八月の砲声  Barbara W. Tuchman  2014.8.12.

2014.8.12. 八月の砲声 上下 
The Guns of August           1962

著者 Barbara W. Tuchman 191289年。ニューヨークの名門に生まれ。父(ワーセイム)は銀行家で慈善事業家、シアター・ギルドの創設者で、アメリカ・ユダヤ人委員会の会長。母の祖父は外交官のモーゲンソー・シニアで、財務長官のジュニアは伯父。ハーヴァード大女子部のラドクリフ・カレッジ卒。『イギリス帝国に関する道義的解釈』と題する歴史批判をものして優等で卒業。Institute of Pacific Relationsの調査員として東京にも駐在。父が発行していた伝統ある政治評論誌『ザ・ネーション』の論説や特集記事を担当、37年には記者としてスペイン内乱を取材、英国評論誌特派員の後文筆家として活躍。63年第4冊目となる本書で歴史部門のピュリッツァー賞受賞、ベルギーのレオポルド勲章授与。72年には『失敗したアメリカの中国政策(風に逆らう砂)』で再受賞。79年米国アカデミー芸術協会会長。夫はマウント・サイナイ病院勤務の医学博士

訳者 山室まりや 191594年。翻訳家

発行日           2004.7.7. 第1刷発行        1980年 筑摩書房刊
発行所           筑摩書房(ちくま学芸文庫)

1914628日、サライェヴォに響いた一発の銃声がヨーロッパに戦火を呼び込んだ。網の目のような条約で相互に結ばれた各国指導者たちは、開戦準備に奔走する一方で戦争回避の道を探るが、戦火は瞬く間に拡大する。情報の混乱、指導者たちの誤算と過信。予測不能の状況の中で、軍の用意していた戦術だけが既定方針として着々と実行され、世界は戦争の泥沼に沈んでいった――1次大戦の勃発に際し、政治と外交と軍事で何がどう決定され、あるいは決定されなかったかを克明に描いてピュリッツァー賞に輝いたノン・フィクションの傑作

まえがき
バルカン問題はそれ自体第1次大戦とは区別してみられるべきもので、題材の統一からいっても入れるべきでないと判断
左右のルール ⇒ 川の場合は下流に向かっていうが、軍隊の場合は進発した地点から見て左、右ということになるので、部隊が前進中は不変

第1章        大葬
1910年英国王エドワード7世の葬列、王の突然の死に代表を派遣した国は70に上り、これほど多くの王皇族、高位高官が葬儀に顔を揃えたのは歴史上初めて
ドイツのヴィルヘルム2世は、ヴィクトリア女王の長女の息子であり、叔父にあたるエドワード7世こそ、ドイツ包囲の陰謀の親玉だと信じて
エドワード7世は「ヨーロッパの伯父」と呼ばれたように、エドワードの王妃アレクサンドラの実家はデンマーク王室で、姉がロシアのマリー皇太后なので、エドワードはロシア皇帝ニコライ2世の叔父
エドワードの姪は、アリックスがニコライ2世の皇妃、もう1人はスペインの王妃、3番目のマリーがルーマニアの王妃
エドワードの娘モードはノルウェーの王妃
エドワードのフランス好きは、母ヴィクトリアのドイツびいきに反抗してのもので、1900年ドイツが英国への挑戦を意図して新しい海軍振興計画を立てたことを知って神経質になった英国は、フランスとの長年にわたる争いを止め和解しようと決め、1904年には英仏協商が締結。英国は1899年、1901年と2度もドイツに正式に協商を申し込んだがドイツは裏があると疑って拒絶
ヴィルヘルム2世は「旅ゆく皇帝」と言われたように旅に出てばかりいたが、最も行きたかったパリには82歳まで長生きしながらとう
とう行けずに死ぬ
1933年にノーベル平和賞をもらった英国のジャーナリストノーマン・エンジェルも、新著『大いなる幻想』の中で戦争は今や実行不可能になったことを解き明かした ⇒ 財政、経済の面で各国が相互に依存し合っている状況では、戦争は割に合わないとし、大衆の賛同を得た

戦争計画
第2章        「右翼最右端は、袖で海峡をかすって通れ」
ナポレオン失権後のウィーン会議においてベルギー地域一帯を中立国としてオランダに併合させることとしたが、ベルギー人は併合を嫌って1830年に反乱を起こし、これが口火となって国際間に奪い合いが始まる。フランスはかつての支配地の奪還に乗り出し、ロシア、プロイセン、オーストリアも黙っていなかった ⇒ 1839年のベルギー条約によって永世中立国家として保証
ドイツの参謀総長(189106)シュリーフェン伯爵は早くから、戦争になった場合にはフランスとロシアの二正面作戦になることを想定、最初は動員に6週間かかるロシアを放っておいて7/8の勢力を使ってフランスを叩き、その後東に反転して動員に時間のかかるロシアを叩く作戦を念頭に置いていた。フランスを短期決戦で破るためには、独仏国境の堅固なフランス要塞の正面突破より、イギリスを敵に回すことを覚悟の上で、ベルギーを通過、迂回してフランス軍の背後に回って包囲・殲滅するというもので、ハンニバルがローマ軍を破ったカンネーの戦いから割り出した戦略を規範とする
1870年以来ドイツ国民は、武器と戦争こそドイツの偉大さのよってくる根源であるという思想に染まっていた。声はシュリーフェンから出たが、その思想を支えたのは数人の哲学者 ⇒ フィヒテは、ドイツ国民は神の意志によって宇宙の歴史において最高の地位を占めるべく選定されているといい、ヘーゲルは、人類の責務としての文化の栄光の座につけるためにドイツ国民は世界を指導しつつあると目し、ニーチェは、超人は凡俗の支配を超越した存在であると説き、トライチュケは、権力の増強は国家の、そして時の皇帝を「万乗の君」と仰いだ全ドイツ国民の道徳的義務であると論じた。シュリーフェン計画の生みの親は、長い間国民を育み育て、「自己を最高の存在と見做す、救い難い錯覚」に導いた自負心の本体だった
1914年 ドイツに戦争準備の最後の仕上げを急がせた2つの事件 ⇒ 4月に英露が海軍問題で会談を開始したことと、6月にドイツがキール運河を拡張して新しく建造した弩級艦が直接北海からバルト海に航行できるようになったこと

第3章        セダンの影
フランス側では、ドイツがベルギー経由で来る場合は、逆に中央や左翼の陣容が手薄になるので、そこを突破できると考えた ⇒ 1870年にセダンで包囲されて敗戦した屈辱を晴らしたいという念願から出た作戦
フランスは要塞戦略に踏み切り、ドイツとの国境線に沿って堡塁でつないだ塹壕陣地の壁を巡らせベルギーの西半分についても要塞線で防御した
フランス、特に陸軍には「ミスティック・ダルザス(アルザスの神秘)」という神聖な怒りが燃え続けていて、万人を一致団結させていた ⇒ アルザスは、もともとドイツにもフランスにも帰属せず、1648年のウェストファイア条約によってルイ14世下のフランスのものと確認されるまでは、両国で取り合いをしていた地域で、1870年にドイツがアルザスとロレーヌの一部を併合してから、ビスマルクは出来るだけ自治権を与えようとしたが、後継者は帝国領として強権で治めたために住民の反発が高まるばかりとなっていた
フランスの攻撃戦の原理は、陸軍大学が源泉、その校長がフランス軍事理論の構成者フォッシュ将軍で、「意志の神秘」を説き「征服の意志こそ勝利の第1条件」にするとともに、攻撃のみが絶対的な結果をもたらすとした
フランス側は、事前にドイツのベルギー侵攻計画を入手したり、予備兵を召集して軍の増強をしているとの情報が入っていたが、ドイツが敢えてイギリスを敵に回すようなことはしないとし、あくまで独仏国境での対峙を前提に考えた

第4章        「ただ1名の英国兵・・・・・」
1909年英国陸軍大学校長だったウィルソン准将は、ドイツとの戦争は不回避と信じ、フランスでの同格者フォッシュ将軍と行き来し親密度を増していたが、英仏軍事同盟の可能性について話し合った折、ウィルソンが「実際に仏軍の補強に役立つ英軍の勢力は最小限どのくらいか」と聞いたのに対し、フォッシュは、「まずただ1名の英国兵、そして敵に殺させてやるんだ(そうすれば続く者が出てくるという意)」と答えた
英国は、1912年ドイツとの間にお互いに理解し合う基盤を見出そうとベルリンに特使を派遣したが交渉は決裂、そのため英仏海軍協定が結ばれ、フランスのイギリス海峡沿岸は英国側の責任分限となり、いつでも仏海軍の地中海集結が可能となる
ベルギーは、あくまで中立を守るために、正式に軍事援助を要請するまで(=ドイツが侵攻してくるまで)英国軍の上陸を待ってくれと英国に申し入れ

第5章        ロシア式蒸気ローラー
ロシア陸軍は欠点だらけで世の不評を買っていたにもかかわらず、ナポレオンをモスクワから追い返したのはロシア陸軍ではなく厳しい冬だったにも拘らず、クリミア戦役ではロシアの領土内で英仏連合軍に敗退したにも拘らず、1877年にはトルコはプレーヴェンを包囲してロシア軍を苦しめ、最後に数の上で圧倒されて負けた事実があったにも拘らず、そして滿洲では日本に敗退したにも拘らず、無敵ロシアの不思議な伝説が世間全般に広く信じられていたし、ロシアは依然としてヨーロッパでは国の大きさと兵員の数の多さで最大の存在であることは間違いなかった
動員中のロシア兵1人当たりの平均輸送距離は700マイルと、ドイツ兵の4倍に対し、使用できる鉄道はドイツに比べ1平方キロにつき1/10に過ぎず、その上、ロシアの鉄道の軌道は外敵の侵入に備え、ドイツよりも広くできているため、特に敵の領土で行われる近代戦に兵を送り込むことは非凡で周到な組織力を必要とするにもかかわらず、ロシア陸軍には細かい点まで秩序だてて事に当たるという特質はまったくなかった
独軍の計画の中に東プロイセンの放棄は入っていなかった。東プロイセンは、豊かな農場と広大な牧場に恵まれた国で、鉄道網が縦横に張り巡らされ、1701年にこの地方の主要都市ケーニヒスベルクでホーエンツォレルン家の君主が初めてプロイセン王位に就いた後、歴代の王が戴冠の儀を行っている


戦争勃発
75日ドイツはオーストリアに対する支援を明言したのを機に、23日オーストリアがセルビアに最後通牒を発し、28日宣戦布告、29日のベオグラード砲撃と共に、ロシア軍が動員を開始、31日ドイツがロシアに対し最後通牒
戦争がヨーロッパ内の国境地帯全域に押し寄せ、突然のことに度を失った各国政府は戦争から身をかわそうと努めたがどうにもならなかった

第6章        81日のベルリン
81日、ドイツがロシアに宣戦布告の段になって、いざ戦争となるとロシア軍は動員に6週間かかると保証されていたもののスラブが大嫌いなカイゼルは東プロイセンを危険に晒すことに躊躇、2正面戦争を回避するためにアルザスに自治権を与えるという条件でフランスに中立を守らせることを考えたが、フランスが拒否、イギリスもドイツがロシアを攻撃しなければフランスと共に中立を守ると通告してきたため、カイゼルは全軍を東に向けるよう指示したが、モルトケがすでに綿密に組まれた作戦計画を変更することはできないと諌め、計画通りに西に向け軍の移動を開始
ドイツでは鉄道網が戦争の鍵になるとして、鉄道組織を軍の支配下に置いていた
東に全軍を移動する計画も存在したし、実際移動させることも可能だったが、モルトケの説得が功を奏し、夕刻予定通りドイツ軍の第1陣がルクセンブルクの町を占拠

第7章        81日のパリ、ロンドン
イギリスでは参戦派と反戦派が拮抗、ベルギーの中立は第二義的とされた。アイルランド自治問題が危機に発展。自治法案が議会を通過した結果、アイルランドの一部住民がアイルランドの自治に武力を持って抵抗すると脅し、軍部もそれを武力で押さえつけることを拒否して駐屯部隊の指揮官以下中枢が総辞職、陸軍大臣までが辞職して軍部内は騒然
内閣で1人並外れて活動的な海軍大臣チャーチルだけは、、大陸での戦争の匂いを嗅ぎつけて英国艦隊を戦時根拠地に配置できるよう集結の指示を出す
731日イギリス外相グレイは、フランスとドイツの政府に対し、他の強国がベルギーの中立を侵犯しない限り、それを尊重することを公式に確約するよう要請し、フランスは即刻了承の旨回答してきたが、ドイツは回答せず

第8章        最後通牒とブリュッセル
82日、ベルギー駐在のドイツ公使は、本国からの指示の下にベルギー政府に対し最後通牒を手交 ⇒ フランスがドイツ向けの進軍を期してベルギー領土を通過するとの情報を入手したとして、ベルギー陸軍がそれを遮断し得るとは考え兼ねるので、ドイツが自己保存の必要から敵の攻撃に対し先手を打たなければならないとして、独軍のベルギー領土通過を認めるよう12時間以内に回答を要求
同日朝、前日のドイツによるルクセンブルク侵攻への説明を求めるため、ベルギー政府はドイツ公使を読んで糾したところ、公使は「隣の屋根に火がついても、君らのうちは大丈夫」と答え、ベルギーの人たちはその言葉を信じようとした。
ベルギーの独立は過去70年間保障され、維持されてきたが、それはベルギーの歴史の中で、途切れることなく平和が続いた期間としては一番長い年月だった
1830年オレンジ家に対する反乱を最後に独立を勝ち取り、その後ヴィクトリア女王の母系の伯父にあたるザクセン=コーブルク家のレオポルドを王に抱いて国家を作り、繁栄を築いた。フラマン人と呼ばれるフランス系ベルギー人と、ベルギー南東に住みベルギー訛りのフランス語を話すワロン人との内輪もめ等にエネルギーを費やしたのも独立国としての満足な状態を隣国によって攪乱されずに享受したいという強い希望に基づいてのことだった
731日のドイツでの総動員令発令を知って、ベルギー陸軍の動員を開始するよう指示が出されたが、中立国である以上、他国が歴然と中立を犯さない限りは、公然と実際行動をとり得ない立場にあった
アルベール王は、バイエルンのヴィッテルスバッハ公爵の長女でドイツ生まれのエリザベート王妃を相談相手に、カイゼルに対し「政治的な障壁」のために公的に声明することはできないまでも、「血のつながりと友情の絆」によってアルベール王に対しベルギーの中立を尊重すること個人的かつ非公式に確約して欲しいとの嘆願書を出す。アルベール王の母親はプロイセン王室の遠い親戚で、かつカトリックのホーエンツォレルン・ジクマリンゲン家の公女マリ―だった。返事の代わりに届いたのが最後通牒で、4日も前に起草され、駐ベルギードイツ公使の下に送られていた
アルベール王は先代レオポルド王の弟の次男で、王子死去の後兄のボードワンも死んだために16歳で王位継承者のお鉢が回ってきたもの、故王からは期待されていなかったが、1909年即位すると、庶民的で気安く、体裁にこだわるブルジョアではなく、ボヘミアンな王家だったために国民の好感を勝ち得る
1910年にブリュッセルを訪問したカイゼルが、「決してベルギーを危険な立場に追い込むようなことはしない」と言ったこともあってベルギー国民はカイゼルを信じたし、ドイツは誠意をもってベルギーの中立を保証しているものと考えた。また、ベルギーを保護している条約への信頼を欠くようなことは避けようと、軍備の増強は避けたが、それをいいことに国内は経済問題など国内の雑事に翻弄され、軍紀はトルコ陸軍並みに低下するのを放任していた。陸軍は歩兵6個師団と騎兵1個師団で構成されていたが、装備も訓練も不十分、1910年新国王が強く要請するまで参謀本部もなかった
1311月にカイゼルからベルリンへ招待を受けたアルベール王は、独仏間の衝突必至との強い印象を受け、独軍侵攻への対応策を練った
83日、ベルギーはドイツの最後通牒に対し、断固拒否する回答を決議。直ちにドイツとの国境の橋梁と鉄道を破壊。ただ、英仏に対して軍事援助と共同作戦を要請することは、自国の中立がヨーロッパ強国の共同行為で大体において成功を見ていた以上、実際の侵略が始まる前には自殺行為であるとして思いとどまる

第9章        「落葉の頃には家へ帰れる」
フランス国民は、無政府主義の影響で愛国心は損なわれ、戦争が起これば重大な結果を引き起こすだろうと予想されていたが、いざ戦争に突入すると、国家的献身の熱意が高まっていった
英国は、自らが中心となって中立を保障したベルギーに対しドイツが最後通牒を発したところから、参戦を決意
ドイツが敢えて侵犯という冒険を犯したのは、戦争が短期間に終わると予想したからで、カイゼルは出征兵士たちに対し「諸君は木の葉が落ちる頃には家に帰れるだろう」と語った
多くは財政上の理由から、戦争は長く続かない、せいぜい6週間とみていたが、英国の新任陸軍大臣のキッチナー伯だけは、最低でも3年はかかると宣言
84日 ドイツのベルギー侵攻開始、アルベール王は中立保障国に協力体制を整えての共同軍事行動を懇請

戦闘
第10章     「手中の敵ゲーベン号をとり逃す」
老大国トルコは、ロシアを恐れ、英国を憎み、ドイツを信用しないままに、どちらにつくか腹を決めかねていたが、83日ドイツとの同盟条約締結に踏み切る
84日、ドイツの地中海艦隊である新型快速巡洋戦艦ゲーベン号と軽巡洋艦のブレスラウ号がコンスタンチノープルに向かう
マルタを本拠とするイギリス艦隊は、当初からゲーベンとブレスラウの動きを監視していたが、フランスの北アフリカからの植民地部隊の輸送を妨害すると予測していたために、トルコに向かうのを見逃す。イギリス海軍が、コンスタンチノープルの重要性に気付かなかったミス
トルコは、いずれにつくか帰趨を決めかねているところへ、ドイツの戦艦2隻がダーダネルス海峡に侵入。連合国側がトルコに両艦の武装解除を要求したが、トルコはイギリスに発注していた新造戦艦2隻の引き渡しを拒絶された代替としてドイツの2隻を買い取ることで対処。
これを機に戦の焔が世界の他の半分に広がる。ブルガリア、イタリア、ギリシャなどトルコの隣国も戦争に巻き込まれる。地中海の出口を塞がれたロシアは1年の半分は氷に閉ざされたままの北西部のアルハンゲリスク港と12800kmも離れたウラディオストックに頼らなければならなくなり、ロシアの輸出は98%、輸入は95%減少。ゲーベン号の航海が原因となって、ロシアが隔絶され、それに伴い種々の事態が生じた。ガリポリにおける無益な血なまぐさい悲劇、メソポタミア、スエズ、パレスチナでは連合軍の戦闘努力が牽制されてしまい、ひいてはオスマン帝国が崩壊し、中近東の歴史が大きく変わってしまった

第11章     リエージュとアルザス
独仏間では、それぞれの動きに関係なく戦線が展開、ドイツはベルギー東部の町リエージュを攻撃し、フランスはアルザス北部に侵入。堡類に囲まれたリエージュは天然の要害に恵まれ、旅順同様9カ月は持ちこたえられるだろうと予測
ベルギー軍を見くびっていたドイツ軍は装備も整えぬままに突撃するが、思わぬ反抗に会っててこずる
世界中がリエージュ要塞守備隊の頑強な抵抗に驚きの目を見張り、フランスはリエージュ市にレジョン・ドヌール1等勲章を、アルベール王に対し戦功章を贈って勇気をたたえた
816日に要塞は陥落、独軍右翼全軍が前進を始めたが、その行軍は当初15日に開始する予定だったので、リエージュは独軍の攻勢を2日遅延させたことになる。世界が予期したように2週間ではなかったが、ベルギーが連合国に与えたのは、2日でも2週間でもなく、人道を踏みにじった敵を打たずばやまずと奮い立たせた原因と例証だった

第12章     英国海外派遣軍大陸へ向かう
85日に参戦した英国を率いたのは新たに陸軍大臣に就任した陸軍元帥のキッチナー伯爵 ⇒ 元植民地相で、名声とともに国民的人気を持ち大衆を鎮めるために欠かせない人物
814日 フランス軍を支援し協力するために、ルーアンに上陸

第13章     サンブル・エ・ミューズ
フランス軍の最右翼はロレーヌの攻撃を開始
ベルギー領内では、ミューズ川とサンブル川の合流点のナミュール要塞での激しい攻防が続く

第14章     ロレーヌ、アルデンヌ、シャルルロワ、モンスの崩潰
2024日における上記4カ所の西部戦線一帯の戦火を一括して「国境地帯の会戦」という
仏軍の要塞攻撃は独軍の野戦砲によって粉砕され、攻撃一辺倒の作戦は崩壊したが、なおも独軍より優勢と見て攻撃を継続し、潰滅的な被害を受ける
モンスの戦いでは、英軍は独軍の最右翼に対峙したが、突然の仏軍の退却でともに退かざるを得なかったが、後に武勇と栄光の中に光を放つ戦いとして歴史にとどめられた
24日現在明瞭に分かっていたことは、仏軍が退却しつつあり、独軍は圧倒的な勢いで前進中という事実で、特に6か月はもつだろうと言われていたナミュールが僅か4日で落ちたことは衝撃。ベルギー全土とフランス北部を占領することにより、独軍は両国の工業生産力祖手中に収め、ドイツの野望は一層募り、フランスをして失ったものは最後の一握りまで奪い返し、可能な限りの賠償額を要求するため断固戦い抜く決意を固めさせることになった

第15章     「コサック兵が来るぞ!
ロシアはフランスとの同盟に感謝し、オーストリアに対する作戦は「第二義的なもの」と考え、フランスに与えた約束とそれを実行するにあたっての措置との間に開きがあることは誰の目にも明らか。ロシア陸軍が保有していたトラックは僅かに418台、馬による物資輸送に頼らねばならない状況
動員の効率を上げるためにウォッカ禁止令を一時的措置から戦争終結まで延長したが、ウォッカは政府の専売だったので、勅令が出た途端国の収入は半減。通常戦争をやろうとする国の政府は増収手段として課税対象を増やそうと躍起になるものだが、有史以来戦時中に国の主要な収入源を排除した国は他に見当たらない
それでも一部のロシア軍は東プロイセンに侵攻を開始したが、プロイセンの鉄道網が使えないためすぐに前線と後方との間で補給その他の連絡が混乱に陥ったが、それでも「コサック兵が来るぞ!」という東プロイセンからの叫びが国内にこだまし、独軍の必死の抵抗が恥じあった

第16章     タンネンベルク
東部戦線には、退役将官のヒンデンブルクが選ばれ、リエージュで戦果を挙げたばかりのルーデンドルフが参謀として派遣されるとともに、一部の兵力を当初計画に反して西部戦線から東部に移動
826日タンネンベルク(ケーニヒスベルクの南の森林地帯)の戦い  ロシア軍は兵糧の欠如のみならず、情報もお互い共有せず、部隊間の連絡もなく、司令部からの指示も平文の電報だったので、お互い孤立して、相手の様子も分からないままに戦い、結局は独軍の勝利に終わるが、30万の両軍には多大の損害が発生
ロシアは、ガリツィアでは独軍を破り、オーストリア・ハンガリー軍との戦いでも壊滅的な勝利を得たが、タンネンベルクでの惨敗の影響は、最後まで尾を引いた。逆に独軍のヒンデンブルクは東プロイセン救出の英雄となり神話が出来る
フランスは、この敗戦を遺憾としたが、人力資源を無尽蔵と考えていたロシアはそれなりに連合国のために払った犠牲として誇りに思うと共に、冷静に受け止めていたし、実際に東部戦線に増派された独軍の勢力をマルヌ戦線から排除するという成果もあった

第17章     ルーヴァンの火焔
ベルギーに侵攻した独軍は、行く先々で抵抗にあったため残虐な略奪行為を繰り返しながらベルギー国内を縦断
825日 リエージュとブリュッセルとの間にある古都ルーヴァンが独軍によって焼き打ちに会う  1426年に創立された大学には中世紀に書かれた写本と古版本のコレクションがあり、市公会堂は「ゴチック芸術の至宝」とまで言われたが、突然6日間の焼き打ちの対象に晒され、灰燼に帰す。ベルギー政府が公式に抗議をしただけでなく、アメリカ公使館も正式に各国に報告、世界中の激昂を呼び起こす。1914年当時は、都市の破壊とか、故意にしかも公然と非戦闘員を攻撃することは世間には全くのショックで、英国では独軍の行為を「フン族の行軍」とか「文明への背信」として批判
これ以後は、事態は硬化の一途を辿り、両陣営とも引くに引けなくなって戦争が終わるまでその身をかすがいで締め付けることになり、人命と貴重は財貨の損害が増大し、その結果各国はなんとかその償いを得ようと決意も新たに奮闘することになった

第18章     公海、封鎖、大中立国
英国海軍本部が最悪の危険とみなしたのは、英国の通商の妨害や、海運業の崩壊  英国は国内消費食糧の2/3を輸入に頼り生活必需物資を英国船が運ぶ外国商品に依存。英貨物船の総トン数は、世界全体の商船の総トン数の43%で、世界の海上貿易高の1/2以上を占めていた
開戦と共にチャーチルは英海軍の主力艦隊をスコットランド沖北海の北端に位置するスキャパ・フロウに集結
かねてからドイツは、英海軍に対抗して海軍力の増強につとめ、装備では英海軍を上回るまでになっていた
1914年、第1次大戦の交戦国に米・蘭・伊・西を加えた国々が会議を開き、中立国の貿易の権利を交戦国の封鎖の権利の優位に置いた「ロンドン宣言」を発表したが、イギリス議会は批准を拒否
イギリスは、敵国の海上輸送を厳重に封鎖すると同時に、他方で公海の自由航行権を主張するアメリカという大中立国と友好関係を維持するという、2つが同時に必要となる
米大統領ウィルソンは、あくまでも厳しい、清教徒的な信念で中立を固持しようと努めた
828日のヘルゴラント・バイト湾の海戦が、英独間唯一の戦闘。ドイツは劣勢に立たされ、以後ドイツの海上貿易は完全に崩壊

第19章     退却
824日独軍右翼の最右端がフランスに侵入、英軍も防備に加わって、パリ防衛に走る

第20章     前線はパリだ
この8月、パリ始まって以来初めて、パリはフランス人のパリになった

第21章     フォン・クルック軍の方向転換
動員後30日を過ぎて、独軍の戦闘が最高潮に達しているとき、モルトケは進軍が予定通り進んでいないことに気を病んでいた
破壊された兵站線の修理が捗らず、行軍の速度に追いつけなかったため、飢えが行軍を悲惨にした
93日 フランス政府はボルドーに避難、パリを犠牲にしてセーヌ川までの退却を決め、全軍の立て直しを図ろうとした
英軍は、間違ってパリ東部のマルヌ川まで退却。それを追ったクルック将軍の独軍も、パリを目前に英軍を追って東に旋回

第22章     「紳士諸君、マルヌで戦おう」
クルックの独軍は、単に追撃と掃討戦だと思い込んで警戒を怠っていたため、急ぎ過ぎた追撃戦に伸びきって手薄になった右翼の側面に、パリ防衛軍が突撃する隙をさらけ出し、それと同時に退却していた仏軍が反転攻勢に出る好機が到来、仏軍のジョッフルが全軍将校に「紳士諸君、マルヌで戦おう」と告げる

マルヌ会戦後
独軍の退却に終わるが、マルヌの会戦がフランスにとって、連合軍にとって、ひいては世界にとって悲劇だったのは、戦勝の瀬戸際に来て、勝利をつかみ損ねたこと
会戦前、独軍は勝利寸前、仏軍は惨敗の瀬戸際にあったが、この会戦で形勢は一変、「マルヌの奇跡」と呼ばれる所以 ⇒ 独軍失敗の根本的原因は、仏軍兵士が立ち直りのための並外れて素晴らしい特質を備えていたことにある
歴史に「もしも」はないが、決定的な「もしも」は、6週間という予定がベルギーを通過しての進軍に基礎をおいていなかったならば、ベルギーという敵国も増えず、マルヌに配置された独軍師団の数が減り、連合軍の戦列に英国の5師団が加わることもなかったのである
仏軍が12日に亘って苦難に満ちた悲劇的な退却を続けながらも、組織が崩れ散乱した破片の集団と化さなかったのは、ジョッフルの揺るがぬ信念がものをいったから。独仏国境での戦いでの惨敗の後にフランスが必要としたあるものを、ジョッフルは確実に持っていた。仏軍に退却を停止させ、再び攻撃発起を可能にし得た人物は彼をおいてほかには考えられない
タクシーの目覚ましい活躍がこの会戦を一層有名にした。パリ要塞司令部はタクシー100台を徴用、さらに500台を追加徴用して、計6000人の兵士を新戦力として戦場へと送り出した
マルヌ会戦の未完の勝利の後、いくつかの戦いが続くが、冬になると戦争は一歩一歩塹壕戦の殺伐な膠着状態に落ち込み、スイスからイギリス海峡まで、壊疽の傷のように連なった塹壕が陣地戦と消耗戦を固定化、常軌を逸した泥まみれの殺戮行為に彩られたその戦争は、西部戦線と名付けられ、その後4年続く
人間は何の希望も持たずにこれほど大規模で苦痛に満ちた戦争に耐えられるものではないが、それ以上に人々に残ったのは幻滅
マルヌ会戦は世界史上名だたる決戦となったが、それは究極においてドイツが負け、連合軍が勝つに至った原因を孕んでいたからではなく、戦争を長引かせることになったから
81か月間の仏軍の損害は、実兵力160万のうち20万だが、その大部分は最初の4日間で行われた「国境の戦い」で生じたもの










1914年サラエボの教訓に学ぶ 
日本経済新聞 2014/6/27付 社説
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 ちょうど100年前のあす6月28日、ボスニア・ヘルツェゴビナのサラエボ。市街を流れる川にかかる橋のたもとで鳴りひびいた銃声が世界を戦争のうずに巻き込んだ。なぜだれも望まなかったのに大戦になってしまったのか。今日につながる多くの示唆がある。
 オーストリア=ハンガリー帝国の皇位継承者だったフェルディナント夫妻が凶弾に倒れたサラエボ事件は、セルビア人によるものだった。オーストリアは最大の敵・セルビアをたたく好機とみた。
偶発的事件から大戦に
 ドイツの支援を受けたオーストリア。対するセルビア。後ろ盾はロシアだった。オーストリアとセルビアの戦争は8月、ドイツとロシアの戦争になった。
 ドイツはフランスにも宣戦布告しベルギーに侵攻すると英国がドイツに宣戦布告。バルカン半島の局地紛争が欧州全土に広がった。
 第1次大戦の過程を克明にえがいたバーバラ・タックマンの名著『8月の砲声』を読むと、各国とも回避したいと思いながらずるずると、いつの間にか大戦になってしまった様子がよくわかる。
 「各国の元首は、戦争のせとぎわに立たされてがくぜんとし、あとへ引こうとしたが、戦争のスケジュールは彼らを容赦なく力ずくで前方へ引きずっていった」
 だれもが読み違えた。まさかという思いだったに違いない。その背景には、欧州各国の相互依存関係が深まり、戦争は無益で意味のないものになったという時代認識があった。
 その見方を形成するのに影響を及ぼした1冊の本がある。英国の著述家であるノーマン・エンジェルの『ザ・グレート・イリュージョン(大いなる幻想)』だ。
 11カ国語に翻訳され、世界的なベストセラーになった。日本では社会運動家の安部磯雄が『現代戦争論 兵力と国利の関係』(1912年)の邦題で翻訳した。
 交通の発達で分業が盛んになり相互関係が生じた結果、「政治と経済の境界が一致せざるに至り」「兵力はますます効用を失いつつあり、遂には経済的に無効となった」「戦争が不可能ということではなくて、無効である」と説く。
 欧州では経済的な相互依存関係が深まっているので、戦争で相手国の領土をとって豊かになるというのは幻想で、もはや戦争は無益だとの論理展開だ。
 しかしそれは「大いなる幻想」だった。引き金は暗殺という偶発的な事件だったが、各国は相手の出方を見誤った。構造的な要因もあった。覇権国家だった英国の力が低下し、ドイツが膨張する中で力の均衡に変化が生じていた。国内の不満を解消するため関心を外に向ける内政的な思惑もあった。
 「8月の砲声」はすぐにやむと思われていた。中外商業新報(日本経済新聞の前身)が開戦直後、政財界の55人に「大戦争はいつまで続くか」を聞いた。時期を明示した46人中45人が1年以内におわると回答した。ところが4年間つづく。ここでも読みがはずれた。
 第1次大戦はわれわれに多くのことを教えてくれるが、今、必要なのはサラエボの含意に思いをはせることだろう。
 第1は偶発的な衝突は回避しなければならないということだ。尖閣諸島や防空識別圏でそのおそれはないのか。グレーゾーンの守りを固めるのは大事だが、相手の出方を読み間違えず危機を招かないためには外交努力が求められる。
力の均衡崩れる危うさ
 第2は力の均衡の問題だ。中国の台頭でパワーシフトがおこっており、覇権国家である米国の力の低下も相まって、バランスが崩れるときの危うさが世界に漂っているのを知っておく必要がある。
 第3はグローバル化が進む中でのナショナリズムの扱いだ。どこの国でも所得格差をはじめとして社会への不満がうずまく。外に敵をつくることでそれを解消し、政権を維持しようとする動きが出てくる。政治がナショナリズムをきちんと管理できるかが焦点だ。
 五百旗頭真・前防衛大学校長は第1次大戦からの100年の歴史をふまえて次のように総括する。
 「第1次大戦の教訓はかりそめにもいくさはすまじだ。想定外の展開がおこり止められなくなる」 「第2次大戦の教訓は力をつけて勢いづく国に融和策をとってはならない。途方もなく弾みを与え、事態の収拾を不可能にする」
 「力をつけ台頭するものには国際的な連携で自制を余儀なくさせ、非軍事的な手段であれば受けいれて協力関係をつくっていく」
 歴史はまず繰り返さない。だが学ぶべき教訓がそこにはある。


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第一次世界大戦



第一次世界大戦英語: World War I)は、1914から1918にかけて戦われた人類史上最初の世界大戦である。
ヨーロッパが主戦場となったが、戦闘はアフリカ中東東アジア太平洋大西洋インド洋にもおよび世界の多数の国が参戦した。
第二次世界大戦が勃発する以前は、世界大戦争(World War)と呼ばれていた。あるいは大戦争(Great War)、諸国民の戦争(War of the Nations)、欧州大戦(War in Europe)とも呼ばれていた。当初には諸戦争を終わらせる戦争War to end wars)という表現もあった[3]

概要[編集]

ヨーロッパの参戦国 同盟国(赤紫)、連合国(薄緑)、中立国(黄)。
当時のヨーロッパ列強は複雑な同盟・対立関係の中にあった。列強の参謀本部は敵国の侵略に備え、総動員を含む戦争計画を立案していた。19146月、オーストリア=ハンガリー帝国皇位継承者フランツ・フェルディナント大公夫妻が銃撃されるというサラエボ事件を契機に、各国の軍部は総動員を発令した。各国政府および君主は開戦を避けるため力を尽くしたが、戦争計画の連鎖的発動を止めることができず、瞬く間に世界大戦へと発展したとされる[4]
各国はドイツ・オーストリア・オスマン帝国ブルガリアからなる中央同盟国(同盟国とも称する)と、三国協商を形成していたイギリスフランスロシアを中心とする連合国(協商国とも称する)の2つの陣営に分かれ、日本イタリアアメリカ合衆国も後に連合国側に立ち参戦した。多くの人々は戦争が早期に(「クリスマスまでには」)終結すると楽観していた。しかし、機関銃の組織的運用等により防御側優位の状況が生じ、弾幕を避けるために塹壕を掘りながら戦いを進める「塹壕戦」が主流となったため戦線は膠着し、戦争は長期化した。この結果、大戦参加国は国民経済を総動員する国家総力戦を強いられることとなり、それまでの常識をはるかに超える物的・人的被害がもたらされた。
長期戦により一般市民への統制は強化され、海上封鎖の影響により植民地との連絡が断たれた同盟諸国は経済が疲弊した。1918に入るとトルコ、オーストリアで革命が発生して帝国が瓦解。ドイツでも、11月にキール軍港での水兵の反乱をきっかけに、ドイツ皇帝ヴィルヘルム2は退位に追い込まれ大戦は終結した。足かけ5年にわたった戦争で900万人以上の兵士が戦死し、戦争終結時には史上2番目に犠牲者の多い戦争として記録された[注釈 1]
また、この戦争はボリシェヴィキロシア革命を起こす契機となり、20世紀に社会主義が世界を席巻する契機ともなった。

軍事的側面[編集]

19世紀後半以降、鉄道が軍事的に重要な意味を持つようになった。鉄道網が整備された国々では、平時には徴兵制度を施行して戦力となりうる国民の大部分に訓練を施し、戦時には鉄道を使って国民を総動員することで、短期間のうちに国境線に常備軍の規模をはるかに超える大部隊を集結させることが可能となった。総動員下令のタイミングが遅れれば戦争の敗北に直結しかねないと考えられたため、列強の参謀本部は鉄道ダイヤまでを含む綿密な戦争計画を研究した。
戦術的には鉄道は防御側を優位に立たせる効果を持った。攻撃側の歩兵部隊が徒歩でしか前進できないのに対し、濃密な鉄道網を持っていたドイツやフランスは、防御側に立ったときには圧倒的に速い速度で予備兵力を集結させることができたのである。 タンネンベルクの戦いでは、東プロイセンに進攻してきたロシア軍に対し、ドイツ軍は鉄道輸送を効果的に活用することで各個撃破に成功している。
さらに、19世紀後半以降、歩兵は射程距離の長いライフル銃を装備するようになった。これにより弾幕射撃の威力と精度が増し、ナポレオン戦争の時代まで勝敗を決する地位を占めてきた騎兵突撃が無力化された。一方で、第一次世界大戦において初めて本格的に投入された飛行機戦車などの兵器は、性能や数量がいまだ不十分であり、戦場において決定的な役割を果たすまでには至らなかった。第一次世界大戦における戦場の主役は、攻撃においても防御においても歩兵だった。
このような防御側優位の状況の中、西部戦線では塹壕戦が生起した。スイス国境からイギリス海峡まで延びた塹壕線に沿って数百万の若者が動員され、ライフル銃や機関銃による弾幕射撃の前に生身の体をさらした。こうして、それまでに行われた国家間の戦争に比べ、死傷者の数が飛躍的に増加した。また、塹壕戦を制する目的で、第一次世界大戦では初めて化学兵器(毒ガス)が使われた。

背景[編集]

1867アウスグライヒによりオーストリア=ハンガリー帝国が誕生した。ハプスブルク家の長はオーストリア皇帝とハンガリー王を兼位し、ハンガリーは軍事・外交・財政を除く広範な自治権を得た。しかしこの大規模な改革によってすら、帝国内の複雑な民族問題が解決されるには至らなかった。当時の帝国内には9言語を話す16の主要な民族グループ、および5つの主な宗教が混在していた。
帝国の最大の関心は東方問題にあった。台頭するスラヴ人の民族主義運動は、帝国政府を主導するドイツ人マジャール人にとって悩みの種だった。1912年から1913年にかけて行われたバルカン戦争の結果、隣国のスラブ人国家であるセルビアの領土が約2倍に拡張され、帝国は国内のスラブ民族運動を警戒する必要に迫られた。一方でセルビア人民族主義者は、帝国南部は南スラブ連合国家に吸収されるべきだと考えていた。この冒険的民族主義に対して、自らスラブ人の守護者を任ずるロシアは一定の支持を与えていた。さらに、1908年にオーストリアはボスニア・ヘルツェゴビナを併合していたため、ボスニアヘルツェゴビナのセルビア人はオーストリアに不満を持っていた。オーストリア政府は、スラブ人民族主義運動が他の民族グループへと伝播し、さらにロシアが介入する事態を危惧していた。

ドイツ帝国とシュリーフェン・プラン[編集]

ドイツ帝国1871普仏戦争フランス第二帝政に勝利し成立した。ドイツはフランスからアルザス・ロレーヌ地方を奪ったが、フランス国内には反独感情が残された。ドイツ宰相オットー・フォン・ビスマルクは、フランスを国際的に孤立させてアルザス・ロレーヌ奪回の意図を挫き、ドイツの安全を図る目的から、1882年にオーストリア、イタリア三国同盟を締結、1887年にはロシアのバルカン半島への進出を黙認する見返りに独露再保障条約を締結し、ビスマルク体制を構築した。しかし1890年にビスマルクが失脚すると、独露再保障条約は延長されなかった。さらに1894年、フランスとロシアは露仏同盟を締結し、ドイツが対フランス・対ロシアの二正面作戦に直面する可能性が高まった。
ドイツ参謀総長アルフレート・フォン・シュリーフェンは、二正面作戦に勝利するための手段としてシュリーフェン・プランを立案した。この戦争計画は、広大なロシアが総動員完結までに要する時間差を利用するもので、ロシアが総動員を発令したならば、直ちに中立国ベルギーを侵略してフランス軍の背後に回りこみ、対仏戦争に早期に勝利し、その後反転してロシアを叩く計画だった。しかしシュリーフェン・プランは、純軍事技術的側面を優先させて外交による戦争回避の努力を無視し、また中立国ベルギーを侵犯することによる国際的汚名やイギリスの参戦を招く危険性がありながら押し通すというものだった。シュリーフェン・プランは、ドイツを世界規模の大戦争へと突き落とす可能性の高い、きわめて危険な戦争計画でもあった。

イギリスの対ドイツ政策[編集]

イギリスは自国の安全保障の観点から、伝統的にグレートブリテン島対岸の低地諸国を中立化させる政策を実行してきた。1839年のロンドン条約において、イギリスはベルギーを独立させ、その中立を保証した。イギリスは、フランスとドイツの間で戦争が発生した場合に、もしベルギーの中立が侵犯されれば、先に侵犯した側の相手側に立って参戦すると表明していた。
だが19世紀末になると、ドイツの国力の伸張により、次第にイギリスとドイツとの対立関係が深まっていった。イギリスとドイツは海上における覇権を競って建艦競争を繰り広げた。イギリスは覇権維持のため、1904年にフランスとの長年の対立関係を解消して英仏協商を締結し、他にも1902年に日英同盟を、1907年に英露協商を締結した。こうしてヨーロッパ列強は、ドイツ・オーストリア・イタリアの三国同盟と、イギリス・フランス・ロシアの三国協商との対立を軸とし、さらに多数の地域的な対立を抱えるという複雑な国際関係を形成した。

開戦[編集]

サラエボ事件とロシア総動員[編集]

1914628、オーストリア=ハンガリー帝国皇帝フランツ・ヨーゼフ1の世継、フランツ・フェルディナント大公が、ボスニアの首都、サラエボで「青年ボスニア英語版 (Mlada Bosna, ムラダ・ボスナ)」のボスニア系セルビア人ボスニア語版で民族主義者のガヴリロ・プリンツィプにより暗殺された。オーストリアのレオポルト・ベルヒトルト外相(二重帝国の共通外相)は懲罰的な対セルビア戦を目論み、723日セルビア政府に10箇条のいわゆるオーストリア最後通牒を送付して48時間以内の無条件受け入れを要求した。セルビア政府はオーストリア官憲を事件の容疑者の司法手続きに参加させることを除き、要求に同意したが、オーストリアはセルビアの条件付き承諾に対し納得せず、725日に国交断絶に踏み切った。躊躇するハンガリー首相イシュトヴァーン・ティサと皇帝の反対を押し切る形で、728日にセルビアに対する宣戦布告が行われた。
ロシア政府は1909年に、オーストリアのボスニア併合を承諾する代わりにセルビア独立を支持することを誓約していた。オーストリアのセルビアへの宣戦布告を受けて、ロシア軍部は戦争準備を主張し皇帝ニコライ2へ圧力を掛けた。ドイツ皇帝ヴィルヘルム2とロシア皇帝ニコライ2世の間の電報交渉[注釈 2]は決裂。ロシア政府は、部分動員では手遅れになる可能性を想定し、731日に総動員令を布告した。ドイツはロシアに動員解除を要求したが、ロシア政府は動員を解除した場合には短期間で再び戦時体制に戻すことは難しいと考えたため、要求に応じなかった。

シュリーフェン・プランの発動とイギリス参戦[編集]

ドイツ政府は、三国同盟に基づいて対応を相談したオーストリアに対し、セルビアへの強硬論を説いた。ロシアの総動員下令を受けて、参謀総長小モルトケはかねてからのシュリーフェン・プランを発動させて81日総動員を下令し、同時にベルギーに対し無害通行権を要求した。ドイツ政府は翌2日にロシアに対して宣戦布告し、さらに3日にはフランスに対して宣戦布告した。
ドイツによる突然の挑戦に直面したフランスは、81日に総動員を下令し、対ドイツ戦を想定したプラン17(fr:Plan_XVII)と称される戦争計画を発動した。84日、首相ルネ・ヴィヴィアニ(fr:René Viviani)は、議会に戦争遂行のための「神聖同盟」の結成を呼びかけた。議案は全会一致で可決され、議会は全権委任の挙国一致体制を承認した。
イギリス政府は、ドイツ軍のベルギー侵入を確認すると、外交交渉を諦め、84日にドイツに宣戦布告し、フランスへの海外派遣軍の派遣を決定した[注釈 3]。また、1867年に自治領となっていたカナダも、宗主国イギリスに従い参戦した。同様にオーストラリアニュージーランドも参戦することとなる。

各国の対応[編集]

日本日英同盟によりイギリスと同盟関係にあった。開戦に際して、イギリス政府からの要請を受け、連合国側として第一次世界大戦に参戦した。内閣総理大臣大隈重信は、イギリスからの派兵要請を受けると、御前会議にもかけず、議会における承認も軍統帥部との折衝も行わないまま、緊急会議において要請から36時間後には参戦の方針を決定した。大隈の前例無視と軍部軽視は後に政府と軍部の関係悪化を招くことになる。日本政府は815日、ドイツに対し最後通牒というべき勧告を行った。日本政府が参戦に慎重だったことから異例の一週間の期限が置かれたが、結局ドイツが無回答の意志を示したため、日本政府は23日に対ドイツ宣戦を布告した。
イタリアでは参戦に対して、賛否が分かれた。1882年にドイツ・オーストリア・イタリアから成る三国同盟を締結していたが、「未回収のイタリア」と呼ばれたオーストリアとの間の領土問題から亀裂が生じていたからである。同盟では、ドイツとフランスが交戦した場合、軍団をライン地域に派遣することになっていた。これに従って、参謀総長ルイージ・カドルナが軍団派遣を準備し、国王もそれを了承した82日、イタリア政府は中立を表明した。 その後、イギリス・フランスと接近し、1915年に連合国側に立ち参戦した。
オスマン帝国は数度にわたる露土戦争においてロシアと対立関係にあり、中央同盟国に加わった。
北欧諸国は大戦中一貫して中立を貫いた。19141218スウェーデン国王グスタフ5は、デンマークノルウェーの両国王を招いて三国国王会議を開き北欧諸国の中立維持を発表した。これらの国はどちらの陣営に対しても強い利害関係が存在しなかった。スウェーデンにおいては親ドイツの雰囲気を持っていたが、これも伝統的政策に則って中立を宣言した。ただしロシア革命後のフィンランド内戦において、スウェーデン政府はフィンランドへの義勇軍派遣を黙認している。
アメリカ合衆国は当時モンロー主義を掲げ、交戦国との同盟関係は無かった。さらに開戦時にアメリカは中米諸国においてメキシコ革命に介入するなど軍事活動を行っていたため、当初は中立を宣言していた。政府のみならず、国民の間にも孤立主義を奉じる空気が大きかった。大戦中には両陣営の仲介役として大戦終結のための外交も行なっていた。しかし後にルシタニア号事件やドイツの無差別潜水艦作戦再開、ツィンメルマン電報事件を受け、世論ではドイツ非難の声が高まり、1917年に連合国側に立って参戦した。ただし、フランスやイギリスが敗北した場合に両国への多額の貸付金が回収できなくなることを恐れたとの見方もある。[5]

経過[編集]

序盤戦・ロマンティシズムから塹壕戦へ[編集]

191484日時点の両陣営 連合国(緑)、連合国の植民地と占領地(薄緑)、同盟国(橙)、同盟国の植民地と占領地(薄橙)
前進するドイツ軍 191487
1914年の開戦時、普仏戦争以来ヨーロッパでは約40年ぶりとなる大規模な戦争は、騎士道精神に彩られたロマンチックな姿が想像され、両陣営の首脳部・国民共に戦争の先行きを楽観視していた。多くの若者たちが、戦争の興奮によって想像力を掻きたてられ、「この戦争は短期決戦で終わるだろう」「クリスマスまでには家に帰れるだろう」と想定し、国家宣伝と愛国心の熱情に押されて軍隊へと志願した。オーストリアの作家シュテファン・ツヴァイクは、その当時の兵士たちの気持ちを、こう解説する。「あの頃は、人々はまだ疑うことを知らなかった。『ロマンにあふれた遠足』『荒々しい、男らしい冒険』戦争は3週間。出征すれば、息もつかぬうちにすぐ終わる。大した犠牲を出すこともない。私達は、こんな風に1914年の戦争を単純に思い描いていた。クリスマスまでには家に帰ってくる。新しい兵士たちは、笑いながら母親に叫んだ。『クリスマスに、また!』」(NHKスペシャル「映像の世紀第2集『大量殺戮の完成』」の中からツヴァイク著「昨日の世界」より)フランスでは、予備役兵はこの戦争を神聖な祖国防衛戦争としてとらえ、『ラ・マルセイエーズ』を高唱し、アルザス・ロレーヌ奪還に燃えた。ドイツでは、民衆は戦争を漠然とした不安や不満を解決する手段として歓迎した[6][7]
しかし一部の指導者たちはこの戦争に深い悲観と憂慮を抱いていた。イギリス陸軍のホレイショ・キッチナーは、戦争は長期化して膨大な犠牲を生じさせると予測し、大規模な新兵募集によるキッチナー陸軍の構想に着手した。国際金融市場は7月下旬から8月初旬に深刻な危機に陥った。

オーストリア軍の緒戦での混乱[編集]

中央同盟国では緒戦の戦略に関する齟齬が発生していた。ドイツはオーストリアのセルビア進攻を支援すると確約していたが、ロシアとフランスの参戦が明らかになると、シュリーフェン・プランに基づく対フランス戦を優先させ、オーストリア軍にはロシア軍に対する防御体勢を取ることを求めた。対セルビア戦を準備していたオーストリア軍は、既に動員が完結していた軍を北方のロシア軍と対峙させるために大規模に再移動させざるを得なくなり、各地で鉄道輸送に混乱が生じた。
オーストリア軍とセルビア軍との本格的な戦闘は、812日にセルビア西部ドリナ川沿いで始まった。オーストリア軍は強行渡河に出たが、セルビア軍は防御陣地を構築して激しい戦闘となり、819日、オーストリア軍はドリナ川を渡って退却した。これは戦争における連合軍の初めての勝利だった。オーストリア軍はセルビアを攻略するという主目標を達成できず、以後東部戦線イタリア戦線などの多正面作戦を強いられることになる。

シュリーフェン・プランの頓挫[編集]

マルヌ戦でフランス兵を輸送したタクシー(写真は模型)
ドイツ政府はシュリーフェン・プランに基づき、82日、ベルギー政府に対して無条件通過権を要求した。ベルギーはこれを拒絶、ドイツ軍は84日午前8時、リエージュ東方で国境を突破しベルギーとルクセンブルクへ進攻した。ベルギー軍はリエージュの戦い85 - 816日)で防戦を試みたものの、質・量ともに勝るドイツ軍に圧倒された。だがベルギーは、軍民共に鉄道トンネルや橋梁を爆破するなどしてドイツ軍の進撃を遅らせ、またドイツによる中立侵犯はイギリスに連合国側に立った参戦を決断させた。
イギリス政府はキッチナーを陸軍大臣に任命し、ジョン・フレンチ指揮下のイギリス海外派遣軍(BEF)をフランスへ派遣した。フランドルにおいてドイツ軍と英仏軍との最初の戦闘が行われ、このフロンティアの戦い814 - 824日)でドイツ軍は英仏軍を圧倒した。しかし英仏軍の抵抗による遅延と、予想外に迅速だったロシア軍の動員により、シュリーフェン・プランは現実との間に差を生じつつあった。ロシア軍はまず動員の完結した第1軍と第2軍をもって東プロイセンを攻撃した。ドイツ軍は一部を割いてパウル・フォン・ヒンデンブルクエーリヒ・ルーデンドルフの指揮下に第8軍を編成し、タンネンベルクの戦い817 - 92日)においてロシア軍を各個撃破した。だがこの戦闘は、ドイツ軍に対しても、西部戦線における戦力不足という影響を与える。
9月、ドイツ軍はパリ東方のマルヌ川まで迫ったものの、マルヌ会戦95 - 910日)において、フランス陸軍パリ防衛司令官のジョゼフ・ガリエニルノータクシーを使った史上空前のピストン輸送を実施し、防衛線を構築してドイツ軍の侵攻を阻止した。ドイツ軍は後退を余儀なくされ、シュリーフェン・プランは頓挫した。

植民地での戦闘[編集]

アフリカ大陸においては、88日、英仏の連合軍がドイツ保護領のトーゴランド(現在のトーゴ)に侵入し、810日にはドイツ領南西アフリカのドイツ軍部隊がイギリス領南アフリカ(現在の南アフリカ共和国)を攻撃した。このとき南アフリカのボーア人がドイツ軍の攻撃に呼応してマリッツ反乱を起こしている。カメルーンでは1916年二月までドイツ軍の抵抗が続いたが、最終的に中立国であったスペイン領の赤道ギニアに退避し同地で武装解除した。ドイツ領東アフリカではパウル・フォン・レットウ=フォルベックが率いる部隊が巧妙なゲリラ戦法で大戦終結まで交戦を続けた。太平洋では、830日にニュージーランド軍が太平洋のドイツ領サモア(現在のサモア)を占領した。また911日にオーストラリア軍がノイポンメルン島(ドイツ領ニューギニアの一部、現在のニューブリテン島)に上陸するなど、数か月の内に連合国側が太平洋のドイツ軍部隊を降伏させた。117日には、ドイツの中国での拠点青島を日本・イギリス連合軍が攻略した(青島の戦い)。
ガスマスクを着用し塹壕に隠れるオーストラリア兵
イーペル
 1917

塹壕戦の始まり[編集]

第一次マルヌ会戦の後、両軍はフランス北東部に塹壕を構築し持久戦へと移行した。両軍が築き始めた塹壕線は、やがてスイス国境からベルギーのフラマン海岸まで続く線として繋がった。いわゆる「海へのレース」である。各国の弾薬消費量も戦前の予想をはるかに上回る量となった。陰鬱な塹壕戦はその後4年間続くが、両軍の軍指導者はそれまでの作戦や戦術を根本的に改めようとはしなかった。司令官が交代しても、後任は同じ軍事思想を身に付けた軍人であり、ただ兵員や兵器の量を増やし、攻撃箇所を変更するぐらいしか変化はなかった。迫撃砲火炎放射器毒ガス戦車戦闘機など新兵器が次々に登場したが、それらはいずれも戦局を変える決定的要因にはならず、西部戦線での戦闘は長期消耗戦の様相を呈した。
ソンムの戦いのイギリス軍 19167
ドイツ軍が占領地を防御しようとする一方で、英仏軍は攻勢をとろうと努めた。英仏軍の塹壕は、ドイツ軍の防御線を突破するまでの一時的なものとしか考えられておらず、ドイツ軍の塹壕は英仏軍の塹壕よりも堅固に構築されていた。1915年から1917年を通じて、両軍は何百万という死傷者を出したが、英仏軍の損害はドイツ軍の損害を上回った。1916年のヴェルダンの戦い、そして1916年夏のソンムの戦いにおける英仏軍の失敗により、フランス陸軍は一時は崩壊の瀬戸際まで追い詰められた。1917年春のニヴェル攻勢では、無益な正面攻撃でフランス歩兵部隊が大損害を受けたために、戦闘後に抗命事件が発生した。

中東戦線[編集]

ガリポリ上陸作戦[編集]

ダーダネルス海峡を潜航して突破した英潜水艦HMS E14E.ボイル艦長
U21の魚雷を受け沈みつつある英戦艦マジェスティック
ガリポリの戦い
 1915
オスマン帝国は戦争が始まるとドイツに対して対ロシアの攻守同盟を申し入れたが、参戦するか否かは決めかねていた。オスマン帝国の背中を押したのはドイツの巡洋戦艦ゲーベン軽巡洋艦ブレスラウだった。2隻は開戦時に地中海にあったが、イギリス地中海艦隊の追跡を逃れてイスタンブルに逃げ込むことに成功した(ゲーベン追跡戦)。2隻の譲渡を受けたオスマン帝国はこれで黒海の制海権を確保できると考えた。ロシアが1031日にオスマン帝国へ宣戦したことを契機に、オスマン帝国は中央同盟国側に立って参戦した。
オスマン軍はロシアのカフカース地方、およびスエズ運河を経由するイギリスとインド・東洋間の連絡線を脅やかした。これに対してイギリスは、西部戦線での膠着状態の打開とロシア支援を目的として、ガリポリ上陸作戦とメソポタミア作戦を立案した。特にガリポリ上陸作戦は、海軍大臣ウィンストン・チャーチルが熱心に推進した。
19152月、ダーダネルス海峡の制圧を目的として、英仏の艦隊は海峡両側のオスマン軍陣地へ艦砲射撃を加えたが、オスマン軍は粘り強く抵抗し、しかもイギリス陸軍は海軍の応援をせず傍観し、318日にはオスマン軍が敷設した機雷に接触してイギリス戦艦3隻が沈没、3隻が大破した。425日、連合軍はガリポリ半島英語版へ上陸したが、オットー・リーマン・フォン・ザンデルスの率いるオスマン軍に前進を阻まれ大きな犠牲を出した。上陸作戦は失敗に終わり、19161月に最後のイギリス軍部隊が撤退した。
この戦いの敗戦の原因は後に陸相ホレイショー・キッチナーと海相チャーチルとの意見の齟齬が原因で、陸軍がガリポリ上陸に当たり海軍の支援、応援をしなかったことにあると解明されたが、しばらくはチャーチルについて回った失敗となって残り、意見を議会で提案しても「またガリポリか」と皮肉られることになった。

カフカース戦線[編集]

オスマン軍参謀総長エンヴェル・パシャは野心的な男で、中央アジアを征服する夢を持っていたが、実務的な軍人ではなかった。エンヴェル・パシャは191412月に山岳地帯のロシア陣地に対する片翼包囲作戦を強行し、大損害をこうむって失敗した。
1915年、新しい露カフカース軍総司令官としてニコライ・ニコラエヴィチ大公が就任するが、実際の指揮は引き続きニコライ・ユデーニチが執り行った。ロシア軍は1916年にオスマン軍を現在のアルメニアの大部分から駆逐した。オスマン帝国政府はアナトリア東部のアルメニア人住民の蜂起を恐れ、アルメニア人虐殺を引き起こした。
ニコライは1917年春の攻勢の準備を進めていた。しかし、ロシア革命のためにニコライは解任され、ロシア軍はそれからまもなく崩壊した。

アラブ反乱[編集]

イギリスはトルコの支配下にあったアラブ人を支援してアラブ反乱を起こさせ、トルコを南方から圧迫した。アラブ人支援の任務にあたったのが「アラビアのロレンス」の名で知られるトーマス・エドワード・ロレンスだった。メソポタミアでは19173月イギリス軍がバグダードを攻略、パレスチナではエドムンド・アレンビー(en:Edmund Allenby, 1st Viscount Allenby)率いるエジプト遠征軍が191712月にエルサレムを占領した。191810月、イギリス軍とアラブ軍はダマスカスに入城、アラブからオスマン軍勢力を駆逐し反乱は目的を達成した。

海の戦い[編集]

連合国海軍はドイツ本国を海上封鎖した。貿易の途絶はドイツの士気と生産力に重大な影響を及ぼした。戦前ドイツはイギリスとの建艦競争の中で大洋艦隊を築き上げていたが、イギリス本国艦隊に勝利できる見込みは薄く出撃を避け続けたため、制海権は常に連合国が保持した。19165月、ドイツ艦隊は一度だけ北海への出撃を試み、531日から61日にかけてユトランド沖海戦が発生した。ドイツ艦隊はイギリス艦隊に損害を負わせたが、制海権が覆ることはなかった。
19172月、ドイツ参謀本部は、イギリスへの海上補給を絶つことを目標に、ホルヴェーク首相を説き伏せて、Uボーによる無制限潜水艦作戦を宣言させた。この攻撃で沈めた船舶・物資の量は、2月から7月まで1か月当たり50万トンまで達し、4月に86万トンでピークを迎えた。イギリスは多大な被害を受けたが、19177月以降に導入した護送船団方式が効果を発揮し、補給途絶の危機を脱した。

イタリア戦線[編集]

イタリアは名目上は1882年からドイツおよびオーストリアと三国同盟を締結していたが、いわゆる「未回収のイタリア」と呼ばれた南チロルイストリアダルマチアといったオーストリアとの領土問題を抱えており、仏伊通商条約を理由に局外中立を宣言していた。しかし19154月にイギリス・フランスの働きかけによりロンドン協定に調印し三国同盟を離脱、オーストリアへ宣戦布告した。
伊墺国境の山岳地帯という地形的有利を得たオーストリア軍に対し、貧弱な装備しか持たないイタリア軍は苦戦を強いられた。単調な作戦ばかりのルイージ・カドルナの指揮の拙さも手伝い、戦術的勝利を重ねながら決定的な勝利を得る事ができないでいたイタリア陸軍だったが、第四次イゾンツォの戦いでオーストリア軍に打撃を与えた(この時、オーストリア軍はドイツ軍に救援を要請している)のに続き、アジアーゴ攻勢の頓挫やブルシーロフ攻勢の大敗によって弱体化していたオーストリア軍を破ってゴリツィアを占領した。イタリア軍の攻勢は既に崩壊しつつあったオーストリア軍を確実に追い詰めていき、第十一次イゾンツォの戦いでバインジッツァ高地を占領した。
しかし1917年秋、友軍の危機を救う必要があったドイツ軍は東部戦線の状態が一段落ついたこともあり、オーストリア軍に山岳部隊を含む6個師団を援軍として派遣した。指揮権もオーストリア軍からドイツ軍へと移され、1026日に独墺軍はトルミノ付近において突破作戦を敢行、イタリア陸軍に大打撃を与えた(カポレットの戦い)。この敗北を真摯に受け止めたイタリア軍は新たな司令官アルマンド・ディアズと英仏の支援の元に戦線を建て直し、1918年夏のピアーヴェ川の戦いではオーストリア軍の進撃を押しとどめた。ディアズはヴィットリオ・ヴェネトの戦いでオーストリア軍との戦いに決着を付ける。
カポレットの戦いの後、連合国側はイタリアのラパッロで会談した。其処でそれまでの個別の戦争指導を改め、ヴェルサイユに連合国最高会議を設立して各国の状況を考慮しながら統一された戦争計画を推進する事を決めた。

東部戦線[編集]

ロシアの撤退[編集]

東部戦線における攻勢について作戦を練るヒンデンブルク参謀総長、ドイツ皇帝ヴィルヘルム2ルーデンドルフ参謀次長
西部戦線が塹壕線で膠着した頃、東部戦線では流動的な状況が続いていた。緒戦でロシア軍はオーストリア領ガリツィアおよびドイツ領東プロイセンへ進攻したが、ガリツィアでは勝利を得たものの、東プロイセンではタンネンベルクの戦いでドイツ軍に大敗した。開戦前の予測は外れ、ロシアの軍事力はドイツとオーストリアとを足し合わせた国力に対抗できないことが露呈した。1915年春、ロシア軍はガリツィアから撤退した。独墺軍は5月にポーランドの南国境でゴルリッツ突破戦を実施し、著しい前進を達成した。独墺軍は85日にワルシャワを占領、ロシア軍はポーランド全土を放棄した。これは「大撤退」とも呼ばれる。

ルーマニア軍の大敗[編集]

ルーマニアの参戦を伝えるイギリスのプロパガンダポスター
19166月、ロシア軍は東ガリツィアにおいてブルシーロフ攻勢を実施し、オーストリア軍に大損害を負わせた。しかし勝利した戦区の指揮官を支援することに他の将軍が躊躇したために戦果を拡大させることはできなかった。ブルシーロフ攻勢の成功を見て、8月にルーマニアが連合国側に立って参戦した。しかし弱体なルーマニア軍の攻勢は独墺軍によって短期間のうちに撃破され、中央同盟国の多国籍軍による反攻で主要拠点を喪失する大敗を喫した。初めはルーマニア軍を懸命に支援していたロシア軍も最終的にはモルダビアの防衛に徹し、126日にブカレストが中央同盟軍によって攻め落とされた。

セルビアの敗北とテッサロニキ戦線の形成[編集]

セルビアは19148月から12月における3回のオーストリア軍の侵攻を防いでいた。19159月、ブルガリアが中央同盟国側に立った参戦を確約したことで、中央同盟国はセルビアへの攻勢を計画した。10月、ドイツ軍がドナウ川を渡河しベオグラードに突入、ブルガリア軍が南部国境を突破した。セルビア軍と国王はアルバニアギリシアへの逃亡を余儀なくされた。
セルビア軍の敗北の末、英仏軍はテッサロニキへ上陸してセルビア軍を支援するとともに、ギリシア政府に対して連合国側に立って参戦するよう圧力を掛けた。特にフランス軍はギリシャの中立を無視し、ギリシャのコルフ島を占拠して、新たに戦線を広げた。これはテッサロニキ戦線と呼ばれていた。1915年から1918年にかけて、イギリス、フランスおよびロシアとセルビアの残軍はこのところでブルガリアと対峙していた。19174月~6月、イギリス軍はブルガリアに対する攻撃に失敗したものの、ギリシャが連合国側に立って参戦し、連合国側が有利となった。
1918年、連合軍の総攻撃に伴い、兵力が足りないドイツ軍は連合軍に降伏した。既に戦争遂行能力に問題のあったブルガリアでは国内で反乱が起き、民衆の間で戦争をやめる掛け声が高まりつつあった。停戦が宣言されるまで反乱は止まらなかった。敗戦後の混乱で、当時ブルガリア王であったフェルディナンド1は英仏の圧力を受け、退位しなければならなかった。

ロシア革命[編集]

戦争が長期化するにつれて、ロシア政府や王政の戦争指導に対し、兵士と民衆の不満が増大した。皇帝ニコライ2世は積極的に前線を視察したが内政不安についての現状認識が欠けたままであり、皇后アレクサンドラは政治を怪僧グリゴリー・ラスプーチンに一任したため、更に無能だった。こうして各方面から抗議が巻き起こり、1916年末に保守的な貴族によりラスプーチンが暗殺される事態に至る。
19173月、首都ペトログラード(現在のサンクトペテルブルク)で起こったデモが拡大し、ニコライ2世は遂に退位を宣言、中道派臨時政府が成立した(2月革命)。だが戦線と国内の両方で手の付けられない大混乱が続いた。ウラジーミル・レーニンが指導する急進的な左翼党派ボリシェヴィキは、こうした混乱を権力を獲得するために戦略的に使用した。11月、ボリシェヴィキは武装蜂起しペトログラードの要所を制圧し、臨時政府を打倒した(十月革命)。
12月、ボリシェヴィキ政府は中央同盟国との休戦交渉を開始した。 初めボリシェヴィキ政府はヨーロッパの労働者の蜂起を当てにして中央同盟国が出した条件を拒絶した。そうしている間に、19182月にボリシェヴィキと対立していたウクライナ人民共和国が中央同盟国と結び、中央同盟軍が戦争を再開、瞬く間に全ウクライナを奪回した。窮地に立たされたボリシェヴィキ政府は33日にブレスト=リトフスク条約に同意した。それは戦争を終結させる代わりに、中央同盟国へフィンランド、バルト地方、ポーランドおよびウクライナを含む広大な領土を割譲するという厳しい内容だった。

ロシア出兵[編集]

ロシアが戦争から離脱したことで、日本、イギリス、アメリカをはじめとする連合軍は、革命政府に対抗する皇帝派を支援するため、革命軍によって囚われたチェコ軍団を救出することを口実にロシアへ出兵した。ウィンストン・チャーチルの立案した連合軍のロシア出兵(en)は、『北ロシア出兵』『南ロシア出兵』『シベリア出兵』の三正面作戦をボリシェヴィキ政府に強いるものであった。
『北ロシア出兵』North Russia Campaign[8]とは、ドイツ軍が介入していたフィンランド内戦北イングリア共和国独立を避け、アメリカの北極熊遠征隊(en)オーストラリア軍(en)を主力とする部隊のバレンツ海白海)に面したアルハンゲリスク上陸してニコライ・ユデーニチ北西軍を支援し、北西からモスクワへ圧力をかける作戦である。ただし、もう一つの目的は、Mansfield Smith-Cumming(en)指揮下のMI1(en)による1918830ウラジーミル・レーニン暗殺を狙った「ロックハートの陰謀(Lockhart Plot)」[9]と呼ばれる計画である。この計画に関してブルース・ロックハート(en)大使に随行してシドニー・ライリームルマンスアルハンゲリスクに送り込まれた。暗殺が失敗した結果、赤色テロによる弾圧が激化した。このときの傷が原因でレーニンは1924年に死亡した。ボルシェビキに駐露大使ジョージ・ブキャナン英語版とロックハートが逮捕されると、イギリス当局も報復措置として英国内で活動していたゲオルギー・チチェーリンと駐英代表マクシム・リトヴィノを拘束した。外務人民委員(外相)に就任したトロツキーが交換を申し出た為、双方とも釈放され、帰国した。このチチェーリンが『シベリア出兵』を大きく左右することになった。
『南ロシア出兵』[10]とは、イギリス空軍221, 266, 47 飛行隊)の支援を加えたドン軍(en)ドン・コサック軍デニーキン軍、によって南からモスクワへ圧力をかける作戦である。白軍側には、クバーニ人民共和国ドン全大軍ウクライナ国など。赤軍側には、緑軍黒軍Black Guards(en)など。
191712アントーン・デニーキンがドン地方で義勇軍を組織、連合軍の援助を受け赤軍に対する強力な戦線を張った。1918から1919Reginald Teague-JonesMalleson Missionザカスピ州カスピ海横断鉄道で実行された。[11][12]1918926 Baku Commissars。白軍が支配したトランス・アラル鉄道沿線の旧トルキスタン総督府領内のボルシェビキ政権では交通途絶による深刻な飢饉に陥った。191811ドイツ革命が起こると、連合軍は出兵の意味を失った。1919南ロシア軍を結成し反撃を試みた。1920、連合軍は撤退した。1920511、南ロシア軍はピョートル・ヴラーンゲリ将軍の下、白軍として再起を図る事になった。後の1924ロシア全軍連合として三たび再起を図った。
シベリア出兵』(en[13][14]とは、日本の浦塩派遣軍アメリカ遠征軍(en)の支援を受けたアレクサンドル・コルチャーク率いるロシア臨時政府軍が太平洋側のウラジオストクから上陸し、ピエール・ジャネン将軍(Pierre Janene Generals Siberia)指揮下のチェコ軍団フランス陸軍が確保しているシベリア鉄道沿いに東からモスクワへ圧力をかける作戦である。チェコ軍団は当時の陸戦では最先端兵器であった装甲列車を効果的に運用し、重火器と機動性を兼ね備えていたため、電撃的な武装蜂起が可能であった。
191732月革命の直後にペトログラード(現在サンクトペテルブルク)でロシア臨時政府が結成され、ロシアは二重権力状態に陥った。191710十月革命でロシア臨時政府も崩壊。191711、イギリスのサポートを得たアレクサンドル・コルチャークがウラジオストックへ到着。191712グリゴリー・セミョーノフが白軍(ザバイカル・コサック軍)を結成。
1917、フランス政府から『シベリア出兵』について日本政府に打診があったが断った。
191833、ボリシェヴィキ政権がゲオルギー・チチェーリンを派遣して電撃的にブレスト=リトフスク条約でドイツと単独講和。チェコ軍団は、シベリアを横断し、ウラジオストクから海路、アメリカ経由で西部戦線に向かうことが決められた。チェコ軍団と呼ばれるが、実際にはフランス外人部隊、第5ポーランド狙撃兵師団(en)ルーマニア義勇軍(en)などを含む多国籍混成軍である。
1918514チェリャビンスクでチェコ軍団が蜂起。この時点でチェコ軍団は、ウラジオストクには14千人が既に到着し、ノヴォ・ニコラエフスク(現ノヴォシビルスク)には4千人、チェリャビンスクには8千人、ペンザには8千人のチェコ軍団将兵がいた。チェコ軍団は、チェリャビンスク(526日)、マリインスクen, 27日)、ニジネウジンスクen, 28日)、カンスクen, 29日)、ペンザ29日)、シズラニ29日)、ペトロパヴロフスク31日)、トムスク31日)、クルガン62日)、オムスク67日)を次々と占領した。1918613から15日、ノヴォシビルスクの南220kmバルナウルの戦い(en)。コルチャークらの白軍が、トルキスタン・シベリア鉄道を破壊した。1918夏、日本陸軍参謀本部第二部と「ムスリム同盟」が連携が確立され、中央アジアのバスマチ蜂起を支援した。
19186、アメリカ政府は『シベリア出兵』を決定し、ウィルソン大統領が日本へ派兵を要請、日本では国論が二分される騒ぎとなったが最終的に派兵が決定した。1918717、オムスクにシベリア共和国が成立し、南に隣接するアラシュ自治国(現カザフスタン)もこれを支持した。1918717、シベリア共和国の独立宣言と同日、エカテリンブルクニコライ二世を含むロマノフ一家殺害事件(en)が起きた。191885から7日にかけて、チェコ軍団によるカザンの占領(en)で、ロマノフ金塊(Tsar's goldが鹵獲され、後に全ロシア暫定政府に譲渡された。
19188由比光衛率いる28,000人の浦塩派遣軍ウィリアム・S・グレイブス(en, セオドア・ルーズベルトの近親者)が率いる7950人のアメリカ遠征軍、イギリスが1500人、カナダが4192人、イタリアが1400人が派兵され、第一次世界大戦の終結後のロシア内戦中に『シベリア出兵』は開始された。191895から10日、カザン作戦(en)で市内の赤軍を掃討した。191899から28日、シンビルスク作戦(en)で赤軍が前線を押し戻し、カザンとシンビルスクを赤軍が占領。
19189、コルチャークを含む日本軍・イギリス軍・フランス軍・アメリカ軍を主力とする連合軍はチタを占領。イギリスに擁立されたコルチャークにより、オムスクにシベリア共和国を吸収した全ロシア臨時政府(en)が成立し、日本が後援したグリゴリー・セミョーノフら白軍(en)チタを中心とするザバイカル州の統治を分担することになった。コルチャークとフランス軍・チェコ軍団はさらにバイカル湖西岸のイルクーツクまで占領した。
19181117、コルチャークらがクーデターを起こし、全ロシア臨時政府の全権を掌握。コルチャークはペルミを占領しさらにその領土を西に拡大しモスクワに圧力をかけ始めた。12にジャネンが到着すると、グレイブスは日本・アメリカ・イギリス・フランスの思惑が全く異なっている事に疑念を抱いた。[15]しかし、ロシア語版ではグレイブスについて全く異なった評価(ru)が与えられている。グレイブスの考えるアメリカ軍の役割はチェコ軍団の救出に限定されており、白軍にも赤軍にも協力しないというもので、コルチャークの武器をウラジオストックから前線のイルクーツクへ輸送することを拒否し、ミハイル・ディテリフス12師団とセミョーノフの守るウスリースクの近辺の沿海部にIvan Pavlovitch Kalmikov(ru)率いる赤軍が数千人規模でポグラニーチヌイ(en)から侵入しても黙認した。その結果、日本の由比光衛とアメリカのグレイブス、ザバイカルのセミョーノフ、フランスのピエール・ジャネン、コルチャークの白軍とイギリス軍はそれぞれの安全を確保し、バラバラに行動するようになっていった。
1918、英国諜報部員フレデリック・ベイリー英語版がボルシェビキとドイツによる中央アジアでのカルムイク・プロジェクト英語版が極秘裏に進められていることを突き止めた。[16] 19192から9、セミョーノフ配下のロマン・ウンゲルン・シュテルンベルク中華民国満州を訪れ、張作霖とセミョーノフとのボグド・ハーン政権を樹立に関する会合の準備を行った。満蒙問題は、キャフタ条約英語版における守護者としてのロシア帝国が消滅した結果、議論の余地が出たため、1916108巴布扎布(パプチャップ)が内外モンゴル統一のために蜂起したことに端を発しており、これ以後、宗社党満蒙独立運動中国語版に奉天派・白軍・安徽派・赤軍・アメリカが介入して複雑さを増していった。その一方で、この期間中には極東で共産主義運動が高まり、日本が統治していた朝鮮半島では三・一運動が起こり、その直後の1919413上海李承晩らが大韓民国臨時政府を樹立、19195、中国では五四運動が発生した。1919には25,000人の5師団もシベリア出兵に参加し、日本軍は合わせて72,000人となった。この時期から財閥がウラジオストック、ハバロフスク、尼港チタに事務所を開設し、日本の民間人も5万人が居住していた(Japan during the Siberian Intervention)。北樺太オハ地区の日露合同での石油の試掘を開始(オハ油田)。
1919413アムリットサル事件191956第三次アフガニスタン戦争が勃発。既にNiedermayer-Hentig Expedition1915-1916)の首謀者Mahendra Pratapが考案したカルムイク・プロジェクトは、ドイツ・ソ連連合軍がアフガニスタン経由でインドへ侵攻する計画であると発覚していた。これらの事件をきっかけに、英国は植民地として支配、もしくは属領としているチベットとの国境に位置するブータンシッキムネパールタイビルマの防衛に目を向ける事になり、元々消極的なアメリカと共にシベリア早期撤退を検討することになっていった。
1919アルタイ地方及びエニセイスクでのパルチザンが強大化し、夏には25千人の "the Western Siberian Peasants' Red Army" が誕生した。秋にはコルチャークの後方は10万人の共産軍に撹乱され、前方には赤軍が迫って来た。1919102、ウィルソン大統領が脳梗塞で倒れ、以後の執務の多くはイーディス・ウィルソン夫人(en)が代行した。 191912、チェコ軍団の帰国がようやく開始された。
19201安徽派徐樹錚ウルガで外蒙古の活仏を冊封する典礼を執行。19201、白軍の主力だったコルチャーク軍がトムスクオムスクで瓦解、コルチャークは赤軍に捉えられ、後に処刑された。シベリア大雪中行軍, enで多くの犠牲者を出しながら極寒のバイカル湖を横断し、3にかけて連合軍はシベリア鉄道沿いにチタへ敗走した。オムスク政府が崩壊する際、帝政ロシア中央銀行の金塊がセミョーノフらによって朝鮮銀行に輸送された事件があったと主張されている。[17]
1920から1921にかけて戦時共産主義でボルシェビキが実施した食料没収(穀物割当徴発制度, en)、および1921から1922の飢饉(en, Povolzhye famine)により800万人から1000万人が餓死し、19202から3中旬にかけて、ムスリム系の餓えた農民による黒鷲の蜂起(en)が起こった。後に、数百万人が日本経由でロシアを脱出した。19202アムール州2万人のパルチザンに占領された。敗色濃厚となりアメリカのグレイブスも日本へ撤退の圧力をかける中、19202から3にかけて尼港事件が起った。オハ油田の石油試掘も中断された。
192046、赤軍がチチェーリンの構想した緩衝国・極東共和国建国を宣言すると、白軍も緑ウクライナ建国を再び宣言したがすぐに崩壊。19206、グレイブスとアメリカがウラジオストックを撤退。19207ゴンゴタ停戦協定(en)によってチタの西に停戦ラインを設定し、日本軍・民間人及び白軍の安全を確保し、ザバイカル州からの撤兵を開始した。また、尼港事件のあった地域へは安全確保の目的でサガレン州派遣軍が送られ、1925年まで駐屯した。
1920714、中華民国で安直戦争が勃発。大蔵大臣の勝田主計が西原亀三と計り興業銀朝鮮銀行台湾銀行から資金を調達した総額14500万円という莫大な西原借款英語版を与えていた安徽派の国務総理段祺瑞が失脚。借款が回収不能となり、尼港事件の対応も含めて原敬内閣が轟々たる非難を浴びた。192010、ウンゲルンが北京政府の支配下にあった蒙古のウルガに侵攻を開始した。19212、ウンゲルンは外モンゴルにボグド・ハーン政権を樹立した。
192134ウォレン・ハーディング米大統領が就任。19215、アムール地方の白軍を代表する政府組織(en)が三たび成立。192169田中義一陸軍大臣が狭心症で倒れ、辞任。後任は山梨半造山梨軍縮)。 1921714コミンテルン極東支局のグリゴリー・ヴォイチンスキーの主導により、上海の中国共産党第1次全国代表大会にて陳独秀李大釗毛沢東らが中国共産党を結党。1921814、赤軍が外モンゴル北西部に介入しトゥバ人民共和国Tannu Tuva)が独立した。
1922416ヴェルサイユ体制から除外されていたソ連のゲオルギー・チチェーリンは、ドイツ(ヴァイマル共和政)と極秘裏にラパッロ条約を締結。729日、ソ連領内におけるドイツの軍事訓練を認める秘密の付属条項が調印。115日、ソ連とドイツが、極東共和国に対するドイツの関係を認める補足条約に調印。
19226高橋内閣が閣内不一致で瓦解。後任の首相は加藤友三郎192262310月末日までにシベリアより撤兵する方針を閣議決定した。 19227、白軍がゼムスキー・ソボルを開催。192210、ウラジオストック陥落。192211、日本軍のウラジオストックからの撤収が完了し、ソ連極東共和国を併合。 1922アドリフ・ヨッフェが中華民国大使に任命され、孫文とソ連の支援に関する交渉を開始。
1923北樺太の試掘が再開されオハ油田で油田が出た為、同年中に最初の油井で生産開始。 1923コミンテルンからミハイル・ボロディン中国国民党孫文の政治顧問に派遣された。 192382、ハーディング米大統領が死去。翌日、カルビン・クーリッジ米大統領が就任。192391関東大震災192392山梨半造陸軍大臣が辞任。後任は田中義一
192417田中義一陸軍大臣が辞任。後任は宇垣一成192471、アメリカが排日移民法を施行。各国への移民割当が制限され、事実上白軍のアメリカ亡命が出来なくなった為、数十万人に及ぶ白軍と白系ロシア亡命者が赤軍から逃れる唯一の道は満州が残されるのみとなった。
1925120、日ソ基本条約締結。これによって、日本が北樺太のオハ油田での石油採掘権と試掘権を得た。 1925、日本軍の北樺太撤収をもって『シベリア出兵』は終了した。しかし、この後もソ連の極東政策は中国で増強され、ラパッロ条約を結ぶドイツも中国国民党に接近することになる。一方のロシア白軍は中露国境を越えて関外(東北三省)へ逃れ、なおも抵抗を続けた。その後、白系ロシアの一部は日本や上海へも逃れることが出来た。
1926北樺太石油会社: Northern Karafuto Oil Consession)を設立[18]。初代社長は中里重次海軍中将。
1926ナウム・エイチンゴンが在上海ソ連副領事職と北京支局に赴任、朱家驊マックス・バウアーを中国に招いて中独の関係も推進した。
1927321-327南京事件が勃発。192746、張作霖の奉天軍が北京のソ連大使館官舎を家宅捜索。1927410、ソ連大使が本国に召還されソ連と中国の国交が断絶。1927412、蒋介石が上海クーデターを起こし、共産主義者を弾圧した。 1927420田中義一首相が誕生。宇垣一成陸軍大臣が辞任。後任は白川義則1927531山東出兵。北軍の張宗昌ロシア白軍が南軍の蒋介石を破り、蒋介石が下野した。
192848、形勢を立て直した蒋介石が北伐を再開(第2次北伐)。192864張作霖爆殺事件が起こり、張学良が奉天軍閥を掌握。9月、張宗昌が下野すると、ロシア白軍張学良の旗下に入った。1928秋、マックス・バウアーを団長とする軍事顧問団が、黄埔軍官学校の軍事教練に着手し、1930代のハンス・フォン・ゼークトらによる中独合作の基礎を築いた。19281229、張学良が蒋介石に降伏(易幟)し北伐は完了した。しかし蒋介石と国民党は張学良の持つ軍事力、とりわけ白軍の弱体化を狙いソ連にぶつけることになった。1929722、国民党がソ連の中東鉄路を接収したことをきっかけに、張学良が中ソ紛争に参戦させられた。張学良が敗北しハバロフスク議定書中国語版が調印された。その中には「中国官憲の手による白系ロシア人の武装解除と責任者の東三省からの追放。」という項があった。中ソ間の中東路交渉は、満州事変の勃発により中止となり、白軍の武装解除は実施されなかった。
1933412ロシア白軍帰化軍が四・十二クーデーターを起こし、1次東トルキスタン共和国建国のきっかけを作った。1949伊吾の戦い英語版でウイグル族のユルバース・カーンが率いた元白軍は国民党側で参戦したが、ユルバース・カーンと共に台湾に避難した。
このあと1930代になると、日ソ国境紛争へと様相を変えていく事になった。白軍のメンバーは、セミョーノフのように大連に居住して関東軍に協力した者や、ヴラーンゲリのロシア全軍連合に参加する者などに分かれた。セミョーノフらは第二次大戦後にソ連に捉えられて処刑された。ロシア全軍連合はソ連崩壊後の1992になってようやくロシアに復員した。

終盤戦[編集]

アメリカ参戦[編集]

19185月時点の両陣営 連合国(緑)、連合国の植民地・占領地域(薄緑)、同盟国(橙)、同盟国の植民地・占領地域(肌色)
ウィルソン大統領の演説
ドイツとの外交関係断絶を発表している
毒ガスの被害を受けたイギリス兵
フランドル
 1918
アメリカ合衆国は長い間モンロー主義に基づき、ヨーロッパでの国際紛争には関与しない孤立主義を取っていた。しかし1917年の初めにドイツが無制限潜水艦作戦を再開したこと、さらにツィンメルマン電報事件が発覚したことで、ドイツに対する世論の怒りが湧き上がり国交断絶に至った。さらに大統領ウッドロウ・ウィルソンは連邦議会へ対ドイツ宣戦を要請し、上院は826、下院は37350をもってこれを決議、191746日にアメリカはドイツへ宣戦布告した。ウィルソンは、オーストリアとは別途平和を保ちたいと考えたが、オーストリアはドイツとの関係を捨てなかったため、アメリカは191712月にオーストリアに対しても宣戦布告した。
アメリカ陸軍と州兵はメキシコの「山賊」パンチョ・ビリャを追いかけるために、既に1916年に戦時体制を取っており、それが動員を速めるのに役立った。連合国艦隊に参加するため大西洋各地に艦隊を送った。しかしアメリカが西部戦線へ陸軍兵力を送り込むことが可能になるまでには時間が必要だった。英仏はアメリカ軍の歩兵を英仏軍部隊へ分散させて配属させることを主張したが、アメリカ遠征軍指揮官ジョン・パーシング将軍はこれを承諾しなかった。だが、パーシングは英仏軍ではとうに使われなくなっていた正面攻撃戦術に固執し、結果としてアメリカ軍は1918年夏と秋の作戦で非常に高い死傷率を経験した。

ドイツ軍の春季攻勢[編集]

ドイツ軍は、ボリシェヴィキ政府と講和したことで、東部戦線から西部戦線へ部隊を転進させることができるようになった。西部戦線へ送り込まれるドイツ軍の増援と、新しく連合軍に加わるアメリカ軍とによって、戦争の最終結果は西部戦線で決定されることになった。ブレスト=リトフスク条約で中央同盟国が占領した領土が小さかったなら、ドイツ軍はより多くの兵力を西部戦線へ投入でき、戦争の結末も違っていたかもしれない[19]
ドイツ参謀次長エーリヒ・ルーデンドルフは、アメリカ軍の到着により、これ以上長引く戦争に勝利することはできないことを悟っていた。更に、戦争の長期化によりヨーロッパ全土で社会崩壊と革命の可能性が高まることを恐れるようになった。しかし、東部戦線からの増援と新しい歩兵戦術の使用により、西部戦線での迅速な攻勢によって決定的な勝利を得ることに大きな望みを賭けていた。作戦は英仏両軍の中間に攻勢をかけて分断し、イギリス軍を北に圧迫してドーバー海峡へと追いやることを目標としていた。決定的な勝利を得るために、浸透戦術の徹底、飛行機の活用、詳細な砲撃計画、毒ガスの大規模な使用が図られた。
1918321日、1918年春季攻勢の緒戦であるミヒャエル作戦が発動された。ドイツ軍は英仏両軍の間隙を突くことに成功し、8日間の戦闘により65キロもの前進に成功した。パリ東方100キロに到達したドイツ軍は、1914年以来初めてパリを砲撃の射程圏内に収めた。3門のクルップ製超大型列車砲がパリに183発の砲弾を撃ち込み、多くの市民がパリから脱出した。ヴィルヘルム2世は324日を国民の祝日であると宣言した。ドイツ人の多くが勝利を確信した。

連合軍の最終攻勢[編集]

ドイツ軍の攻勢を受けて、英仏両軍は指揮系統の統一に同意し、総司令官としてフェルディナン・フォッシュが任命された。フォッシュは巧みに戦線を再構築してルーデンドルフが意図していた突破の可能性を挫き、戦闘は従来と同様の消耗戦の様相を呈していった。5月にはアメリカ軍師団が初めて前線に投入され、夏までに毎月30万人の兵士がアメリカから輸送された。総兵力210万人のアメリカ軍の登場によって、それまで均衡を保っていた西部戦線に変化が生じた。
フォシュはドイツ軍の攻勢によってマルヌ付近に形成された突起部に対する反転攻勢を企図し、7月に第二次マルヌ会戦が発生した。連合軍による攻撃はこれまでに見ない成功を収め、翌8月には突起部が解消された。この戦闘が終了した2日後にはアミアンの戦いが開始され、600輌以上の戦車と800機の飛行機を使用したこの戦闘で連合軍は全前線において前線突破に成功し、ヒンデンブルクはこの88日をドイツ軍にとり最悪の一日と称することになった。9月になるとジョン・パーシングに率いられたアメリカ軍が50万以上の兵力を投入したサン・ミッシェルの戦いが開始された。これに続いてアメリカ軍は10個師団を投入してムーズ・アルゴンヌ攻勢を実施した。

戦争終結[編集]

中央同盟諸国の脱落[編集]

1918929、ブルガリアはテッサロニキ休戦協定英語版に調印して中央同盟から離脱した。トルコは1030日にムドロス休戦協定を締結して休戦した。オーストリアとイタリアは113日にヴィラ・ジュスティ休戦協定を締結して休戦した。オーストリアとハンガリーは、ハプスブルク体制の崩壊の時点で既に、別々の休戦協定に署名していた。またドイツ帝国も敗北を認識し、928日、スパで開かれていた大本営はウィルソンに講和交渉要請を決定した[20]。和平交渉は103日に首相となったマクシミリアン・フォン・バーデン大公子の所掌下に置かれていた。ルーデンドルフは講和に反対していたが、1026日に皇帝によって解任された。
しかしながらルーデンドルフは、19189月の終わりから、帝国議会のメンバー、特にマティアス・エルツベルガーが率いる与党中道派、リベラル派とドイツ社会民主党に権力を委譲していた。ルーデンドルフ自身は伝統主義的保守主義者だったが、彼はドイツを民主化する新しい改革を提起することによって、皇帝の統治を継続することができ、ロシアで見られたような社会主義革命の危険性を減らすと考えていた。

ドイツ革命[編集]

ドイツでは人的資源が枯渇し、経済的、社会的な混乱は頂点に達していた。反戦運動は頻繁に発生し、陸軍の士気は低下した。工業生産は1913年に比べて53パーセント落ちていた。ドイツに敗北が切迫しているというニュースはドイツ軍全体に広がった。海軍提督ラインハルト・シェアとルーデンドルフは、艦隊を出撃させて起死回生を図ることとしたが、出撃の情報がキール軍港の水兵まで届くと、水兵の多くは非公式の外出をとった。つまり自殺の企て以外の何ものでもないとしか思えない攻撃に参加することを拒絶したのだった。
114日になると処罰に不満を持ったキールの水兵らが反乱を起こし(キールの反乱英語版)、その後も各地でレーテ(評議会、ソビエトとも訳される)の結成と暴動が相次いだ。バイエルン王国などの帝国諸邦では相次いで君主制が廃止され、帝国の秩序は崩壊し始めた。
119日、バーデンは皇帝自身が心を決める前に、皇帝が退位する予定だと発表し、さらに社会民主党のフリードリヒ・エーベルトに後継首相の座をゆだねた。エーベルトらは事態の収拾をどのように行うか協議していたが、極左派のスパルタクス団が社会主義共和国を宣言するという噂が流れ出した。フィリップ・シャイデマンは機先を制するため、独断で帝国議事堂の最上階のバルコニーからドイツは共和国になると宣言した(ドイツ共和国宣言ドイツ語版)。その日の内に皇帝はオランダに亡命し、後日退位を表明した。結果として帝制は崩壊し、新しいドイツが生まれた。これがヴァイマル共和政(ワイマール共和国)である。
休戦交渉は共和政政府によって引き継がれており、117日にパリ郊外コンピエーニュの森休戦協定交渉が開始された。1111食堂車2419Dの車内において、ドイツと連合軍との休戦協定が調印され、1111日午前11時に軍事行動は停止された[注釈 4]。同日、オーストリア=ハンガリー帝国皇帝カール1が国事不関与声明を行い、二重帝国も崩壊した。

講和[編集]

1919118日よりパリにアメリカのウィルソン大統領、イギリスのロイド・ジョージ首相。フランスのクレマンソー首相、日本の西園寺公望元首相、イタリアのヴィットーリオ・エマヌエーレ・オルランド首相など連合国の首脳が集まり、パリ講和会議が行われた。しかし講和条件をめぐって会議は紛糾し、対ドイツ講和条約であるヴェルサイユ条約が調印されたのは628日、対オーストリア講和条約であるサン=ジェルマン条約が調印されたのは910日、対ブルガリア講和条約であるヌイイ条約が締結されたのは1127日であった。アメリカはこれらの条約に調印したが、国際連盟構想などに反発した議会の承認が得られず、ヌイイ条約以外には批准しなかった。このためアメリカは1921811日に米独平和条約(en:U.S.–German Peace Treaty (1921))、824日に米墺平和条約(en:U.S.–German Peace Treaty (1921))、829日に米洪平和条約(en:US–Hungarian Peace Treaty (1921))を個別に締結して講和した。また中華民国は山東問題の扱いに不満を持ってヴェルサイユ条約に調印せず、1921520日にドイツと個別の和平合意を行っている(en)。
ハンガリーはハンガリー・ルーマニア戦争、トルコは希土戦争で交戦中であったため、両国に対する講和は遅れた。対ハンガリー講和条約であるトリアノン条約が締結されたのは192064日、対トルコ講和条約であるセーブル条約が締結されたのは1920810日のことであった。さらにオスマン帝国の崩壊により、新トルコ政府は1923624日にローザンヌ条約を締結して連合国と講和した。第一次世界大戦における戦争状態が全て終了したのは、ローザンヌ条約が発効した192486日のことである。

大日本帝国の参戦[編集]

アジア太平洋戦線[編集]

地中海でイギリスの輸送船トランシルバニア号の乗務員を救出した大日本帝国海軍の駆逐艦「榊」
日本は日英同盟に基づいて、1914823日にドイツ帝国へ宣戦を布告し連合国の一員として参戦し、帝国陸軍はドイツが権益を持つ中華民国山東省租借地青島を攻略、さらに海軍はドイツが植民地支配していた南洋諸島を攻略した。日英同盟の存在がある上に、イギリスが「戦勝の暁にはドイツ権益地域の山東半島の権益を日本に譲る」と約束したことが参戦を後押しした。

ヨーロッパ戦線[編集]

さらに英仏露からは、主戦場であるヨーロッパの戦線への帝国陸軍の派遣要請があったが、距離が遠いこともあり派遣準備や兵站に膨大な手間がかかるためこれを拒絶したものの、再三の要請を受けて帝国海軍は1917年には巡洋艦「明石」及び樺型駆逐艦計8隻からなる第二特務艦隊を派遣、後に桃型駆逐艦などを増派し合計18隻を派遣し、インド洋地中海でイギリスやフランスなどが持つ世界各地の植民地からヨーロッパへ向かう輸送船団の連合国側商船787隻、計350回の護衛と救助活動を行った。兵員70万人を輸送するとともに、Uボートの攻撃を受けた船から7000人以上を救出した[21]
特に、1917年後半から開始したアレクサンドリアからマルセイユへ艦船により兵員を輸送する「大輸送作戦」の護衛任務を成功させ、連合国側の西部戦線での劣勢を覆すことに大きく貢献した。一方、合計35回のUボートとの戦闘が発生し、多くの犠牲者も出した[21]
被害としては駆逐艦「榊」がオーストリア=ハンガリー帝国海軍の潜水艦「U27」からの攻撃を受け大破、59名が戦死した。「榊」は完全な状態に修理するのに8か月を要した。他の戦闘をあわせて地中海前線においては日本軍将兵計78名が戦死しており、戦後、マルタ島のイギリス海軍墓地の一隅に墓碑が建立されている。またロシア革命後の1919年に他の大国とともにシベリア出兵を実施した。

連合国5大国の一国[編集]

戦後、大日本帝国は連合国の主要5大国の一国としてパリ講和会議に参加し、山東半島の権益と併せてパラオマーシャル諸島などの、それまでドイツが支配下に置いていた赤道以北の太平洋上の南洋群島を委任統治領として譲り受けるとともに、国際連盟常任理事国となった。

国際法の遵守[編集]

戦時下においては陸海軍とも国際法を遵守し、ドイツ軍捕虜を丁重に扱った。青島で捕獲した捕虜約4,700名は徳島県板東など12か所の収容所に送られたが、特に板東俘虜収容所での扱いとしては、ドイツ兵は地元住民との交流も許され、ドイツ料理、バームクーヘンビールをはじめ、サッカーなど数多くのドイツ文化が日本人に伝えられた。ベートーベンの「交響曲第9」はこのときドイツ人捕虜によって演奏され、はじめて日本に伝えられた。

影響[編集]

犠牲者[編集]

戦争で破壊されたベルギーのイープルの町
古い戦争の思想のもとに始められた第一次世界大戦は、機関銃や航空機、戦車をはじめとする新しい大量殺りく兵器の出現や、戦線の全世界への拡大により、開戦当時には予想もしなかった未曾有の犠牲をもってようやく終了した。
戦線が拡大し、長期にわたった戦争は膨大な犠牲者を生み出した。戦闘員の戦死者は900万人、非戦闘員の死者は1,000万人、負傷者は2,200万人と推定されている。国別の戦死者はドイツ177万人、オーストリア120万人、イギリス91万人、フランス136万人、ロシア170万人、イタリア65万人、セルビア37万人、アメリカ13万人に及んだ。またこの戦争によって、当時流行していたスペインかぜが船舶を伝い伝染して世界的に猛威をふるい、戦没者を上回る数の病没者を出した。帰還兵の中には、塹壕戦の長期化で一瞬で手足や命を奪われる恐怖に晒され続けた結果、「シェルショック」(後のPTSDと呼ばれる症状)にかかる者もいた。
これまでの戦争では、戦勝国は戦費や戦争による損失の全部または一部を敗戦国からの賠償金によって取り戻すことが通例だったが、参戦国の殆どが国力を出し尽くした第一次世界大戦による損害は、もはや敗戦国への賠償金程度でどうにかなる規模を遥かに超えてしまっていた。しかしながら、莫大な資源・国富の消耗、そして膨大な死者を生み出した戦争を人々は憎み、戦勝国は敗戦国に報復的で過酷な条件を突きつけることとなった。

ヴェルサイユ体制[編集]

第一次世界大戦は、ヨーロッパの君主制の消滅をもたらし、旧世界秩序を決定的に破壊した。ドイツ帝国オーストリア=ハンガリー帝国オスマン帝国、そしてロシア帝国4つの帝国が分解した。ホーエンツォレルン家ハプスブルク家オスマン家、そしてロマノフ家4つの王家は中世以来の権力を持っていたが、この戦中あるいは戦後に没落した。そしてこの戦争は、ボリシェヴィキロシア革命を起こす契機となり、20世紀に社会主義が世界を席巻する契機となった。
1919パリ講和会議が始まる。ドイツでは皇帝家であるホーエンツォレルン家を始めすべての王侯貴族が追放された。またヴェルサイユ条約により巨額の賠償金を課せられ、その支払いをめぐってフランスがルール地方を占領したため、戦時中から続いていたインフレーションが激化し、国民の不満が高まった。さらに、条約によりドイツ人が居住する領土を割譲させられたことで、ズデーテン問題や、ポーランド回廊問題が発生した。
オーストリアは、ハンガリーとの二重帝国が解消され、600年以上に渡って君臨してきたハプスブルク家が追放された。多民族国家だったオーストリアは、サン=ジェルマン条約により、民族自決の大義のもと旧帝国内の地域がこぞって独立、従来の4分の1にまで領土を減らされ小国に転落した。国民の間にはドイツへの帰属を求める諦めに似た風潮さえ生まれ、後のナチス・ドイツによるオーストリア併合(アンシュルス)へと繋がっていく。
中央ヨーロッパには新しい国家チェコスロバキアユーゴスラビアが生まれ、ポーランドが復活した。
オスマン帝国セーヴル条約により多くの領土を減らされた。戦時中、イギリスは対オスマン戦の協力のため、アラブ人とユダヤ人の双方にパレスチナでの国家建設を約束したことが後のパレスチナ問題につながってゆく。オスマン帝国は、その後ムスタファ・ケマル・アタテュルクの手によりスルタン制が廃止され、近代民主主義国家トルコが誕生した。ギリシャとトルコの希土戦争1924に終わるが、これが第一次世界大戦に直接起因する最後の戦争である。
中立を宣言したイランガージャール朝も、トルコ・ロシア・イギリス両陣営の戦略の中に巻き込まれ、開戦前までに弱体化していたとは言えますます混迷を深め、終戦後間もなく、有力将校のレザー・パフラヴィーにクーデターを起こされ、数年後には帝位の座も彼に取って代わられた(パフレヴィー朝)。
戦勝国陣営(連合国側)に立って参戦し、かつ本土が戦場とならなかった日本とアメリカの地位が相対的に向上した。これは戦後結ばれたワシントン海軍軍縮条約でアメリカがイギリスと同等、日本がフランスやイタリアの倍近い戦艦(総トン数)の保有を認められたことに端的に表れている(現代の感覚では理解しにくいが、当時、戦艦保有量は国力を示す代表的な指標の一つとされており、現代であれば核弾頭の保有数と置き換えて考えうる軍事力であった)。

国際平和への努力[編集]

第一次世界大戦による災厄の巨大さを目の当たりにしたことで、国際社会では厭戦感が広がることとなった。戦後の国際関係においては平和協調が図られ1919にウィルソン大統領の提唱により人類史上初の国際平和機構である国際連盟が設立され、1925にはロカルノ条約1928には主要国間で不戦条約ケロッグ=ブリアン協定)が締結された。このほかにも主要列強間においてワシントン海軍軍縮条約、ロンドン海軍軍縮条約といった軍縮条約が締結された。
これら国際平和のためのさまざまな努力もむなしく、第一次世界大戦の原因と結果をめぐる多くの戦後処理の失敗と、世界恐慌による経済危機により、共産主義がさらに勢力を得て、それに対抗する形でイタリアではファシズムが、ドイツではナチズムが台頭する。
ヴェルサイユ条約成立後、フランスの陸軍元帥フェルディナン・フォッシュは「これは平和などではない。たかが20年の停戦だ」と予言していた。彼の予言通り、条約調印のほぼ20年後の1939に、再び全世界規模の戦争となる第二次世界大戦が勃発することとなる。

年表[編集]

第一次世界大戦ではそれまでの戦争とは比較にならないほど大量の弾薬が消費された
ソンム(フランス) 1916
工場で弾薬を作る労働者
銃後では女性や子供も戦争に動員された
アメリカ陸軍の募兵ポスター
欧州における悲惨な戦状が伝えられているにも関わらず多くの若者が入隊した。
ポスターの人物はアンクル・サム
フランスのハイ・ウッド・セメトリー
イギリスでは赤いポピーが第一次世界大戦における犠牲の象徴とされている

1914[編集]

823 - 日本がドイツに宣戦布告
92 - 日本軍がドイツ権益地の山東省に上陸
10 - 日本軍がドイツ領南洋諸島攻略(日独戦争
107 - 山東省・済南攻略
117 - ドイツ租借地青島を攻略(青島の戦い
1224 - 非公式ながらも独英間においてクリスマス休戦が実現。

1915[編集]

1 - 東部戦線のボリモウの戦い英語版でドイツ軍が毒ガスを初めて使用。日本が中華民国にいわゆる21か条の要求を送付
4 - 西部戦線の第二次イーペルの戦い英語版でドイツ軍が毒ガスを使用
4 - ガリポリの戦い- 19161月)
10 - ブルガリア王国セルビアに宣戦布告

1916[編集]

1917[編集]

ドイツ海軍が無制限潜水艦作戦を開始。日本が駆逐艦隊を地中海に派遣
4 - アメリカ参戦
9 - リガ攻勢でドイツ軍が毒ガスを使用
11 - ロシア革命10月革命)。ボリシェヴィキが権力を掌握
1126 - フィンランド独立宣言

1918[編集]

1 - フィンランドで赤衛軍白衛軍によるフィンランド内戦が発生
3 - ブレスト=リトフスク条約締結。ロシアボリシェヴィキ政権が同盟国側と単独講和
8 - チェコ軍団救出を名目としてシベリア出兵開始。ロシア内戦の激化
929 - ブルガリア王国と連合国軍の休戦協定(テッサロニキ休戦協定英語版)が成立
1030 - オスマン帝国と連合国軍の休戦協定(ムドロス休戦協定)が成立
113 - ドイツのキール軍港で水兵の反乱が発生。ドイツ革命の開始
114 - オーストリアと連合国軍の休戦協定(ヴィラ・ジュスティ休戦協定)成立
1111 - コンピエーニュにおいてドイツ軍と連合国軍との間の休戦協定成立。

1919[編集]

628 - ヴェルサイユ条約(対ドイツ講和条約)調印。
919 - サン=ジェルマン条約(対オーストリア講和条約)調印。
1127 - ヌイイ条約(対ブルガリア講和条約)調印。

1920[編集]

110 - ヴェルサイユ条約発効。国際連盟発足。
64 - トリアノン条約(対ハンガリー講和条約)調印。
821 - セーヴル条約(対トルコ講和条約)調印。トルコ議会、批准を否決。

1921[編集]

520 - 独中和平合意(en
811 - アメリカ、ドイツと個別に和平条約を締結
824 - アメリカ、オーストリアと個別に和平条約を締結。
829 - アメリカ、ハンガリーと個別に和平条約を締結。

1922[編集]

416 - ドイツとロシア・ソビエト連邦社会主義共和国ラパッロ条約を締結し、独露間の外交関係が復活

1923[編集]

624 - ローザンヌ条約(対トルコ講和条約)調印。
86 - ローザンヌ条約発効。第一次世界大戦におけるすべての戦争状態が終結。

2008[編集]

11 - 元ドイツ陸軍に所属し第一次世界大戦に従軍したエーリッヒ・ケストナーが107歳で死去。これにより第一次世界大戦に従軍したドイツ軍関係者が全て故人となった。
312 - 元フランス外人部隊及び元イタリア陸軍兵として第一次世界大戦に従軍したラザール・ポンティセリ110歳で死去。[22]。これにより第一次世界大戦に従軍したフランス軍関係者が全て故人となった。

2009[編集]

725 - 元イギリス陸軍兵のハリー・パッチ111歳で死去。これにより第一次世界大戦に従軍した両陣営の陸軍軍人すべてが故人となった[23]

2010[編集]

103 - ドイツが賠償金の支払いを完了[24]

2011[編集]

31 - 元アメリカ陸軍運転手(軍属)のフランク・バックルズが110歳で死去[25]。これにより第一次世界大戦に従軍したアメリカ軍関係者がすべて故人となった。
55 -元イギリス海軍所属のクロード・チョールズが110歳で亡くなった。15歳で軍に志願、戦後はオーストラリアに渡った後、1926年にオーストラリア海軍勤務となった。後に第二次世界大戦にも海軍として参加していた。[26]。これにより第一次世界大戦で戦闘経験を持つ連合国側退役軍人がすべて故人となった。

2012[編集]

24 - 元イギリス空軍女性部隊所属で、基地食堂の接客係(軍属)だったフローレンス・グリーンが110歳で死去[27]。これにより第一次世界大戦に従軍したイギリス軍関係者のすべて且つ、連合国及び中央同盟国両陣営の軍人・軍属のすべてが故人となった[注釈 5]
なお、1999以降の各国元従軍者の没年及び、詳細については下記の英語版をそれぞれ参照されたい。

第一次世界大戦を題材とした作品[編集]

小説[編集]

·         アンリ・バルビュス 『砲火』(1916)
·         エルンスト・ユンガー 『鋼鉄の嵐の中で』(1920)

映画[編集]

アニメ・漫画[編集]

ゲーム[編集]

·         バリアントハート グレートウォー

脚注・注釈[編集]

脚注[編集]

1.   ^ ロシア帝国の旗 ロシア帝国1917312日に帝政崩壊、ボリシェヴィキ政府が1215日に休戦、191829日にブレスト=リトフスク条約によって講和したが、ヴェルサイユ条約によってこの講和は無効とされた。ボリシェヴィキ政府の承認問題も絡んでロシアの扱いは保留のままとされていたが、独露間では1922年のラパッロ条約によって相互の請求権放棄が行われ、外交関係が復活した。
2.   ^ Evans, David. Teach yourself, the First World War, Hodder Arnold, 2004, p.188
3.   ^ 山室信一『複合戦争と総力戦の断層』日本にとっての第一次世界大戦 (レクチャー第一次世界大戦を考える)p.17、人文書院、2011
4.   ^ タックマン『八月の砲声』
5.   ^ NHKスペシャル映像の世紀・第2集大量殺戮の完成」(1995415日放送、日本放送協会
6.   ^ 樺山紘一・木村靖二・窪添慶文・湯川武(編集委員)「クロニック世界全史」P.935 1914728日「オーストリアがセルビアに宣戦布告 1次世界大戦勃発,人類初の総力戦に」(講談社、1994 ISBN 4-06-206891-5
7.   ^ NHKスペシャル映像の世紀・第2集大量殺戮の完成」(1995415日放送、日本放送協会
8.   ^ Clifford Kinvig, "Churchill's Crusade: The British Invasion of Russia, 1918-1920", Hambledon Continuum (2007)
10.               ^ John Smith, "GONE TO RUSSIA TO FIGHT: The RAF in South Russia 1918 to 1920", Amberley (2010)
11.               ^ Hopkirk, Peter (1990): The Spy Who Disappeared, Victor Gollancz
12.               ^ Hopkirk, Peter (1994): On Secret Service East of Constantinople, Oxford University Press
13.               ^ George Frost Kennan, "Russia Leaves the War: Soviet-American Relations, 1917-1920, Vol. I", Princeton University Press (1989)
14.               ^ George Frost Kennan, "The Decision to Intervene: Soviet-American Relations 1917-1920, Vol. 2", Princeton University Press (1989)
15.               ^ William S. Graves, "America's Siberian Adventure", 1931.
16.               ^ Peter Hopkirk, 「東方に火をつけろ(Setting the East Ablaze: Lenin's Dream of an Empire in Asia)」, 1984
17.               ^ イーゴリ・アレクサンドロヴチ・ラティシェフ, ロシア金塊の行方シベリヤ出兵と銀行 いかにして日本はロシアの金塊を横領したか, 新読書社(1997)
18.               ^ 村上 , "北樺太石油コンセッション 19251944", ISBN 4-832-96471-2
19.               ^ 瀬戸利春『歴史群像No.77 カイザーシュラハト』pp.66-68。ドイツがロシアとの早期講和をしなかったため訓練中だったアメリカ軍の実戦投入を許し、また広大な占領地に28個師団(約100万)を駐屯させる羽目になったために西部戦線への転出兵力が少なくなったと述べている。
20.               ^ 牧野雅彦 2009, pp. 43.
22.               ^ [1]
23.               ^ 地上戦最後の生き残り死去 1次大戦の元英兵 - 47NEWS”. 201129日閲覧。
24.               ^ 独、第1次大戦の賠償金完済 終結から92年後に - 47NEWS”. 2012210日閲覧。
25.               ^ 1次大戦参加最後の米兵死去 フランク・バックルズ氏 - 47NEWS”. 2012210日閲覧。
27.               ^ F・グリーンさん死去=第1次大戦最後の従軍者 - 時事ドットコム”. 2012210日閲覧。

注釈[編集]

1.   ^ 史上一位は太平天国の乱である
2.   ^ 「ウィリーとニッキー」書簡として知られる。
3.   ^ ドイツとの建艦競争と植民地を巡る対立から、ベルギーの中立に関わらずイギリスの参戦は不可避だったとの意見も存在するが、これは誤りである。首相ハーバート・ヘンリー・アスキスの書簡により、もしドイツ軍がベルギーの南部だけに侵攻したならば参戦はしなかったが、全面侵攻により具体的な閣議の討論を伴い参戦を決意したことが確認されている。アスキスのこの書簡集(と言うより不倫相手に当てたラブレター集)は出版もされている。
4.   ^ この日を各国では「休戦記念日」と呼び祝っている。
5.   ^ 但し、後述の英語版存命者リストに於いてはポーランド・ソビエト戦争を第一次世界大戦の範疇に含めており、この場合、オーストリア=ハンガリー帝国領ウクライナ出身でポーランド第二共和国軍人として同戦争への従軍経歴を持つ、ユゼフ・コワルスキーが両陣営従軍者で史上最後の生存者であったと見做される事となる。



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