維新太平記ー小栗上野介  清水惣七  2025.10.7.

 2025.10.7. 維新太平記 小栗上野介の栄光と挫折 上下

 

著者 清水惣七 詩人、作家、川柳作家。詩集『晴曇』、小説『弾劾』『太平記の里』、『足利尊氏と新田義貞』、その他歴史評論多数。住所:足利市山下町1568 電話:0284-63-2163

 

発行日           1988.2.10. 初版発行

発行所           新人物往来社

 

目次

Ø  開国と攘夷

F  嘉永6

F  密航

F  内憂外患

F  愛別離苦

 

Ø  草莽の崛起(そうもうのくっき)

F  将軍継嗣紛争

F  安政の大獄前夜

F  鬼哭啾啾(きこくしゅうしゅう)

 

Ø  海を渡るサムライ

F  開明の大海原

F  渡米日記

 

Ø  血塗られた尊王攘夷の旗

F  土佐勤王党

F  異人斬り

F  藩論燃ゆ

F  小笠原群島領有権

F  国是七条

 

Ø  大義の名のもとに

F  生麦事件

F  寒胆帳

F  新徴組

F  将軍解放

 

Ø  攘夷の戦端開く

F  神戸海軍操練所

F  薩英戦争

F  攘夷退潮

F  横浜鎖港交渉

 

Ø  五月闇を往く新撰組

F  池田屋騒動

F  象山暗殺

F  蛤御門の変

F  馬関の砲火

 

(下巻)

Ø  落影濃し長州遠征

F  横須賀造船所

F  慶喜非情

F  2次長州征伐

 

Ø  噫乎、天子を弑逆(しいぎゃく、主君殺し)

F  龍馬遭難

F  将軍家茂の死

F  孝明天皇毒殺

 

Ø  炎炎龍馬「船中八策」

F  フランス式幕政改革

F  パリの幕薩外交戦

F  船中八策

 

Ø  凋衰立葵

F  大政奉還の波紋

F  「ええじゃないか」

F  御用盗

 

Ø  落日燃ゆ鳥羽・伏見

F  鳥羽・伏見の銃声

F  慶喜逃走

F  草木も靡く錦旗

 

Ø  空風の道逝く小栗

F  小栗上野介罷免

F  一翁と海舟

F  上州権田村

 

Ø  落花翩翻(へんぽん)

F  赤報隊始末

F  三多摩士魂

 

Ø  枯野行く人

F  江戸城明け渡し

F  御金蔵疑惑

F  罪なくして斬らる

 

Ø  蕭蕭越後路

F  峠の英雄

F  勝てば官軍

 

 

 

 

 

Ø  開国と攘夷

F  嘉永6(1853)

北原白秋に「時は逝く」という美しい詩がある。久里浜から野比にかけての丘陵に、早春には己(おのれ)咲きの豌豆(えんどう)が優しい莟(つぼみ)のような花をつけ、向いに霞む房総半島の鋸山と覚しきあたり、白い船腹が動くともなく過ぎゆく風景は、詩の通り

63日の朝、久里浜真浦の漁師が沖合に4隻の不思議な船影を発見。3本マストで煙がたなびく。浦賀奉行所に飛び込んだが、奉行は防備強化に応えない幕府に反発して辞任した後で不在。与力が米艦隊の旗艦サスクエハンナ号に向い会見を申し込み、国交を開くために来たと伝えられる

報告を受けた筆頭老中阿部伊勢守正弘は愕然とする

アヘン戦争の二の舞を避けるべく対策を練る

小栗忠順が将軍家慶に「御目見」したのは1843年。小栗家は旗本で、上野・上総などに領地を持つ禄高2500石の御大身。忠順は'59年目付に昇進

13代将軍家定は病弱で、すぐに後継問題が浮上

阿部の前任水野忠邦も外交問題では、外国船に対し「天保の薪水令」を公布し無用な摩擦回避を図ったが、天保の改革で失脚

孝明天皇な極端な異国嫌いで、家定に対し打ち払いを命じ、阿部に誓約させる

'54年、幕府はペリーに下田・箱館の開港を約束し、日米和親条約締結

小栗は浜御殿(西丸用邸、現浜離宮)の警備担当

F  密航

ペリーの船に吉田松陰ら2人が密航の支援を求めるも、下田奉行所に引渡され獄門に下る

小栗は松陰と安積艮斎の塾で同門、松陰が魅了された象山に興味を持つ。象山・松陰の思想に触れた小栗は自らの無知を恥じ入るばかり、徐々に目を海外に向け始める

象山・松陰とも、憂国の至情より出でたるものとして、在所表での蟄居で済んだが、勝因は安政の大獄で刑死、象山も京都で暗殺

F  内憂外患

お由羅騒動

1855年、新潟奉行だった小栗忠順の父忠高発病

F  愛別離苦

忠順は父に会うために新潟へ。中山道を追分から北国街道を善光寺経由、死の直前に見舞う。跡目相続が認められ又一と名を改める。直後に播州林田藩主建部内匠頭政醇の次女道を娶る。衣通姫(そとおりひめ)と呼ばれる美女

'56年の「ハリス(総領事)出府」の是非を巡り、幕府内は勘定奉行系と目付系で対立。前者は川路聖謨が中心で拒否、後者は岩瀬忠震が中心で受け入れ派

'57年、ハリスの江戸出府が認められ、忠順も御使番として関わる。国内改革派の井伊直弼と意見が合い、聞かれるままに忠順なりの外交問題への幕府の無能無策を批判

 

Ø  草莽の崛起(そうもうのくっき)

志を持った在野人々一斉に立ち上がり大きな物事成し遂げようとすることを意味する語。江戸時代末期に、吉田松陰民衆主体改革望んで唱えた思想として知られる

F  将軍継嗣紛争

‘57年、忠順は布衣(ほい)に上り、従六位の叙位。幕吏の階級は御目見以下、御目見以上、布衣の3階級、官位でいえばそれぞれ判任、奏任、勅任

F  安政の大獄前夜

開国へ向けた老中堀田正睦の動きに対し、徳川斉昭が強硬に反対、勅許を得ようとしたが失敗した堀田は失脚、井伊直弼が大老に就任

忠順は、幕府内部では中堅的存在だったが、直弼の「血統が近いものから選ぶ」という筋論に共鳴し、紀州藩主慶福の擁立に大勢を固める。その説得力と行動力に直弼も感心。直弼は、斉昭の反対を押し切って条約調印に向かい、将軍の後継には慶福(後の家茂)を推す

直弼は、一橋派の巻き返しを懸念し、峻烈な追放を開始

'58年、直弼は勅許を得ないままに日米通商条約を締結。反直弼派と京都に集結した勤王の志士と称した草莽の攘夷派が一斉に蜂起

F  鬼哭啾啾(きこくしゅうしゅう)

鬼哭啾啾とは、亡霊の泣き声が聞こえるような悲惨なさまや、鬼気迫るほど恐ろしく不気味な状況を表す

水戸藩に密勅が下り、「幕府は3卿、家門、列藩と評議を行い、国内平和のため公武合体して、国家長久あらしめるよう徳川家を助け、内を整えて外夷の侮りを受けないように」というもの。直弼は、密勅の陰謀を暴き、水戸藩士らに加えて大量の公家を逮捕。さらに多くの思想家を断罪し、権力の凄さを世に示す。彼らは日本の夜明けを信じながら、維新の前夜を激しく駆け抜けていった先駆者の一群だった

 

Ø  海を渡るサムライ

F  開明の大海原

忠順は直弼の引き立てにより目付になり、アメリカに派遣

'59年、アメリカとの本条約取り決めのための遣米使節。正使新見(しんみ)豊前守、副使村垣淡路守、目付忠順。翌年(万延元年)ポーハタン号で渡米。忠順は従五位下、豊後守に叙爵

F  渡米日記

遣米使節はサンフランシスコから南下、パナマ地峡を汽車で横断し、アメリカの軍艦でワシントン着。1カ月滞在の後、コンゴ、喜望峰からジャワ、香港を経て、10カ月後に帰国

近習として忠順に同行した佐藤藤七が詳細な日記を残している

忠順は、フィラデルフィアの造幣局を見学し、日米間における史上初の為替レート交渉を行う。銀の含有量も含めて評価することになり、日本側にとって不利なレートを是正

帰路は、アメリカ随一を誇る新造船ナイヤガラ号を利用

桜田門外の変を聞いたのは香港

 

Ø  血塗られた尊王攘夷の旗

F  土佐勤王党

桜田門外の変によって幕府の権威は失墜。加害者の処罰も出来ないまま放置

'61年、武市半平太(号瑞山)による土佐勤王党の結成は、井伊の弾圧政策による反動

土佐24万石の太守山内容堂は、攘夷派で、海防の準備優先を主張。旧弊打破を目標に藩政改革に着手、吉田東洋、小南五郎右衛門らを登用。慶喜や春嶽と交流し、一橋派に与したため安政の大獄では江戸屋敷謹慎の処分を受ける

忠順は、遣米で200石加増となり、江戸屋敷に米国土産のドリスやビスを使って洋式家屋を新築、ランプなどの照明をつけて生活を楽しむ

‘60年、忠順は外国奉行に。初仕事は、アメリカ公使館通訳ヒュースケン殺害の後始末

ロシア艦隊の対馬来襲に対しては、英国艦隊の協力を得て撃退

F  異人斬り

積極開国政策による世上不安と物価騰貴から、異人切りが猖獗を極める。テロリストたちが表舞台に立つことはなかったが、歴史の回転に影響を与え、その正常化にある程度の役割を果たしたことは確か。最初の被害者はロシア士官、次いで東禅寺襲撃事件

王政復古を前提に公武合体が成立、忠順も和宮の御迎えとして上京。幕府は降嫁実現のため攘夷実行を約束したが、本心は実行するつもりはなく、更なるテロを誘発

'62年、坂下門外の変では、老中安藤信睦が襲撃され、未遂となったが失脚

F  藩論燃ゆ

京都は尊王攘夷の嵐で、無政府状態に

長州は、直目付長井雅楽(うた)の積極開国による国威発揚を謳った「航海遠略策」が藩論を統一、久坂玄瑞等の攘夷論は付け込む隙がなかった。長州の説得は孝明天皇も動かし、公武合体の立役者として天下の注目を浴びる。対抗するように島津久光が先手を打って上洛、皇威振興と公武合体、幕政改革を唱え、寺田屋事件で激派を始末すると、朝廷は久光に激派取り締まりの勅命を与え、長州に代わって主役に躍り出る

F  小笠原群島領有権

土佐藩で容堂の信任厚く、公武合体論に固執し尊攘論者を敵視していた東洋が暗殺されたのも'62年。武市等過激派の工作により、土佐藩主にも皇居守衛、国事周旋の内勅が下り、薩長土の3藩が幕政の改革に向けて維新動乱の歴史の表に出る

幕府が抱えている大問題に、小笠原群島の領有権がある。18世紀終わり頃に始まった米英の太平洋捕鯨事業により、1820年代日本漁船との接触が始まる。蛮社の獄('39)を経て、'58年にはジョン万次郎が小笠原を捕鯨基地として捕鯨を行うよう幕府に建言し「鯨魚御用」の看板をもらう

幕府は咸臨丸を使って小笠原群島調査団を派遣、小笠原群島図という実測図を作成、日本固有の領土である由来を書いた石の標識を建て、島民規則や島規則などの法令を公布施行し、将来開拓移民を定住させる手配まで整えて帰国。この報告を基に、英国公使に対し日本の領有権を通告。英国は1827年領有宣言を行い、さらに同島の帰属は米英露3国に委ねるべきと主張したが、アメリカの反帝国主義政策のお陰もあって日本の主張が通る

'62年、忠順は勘定奉行勝手方に任ぜられ、幕府の財務を司り、上野介の官命を受ける。本多正純、堀田正信、吉良義央など、不運な道を辿ることが多い官命。最初の仕事が海軍充実のための戦艦調達

F  国是七条

家茂に下った朝命は「三事策」。1つは将軍上洛により朝廷と攘夷の方策について協議すること、2つに沿海の5大藩主(薩長土+仙台、加賀)を大老に任命し国政と攘夷の責任を取らせる、3つに慶喜を将軍後見職、松平慶永(春嶽)を大老として幕政改革せよというもの

横井小楠は慶永を動かして幕政改革に「国是七条」を建言。元大目付の大久保一翁が小楠案と小栗案の折衷を取って5事とする。①将軍上洛、②参勤廃止、③妻子の国許帰還、④海軍を興し兵威を強める、⑤交易を諸侯に許可

 

Ø  大義の名のもとに

F  生麦事件

京都に戻る久光の行列を英国人等4人が騎馬で横切り、1人が死亡、2人が重傷を負う

幕府は、久光の力を恐れて処罰もせず、久光は京では英雄扱いで天皇から太刀を下賜

長州では、桂小五郎らの激派が長井を追い落とし、藩論を攘夷に転換させ、薩藩と行動を共にする

F  寒胆帳

京では、天誅の貼紙や投げ文が、幕府役人の家や両替屋、貿易商、富豪の家に投げ込まれるようになり、偽勤王党の押し込みも現れる

これに対抗して幕府は新撰組を京に配備

F  新徴組

薩長土の下級武士の狂気性は、多分に若い有り余る精力の発露であり単純なもの

品川御殿山に新築中のイギリス公使館焼き討ち事件を起こした高杉晋作等長州過激派の御楯組もその一例。失火で処理しようとしたが、長州の仕業と感づいたのが小栗上野介。庄内藩の郷士清川八郎が、千葉道場の同志山岡鉄太郎に、将軍上洛の際の警護のための浪士隊結成を持ち掛け、小栗上野介が山岡の意見を入れて結成したのが新徴組。後の新撰組の隊士たちも平隊士として参加

F  将軍解放

'63年、家茂将軍上洛。家光以来237年ぶり。「政治問題に朝廷から諸藩に直接指令することもある」と朝廷の方針が伝えられ、幕府の根本が否定される。久光も上洛して公武合体勢力の回復を図る一方、激派も大同団結して尊王攘夷を掲げる。尊攘激派の圧力のもとに強気を貫く朝廷を見て、政治総裁の慶永も辞表を提出

江戸留守居組の小栗上野介等は、生麦事件の処理を巡って苦悩、これ以上将軍が京都に長居しては攘夷決行を押し付けられると警戒、帰府を督促するが、激派に押し切られる形で、攘夷決行の日を決め諸大名に布告。驚いた江戸留守組の老中格唐津藩世子の小笠原長行(ながみち)は家茂帰府のため手兵を率いて京に向かい、家茂を大坂に連れ出す

長州が攘夷決行とばかり、馬関海峡で米仏蘭の艦船を砲撃したため、すぐに報復を受ける

 

Ø  攘夷の戦端開く

F  神戸海軍操練所

'65年、小栗が横須賀に製鉄所建設。建設費捻出に苦慮している忠順を見て、目付の栗本鋤雲が中止を勧告したが、忠順は、「売り物に出す時は、土蔵付きの売屋(ママ)の方が我らの肩身も広かろうが…」と、寂しげに笑ったという

海防体制の早急な確立を求める勝は、人材の育成を具申。'63年神戸に海軍操練所と造船所建設を決める。坂本龍馬が勝の考えに心酔して手伝う

長州藩の攘夷決行の独断専行は、江戸では大久保一翁、小栗等が問題にして長州藩に詰問書を送り、詰問使まで派遣したが、奇兵隊の暴挙に遭って2人が切り殺される

F  薩英戦争

幕末の日本人は、単純というか自己中心主義というか、発想と行動に矛盾が多い。長州でも攘夷と言いながら若手を英国に留学させている

イギリスは、生麦事件を理由に、対日通商貿易を安定させるためにも薩長を徹底的に叩こうと、薩摩藩に誠意なしと見るや、幕府を飛び越して直接交渉に乗り出し、艦隊を鹿児島湾に派遣して圧力をかける。湾内の蒸気船拿捕を皮切りに戦端が開かれる。燃料不足と艦長が死去したことで、一旦英艦隊は引き揚げ、その間に幕府が仲介に入って和解成立

'63年、中川宮による八・一八クーデター。御所の守衛を長州から薩摩に代え、過激な攘夷は天皇の意志ではないことを在京諸藩主に伝える。中川宮朝彦親王は伏見宮邦家親王の第4皇子で、後の青蓮院/粟田宮、安政大獄で永蟄居処分を受けたが、この年還俗。過激で無秩序な攘夷を嫌った天皇の意志を体して行動に出る。長州に不満は残ったが、激派を支持した三条実美ら公卿7人とともに帰藩

F  攘夷退潮

天皇の攘夷祈願のための春日社行幸に先駆け、吉村寅太郎や土佐藩士が中心となった天誅組が露払いで大和で決起したが、翌日のクーデターで行幸がご破算となり、さらに7卿落ちで京から激派が一掃されたため孤立。平野國臣の「生野の変」も挫折

クーデターで主導権を奪い返した公武合体派は、小栗上野介らの強硬な意見で、全国の尊攘派急進分子の一掃に乗り出す。特に土佐の山内容堂は、藩論が過激派に左右されることを不快に思い、吉田東洋の弟子で甥の後藤象二郎や乾退助等に命じて勤王党の弾圧を開始

武市は投獄、坂本や中岡慎太郎は脱藩

京では、守護職松平容保の市中見回り役に採用された新撰組の本格的な活動が始まる

F  横浜鎖港交渉

長州でも保守派が藩政を握り、長井雅樂の弔い合戦とばかりに尊攘派の追及に立ち上がる

朝廷の新政権は、久光の力を頼り、慶喜、慶永らを参与として政権運営を図る。無位無冠の久光にも念願の叙任。将軍も上洛して公武合体の体制固めが揃う

家茂はここで再び庶政委任の御沙汰を戴いたが、家茂としては大権はあくまでも幕府にあると考え、朝廷では政治の大権は朝廷が握ったことを、ここで幕府に認めさせたものと考えていたため、この齟齬が後々までも誤解を生む結果となり、幕府の崩壊に繋がる

朝廷の参与会議の2つの難題は、横浜鎖港と長州藩対策

朝廷の攘夷への対抗策として小栗上野介が提案したのが横浜鎖港。当分の間対外貿易を長崎と箱館に限定して朝廷の矛先をかわそうというもの。フランスに使節を派遣して交渉させたが藪蛇で、逆に使節団は通商振興の約束をさせられ、幕府に積極開港を建言

4国連合艦隊による下関報復攻撃が協議されると、伊藤・井上らの留学組が急遽帰国して開国の必要性を力説したが、激派は激高

4国も、幕府に長州を抑える力がないことを知って、報復攻撃を強行

 

Ø  五月闇を往く新撰組

F  池田屋騒動

横浜鎖港については、朝廷意向を尊重する幕府と開国を主張する雄藩とが対立。長州藩対策でも各藩はバラバラで、参与会議自体が崩壊すると、また攘夷の激派が復活

新撰組の活動が頂点に達したのが池田屋事件。長州が本気で倒幕に踏み切る契機に

F  象山暗殺

'64年、象山暗殺。長州藩が兵を率いて伏見に滞留、朝廷に嘆願の交渉を開始すると、慶喜も近国大名に入京を命じ、長州藩の暴発に備えるなか、京に仮寓して中川宮等に天下国家を論じていた象山が激派のテロの犠牲に。象山の妻は勝海舟の妹だが子はない

象山の死の8日後には蛤御門の変勃発

小栗上野介は、4国艦隊の出撃を聞いて勝を派遣、幕府が長州への処分を検討中として攻撃延期を申し入れる。勝は軍艦奉行となって神戸の海軍操練所を任される

F  蛤御門の変(禁門の変/元治の変)

相対峙していた会津藩と長州藩の間で銃が暴発したのが契機となって戦端が開かれる

両藩の喧嘩と傍観していた西郷が長州兵を砲撃して帰趨が決する

後世どんどん焼きと言われた禁門の変の火災は、長州藩兵を燻り出すため、どんどん焼けと言われたところから名づけられたが、火災は2昼夜に及び民家27千余戸が類焼。堀川通から東、中立売門通りの南全部が焼け野原になる史上例のない火災に

京都ではこの年の干支に因んで「甲子の戦争」とも呼ばれる

朝廷は長州征伐の勅命を発するが、薩摩の大久保は、4国艦隊の出撃を知って、その終結後の征討軍発出を具申

攻撃を控えていた4国も、長州を叩く絶好の機会と考え、攻撃に踏み切る

F  馬関の砲火

馬関戦争は、英仏など資本主義諸国の勝利によって、日本の貿易市場の確保と拡大をもたらし、それまで攘夷に固執していた朝廷に鎖国の不可能なことを納得させ、これを契機として薩長同盟を結ばせ、討幕へと一気に向かう端緒を開いた砲火

2日間の先頭で完膚なきまでに打ちのめされた長州に、追討の朝命が下る。朝廷や幕府の命令によって攘夷を行った長州に同情する藩もあって、一部には出兵の辞退まで出たが、それには莫大な戦費調達に逡巡した各藩の台所が苦しかったこともある

 

(下巻)

Ø  落影濃し長州遠征

F  横須賀造船所

勝と西郷は会見してお互いに惚れ合った。勝が幕臣の立場を超えて国家というものを意識し、世界の大勢に向かおうとしていたように、西郷もまた薩摩藩意識を超え、さらに征長総督参謀という意識を超えて、長州問題の解決を急ごうとしていた

海軍増強の一環として軍艦修理のための造船所を横須賀に造る案が勘定吟味役の小野友五郎から小栗上野介に上がり、目付の栗本安芸守鋤雲と相談してフランスの支援を取り付け実行に移す。薩摩に接近したイギリスに対抗してフランスは積極的に支援を応諾。ヴェルニーという技術者を派遣。小栗上野介も造船所建設に専念すべく海軍奉行に転じる

'65年調印、完成は4年後

1次長州征伐は、長州が恭順の意を示したため停戦となるが、直後に高杉晋作が脱藩し、伊藤俊輔の力士隊を説得して討幕の挙兵

F  慶喜非情

水戸藩家老武田耕雲斎は、天狗党を率いて尊王討奸を目指し中山道を京へ向かうが、幕軍の迎撃にも遭って疲弊。最後は加賀藩に頼って慶喜から朝廷に尊攘の志を届けようとしたが、慶喜からは幕軍への引き渡しの沙汰が下り、全員が処刑される

慶喜の非情に対し、身内からも助命の嘆願がなされたが、慶喜は聞き入れず

F  2次長州征伐

高杉晋作の挙兵に対し、長州藩は追討令を出す。西郷らは長州藩内の問題として見たが、慶喜は天狗党の討伐で幕府の力を見せつけたこともあって、長州を徹底的に叩こうとする

高杉は、保守派を破って藩論を倒幕に方向転換させ、軍事力強化に動く

小栗上野介は江戸で仏公使ロシュの支援を得て、雄藩を取り潰して幕藩体制の再構築を企図、手始めに再軍備を始めた長州を叩くべく大坂城に入り、諸藩に出兵を命じる

西郷・大久保らが暗躍して征長への勅許を阻止、反幕に動き出す。坂本の斡旋で西郷・桂会談を働きかけ、抜き難い対立の歴史を持つ両藩の同盟への道が開ける

 

Ø  噫乎(ああ)、天子を弑逆(しいぎゃく、主君殺し)

F  龍馬遭難

木戸孝允の日記によると、坂本は「余白面(ばかづら)」、茫洋とした人の好い容貌

薩長同盟への長州側の条件は、薩摩を通じた武器の購入。坂本が薩摩の財政的支援を得て亀山社中(土佐藩の公認となった後は海援隊)という貿易会社を設立し、武器を長州にもたらす。'66年、薩摩が長州を保障する要素の強い同盟が成立。直後に寺田屋事件

小栗は、勝を海軍奉行に戻し、海軍を使って長州、次いで薩摩を叩き、その後に天皇のもとに幕府を中心とした郡県制度導入を画策。一方で平和路線の布石として登用されたのが大久保忠寛(一翁)。慶喜が将軍後見職となった当時、5幕論と言われた1人で幕政を担当、朝廷の強硬な攘夷論の変更への説得のためには、一旦大政奉還する位の度量を見せてはと建言し、慶喜の怒りを買って免職になっていた。今回も対長州の寛大な対処を説く

F  将軍家茂の死

‘66年、各地で一揆や打ち毀し頻発。6月の征長戦が騒擾を煽る。戦線は膠着、家茂の死去で休戦。朝廷では王政復古派の岩倉が復活、若い公卿を扇動、薩摩の力を借りて動き出すが、幕府よりの公武合体派に阻まれ、慶喜が将軍となって巻き返す

F  孝明天皇毒殺

その直後天皇が急死。革新派の倒幕運動が盛んな中、毒殺説が流布。岩倉等に嫌疑が掛かる。1940年、公開された侍医の日記が痘瘡(天然痘)罹患を記した後突然途絶え、その6日後に討幕派の権大納言中山忠能の娘で典侍の慶子が父に送った手紙に「御九穴より御脱血」とあり、毒殺説が広範に行き渡る。その有力者として岩倉が挙がったが、岩倉は大喪によって勅勘が許され政治の前面に躍り出す。証拠はないが、岩倉ならやりかねない

 

Ø  炎炎龍馬「船中八策」

F  フランス式幕政改革

'67年、まだ16歳の睦仁親王が践祚。関白二条斉敬(なりゆき)が摂政に。慶喜の弟で14歳の徳川昭武がパリ万国博に慶喜の名代で出席

慶喜は、幕政改革を仏公使ロッシュに相談。内閣制を作り、陸海軍を整備して諸藩を抑えることが必須と吹き込まれ、自信を持った慶喜は4国に事後勅許で兵庫開港を約束

小栗が勘定奉行として財政面を支え、軍備増強のため、あらゆる方策を考え資金を捻出しようとしたが、仏本国の方針変更と、イギリスの横やりが入ってロッシュが本国の支持を失って孤立したため、幕府の親仏政策は破綻

F  パリの幕薩外交戦

パリの昭武はナポレオン3世に謁見、各国の王侯貴族にも歓待を受ける

薩摩は、イギリスに働きかけ、万博には、薩摩太守、琉球王国の名で幕府とは別に会場を獲得、反幕宣伝を開始

幕府は資金調達のために外国奉行栗本鋤雲をパリに派遣。ようやく一部目途が付いたところで大政奉還となり、全ての努力が水の泡と消える

F  船中八策

'67年、龍馬が後藤象二郎に示した国家体制の構想が「船中八策」

土佐の山内容堂が開国に目を向け始めたところで、西郷が容堂に、天皇を中心とする国家統一へ向け、雄藩の意見統一を図るよう働きかけ

‘67年、船中八策を基本として、西郷・大久保等が土佐の後藤・中岡・龍馬らと薩土盟約を結び、王政復古へ邁進。関が原以来の恩顧ある山内家は討幕には抵抗があり、容堂は慶喜に大政奉還の建白書を提出。慶喜は側近の西周に諮問、大名と藩主により議政院を作りその上に天皇を戴き、行政権を幕府が握り続けるという構想を抱く

一方の薩摩はあくまで芸州と土佐と共に討幕を期して岩倉を動かし、密勅を出させるが、摂政は密勅を知らず、岩倉の策謀で中山忠能等が動いた偽の密勅の可能性が高い

その直後慶喜は大政を奉還するが、(偽の)密勅により幕府は賊軍となる(「勝てば官軍」)

 

Ø  凋衰立葵

F  大政奉還の波紋

大政奉還には異論続出。京都守護職の松平容保は病身をおして孝明天皇を護り、桑名の弟の松平定敬も京都所司代として献身しただけに、密勅には反発。ロッシュも失望

京都見回り組によって龍馬暗殺、中岡慎太郎も深手を負う

F  「ええじゃないか」

岩倉は朝廷復帰決定を待って、上洛してきた薩長土軍と共に王政復古の大号令発出に動き出し、熾仁親王を総裁とし、討幕派のメンバーで周囲を固め、幕府側を朝廷から一掃

F  御用盗

江戸では、討幕資金と称した押借(おしか)りが流行り出し、庶民は「御用盗」として不安におののく。ひところ新徴組の清川八郎等が、尊王攘夷の名のもとに浪士の活動資金を強奪したが、今回は薩摩藩が浪人を集めて街を攪乱に陥れようとしたもの

朝廷では、武力解決派の岩倉等と平和路線の容堂・春嶽派が対立。慶喜が薩長側の勢いをかわすため一旦大坂に退いて善後策を練ろうとしたのが裏目に出る

 

Ø  落日燃ゆ鳥羽・伏見

F  鳥羽・伏見の銃声

朝廷から辞官納地を迫られた慶喜は、辞官は兎も角納地は拒否。討幕派との武力対決必至とみて、6か国公使を大坂に招いて幕府による新政権への根回しをし、ロッシュも各国公使に内政干渉をしないよう働きかける

幕府側の働きかけが功を奏し、慶喜を筆頭とする公議政体が実現する運びとなったが、その直後に小栗上野介の指示で江戸の薩摩藩邸焼き討ち勃発

幕府軍が京都を目指して進撃、京を守護していた薩長も立ち上がり、鳥羽で対峙、激しい銃撃戦となる

F  慶喜逃走

寡兵の薩長側が新式銃と近代的な戦闘方式により幕府軍を圧倒、翌日には朝廷から仁和寺宮彰仁親王を軍事総裁として錦旗出陣となり、西郷・大久保の思う通りの戦局となる

その夜慶喜は大坂城から海路江戸へ脱出、幕府軍は戦意喪失、総崩れとなって江戸へ退却

維新政府の名で諸藩に対し徴兵令が発せられ、有栖川が東征大総督となり、東海道、東山道、北陸道の3道から朝敵追討軍が進発。すべては西郷、大久保の采配だった

F  草木も靡く錦旗

大久保や西郷の暴力変革は、錦旗を手中にすることで全てが合法化され、錦旗は天皇の御意志となって草木をも靡かせる。民衆も「ええじゃないか」の無政府状態を演出し、打ち毀しや農民一揆で長い幕府政治への不満、不景気や酷税への不平不満を爆発させる

幕府軍は、無血開城恭順謹慎となったものが多い

'68年、維新政府から西宮継美の命を受けた備前岡山藩の行列をフランス軍人が横切ったことから、岡山藩と外国軍隊の銃撃戦となった神戸事件勃発。直後には同様の事件が堺でも発生。英公使パークスの要求で砲術隊長が切腹に。維新政府はパークスの指導によって初めて開国和親の宣言書を各国に提出し、外交権が幕府から新政府に移ったことを告知

 

Ø  空風の道逝く小栗

F  小栗上野介罷免

薩摩屋敷焼き討ちから、江戸の動きは薩長討伐論が活発となり

江戸に戻った慶喜が恭順の意を示すと、諸藩が政府軍に恭順している現実を知らない陸軍奉行の小栗は、主戦論を唱えて反発、勝や大久保一翁は外国の干渉を危惧して反対。分が悪くなった慶喜は、突然小栗を罷免。慶喜は賊軍の汚名だけは回避すべく、天璋院から静寛院宮(和宮)を通して朝廷にとりなしをしてもらうよう画策中で、恭順の意志は固い

F  一翁と海舟

一翁と海舟は、慶喜恭順後の幕府の幕引きの仕方を考える。静寛院宮に加え、輪王寺宮能久親王(後の北白川宮)にもお出ましを働きかけ、慶喜には上野大慈院(寛永寺)に蟄居

慶喜恭順の意志が西郷らの前線に届いていないことを知った慶喜の警護役高橋泥舟が山岡鉄舟を動かし、勝の斡旋で西郷と直談判

F  上州権田村

慶喜から登城禁止と府外退去を命じられた小栗は、領地の上野国権田村を退隠の地とする

三井の大番頭三野村利左衛門は、奉公中に小栗がその才能に目を付け引き立てた。油と砂糖を商う紀伊国屋の婿に世話し、安田善次郎が財をなした小銭両替の話を聞かせる。三野村は両替をしながら三井に出入りしながら、小栗に江戸の商人による商品担保の市中貸し出しを勧め、その取り扱いを三井に命じ、破綻寸前だった三井を救い政商として育てた

小栗一家は、権田村への移動の途上、桶川近くにある小栗家中興の祖4代忠政の墓のある普門院に参詣。江戸から3日で小栗家5代政信開基の東善寺着。遣米使節の随員佐藤藤七の居住地でもあった。到着直後から全国的に発生していた博徒を頭とする一揆が権田村にも来襲。薩長の手配した長州浪人が小栗を狙ってきたものと小栗は気づかず

小栗は、村人を歩兵として編成。小栗はかつて村人にフランス式操練を受けさせていた

小栗個人と同時に、元勘定奉行としてため込んだ軍資金を吐き出させようとした

近くの観音山に住居を普請、道子は初の懐妊

 

Ø  落花翩翻(へんぽん)

F  赤報隊始末

江戸で勝と西郷が第1回の和平交渉。勝は静寛院宮、天璋院という人質を盾に、喧嘩腰の西郷の対幕府要求をかわそうとする。勝は、パークスを動かし、居留民保護と貿易の確保に重大な懸念ありとして西郷に江戸城攻撃を止めさせるよう働きかけたのが功を奏し、西郷は総攻撃を思い止まる

西郷の指示で江戸の騒擾を引き起こした首謀者相楽総三は、征東軍の支援を頼まれ赤報隊を組織、東山道の先鋒として参加。隊員は草莽の臣を自認(ママ)する浪士等300人余

年貢半減を吹聴し沿道農民らの支持を取り付けたため、官軍からは「偽官軍」の布達が出て、信濃各藩に捕縛の命令が出て逮捕・処刑される。子孫によって雪冤の動きが続き、1928年正五位追贈、靖国に維新の功によって合祀。長谷川伸により相楽ブームが巻き起こる

小栗上野介同様、相楽の斬殺も又維新史の痛恨事

F  三多摩士魂

同じ頃、近藤勇は新撰組を改組、甲陽鎮撫隊を結成して甲府城を目指し江戸を発つ。伏見で銃弾を受けたが江戸に戻り、若年寄格に引き立てられ、土方、沖田、原田、永倉等新撰組の生き残りと共に薩長軍を迎え撃つ。武州多摩川生まれの百姓の倅が正式旗本採用。土方も日野の生まれ。甲府勤番は、板垣退助率いる土佐藩主力の官軍が甲府城に迫るとあっさり城を明け渡し。近藤は勝沼に布陣。白兵戦を仕掛けた後江戸に退くが、戦意が衰え、蝦夷地まで行っても徹底抗戦するという歩兵奉行の大鳥圭介についていこうと言う土方らと別れ官軍に降り、斬首となる

 

Ø  枯野行く人

F  江戸城明け渡し

東海道先鋒軍は品川に、東山道先鋒軍は板橋まで来て総攻撃の命令を待つ。その日、西郷から総攻撃中止命令発出。西郷は有栖川大総督と話した後上洛、勅許を得て、江戸城にて徳川を代表した田安慶頼に対し、慶喜の助命と水戸への謹慎、城を尾州家に明け渡し、武器の引き渡し、家臣の城外立ち退き・謹慎を示達

市中150万の人々は半狂乱状態に陥る。江戸城は強硬派の抵抗もあったが無血開城に成功

大鳥圭介は、不満分子で草風隊を組織、総裁となって、江戸城の武器を運び出し、市川の国府台に籠る。その数2500余。箱館まで落ち延び、最後まで徹底抗戦。榎本武揚も官軍へ引き渡すべき軍艦7隻を率いて箱館へ遁走。上野の山には彰義隊が気勢を上げる

F  御金蔵疑惑

小栗上野介が奉行に命じて江戸城御金蔵から御用金を持ち出し、赤城山中に埋めたという伝説が語り継がれている

小栗は、'62’65年に4回勘定奉行となるが、その間勘定奉行になったのは16名。誰がやっても幕府の貧乏所帯を切り回すことは出来なかった。江戸城接収時の御金蔵の有り金は、金座6.7万両、銀座3.5万両、丁銭貫で合計20万両のみ。西郷が不審に思って長州浪人を指示して小栗の身辺を追ったのは当然

江戸城接収後、東山道総督は小栗が築城して朝廷に対峙しようとしているとして、高崎藩・安中藩・吉井藩に小栗追捕の沙汰書発布。観念した小栗は、母妻を避難させる

F  罪なくして斬らる

小栗主従4人は黙って官軍の捕縛に従い、翌日烏川河原で斬首。元勘定奉行の処遇も弁えぬ乱暴なやり方。小栗の首級のみ首実検のため東山道総督の許へ送られる

西郷一味の小栗父子処刑の狙いは、薩摩屋敷焼き討ちの怨念に加えて、江戸城から軍資金を持ち出した張本人として一命を絶ったもの。東禅寺住職も拷問にあったが見つからず

 

Ø  蕭蕭越後路

F  峠の英雄

越後長岡藩は、最後まで維新政府に反抗。その中心を担ったのが高杉晋作と共に東西の双璧と言われた藩家老河井継之助。象山に学び、開国を主張。慶喜の大坂城逃亡を聞いて、これ以上の幕府への義理立ては無用と、江戸藩邸を引き揚げ。御用金で外国の武器を買い込み、薩長の非合法的な詔勅乱用への怒りから、あくまで中立を保ちながら、薩長の出方次第ではいつでも領民を守るために立ち上がる準備をしていた

長丘藩主は三河譜代の臣で911代牧野家は京都所司代・老中という名門。北陸道先鋒から出兵の要求に対し河井は命令される筋合いはないとして無視したため、政府軍は長岡藩討伐に向かう。長岡藩と政府軍の話し合いは決裂、河井の作戦通り東北25藩、北越6藩の奥羽越列藩同盟の結成に発展し、以後5カ月の凄絶な争奪戦が越後の山野に展開され、政府軍は幾度も苦戦に陥り、後々政府軍の大きな反省材料となる。河井の指揮で大分持ちこたえたが、新発田藩の寝返りで敗退、河井も傷を負い会津に向かう途中で死去

小栗夫人一行は、信濃川に沿って、忠順の父が奉行をしていた新潟の墓に詣でてから会津へ向かう。会津の飛び地小千谷の先は、会津から迎えが来て無事会津到着

F  勝てば官軍

江戸城明け渡し後に東征軍の指揮統一を命じられたのが長州藩の大村益次郎。緒方洪庵の書生から藩医となり、海外の兵学を学んで長州の兵学校に招かれ、藩の軍事面を掌握。西郷が薩長土の牽引的存在だったのは江戸城明け渡しまで。その後は軍事費の欠乏から西郷への不満が嵩じる。西郷の幕府懐柔策に不満を抱いて強硬路線に転換したのが大村で、先ずは彰義隊を討伐、江戸から旧幕府勢力を完全に追放した決定的な意味合いを持つことに

日本の軍国主義の突破口を開いたのが大村といえる

其の後戦いは白河城から会津へと東北戦争に引き継がれる

小栗夫人一行は、パリ万博の少年使節に同行してパリに留学した中にいた会津藩士の横山家に避難。小栗は万博の幕府出品責任者であり、横山は出発前に小栗に挨拶している間柄

その後の消息を伝える記念碑が1956年東善寺の忠順墓前に建立。父子の首級を館林で見つけて取り戻し、遺骸を全からしめたとある

小栗夫人は、会津戦後東京に帰って三井の大番頭だった三野村の家に移り住む、夫人の実家建部家は華族に列せられたが、政府の懐柔策に頼ることを潔しとしなかった

戊辰戦争は、明治2年の宮古湾海戦で終止符を打つが、榎本は勝の仲介で「主家を思う至情に感じ」軍艦4隻を与えられ、箱館に籠って独立政府を樹立したため、政府軍艦隊が出動

政府軍参謀黒田清隆の勧告によって榎本は投降、戊辰戦争の内で唯一爽やかな終結となる

 

 

上巻末尾 私の見た維新の群像          清水惣七

榛名山麓の南西、倉渕村烏(からす)川の水沼河原にある小栗上野介の記念碑の碑文は、「偉人小栗上野介 罪なくしてここに斬らる」。何という激しい抗議の言葉か

加えて、田中彰の『幕末の長州』の中の「奇兵隊日記」に、維新後1年余りで、王政は幕府政治に及ばず、薩長は徳川氏に劣るとして人心離解との批判があり、碑文と併せ両者は明治政府の持つ同次元的要素とその本質を暴露したものであり、本書執筆の端緒となる

本書は、醒めた眼で見た明治維新。維新で活躍した群像を「激派」として表現したのは、なにほどの高邁な精神を持っていたとしても、その行動は「過激派」以外の何物でもない

大西郷にしても、多くの学者が認めている通り、ニセ札犯であり、押し込み強盗の統領

天皇は玉という見方であり、明治時代というのはそういう時代だった

一方、君臣の垣をこえて、天皇を親愛した会津藩主松平容保の方が人間的には立派だし、越後長岡藩の河井継之助の方が純粋で好感が持てる。だから薩長軍を官軍とは表現せず

薩長が革命を起こし、幕府を倒して官軍となり英雄視されていることが妥当な評価ではないと言うことを、この小説で書きたかった

 

下巻 あとがき

幕末・明治維新と聞くと、諸々の維新の群像が回天の事業に血を流し、国事に奔走する夜明けを心に描くが、実際に小説を書いてみると、その暴力性、欺瞞性、破廉恥性には呆れるばかり。無教養で心臓の強い食うや食わずの下級武士が遮二無二、暴力革命を引き起こし、天皇の名を利用して国家権力を握ってしまった、というのが明治維新

国民は出来上がった国家の正体を見て、あまりに自分たちの想像していた理想国家と違う政府に呆然としてしまう。歴史は皇国史観によって書きかえられ、明治以後の日本人は、太平洋戦敗戦まで、こうした暗い社会を生き続けてきた

薩長閥が天下を掌握出来た原因は、明治68年に公布改正強化された言論取締令「讒謗(ざんぼう)律」の防塁だった。後の治安維持法に発展、日本人から民主主義精神を剥奪する思想弾圧の魁となる法律で、軍国主義は薩長閥によって用意されたものであることを我々は認識しなければならない

 

 

 

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幕末維新を描く大河小説

万延元年(1860)、アメリカの軍艦ポーハタン号で通商条約批准交換のため渡米した小栗忠順は、アメリカの新聞で「日本人中最も尊敬すべき人物」と評された。のち外国奉行・勘定奉行として内憂外患の難局に手腕を揮うが、彼の力倆・人望を恐れた薩長により処刑される。本書は英傑小栗忠順を軸として幕末維新の激動時代を描く壮大にして細密な大河小説である。上巻は四国艦隊の馬関砲撃まで。下巻は会津落城まで。

 

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