官僚制としての日本陸軍  北岡伸一  2013.5.22.

2013.5.22.  官僚制としての日本陸軍

著者 北岡伸一 後記参照

発行日           2012.9.10. 初版第1刷発行
発行所           筑摩書房

初出一覧
序章    書き下ろし
第1章        政治と軍事の病理学――近代日本軍事史再考(『アスティオン』1991年夏)
コラム 幻の軍団制(『日本の歴史 23 大正デモクラシー』)
第2章        支那課官僚の役割――政軍関係の再検討のために(日本政治学会『年報』1990)
補論 「満州事変」とは何だったのか(1994)
第3章        陸軍派閥対立(193135)の再検討――対外・国防政策を中心として(近代日本研究会編『年報』1979)
第4章        書き下ろし

序章―予備的考察
近代日本における政軍関係の特質を様々な角度から明らかにしようとする
主たる対象は、日露戦争以後。明治国家において確立された政軍関係の解体過程
近代陸軍の建設 ⇒ マックス・ヴェーバーの言う「近代国家の本質は暴力の正統的独占」
1870年 徴兵規則制定 ⇒ 山縣有朋の構想に基づき、83年に徴兵令公布、初めて政府直属の軍隊が発足
1878年 竹橋事件 ⇒ 近兵部隊が待遇を不満として反乱、以降軍人による政治関与を戒める。88年には自由民権運動からも切り離し
1882年 軍人勅諭 ⇒ 山縣が西周に作らせたもの。天皇の統帥権を明示するとともに、政治への不関与を命じた
近代陸軍建設のメルクマールは、参謀本部と軍令制度
1888年 鎮台制の廃止と参謀本部設置 ⇒ 鎮台より移動性の高い師団制度に転換、師団を率いるのものとして考えられたのが桂太郎のイニシアティブによる作戦計画を司る参謀本部
1907年 軍令第1号 ⇒ 総理大臣の同意なしに陸海軍大臣の副署だけで成立する他の国務と別の法体系を軍内部に成立させ、これに基づき帝国国防方針が裁可、50個師団の目標が定められた
帝国憲法に内在する問題
(1)  天皇の地位と権限 ⇒ 輔弼者の間に矛盾があった場合の調整役として元老が機能
(2)  国際関係 ⇒ 欧米列強に劣後しながら、右からの原理的反対派がいた
元老が衰えた後、政治統合の役割を担ったのは政党だが、天皇の親政下にある軍隊の軍備拡張路線との確執が、1931年以降政治システムそのものを崩壊させた
明治憲法下では、制度的な統合が予定されておらず、インフォーマルな力(派閥)に依存 ⇒ 山縣を中心とする長州閥がその役割を果たす。派閥は邪な結合であり、概して他称
陸軍の将官の昇進は通常は中将、師団長まで、それ以上は例外的 ⇒ 派閥の力

第1章        政治と軍事の病理学
湾岸戦争における支援の在り方を巡って、日本ではそもそも軍国主義とは何なのか、いつごろ始まったのか、そしてそれはなぜだったのかという歴史的な考察の欠如が発覚
明治期における政軍関係の特徴 ⇒ 藩閥主導による政治の優位が貫かれていた
ヨーロッパでは、皇帝の理想は卓越した軍事指導者であることで、皇帝の権力が議会によって制約され、最後に残ったのが軍事と外交の大権であったのに対し、日本では、藩閥政治が古い軍事的知識を基に軍に干渉することに対し、近代的な軍を守ろうとして、軍事には素人ではあるが、天皇に軍事大権を与えたもの ⇒ 成立の経緯からして、日本の統帥権には、政治介入に対する積極的な排除の姿勢が存在していた
日露戦争中の政軍の緊密な協力関係を経て、陸海軍の軍拡競争の渦中にあって、藩閥主導型の支配は寺内内閣(191618)をもって終わり、政党と軍とが結びつくタイプの政軍関係へと移行
原敬内閣(1918) ⇒ 積極的な産業化政策と共に軍備拡張にも比較的寛大だったが、大戦後のインフレと軍縮の動きの中で、陸軍内部にも分裂の動き
中国問題 ⇒ 第1次大戦後、日本は内政不干渉政策を取るが、満州で頻発した内紛に巻き込まれる形で、陸軍の政治介入が増大
皇道派時代 ⇒ 犬養内閣の陸相として荒木貞夫が就任、皇道派時代が始まるが、極端な側近優遇人事と軍備の近代化を怠ったことから、永田鉄山の統制派による巻き返しに遭い、その反撃がイデオロギー的には天皇機関説事件であり、永田惨殺事件へと発展
二・二六事件後、粛軍が行われたが、その最大の特徴は、軍部内の派閥追放にあり、その結果、強烈な権力意志とその担い手が陸軍から消えた ⇒ 陸軍大臣の地位の低下。満州事変勃発後の陸海軍における皇族総長の誕生により、()軍権力が下方に移行
41年東條英機内閣誕生 ⇒ 現役陸軍将官の首相としては、寺内以来25年振りだったが、寺内が陸軍大将・元帥であり、背後に長州閥を持ち、陸軍大臣9.5年、韓国統監・総督7年、外務大臣も歴任した政治経験豊富だったのに対し、東條は陸相13か月の経験しかなく、首相就任となってようやく大将になったもののそれまでは中将、政治経験の乏しい一軍官僚に軍政どころか国家の運命を委ねることとなってしまった
近代日本における軍は、一定の目的の実現のため作られた組織だったにもかかわらず、日本の他の官僚制ときわめて類似した特質を備え、組織の自立性を守り、組織を拡張し、その活動範囲を拡大することがほとんど自己目的化してしまった ⇒ 二・二六事件後に残ったのは軍官僚だけ
軍の政治支配が間接的支配に留まったのは、軍の自制によるというよりは、その力量が欠けていたからで、近代日本には安全の維持という職務に賭ける真のプロが成立しなかった
軍国主義を軍事的価値・判断・態度が優越的な位置を占める体制と定義すれば、戦前の日本は軍国主義ですらなかった
戦後日本は平和主義になったことになっているが、日本の安全の条件とこれに対応する政策の検討が、正面から、また総合的な観点から行われたことがないという点で、戦前の病理を引き摺っていると言える
日本の平和主義は、より正確には非軍事主義 ⇒ 非軍事主義だけでは平和は守れないし、非軍事主義がそのまま平和と結びつくものではない
非軍事的行動も、例えば他国籍軍への資金支出のように、軍事的効果を持つ
より現実的で有効な平和のために日本に何ができるか、それを考えるためには軍事の問題を避けて通ることは出来ず、その意味で明治以来の政軍関係の歴史は考察すべきテーマ

コラム 幻の軍団制
1907年の帝国国防方針制定、その後三次にわたって改定(1918,23,36) ⇒ 第一次改定では戦時50個師団(平時25個師団)の目標が、新たに「軍団制」の導入により上積みされたが、大正デモクラシー期の反軍国主義の世論の前に実現が後倒しにされた。それに伴い軍備増強、近代化の遅れをカバーするために取られたのが精神主義的な要素を著しく強調するという手段であり、我々が日本陸軍の特異性ないし病理的性格として知っているものの多くはここから生み出されたものだったように、軍団制が幻に終わったことが昭和史に大きな禍根を残すことになった

第2章        支那課官僚の役割
近代日本の政軍関係を考える時、統帥権の独立や軍部大臣現役武官制など、政治が軍事を統制する制度の欠陥が思い浮かび、その結果軍の暴走や二重外交、そして軍の政治への介入がしばしば起こったのは事実だが、それらの多くは陸軍によって、そして中国政策に関連して引き起こされた
軍の暴走や政治介入は、しばしば陸軍内部の分裂や対立の結果としても起こった ⇒ 軍が全体として文・民と対峙するという事態は決して一般的ではなかった
従って、日本における政軍関係の特質と見えるものが、実は、陸軍の中国政策における特質だったと言える ⇒ 陸軍内部における中国専門家(支那通)の存在に注目
1. 組織の中の支那通 ⇒ 制度と人事面の考察
1908年参謀本部第2部発足(外国情報担当。欧米課と支那課)から37年まで
2部長は、第1(作戦)部長、陸軍省軍務局長共々陸大卒のエリートではあったが、進級面では圧倒的に第1部長が上で、軍務局長にもやや及ばず、部長経験者のその後の要職(首相、陸軍3長官、3長官以上と考えられた朝鮮総督)経験については皆無
1部長は、圧倒的な成績優秀者で最高の進級を遂げるもの
軍務局長は、強力な政治的背景を持ち、陸軍枢要の地位を掌握する人物
歴代第2部長の経歴を見ても、最初の4人は陸軍の真のエリートで政治的にも活発、第2部長のポストも彼等の野心の1つのステップで、第2部が最も活発に動いていたが、次の8人は対外問題の専門家ではあったもののそれ以外の経験は乏しく、1人を除いて中国の経験もなかった、そのあとの混迷期に入り、支那通が起用される確率も少なく、出世が約束されたポストでもなかった
支那課長についても、第1部の作戦課長や軍務局の軍事課長、さらには同じ2部の欧米課長と比較した場合、陸大の優等組は1人しかおらず、その後の進級でも劣後し、要職経験者は皆無。中国現地と支那課以外での経験も少なく(長い経験なしには成果の上がらない仕事だったと言える)、関東軍との交流すらも乏しい。個別情報の収集の力は持っていたが、基礎的・科学的な研究という面では問題を抱えていた
公使館付武官 ⇒ 古くから典型的な支那通のポストであり、陸軍の中国政策に大きな役割を果たし、中国の権力者に対して影響を及ぼそうとする伝統的な手法が続いたが、第1次大戦以後は、武官の中国経験が乏しく、国際情勢も日本にとって不利なこともあって、武官の影響力は後退、代わりに武官補佐官というポストができ、若手支那官僚が就任、非専門家の武官や政府の不活発な中国政策に不満を募らせる
関東軍参謀長 ⇒ 06年創設時は中国政策の源泉の1つだったが、その後の軍縮で実力は一旦低下、満州事変を境に地位が向上。支那通のポストとして関東軍が脚光を浴び、支那化時代に中国問題で苦戦した意趣返しが関東軍の暴走に繋がる

2. 支那通の活動例 ⇒ 反袁政策(191516)
公然たる軍事力の行使なしに行われた日本の中国政策のうちで最も野心的なもの
多数の支那通が参加
中国政策に不慣れな大隈内閣の間隙をついて、内田良平らの大陸浪人の発言権が増し、袁世凱の帝制計画に反対し、1510月日英露共同の帝制延期勧告を発出
陸軍参謀本部では、上原勇作総長、田中義一次長の力が陸軍省を凌ぐまでに実力を挙げ、北京駐在の支那通の意見を入れて袁世凱支援の立場をとるが、12月の護国軍による反袁世凱の第3革命勃発もあって、内閣の動きに同調
各地に派遣された支那通からも反袁の声が強く、現場の専門家に中央が引き摺られた形
陸軍と外務省は緊密に連携、各地の支那通の活動は中央がよく把握していたので、反袁ではうまく機能したが、袁後の支那統一となると、各地の支那通がそれぞれの有力者と緊密に結びつき、自らの主張を中央に認めさせようとしたため、中央が目移りしてしまいリーダーシップが動揺、中国政策の首尾一貫性を欠くことになった

3. 支那通の活動例 ⇒ 援張政策(192225)
袁後の満州の実権を掌握したのが張作霖、その張が20年北京進出を果たしたのは背後に日本がいたからだったが、張の親英米派との対立の際には不干渉政策を取る ⇒ 関東軍が裏で援張活動をしていた公算大
満州でも北京でも陸軍と外務省の意見は一致していたが、満州と北京の間に対立
北京では、中国の国民感情や他国外交官の反応に敏感にならざるを得なかったが、満州ではそういう雑音なしに援張に集中できた
この時においても支那通の影響力は大きく、中央の中国政策を動かしたが、支那通同士の協力や分業は進まず、彼等は中央の支持を求めて相互に争っていた
支那通間の確執の間隙を縫って、新支那通勢力が台頭 ⇒ 河本大作(21年北京武官補佐官、23年支那課支那班長、26年関東軍高級参謀として旅順赴任)、岡村寧次(23年支那課、上海駐在武官、25年現地の顧問)、板垣征四郎(22年支那課、24年北京武官補佐官、26年支那課)らで、南方・国民党勢力への注目と、陸軍の政策である軍閥操縦を通じた中国権益の支配に反対する点で一致、より直接的な満州支配を主張
昭和軍閥の起源として知られる双葉会は15期の河本以下で構成され、新世代の支那通の多くが参加
新しい支那通は、陸軍の中国政策を変え、日本の中国政策を変え、政軍関係を変え、日本の政治を変えていった
多くの支那通にとって、日中の提携によって西洋の進出に対抗するという理想は、反袁政策辺りで幻想に終わり、陸軍中央における中国政策の決定は彼等の手中にはなく、中央を動かす可能性は現場にしかなかったため、駐在先ごとにそれぞれの舞台の重要性を強調するあまり、陸軍の政策はしばしば一貫性を欠くこととなり、動揺しやすいものとなって、却って軍閥に利用されてしまう
その結果、20年代の陸軍の中国政策は行き詰まり、若い世代の支那通は満州の直接支配を唱え、そのうちの何人かが満州に勤務し満州事変への道を拓く。満州事変は陸軍の中央の権威に大きな打撃を与え、陸軍内部の雰囲気を大きく変える
日本における政軍関係のかなりの部分は陸軍内部の問題、特に支那通の活動に起因することが少なくなかった

補論 満州事変とは何だったのか
31年の満州事変は33年に塘沽停戦協定で一段落したが、その後の15年戦争の端緒であり、日本近代史のおける決定的な転換
日本の満蒙権益の変遷 ⇒ 日露戦争でロシアから獲得した権益は遼東半島の租借権と東清鉄道南部支線の南側2/3(長春―旅順・大連間)に関する権利で、それを基に06年遼東半島に関東州が置かれ、南満州鉄道(満鉄)が創設され、日本の満州経営が始まる
12年 英米仏独の銀行に日露が加わって6国借款団が成立、満州・蒙古の事業についての日露の優先的立場を黙認 ⇒ 同年の第3次日露協商で両国の境界線を蒙古まで延長
関東州の租借期限も23年に満了するはずだったが、15年の対華21か条の要求の結果期限が大幅に延長
1907年清国は日露の進出本格化に対抗すべく、元々無主の土地に近かった満州に東三省を置き本土同様の支配を敷こうと画策、事実として中国の勢力を大幅に伸長させる ⇔ 満鉄初代総裁後藤新平は10年以内に満州に50万の農業移民を実現しようとしたが失敗
張作霖爆殺事件以後、事件の拡大に失敗した時、河本を守れという運動とともに、満蒙権益確保というコンセンサスが成立 ⇒ より大規模に、周到な準備のもとに再度仕掛けたのが満州事変
満州事変の最大のヒーローは石原莞爾で、国際協調と政党政治を一挙に破壊、国内外ともに弱肉強食の世界に突入
戦後の日本は、対米協調路線の再構築と政党政治の復活に進むが、戻るべきは満州事変以前の時代であり、その意味で満州事変から敗戦に至る14年間は重要な時期であり、転機としての満州事変の重大さは銘記されなければならない

第3章        陸軍派閥対立(193135)の再検討
近代日本の政治の中で、満州事変から二・二六に至る4.5年が最も大きく激しい変動の時期 ⇒ 対列国協調路線から、世界秩序の攪乱者に転換する時期
日本の内政外交両面における一大変化の最大の要因は陸軍の在り方の変容
31年荒木貞夫の陸相就任によって皇道派が陸軍の主流となり、やがて統制派時代の到来となるが、これは単に陸軍内部の権力関係の変化のみならず、陸軍の政策志向や他の勢力との関係における変化にも及ぶもの
20年代後半から陸軍の実権を掌握していたのは田中義一に次いで宇垣一成、314月若槻内閣の陸相として宇垣の推薦によりその跡を継いだのが南次郎。その後宇垣は朝鮮総督就任とともに依願予備役となり、陸軍に対する影響力を徐々に失い、南が代わって権力掌握 ⇒ 宇垣が始めた国内装備の犠牲を前提とした火力装備の増強と海外部隊の増加を骨子とする軍制改革と、権益確保を狙って内外の世論作りを目標とした満州問題を中心に展開
軍制改革は、宇垣より政治的でない南が継承して進めたため、陸軍と政党との関係でも、また陸軍内部の近代化派と伝統派との関係も一挙に尖鋭化
南は軍内部の統一と結束を呼びかけたが、10月事件で中堅将校が反乱、トップの権威が大きく失墜、代わって発言権を持ち始めたのが武藤教育総監他の皇道派で、南の辞任の後の陸相に中堅層の画策で荒木が就任、軍制改革を延期させるとともに、皇道派人事を断行
皇道派による不公正、不適材不適所の人事に不満が募り、真崎参謀次長を更迭、34年には荒木も辞職、そのあとは両派に押された林銑十郎が陸相となり、永田鉄山を重用して皇道派の更迭を強行
対ソ戦略でも対立が激化
35.8.永田軍務局長が局長室内で斬殺、陸軍内部の対立は頂点に達し、二・二六事件勃発へと繋がり、事件後の「粛軍」において、皇道派のみならず、南派も有力者が予備役に編入され、陸軍内部から派閥的存在を除去したが、同時に陸軍内の権力の核となり、陸軍と他の政治集団とを結び付け得る政治的軍人のすべてを排除する結果となる ⇒ これ以降、現役軍人で首相となったのは東條ただ1人、それも古参大将、政治的軍人として首相になった人物ではなく、軍官僚であるにすぎなかった
その後次々に提唱された対外政策、国防政策には、決定的に重要なものが欠けていた ⇒ 1つは諸政策の体系性、整合性であり、もう1つは政策体系を陸軍内外に対して維持して実現している権力核もなかったため、単なる官僚機構に近い存在となっていた陸軍が諸政策の中心にあった総動員体制の確立を目指すことは極めて困難

第4章        宇垣一成の15年戦争裁判
宇垣と宇垣以降の陸軍がどのように違っていたかを明らかにし、そのことを通じて昭和戦前における陸軍の特質を再検討する
15年戦争 ⇒ マルクス主義系の歴史家が使った呼び名
宇垣の経歴 ⇒ 24274内閣の陸相、25年からは師団削減によって軍備近代化を目指す宇垣軍縮を実現。29年陸相再任。有力な政治指導者の1人と目された
31年病気を理由に陸相を退任、朝鮮総督に就任するが、あとに南を起用したのが宇垣の敗北となる
何度も首相候補に推され、37年には大命降下もあったが陸軍内部の反対で実現せず、38年日中戦争の処理に行き詰まった近衛内閣の外相として就任したが、首相との意見の相違から辞職
陸相時代の宇垣路線の特色 ⇒ 軍縮と軍備の近代化、ワシントン体制の枠内での行動。政党とも協力的で、政党内閣に好意的な軍部大臣のほうが軍の自立性のためにも望ましいと考えた
満州事変勃発時、宇垣は関東軍の陰謀について具体的なことは何も知らなかった
満州については、侵略ではなく、中国の主権を名目的に残して、日本による事実上の支配を構想 ⇒ 列強の動きに配慮し、実際の満鉄中心の中国を無視した進出のやり方を批判、32年の満州国建国宣言にも懐疑的、内田(康哉外相)・松岡の連盟外交もいたずらに列国の感情を害して事態を紛糾させたのみと断罪
36年 長期滞在で大きな成果を上げ朝鮮総督辞職、政界進出の決意とも思われた ⇒ 国際関係でも日独防共協定による国際間の対立の激成に疑問を持ち、経済政策でも展望もないまま雪だるま式に膨れ上がる膨張予算に不安を抱く。37年広田内閣辞職を受けて宇垣に大命降下あるも石原莞爾等陸軍中堅層の強い反対で見送りとなり、代わって林銑十郎が組閣
37年 盧溝?事件勃発。4日後に停戦交渉が妥結しながら、月末には支那駐屯軍による華北総攻撃開始 ⇒ 宇垣は、明確な目的や先の見通しもないままの戦闘拡大に反対、世間における虚飾の戦争賛美を戒める
37年 近衛内閣強化のため首相の要請で内閣参議に就任 ⇒ 外相就任。対外関係に配慮した和平を最大の課題とし、親英米路線に基づきその認められ得る範囲での支那進出と蒋介石相手の和平実現を目論む(陸軍和平派の参謀次長・多田駿と同意見)が、牛場信彦、中川融等外務省若手革新派が独伊との関係強化を主張して真っ向から反対
中国関係の職務を外務省から切り離そうという興亜院設置構想が浮上、近衛も関心を示して、孤立無援となった宇垣は辞職。近衛内閣は、日満支の3国提携による互助連環関係の樹立を目指した「東亜新秩序」建設を提唱する(汪兆銘への肩入れと密接に関連)がピンボケどころかアメリカの門戸開放原則と真っ向から衝突するもので、米英は批判するとともに中国への借款供与に踏み切る
39年 平沼内閣発足 ⇒ 宇垣は言論の尊重を前提に国家総動員法実施を批判、ノモンハンでの敗戦も宇垣が進めた軍備の機械化科学化が不徹底に終わったためだと主張
39年 阿部信行内閣発足 ⇒ 宇垣の下で陸軍次官を務めており宇垣も歓迎するが、陸軍に振り回されて辞職、そのあとの米内首相も適材と評価するが畑陸相の辞職により総辞職
そのあとの近衛内閣の3国同盟や南進政策にも批判的
東條内閣の発足に対しては、宇垣を推す声もある中、「近衛木戸一派」の決定であり、「ヤケクソ式」「捨て鉢式」と批判
日米開戦に際しては、緒戦の戦果を歓迎しつつも、これからは油断大敵と警鐘、1か月後にはドイツの苦戦が報じられたことを受け、早くも対英米和平を考えるべきと主張、尋常の軍人ではなかった ⇒ 南方進出や無用の戦線拡大についても批判
45.6. 「日本には行政事務はあっても政治は無い、政治見識を欠き事務才能に卓越せる東條、木戸を配しあり」と述べる
46.1. 「真実に敗れたのは国民の日本にあらず、軍閥―官僚―財閥等帝国主義的我儘によって汚辱され歪められたる軍国日本である。軍国日本の廃墟の中から真実なる国民の日本を創建せねばならぬ」と日記に書き、陸軍から出て陸軍以外に亘る勢力を持つ最後の人物であった宇垣は、軍を軍閥と呼んでその罪を糾弾するようになっていた
宇垣の言説をたどると、軍事力についての客観的考察と、それを行使すべき背景たる国際情勢に関する認識と、そして軍事を支えるべき国内政治の在り方について、ある程度まとまった考察を、見出だすことができる。それはいかなる国家においても必要でありながら、昭和陸軍には失われたものだった
明治憲法においては、天皇が絶対的権力を持ちながらそれを行使しないことが期待されていた。天皇に代わる制度的な統合者は存在せず、明治憲法体制を機能させるためには、多数の輔弼、助言機関が、相互に配慮して、政策統合を進める必要あるも、それぞれの機関においてセクショナリズムが進展するにつれ、国家的意思決定は極めて困難に立ち入る
その中で、最も強力な破壊力を持つのが陸軍。その陸軍に立脚しつつ非制度的な力で他と結びつき、全体的な政策統合を実現し得るものが必要だった ⇒ 明治期において藩閥が果たしたその機能を、辛うじて果たす可能性を持っていたのが宇垣だったが、その非制度的な力は野心と紙一重でありしばしば不純で邪なものと見えたため、その不純で邪な非制度的力を取り去った時、明治国家は機能することを停止せざるを得なかった

おわりに
近代の軍は巨大な官僚制。実力組織である軍は、独自の行動をとることが物理的に可能であり、その結果作りだされた既成事実は容易に元に戻せないだけに、軍の統合は他の官僚機構よりも重要。組織に対する忠誠心の強い日本においては、その危険はより大きい
それゆえに、近代日本の陸軍を有効に動かすには、軍のトップに極めて強い政治力が必要だった。それが失われた時、軍はそれぞれの組織でバラバラに動き始めた。昭和の陸軍は、統一的意思をもって国政を引き摺りまわしたというよりは、統一的な意思形成能力を失って国政を崩壊に導いた ⇒ これが本書のタイトルの意味であり、基本視角


官僚制としての日本陸軍 []北岡伸一
明治の政軍関係、解体の過程描く

 著者は冒頭で、本書が「近代日本における政軍関係の特質を、さまざまな角度から明らかにしようとするもの」と語る。日本陸軍の誤謬を昭和のある時期を起点に明治の建軍期にさかのぼるという手法に対して、著者は「明治国家において確立された政軍関係」がいかに解体されたのかを確認したいとの姿勢を明確にしている。
 この論点を浮きぼりにするために、本書は序章を含めて5章から構成される。1979
年(第3章)、85年(第2章)、91年(第1章)にそれぞれ発表された論文に、今回新しく序章「予備的考察」と第4章「宇垣一成の一五年戦争批判」が書き下ろされた。序章では、明治憲法の不透明さが政治家や軍人によってどのように克服されていたか、なかんずく政党と軍の協調関係が一定のバランスを保っていたことを論述していく。一方で陸軍内部の派閥を具体的に説きつつ、陸軍省軍務局(陸軍大臣次官軍務局長軍務課長)の主流ライン、とくに軍務局長がいかに長州出身者によって占められていたかを指摘する。
 明治陸軍の二つの顔がその後にどう影響したのか。本書の中には著者の自説が具体例を論じたあとにさりげなく書かれている。たとえば明治陸軍内部にはより軍事上の専門知識を求めるグループ月曜会が生まれるが、その過程にふれながら、統帥権の意味がヨーロッパと日本とでは逆であることに注目すべきだと説き、「近代的な軍を守ろうとする性格」の統帥権がなぜ歪んだかを読者に考えさせる筆の運びとなっている。
 30年余も前に書かれた論考であるにもかかわらずその視点は正確で鋭い。とくに第3章で19319月の満州事変から362月の2.26事件までの4年半を丹念に論じ、宇垣一成の系譜を引く南次郎陸相の軍制改革を論じた点、第2章の191516年の反袁世凱政策のもとで「支那通」の軍人たちの歴史観、たとえば山県初男らの雲南援助論など辛亥革命後の中国で日本の果たすべき役割(むろん帝国主義的側面もあるが)を分析しての特徴を吟味すると、著者によって研究の枠組みが広がったことが改めて理解できる。
 本書の圧巻は、宇垣一成について著者なりの視点で描きだした軍人・政治家像にあるのではないか。この軍人についての研究は未だ充分とはいえないが、著者はこの軍人が明治陸軍の功罪を背負いながら大正時代を動かし、そしてその系譜の者が昭和で紡ごうとした流れを冷静に記述している。
 それゆえ日記をもとに昭和の宇垣の心情を解きほぐしていく第4章は首肯できる。もし東條英機でなく宇垣首相なら日米戦争は避けられたかの仮説は説得力がある。
    
 筑摩書房・2730円/きたおか・しんいち 48年生まれ。政策研究大学院大教授(日本政治外交史)。立教大教授、東京大教授を経て現職。0406年は日本政府国連代表部次席大使。著書『日本陸軍と大陸政策』『清沢洌(きよし)』『日米関係のリアリズム』など。


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北岡 伸一1948(昭和23年)420 - )は、日本政治学者歴史学者国際大学学長政策研究大学院大学教授東京大学博士)、東京大学名誉教授20044月から20068月まで日本政府国連代表部次席大使を歴任。専門は、日本政治外交史

人物 [編集]

奈良県吉野郡吉野町生まれ。東大寺学園中学校・高等学校を経て東京大学法学部卒。東京大学大学院法学政治学研究科博士課程修了。1976年に博士論文「日本陸軍と大陸政策1906-1918年」を東京大学に提出し博士 (法学)の学位を取得。
立教大学法学部専任講師/助教授/教授を経て、1997年に東京大学法学部教授。20123月に東京大学を退職し東京大学名誉教授の称号を得る。同年4月より政策研究大学院大学教授に就任。
1987(昭和62年)、『清沢洌』でサントリー学芸賞受賞。2011(平成23年)、紫綬褒章受章。
陸軍研究からスタートしたが、1980年代終わりから盛んに現代政治に関する論評を行う。日本の国際平和への積極的貢献や政権交代などが可能な「普通の国」になれるかを歴史的な視点から問う、過去のタブーや因習にとらわれないスタイルで知られる。近時は日本再浮上のためには再びグローバル・プレイヤーとして国際社会に挑戦することが必要だとして、「21世紀の開国進取」を打ち出している。
イラク戦争については「大量破壊兵器」と「北朝鮮対策」を理由として支持する立場を他の多くの知米派政治関係者とともに明らかにした。自衛隊のイラク派遣に際しては、フセイン元大統領の捕捉に伴って政治情勢が安定するという見通しの下に支持した。
2004(平成16年)4月から2006(平成18年)9月まで外務省へ出向し日本政府国際連合代表部次席大使としてニューヨークに赴任。この他にも政府との関わり合いは強く、長期的な外交戦略検討のために設置された小泉純一郎首相私的諮問機関「対外関係タスクフォース」委員(2001(平成13年)9 - 2002(平成14年)11月)、外務省改革の一環として、過去の外交政策の政策評価を行うため設置された「外交政策評価パネル」座長(2002(平成14年)8 - 2003(平成15年)8月)、日本版NSC設置検討のために設置された「国家安全保障に関する官邸機能強化会議」委員(2006(平成18年)11 - 2007(平成19年)2月)、日本の集団的自衛権保持の可能性について考える安倍晋三首相の私的諮問機関「安全保障の法的基盤の再構築に関する懇談会」有識者委員(2007(平成19年)4 - 2008(平成20年)8月)、福田康夫首相の私的勉強会「外交政策勉強会」委員(2007(平成19年)12 - 2008(平成20年)9月)などを歴任した。政権交代後も、鳩山由紀夫政権下で日米間の密約を調査するための外務省の有識者会議の座長を務めた。また、「日中歴史共同研究委員会」の日本側座長(2006(平成18年)121 - 2009(平成21年)12月)を務めた。
2008(平成20年)5月に発足したアフリカ大陸の貧困撲滅・開発の目標を定めた国連ミレニアム開発目標への支援・支持を呼びかける特定非営利活動法人ミレニアム・プロミス・ジャパンの会長を務めている。

略歴 [編集]

·         1971(昭和46年)6 - 東京大学法学部卒業。
·         1976(昭和51年)9 - 東京大学大学院法学政治学研究科博士課程修了(法学博士)
·         1976(昭和51年)10 - 立教大学法学部専任講師
·         1978(昭和53年)10 - 立教大学法学部助教授
·         1981(昭和56年) - 1983(昭和58年) プリンストン大学客員研究員
·         1985(昭和60年)10 - 立教大学法学部教授
·         1997(平成9年)10 - 東京大学大学院法学政治学研究科教授
·         2004(平成16年)4 - 外務省へ出向し国際連合日本政府代表部次席代表・特命全権大使-2006(平成18年))
·         2006(平成18年)9 - 東京大学大学院法学政治学研究科教授に復職。
·         2012(平成24年)1 - 東京大学で最終講義を行う。
·         2012(平成24年)3 - 東京大学を辞職。
·         2012(平成24年)4 - 政策研究大学院大学教授
·         2012(平成24年)10 - 国際大学学長

関係者 [編集]

東京大学教養学部時代は、佐藤誠三郎のゼミに所属(同期生に舛添要一下斗米伸夫など)、大学院における指導教官は林茂三谷太一郎で、他に伊藤隆にも師事した。
実家は吉野の造り酒屋で大叔父は農商務省官僚・ILO日本政府代表として労働政策を担当し、後に東京帝国大学経済学部教授に転じた國學院大學名誉教授の北岡寿逸(東大政治学科卒)。寿逸の弟・馨(東大化学科卒)は東洋大教授。父の北岡茂(京都帝国大学医学部卒)は元吉野町長。弟の北岡篤(東大寺学園高校卒、東京大学農学部卒)も吉野町長。
妻は元電通総研生活文化部主任研究員で評論家鈴木りえこ(ミレニアム・プロミス・ジャパン理事長)。


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