No time for doubt 大谷翔平 鈴木忠平 2025.3.
2025.3.~ No
time for doubt 大谷翔平と2016年のファイターズ
著者 鈴木忠平 ノンフィクション作家。1977年愛知県生まれ。県立熱田高等学校を経て、名古屋外国語大学を卒業後、日刊スポーツ新聞社、『Sports Graphic Number』(文藝春秋)編集部を経てフリーとなる。2022年、落合博満を描いた『嫌われた監督 落合博満は中日をどう変えたのか』で、2021年度ミズノスポーツライター賞と、第53回大宅壮一ノンフィクション賞
《ベストセラー『嫌われた監督』著者による新連載》「大谷翔平と2016年のファイターズ」はもつ焼き屋で生まれた
vol.92
2025/02/22 電子版ORIGINAL
昨年、ロサンゼルス・ドジャース移籍1年目にして、早くもワールドシリーズ制覇を成し遂げた大谷翔平選手。彼がまだ北海道日本ハムファイターズに所属していた2016年に、日本一を勝ち取るまでを追ったノンフィクション連載「No
time for doubt 大谷翔平と2016年のファイターズ」が、2025年3月号からスタートしました。
筆者は、大宅壮一ノンフィクション賞を受賞した『嫌われた監督 落合博満は中日をどう変えたのか』、『いまだ成らず 羽生善治の譜』などの作品で知られる鈴木忠平さんです。
企画が持ち上がったのは2024年9月2日、鈴木さんと新宿のもつ焼き屋で食事をしている時のことでした。いい感じで酔いが回ってきたころ、鈴木さんがこう言ったのです。
「大谷選手の2016年を取材したら面白いと思うんだよね。あの年、DHを解除した本格的な二刀流をスタートさせ、当時プロ野球最速の165㎞も記録した。なによりこの年は、ファイターズが日本一になっているのが大きい」
実は大谷選手、幼少期から個人ではとてつもない成績を残してきましたが、「優勝」は掴み取ることができていませんでした。甲子園には2年夏、3年春に出場したものの、初戦敗退。それゆえ、メディアから目標を聞かれたときの答えからは、自身の成績のことはもちろん、チームが頂点に立つということを重視していることが窺えるのです。たとえば2016年のシーズン前、記者から今年の目標について問われた大谷選手は、こんなことを言っていました。
「20勝&20本です。20勝は軽く言える数字ではないですし、1年目じゃ言えなかった。20勝して20本打てば、日本一にも近づくんじゃないかと思いますし、そう言って喜んでもらえるなら言いますよ」
大谷選手はこの年、投手として10勝をあげ、打者として22本塁打を放ち、NPB史上初となる、投手と指名打者の両部門でベストナインをダブル受賞。リーグMVPにも選出され、チームを日本一へと導きました。そして鈴木さんはこの優勝の瞬間を、マツダスタジアムで取材しています。
ちなみに私が、記者としての鈴木さんの姿で、いまだに印象に残っているのが、2010年の中日ドラゴンズ対千葉ロッテマリーンズの日本シリーズの第一戦の時のこと。当時私は『Number』の編集者としてナゴヤドームで取材をしていました。
試合終了後、落合監督を各メディアの番記者たちが取り囲み、ナゴヤドームの廊下を歩きながら取材をしていたのですが、落合監督の真横で質問を投げかけていたのは鈴木さんでした。他社の番記者は鈴木さんの問いに落合監督が答えるのを、ほぼ黙ってメモをしているのです。「何でこの記者たちは質問しないのだろう」と疑問に思ったのも確かですが、それだけ鈴木さんが落合監督から信頼されていたということでしょう。
“嫌われた監督”にここまで食い込んだ記者が、2016年の大谷翔平とファイターズの光芒を描きます。ぜひ連載をお楽しみください。
(編集部・柳原)
第1回 2025年3月号 「ホームラン、打ってきます」
2016.7.2. 『11.5ゲームをひっくり返すことしか考えていない。優勝を疑った瞬間はないです。僕は勝つために逆算して、手を打ち続けるだけ。8月の後半から9月に入るところで、優勝がはっきり見える状態まで持っていけば、あとは選手たちが勝手に走り出す。こっちの仕事はその気にさせることなんです。そのためにはこのアウェーの福岡3連戦3連勝をしないと、優勝はない。そこで考えていたのが、1カ月以上前から練って、あそこですべての条件が整った、あの作戦。前の日に翔平を呼んで話したんです』(栗山英樹)
大谷と同期入団の鍵谷陽平はリリーフ投手、この年不振に苦しんでいた
大谷の4年目となったこのシーズン、初めてリアル2刀流をスタート。3連戦の初戦に勝った栗山はこの日大勝負に出て、「1番投手大谷」を起用。大谷は「ホームラン、打ってきます」といってロッカールームを飛び出していった
第2回 2025年4月号 「彼が求めるもの」
7月3日のホークス戦、大谷は予告通り初球をホームラン
大谷が新人だった2013年、シーズン終りで最下位のファイターズの消化試合で大量リードされた最終回の1アウトで打席に立った大谷は、誰が見てもアウトと思われる内野ゴロなのに、1塁ベールにヘッドスライディング。それ以来本間は大谷に憑りつかれた
大谷は栗山とともに誰も歩んだことのない逆風の坂道を上がってきた。1年目は投手で3勝、打者で3本のホームラン、2年目は日本プロ史上初の2桁勝利、2桁本塁打 (11勝、10本塁打)、3年目は投手3冠、4年目の今年は前月に史上最速の163㎞を投げた
栗山は、「2刀流はチームが優勝するためにあると大谷とも言ってきたが、チームには批判的な空気もあったのを、大谷が自分で力づくで捩じ伏せていった」と語る
2刀流によるチームメートへの影響から、軋轢が生まれるのは当然で、大谷という特別な才能による歴史的な挑戦は限りない可能性を持つと同時に、チームを内部から崩壊させるリスクを孕む
野茂やイチローのように、チームという組織に属していながら、いつも一人の空間に身を置き、他の誰とも違う視座を持っていた
大谷は8回を投げ終えて無失点、ホークスはシーズン初の同一カード3連敗を喫する
第3回 2025年5月号 「それぞれの戦場で」
連勝中に1軍に呼ばれた新垣勇人は、一発芸で盛り上げ役に徹する。7月10日の球団タイとなる14連勝の試合前にも一発芸を披露、チームにとって不可欠な験担ぎとなった
大谷と同期で5位指名、27歳での最年長入団。ほろ苦いデビューのあと、初勝利は3年目。その新垣が最も鮮明に才能というものを突き付けられたのは大谷によってだった
あどけなさを残す大谷が、野球のことになると他者を寄せ付けない空気を放ち、誰よりも才能があり、誰よりも野球に貪欲に見えた
キャッチャーのキャプテン大野は、前年「キャリアハイ」を目指し、自分が最高の個人成績を出せば、自ずとポジションも勝利も手に入ると考えたが、結果は自己ワーストに近いもので、ホークスの独走も許す。単に個人成績を上げるより、チームにどう貢献するのか、逆算で見えて来たものがある。下位打線であれば出塁率を上げるとか、キャッチャーであればピッチャーとの意思疎通の精度を上げれば防御率向上に繋がるとか。ラストバッターだった中島卓也は、相手投手に投げさせる球数を増やすためにファウルを打つ練習をした
その日の試合の先発大谷は7回途中マメを潰して交代。その回致命的な4失点で0-5と大量のリードを許し、1点差まで追い上げたが、最終回2アウトでランナーなしと追い込まれた。5番の田中賢介は35歳、何度もこうした修羅場を潜ってきた。繋ぎ役に徹してレギュラーポジションを獲得してきたが、6番のレアードが抑えの西野と極端に相性が悪いことを知って、それまで年間3本以下しか打っていないホームランを狙う。読みが当たって同点となり、延長12回にレアードのサヨナラホームランで’07年以来となる球団タイ記録を達成。さらに記録は15に伸び貯金を18とし、2位で折り返すが、ホークスとの差はまだ6ゲームある。大谷は長期離脱が判明
第4回 2025年6月号 「今と未来と」
大谷の戦力離脱により、不振で2軍にいたリリーバーの増井浩俊が突然異例の先発を言い渡される。前年までリーグ屈指の抑え投手で、先発への転向は投手生命を殺しかねない決断だが、栗山はあえて優勝するためには必要だし、増井の力を信じての先発起用だった
栗山は、2011年央に日本ハムのフロントの吉村浩から、「根本隆夫にならないか」と誘われた日のことを生涯忘れない。根本は’80年代のライオンズの黄金時代の基礎を築いた西武の管理部長。GMのつもりで監督をやってほしいと再三言われる。監督は目の前の勝敗を最優先する一方、GMは球団の継続的な強化を考えるという両対極。栗山は日本ハムとは無縁で、ヤクルトをメニエール病のため退団、監督には縁がないものと思っていた
栗山と吉村の出会いは、吉村がデトロイト・タイガースの編成部門で働いていた時に遡る
異例づくめの人事は、吉村にとっての大きな賭けであり、栗山もその意気に呼応した
増井は、栗山の監督1年目にセットアッパーとして50ホールドのリーグ新記録を打ち立てリーグ優勝に貢献。この年も、栗山の期待に応えるように、初戦から5回無失点、勝敗こそつかなかったが、その後は完投・完封も経験し5連勝、投手陣の救世主になっていく
第5回 2025年7月号 「決着の時」
残りあと2試合ですべてが決まる時になって、落ちているチーム力回復のためにキャプテンの大野奨太が田中賢介に相談して考えたのが、個人としてチームのために何ができるのか選手全員で話すミーティング。トップを捉えた途端に失速、クローザーが負傷で戦列離脱と逆境が続く中、迎えたホークスとの最後の直接対決の2連戦を前に、全選手がサロンに集結して、それぞれの思いを吐露し全力疾走を誓い合う
ホークスが優勝を争う相手としてファイターズを意識し始めたのは8月半ば。2年目の工藤監督と選手の間に微妙な溝が生まれつつあった
ファイターズのヘッドコーチの城石は、栗山の判断を絶対的に信頼するが、時に腹心のスタッフでも真意を図りかねる決断をすることがある、その典型が7月のピッチャー大谷の1番起用。プレーボールの余韻が残るスタジアムにアーチをかけた時、城石は栗山と目が合ったが、栗山に驚きの色はなかった
天王山の2連戦初戦も8回まで大谷が投げ2対1でリードしたが、リリーバーが9回裏2アウトで2,3塁になった時、栗山がセンターを下げろとの指示。2塁ランナーを返さないために前進守備がセオリー、それに反する判断。打球はセンター後方へ飛んでいく
第6回 2025年8月号 「神様の実像」
直前にセンターを下げるよう指示していたことは、栗山以外はファイターズのコーチ陣とセンターの陽岱鋼しか知らない。センター頭上の打球を背走したまま左手を伸ばした先にボールが吸い込まれ、ゲームは終わる。説明のつけようもないこのプレーに、コミュニケーションで失敗していたばかりの工藤は選手との関わりをもう1回自分の中で洗い出そうと考えた。栗山は、直前にセンターの頭上にボールが飛ぶという動物的な感覚を強調、監督というのは野球に対してはとことん突き詰めなければだめだが、最後は野球と違う要素が物事を決めるという感覚が自分の中にあるという
翌日もホークスとの直接対決に勝利。栗山は自らの課していた制約を解除して、当番翌日にも拘らず大谷を3番指名打者として起用。連勝して優勝へのマジックナンバーを灯す
優勝への重圧からもたつきが始まり、残り3試合でマジック1となった時、あえて大谷をを下げて敗戦
大谷は、打者としてノーヒットでも、投手としてKOされても、すぐに頭を切り替える
ホームでの最終戦までずれ込むと重圧から敗戦の可能性が高いので、栗山は次の試合で決めるべく、大谷も前日は代打のみの出場とし、今日は二刀流を封印し投手に専念させる
登板直前、大谷が元母校の監督で現日ハムコーチの厚澤に言った言葉が、「こんな舞台を用意してもらってありがとうございます」。大谷に栗山の意図は伝わっていた
チーム内では、「翔平がいるうちに日本一になろう、ならなきゃダメ」という雰囲気、翔平がメジャーに行きたいのは入団当時からみんながわかっていた
レアードのホームランで挙げた1点を守り切って120球あまりの1安打1四球の完封で優勝を決める
第7回 2025年9月号 「そのとき、中田翔は」
チームが連勝を初めても、4番の中田の調子は上がらず、一人蚊帳の外に置かれ、苛立ちが自責、弱気に。ついに代打が送られた試合でチームは逆転勝利。中田は大きな葛藤を抱える
日本シリーズは広島と。中田は故郷広島の実家に「中田会」のメンバーを招く。大谷も参加。プロ野球チームには、投手・野手の見えない壁があるが、大谷にはそれがほとんどない
投攻守揃った大谷に、全ての選手がヤキモチを焼きながらも、リスペクト
2連敗で迎えた第3戦、1点ビハイドの8回、大谷が目の前で敬遠された後の中田は、逆転2塁打でチームを蘇生させる
同僚も、大谷のコミュニケーションの高さを認め、人間的に嫌な感じが一切しない
毎試合に出る大谷は、他の投手より登板間隔が長く開けられ、球数にも制限があるので、その分誰かが埋めなければならない、それでいて、重要な試合は大谷に委ねられる
二刀流は誰かの犠牲や不公平の上に成り立っているのでは、との蟠りが周囲にはあるが、それを氷解させるような何かが大谷にはあった
栗山曰く、「選手からどんなに嫌われても、何と思われてもやろうと思っていた。それぐらい大谷翔平のことを信じていたし、依怙贔屓ではなく、チームのために、野球のために必ずなると思っていた。歴史というのは勝者の歴史なんです。とくにプロ野球はそうで、僕はあの年は翔平が伝説をつくる年だと思っていた」
第8回 2025年10月号 「消えない落書き」
大谷が花巻高3年の春(‘12)、渡米の噂の中、日本ハムは1位指名を決めていたが、投手か野手かで迷い、栗山は「どちらかに決められない選手」とし、編成部門トップの吉村も「両方やればいい」と言う。この時初めて「2刀流」の発想が出る。吉村は’04年オフに日ハムの編成部門に来て以来、いくつもの球界の常識を覆してきた。スカウティングと育成をチーム強化の柱とし、その年の一番いい選手を指名する方針の下、'06年には巨人以外いかないと宣言していた長野久義を、’11年には原監督の甥菅野を強行指名、いずれも入団しなかったが、プレーヤー時代の実績で測られてきた監督人事でも栗山を選んでいる
'16年の日本シリーズの広島での第6戦、日ハムが3勝2敗で迎えた8回表、ツーアウト1,2類で3,4番となった時、栗山が5番の投手のところに大谷を待機させられないかと言い出す。大谷は第7戦の先発が決まっていて、代打はありえないが広島は知らない。3番がヒットで満塁に。4番中田が打席に立つと、ネクストに大谷が入ってバットを振り始め、球場はどよめく。大谷には球場の空気を一変させる力がある
打線では、個の足し算だけではラインアップの9人が線として繋がらない。好投手には球を余計投げさせて攻略しかなく、個々の打者がいかに投手に余計球を投げさせるかが重要で、時には個人の成績を犠牲にしてでもチームプレーをやってもらう。このシーズンの日ハムはそうやって繋がり重要なゲームを勝って来た。大谷だけは別格で、誰に教えられるでもなく、打線の中の一員として何をなすべきかを身につけていた
大谷の存在が影響したのか4番中田は四球で押し出し。大谷はベンチに下がり、5番の投手がタイムリーを放つ。さらにその後満塁ホームランが出て10年ぶりの日本一へ
チーム統括本部の岩本賢一は、2000年代初頭、メジャーに所属していた新庄の通訳で、デトロイト・タイガースでGM補佐だった吉村に会い。プロ経験のない日本人がメジャー球団の中枢で働いているのに衝撃を受ける
二刀流のプロジェクトの裏には、あまりにも多くの逆風があり、前に進むためには誰かが自分を捨てて無になり、全てを受け入れながら戦っていかなければならなかった。栗山が表で吉村が裏、表裏一体でその任を負ってきたからこそ成功裏に終わったのだ
それから1年後、大谷はファイターズを去る。ポスティング制度を利用して、契約金2.6億円と年俸6100万円でエンゼルスへ移籍。わずか5年で日本球界を飛び出す
トレーニングルームのホワイトボードには大谷が書いた人気漫画の落書きが残る。添えられた「お世話になりました」の言葉と共に、いつまでも誰も消そうとしなかった
栗山の述懐:栗山はよくコーチから、「翔平は監督が考えていることを一番分かっている」と言われたという。翔平の中には「できない」という言葉はなく、「やるか」「やらないか」しかない。それを面白がってやれる。栗山は大谷が帰国するたびに、自分が責任を果たせるのは大型契約で彼に相応しい年俸が固まった時だと言った。あと2年待ったら200億で行かせられるところを数千万で行かせたので、両親からも「本当に今なのか」と問われたが、翔平の気持ちを確認して「今です」と言って行かせたから、早く大型契約をしてほしかった
'23年冬、大谷が10年総額7億ドル(1014億円)でドジャースと契約。渡米後6年間大谷に対する責任を負い続けてきた栗山は漸く安堵を覚える
球界のパイオニアとなるべく二刀流に挑戦を始めたその日から、この才能を潰してしまったらどう責任を取るのか、そう考えると堪らなく怖くなった。それが、北米プロスポーツ史上最高額の契約にサインした時点でようやく解放された
大谷の「落書き」は、歳月が経った今でも栗山ら多くの人の胸に消えずに残っている。翔平と共に戦った歳月を象徴するものとして、記憶に保存されている (完)
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