黒船前夜 ロシア・アイヌ・日本の三国志  渡辺京二  2014.8.18.

2014.8.18. 黒船前夜 ロシア・アイヌ・日本の三国志

著者  渡辺京二 1930年京都生まれ。大連一中、旧制五高文科を経て法政大社会学部卒。日本近代史家。河合文化教育研究所特別研究員。熊本市在住。『逝きし世の面影』(和辻哲郎文化賞)

発行日           2010.2.17. 初版発行
発行所           洋泉社

初出 熊本日日新聞夕刊 2008.7.10.2009.9.24. 連載
『逝きし世の面影』に続く第2
著者についてはAERA 14.8.11.号「現代の肖像」で採りあげ

第1章        はんべんごろうの警告
1771年 1隻の異国船が阿波国の港に入り、(神聖)ローマ帝国陸軍中佐ファン・ベンゴロの名前で、長崎出島のオランダ商館長宛の手紙を現地役人に託して去った
ベンゴロとは、ファン・ベニョフスキーの誤訳で、ハンガリー出身、ポーランド内乱でロシア軍と戦い捕虜となってシベリアからカムチャッカに送られ、謀反を起こして船でマカオ経由ヨーロッパに戻る途中土佐に接岸、奄美大島にも立ち寄った後ヨーロッパに帰って回想録を出版して大当たりをとる
ロシアは、この頃千島まで探索の手を伸ばしてはいたが、ささやかな居住地を設けただけ、カムチャッカの開発すら行き届かず、樺太には手も付けていない。日本への関心はもっていて1739年にはシュパンベルクの日本探検隊が派遣されたが何の成果もあげずに終わる
オランダ商館から報告を受けた幕府は、無視を決め込むが、漏れ聞いた工藤平助や林子平たちが手紙の内容を問題にする ⇒ オランダ商館は手紙を、ロシアが松前他近隣の諸島を攻撃するための情報を集めたと訳したが、それを長崎の通詞が、ベニョフスキー自身が日本沿岸を測量して回ったと誤訳
オランダ商館と長崎通詞の間では、北海道、千島、樺太の蝦夷地へのロシアの南下脅威論が共有されていたが、最も詳しいのは工藤平助の『赤蝦夷風説考』で、そこではロシアの望むのは日本との交易としている
18世紀末の時点でロシアが望んだのは日本との交易 ⇒ ロシアの極東経営はもっぱら毛皮獣の捕獲を目的としたが、彼等の経営拠点は食料を始めとする生活物資の欠乏に脅かされて、それを解決しない限り維持が困難だった。オホーツク港からカムチャッカに渡る航路の開設は1717(1年がかりで往復)
ロシア人は、1730年代の民族学者クラシュニンニコフの調査によって、クナシリ島民が日本と交易していること、ウルップ、エトロフ、クナシリの住民は「自分の上にいかなる支配者も有しない」ことを知っていただけに、この3島にどこが先に手をつけるかが焦慮の的となっていた
蝦夷地に住むアイヌを自分側に取り込もうとする日・露民族主義どうしの争いが北方問題

第2章        シベリアの謝肉祭
ロシアの東方進出史 ⇒ 東漸の第1歩は、16世紀末葉のエルマークのシベリア遠征。豪商ストロガノフ家に傭われ、イワン雷帝の代に特権を得たウラル西麓の地から東へと進出したのが契機となって、1587年にはトボリスクが建設され、シベリア総督府が置かれる
コサックの一隊がオホーツク港に達したのは1639
シベリア征服は、モンゴル系・トルコ系の勇猛な遊牧民の抵抗を避け、タイガと呼ばれる密林の南辺を貫いて進められ、1649年からハバロフの一隊がアムールのほぼ全流域を征服したが、清の康熙帝によって押し戻された結果、ロシアは遙か遅れてカムチャッカ方面から日本へアプローチすることになった
カムチャッカ半島の存在は早くから知られていたが、住民のコリヤーク族、カムチャダル族は火器の使用を知っていて、容易にロシア人の進出を許さなかったが、18世紀初め毛皮の輸送に携わっていたコサックが征服。コサック自体元々モスクワ大公国の支配を逃れて辺境に定着した自由の民であり、掠奪遠征を常とする反逆者でもあり、その習性はシベリアでも存分に発揮された
宗教については、ロシア人はそれぞれの民族に独自の宗教があっていいという考えから、シベリアの原住民に改宗を迫ることはなく、これは西欧諸国の植民地支配におけるキリスト教宣布の比重の大きさを思う時、ロシアのシベリア経営の一大特色と言わねばならない

第3章        日本を尋ねて
1702年 原住民の中に混ざっていた漂流民、伝兵衛がモスクワに連れて行かれ、ピョートル1世が引見して日本に興味を持ち、伝兵衛にロシア語を教えた後ロシア人をつけて日本語を学ばせ(1705年のことで、ペテルブルク日本語学校の起源)、日本との交易の可能性を探る為強力な一隊をカムチャッカへ派遣
千島に足跡を残したのは1711年のことで、翌年には大規模な探検隊が組織され、前年カムチャッカに漂着した日本人が案内人として加わり、北海道を第15島とする千島列島図を明らかにする
1739年 シュパンベルクの日本探検隊が仙台領に初めて投錨、直ちに交易が始まる
数日にわたって日本の沿岸を調査し、交易を結ぶべき相手として日本の存在を認める  「元文の黒船」として日本の記録にも残っており、陸奥国現在の宮城県牡鹿郡沖合に投錨、一部は下田まで南下、住民がこぞって水、食料、燃料を補給してくれた
報告を受けた幕府は、海防に対する危機感はまったくなく、上陸すれば捕える程度の対応だった
18世紀後半、ロシアのエカチョリーナ2世の関心は黒海への進出で、日本への興味はなく、シベリアの狩猟者の目もウルップ島のラッコしかなかったクリル(千島)より、ベーリングの第二次探検で発見されたアレウト(アリューシャン)列島が毛皮獣の宝庫だったところから、さらに東へと進み、1761年にはアラスカに達した
1778年 エトロフに上陸し、島のアイヌと交易、ロシアに服属することに同意したとロシアの史書は伝える
さらにクナシリへ赴き、同地のアイヌのツキノエを先導者として、ロシア人として初めて蝦夷島(北海道)に上陸。現在の根室市東方
松前藩は、1年後に返事をするとして押し戻したが、幕府には報告せずに1年後の返事も、異国との交易は長崎で相手はオランダのみとの原則に従って婉曲に拒否
1780年の大地震で、ウルップのロシア人基地が崩壊、ラッコも獲れなくなり、日本の対応と相俟って、南千島と松前島へのアクセスの魅力が減少
幕吏が、ベニョフスキーに引っ掛かってロシアを北方の脅威とみなして対応したのに対し、松前藩は友好的な対応をしていた。日本側のロシア人への不信感を、当のロシア人が知らなかったのは初期の日露関係の顕著な特徴であり、両国にとってまことに不幸な門出だった

第4章        蝦夷大王の虚実
松前藩は、米が採れないところから幕藩体制の根幹たる石高制が存在しないユニークな性格を持った小邦国
鎌倉末期から南北朝期の頃に、南西の半島部に日本人が住みつく。所によってはアイヌと混住していたが、アイヌとは交易という絆で結ばれ、平和に共存
津軽半島西側の十三湊を本拠とする津軽安東氏が、執権北条義時の代に「東夷の堅め」に任ぜられ、「蝦夷管領」と俗称されたが、1443年南部氏に圧倒され蝦夷地に逃走。その後アイヌとの所領争いを経て、渡島半島に和人支配を確立し後の松前藩の始祖となる
1593年 臣下の蠣崎氏が秀吉から朱印状を得て、蝦夷地の支配権を認められるが、領地ではなくアイヌを相手とする交易の管理が主眼
徳川時代も、松前藩は徳川大名の1人で、幕府は松前を領地として認識していなかったが、松前藩主は次第にアイヌの支配者として振舞い、江戸城中で松前藩主が蝦夷大王と呼ばれていたのも、一般の藩主とは異なる存在と見做していたからに違いない
松前藩では、藩主以下商場が知行として与えられ、交易の管理のみならず自らも交易の当事者として利潤をあげていたので、松前にとっても幕府にとっても、蝦夷地への領域拡大という意図はまったく存在しなかった
1669年 アイヌが松前藩を攻撃、幕府が東北諸藩に出兵を命じ、アイヌに対する松前藩の統制を強化
18世紀前半には、商場知行制が場所請負制に移り、商人が商場を仕切って運上金を奉納する方式となり、江戸や上方の大商人が進出、アイヌの生活資源を奪うようになる。松前に加えて箱館、江差の2港が繁盛すると共に、アイヌとの共存も進む

第5章        アイヌの天地
アイヌ民族は白人種だという説が戦後の一時期まで学界で有力だったが、日本人とは人種が違うという認識があとを絶たない
現在の分類では、まぎれもないモンゴロイド(古モンゴロイド)、アジア人種
梅原猛は、アイヌ文化には日本の精神文化の原型が留められているといい、言語学上はまったく性格の異なる言語とされながらアイヌ語には日本語に類似する語彙が多数あるが、両者はほぼ同時代に文化形成されており、アイヌが日本人や日本文化の基層となることはあり得ない
1618世紀にかけてアイヌの内部抗争のあと、政治権力の統制を必要としない共同体社会が築かれていく
1785年 幕府による蝦夷地見分実施  『赤蝦夷風説考』が契機。北海道、千島、樺太の実情を初めて明らかにし、アイヌを日本国民と認定、千島・樺太を日本固有の領土と見做した点で絶大な意義を持つ

第6章        アイヌ叛き露使来る
1789年 クナシリでアイヌの暴動勃発  松前藩と商人が一体となったアイヌ対象の収奪への反抗だったが、異文化摩擦ととらえる歴史家もいる。この後、幕府は蝦夷地への関与を深め、多くの幕吏が渡島して、アイヌも日本国民として把握しようとする動きがあった
1792年 ロシアの使節ラスクマンが漂流民の大黒屋光太夫、磯吉らを伴って根室港に入る  松前藩との間でお互いの持っていた地図を交換、幕府は長崎への入港許可書を与える。その真意は定かではないが、時間稼ぎ? ロシアがすぐに行動に移さなかったために公式の交易には発展せず

第7章        幕府蝦夷地を直轄す
1796年 王命をうけてエゾ・サハリンとアジア北東岸を含む海域の探検途上にあった英国艦が室蘭に来航
1799年 幕府が東蝦夷地直轄化を決定、アイヌとの交易を幕府の直接管理とした  収奪をやめアイヌを日本国民として同化へ
蝦夷地警衛の焦点は南千島。幕府はロシアの千島進出をエトロフ島の先のウルップ島で喰い止める積りだった。ウルップはもともと無人の島、1775年に入植したロシア人も82年には退去、85年再渡来したロシア人も翌年には引き揚げ、85年の幕府見分の際もロシア人の影はなかった。ラスクマンの来航を機にロシア植民団がウルップに送りこまれるが、幕府はエトロフすら開発していなかったので、まずは東蝦夷地直轄事業の最優先課題としてエトロフ開発が挙げられ、淡路島出身の樽廻船業者高田屋嘉兵衛に航路の開拓を一任、嘉兵衛は近藤重蔵らを伴いエトロフ開発に目途をつける
1802年 幕府が東蝦夷地の永久上知を決定、箱館奉行所設置
蝦夷地は、鷹・鷲羽・毛皮を産出し、それらはいずれも徳川武家社会の武威を示す必需品だったが、松前藩のアイヌ交易で入手できるし、松前藩としても蝦夷地をアイヌに委ねているからこそ交易の利を上げることが出来たので、蝦夷地を征服する必要がなかった

第8章        レザーノフの長崎来航
19世紀に入るとロシアでは再び日本との通商開始の機運が高まる ⇒ アリューシャンからアラスカに広がった狩猟植民地維持のために、対日交易の重要性が増した
イルクーツクの豪商で、死後「ロシアのコロンブス」と称えられたグレゴリー・シェレホフが1783年アラスカを開拓、95年死後は妻と娘婿のレザーノフが遺志を継いで99年官制の露米会社設立、シトカを本拠にアメリカ西岸のロスにまで勢力を伸ばすことになる
1804年 レザーノフを特派大使に任命、長崎でのオランダ並みの交易を求めて訪日するが、長崎では長い間待たされた揚げ句に交易拒否の返事

第9章        レザーノフの報復
レザーノフを乗せたナジェジダ号の艦長は、翌年サハリン島の調査に向かうが、アムール河口に近づくと海水がほとんど淡水となるので、サハリンは島ではなく大陸と繋がった半島だと判断。その4年後間宮林蔵が大陸と樺太の間に水道があるのを発見、後にシーボルトがもたらした間宮の地図を見た艦長は、「これは日本人の勝ちだ!」と叫んだという
レザーノフは、訪日の失敗の報復として、蝦夷地襲撃計画を立案するも、本国の承認を得られないままに1807年死去するが、その前年部下が樺太南部のアニワ湾を急襲、ロシア領であることを宣言、エトロフにも来襲
幕府は、紛争を避ける慎重な態度を保ちつつ海防を厳にする方針で対応
間宮海峡発見の経緯 ⇒ 1808年幕府が間宮他を樺太の見分に派遣、翌年の再調査で樺太対岸の山丹交易の実態に触れることで、樺太が島であることを確認、「これより大日本国境と見極めたり」と宣言するが、その偉業は後にシーボルトが著書で紹介するまで、長くヨーロッパに知られなかった
樺太アイヌが山丹人との交易で借方が嵩み同朋が奴隷として連れ去られていたのを知った幕府は、大半を肩代わりして樺太アイヌの窮状を救っている

第10章     ゴローヴニンの幽囚
1811年 ロシア極東領の海域調査に出た海軍少佐のゴローヴニンがクナシリ島で捕えられ箱館に護送され、1807年の樺太・千島襲撃のかどで取り調べを受けるが、翌年釈放され、盛大な見送りの中を箱館から出航

エピローグ
1813年 ゴローヴニン釈放の際、ロシア側は日露友好関係の樹立と国境確定についての交渉もする積りで来訪したが、今は時期が悪いと判断したが、イルクーツク知事からの親書だけは手交、日本側で用意した回答は、日本はエトロフまで、ロシアはシムシリまでを領土とし、エトロフ・シムシリ間の諸島はウルップも含め中立地帯とし、互いに人家を設けないというもの
翌年回答を手交しようとしたが行き違い、1816年にもロシアは日本人漂流民の送還を兼ねてエトロフ島に来たが、濃霧と強風で接岸できず ⇒ ロシア側はなんとか接触の機会を作ろうとしたが、日本側の固いガードに手を焼いた
その後は露米会社が中心となって、漂流民の送還を兼ねて日本との接触が試みられ、1828年ウルップの植民も再開されたが、政府ベースでは日本との国交に熱意が無く、ゴローヴニン釈放の際の国境でひとまず安定。樺太が問題になるのはまだ先のこと
1821年 幕府は蝦夷地を松前藩に返還 ⇒ 幕府の北辺への警戒意識が薄れたから
1855年 幕府が東西蝦夷地を上知、再度直轄とした ⇒ 前年の日米和親条約に基づき箱館を開港するに伴い奉行所を置いたのに続く措置
幕府の命で再度蝦夷地を調査した結果、アイヌの窮状を知る ⇒ 幕府の慈恵を受け入れることでアイヌは自立の途を失った。民族国家形成の意志がなかったことにもよるが、どうもアイヌは日本国民の顔をしながら、あくまでアイヌとして今でも生き続けているようなのである


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