ケネディ暗殺 ウォーレン委員会50年目の証言  Philip Shenon  2014.5.3.

2014.5.3.  ケネディ暗殺 ウォーレン委員会50年目の証言 上・下
A Cruel and Shocking Act – The Secret History of the Kennedy Assassination                 2013

著者 Philip Shenon 元ニューヨーク・タイムズ記者。ワシントン支局で国防総省司法省国務省などを担当。ブッシュ大統領と議会の求めによって作られた911テロ調査委員会がなぜ真実に到達できず、本来責任を負うべき人間が免責されたかを描いた『The Commission: The uncensored History of the 9/11 Investigation (委員会 911調査の本当の歴史)』を08年出版、大きな話題となる。本書は、そのシノンの前著に触発されたウォーレン委員会の元スタッフの接触よって取材がスタート。ウォーレン委員会でケネディの暗殺の真相を調査した当時の若手弁護士や検事が、ケネディ暗殺50年目を機にシノンに全面協力をした。シノンは5年を費やして本書を上梓

訳者 村上和久 1962年札幌生まれ。早大文卒。海外ミステリの編集者を経て翻訳家

発行日           2013.11.15. 第1
発行所           文藝春秋

(上巻帯) 私のニューヨーク・タイムズのオフィスの電話が鳴った。「委員会のものだが、話を聞いてもらいたい」
私はその時、911テロを貯砂した超党派の委員会のチュさがなぜ新装に到達できなかったかを書いた『委員会」という本を出版したばかり。だが、電話をかけてきた相手は「委員会」は「委員会」でももう一つの歴史的委員会、ケネディ暗殺の真相を調査した「ウォーレン委員会」の人間だった
(下巻帯) ウォーレン委員会の調査スタッフの頭を最後まで悩ませたのは、オズワルドが暗殺の直前に、メキシコシティに赴き、そこでソ連大使館、キューバ大使館の人間と接触していることだった。「外国政府による陰謀」の可能性を調査するエリア4のコールマンとスローソンは、キューバ大使館で働く1人の女に注目する。その女は共産主義者であり、オズワルドと愛人関係にあったという。一方、CIAFBIは、メキシコシティでのオズワルドの足取りを把握しながら、敢えてその事実を隠し、証拠を隠滅しようとしていた

プロローグ
71.4.12.元外交官チャールズ・ウィリアム・トーマスが自殺 ⇒ 2年前に国務省を解職された際、ロジャース長官宛に、「メキシコでのリー・ハーヴェイ・オズワルドの調査について」と題する直訴状を出す。67年から3年近く冷戦の最前線だったメキシコシティの大使館に勤務。オズワルドは、暗殺の数週間前メキシコシティを訪れ、ソ連とキューバ大使館を訪問、キューバへの亡命のためのビザ取得が目的だった。ウォーレン委員会は、オズワルドの単独犯だと結論付けたが、トーマスが訴えたのは、オズワルドのメキシコ訪問に関する情報をもとに再調査を要請するものだった。ノーベル賞受賞者の妻であるメキシコの人気作家の実名を出して、彼女が暗殺直前カストロ親派のパーティでオズワルドに会ったといい、彼のビザ取得手続きに彼女の義理の親戚の娘シルビア・ドゥランが愛人として関与していたというもの。国務省はこの要請の裏付けを取るためCIAに回付したが、さらなる調査の必要性はないとの回答
本書の発端は08年、ニューヨーク・タイムズのワシントン支局にいた私への電話。動機は私が同年出した911テロ調査委員会の真相を暴こうとした著書『委員会』の好意的な書評を呼んだことで、ウォーレン委員会の報告の内容に後になって責めを負いたくないからというものだった
本書の題名は、最終報告書の前書きの書き出しから引用。委員会の初めての総合的な内幕史を執筆する試み。多くの面でケネディ暗殺の真相のどれほど多くがいまだに語られず、殺害の証拠のいかに多くが委員会に届く前にCIAFBIの高官たちによって隠蔽され破棄されたかを私が発見した報告書でもある
委員会が集めた物的証拠の膨大な資料は委員会の透明性とその努力の証拠であり、国立公文書館と議会図書館等に保存するという決定は、国民を安心させるためのもの
委員会は最初から欠陥があったし、嘆かわしい失敗を犯した。ウォーレンが調査に課した制限のために、重要な証拠と証人を追いかけられなかった。ウォーレンは愛する友ケネディとケネディ家の遺産を守ることに関心があるように思えた
本書の大半は、委員会の存命のスタッフ法律家の目で見た彼等の物語である。大半が調査時点で2030代、全国の名門法律事務所やロースクール、検事局から募集され、そのうちの何人かにとっては本書のためにインタビューを受けたのが委員会の仕事についてこれほど詳細に話した最初の機会だった。陰謀論者との醜くてしばしば勝ち目のない公開討論に引き込まれることを恐れて多くは沈黙を守ってきたが、例外なく委員会におけるそれぞれの仕事に誇りを抱き続けていた。しかし、多くは自分たちがどれだけ多くの証拠を見せられなかったかを知ると激怒した。彼らには分かっているように、それはケネディ暗殺の歴史を今でも書き換えることになる証拠なのである

第1部        19631123日~29
1.    解剖医は、血染めのメモを焼却した
大統領の遺体がワシントンに戻って数時間以内に、暗殺に関する証拠が政府のファイルから姿を消し始めた。死体解剖時に軍の病理医が取ったメモが死体検案書の元の下書きとともに焼却された
遺体は、大統領の侍医ジョージ・バークリー提督(海軍少将)が、司法解剖に反対するジャクリーンを説得してベセスダの海軍病院に運ばれた ⇒ ウォルター・リード陸軍病院のほうが解剖では遙かに優れていたし、軍病理学研究所もあったが、大統領が海軍にいたというのが選択の理由となった。バークリーは、死所解剖の指揮を執ろうとして拒否されたが、既にオズワルドが犯人として逮捕されている以上、解剖は形式的なもので遺体をできるだけ傷つけないようにすべきと主張。さらに、バークリーは解剖によって大統領が長年命を危険にさらしてきた副腎の慢性病・アジソン病に罹患していることを隠すよう頑固に主張。大統領が生き続けたのは、テストステロンの大量投与を含む日々のホルモンの補助のお蔭だった
数日後、バークリーは、分析のため頭蓋骨から外されていた脳を大統領の遺体に戻すためホワイトハウスに運ぶよう要請、ロバート・ケネディに届けることになっていたが、79年下院で行った大統領暗殺の再調査の特別調査団の報告では、64年に一時期国立公文書館で保管していたが、その後の行方を明らかに出来なかった。遺産の遺言執行人の証言では、ロバート・ケネディが一般に公開されることを嫌って自ら廃棄したのではないかと疑っている
解剖の夜、暗殺がロシアかキューバの陰謀で、彼らが襲ってくるかもしれないという恐怖があった
ケネディの死因については、ダラスの医師の間にもベセスダの軍医の間にも疑いの余地はなく、脳の右半分を吹っ飛ばした銃弾による頭部の重傷だったが、1発目と思われる銃弾の出口が見つけられず、銃弾はどこへ行ったのかが疑問として残った ⇒ 気管切開をしたところから飛び出したと考えた
解剖医は血染めのメモを死体検案書として清書したが、元のメモを破棄したことが、後々の陰謀説に餌を与えることになったかもしれないと回想
ダラスでは暗殺当日から証拠の破棄が始まっていた ⇒ オズワルドの逮捕後、ロシア人の妻マリーナは事情聴取から解放された後、ライフルを持ったオズワルドの写真を焼却
FBIダラス支局でも、翌日ダラス警察本部でジャック・ルビーによってオズワルドが射殺されたため、もう裁判は行えないとして、オズワルドが11月上旬、自分のソ連生まれの妻を困らせるのをやめるよう警告した手書きのメモを焼却するよう、部下に命じていた ⇒ 事前にFBIがオズワルドと接触を持ち、オズワルドの犯行を止める機会を逃した証拠として解釈することが出来た

2.    ロバート・ケネディの推理
2日間で5都市を回る資金集めの旅は、ワシントンの多くの人々にとって、政治的危険が多いと思われていた ⇒ 特に保守的で幾つかの極右過激派集団の本拠地でもあり、著名な政治的訪問者を不躾に屈辱的に扱うという評判のあったダラスで右翼のデモ隊の抗議に遭うかもしれないと警告されていたし、ほんの1か月前ケネディの国連大使が反国連の抗議者によってやじり倒されていた
最高裁首席判事のウォーレンは、4353年ひどく人気のあったカリフォルニア州知事、生涯共和党員だったが人気は党派を越え、第2次大戦の帰還兵のために公共事業計画を創設、一時は大統領選立候補まで動いたがニクソンが担ぎ出したアイゼンハワーに阻まれるも共和党支持の功績からアイクによって最高裁判事に指名。公民権と市民的自由を支持し、人種差別廃止を命じたりしたため、アイクから「ウォーレンの指名は自分のしでかしたなかで最大の過ち」と言わしめた。ケネディの大統領就任で、ウォーレンは全面的に支持を表明、個人的にも父親的な愛情を注ぐ
公民権問題の最高裁決定には激しい講義が渦巻き、ウォーレンを弾劾裁判にかけようとする全国運動が何年も続いていた
22日午後6時、ウォーレンは、メリーランド州アンドルーズ空軍基地に新大統領と血染めの服を着たままのジャクリーンを迎える
ウォーレンが、ケネディの頌徳と併せて暗殺への憎悪と糾弾の声明を出すが、ケネディの批判勢力、特に南部の人種差別主義者からは自分たちに向けた攻撃と受け止められ、オズワルドが彼らとは無関係の政治勢力の産物ということが判明するとよけいに激怒
ロバート・ケネディが暗殺を知ったのは、FBI長官・フィーヴァーからの電話。初めて自宅にかけて来た電話で、「まるでハーヴァード大学の教員の中に共産主義者を見つけた事実を報告しているかのように、それほど興奮していなかった」と、フーヴァーの声の冷たさを思い出すと回想
ロバートは、殺人の背後にケネディ政権の――とりわけロバートの司法省の――邪悪で強力な敵の誰かがいると信じているようだった。61年のピッグズ湾事件の惨事のせいで大統領を決して許そうとしないものたちがスパイ機関にいることを知っていたので、最初はCIA内の何かの分子の仕業ではないかと恐れた
ピッグズ湾事件の後、ケネディはアレン・ダレスCIA長官を解任し、「CIAをちりじりばらばらにして風にばらまく」と誓ったと言われた所からCIAによる暗殺を疑ったロバートは、すぐにダレスの後任のマコーンを呼んで真偽を質し、さらに暗殺操作のために独自の私的な捜査を開始

3.    ジョンソンとフーヴァーの奇妙な友情
リンドン・ジョンソンも陰謀好きな心の持ち主であり、自分に対する陰謀を常に感じ取っていたが、前任者の殺人が政府を転覆させようとする外国生まれの共産主義者の陰謀の第1段階かもしれないと確信、自らも第2の標的だと脅えた ⇒ 病院からすぐにダラスのラヴ・フィールド空港の専用機に乗り込み、ジャクリーンの到着を待ってダラス連邦地裁判事の立ち合いで宣誓式を行い、アンドルーズ空軍基地へと向かう
空港からヘリでホワイトハウスに向かい、通りの反対側の副大統領執務室に入り指揮を執る ⇒ ソ連を始めとする外国の敵対者による軍事的な前進の証拠がないことを確認すると、全閣僚の留任を要請。ロバートも留任を受け入れたが、もともとジョンソンを忌み嫌っていることは変わらなかった
ジョンソンの政治生命には深刻な疑問符が進行中 ⇒ ワシントンのロビイストが主宰する議員を対象とした売春組織の社交クラブの絡んだ汚職事件の捜査が急展開。そのロビイストから情報提供を受けた『ワシントン・メリーゴーランド』のコラムニスト・ピアソンの親友の1人がウォーレンだった
長年の間フーヴァーと友達になろうとするジョンソンの試みは、時には滑稽なほどの諂いだった ⇒ ジョンソンは、フーヴァーが公人の秘密を不正に取引していることも、その秘密がフーヴァーの指示や気紛れで暴露される危険が常にあることもよく知っていた。暗殺の6か月後、ジョンソンは翌年FBI長官が70歳になった時強制的に引退する規則からフーヴァーを除外する大統領令に署名したのも、完全に愛国的な動機ではなかったと後に認めた: テントの中から外に小便をさせた方が、外から中に小便をさせるより良かった
暗殺翌日のフーヴァーによるジョンソンへのブリーフィングは間違った情報の寄せ集めだった ⇒ オズワルドを有罪にする証拠はそれほど強力ではないと言い、共犯者の存在も示唆
イェール大ロー・スクールの学部長で影響力ある民主党のロストウ(弟ウォルトは、ケネディ大統領の国家安全保障担当次席補佐官)が、超党派の調査委員会設置を提案

4.    誇大妄想狂の母親
オズワルドの母親は56歳の准看護師、2度の離婚歴があり、自己顕示欲旺盛なところへ持ってきて突如世界の有名人となり、3人の息子の中でも疎遠だったオズワルドの母親としての立場を最大限に利用しようとした

5.    ジョンソン、ウォーレンを説得
ジョンソンは暗殺後の当初から、自分が関係しているとの疑いがあることを知っていた。それまでも好んでケネディが在職中に死ぬ確率について冗談を飛ばしたり、「副大統領を引き受けたのは、過去の大統領の4人に1人は亡くなっていて、自分はギャンブル好きだ」などと冗談半分に言っていた
身の潔白を明かすためにも信頼性のある委員会による事件の解明が必要で、ウォーレンの個人的な清廉さこそがすべての事実を白日の下に晒し信用できる結論を保証する重要な要素として必要とされたが、これまで政府の任命を引き受けた最高裁メンバーの不幸な歴史から、ウォーレンは要請を拒否 ⇒ 真珠湾攻撃を調査する委員会の委員長を務めたロバーツ陪席判事や、ニュールンベルク裁判を監督するために45年最高裁を去ったジャクソン陪席判事に対し烈しい批判があった。前主席判事は裁判を「欺瞞」と呼び、ジャクソンが「高級なリンチ行為」に加担したと非難
大統領は、おべっかと懇願と嘘と脅しが強力にミックスされた「ジョンソン療法」で、ウォーレンが第1次大戦に国の命令の下陸軍で戦ったことを思い出させ、命令ではないが第3次大戦の引き金になることを看過できない立場に追い込んで涙を浮かばせた
ウォーレンの任命に、最高裁判事は1人を除いて憤激、ウォーレンを吊し上げた
他のメンバーは以下の通り ⇒ ジョンソンは、「ウォーレンが委員長になることを条件に委員を承諾した」といったが、ラッセル以外は全くのウソ
リチャード・ラッセル ⇒ 民主党上院議員。ジョージアの巨人 強力な人種差別主義者。同郷のウォーレンを悪党と呼んで嫌っていたが、政界での教え子でもあり秘蔵っ子でもあったジョンソンに事後承諾で説得される
ジョン・シャーマン・クーパー ⇒ 共和党上院議員。元インド大使。尊敬すべき中道派。ケンタッキー州選出
ヘイル・ボッグズ ⇒ 民主党下院議員。ケネディと親しかった。院内幹事。ルイジアナ州選出
ジェラルド・フォード ⇒ 共和党下院議員。ミシガン州選出
アレン・ダレス ⇒ 前CIA長官。ロバート・ケネディの推薦
ジョン・J・マクロイ ⇒ 前世界銀行総裁。ロバート・ケネディの推薦
J・リー・ランキン ⇒ 総合法律顧問。アイゼンハワー政権の法務次官。ネブラスカ州

第2部        調査
6.         委員会招集される
FBIは最初、独立委員会の設置に反対 ⇒ オズワルドがもたらす脅威に気付かなかったFBIの過失を攻められることを懸念
FBIと委員会は最初の人選から衝突 ⇒ ウォーレンの元部下を総合法律顧問にすることにフーヴァーが反対、委員全員への根回しに成功。ウォーレンはカリフォルニア州知事時代からフーヴァーと親しく付き合い、FBIの「特別連絡者リスト」(FBIから支援の視覚を与えられた公職者のリスト)にも名を連ねたが、最高裁で犯罪容疑者の権利拡大や犯罪捜査における違法な盗聴等のゲシュタポ戦術が暴露されたことを契機に両者の関係は冷え込み、ケネディ暗殺の頃は互いに軽蔑し合っていた
FBIは、もう少しで「徹底的な報告書」を完成させるとAPにリーク ⇒ (FBIが未然に防げたかもしれない)陰謀もなく、共犯者もなしに殺害したとの結論
ウォーレンが目指したものは、FBIやシークレット・サーヴィスなどの機関が収集した証拠を単純に評価・再検討することに限定したものだったが、他の委員は自ら召喚状の権限を持った各部局の報告書の真偽まで立ち入ることを主張

7.         FBIへの内通者、ジェラルド・フォード
FBIは、下院歳出委員会のメンバーだったフォードと緊密な関係を維持、フォードはフーヴァーの俸給の25%アップ(連邦政府で最高給取りに)の修正予算案を起草
フォードは、最初からFBIと接触、委員会内部情報の完全な伝達者となることを約束
フーヴァーは、FBIによる歴史上最大の犯罪捜査の結果、数日後には単独犯罪と断言する気になり、「早急な判断は出来ないことを認めるべき」との進言を振り切って、129日には正式な報告書を委員会に提出 ⇒ 捜査結果は1週間前に記者たちにリークされていた
報告書は、既にあちこちで公表されていることのつぎはぎで不完全極まりなく、ウォーレンも独自の大掛かりな調査の必要性を痛感。そのために全国の有名法律事務所から弁護士をスカウト
ウォーレンがFBIの生の資料を調べる必要があると記者会見で言ったことにフーヴァーが激怒、あらゆる資料を委員会に積み上げるよう部下に指示

8.        若く優秀な法律家を調査スタッフに
J・リー・ランキンは、アイゼンハワーの大統領選を指揮したネブラスカ州出身の司法長官の引きで司法省に入り、法務担当の司法次官補となって省内の法律家のトップを務め、56年法務次官となって最高裁に付される事件における行政府の首席法律家となる ⇒ 主要な事件は自ら法廷に立ち、特に国家の公民権法を執行する司法省の努力の最前線に立たされ、人種差別主義者の集団の暴力的な反対に直面。62年退官してニューヨークで弁護士に
ランキンの繋がりで法律の専門家が補佐役として呼び出された ⇒ 最初の総勢は15人、大半は21組のチームを構成、スタッフ要員は過激な政治的繋がりを持っていないことが条件だったが、中にはFBIが「破壊活動分子」として分厚いファイルを持っていた人物も紛れ込んでいた

9.        6つの調査分野をつくる
《ライフ》誌が、ダラスの婦人服製造業者ザプルーダーが暗殺の一部始終を捉えた映像を買い取り、一部を《追悼号》に公表、銃弾が脳の右側の大半を吹き飛ばした瞬間を捉えたコマは公表を控える
法律家チームを6つのミッションに分類
トップがランキン
首席補佐役が、ノーマン・レッドリッチ(38)。ブロンクス生まれ、ランキンの2年来の友人でニューヨーク大ロースクール教授、専門は税法、ロースクール時代公民権と市民的自由に入れ込み、人種差別に対し抗議運動を組織したことがあって、FBIが「破壊活動分子」としてレッテルを貼っていた。下に付いたのはメルヴィン・アイゼンバーグ、ハーヴァード・ロースクールをトップで卒業、ニューヨークの大手法律事務所で働く
   テキサス訪問の最初から棺が安置されるまでのスケジュール表の再構成 ⇒ トップは、ランキンの推薦で50年代中期にニューヨーク市の警察本部長で街に芽生えつつあった犯罪の波を狙い撃ちにして大衆の感謝を勝ちとったフランシス・アダムス(59)、当時はニューヨークの法廷弁護士。下に付いたのがウクライナ移民の息子でフィラデルフィアで頭角を現しつつあった地区検事補のアーレン・スペクター(33)
   オズワルドの正体を確証するための証拠集め ⇒ トップは、ウォーレンのカリフォルニアの古い友人、州内で屈指の成功を収めた刑事弁護士、ロングビーチ出身のジョゼフ・ボール(61)。下に付いたのがアイオワ州出身でミシガン大ロースクールを出て故郷の法律事務所に入った弁護士デイヴィッド・ベリン(35)
   オズワルドの人生の再構成 ⇒ トップは、ウォーレンの推薦でシカゴのやり手弁護士アルバート・ジェナー(56)。下に付いたのは若手の中で唯一の共和党員のウェズリー・ジェイムズ・リーベラー(32)、ノースダコタ出身でニューヨークの法廷弁護士
   ソ連とキューバに焦点を当てて、外国の陰謀だった可能性を調査 ⇒ トップは、ランキンの推薦で唯一の黒人、フィラデルフィア出身、最高裁史上初の黒人の判事補付き調査官、国内でも1,2を争う企業清算人、公民権運動の舞台裏のキーマン、外交政策問題にも経験のあったウィリアム・コールマン(43)。下に付いたのがアマースト大を首席で卒業、ハーヴァード出の野心的なデンヴァーの平弁護士、ケネディの選挙戦にもかかわったことのあるデイヴィッド・スローソン(32)
   ジャック・ルビーの経歴、オズワルドとの繋がりの可能性調査 ⇒ トップは南部代表にとボッグズ議員が推薦した同郷のルイジアナ人、ニューオーリンズの元地区検事でチューレイン大学の法学教授レオン・ヒューバート(52)。下に付いたのはクリーヴランドの元連邦検察官バート・グリフィン(31)
   シークレット・サーヴィスの警護の質と、大統領を危害から守ってきたそれ以外の法執行機関の努力の歴史の調査 ⇒ トップは不在で、連邦上訴裁判所でウォーレンの調査員を務めたことのあるワシントンの法律家サミュエル・スターン(34)が配属

10.    「陰謀」チームのスローソン
スローソンがデンヴァーの法律事務所に入所した時の教育係が、コロラド州内のケネディの選挙運動を運営した終生の民主党員バイロン・ホワイトで、選挙後ホワイトはロバート・ケネディ司法長官の下で司法次官を務め、62年には最高裁の判事に指名された繋がりで、司法省と委員会の連絡役となって動いていたウィレンズからの誘いに乗って委員会スタッフとして働く
スローソンが、もしCIAがオズワルドを陰謀に結び付ける情報を持っているなら、ダレスはそれを探し出す方法を知っているだろうと思ったが、直接紹介された時のダレスは痛風に悩む老人そのものだった

11.    CIA内でウィッテンが調査指揮を執る
CIAでは、マコーン長官が諜報活動に実際の経験がなかったので、No.2のヘルムズ副長官に調査に関する主要な決断が委ねられ、オズワルドと外国の陰謀の可能性についての証拠を探すチームを編成、指揮を任されたのがウィッテン(本名セルソ)
メキシコのCIA支部は、ソ連とキューバ大使館を厳重な監視下に置き、全ての電話を盗聴、情報はすべてスコット支部長が管理下に置き、委員会からの質問に対してもすべて支部長が受け答えしようとした
スコットは、数学の才能を暗号解読に応用するためにFBIがスカウトし、第2次大戦中はCIAの前身となったOSSに加わり、仲間のスパイ数人と生涯の友情を築く

12.    FBI派のアングルトンに指揮権が移る
ウィッテンは、間もなく局内用の簡潔な報告書をまとめたが、最初のFBI報告書を見て、FBIの把握している情報が如何に自分に知らされていないかを悟る
ウィッテンに代わって、二重スパイ・ハンターでFBIとも密接なコンタクトを持っていたアングルトンが、委員会への対応の指揮を執る ⇒ アングルトンの何十年にも亘るソ連の脅威への執着を反映して調査の焦点が、ソ連1本に絞られた
委員会には、ケネディの死に関係があるかもしれないソ連やキューバなどの外国の敵対者が絡んだ疑問に関して必要な情報の大部分を頼れる場所がCIAの他になかったため、CIAの担当者にいいように操られていた
CIAが暗殺前につけていたオズワルドの局内ファイルから少なくとも37の文書が無くなっていることが判明したが、その後に来た委員会の調査員たちには紛失を隠蔽

13.    唯一の責務は真実である
ウォーレンは、当初少しの間こそオズワルドが外国の陰謀に加担しているかもしれないと思ったが、刑事訴追人としてのウォーレンの本能が、自分が20年代オークランド地方検事局時代に殺人事件で訴追した暴力的で衝動に突き動かされる多くの心を病んだ若い凶悪犯とオズワルドが多くの共通点を持っているとし、彼が独りでやったと確信した
ウォーレンはスタッフを集めて訓示、秋の大統領選挙キャンペーン前には報告書を完成させるため、61日を期限とした

14.    ダラスのスクープ記者
『ダラス・モーニング・ニューズ』のエインズワースほど多くの大統領殺害に関するスクープを捕まえた記者はいない ⇒ やがてウォーレン委員会は彼の独占記事の1つの余波に繰り返し対処せざるを得なくなる
ソ連に亡命したオズワルドが62年にソ連を離れることを許され、若くて美しいロシア人妻とアメリカに帰国したことでソ連の陰謀に加担しているとの疑念を深める
『ニューズ』紙は、過激な保守派のディーリー家に支配され、暗殺の現場の公園は1926年に新聞社を買収したディーリーの名前を取ってディーリー・プラザと命名、公然とケネディの政策を批判。ホワイトハウスに招かれた際には大統領の前で「政権は臆病者だ」と非難。暗殺当日も右翼過激派グループが出した黒枠で「ケネディが司法省に極左翼に弱腰になることを許したと非難する」全面広告を掲載
エインズワースは、たまたま見物人としてプラザに行き殺害現場を目撃、担当外ではあったがすぐに目撃者尋問を立ち聞き、他の巡査が射殺されたことを警察無線で聴き取りその現場に行って目撃者に事情聴取。2日後にオズワルドがルビーに殺された際も現場にいたが、ルビーについては名うての「イカれた奴」でその犯行には驚かなかった
エインズワースのもとに次々と大統領殺害の陰謀に関する秘密の情報を持つと主張する知らない人間たちからの連絡が来たり、同業者は彼の圧倒的な情報量を当てにして近づいてくる ⇒ フーヴァーの給与支払い名簿にオズワルドの名前が載っていたという噂の真偽を確かめるための電話に、ふざけて適当な数字を言ったのが地元紙のトップ記事となり、ウォーレンの最初の大きな危機を生み出すとともに、委員会とFBIとの仲を永久に裂いた
『ワシントン・メリーゴーランド』のピアソンも委員会設立直後に読者に爆弾を投げつけた ⇒ シークレット・サーヴィスがパレードの朝3時まで酒を飲んでいたことと、FBIが監視下においていたオズワルドがもたらす危険についてシークレット・サーヴィスに通報しなかった(後に、隠蔽したと非難)ことを暴く。いずれも後に真実と判明。ピアソンは、FBIが暗殺前にオズワルドの捜査をしくじった罪から実質上放免するために委員会の調査結果の先手を打って自らの報告書をリークしたことを非難

15.    オズワルドはFBIの工作員だったのか?
テキサス州の司法長官からランキン宛に幾つかの報道機関からの情報ということで、オズワルドがFBIの潜入捜査官で、情報提供者番号をもっていて、犯行当時まだFBI捜査官に協力していた、との連絡が入り、週明けには全国ニュースとなっていた
委員会は、ランキンをフーヴァーのもとに派遣して直接FBIに真偽を確認することにした

16.    キューバが背後にいるという証拠
フーヴァーの反応はぶっきらぼうで冷淡、いつでも宣誓の上で証言するつもりだと回答するとともに、委員会と首席判事によるFBIへの公然の批判に対し広範囲の反撃を開始
フーヴァーはワシントンDCのセントラル高校の生徒時代、無敗のディベート・チャンピオン ⇒ 今回も、同じ一連の事実を整理して、別々の聴衆の前で別々の主張を繰り広げる能力には、忠実な補佐役も含め周囲が驚嘆
FBI内部では、暗殺前にオズワルドの捜査をしくじったと断定していたが、対外的にはオズワルドが脅威だという徴候は何もなかったと断言
フーヴァーが公の場でも内輪でも発言に矛盾がなかったのは、オズワルドが単独の銃撃犯であるという信念
メキシコ大使のトーマス・マン(ジョンソンと親しいラテン・アメリカ専門の職業外交官)は暗殺計画の疑いを抱きFBICIAにカストロによる陰謀への対応を要請したが、両者とも陰謀の存在を否定すると同時に、マン自身もラテン・アメリカ問題担当の国務次官補に昇進してメキシコを離れたため、それ以上の捜査はなかった。キューバ大使館でオズワルドへのビザ発行を担当したシルビア・ドゥランの周辺やオズワルドがキューバ政府から金をもらっていたとの証言など、捜査すべきことは多々あったが、ドゥランについてはメキシコ政府(と多分CIA)の下級スパイだと言われ、証言についても二転三転したため捜査の対象から外れた ⇒ 後年マンは、メキシコシティでの真相究明に両者が関心を示さなかったのは「私の人生で最も奇妙な経験」だったと回顧している

17.    マリーナはソ連のスパイか?
委員会のエリア12のスタッフは、銃撃に関し、弾道の証拠がひどくわかりにくいにもかかわらず、FBIが銃撃の数と順序を明らかに確信していることに驚く
オズワルドの妻マリーナを委員会が尋問すべく準備

18.    オズワルドの妻と母、その相剋
オズワルドの母マーガリートが委員会の電話番号を手に入れてからコレクトコールによる委員会攻撃が始まる ⇒ 新聞・雑誌も彼女の情報を書きたて、息子の無実を証明する証拠を持っているという主張の信憑性が高まる
一方で、妻のマリーナは、オズワルドが1人でやったと確信していると公然と言い続け、夫の死に関してダラス市の過失を訴えることにしたと語る
マリーナに対する委員会の聴聞会開催 ⇒ オズワルドがソ連に亡命した直後に知り合い結婚、ソ連に失望してアメリカに戻って初めてオズワルドとその家族の関係を知る。犯行後に会った瞬間から「目を見れば彼が有罪だと分かった」し、動機は歴史に名を残すという考えに心を奪われていたからだと思った
続いて母親の宣誓供述 ⇒ 3日間ぶっ続けで喋り捲ったが、ほとんど支離滅裂、義理の娘の陰謀に息子が嵌められたと主張。母はその後ニューヨークに行って、息子救済のキャンペーンへの支援を得る為の集会を開催したが、1500人以上が詰めかけた
ジャクリーンは、親しい友人たちを驚かせるほど、暗殺の出来事について彼等に包み隠さず話し始めるとともに、夫の大統領時代の色褪せない遺産を後世に残すために動き出す ⇒ リンカーン・ベッドルームに「この部屋でケネディは合衆国大統領だった210か月2日を妻ジャクリーンと共に暮らした」と書いた銘板を飾る(数年後ニクソンがその銘板を外させた)。次いで暗殺事件の公認史の執筆をジャーナリストで作家のウィリアム・マンチェスターに依頼。彼は2年前に『ある大統領の肖像』と題するケネディ大統領の伝記を執筆し高く称賛されていた

19.    ジャック・ルビーの線を追う
ジョンソンがケネディへの餞として公民権法案を起草したが、ラッセル上院議員は上院での反対の急先鋒に立っていて、委員会どころではなく定期会合や聴聞会にも欠席がちで、委員辞任を仄めかしたが、辞任が委員会内部の亀裂を示唆する危険から翻意
ルビーの弁護人は、心神喪失による突発的犯行と主張したが、3月に有罪宣告され、電気椅子による死刑を言い渡される
委員会スタッフは、ルビーの背後関係を探る ⇒ ルビーがキューバで商売をしようと思っていたことから、特にキューバとの関係に焦点を当てたが、確たるものは何も出てこなかった

20.    オズワルド無罪説を検証する
オズワルドの母の代理人マーク・レインは、ニューヨークの無名の弁護士で暗殺事件を「生涯の飯のたね」にしようとオズワルドの無実を主張して、ロンドンでもその活動を広げ、バートランド・ラッセル等著名人を含むグループを設立
レインは、エインズワースから警察での調書のコピーを入手、それを勝手に捻じ曲げて無実の証拠としていた
レインの委員会での宣誓証言は、本人の要求により公聴会として行われた ⇒ 委員会が証拠を適正に評価していないことや、証拠を隠蔽しているとの非難ばかりで、独自の持つ証拠を提出することはなかった

21.    外国政府の陰謀はあったか
委員会スタッフは、FBIやフーヴァーに対しては委員会の仕事を妨害して暗殺前のオズワルドの監視の不手際を隠そうとしていると見做していたのに対し、CIAの仕事に対してはオズワルドに関して持っているものは何でも提供するという彼等の保証に嘘はないと思っていたが、CIAも隠蔽しているという最初の証拠が2月には発覚 ⇒ オズワルドのメキシコシティ訪問についてのCIAの調査報告が暗殺直後にシークレット・サーヴィスに渡されていたことが判明したが、当初CIAはその報告書の存在すら否定していた
委員会スタッフは、CIAが出し渋っていたメキシコでの活動に関する資料を見て、キューバが背後にいるかもしれないという疑惑を深めるとともに、改めてCIAは秘密を守るのが仕事であり、委員会に提出する書類に手を加えて共有したくない文書を隠すことがどんなに簡単か思い知らされた
KGBスパイのノセンコは62年以来CIAと接触、64年アメリカへの亡命が世界的なニュースとなったが、彼はオズワルドに関するKGBのファイルを見たが、それはケネディ暗殺犯がソ連の工作員だったことはないと証明していた、と語り、KGBはオズワルドがあまりにも精神的に不安定で情報活動につかせることは考えスパイに雇うことをやめた
FBIはノセンコを真の亡命者と見做したが、CIAは疑っていて彼を無期限に手荒く監禁し、委員会に対しても会わせようとしなかった
スローソンは、国務省経由キューバ政府にメキシコ大使館と領事部のオズワルドに関するあらゆる文書の提出を求め、ビザ申請書と提出したパスポート・サイズの写真を含む書類を入手、オズワルドの署名を含む資料の大半は本物であることが立証された

22.      オズワルドは反カストロのスポンサーに会っていた?
FBIが委員会に提出したオズワルドの手書きのメモには、FBI捜査官の名前とオフィスの住所、専用車の番号が記載されていたが、FBIはそれを隠そうとしていた ⇒ 委員会のFBIに対する信頼の糸が切れ、フーヴァーも隠蔽を否定しながら、一方でその捜査官が事情聴取をしなかったり、シークレットサービスにオズワルドが市内にいることを通報しなかったことに対し譴責処分を下した
亡命キューバ人姉妹シルビア・オディオから、反カストロ派の男がオズワルドを連れて訪ねて来たとの情報が入る。オズワルドと思しき男が、キューバ人はピッグズ湾の復讐をしなければならないと言っていたという

23.    ふたりのシルビア
オズワルドと反カストロ派との接触との情報は、委員会スタッフの興味を惹く ⇒ ハバナの共産勢力をもっと追い払おうとしなかったケネディへの復讐としてあり得る話
シルビア・オディオとメキシコのシルビア・ドゥラン
レッドリッチが共産主義者としてカリフォルニアの地方紙でやり玉に挙げられる ⇒ 同僚から指摘されたフォードが独自で調査
オズワルドの兄ロバートが宣誓証言に立ち、弟が独りでやったことを認めた ⇒ 弟が海兵隊に勤務した時有能な射手と評価されていたこと、狩猟が好きだったことを証言

24.    シークレット・サーヴィスの検証
シークレット・サーヴィスは、リンカーンが殺された日に法律が大統領に届けられ、元々は財務省の偽造対策部門として創設され、南北戦争後の偽造通貨の洪水と戦う。1901年マッキンリー大統領がアナーキストに殺害された時、シークレット・サーヴィスの責務が拡大され、大統領の警護も含まれた
委員会スタッフは、シークレット・サーヴィスの暗殺当日の準備の不十分さに驚く ⇒ いつもオープンのリムジンを利用していたこと、パレードのルート沿いの建物の点検をしない方針だったこと、警護の警官たちがケネディ夫妻を見ていて、周囲に目を光らせていないこと、1か月前に国連大使が襲われていながら要注意人物のリストにダラス地域の住人がいなかったこと等々

25.    ジェラルド・フォードの流儀
フォードは、一部の熱烈な反共主義者からソ連かキューバが絡んだ陰謀の可能性を除外しないよう焚きつけられていた
委員の中ではフォードが最も出席率が高く熱心、外部にも支援を頼んでいた
フォードが熱心だったのは、委員会の「内幕話」を書き、出来れば報告書の発表の数週間以内に出版する積りだった ⇒ ウォーレンは、それを驚くべき裏切りで、フォードが国家的悲劇から利益を得ようとしているといって非難するのみならず、フォードを軽蔑

26.    銃撃犯はもう1人いたのか?
エリア2のベリンは、外部の人と調査の細部を話し合うことを禁じた委員会規則に違反して、古巣の弁護士事務所の同僚たちに定期的に委員会の仕事の最新情報を送っていた
ダラス警察が集めた何百という証言の食い違いを検証して何が真実かを確定 ⇒ ケネディの車を運転していた警護官と同乗していた警護官の話ですら食い違う
一方で、オズワルドが暗殺後に別の場所で自分を逮捕しようとした警察官を射殺しているが、その目撃者でオズワルドが茂みに投げた薬莢を見つけ出して警察に引き渡した男の証言が残されていない
パレードの前方から銃撃したという証言もあった
『ライフ』が渋々委員会にザプルーダーのフィルムを提供、コマ送りで見ると、ケネディが撃たれた後コナリーが撃たれるまでの間は2秒以下で、オズワルドが両方の銃弾を発射する時間の余裕はなく、もう一人銃撃犯がいたことを示唆する

27.    一発の銃弾説
死体検案書も、ベセスダの病理医たちが仕事をせかされたことを反映して穴だらけ、銃弾の通った経路を辿る時間さえなかった
一発の同じ銃弾が、ケネディの後ろから命中して切開した喉から出て、前に座っていたコナリーを直撃したとすれば、フィルムの矛盾は解けるが、見つかった銃弾がほとんど無傷であることと矛盾

28.    コナリー知事夫妻の証言
コナリー夫妻の宣誓証言で、コナリー夫人が1発目の銃弾がケネディーを襲い、2発目が知事の背中に命中、3発目がケネディの頭に当たったと確信していたが、知事は、自分を撃ったはずの2発目を聞いた記憶がないと言い、その後ケネディの頭を直撃した銃声を聞いたと言ったが、宣誓証言では夫人の言ったとおりに変更した

29.    オズワルド、日本のガールフレンド
暗殺の数時間後にダラス警察本部で開かれた深夜の記者会見に姿を見せたオズワルドのフィルムには、すぐ近くにジャック・ルビーの姿が映っていた
新作映画『逃げる男』の主演がリー・レミックとローレンス・ハーヴェイ、暗殺の頃公開されたが、主役の2人の名前のせいで商業的に失敗し、ハリウッドの伝説となった
オズワルドがテキサスとニューオーリンズの公共図書館で借りた本をすべて精査し、犯行の動機の手掛かりがないか確かめた
オズワルドの海兵隊における勤務を見直す作業の中で、58年に日本に駐留していた際、「たぶん娼婦」だった日本人のガールフレンドがいて、その年淋病と診断されたという事実が指摘されたが、さすがにそこまでは不要として最終報告書には含まれていない

30.    ルビーに関する解決されない疑問
委員会のダラス警察に対する軽蔑は時と共に強まる ⇒ オズワルドを拘留中に殺させてしまった無能さだけでなく、宣誓しても真実を言わない。特にルビーの殺害に関して警察は明らかに事態を脚色していた
ルビーの調査では、不透明のことが多過ぎて調査未了に
上訴手続き中収監されていたルビーは、自傷行為を繰り返し、心神喪失の状況になりながらも、単独でオズワルドを殺したと主張

31.    諜報の街、メキシコ・シティ
メキシコシティのキューバ大使館に勤めるシルビア・ドゥランの尋問に出掛ける
後に大統領となった内務大臣エチェベリアのオフィスでドゥランの事情聴取の許可を要請したが、非公式なら可能かもしれないとの回答

32.    偉大な悲劇女優ジャッキー
644月、マンチェスターによるジャッキーへのインタビューが始まる ⇒ 両者の関係は、後に悪くなるが、当初は最高の関係でスタート、当日の車の中で起こったことの全てを語る
ケネディ家はいつもワシントンの有力者たちの間に嫉妬と軽蔑の混淆を巻き起こしており、ケネディ家の敵は暗殺があっても数時間も沈黙はしていなかった ⇒ 波乱の結婚生活を槍玉にあげ、ケネディがほかの女たちと遊びまわる仕返しにジャッキーがオナシスのヨットで過ごしたこと、ジャッキーの妹が離婚準備をする間オナシスと浮名を流していたことなどが噂された
ジャッキーが夫の葬儀と埋葬の最も劇的な演出の多くをごり押ししたことが暴露されてからは、世間の見る目がジャッキーに不利になり出していた ⇒ 各国の元首が遺体の後ろを行進する屋外の葬列は、ジョンソンにとっては心臓麻痺と、ド・ゴールにとっては肺炎を意味したし、パリの無名戦士の墓を真似てアーリントン墓地の永遠の炎のためにガス管を敷くというジャッキーの計画も思いあがりと見做された

33.    ウォーレン、シルビア・ドゥランへの聴取を却下
ドゥランはワシントンでの事情聴取に同意したが、共産主義者の言うことは信用できないという理由でウォーレンが反対し、実現せず

34.    最初に協力者と疑われた人々をあらう
エリア3のリーベラーは大の女好き、上役のジェナーとはすぐに軽蔑し合う関係となり、お互いに調査する範囲を分担
マリーナの生活を世話していた女性や、オズワルドの数少ない友人などを尋問、犯行に関わる有効な証言は得られず

35.    検死写真はなぜウォーレン委員会スタッフに公開されなかったか
委員たちの大半は暗殺の基本的な事実さえ知らないまま、ただ委員会に来て座っていただけ、出席すらまばら。ウォーレンに批判的な者はほとんどいなかった
ウォーレンの頑固さと堪え性のなさ、ケネディ家への揺るがぬ忠誠心が調査に害を与えた
ウォーレンが、早いうちからオズワルドの単独犯を確信したせいで、調査は型通りのもの
司法解剖の写真とX線写真はロバート・ケネディが保管していたウォーレンもケネディ家のプライバシーを守るために公開しない決心を固め、委員には非公開で見せるが報告書には記載しないこととした
調査の初めから委員たちを悩ませてきた問題である、オズワルドがCIAFBIの工作員あるいは情報提供者として働いたことがないと完璧に確実に断言できるかということで、フーヴァーとマコーンに宣誓証言をしてもらいたかった

36.    レッドリッチは共産主義者か
フォードが舞台裏でレッドリッチへの攻撃を強化 ⇒ 公民権運動に関与した際のFBIのファイルをネタに、委員会に取り返しのつかない損害を与える前に強制的に外す必要があると、他の委員を説得しようとしたし、議会の一部にも経歴を批判する声が上がっていたが、ウォーレンが弁護したため、フォードも引き下がらざるを得なかった

37.    FBI特別捜査官ホスティはオズワルドを知っていた
FBIが暗殺のずっと以前にオズワルドは潜在的に危険で、ケネディを殺害する能力があると知っていたにもかかわらず、ダラス警察にもシークレット・サーヴィスにも連絡しなかった、と地元紙のエインズワースがダラス警察の警部補の証言としてすっぱ抜くが、フーヴァーの反論もあって、委員会も取り上げず
委員会は、FBIがオズワルドについての証拠の隠蔽について、フーヴァーに宣誓証言を求め、マコーンにも同様の証言を求めた
エインズワースは、さらにオズワルドの日記のコピーをダラス警察経由入手

38.    われわれは嘘発見器を使うべきだ
暗殺現場の再現についても、ウォーレンは全く望んでいなかったし、必要とも感じていなかった
新たな弾道検査が一発の銃弾説を裏付けた
ルビーの証言に嘘発見器を利用することを検討

39.    ジャクリーン・ケネディついに証言する
ジャクリーンの証言について、ウォーレンは最後まで抵抗したが、マクロイが強硬に事情聴取を主張し、ウォーレン自らケネディ邸に行って証言を取ることになる
ロバート・ケネディが同席、ランキンが質疑を進行、ジャクリーンは車内で起こった一部始終を詳細に説明

40.    ジャック・ルビーの宣誓証言
ウォーレンはテキサスへ行くのに乗り気ではなかった ⇒ 全国的なウォーレン弾劾運動の超保守的な人種差別主義者の指導者たちの多くが住んで働いている都市
6月になって漸くルビーの宣誓証言を取るためにダラスに向かうが、それも日帰り ⇒ 教科書倉庫の6階の現場に行き、一発の銃弾説に納得
ルビーは、宣誓証言で、犯行を衝撃的なものと説明 ⇒ 証言を嘘発見器にかけろとのルビーの主張を受け入れ

41.    シークレット・サーヴィスと国務省の責任を追及
シークレット・サーヴィスのロウリー長官の宣誓証言 ⇒ 前夜の飲酒事件も含め、ウォーレンは厳しい態度で臨む
国務省は、50年代にマッカーシー上院議員が彼等の忠誠心に攻撃を仕掛けたことがいまだにトラウマになっていた ⇒ オズワルドの扱いについて無能だったこと、暗殺から数時間以内に、いかなる調査もする前に、暗殺に外国の陰謀の証拠はないという声明を出したことをフォードが追求
国務大臣のディーン・ラスクは、カリスマ的な候補者をさしおいて選ばれた職業外交官だが、従順で自分の意見を口にしたがらない性格をケネディが軽蔑するようになり、1期で交代させるところだったが、ジョンソンはケネディの外交政策の継続を示すために留任させ、その後ベトナムへの兵力投入拡大を図るジョンソンの公然たる守護者となった
ラスクは、一貫してソ連・キューバの関与は狂気の沙汰であり、メキシコ大使からの暗殺の背後にカストロがいるに違いないとの報告があったにもかかわらず、その証拠は一切ないと宣誓証言したが、フォードは国務省が委員会の最終報告で、「罪を免れる」べきではないと確信

42.    CIAメキシコ支部は何を隠したか?
FBIが収集した情報によれば、オズワルドは直前にメキシコのキューバ大使館で旅行ビザを拒否され、ハバナでの新生活を始めることが難しくなった時、その怒りをキューバ政府ではなく、カストロの大敵であるケネディに向け、「ケネディを殺してやる」と宣言したという ⇒ フーヴァーがランキン宛に書いたこの手紙はなぜか委員会に届かなかったらしいが、後に秘密扱いを解除されたCIAのファイルの中から現れた
アメリカ大使館のCIA支部は、委員会の最終報告書でいかなる批判も免れそうだった
CIAの現地諜報員は1988年の死に際しメキシコにおける自分の活動を書いた短篇小説を残した ⇒ オズワルドをカストロ殺害に利用しようとして彼に示した計画を、オズワルドがそっくり真似してケネディを殺害していることを考えると、自分たちにも責任がある

43.    カストロとの秘密洋上会見
カストロは、委員会に自分がケネディ殺害とは無関係であると納得させるために宣誓証言を提供したいとワシントンに伝言を送っていた
64年夏、コールマンが代表してカストロをキューバ沿岸沖のヨットに訪問 ⇒ 2人はニューヨークのハーレムで1回会っていて、カストロも覚えていたようだが、彼が陰謀に関与していたと思わせるような証拠は何一つ発見できなかった

第3部        ウォーレン報告
44.    報告書執筆へ追い込み
首席判事は、報告書の遅延に怒りを隠さなかった

45.    オズワルドと一緒にいたキューバの男

46.    シルビア・オディオの証言
FBIは、委員会が秘密扱いの書類を不適切に扱っているという報告を聞いていた ⇒ 鍵をかけていない車の中に極秘というスタンプを押した文書を放置したり、満席の飛行機のなかでファイルを広げていたり、杜撰な扱いが多々見られた

47.    ザプルーダーはいくら儲けたのか?
ザプルーダーは、『ライフ』誌にフィルムを25千ドルで売り、ダラスの警察官と消防官のための地元の共済基金に提供したと言ったが、実際は15万ドルの分割払いの第1回目が25千ドルということ。2009年連邦政府は当初の30百万ドルの要求を断った後、ザプルーダーの遺産相続人から16百万ドルで権利を買い取る

48.    筆記録を取るのをやめた委員会
6月が最終の公式委員会
委員会メンバーの合意事項の要約 ⇒ 銃弾は3発、全て教科書倉庫の6階から、オズワルドの単独犯行、外国の陰謀については答えを留保、特定の動機を挙げることは回避、オズワルドも含めプライバシーの侵害に配慮

49.    ロバート・ケネディはカストロ暗殺計画の責任者だった
646月、ロバート・ケネディはクラクフの市議会に招かれ、兄がオズワルドというアメリカ社会に対する怒りを動機に持つ「はみ出し者」に暗殺されたと発言、共産主義者とは関係なく独力でやったとも断言
ロバートは、文字通り絶望を身にまとい、司法省の責務の大部分を無視、兄の遺族や自分の家族と過ごすことが多かった
兄を殺す陰謀が存在したのではないかと疑うことを決してやめなかった
アメリカ政府の記録では、時にマフィアの力を借りながら長いことカストロを暗殺しようとしてきており、ロバートも1964年には暗殺計画について少なくとも2年の間報告を受けていた
ウォーレンが委員会に代わってロバートに、司法長官が大統領暗殺に関し国内外の陰謀によって引き起こされたことを示唆する情報を何か持っているかと尋ねる手紙を出状したが、すぐに返事は来ず、2か月近く経ってようやくロバートは陰謀を裏付ける確かな証拠は一切知らないという手紙に署名するとともに、いつでも委員会に出頭して質問に答えると申し出たが、それは委員会が受けることはないと確信できた申し出だった

50.    エドガー・フーヴァーの流儀
フーヴァーは、委員会の報告書がFBIをどう扱うかを引き続き恐れていたが、同時に委員会や委員会メンバーに対するフーヴァーの軽蔑も頂点に達していた ⇒ 委員会メンバーによる情報のリークに激怒
報告書でFBIを守ってくれることを期待してフォードに接触
フーヴァーがケネディの葬儀や埋葬に列席しなかったのは、メキシコまで広がっていた捜査を取り仕切ったり、葬儀のためにワシントンを訪れる外国の要人の警備の監督のために、物理的に時間がなかった

51.    陰謀論を一つ一つ潰していく
スタッフ内の筆頭批評家を務めるリーベラーの一連の手厳しいメモは、何十年もたって、委員会が巨大な隠蔽工作の一部だったと主張するための証拠文書として陰謀論者たちが引用することになる

52.    ラッセル上院議員の不安
ラッセルは、64年の最初の6か月のほとんどを、ジョンソンがケネディへの餞として提出した最重要の公民権法案の阻止に費やしたが、結局失敗に終わる
ラッセルは55年から上院軍事委員会委員長として国家安全保障の問題では議会一の情報通であり、国防総省とCIA両方で収集された最高機密を内々に関知、特に59年にカストロが権力を掌握した後の両国間の葛藤を熟知しており、暗殺へのカストロの直接間接の関与を強く疑っていた。同時に、暗殺の真相がどうであれ、CIAFBIは必ずしもそれを熱心に突き止めようとはせず、証拠がどうであれオズワルドが単独の暗殺犯であることを立証するための慌ただしい動きがあったようだと感じていた
現地も視察して陰謀への疑念を強めたラッセルは、公式の異議表示を口述 ⇒ 一発の銃弾説を却下するとともに、単独犯と断定するにはソ連でのキューバ人学生との交際やメキシコ訪問中の動きや接触相手、交際すべてに関する詳細な説明が欠けているとしたが、この文書は彼の死後まで本人のファイルに秘蔵されていた

53.    そして全員一致の報告書に
フォードが共著者となって暗殺の動機を綴った本『暗殺者の肖像』の出版が露見
フォードは、暗殺の陰謀説に固執 ⇒ オズワルドが前の月に教科書倉庫での仕事を手に入れたこと、2つある倉庫のうちディーリー・プラザに面した建物に配属されたこと、自動車パレードが倉庫の前を通ることが公表されたのは仕事に就いた後だったこと、ルートの公表は暗殺の3日前、ルビーによる殺害も検閲官の要請で土壇場になって移送の時間が遅らされたために間に合った、全てが偶然というにはあまりにも出来過ぎていた
フォードが考えた暗殺の動機は、オズワルドの「歴史的な日記」の中に見つけられた ⇒ 注目への渇望と意固地さに動かされていたとし、思い通りにならない時には自分に注目を集めるために芝居がかった無分別な行動に訴える。著書には書かなかったが、死後の03年に公表されたインタビューでは、「オズワルドが性的不能で、妻に不能をからかわれたためにプライドを傷つけられ、ライフルを使って馬鹿にした妻を見返そうとしたのも動機の1つ」だと語っている
ウォーレンがどのように全員一致の最終報告書を成し遂げたか、筆記録は残っていないが、年月が経つうちに委員の一部は、その日何があったかを明らかにするようになった ⇒ ラッセルは異議表示に署名する準備をして会議に臨み、一発の銃弾のくだりでは、クーパー議員もコナリーの宣誓証言を信じてラッセルと共に報告書の記載内容に反対を唱え、結局すべての銃弾が教科書倉庫の6階から発射されたとだけ記載することに変更、さらに背後の陰謀説についても、将来他に証拠が出てくる可能性を否定しないよう、「委員会は陰謀の証拠を何一つ発見しなかった」という記載に変更して、漸く全員一致の報告書となった
FBIとシークレット・サーヴィスは、大統領の考え得る脅威についての情報を共有しなかったことで厳しく批判された ⇒ FBIのダラス支局は事前にシークレット・サーヴィスにオズワルドの名前を伝えなかったこと、予防的情報収集活動における役割に過度に限定的な見解を取っていたことを指弾され、また、シークレット・サーヴィスについては前夜の飲酒事件にも触れ、大統領に対する潜在的な脅威に関する情報収集のやり方を「完全に精密検査する」ことを求め、その働きを監視する閣僚レベルの委員会設置を求めた
ダラス市警察は、オズワルドの殺害を許した無能さを厳しく批判される
CIAだけは批判を免れた

54.    報告書ついに公表される
918日の最後の幹部会議で意見の一致を見た報告書は24日にジョンソンに手渡される
ジョンソンは18日にラッセルを捉まえてその内容と、全員一致の結果を確認
最終報告書は、厚さ10cm888ページ、296千語 ⇒ 翌週初にニュース機関が公開
『ニューヨーク・タイムズ』の見出しは、「ウォーレン委員会、オズワルドに有罪の判決を下し、暗殺犯とルビーは単独犯と述べる。シークレット・サーヴィスを非難し、改革を求める」
報告書の評判は、称賛の声が多い中で、オズワルドの動機も含め未解決の多くの問題を残したとの指摘もあった
ロバート・ケネディは、ニューヨーク州の上院議員選挙出馬のため司法長官を辞任していたが、無条件で委員会が真実を確証したと信じると述べる
エドワード・ケネディも、ケネディ家を代表してウォーレンから報告書のブリーフィングを受け、内容を受け入れた
フーヴァーについては、宣誓の上で繰り返し嘘をついていたことが後に明らかになる ⇒ FBI捜査官たちは暗殺前のオズワルドの捜査対応を誤っていなかったと繰り返し主張しながら、同じ捜査官たちをこっそり懲戒していた。報告書で言及された過失に関連して新たに17人が懲戒の対象となった
フーヴァーは、必要なら委員会スタッフに反撃する覚悟を固め、公式スタッフ給与支払い名簿に載っている84人全員の背景情報をFBIのファイルで「チェック」するよう命じる(フーヴァーの副官達には、悪い情報を探す命令と理解された処置)
ウォーレンは、調査の思い出の品として、委員とスタッフの全員に委員7人全員が自筆署名した最終報告書と署名入りの公式合同肖像写真を贈呈しようとしたが、ラッセルだけは上院の仕事で忙しいと主張し署名を拒否

第4部        報告書発表以降
報告書の公開直後から、暗殺の歴史は書き直される必要があると示唆する情報が政府の秘密扱いのファイルに姿を現し始めた。その情報の大半は、何十年も秘密のままになった。しかし、陰謀論が60年代にどんどん勢力を強め、アメリカ人の大多数はすぐにオズワルドが単独犯ではなかったと確信するようになる。委員会の遺産は、批評家たちの手厳しい批判に晒されたが、時と共に報告書の執筆者たちの一部も批判する側に回る

55.    無視された外交官トーマスの調査
リーベラーは、政府に関する修士論文を書いているコーネル大のエプスタインに委員会の生資料を提供、エプスタインは完成した論文を『審問―ウォーレン委員会と真実の立証』と題して66年に出版、本はウォーレン委員会がもう1人の銃撃犯を指し示す証拠を無視したと激しく攻撃する内容で大評判となる
『審問』が「疑問提起のみならず、探究と答えを求めている」として、ケネディの元スピーチライターのグッドウィンが、殺害された大統領のホワイトハウス上級スタッフのなかで、ウォーレン委員会の答申の公式な再検討を求めた最初のメンバーとなる
早くから陰謀説を唱えていたニューヨークの弁護士マーク・レインの『ケネディ暗殺の謎』はベストセラーとなり、『ニューヨーク・タイムズ』のノンフィクションのベストセラーリストで1位となり、26週間もリストに留まる。他方、フォードの『暗殺者の肖像』は売り上げが伸びず、出版社は前払い印税を回収できなかったという
644月にメキシコのアメリカ大使館の政治担当官としてチャールズ・トーマスは新婚早々で赴任、現地での付き合いのルートから65年末に、オズワルドとキューバ大使館のドゥランが愛人関係にあったことを教えられるが、彼の報告はCIAによって握りつぶされる

56.    イカれた検事ジム・ギャリソン
66年秋、ジョンソン大統領の地位が、激しさを増すウォーレン委員会への攻撃によって汚されつつあることを懸念 ⇒ 陰謀説の中に政敵の影響力が見え隠れしていた
ロバート・ケネディの所有する世論調査会社の調査では、2%がジョンソンの関与を疑うという結果が出ていた
67年春、ケネディ家公認のマンチェスター著『ある大統領の死』出版 ⇒ 直前にジャクリーンとロバートが出版差し止めの訴訟、原因は、ジャクリーンが在任中隠し続けてきた喫煙を暴露したことを含めプライバシーの過度の侵害で、7ページ分を削除することで合意したが、法廷での論争が歴史の記録を検閲しようとするケネディ家の強引な試みと批判され、人気に傷がついた
67年、ニューオーリンズの地区検事ギャリソンは、ケネディ暗殺の陰謀を発見したと発表、地元の尊敬されるビジネスマンで慈善家のクレイ・ショーを中心人物として公式に訴追したが、検事による自作自演の売名行為で、2年後の陪審ではすぐに無罪となった
『メリーゴーランド』にCIAによるマフィアを使ったカストロ暗殺計画が暴露されたが、後に議会によって事実であることが立証される ⇒ ジョンソンによってCIA長官に昇進されたヘルムズは、議会に喚問されたあと、委員会メンバーのダレスにしても司法長官にしても政府上層部のあらゆる種類の人間が知っていたことだと腹立たしげに言った

57.    機密解除されたCIAメキシコ支部長の回想録
67年、CIAのメキシコ支部長スコットが、20年間のメキシコでの勤務の後退任し、ペンネームで回想録を出版しようとした
68年、ロバート・ケネディが大統領選出馬、選挙遊説中に暗殺に関する無数の陰謀説に対し、ウォーレン委員会を支持すると発言。カリフォルニア予備選の勝利の後ロバートのイスラエル支持を罰しようとしたパレスティナ人によって殺害
69年、大統領にニクソンが選出されウォーレン退任 ⇒ 次第に国民の多くの割合が委員会の答申を疑うようになっていることを世論調査が示しても動揺せず、74年死の4か月前にランキンらが書こうとした委員会の公式擁護の本のためにインタビューを受け、自らの判断の正しさを再確認。どこの出版社も陰謀の本しか興味を示さず、出版されなかった
69年、退任後にジョンソンがCBSのクロンカイトのインタビューを受けて、ウォーレン委員会の結論に疑問を持っていると発言、直後に「国家安全保障上の」理由でスクープは放送を止められたが、噂は『ニューヨーク・タイムズ』他に漏洩
ロバート・ケネディは完全にカストロ暗殺の決意を固めていたために、その報復としての兄の死後、信じられないような悲しみを抱き続けたことの説明がつく
69年、ワシントンに戻った元メキシコのアメリカ大使館勤務の外交官トーマスは、間に合うように昇進を勝ち取れなかったという理由で解雇、最後の仕事として国務長官宛に彼の調査結果を再検討するよう嘆願書を書く ⇒ 調査結果が噂となってウォーレン報告の信頼性を傷つけかねないことを払拭するための再検討だったが、CIA本部から却下されたため、自ら追跡調査しようとした形跡がある。2年後に自殺したが理由は不明。そのあと妻は夫の強制的な離職にはメキシコでの勤務に何か関係しているという噂を耳にし、元同僚の支援も得て国務省の昇進制度の不公平の犠牲者であることを証明して、最終的に死後復職を勝ち取り名誉を回復
71年、トーマスの死と時を同じくしてスコットがメキシコの自宅で事故死 ⇒ 出版のための原稿と関連の資料の撤収。201213年に公開された原稿の中身は、スコットがいかに多くの情報を委員会に意図的に隠蔽していたかを示す。オズワルドが暗殺直前にメキシコでソ連とキューバに接触、CIAも彼を特にソ連の工作員容疑者として監視していた
76年、下院はケネディとマーティン・ルーサー・キング両方の暗殺の再調査のための特別委員会を設置 ⇒ 当時のスコットの部下から原稿の内容が事実と相違ないことを確認

58.    ケネディ暗殺は防ぐことが出来た
75年、FBIのケリー長官は、前任者の次第に邪悪さを増していく遺産から距離を置き始め、権力の濫用が明らかになった後で謝罪 ⇒ ダラスのFBI捜査官によるケネディ暗殺の極めて重要な証拠――暗殺直前にオズワルドが自分の家族に対するFBIの監視に文句をつけ脅すようなメモをFBIに残していたこと、そのメモをFBI職員が破棄していたこと、さらにそれらの事実を委員会に対して隠蔽していたことを知らされて長官は驚愕
ケリーは、陰謀説に関心を持って追求 ⇒ 多くの情報を持ちながら、「ケネディ暗殺を巡ってソ連と対決する危険は大きすぎると考え」て、証拠となりそうな書類を破棄していたことを突き止め、FBI本部が知っていることをすべて話していたら、疑いなくオズワルドを無力化するために必要なあらゆる措置を講じていただろうし、暗殺も防げただろうとの結論に達する

エピローグ シルビア・ドゥランを直撃する
77年、元メキシコ大使のマン(99年死去)は、カーター大統領の免責特権がない限り下院特別委員会での証言を拒否したが、後に公開された下院の調査員の報告書がその証言内容を推測したところによれば、暗殺後の数日間にラスク国務長官から、「キューバの暗殺への関与の噂を確認するか論駁する」メキシコでの調査をすべて中止させられたこと、CIAFBIもそれぞれ本部から同様の指示があったことが窺われ、同時にドゥランをカストロ暗殺を狙うCIAの工作員と結論付ける
CIAで共産主義の脅威に過剰反応していたアングルトンとスコットこそ、暗殺についての事実を不明確にするどころか、むしろ歪めようとした張本人
機密扱いを解かれたCIAのファイルからは、精鋭防諜活動スタッフが、暗殺の4年前に遡ってオズワルドを非合法に監視していたことが判明、ソ連亡命中には海外郵便物を検閲のために開封させることを目的とした約300名のアメリカ人の「極秘」監視リストにオズワルドを載せている
本書執筆の作業で明らかなのは、50年以上に亘ってアメリカ政府の上層部の役人たち、特に誰よりもCIAの高官たちが、暗殺とそれに至る出来事について嘘をついてきたかということで、その筆頭はCIAの元長官ヘルムズ、次いでウォーレンとロバート・ケネディ
ウォーレンについては、最終答申が大統領自身によって認められなかったことが示すように、委員会のスタッフに重要な証拠と証人を与えなかったことで責められるべき ⇒ 遺族への影響を懸念して司法解剖の写真とエックス線写真を再検討させるのを拒んだり、ドゥランの事情聴取をさせなかったりしたのは不可解な行動
ロバート・ケネディは、彼以上に真実を要求すべき立場にいたものはいないということから、真実の追求を放棄した責任は最も重い ⇒ ウォーレン委員会報告の直後は結論を支持すると言っていたが、2013年息子が暴露したところでは、委員会報告を「お粗末な作品だった」と考えていたが、国民の関心を公民権運動に向けるために陰謀の疑念を抑えようとしたための発言だった
2013年、著者は76歳のドゥランを直撃、事前に公開された彼女に関する機密書類を送っておいた。キューバ領事部勤務のせいで、暗殺事件のずっと前からCIAとメキシコ内務省の監視下に置かれていたときの非合法な監視記録について、オズワルドとの愛人関係やスパイ活動も含め全面的に否定
他にも当時の生き残りの人たちにインタビューしたが、彼らが長い間の沈黙を破って語ったところによれば、カストロ政府支持者の集まったパーティにオズワルドが出席していたことは間違いなかった








(書評)『ケネディ暗殺 ウォーレン委員会50年目の証言』(上・下) フィリップ・シノン〈著〉
朝日 20141260500
 「20世紀の病」の真相あばきだす
 ジョン・F・ケネディ米大統領の暗殺は、20世紀の人類史とアメリカ社会の病ではなかったか。1963年11月22日という日を同時代の人びとは、あの日は何をしていたか、記憶しているように思えるほどだ。私自身、これまで同年代のアメリカ人はもとよりイギリス人やロシア人からも、あの日の自らの行動を聞かされた。
 ケネディは誰になぜ殺されたのか、本書はジャーナリストの王道を歩いている著者が、この真相をさぐるために設立されたウォーレン委員会(委員長=アール・ウォーレン最高裁首席判事)の調査スタッフや当時の関係者を訪ね歩く一方で、非公開の文書を含めての史料分析により、ウォーレン委員会の報告書作成のプロセスとその内容についてまとめあげた書である。2008年に取材を始めて13年(暗殺から50年)に書きあげ刊行したという意味では、現在のところもっともその真相に迫った、あるいは次代の目で事件の本質を描きだしたといえるだろう。
 ウォーレン委員会は7人の委員のもと、アメリカ国内の優秀な若手法律家を動員して、ほぼ10カ月をかけて「最終報告書――厚さ十センチ、八百八十八ページ、総語数二十九万六千語――」をまとめた。その結論は、オズワルドの単独犯行ということになるのだが、著者はその方向を追い求めながら自らの結論ははっきりとは出さない。なにしろこの暗殺には、調査スタッフによると「百二十二の『臆測と噂(うわさ)』」があり、その一覧表を作成してひとつひとつに検証を加えたというのである。
 あえて「人類史とアメリカ社会の病」と書いたのは、東西冷戦時の米ソ軍事対立によるキューバ危機、アメリカ社会の公民権運動、石油資本の反ケネディの動きなどがあり、そこに共産主義に関心を持ちソ連に入国して、ロシア人女性と結婚した青年オズワルドの不審な動き、さらには彼を射殺する酒場店主ルビーの妄想など、とにかく20世紀のあらゆる現実が窺(うかが)えるからだ。政治家たちの計算やオズワルドの母親の奇妙な心理など委員会スタッフの調査はその病の百態を次々にあばきだしていく。
 本書は幾つかの新事実も教えている。カストロが自分は関係ないと調査スタッフに伝える話、メキシコシティーのFBIやCIAの奇妙な動き、ジョンソン大統領やフーヴァーFBI長官の複雑な心情なども丁寧に描く。核戦争の恐怖、東西冷戦下の不安と猜疑心(さいぎしん)、20世紀が抱えこんだ病とはこのことだと気づく。19世紀のリンカーン、20世紀のケネディ、アメリカの現職大統領の暗殺にひそんでいるのは、歴史が一歩前に進むとき、得体(えたい)の知れない青年を野に放つということだろうか。
 〈評〉保阪正康(ノンフィクション作家)
     *
 村上和久訳、文芸春秋・各1680円/Philip Shenon 元ニューヨーク・タイムズ記者。ワシントン支局で国防総省司法省国務省などを担当。9・11テロの調査委員会がなぜ真実に到達できなかったかを描いた『The Commission(委員会)』を2008年に出した。


産経 2013.12.22

『ケネディ暗殺 ウォーレン委員会50年目の証言』上・下

暗殺犯愛人から真相に迫る
 リンカーン大統領の奴隷解放令150周年にあたる今年2013年は、ジョン・F・ケネディ大統領の暗殺から50年目。ふたりの大統領は1世紀を隔てながらも、片や南北戦争の、片や米ソ冷戦を契機に暗殺された共通点をもつ。ただしリンカーンの場合は暗殺犯ブースの動機も明確だが、ケネディの場合は暗殺犯オズワルドの動機が曖昧で、半世紀を経たいまに至るも、謎はますます深まるばかり。最近では現代エンターテインメント界きっての手練(てだ)れ、スティーヴン・キングが発表した分厚い歴史改変小説『11/22/1963』(原著2011年)が驚くべきSF的新解釈で話題を呼んだ。
 そんな折に、今年わが国を含む世界12カ国で同時出版された本書は、「ニューヨーク・タイムズ」元記者が最新資料を元に暗殺調査委員会へ敢然と挑むノンフィクション。もともとケネディ暗殺はオズワルドの個人計画というよりも巨大陰謀の一端とみられることが多かったが、本書の冒頭も、オズワルドが暗殺以前にメキシコで培った秘密から始まる。ケネディ自身がマリリン・モンローらと浮名を流し、大統領夫人ジャクリーンにも不倫疑惑があったのは知られているものの、さて本書は暗殺犯オズワルドにも、キューバのカストロを擁護するメキシコ人女性シルヴィア・トゥラード・ドゥランという愛人がいたことから、彼女を一コマとする国際的陰謀こそがケネディ暗殺の真相だった可能性を示唆する。なにしろ、秘密を知った元外交官が失職し自殺にまで立ち至っているのだから、何らかの事情でアメリカ政府自体が暗殺の真相を抹消しなければならない事情がひそんでいたはずだ。ともあれ暗殺後数時間で解剖医は血染めのメモを焼却せねばならなかったほどなのであり、恐るべき特定秘密が国家規模で保護されようとしていたことは、疑いない。
 そして本書は結末まで来ていまもなお健在のドゥラン本人へのインタビューを試み、最大のクライマックスを迎える。著者の調査プロセスそのものが上出来のスパイ小説のごとく、手に汗握る面白さだ。(フィリップ・シノン著、村上和久訳/文芸春秋・各1680円)
 評・巽孝之(慶応大教授)



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