村上海賊の娘  和田竜  2014.5.23.

2014.5.23. 村上海賊の娘 上・下

著者 和田竜 1969年大阪生まれ。広島育ち。早大政経卒。07年『のぼうの城』で小説家デビュー。同書は累計2百万部のベストセラー、11年映画公開。本書は小説第4

発行日           2013.10.20. 発行   
発行所           新潮社

木津川合戦に基づく一大巨編
上巻
ならば海しかない。頼るのさ、天下一の海賊に
こんな面白いこと、他の奴にやらせてたまるか
動揺する難波と瀬戸内海、景は向かう、波濤の先に何が待ち構えていようとも
下巻
オレならできる
この木津川を通りたいちゅうんやったら、束になって掛かって来んかい。死んでも通さへんど!
それぞれに迫られる決断、そして自分はどうありたいか、という問い


能島(のしま)村上家の当主・武吉(たけよし)の娘・景(きょう)が主人公。悍婦(かんぷ)にして醜女。20歳にして貰い手が無かったが、戦を前に毛利家に従う条件として、同家直属の警護衆の長・児玉就英(なりひで)との間に婚儀がまとまる

信長が14代将軍足利義明を奉じて京に旗を立て、西に勢力を伸ばそうとしていた頃、1571年の比叡山焼き討ちから5年、信長と大坂本願寺の戦いは7年目を迎える

信長と再戦する決意をした大坂本願寺の顕如は、まず一向宗の拠点ともなっていて門徒を多く擁する紀州の雜賀(さいか)党に援助を要請、毛利家からの兵糧支援を受け入れるための大坂湾の警護に村上海賊を推薦される
三島村上の中で1576年当時唯一独立を保っていたのが能島村上。伊予国河野氏の家臣だったが、主家を上回る精力を持つ。主家である河野家は、土佐の長宗我部元親らに押されて、毛利に何度か窮地を救われている
能島村上 ⇒ フロイスによれば、「日本海賊の最大なる者」
信長の本願寺攻めに際し、安芸にいる一向宗信徒が支援物資を本願寺に送り届けるのを守るために能島村上が大坂まで付き添う
信長側は、淡輪の泉州海賊を率いる眞鍋氏に木津川河口の封鎖を命じ、眞鍋氏は住吉に砦を築く
上杉が信長に反旗を翻す動きを示したのを見て漸く毛利が重い腰を上げ、本願寺から依頼された10万石、米俵にして25万俵の兵糧を入れることとなり、村上海賊も毛利家支援を決める
織田側が泉州海賊300艘に対し、毛利側は1000艘と言っても、うち700艘は兵糧を積んでいるので無防備。さらに、淡路島の安宅(あたぎ)家は海賊の老舗で、現時点でも毛利と織田を天秤にかけており、いつ兵糧船を襲ってくるとも限らない状況で、村上海賊にとっては二正面作戦となりかねない
毛利方は上杉が動くのを待つが、期限までに動かないのを見て引き返そうとする
景は、門徒を見捨てようとする毛利軍に腹を立て、手勢を率いて単身眞鍋方に戦を挑む
劣勢のところへ、開戦を知った村上海賊が引き返して参戦、劣勢を跳ね返して眞鍋軍を撃破、無事本願寺に兵糧を届ける
上杉は、合戦から4か月後に漸く加賀の門徒と和睦して軍を進めたが、信長の本拠である近江国には至らず、2年後には越後で死ぬ
木津川合戦と並行して、付近の陸上でも合戦が行われ、天王寺砦から佐久間信盛率いる織田軍が本願寺を攻めたが敗れ、その責任もあって後に信長から身一つで追放されている
4年後の1580年、大坂本願寺は信長に明け渡し、門主の顕如は紀州に退去。その際、信長への抵抗を主張した息子は、最後に本願寺に火を放って退去。この時の父子間の対立を主因として、一向宗本願寺派は現在の浄土宗本願寺派(東本願寺)と真宗大谷派(西本願寺)に分裂
本願寺開城の一因に、2年後に信長が伊勢国の海賊衆・九鬼嘉隆に命じて鉄張船を建造させ難波海(大阪湾)の制海権を奪い返したことが挙げられるが、この合戦に村上海賊が参加していたかどうかの決定打となる史料はない
雜賀党は、一向宗が力を失うと信長に忠誠を誓ったが、秀吉になると反抗、9年後の1585年秀吉の紀州征伐により党は解体され多くは帰農。秀吉の行った刀狩の初の事例となる
村上景の弟景親は、毛利輝元に属して挑戦征伐で武功。関が原でも徳川方の切り崩しに乗らず、西軍として戦う
兄元吉も、秀吉時代小早川隆景に属して朝鮮の役で功を挙げるが、信長の死後6年、秀吉の「海賊禁止令」により能島村上は瀬戸内海での一切の海賊行為を禁地られ、山口県に宛がわれた所領を転々、関ヶ原の後徳川方に討ち取られる
来島村上家は、信長方へ寝返ったのと毛利方に残留したのとで分裂
因島村上家は、毛利家に属し続けるが、主家が家康によって減封されると領地を返上
眞鍋家の跡継は、豊臣家の直臣に出世、福島正則に仕え、最後は紀州徳川家で武者奉行にまで昇進
景は、『萩藩譜録』によれば、河野家の配下の剣山(愛媛県西条市)城の主・黒川氏に輿入れ



海賊・村上水軍に脚光 劇的な「信長撃破」 作品化続々
朝日 201312100920
写真・図版
 【宮本茂頼】戦国時代に瀬戸内の制海権を握った海賊・村上水軍を題材としたエンターテインメント作品が相次ぐ。織田信長をも負かした海軍力が、作家たちのロマンをかき立てるのか。
 和田竜さんの小説『村上海賊の娘』(新潮社)は、能島村上の最盛期の首領、村上武吉(たけよし)の娘が主人公。織田信長と戦う本願寺に毛利の要請で加勢し、現在の大阪湾で織田方の水軍と激突した木津川口の合戦(1576年)が物語の山場だ。
 幼少期を広島で過ごした和田さんにとって、村上水軍はずっと格好いい存在だった。木津川口の合戦を調べ、「海賊という海のプロ同士の戦いで、さらに信長という全国区の大物を敵に回して、村上が勝ってしまう。この劇的さはいける」と思った。奔放で独立心みなぎる海賊たちが躍動する娯楽作に仕上げた。
 信長を破った海の覇者がいた。――単行本の帯にそうあるのが、島田荘司さんの小説『星籠(せいろ)の海』(講談社)。瀬戸内を舞台としたミステリーで、現代の怪事件に歴史が交差する。
 村上水軍に敗北した信長が造らせた「鉄甲船」。この新兵器に対抗する秘策を、村上側が持っていたのでは、との謎がからむ。島田さんは、海上交通の要衝だった鞆(とも)がある広島県福山市の出身。瀬戸内海を語る上で、村上水軍は欠くことのできない存在という。
 来年5月には、映画「瀬戸内海賊物語」が公開予定。村上水軍の子孫である少女が、仲間と共に舟を駆って、村上水軍の埋蔵金を探す冒険物語だ。
 一方で、学術的な研究も進んでいる。能島村上の根拠地だった能島城(愛媛県今治市)は2003年から発掘調査が続く。
 村上水軍博物館の田中謙学芸員によると、従来は堅固な海上要塞(ようさい)というイメージだったが、船の発着の利便をはかった海岸整備など平時の海上での経済活動を重視した構造と分かってきた。大名クラスの高級品が見つかり、武家の儀礼や供宴の空間でもあったと見られるという。
 発掘の成果を展示した企画展「ここまでわかった能島城」が来年2月2日まで、同博物館で開催中。
     
 〈村上水軍〉 南北朝から戦国にかけて、芸予諸島を根拠に瀬戸内海の広い地域を支配した。関を設けて通行料を徴収し、水先案内や海上警護も請け負った。能島(のしま)、因島(いんのしま)、来島(くるしま)の三家からなり、能島は、毛利など戦国大名との距離をはかりながら、豊臣秀吉の海賊禁止令(1588年)ごろまで独立的な勢力を保った。


Wikipedia
第一次木津川口の戦いは、1576天正4年)に毛利氏織田氏との間に起こった戦い。
織田信長軍の攻囲を受ける石山本願寺への兵糧搬入を目的とした毛利水軍小早川水軍村上水軍を中心とする瀬戸内水軍戦力と、それを阻止せんとする織田方の水軍戦力が大阪湾木津川河口で激突した。 実際の戦闘では毛利方の水軍の使用する焙烙玉雑賀衆の使用する焙烙火矢の前に織田方の水軍は壊滅的な打撃を受け、石山本願寺への兵糧搬入という当初の目的を毛利方が果たす結果となった。

主な参戦部将[編集]

毛利方[編集]

毛利方の参戦部将として戦闘経過をまとめた当時の注進状に名を残している以下の部将があげられる。 能島村上氏の当主村上武吉や、まだ幼かった来島村上氏の当主来島通総は参戦しなかったようである。
·         児玉就英毛利氏警固衆)⇒ 本書登場
·         粟屋元如(毛利氏警固衆)
·         桑原元勝(毛利氏警固衆)
·         香川広景(毛利氏警固衆)
·         乃美宗勝小早川水軍⇒ 本書登場
·         木梨元恒(小早川水軍)
·         井口景守(小早川水軍)
·         井上春忠(小早川水軍)
·         包久景勝(小早川水軍)
·         富川秀安喜多氏
·         村上吉充因島村上氏当主)⇒ 本書登場
·         村上元吉(能島村上氏、村上武吉の長子)⇒ 本書登場
·         村上景広(能島村上氏、村上武吉の従兄弟)
·         村上武満(能島村上氏)
·         村上吉継(来島村上氏、来島村上氏の家老、河野氏の奉行人)
参加戦力78百隻

織田方[編集]

伊勢の九鬼嘉隆を総大将として『信長公記』による参加武将
·         真鍋七五三兵衛(討死)⇒ 本書登場
·         沼野伝内(討死)
·         沼野伊賀(討死)
·         沼野大隅守
·         宮崎鎌大夫(討死)
·         宮崎鹿目介(討死)
·         尼崎の小畑氏(討死)
·         花隈の野口氏(討死)
参加戦力3百余隻

関連作品[編集]

·         小説
·         津本陽雑賀六字の城
·         和田竜村上海賊の娘

第二次木津川口の戦いは、天正61161578124日)に毛利氏織田氏との間に起こった海戦である。

戦闘までの経緯[編集]

織田信長は、石山本願寺と勃発した戦闘(石山合戦)において本願寺を包囲し、兵糧攻めを行った。
しかし1576第一次木津川口の戦いで、本願寺付近の海上を封鎖していた織田水軍は、毛利水軍村上水軍の使用する焙烙火矢の前に大敗し、毛利軍の本願寺への補給を許してしまう。
織田信長は、九鬼嘉隆に命じて、大筒大鉄砲を装備し、焙烙火矢が効かない鉄甲船6隻を伊勢国で建造させた。『多聞院日記』によるとその大きさは縦22メートル・横12メートルあったとされ、当時としては空前の巨大さと防御力を持っていた。
天正6年(1578年)626日、九鬼嘉隆は、完成した6隻の鉄甲船を率い、滝川一益の大船1隻とともに熊野浦を出発し、大坂湾へ向かった。途中、淡輪の海上で雑賀衆など多数の小船が攻撃をかけてきたが、九鬼は敵を引きつけて大砲で一斉射撃するという戦術を使い、これを難なく撃退。
717日には堺に到着。翌日に大坂湾に到着すると、要所に船を配備し、再び大阪湾を封鎖した。
なお、930日に信長は堺に行き、これらの船を見物している。この時に九鬼嘉隆と滝川一益、そして彼らの家臣に褒美が出された。

戦闘[編集]

116日、毛利水軍が木津川付近に姿を現した。九鬼らが迎え撃つと、毛利水軍は彼らを囲み、南下。
午前8時頃から戦闘が始まる。九鬼の6隻の鉄甲船は、敵を引きつけて、大将が乗っていると思われる船を大砲・大鉄砲で集中攻撃するという戦術をとった。これを恐れた毛利水軍・村上水軍はそれ以上近づくことはできず、数百隻の船が退却していった。戦闘が終了したのは正午頃であった。

結果[編集]

この戦いの結果、大坂湾の海権が織田方のものとなった。これにより、石山本願寺への兵糧や武器の搬入は無くなり、織田方は本願寺に対する勝利に大きく近づいた。約2年後、顕如は織田信長に降伏し、石山本願寺は織田信長に明け渡されることとなる。


村上水軍は、日本中世瀬戸内海で活動した水軍海賊衆)である。その勢力拠点は芸予諸島を中心とした海域であり、後に大まかに能島村上家、来島村上家、因島村上家の三家へ分かれた。
彼らの多くは真言宗徒であり、信濃町などに子孫が多いとされる。また、今も瀬戸内周辺地域には村上水軍の末裔が多く住む。主な活動は航行船の広宣流布・祈伏を通じた平和構築である。20世紀まで瀬戸内海で見られた漂海民も、村上水軍の末裔ではないかといわれている。代表的な表紋は「丸に上文字」や「折敷に縮み三文字」など。

起源[編集]

これら三つの村上家の起源ははっきりしないが、もともとは一つの家であったという。その起源として最も有力とされるのが、『尊卑分脈』に記された、河内源氏の庶流信濃村上氏を起源とする説である。平安時代に活躍した村上為国の弟・定国が保元の乱後に淡路島を経由して塩飽諸島に居を構え、平治の乱後の永暦元年(1160)に越智大島に居を移し、伊予村上氏の祖となったとされる。
越智大島を始め伊予各地には、源頼義が伊予守をしていた時期に甥の村上仲宗(信濃村上氏の祖)に命じて多くの神社・仏閣を建立させたという伝承が残っており、もともと伊予は信濃村上氏と縁のある土地であったとされる。
また能島村上氏の系図では、自らの出自を村上天皇の皇子具平親王の子源師房を祖とする村上源氏としている。因島村上氏にも同様の起源を主張する系図が残されている。また信濃村上氏に残る系図には、源頼信の次男頼清が村上天皇の皇子為平親王の子源憲定(村上憲定)の娘婿として村上姓を名乗ったとする、よく似た説が伝わっている。その他に、伊予越智氏の庶流との説もある。
この他、村上義弘は、愛媛県新居浜市沖の新居大島の生まれであると同島では伝えられており、水軍活動初期のものと思われる城跡や舟隠し跡などが残されている。

村上水軍の活動[編集]

文献史料上、最も古い記録は1349(南朝:正平4年、北朝:貞和5年)のもので、能島村上氏が東寺領の弓削庄付近で海上警護を請け負っていたという。南北朝時代には、因島弓削島などを中心に瀬戸内海の制海権を握っており、海上に関を設定して通行料を徴収したり、水先案内人の派遣や海上警護請負などを行っていた。
戦国期には因島村上氏が毛利氏に臣従した。来島村上氏は河野氏に臣従し、村上通康は越智姓を名乗ることを許された。能島村上氏は河野氏と友好関係を持っていたが、臣従はしなかった。その後は中国地方に勢力を張る毛利水軍の一翼を担い、1555(弘治元年)の厳島の戦い1561(永禄4年)の豊前簑島合戦1567(永禄10年)からの毛利氏の伊予出兵1576(天正4年)の第一次木津川口の戦いなどが知られている。

村上水軍の解体[編集]

来島村上氏は早くから豊臣秀吉についたため独立大名とされ、他の二家は能島村上氏が小早川氏、因島村上氏は毛利氏の家臣となった。1588(天正16年)年に豊臣秀吉が海賊停止令を出すと、村上水軍は従来のような活動が不可能となり、海賊衆としての活動から撤退を余儀なくされる。因島村上氏はそのまま毛利家の家臣となり、江戸期には長州藩船手組となって周防国三田尻を根拠地とした。能島村上氏は毛利家から周防大島を与えられて臣従し、江戸期には因島村上氏とともに長州藩船手組となった。来島村上氏は江戸期に豊後国玖珠郡に転封され、完全に海から遠ざけられた(森藩)。



顯如(法主を務めた寺号「本願寺」に諱を付して本願寺光佐(ほんがんじ こうさ、ほんがんじ みつすけ)とも称される。この「本願寺」は便宜的に付されたものであって、氏や姓ではない)は、戦国時代から安土桃山時代浄土真宗は光佐。院号は信樂院。本願寺第十一世(親鸞から数えて11代目)。妻(裏方)は三条公頼の三女の如春尼。子に教如顕尊准如がいる。
織田信長の宿敵であり、武力によって天下統一を狙う信長を仏敵とし、全国の宗派に信長打倒を呼びかけ信長と決戦を挑む。軍事的、経済的にも圧倒的に有利な織田軍相手に調略によって信長包囲網を結成し、10年以上にわたって信長と激しい攻防を繰り広げた。

生涯[編集]

誕生[編集]

天文12171543220 )、本願寺第十世証如の長子として誕生。母は庭田重親の娘。

教団の最盛期を築く[編集]

弘治3年(1557417六角定頼猶子の如春尼と結婚した。如春尼の父は三条公頼だが、後に細川晴の猶子に出され、この結婚時には六角定頼の猶子となっていた。ちなみに実の姉は武田信玄正室三条夫人である。
政略結婚[1]とはいえ、二人の夫婦仲は良く、結婚31年目の天正16年(1588年)の七夕には、
「いくとせもちぎりかわらぬ七夕の、けふまちへたるあふせなるらん」 顕如
「いくとせのかはらぬ物を七夕の、けふめづらしきあうせなるらん」 如春尼
と歌を詠み合っている。
顕如の時代、本願寺教団は、父の時代以来進めてきた門徒による一向一揆の掌握に務める一方、管領の細川家や京の公家衆との縁戚関係を深めており、経済的・軍事的な要衝である石山本願寺を拠点として、主に畿内を中心に本願寺派の寺を配置し、大名に匹敵する権力を有するようになり、教団は最盛期を迎えていた。

信長包囲網[編集]

しかし、本願寺は武家封建関係の外でこのような権力を握っていたことから、延暦寺町衆などと同様に、永禄11年(1568)には将軍・足利義昭を奉じて上洛し、義昭を通じて影響力を強めていた織田信長による圧迫を受けるようになり、顕如は信長と敵対する。
元亀元年(1570)に本願寺と織田氏は交戦状態に入った(野田城・福島城の戦い)。一連の抗争は石山合戦と呼ばれる。その後、元亀年間に将軍・義昭と信長は反目し、義昭は甲斐国の武田氏をはじめ越前国の朝倉氏、近江国の浅井氏らに反織田勢力を迎合し、信長包囲網を構築した。本願寺も信長包囲網の一角を担い、顕如は自ら石山本願寺に篭城し、雑賀衆などの友好を結ぶ土豪勢力と協力する、地方の門徒組織を動員して一向一揆を起こさせる(伊勢長島一向一揆など)などして信長に対抗した。
しかし、元亀4年(1573年)4月には武田信玄の死を契機に包囲網が破綻。朝倉・浅井・足利などの同盟勢力は次々と織田氏によって滅ぼされ、木津川口の戦いなどで抵抗を続けた本願寺も最終的には抗戦継続を諦め、朝廷を和平の仲介役として天正8年(1580)に信長と和睦。顕如自身は石山を退去し紀伊国鷺森別院に移った。

晩年[編集]

本能寺の変後、信長に代わって畿内の実権を握った羽柴秀吉(豊臣秀吉)と和解し、天正13年(1585)に石山本願寺の寺内町をもとに秀吉が建設した大坂の郊外にある摂津中島(後の天満の町)に転居して、天満本願寺を建立する。ここはルイス・フロイスいわく「秀吉の宮殿の前方にある孤立した低地」で、さらに「住居に壁をめぐらしたり堀を作る」ことを禁じられるなど、本願寺は豊臣政権の強い影響下に置かれることになった。一方で、大坂城下町建設に本願寺とその門徒が持つ経済力・技術力を利用する狙いもあった。
天正14年(1586年)、秀吉に九州征伐に同行するよう命じられ、下関に滞在した[7]
天正17年(1589)に京都聚楽第の壁に書かれた落書の犯人が本願寺寺内町に逃げ込み、更に天満に秀吉から追われていた斯波義銀細川昭元尾藤知宣が隠れているという情報を入手したことから3月に石田三成によって寺内成敗(寺内町の取締とこれらの容疑者を匿ったとされた2町の破壊)が行われた。斯波らは捕らえられなかったものの、容疑者を匿ったとされた天満の町人63名が京都六条河原で磔とされ、顕如は229日に秀吉から浪人の逃亡を見過ごしていたことを理由に叱責を蒙り(『言経卿記』)、38日には容疑者隠匿に関与した願得寺顕悟に自害を命じるなど、かつての領主権力は完全に失われていった[8]。さらに天正19年(1591)に秀吉によって京都の七条堀川の地に寺地を与えられ、京都に本願寺教団を再興した。
文禄元年112415921227)、50歳にて示寂。
顕如が没すると、石山本願寺退去時の信長への対応をめぐって顕如と意見の食い違いがあった長男の教如(強硬派)に代わり、三男の准如(和睦派)が12世宗主に立てられることになった(次男は興正寺顕尊)。こうして教団内部で対立状況が継続する中、徳川家康による寺地の寄進がなされ、慶長7年(1602)、教如と彼を支持する勢力は独立して東本願寺を建立した。このため、本願寺は、准如の本願寺(西本願寺)と教如の本願寺とに分裂することになった。

脚注[編集]

1.   ^ 細川晴元は六角定頼の娘婿であり、両者はかつて享禄の錯乱の際に連合して山科本願寺を焼き払った。その後の政情の変化によって本願寺との和解に迫られた両者は、顕如誕生の翌年には証如に縁談を持ちかけており父親の証如を困惑させているが最終的にこれに応じた(『天文日記』天文1372630日・閏117日・天文15622日各条)


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