音楽の進化史  Howard Goodall  2014.7.28.

2014.7.28. 音楽の進化史
The Story of Music            2013

著者 Howard Goodall 1958年 イギリス・ケント州生まれ。オックスフォード大クライスト・チャーチで音楽を学ぶ。エミー賞受賞歴のある合唱音楽やミュージカル、映画音楽、テレビスコアなどの作曲家。『ミスター・ビーン』や『宇宙船レッドドワーフ号』などのテレビ番組のテーマ曲を作曲。2011年に音楽教育への貢献に対し、大英帝国勲章(CBE)が授与された

訳者 夏目大 1966年大阪府生まれ。同志社大卒、大手メーカーにSEとして勤務後、翻訳家に

発行日           2014.5.20. 初版印刷         5.30. 初版発行
発行所           河出書房新社

はじめに
モーツァルトは《ドン・ジョヴァンに》の冒頭の3つの和音によって当時の聴衆を驚愕させ、興奮させたが、誰かが和音を発見しなければそれは不可能だった
ガーシュインの《サマータイム》も、シーソーが揺れるような伴奏の上を高音の独唱が滑空しているように感じられ非常に魅力的だが、これも誰かが和音とリズムを発見したからこそできた
この2つの傑作を、すぐにでも演奏して楽しむことができる。作曲者の意図も知った上で演奏できる。これは、誰かが「楽譜」を発明し、音楽を紙に記録した上、演奏の際の指示まで書き込めるようにしてくれたお蔭
現代に近づくと、音楽の世界が芸術音楽いわゆる「クラシック音楽」と誰もが気軽に楽しめる「ポピュラー音楽」の2つに分裂。クラシック音楽は過去の遺産があまりにも多いために現代の作曲家が活躍できる場は少なく、このままではいずれ消滅してしまう。クラシック音楽家にも、時代の流れに連れて変化し、時代に合わせていく努力が強く求められる。その努力は必須だと言っていい。過去のどの時代の音楽家も積極的に新しいことを学び、従来にないものを生み出そうと工夫をしていた。さもなければ、私たちはいまだに単旋律聖歌のような音楽だけを聴いていることになっただろう。かつてクラシック音楽が、西洋文化の主流の音楽でいられたのは、まさにこの革新の努力のお蔭である
この本で注目するのは、用語の変化ではなく、音楽そのものに起きた変化、変革である。無名な作曲家が音楽の歴史を動かした例の方が多いくらい

第1章        発見の時代――紀元前4万年から紀元1450
世界最古の楽器は、2010年ドイツ南部の洞窟で発見された紀元前43千~42千年といわれるマンモスの牙と鳥の骨から作られた笛
2008年 フランスで発見された30千年前の洞窟の壁画が、洞窟の中でも最も音が響く場所であったことを発見
音楽が昔から一貫して人間にとって重要なものであったことは、いくつもの手掛かりとなる証拠がある ⇒ 芸術作品にもさまざまな楽器が描かれている
ただ、当時の音楽が耳で聴いてどういうものだったのかは、楽譜が残っていないので全くわからない
楽器の演奏法の記録の中で最も古いのは、紀元前2600年頃のメソポタミアの粘土板
判読可能な最古の楽譜は、紀元前20001700年頃の古代バビロニアの粘土板
古代社会で音楽に関して特に進んでいたのは古代ギリシャ人で、紀元前800年頃からローマ帝国に吸収されるまで栄え、英語の語源も古代ギリシャ語で文芸を意味する「ムーシケー」に由来。「ムーシケー」を司る9人の女神が「ムーサ(ミューズ)」である
古代ギリシャ人と音楽について知っておくべきこと
   オルガンを発明、古代ギリシャが滅びても1000年以上にわたり、最も影響力のある楽器であり続けた。発明は紀元前3世紀にアレクサンドリアのクテシビオスが考案した「水オルガン」が最初で、タンクに入った水の圧力でパイプに空気を通す
   音楽の成り立ちに関する精緻な理論を構築。惑星などの天体と音楽の関係を明らかにした
   音楽を重要視し、若い世代の音楽教育にも熱心
   音楽は儀式に欠かせない要素
   音楽のコンテストも盛んに行われ、それを目指して優れた音楽家が数多く現れる
   ヨーロッパ流の演劇を生み出す。ミュージカルの原型も作る。必ず楽器の伴奏、合唱、朗読、詠唱などが付いている。演劇には音楽を主題とするものも多い
古代ローマは、ヘレニズム文化を吸収して発展
   オルガンが好まれたが、楽譜がなかったため、どういう音楽を演奏したのかは不詳
   313年のミラノ勅令でキリスト教が公認されたことで、キリスト教の聖歌が急速に広まる
ローマ滅亡後は、文明の中心がコンスタンティノープルに移り、東ローマ帝国(ビザンティン帝国)でも活発な音楽活動が続けられた
西方教会で受け継がれてきた聖歌は、単旋律聖歌(プレインチャント)とか、グレゴリオ聖歌と呼ばれる。6世紀にローマ教皇となったグレゴリウスI世に由来するが、両者の間には何の関係もない。各地でそれぞれの聖歌が生まれ、人間の記憶力に頼って伝承されている
同じメロディを少年が歌うと、声は高いが同じに聞こえる音程(ピッチ)があることに気づく
現在のオーケストラは、周波数440ヘルツをA=ラとして調律。Aの音はオーボエで出すことが多い。440ヘルツをAとする国際的な統一基準が決められたのは1930年代
管や弦の長さを元の半分にした時、音は元より高くなるが、音程は元と同じに感じる。現在ではオクターブ高い音とされるが、「オクターブ」はラテン語で8に由来し、「8音離れている」という意味。中世の教会で使われていた音階では、オクターブが8音から構成されていたためこの名がついた
長いことオクターブ離れたメロディを一緒に歌い続けたが、紀元800年より前に、音の高さの差はオクターブでなくてもいいのではないかということに思いつき、重ねた時に自然な響きになる2音が選ばれ、和音が生まれる
少し高さの違う2つのメロディを即興で並行して奏でるテクニックを「オルガヌム」と呼び、複数の音を同時に奏でる音楽を「ポリフォニー」と呼ぶ
楽譜の発明 紀元1000年頃グイード・ダレッツォという修道士。単旋律聖歌を歌う人たちが見ていたのは歌詞のみだったが、音の高低を書き込むことが始まり、「ネウマ譜」と呼ばれる記譜法が発明される。「ネウマ」とはギリシャ語で「息」のこと。ネウマ譜を精緻にして、4本の平行線上に記号を配置したのがグイード
新しい記譜法により、音楽の作り方に大きな変化。以前は口伝えなので覚え易さが重要だったが、記譜法が出来ればその要素が不要になり、変わった曲、複雑な曲も作曲が可能に
自らの名前を書き残した作曲家の初めの1人にドイツのヒルデガルト・フォン・ビンゲンという女性(1098年生まれ)がいる。学者、修道女、詩人で、単旋律の伝統からの逸脱を模索した最初の作曲家の1
記譜法とハーモニーの革命は、一旦起きてしまうと急速に音楽を変えていった
12世紀のパリで活躍したのがトルバドゥール(フランス南部育ち)、トルヴェール(同北部)と呼ばれた吟遊詩人。アル=アンダルス(イスラム支配下のスペイン)の宮廷にいた職業音楽家とも交流、影響し合う。パリのペロティヌスが、リズムの記譜法を発明
1400年頃イギリスでジョン・ダンスタブルが発見した和音の構成音に関するもの。従来のオクターブ、完全4度、5度の3種類から、「和音進行(コード進行)」という和音の使用の基礎となる論理を確立
ジョン・ダンスタブルを、同時代のジェフリー・チョーサーを「イギリス文学の父」と呼ぶのと同様、「3和音の父」、ひいては「西洋音楽のハーモニー体系の父」と呼ぶに相応しい
ブルゴーニュ公国の宮廷の庇護のもとに新しい和音が本格的に広まるなか、特に有名な作曲家がギョーム・デュファイ(1397?1474)で、11曲が特徴的なメロディを持ち、それに心地よく調和したハーモニーが寄り添い、カデンツによる弧を描くような展開、歌詞の韻律に合わせたリズムなど押韻も際立つようにされ、後の西洋音楽の進む方向を決定付けたと言っても過言ではない
15世紀半ばには、西洋音楽は芸術の一形態として確固たる地位を築き、ヨーロッパ中に広まるが、過度に進歩的な音楽が作られるのを阻止しようとする教会権力の脅威に晒される

第2章        懺悔の時代――14501650
宗教的に不寛容の時代
大航海時代で、新世界の発見もあったが、大量殺戮や病原菌や飢餓の蔓延等、過酷な時代でもあった
15世紀の音楽の中心は、イギリス、フランス、フランドル地方
フランドル出身のジョスカン・デ・プレは、歴史上初めて、歌われる歌詞の意味を最も重要なものと考えた作曲家 ⇒ 歌詞の意味を際立たせることを優先して曲を作るとともに、和音を使って現在私たちが「調(キー)」と呼んでいるものを音楽に導入
1500年頃には、現在見るような楽器と本質的に同じものはすべて出揃っていた
現存する最古のヴァイオリンは、1564年クレモナのアンドレア・アマティがフランス王シャルル9世のために作ったものというのが定説、依頼主はイタリア人の母、カトリーヌ・ド・メディシスで、芸術家たちのパトロンだった
鍵盤楽器は、1397年に初めてパドヴァの宮廷の文献に現れ、16世紀にハープシコードと呼ばれるようになる ⇒ 1518世紀半ばまでが全盛期。やや小さめのヴァージナルも
ルターの宗教改革は、賛美歌を通じて新しい音楽の作り方をもたらす ⇒ 信徒が自信と熱意をもって賛美歌を歌えるよう、1音節ごとに1音を割り当て、主要メロディを最高音部に配置し、最低音部は終始メロディと和音の動きを支えるという、主要メロディ、和音、低音部という3つの部分から構成される音楽の枠組みを考えた
宗教対立が1世紀にわたって続く間、宗教の圧力により危機に瀕していた「芸術音楽」は、伝統音楽、民族音楽によって救われ、「人間中心主義」の考え方が徐々に優勢となっていく
フランスではシャンソンが生まれ、イタリアではクラウディオ・モンテヴェルディが画期的な歌曲を作り出し、この新しい歌曲からオペラが生まれる
全ては「カメラータ」と呼ばれたフィレンツェの知識人、人文主義者の集団から始まる ⇒ 古代ギリシャの歌劇(悲劇)を再現しようと考え、最初の試みが1597年の《ダフネ》で、それを受け継いだのがモンテヴェルディで、1607年マントヴァの宮廷のために音楽寓話劇《オルフェオ》を初演、前例のない大編成のオーケストラも作る
モンテヴェルディの最後のオペラ《ボッペーアの戴冠》は、グイードが楽譜の原型を作って以降発展してきた西洋音楽の1つの重要な到達点といえる ⇒ ネロとその愛人ボッペーアの物語だが人物やその感情の描き方が真に迫っているところから、歴史上もっとも進歩的な演劇の1つに数えられる

第3章        発明の時代――16501750
16501700年の間に圧倒的に優勢だったのはイタリア人で、時とともに中心がイタリアからドイツ、フランスと北へ異動、ヘンデルが現れる
この時期の音楽の最大の特徴は、同時代の科学と同様、想像力と野心の結びつき
1656年のオランダ、ホイヘンスによる振り子時計の発明が音楽にも影響 ⇒ リズムの正確さやテンポに注目が集まり、17世紀のダンス音楽の隆盛にも繋がる
正確で実用的と言えるテンポ設定機械が発明されたのは1814年、オランダのディートリッヒ・ニコラウス・ウィンケルだが、2年後にドイツのメルツェルがアイディアを盗んで「メトロノーム」として特許を取ってしまう。後にメルツェルは法廷で負けるが、ベートーベンがメルツェルからメトロノームの存在を教わり、作曲家として初めてこの機械を使ったところから、メトロノームはメルツェルの名前と共に他の作曲家にも広く受け入れられていく
イタリアの卓越した芸術の影響がヨーロッパ中に波及、音楽用語にイタリア語が多いのも当時の影響の1
「アカペラ」はもともと「礼拝堂風に」の意。現在の「無伴奏で歌う」の意は全くない
「合奏協奏曲」というスタイルをつくったコレッリの影響を受けた天才がヴェネツィアのヴィヴァルディ(16781741) ⇒ 高度な技巧を盛り込んだ劇的な音楽で、弦楽器奏者をオペラのスター並みの花形に変えた。歌のない楽器だけの演奏でも絵画のように情景を描くことができるという発想が基になっているのも特徴
ヴィヴァルディが完成させた音楽を受け継いだのがバッハで、彼の「平均律」は音に強弱をつけられる鍵盤楽器ピアノの発明と共に西洋音楽の歴史の中で最も重要な革命
同時期に生まれたヘンデルは、真に国際的と呼べる最初の作曲家
バッハは、あくまでドイツ北部の分化の中で生きていた人、死後は忘れ去られ、再評価されたのは100年後の1829年、メンデルスゾーンが自らの監督によって《マタイ受難曲》の公開演奏を死後初めて行った時だった
ヘンデルは、同時代のあらゆる音楽をすべて吸収し、融合させただけでなく、次代に貴重な遺産を残した。それは特定の国や地域に限定されない普遍的な表現技法
この時代の歌手の中で最高の花形は、少年のうちに去勢されボーイソプラノの声を維持する「カストラート」という男性歌手。去勢の習慣は、16世紀のカトリック教会から広まったが、それは若い女性も入れたプロテスタント教会の聖歌隊を羨んでのこと
ヘンデルのオラトリオが1740年代、50年代の一般民衆の強い支持を集めたのも、過去50年間の音楽を集大成して合唱や独唱、協奏曲などを効果的に盛り込んで民衆にとって分かり易く親しみ易い音楽を作ったから
ヘンデルは、イギリスでも尊敬を集め称賛の的となり、イギリス人の誇りといえる存在となり死後数年で伝記が出版されたが、音楽家の伝記が出版されたのは史上初めて
16501750年の100年間は、音楽の世界では、さまざまな創意工夫がなされ、技術的な進歩もあった時代 矢 革新の動きはまずイタリアで始まり、フランスやドイツに伝わって加速し、イギリスでヘンデルが壮大なオラトリオを作った時が頂点

第4章        気品と情緒の時代――17501850
1750年ヘンデルのオペラ《テオドーラ》がロンドンを2度にわたって襲った地震で不入り。55年にはリスボンも大地震と津波で壊滅、津波の余波はヨーロッパ中に広がる
173040年代、ナポリ近郊でポンペイの遺跡発見、古代ギリシャ、ローマの文明を1つの理想として回帰の動きが起こるが、音楽の世界では回帰の対象がなく、ハイドンやバッハの息子カール・フィリップ・エマヌエル等は「古典派」と呼ばれるが実態は名前とは正反対の斬新な音楽だった。旧時代の音楽も「バロック」という誤解を招きやすい言葉で呼ばれ、コレッリ、ヴィヴァルディ、バッハ、ヘンデル等はバロック音楽の作曲家と呼ばれるが、その音楽のスタイルは同じくバロックという名のついた建築や絵画、文学などとはほとんど関係がない。彼らが目指したのはあくまで前時代の複雑で厳粛な雰囲気の音楽を乗り越えることで、単純明快で親しみ易いもの、整理されていて分かり易いものだった
バッハの時代は、和音を複数並べた時に起きる化学反応のようなものを重要視し、和音の進行や構成音に関して大胆な冒険もした。あえて不協和な響きを出すことも厭わず、聴く人の予測を裏切ることを良しとしたが、17501800年までの間の音楽では、使える和音を快い響きを持つ少数の和音に限り、洗練されたメロディを主役とする曲となった
型作りの最大の成果が交響曲、その基本はソナタ形式で、まず主題が1つ提示され展開される。もう1つの主題が提示され展開され転調する。更に展開され、元とは違う調で最初の2つの主題が再現される、というのが基本原則
ハイドンは交響曲を宮廷楽士等の先駆者から学んでいるが、それらの先駆者たちは現代ではほとんど無名だが、簡単なメロディをうまく展開させれば、秩序正いたい曲を構築できることを学ぶ
交響曲は、世界でも他に類を見ないような特異な芸術。曲には明確な筋書きなどなく、何か言葉で表現できるような意味があるわけではない。ベートーヴェンの《田園》までは、そもそも具体的な何かを表現する意図で作られた交響曲はなかった。同時代の芸術と違うだけでなく、同時代の音楽とも違う。執拗に同じ形式が守られ続けた音楽は他にない。歴史上、ある芸術分野でこれほど長い間、多くの人が同じ型を守り続けた例はそう多くない。ハイドン、ベートーヴェン、モーツァルトが生きていた間には、アメリカ革命、フランス革命が起きたり、モーツァルトは《フィガロの結婚》で貴族を批判したため政治的に危険な立場に立たされ、何度も上演禁止になったが、そうした時代の変化、秩序が乱れ世界が混沌とする中にあって、均整の取れた秩序正しい音楽が作り続けられた。マリー・アントワネットが処刑された1793年、ハイドンは交響曲99番を作曲しているが、自らの最大のファンだったことを公言していた王妃の処刑を知りながらあくまで明るい。エステルハージ家に仕えその邸宅内で働いていたハイドンは、何の疑いも持たずに特権階級の庇護の下で仕事をした最後の作曲家
ハイドンの若き友人モーツァルトとの間には、すでにはっきりとした断層が見える。それは、音楽家がパトロンに庇護されていた旧世界と、フリーランスとして公開された市場に作品を提供し対価を受け取る新世界との間の断層。音楽上での2人の最大の違いは、曲の覚え易さ。技術的には、同じオーケストラを使い、和音もほぼ同じ、曲の構造にも大きな違いはないが、モーツァルトにはメロディ作りの才能があった
ハイドンの弟子だったベートーヴェンにとって、モーツァルトはイエスにとっての洗礼者ヨハネのような存在。2人の生涯には21年の重複があるが、直接顔を合わせたことがあるかはわかっていない。モーツァルトはひたすら聴衆を魅了しようとして創作をし、ベートーヴェンはそれと正反対に、聴衆に対決を挑んだ
初期のベートーヴェンはモーツァルトのクローン、次の時代は「苦悩するハイドン」とでも言うべき作曲家に変わり、晩年は俗世間から隔絶した超然的な存在
ベートーヴェンは西洋音楽のスタイルや技法にはさほど大きな変化をもたらさなかった。彼が変えたのは作曲家の作曲への取り組み方で、音楽を作る目的、音楽の存在理由を以前とは変えてしまった ⇒ 気軽に楽しむもの、必ずしもなくてもいいものから、芸術音楽は全人格的な体験に変わり、人生とは何かという問いに迫る手段となり、真剣に対峙するものになった
自然を使って感情を表現するというベートーヴェンの手法を最も熱心に模倣したのはシューベルトで、自然の事物を作曲に活かすことにかけて彼に匹敵する人物は20世紀まで現れなかった
ベートーヴェンの後を追った多数の新時代の「スター」の中でも、最も極端だったと思われるのは、イタリアのヴァイオリンの巨匠、ニコロ・パガニーニ。人間離れした演奏技術を手に入れるために、また避けられない死を遅らせるために、悪魔に魂を売った、というファウストを思わせる噂があって、埋葬を拒否されたという
ベートーヴェンの交響曲第9番で何より重要なのは、交響曲という音楽には、作曲家が自分の意志で自由に意味を持たせられるということ。第9には実に多くの意味を持たせることに成功している。1989年のベルリンの壁崩壊を記念して第9が演奏され、合唱のなかでは「歓喜」を「自由」に変えて歌い、全世界に放送することで、この特別なイベントが持つ深い意味、普遍的な価値を強調しようとした
1848年は、ヨーロッパで政治的に大きな事件が相次いだ革命の年

第5章        悲劇の時代――18501890
音楽界は、ドイツ、イタリア、フランス、ロシアに支配されるが、彼らの音楽では「運命」が大きなテーマとなり、死と運命に強く執着
19世紀前半、器楽、交響曲の世界を支配したのがベートーヴェンだとしたら、同じ世紀の後半にその地位を受け継いだのはフランツ・リストで、音楽界の軌道修正の役割を担う
聴衆に恐怖と興奮を同時に感じさせるハロウィンの仮装のような装飾過多の音楽で、不協和音が多く使われる
リストはピアニストとしても最高の技巧をもっていて、あまりに力強くピアノを叩くため、ピアノのフレームを金属製に変えざるを得なくなる。客の心を掴むためよく演奏していたのが1838年作曲の《半音階的大ギャロップ》で、オッフェンバックの《天国と地獄》に出てくる「カンカン(ギャロップ)」の下敷きとなったもの。「リサイタル」という言葉もヨーロッパ全土を巡るツアーをしたリストが最初に使ったとされる。「リストマニア」という言葉が初めて使われたのは44年。リストのファンの熱狂ぶりが伝えるエピソードも多いが、後年になって誇張された部分も多い
リストは、ピアノで奏でる音楽そのものにも革新をもたらす ⇒ モネの油絵で色と色、光と光が溶け合ってぼんやりして見える効果があるが、同じことを音楽で実現しようとして音と音を混ぜあわせ響きが不明瞭になるようにした
管弦楽分野では「交響詩」という新たなジャンルを創造 ⇒ ベートーヴェンに代表される交響曲を凝縮して1つにまとめたような音楽で、音楽以外の芸術、例えば詩や絵画の内容を表現している点が重要。スメタナやドヴォルザーク等多くの作曲家が追随
主流の西洋音楽に民俗音楽風の要素を取り込む動きはとめどなく続き、珠玉の名曲が数多く生まれた ⇒ ドヴォルザークの《スラヴ舞曲集》やシベリウスの《カレリア組曲》、スメタナの《わが祖国》
19世紀末に大きな議論となったのが、ネイティヴアメリカンやアフリカ系アメリカ人の音楽を積極的に取り入れようとしたドヴォルザークで、賛否両論を巻き起こす
それ以上の議論を呼んだのがリヒャルト・ワーグナーで、ワーグナーはリストを信奉する作曲家の中でも特に貧しく、また特に議論好きでもあった
リストは義理の息子となるワーグナーに多くのことを教え、ワーグナーが実践した
減七和音(ディミニッシュコード)と増三和音(オーギュメントコード)を自分のものとし、大胆で暗いハーモニーを作るのには重要な和音 ⇒ 減七和音の一種が「トリスタン和音」で、ここから西洋音楽の和音の秩序が崩壊を始め、現代音楽へと繋がる
ドイツの純粋性を追求、ドイツがいずれヨーロッパを指導する役割を担うことになる、それが使命であるという考えを、自らの作品の中でも明確に表現し、その使命を全うするためにドイツ帝国からすべてのユダヤ人とユダヤ文化を、痕跡すら残さぬよう排除する必要があるとも考えた ⇒ 《パルジファル》初演の3年後の1885年、ビスマルクはプロイセン王国内からユダヤ人とポーランド人をすべて排除する法律を制定、さらに40年後にはナチズムを生み出す
ワーグナーから他の作曲家への直接の影響は少ない ⇒ 追随したのはブルックナーくらいで、ワーグナー信奉者の激しいヤジで妨害されながら、ブラームスは傑作とされる交響曲第3番を完成させたし、チャイコフスキーは《パルジファル》を「信じがたいほどのナンセンス」と評し、ワーグナーのオペラ界での仕事に関しては「負の影響しかもたらさない」と切り捨てた
ワーグナーの死後、実際にあらゆる芸術を包含することになったのは映画 ⇒ 世界最初の映画は1888年にルイ・ル・プランスが撮影した『ラウンドヘイの庭の場面』

第6章        反乱の時代――18901918
ロシア、フランス、アメリカの作曲家の台頭
19世紀末には、それまで西洋音楽の主流だったいわゆる「調性音楽」に限界を感じる人が増えてきた ⇒ ワーグナーがバイロイトで起こした革命が契機
ワーグナーに最も強い拒否反応を示したのはフランス ⇒ サン=サーンス、サティ
新天地を切り開いたのはマーラーで、汎ヨーロッパ的なスタイルで率直な音楽表現が受け入れられた ⇒ その影響を受けて、調性音楽の破壊に最も熱心に取り組んだのがシェーンベルクで、従来とは違った「十二音技法」と呼ば
れる作曲技法を考案。1オクターブを構成する12の音をすべて平等に扱い、どの音も続けて2回以上使ってはならないという規則がある
ロシア国外で本当の意味での名声を勝ち得たロシア人作曲家は、チャイコフスキーが最初
ただし、ロシア音楽の隆盛に最初に火をつけたのはムソルグスキーで、独学で作曲技法を習得し、それまでの西洋音楽とは違う独自のルールに則った独自の味わいを持つ音楽を作り、ロシア音楽ならではの独自のアイデンティティを持たせることが可能だと示した
19世紀末、音楽の世界での変化を推し進める1つの大きな要因となったのは89年のパリ万博。平和と人間性が重要なテーマ
ムソルグスキーから啓発されたドビュッシーは、他にもガムランのようなアジアの音楽にも影響され、「ワールド・ミュージック」という音楽の出発点を作る
帝政ロシアの首都サンクトペテルブルクは、19世紀末頃には世界の音楽の中心地の1つになっていた。1830年代のグリンカに始まり、60年代のバラキレフ、さらにボロディン、ムソルグスキー、チャイコフスキー、リムスキー=コルサコフと継承され、リムスキー=コルサコフの指導下からストラヴィンスキーが誕生
1905年の第1革命までは国内でロシア独自の芸術や建築への関心が高まっていった時期
1908年に芸術プロデューサーだったディアギレフは、パリのオペラ座でシャリアピン主演による《ボリス・ゴドノフ》を初めて海外公演、大成功に終わらせ、ロシア音楽の存在を確立
1910年のパリ公演でディアギレフが、まだ無名のストラヴィンスキーに新作バレエのための音楽の作曲を依頼、《火の鳥》が誕生、続く11年には《ペトルーシュカ》そして13年には《春の祭典》と、バレエ音楽の3部作となる頃には、リヒャルト・シュトラウスに代わって、ヨーロッパ中でも最も悪名高い、しかし、一方で熱心な擁護者も最も多い作曲家になっていた
空想と現実のそれぞれ別の主人公に、違ったスタイルの音楽を対応させ、狂気じみた騒々しいリズムやロシア民族音楽の要素も組み合わせるストラヴィンスキーのバレエ音楽は、偉大な師リムスキー=コルサコフから引き継いだロシア音楽の遺産と、友人にもなったドビュッシーが開拓した新しい音楽世界との融合とみなすこともできる
1913年パリでの《春の祭典》の初演は、乱痴気騒ぎといってもいいような力強く暴力的なリズムに対し、怒号が飛び交うような大騒ぎ、大混乱を引き起こし、音楽史に残る有名なものとなった。実際は、裕福な限られた聴衆のみで、文句もあったが称賛の拍手もあったという程度だったようだが、《春の祭典》が斬新で刺激的な音楽だったことは間違いなく、20世紀初めのモダニズム音楽の1つの頂点とも言うべき作品であると同時に20世紀の管弦楽を象徴する作品であることは疑い得ない
マーラーはまるで紐と紐とをより合わせるようにメロディとメロディを重ね合わせた。ドビュッシーはすでに響いている音にさらに音を重ね互いに溶け合うようにした。そしてストラヴィンスキーはリズムの上に別のリズムを重ねるという新技法「ポリリズム」を打ち出した
変化の媒体となったのは、1片のろう紙。1860年、そのろう紙にフランス民謡《月の光に》を歌う女性の声が刻み込まれた。それは現存する最古の録音で、エジソンの蓄音機による録音の17年前。エドアール・レオン・スコット・ド・マルタンビルこそ、録音技術の真の発明者。録音だけで再生は出来ず、再生は1877年のエジソンの蓄音機「フォノグラフ」が初
録音技術の誕生により、突然全世界の人たちが自由にさまざまな音楽を聴けるようになり、音楽の裾野が拡大。クラシック音楽では新しいものより古いものが偏重される傾向が強く恩恵ばかりではなかったが、逆にポピュラー音楽では恩恵を受けることばかりで、20世紀の音楽史に大きな影響を与える力を持つようになる

第7章        ポピュラーの時代 I ――19181945
1906年 マサチューセッツ州ブラントロックからレコードの音楽が世界で初めて電波にのせて放送された。ラジオのパイオニア、レジナルド・フェッセンデンによるもので、曲はヘンデルの《オンブラ・マイ・フ》
20年代にラジオが急速に普及、多くの人が音楽を無料で自由に聴けるようになると、音楽というものの価値も、音楽を聴く目的も大きく変わる。音楽自体のスタイルにも、音楽史上過去に例がないほどの劇的な変化が見られた。ポピュラー音楽の面では「新しい音への渇望」を生み、その渇望に応えるように才能豊かな作曲家が輩出。20年代のガーシュイン、コール・ポーターから60年代のボブ・ディラン、レノン&マッカートニー、70年代のスティーヴィー・ワンダー、80年代のマイケル・ジャクソン、90年代のプリンス、そして21世紀に入ってからのブルーノ・マーズやアデルまで、人気を得たミュージシャンは富と名声を手に入れた
他方、「ポピュラーでない」西洋の伝統的音楽はまとめて「クラシック音楽」と呼ばれるようになり、60年代頃になるとクラシックという言葉を単に「古めかしい」「時代遅れ」という意味だと解釈するようになる
20世紀には、聴衆はポピュラー音楽を聴く人とクラシック音楽を聴く人に大きく二種類に分かれ、その隔たりは音楽の作り手にも大きな影響を与える
1924年ニューヨーク・エアリアンホールでのコンサートは2つの音楽の融合実験の場だったが、ジャズとクラシックの中間のような曲の作曲を依頼されたガーシュインが作った《ラプソディ・イン・ブルー》の初演で後世有名に。わずか5週間で書き上げられたこの曲は、クラシックの既存勢力からは酷評されたが、聴衆からは大変な好評を得て、次の50年の音楽の世界を一変させた
ヨーロッパの場合、1920年代、30年代、40年代、それぞれに国家主義により異文化間の交流が大きく妨げられ、音楽の発展の障碍にもなったが、アメリカでは人種問題は深刻だったものの、さまざまな文化が混じり合い、互いに影響を与えやすい環境だった
《ラプソディ・イン・ブルー》がミリオンセラーになった1927年、ヨーロッパでは、モーツァルトやハイドンと同時代の作曲家でチェロ奏者だったルイジ・ボッケリーニの遺骨を巡り、ムッソリーニがスペインから生地ルッカに戻すという事件があった。ボッケリーニはイタリアで生まれたが、若いうちにスペインに移住、キャリアの大半をスペインで活躍した作曲家だった(室内楽《マドリードの夜警隊の行進》は有名)にも拘らず、イタリア人としてのアイデンティティを押し付けるのはあまりにバカげたことであり、無知だとしか言いようがない。20世紀の出来事だというのが驚きで、音楽が国境を超えた存在になりつつあった時代に、これほど浅薄、狭量で、無意味なことが行われていた。一方でアメリカでは祖先の国籍や民族を越え、過去のものとは全く違ったアメリカ的な音楽を模索する動きが活発化
1922年にはフィルムの映像と音声を同期させる技術が発表され、全編に映像と同期したサウンドトラックを採用した映画『ドン・ファン』を発表したのは1926
1921年には、ユービー・ブレイクのミュージカルコメディ《シャッフル・アロング》がブロードウェイでヒットしているが、アフリカ系アメリカ人が音楽を書き、主演した最初のもの
シュルレアリスム(超現実主義)という言葉は、1917年パリで初演されたバレエ『パラード』を表現するのに使われたもの ⇒ 作曲家のサティ、画家のピカソ、小説家・劇作家のジャン・コクトーなどが共同で生み出した作品、多数の異質な要素を集めた「コラージュ」
クラシック音楽界全体にとっては、1920年代が、大きな亀裂の入り始めた時期で、揺るぎない地位が危機に晒される ⇒ 1926年初演、プッチーニの《トゥーランドット》が最後の輝き
クラシック音楽の地位に揺らぎが出る前兆が見え始める
そもそも聴く機会が少ないから市場が広がらないという面もあるが、見落としてならないのは、作曲家たち自身の姿勢の変化で、長い歴史と伝統を持つ音楽形態に関心を持つ作曲家が少なくなった
ドイツやロシアでは戦争に協力するクラシックの作曲家が何人もいた
バレエは、クラシックの作曲家が、伝統的な管弦楽を幅広い聴衆の耳に届かせる絶好の媒体だったが、映画やダンスも同様で、映画という媒体がなかったら、第2次大戦後、クラシック音楽は徐々に衰退し、ただ忘れ去られるのを待つだけという状態になったと考えられる
レコードや磁気テープの誕生により、新しい音楽が過去には考えられないような速度で多くの人に広がる時代が到来、それによりジャズが台頭し、相対的にクラシック音楽の存在感は低下。50年代にはジャズよりもはるかに強力な敵、ロックンロールが現れ、クラシック音楽をさらに追い詰める

第8章        ポピュラーの時代 II ――1945~現在
3945年にかけて、アメリカの存在感の拡大
大戦後、新たな形態の音楽が誕生し、世界を席巻する。それがロックンロール。過去のどの音楽よりも世界に影響を与えたと言っていい
ロックンロールの起源は、1939年に録音されたベニー・グッドマン・セクステットの《セヴン・カム・イレヴン》で、表面上はごく普通のスウィング・ジャズ、エネルギッシュな曲だが構成は非常に整然としているが、途中から31年に発明された新しい楽器エレキギターの即興による新しい音楽が聞こえてくる。演奏していたのは、当時23歳のオクラホマ出身の黒人ギタリスト、チャーリー・クリスチャンで、伴奏のコードを弾くだけの地味な楽器を花形に変えた
戦後のジャズ界には才能あるミュージシャンが多数現れ、皆が夢中で才能、技量を競い合っているうちに、コードは果てしなく複雑になり、曲も次第に長くなり、ついには音楽というよりミュージシャンのスタミナ比べに近いものになる
元来黒人特有の音楽が多くの若者の支持を得るには、やはり白人のスターの存在が不可欠。1人目はビル・ヘイリー、次いでエルヴィス・プレスリー
アメリカという多様な人種、民族を包含した世界で、ある程度互いの違いを認め合い、尊重することが出来たのは、かなりの部分、ポピュラー音楽というものがあったお蔭なのは確かであり、音楽を通じ背景の違う人たちが同じ理念、目標を共有することが出来た。音楽ジャンルの融合が最も盛んに起きたのがアメリカ
ビートルズは、ポピュラー音楽の歴史の中でも最高のグループ、と同時にクラシック音楽の救世主でもあった
90年代2000年代になると、ハイドン、モーツァルトやメンデルスゾーンまで、当時のまま忠実に再現しようとする動きが起こり、レコード市場が活気づく
ポピュラーとクラシックの違いは、ポピュラーでは新しいことはそれだけで価値になり得るのに対し、クラシックでは新しいことがハンディになる
70年代になると、アメリカで不思議なことが起こる。ポピュラーとクラシックが融合することで、まったく新しい種類の音楽が生まれた。それが「ミニマルミュージック」で、音楽ジャンル間の関係は後に大きく変化する前兆。推進したのはアメリカの作曲家たちで、テリー・ライリー、スティーヴ・ライヒ等で、既存の音楽に対する強い異議申し立てだが、異議は非常に妥当であり、価値の高いもの
ヒップホップも、ジャズやブルースと同じように、最初はごく限られた人たちだけに知られるものだったのが、数十年の時間をかけて世界中へと広まる。元は1970年代に社会から除外され、不満を抱えたブロンクスのアフリカ系、又はラテンアメリカ系アメリカ人の若者の間から生まれた音楽だったが、やがて各地の不遇な若者たちが、ヒップホップを自分たちのアイデンティティを象徴する音楽だとみなすようになる
自動化、電子化が進むことへの懸念は、「アンプラグド」という動きにつながり、徹底して生の楽器を使い、全てを人間の手で演奏しようとする
音楽の過去の歴史が教えてくれるのは、未来に関しては余り憂える必要なないということ。何か動きがあると、必ずそれとは反対の動きが起きる。現存する音楽もいずれは消滅する時が来る
クラシック音楽は、いわば「音楽のための音楽」で、音楽を作るという創造行為そのものが目的だった。そのため歴史を通じて多数の実験が行われ、結果として次々に革新的な変化が生じ、音楽は発展を遂げることになった
現代に生きる私たちは、バッハの同じ曲でも、無数のバージョンが存在し、全てがそれぞれに違うが、どれもいつでも聴くことが出来る。常に多様な音楽を受け入れる窓が開いているようなものだろう。聴こうが聴くまいがまったく自由、私達はそういう時代に生きている


訳者あとがき
本書の特徴は、「音楽そのものについての話が中心」ということ。作曲家や演奏家のエピソードもあくまで話のついでにすぎないということ。著者が最も重視するのは、「音楽(特に西洋音楽)がどのような変革を経てきたのか」ということで、変革を起こした人物に焦点を当てる


音楽の進化史 ハワード・グッドール著 過去が現在にどう流れ込んだか 
日本経済新聞 2014/6/15
 通史を書くとは一つの風景を写真に撮るのに似ている。すべての風物に万遍(まんべん)なくピントを合わせることは出来(でき)ない。だから必ず一か所にフォーカスを絞る。どの場所から撮影するかも考えどころだ。こうやって構図が決まる。これがカメラマンの最大の腕の見せどころであろう。歴史を書く者も同様である。
(夏目大訳、河出書房新社・3200円 ※書籍の価格は税抜きで表記しています)
(夏目大訳、河出書房新社・3200円 ※書籍の価格は税抜きで表記しています)
 本書は極めてユニークな西洋音楽史である。映画音楽の作曲やビートルズに関するドキュメンタリーの制作などで知られる英国人の著者は、ここで音楽史のフォーカスを20世紀、そして21世紀に合わせた。何と彼は音楽の歴史を紀元前から説き起こす。しかしこれらはすべて前段である。どうやってこうした過去の音楽が現在に流れ込んで来たか。現在から未来はどう開けるのか。これが著者の主要関心事だ。
 著者の音楽史観は2021世紀を扱った章の題名にはっきり現れている。最後の二つの章は「ポピュラーの時代1・2」と題されているのである。いみじくも著者は「ポピュラーの時代1」を1918年から始めている。第1次世界大戦が終わった年である。この大戦は14年に始まった。今から百年前である。大戦は世界ヘゲモニーがヨーロッパ列強からアメリカに移動した戦いでもあった。対するに「ポピュラーの時代2」は、第2次大戦が終わった45年から現在までを扱う。音楽史におけるアメリカの世紀とはポピュラー音楽の世紀であり、それは第1次大戦とともに始まり、第2次大戦をはさんで現在まで続いているという見立てであろう。これは卓見だ。
 通常「西洋音楽史」と題された本は、「20世紀音楽」として、いわゆる現代音楽を扱う。しかしブーレーズだのシュトックハウゼンだのといった前衛は、その芸術的な価値はともかくとして、社会的にはほとんどアングラ同然といっても過言ではないだろう。どう考えても音楽史の20世紀の主流はポピュラー音楽である。ワーグナーやマーラーから映画音楽やプレスリーに流れていく西洋音楽史。とても面白い風景が見えてくる。
 もちろん著者は、20世紀音楽として、ポピュラーだけを扱うわけではない。ビートルズやポール・サイモンが、時にキューバ音楽、時にブーレーズ、時にミニマル・ミュージックと自在に交錯する。これこそまさに音楽史の現代世界である。その語り口はあくまで平易。生き生きしたドラマティックな歴史の活写は、良質のドキュメンタリー番組を見ているようである。
(音楽学者 岡田 暁生)


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