

発行日           2015.3.16. 印刷     3.25. 第1版第1刷発行
発行所           ゆまに書房

編者3人による座談会 「両大戦間の日仏文化交流」             2014.9.19.パリにて
両大戦間とは
     始期      1918年第1次世界大戦終結時
     終期      1939年第2次世界大戦開戦時
1.    19世紀後半の日本研究――レオン・ド・ロニを中心に
クロード=ウジェーヌ・メートル ⇒ 世界旅行の途上日本に立ち寄り、19世紀末から20世紀に移る頃に日本研究を始めた人。「大和の美術」を発表。1908年フランス極東学院院長となり、極東から日本研究情報を発信
1947年 松尾邦之助がロニを日本文化の最初の紹介者と位置付けているが、ロニは独学で日本語を勉強したため、きちんとしたメソッドもなく、本当の意味で日本語が出来たのかどうか疑問

2.    1920年代の日本社会――『巴里週報』『ルヴュ・フランコ・ニッポンヌ』成立の基盤
1914年以前のパリ在住日本人数は2桁 ⇒ 1922年以降急増、25年には戦前では最大の836人へ。それを背景として1925年日本語新聞『巴里週報』が発刊される
ソルボンヌで漸く日本側(三井高棟)が資金を出した日本文学講座開講 ⇒ 講師は、ボアソナードの後任として明治政府のお雇い法学者となったミシェル・ルヴォン。法政大学の前身・和仏法律学校で教えたこともあり、パリ大学で葛飾北斎や華道の研究で博士号取得
『巴里週報』の発行者は石黒敬七 ⇒ 192533

3.    『ルヴュ・フランコ・ニッポンヌ』の探索と複数の謎
1920年代後半から、日仏知識人の複数の共同作業が始まり、その成果の1つが1926年創刊の『ルヴュ・フランコ・ニッポンヌ』 ⇒ 1930年まで続く

4.    松尾邦之助とスタイニルベル=オーベルランの翻訳――テクストの再構成
1920年代後半から松尾邦之助の日本文学文化のフランス語への精力的な翻訳活動スタート ⇒ 『其角の俳諧』(27)、『枕草子』(28)、『能の本』(29)
オーベルランが、翻訳されたフランス語を直した

5.    フランス・ハイカイ詩と都市モダニズム詩人――季語、シラブル、戦争
ヨーロッパで日本の俳諧に対する関心が目立つようになるのは20世紀の初頭から
フランス・ハイカイ詩の起源は1905年『水の流れのままに』
1936年 高浜虚子渡仏 ⇒ 「季語」だけは譲れないとしたが、フランス人には必ずしも受け入れられない。虚子は帰国後『ホトトギス』に「外国の俳句」というコーナーを作って俳句の真髄を全世界に広めようとする
フランス・ハイカイ詩が日本に逆輸入されて、日本の俳壇に影響を与えた面もある

6.    『フランス・ジャポン』と日仏知識人の交流
1934年『フランス・ジャポン』創刊 ⇒ 1940年まで続く。名目上は「日仏同志会」の発行だが、実態は満鉄が対外宣伝誌として支援
1936年フランス人民戦線内閣の成立で、日本のファシズム台頭への批判が強まるが、文化は文化、文芸は文芸として日本を見る態度が大勢 ⇒ 『フランス・ジャポン』も両国知識人の微妙なバランスの上に成り立っていた

7.    パリの文化交流誌と、ロンドン・ベルリンの文化交流誌
『日英新誌』(191538)は経済が中心、『独逸月報』『日独月報』は貿易やビジネスに特化、パリが文化を中心にしていたのと好対照

8.    2次世界大戦下でパリに留まった日本人
1940年 ドイツのパリ侵攻直前の在留邦人は160
パリ占領後も松尾はパリに残り、43年には読売新聞ベルリン支局に移る
19421月時点の住所録には123人が記載 ⇒ 大使館関係はヴィシーだが、版画家の長谷川潔、彫刻家の高田博厚、諏訪根自子、早川雪洲、物理学者の湯浅年子などはパリに留まっていた


I  幻の日仏文化交流誌――『ルヴュ・フランコ・ニッポンヌ』
『ルヴュ・フランコ・ニッポンヌ』と松尾邦之助
『ルヴュ・フランコ・ニッポンヌ』とエミール・スタイニルベル=オーベルラン 松崎著
オーベルラン(18781951) ⇒ 1925年松尾邦之助に日本のハイカイを共訳しようと持ちかけ、27年宝井其角の句集を仏訳した『其角の俳諧』を上梓、当時のハイカイブームに乗って89千部売り尽くし、仏文壇からだけでなく、ピカソやアルプなど多くのシュールレアリストの画家からも賛辞を受ける。以後『枕草子』(28)、岡本綺堂の3作品をまとめた『恋の悲劇』(29)、『能の本』(29)、『出家とその弟子』(32)などを出版、約15年に亘って日本文化をフランスに紹介、日仏文化交流に貢献するが、戦争で途絶
オーベルランは、ナチのパリ占領後パリを脱出、南仏から松尾宛に手紙を書いた後消息を絶つが、包括財産受遺者からコレージュ・ド・フランスのベルナール・フランク宛に残された資料を地元の図書館に委託したことを知らせる手紙が来て、戦中戦後を通じて南仏に在住していたことが判明
サハラ砂漠西部で遺跡(トゥアレグ族の陵墓)の発掘に従事していたが、下院議長や文部大臣の官房長などを務め、官界で活躍
松尾との共訳の前年、美術評論家岩村透の甥、岩村英武との共訳で、うた沢節の歌謡集『芸者の唄』を上梓し大好評を博す
松尾の『ルヴュ・フランコ・ニッポンヌ』には第1号から協力し、日本語の読めないオーベルランに松尾が翻訳しその書評を多数寄稿している
特に当時のマスコミを賑わせたのは、王党派右翼に傾倒したアンリ・マッシスの『西洋擁護論』に反駁した『アジア擁護論』で、アジアの国々の独立を拒否する西欧人のやり方を批判 ⇒ 『アジア擁護論』は『仏教擁護論』へと続き、物質的なものにしか目を向けない近代産業文明における精神修養にはうってつけの場となり得ると主張
オーベルランの日本への関心の出発点は仏教 ⇒ 得度して仏教に帰依
生涯独身を貫く


『ルヴュ・フランコ・ニッポンヌ』と在仏日本人――「工場(あな)クラブ」に花開いた祝祭
『ルヴュ・フランコ・ニッポンヌ』とルネ・モーブラン
『ルヴュ・フランコ・ニッポンヌ』をめぐるフランス詩

II  両大戦間の日本研究と、松尾・オーベルランの仕事
両大戦間の日本研究
日本の王朝文化――松尾・オーベルラン訳『枕草子』――変奏としての翻訳
日本の中世文化――謡曲の翻訳
日本の近世文化――俳諧仏訳の先駆者、松尾邦之助とエミール・スタイニルベル=オーベルラン
日本の仏教文化――日本、フランスと仏教
日本の女性文化――両大戦間における日本女性像

III 日仏文化交流の記憶の場所
巴里週報社と石黒敬七
日本大使館と柳沢健
日本人会と椎名其二
日本学生会館と薩摩治郎八
日仏芸術者と黒田鵬心
コメディ・デ・シャンゼリゼと「ル・マスク」
巴里会と武藤叟


IV  資料編
ギメ東洋美術館とフランス東洋友の会
東京日仏会館と関西日仏学館
19世紀末の日本研究
関連年表








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