天使も踏むを畏れるところ 松家仁之 2025.7.11.
2025.7.11. 天使も踏むを畏れるところ 上下
著者 松家仁之
発行日 2025.3.25. 発行
発行所 新潮社
初出 『新潮』2020年7月~21年8月号、10月~22年7月号、9月~23年1月号、3月~24年5月号、7月~8月号
本書は、史実に基づいて書かれたフィクション
上巻表紙袖裏
お濠を越えた空襲の炎は、明治宮殿を焼き尽くした。敗戦から15年、初の民間出身の美智子妃に沸いた皇太子の結婚を経て、皇居「新宮殿」造営計画がようやく本格的に動き始める。「チーフアーキテクト」を委嘱されたのは、戦前、フランク・ロイド・ライトの下で働き、日本の伝統建築と欧米のモダニズム建築、双方に精通する建築家・村井俊輔。「象徴天皇」、そして民主国家となった新しい日本に相応しい、開かれた宮殿の形があるはずだ――。村井は、これまでの住宅建築の経験と、桂離宮や京都御所、若き日に訪ねた北京の紫禁城などを参照しながら、建設省から宮内庁に出向してきた杉浦技官とともに、この世紀の大プロジェクトに着手する。『火山のふもとで』に連なる、かつてない密度とスケールの大長編
上巻帯
和菓子の箱に、宮殿はおさまるか
敗戦から15年、空襲で焼け落ちた明治宮殿の跡地に、皇居「新宮殿」造営の大プロジェクトが動き出す。チ-フアーキテクト村井俊輔を中心に、新しい日本、「象徴天皇」にふさわしい宮殿のあり方を懸命に模索する人々。その奮闘の日々をつぶさに描く
建設省計画局勤務の杉浦
大学で建築を学び、卒論でモダニズム建築への傾斜が強調された看護学校併設の総合病院の設計案を作り、逓信省営繕課に入って官庁建築の設計を手掛けたかったが、戦争の激化で行き先を失い、海軍技師士官となり、ニューブリテン島で航空基地の管制施設などの営繕を担当
無事復員後、戦災復興院(内務省管轄、後に建設院→建設省)で働く
1952年、入省して10年が経つと、宮内庁へ出向。管理部(旧内匠寮)技官として新宮殿の建築に携わる。最初は長期プロジェクトで建設省に戻れなくなると考え辞退したが、竹内から卒業制作を見て白羽の矢を立てたと聞き、引き受ける
日本のモダニズム建築の初期の傑作東京中央郵便局を設計した逓信省の建築家竹内(吉田鐵郎)を尊敬
復興院での最初の仕事は、占領軍将校の家族用宿舎の建設で、GHQの設計部門と折衝
GHQのアメリカ標準工法による設計に目を瞠るが、その指導者はアーノルド・トウジックで、ライトの帝国ホテル設計の助手で、戦前日本に事務所を開設
建設省になる頃、担当したのが、新宿区戸山の陸軍学校跡地に建てられた1000軒の平屋の賃貸住宅。戦災罹災者や復員家族のための住宅、全てインフラ・水洗トイレ完備の洋式
1軒当たり18畳の畳と同じ費用で5人分の家具付きの住居が出来た。約7.5万坪に、公共施設も含む一大団地が出来上がる
竹内は、日本建築の伝統を取り入れたモダニズムを提唱し、100年200年残る皇居宮殿を作って欲しいと言い、象徴天皇制に根本的な疑問を持つ人間こそ、この計画に関わる必要があるとして杉浦を推薦
本所の和菓子屋(=呉服屋)の3男村井俊輔(=吉村順三)は、明治末の生まれ、府立三中に入る。建物に興味、外国の宮殿がそのまま移設されたかのような赤坂離宮が日本人により設計されたと知って驚く
中学時代、硫黄島への船旅を経験。その後に関東大震災に遭い辛うじて生き残る
卒業後は東京美術学校に入り建築を専攻。同級生は5人。指導教授(渡辺仁?)は第一生命ビルの設計競技に指名されたばかり、歌舞伎座も設計。世界を見て歩けと言われ、早速大陸に渡り、紫禁城や大連・京城を視察。卒論には建築の原点として住宅を取り上げる。卒業後はライトの建築の寄宿学校「タリアセン」に入るべくライトに手紙を書く
大学新卒の月給が70円に対し、タリアセンの学費は650ドル(1300円)で高嶺の花
代わりに東京市土木局の嘱託に採用。復興小学校の附属図書館の設計を担当
裕福な家庭の1人娘の医師と結婚し、単身ウィスコンシン州マディソンのタリアセン(冬の間はアリゾナ)に留学するが、日米開戦により交換戦で帰国。事務所を開き、最初の仕事が館山のサナトリウム
杉浦は、宮内庁に出向、「宮殿造営調査室」に配属
両陛下のお住いの御文庫は、'42年建築の耐爆施設で、全館に湿気が籠る最悪の住み心地
経済安定本部の解散で、敗戦からの復興に一区切りついたことになり、宮城再建への機運が高まる
初代長官の島崎(=宇佐美)から、「国民の統合を象徴する美しい建造物となるよう全力を尽くせ」と言われ、「前例にとらわれない」ようにとの言葉
調査室長は管理部長の野上(=鈴木菊男? ご成婚時は東宮大夫)
国立国会図書館の建築懸賞設計の募集要項が発表になり、賞金100万円の少なさと、設計図書は国会図書館の所属になるという条件に建築家が、著作権保護をタテに反対の署名。「建築家の要望を実質的に満足させるよう努力する」との文言で妥協。設計者は登川(=前川國男)
お盆に鴨川の花火大会により京都御所に火災発生、小御所が全焼。新宮殿の防災計画に繋がる
宮内庁に宮殿造営計画協議会開設。建築界から4人の顧問が就任。竹内は前年に死去
村井の事務所には個人宅の依頼が増え始める。公私にわたって付き合ったのが同窓生で日本画科卒の山口玄一郎(猪熊)。2人で浅間の向こうの青栗村(法政大学村?)の哲学者(津田左右吉?)の家を借りてスキーをする。多摩川を越えた所に土地を見つけ、村井の設計で家を建てる。「三間角(さんけんかく、1辺5.45mの正方形の家)」を基準にした2階建て
山口邸の設計をしているところにニューヨーク近代美術館の学芸員(フィリップ・ジョンソン?)から村井に手紙が来て、館内に茶室を作りたいとの依頼。タリアセン繋がり
やっと天皇からお許しが出て、新しいご住居は吹上御所と命名、現在の御文庫に隣接して建てる。新宮殿造営の付帯工事という位置づけ
宮殿造営の途中で東宮御所新築の話が割って入る。東宮参与小山内(=小泉)の意向で明るくオープンな公式空間を作るようになる。設計は幼稚舎と同じ桝井清隆(=谷口吉郎)
山口の北軽の別荘を設計する際、村井も同じ学者村に土地を購入、夏の仕事場とする
小児科医の妻の反対は目に見えていたが強行、2人の溝は深まる
学者村の夏のパーティで、村井は山口から小山内を紹介される
皇太子のお妃選びが進む。中心はご教育掛の小山内と西尾(=入江相政?)
新東宮御所は、杉浦の私案を参考に桝井がまとめ、工事は7社の指名入札にかける
1958年、東宮御所の基本設計完了。壁画作成の候補に小山内の推薦で山口の名が挙がる
着工準備に入った矢先に妃殿下の決定発表。競争入札は間組が1万円で入札するが、結局は7社の共同企業体に随意契約で決着
山口に東宮御所大食堂の壁画(2mx22.5m)の依頼
安保デモの最中に皇居新宮殿の第1回専門家会議開催(司会は宮内庁経済主幹の牧野)、建築家の1人として村井が出席
村井は杉浦の宮内庁試案の説明を聞いて、「国民に対して開かれていない。行事のときだけ二重橋を渡って特別に入場を許されるしかない。宮殿前にも何万人も集まることができる様な広場がない。根本的なところで明治宮殿とどこが違うのか。90億もの国費をかける以上、新宮殿はまず、国民の視界の中に入ってくるように建てられるべき」と意見を言うと、船山(=丹下健三?)も同調
チーフアーキテクトに藝大助教授だった村井が指名されたが、新宮殿と皇居前広場を繋げる村井案は棚上げに
随所に「予(=入江相政?)」の語りが出てくる
1960年、村井は宮殿造営に関する設計の委嘱。個人への委嘱で、事務方は設計期間も工事期間も宮内庁が一貫して行う。首席顧問に谷垣(=内田祥三?)、他に構造と建築史の顧問
1回目の会議で、宮殿前の広場を広くすることが話題となり、村井がヨーロッパの王宮視察で目したメインストリートの先に見られる開かれた王宮の発想から考えた新宮殿と皇居前広場に橋をかけ、参賀者が宮殿を見ながら進むという提案をしたのに対し、皇居が江戸城址の文化財指定指定を受けることになり、濠と石垣の変更ができなくなったとの理由で却下、村井の「見えない宮殿」という専門家会議での指摘への解決案は行き止まりに
吹上御所の工事から開始。御文庫はそのまま残し、吹上御苑も手を入れないまま放置
杉浦の隣にはいつも牧野(=高尾亮一)が皇居造営主管としているようになる。常にどこか違和感を残す言動で、慇懃無礼、面従腹背そのもの。高下駄的な自意識の持主
村井の起用は、宮内省内匠寮が皇室経済縮小のために解体されたことの必然の成り行きで、それは同時に宮内庁が外部に晒されること、皇居の中に外部の目が入ることでもある
藤沢衣子は、内匠寮の建築家(=高橋貞太郎 or 権藤 要吉?住友本社から内匠寮へ 朝香宮邸の設計者)と結婚、ニューヨークの現場に帯同してフローラル・アート・スクールに学び、1人で花を生涯の仕事にすると決めて帰国、東京・軽井沢の他に追分の浅間山麓の粒良野(=?)に1万坪の土地を手に入れ洋花の農場を開き、ジャーマンアイリスを育てて成功。村井に小屋の設計を頼み、恋人関係に。農園の近くには浅間の噴火鎮火のための用明天皇の勅願寺(=真楽寺)がある。ドイツ滞在当時、ヒトラーとも握手した経験あり
中央公論襲撃事件
結婚後の東宮妃の塞ぎ込みを慰めるために衣子が呼び出される
設計上問題になったのが屋根の構造と材質。紫宸殿は上半分が急傾斜の切妻、下半分が緩い傾斜の寄棟の錣葺(しころぶき)だが、江戸時代のものなので、寝殿造様式の室内とはやや趣が異なる。新宮殿は、檜皮葺では火災の危険が、瓦葺では重量がネックとあって、銅板葺の緩い傾斜とするが、現代建築で銅が大量に使われることはなく、特別仕様を考える
下巻表紙袖裏
浅間山の麓にある「夏の家」で、村井は所員とともに「新宮殿」の設計を進めてゆく。村井の恋人、園芸家の藤沢衣子は、皇太子ご成婚の立役者である東宮参与・小山内に依頼され、美智子妃の庭園の御用掛、相談役を務めるようになる。緑青が美しい銅板葺の緩やかな屋根、玄関ホール天上の柔らかなダウンライト、夥しい数の障子が醸し出す静謐さ、人の目に触れ、手に触れる、建具や手すりなど木工造作のディテール・・・・。村井が描く「新宮殿」の姿が次第に明らかになるにつれ、天皇の侍従・西尾が案じていた通り、宮内庁の牧野が分を超えた采配を振り始める。――関東大震災から戦中・戦後、高度成長期まで、激変する日本社会を背景に、理想の建築を巡る息詰まる人間ドラマを描き尽くす大河小説
下巻帯
1968年、見えない中心が完成する
東京オリンピックによる未曾有の建設ラッシュのなか、皇室の伝統と民主社会の節点を探りながら「新宮殿」の設計は佳境を迎えようとしている。建築家・村井俊輔を支える者、反目する者、立ちはだかる壁・・・。理想の建築を巡る息詰まる人間ドラマを描き尽くす大長編
西尾は、小山内の強い勧めもあって、侍従として原稿を書くようになる。お上のお許しも得て、国民との距離が少しでも近くなるようにとの狙い
建築にオリジナリティを求める所員に対し、村井は突発的なものより、持続的なものに美しさはあると説き、新宮殿は人間の精神が生かされた芸術的な建築になり得ると考えた。そのために合理的で機能的でもあるものとして設計する
牧野は、佐渡中、一高文甲、東京帝大法卒で内務省に入り、'35年宮内省に出向、岳父は佐渡の鋳金家(=彫金家人間国宝の佐々木象堂)。敗戦で宮内省は旧体制が一掃、皇室典範改正調査委員として草案作成を実質的に仕切る
東宮妃の不調が続き、皇后の還暦お祝いにも欠席。直後に第2子懐妊
月刊『平凡』連載中の小説『美智子さま』が、「世間に誤った印象を与え好ましくない」として宮内庁から平凡出版に申し入れ、連載中止に。内部の情報提供者の詮索もなし
西尾は、侍従次長から、皇太子妃が西尾の書いたものを恨んでいるので、当分は内廷については書かない方がいい、と言われ愕然。皇太子妃が直接真意を伝えようと西尾を呼ぶ。真意は「両陛下には西尾がいて言葉によって守られている。羨ましい」といったのに曲解された。「皇室がこんなに冷たい所とは思いませんでした」とのお言葉がある。西尾には、皇太子妃の意志の強さと、怒りに左右されない知性がはっきりと感じられた。御歌は突出
紫宸殿は御簾や蔀戸(しとみど)を上げ下ろししていた寝殿造の様式だが、襖や障子を引いて開け閉めする書院造になったとき、円柱では建具の収まりが悪いところから角柱になった。ただ書院造でも茶室の床柱には室内に自然を呼び込むものとして円柱が使われる。村井は普段の住宅建設でも円柱は使わない。新宮殿の柱で一番の難所は、柱と柱の標準となる間隔(スパン)と、柱の太さを決めること。特に大広間棟の柱。屋根と柱は新宮殿の顔ともいえる印象を決めるもの。大広間棟の全長は160m。開口はその1/4ほどだが、1回の入場で2万人を収容できる横長の広場といわば互角に向かい合うため、大広間の両端には南北の車寄せを用意、さらに控えの間の「休所」も両側に作る
スパンは7.8mと決まり、大広間棟の前面には16本の柱が立つ。通常の鉄骨鉄筋コンクリート造りでは柱の太さは1.3mが必要となり、屋根の平明な優雅さに対し、柱の存在感が強くなり過ぎ、鈍重な印象を与えるので、斜角度を3/10に抑えた屋根にも重たい印象が生まれかねず、柱の太さを1m未満にするため鉄骨の量を増やす
施主を代表する立場に過ぎなかった宮内庁が、共同企業体の選定から共同企業体との随意契約、さらには工事全般の監理まで担うことになる。総責任者は牧野
牧野は独断で物事を進め始める。新宮殿の障壁画を山口画伯に依頼したのも独断。村井すら知らず。自らを「新宮殿造営のプロデューサー」と名乗り始める。新宮殿の造営は、家具調度も含めて全体が大事だというのが村井の考えだが、牧野は実施設計から施工までを見守ってもらうつもりだが、中をどう使うか、外構をどうするかまでは建築家の範疇ではないという
新宮殿の委嘱を受けて以降、規模の大きな建築の依頼が入るようになったが、いずれも新宮殿の建築家の名で箔をつけるのが主眼と分かりやんわりと断る
新宮殿の基本設計を終えて、改めて考えたのは、建築の基本は住宅にこそある、ということ。家族ごとに考えるべき課題があり、ふさわしい形がある。いろいろな制約に縛られ、濁った水の中を泳ぐような感覚で図面を引くことの方が多いが、その濁りの中に、建築の新たな価値を見出すきっかけも潜んでいる。住宅の仕事の喜びは、複雑な屈折の向こう側に現れる
各階を基本的に同じ構造で繰り返すのは工業製品の姿であり、建築と呼ぶのを躊躇わせる
マンハッタンが墓標の並ぶ街に見えないのは、連続するビルの中に人の住むアパートが含まれているからだろう
牧野が彫金家の義父の評伝を私家版で出す
牧野は、新宮殿に使用される木材をすべて国内産で賄うことに拘り、基本設計完了後の全体会議でも啖呵を切ったが、開発に伴う乱伐により、国内の優良な森林が予想以上に失われていることが判明
牧野は、村井の建築は機能的・合理的でモダンだが、ハレの空間であるべき宮殿に必要とされる華がないと批判。顧問設計者会議の森戸も、宮殿の顔に重厚感が不足していると注文を付ける。特に大広間棟の前面がガラス張りになっていることに疑義を持ったが、戦後の天皇の象徴的存在と開かれた皇室という趣旨に沿ったものとして押し切る
5社による共同企業体の設立が決まる。牧野は、宮内庁と戦前から繋がりのある大林・清水に非公式に声を掛け、'64年起工、'67年竣工の工程表作成を依頼
衣子の浅間のラピラス園芸に、皇居の養蚕所の規模の1/4の養蚕所を建てる
牧野は、明治宮殿の天使南面の設計思想は不要といい、それもあって天使東面の基本設計が実現したのに、今頃になって正殿の鴟尾の話を持ち出し、鴟尾は重厚過ぎるが、軽快で優雅な瑞鳥はどうかと言い、写真を見るとなんと義父の作品
鴟尾(しび)とは、寺院や宮殿などの屋根の大棟(おおむね)の両端に付けられる装飾瓦
吹上御所で両陛下のご成婚40年を奉祝して、侍従、女官、侍医らが集まる親密な会。ご夕餐のお相伴。お上の大好物の宮川の鰻と、デザートは皇后さまご贔屓の千疋屋のフルーツジェリー。その4日後、正仁親王と津軽華子さんのご結婚について津軽家が内諾。皇后さまは勿論のこと、常磐会の人々も大いに納得。皇太子殿下のご婚約時とはえらい違い
戦後、宮内省内の組織の統廃合と大幅な人員削減が進められ、内匠寮は廃止となり、宮内府の嘱託となった竹内が、京都御所の実測が新宮殿の造営にも資すると考え、詳細を極めた図面を完成させた。自分が長らく生きるのは難しいと知りながら、誰かに手渡し、後を託す気持ちで取り組んだ、いわば遺言のような仕事。村井はそれを元に京都御所に出向き、紫宸殿、清涼殿などを見て新宮殿の設計に取り組んでいる
牧野は、骨格や箱は村井に作ってもらったが、新宮殿の品格を決める総仕上げとしての実施設計は宮内庁がやるべきとの自論で、家具や調度、照明、宮殿内をどんな美術品で飾るのか等々、考える主体は建築家ではないと言い、椅子はすでに黒澤監督の椅子を作った木工家に、玄関ホールのシャンデリアは女性ガラス工芸家に、絨毯は障壁画を依頼した山口に比肩する画家に意匠を依頼しているという。照明計画の変更には村井が激高
村井にとって、明かり障子の意匠や床板の貼り方、絨毯の意匠は建築的には同じこと。新宮殿の全体として美術品の扱いをどうするかについてもアイディアがあった。一口に壁と言っても、それぞれの空間における壁の意味合いは一通りではない。空間と絵の相性は、実はかなり難しい問題で、適した場所に飾られないと絵も生きないし空間が台無しになる
2年ほど前のこと、村井は山口と銀座の画廊で落ち合い、オリンピックのポスターを手掛けた熊井に紹介される。視覚芸術への好意もあって、村井はすぐに熊井に心を開く
牧野からは、妥協案的に、正殿の壁画の提案の要請が来る。もともとなしでもいいと言っていた場所で、村井は熊井に相談し、グラフィック的なデザインを思いつき牧野の了解を取る
追分辺りから国道18号線と分岐し、小諸、上田方面に向かうバイパスが作られるという噂が広がる。ほとんど畑と林しかない土地に、国道並みの道を整備する必要があるのか
建設省の技官が、建物の接続部に、橋脚や高速道路の耐震に用いられるエクスパンション・ジョイントの採用を提案し牧野が採択、村井は過度な追加工事だとしたが、デザイン自体は変えないことを条件にしぶしぶ受け入れるも、すぐにデザイン変更が露見
予の回想:美智子妃がまたお痩せになったようだ。妃殿下の個人的なご相談役を引き合わせる予定があるらしい、候補は精神医学とフランス文学が専門の女性(神谷美恵子、前田多門の娘)。妃殿下にとって文学とはカンテラのようなもの、命綱の1つ。今の東宮職に文学の素養のあるものなどいないのが悩みの種。そんなことを言ったら一番に顔を顰めるのは予の学習院時代の万葉集仲間だった東宮侍従長の佐原(=山田康彦)
佐原によれば、東宮御所内での妃殿下の孤立は、いつまでも実家の母親と頻繁に手紙のやりとりをしていることが、周囲には嫁いできた嫁としての意識が低いとの評価になっていることに起因しているという
村井が宮内庁長官宛に7項目の質問状を出し、NHKが動き出す。質問状は、造営部による無断の設計変更を取り上げ、最終責任者が設計者であることの再確認を要請する内容
衣子を介して小山内参与の耳にも入れたが、小山内は吉田総理や前長官には伝えるが、美意識と予算の鬩ぎ合いみたいなもので議論はかみ合わず解決は難題であるという
長官の意向は、造営部のやり方を詫びつつ、村井の希望には沿い兼ねるというもの
予は質問書を見て、怖れていたことが起きたと直感したが、牧野を交代させるにも杉浦は時期尚早とあって外に適任者がいない
「勲3等旭日中綬章 御担当各位」という宛名で妙な手紙が舞い込む。焼夷弾の開発に関わったレーモンドへの叙勲に抗議する内容
小山内から衣子を通じて長官の意向が村井に伝えられ、現状が変わらないことを悟った村井は仕事から手を引くことを決意。同時に質問書を公開
熊井も監修者のいなくなった壁画の作成を辞退
コンクリートの基礎に天皇制反対の落書きが出現
村井の辞任で宙に浮いたのが家具調度品の意匠設計。牧野が自ら乗り出す
杉浦には、文部省と協働での桂離宮の修理担当の下命
村井の辞任以降、工事は如何ともしがたく遅れていたが、’69年の新年一般参賀を新宮殿で行うことが決まる。危惧していた大きな問題は起こらず、大幅な設計変更もなし
‘66年、「瑞鳥祓除(ばつじょ)の儀」挙行。牧野の義父の作品を正殿の棟飾りとして作り直し設置するに際し、穢れを祓う儀式
'68年11月、宮殿落成式
'69年1月、一般参賀。新宮殿が初めて国民の目に触れる。パチンコ騒ぎと発煙筒事件が起こり、4月の天皇誕生日の一般参賀では胸の高さまでの厚さ10㎜の強化ガラスがはめ込まれ、翌年の新年参賀では皇族方がお出ましになる辺り全体を覆う「風防室」という名の追加工事がなされ、高さ2.56m、横幅9.85m、奥行き1.3mという大層なものが長和殿の中央に出来上がる。予は断然反対、おためごかしに過ぎない「たんこぶ」と呼ぶ
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空襲で焼け落ちた明治宮殿に代わる、戦後日本、象徴天皇にふさわしい「新宮殿」を──。
敗戦から15年、皇居「新宮殿」造営という世紀の難事業に挑む建築家・村井俊輔。彼を支える者、反目する者、立ちはだかる壁……。戦前から戦中、戦後、高度成長期の日本社会と皇室の変遷を辿り、理想の建築をめぐる息詰まる人間ドラマを描き尽くす、かつてない密度とスケールの大長篇。『火山のふもとで』前日譚ついに刊行!
書評
小説のなかに建った新宮殿
六十年ほど前、皇居内で着工した七棟からなる新宮殿。その造営をめぐる長大なこの群像劇の、どこまでを実際の出来事ととらえるか。判断は難しい。それだけに面白く、奥深い。
昭和天皇と皇后、ご成婚まもない皇太子夫妻、吉田茂元首相らは実名で登場し、竣工までの日付も史実そのまま。何より、作中で子細に意図を解説されてゆく宮殿が記述通りの平らかな姿で、千代田の濠と杜に囲まれて今もある。だが、主要な登場人物は実名を外され、実録小説と呼ぶのが憚られるのは、そこが虚構と断ることによってのみ、実相に迫ることが可能になる聖域だからだ。エピグラフには十八世紀英国の詩人A・ポープに拠る表題の意がある。どんな神聖な場所でも愚かな者たちを締め出すことはできない、天使が畏れて踏まないところでも、愚かな者たちは踏みこんでくる……。
愚かな者というなら、それはすべての人間を指すだろうが、本作では明らかに優秀過ぎる人物がいる。宮内庁の造営責任者、牧野脩一は敗戦後、皇室典範改正にかかわり、六千人いた職員を一時は千人以下に縮小するなど、天皇制の生き残りをかけて改革に辣腕を揮ったエリート官僚。神仏への関心は乏しいが、苦学する中で却って芸術への関心を、異様に研ぎ澄ませてきたような人物である。牧野の采配は大筋において正道と認められるものの、思いがけぬ局面で分を踏み外すほどの我欲を滑りこませる。その牧野が新宮殿の基本設計者として大抜擢したのが、日本の伝統様式とモダニズムを高度に融合させる俊英、東京芸大助教授の村井俊輔という最善の選択だったのだから、話は複雑である。そして村井俊輔こそ本作の中心人物であり、皇室の儀式から海外の賓客をもてなす広間まで擁する、二万三千平米もの延床面積を預かる村井の技量に、「国民の象徴」たる新たな天皇制のかたちも託されることになる。
村井と牧野の間に立って宮殿建設の進行を担うのが、天皇皇后の住まいである吹上御所の設計者となる建設技官の杉浦恭彦。ヨーロッパへ視察に出た杉浦は、オスロ王宮やストックホルムの市庁舎や図書館を見るうちに、機能だけなら五十年と持たなくとも、芸術であれば百年、二百年残っていくという、前任の尊敬する建築家の教えを実感する。杉浦が古巣、建設省の同期と交わす会話には、オリンピック前に慌ただしく進む首都の高速道路や東海道新幹線、本州四国連絡橋におよぶ国土開発計画が挙がり、高度成長期1960年代の昂揚した世相も呼びこまれる。
大戦中に焼失した明治宮殿の跡地に、九十億円もの国費を投じて新宮殿を建てる――それが宮内庁のオモテにおける大事業だとすれば、対を成すように天皇家を取り巻くオクと呼ばれる者たちも、次代にかかわる重大事を抱えていた。初の民間出身の皇太子妃は、こちらも最善の選択が叶ってご成婚と相成り、その絶大な人気が宮殿建設の機運を後押ししていた。にも関わらず、当の妃の憔悴は楽観できぬほどだった。旧弊で陰湿な者たちの所業に気を揉みながら、「開かれた皇室」をめざして新聞、雑誌に達意の文章を寄せるのが侍従の西尾であり、冷泉家の流れをくむ彼は父の代から天皇の側近を務める。この西尾も時によっては独断で、聖域まで踏み入る覚悟なくしては成せない立場にあった。
村井、杉浦、西尾、加えて藤沢衣子という園芸家――彼女は村井と皇太子妃、二人を私的に力づける数奇な役割を果たすことになるのだが、この四人の視点が入れ替わりながら、百二十五に上るシークエンスを積み重ねて本作は出来上がっていく。どの場面、どの人物の挙動も先のどこかへの布石、呼び水となっていて、物語が撓むことはない。
京都御所の〈簡素な寝殿造の味わいは、モダニズムにも通じる〉と直観した村井は、鉄筋コンクリートの陸屋根の上に威圧感のない穏やかな勾配の銅板屋根を架ける構想を固め、一般参賀のための広場を優先し、君主が北を背に政務するという古来の「天子南面」は継がない。〈オリジナリティなんていうものは、ないんだよ〉。村井は部下と自分に言い聞かせるように言う。〈百年後にもすばらしいと感じられる建築は、あたらしい顔をしているというより、どこかで見たことのあるものが少しずつ集積して、見事にそこに落ち着いている――そういうものじゃないか〉。
抑制の利いた彼の意匠同様、時折、自然光が差すようにふっと会話や思弁に村井という人物が現われる。人間の五感を通した経験はいつまでも記憶に残る、神は細部に宿るという信念をもって、照明や家具調度にまで神経を払おうとする村井の前に、しかし、いつのまにか予算も権限も掌中にした牧野が立ちはだかる。〈千年の伝統をどう継承してゆくか。一建築家の趣味や趣向に委ねるわけにはいかんのだ〉と。
審美と機能をめぐる専門的、局所的な心理戦が下巻では激しく続く。それは国家、官僚機構と個人の創造性の対立であり、国民の象徴とは、伝統とは何かという、同時代のうちには答えの出ない問いがつねにその奥にある。君主不在となったこの国で、それでもともかく戦後、あらたな施主となった国民を納得させる新宮殿を実現しなければならない。それぞれの人生を賭けた真っ直ぐな光のような志を束ねて、叡智をふり絞らなければならなかった。
昭和半ばを生きる彼らは、誰もが私生活を仕事のわずかな余白に追いやりながら、信じ難いほどの耐性を発揮し続ける。それは明治末生まれの村井らの世代がくぐり抜けてきた、関東大震災から太平洋戦争にかけての過酷さによって養われたものかもしれない。
戦争の記憶は経済の復興につれて薄れ、西尾は銀座のバーで憂さを晴らし、杉浦が黒澤明の映画や洋食を楽しむ和やかなひとときも挟まれる。北軽井沢の山荘でしばし憩う、村井と衣子の密やかな恋物語は、不義にしては爽やかな風のように本編を吹き抜け、住宅と人間の関係を考える上で、また、十三年前のこの作者のデビュー作『火山のふもとで』の前日譚としても、重要な読みどころとなっている。
現在、公式資料には宮殿の基本設計者として吉村順三の名が残る。作中の村井の仕事はこの名建築家と重なる部分が多く、吉村は造営半ばにして任を辞している。巻末の主要参考文献リストから、西尾は入江相政、皇太子夫妻を見守る小山内は小泉信三、村井の友人の画家は東山魁夷と推察されよう。そしてなぜ、この小説が書かれなければならなかったのか。志を残して退いた吉村と関係者の名誉回復が目指されたからではなかったかと、踏みこんでみたくもなるのだが……。
さらに作中で伝えられる昭和天皇の生物学研究への熱意、忘れ得ぬほど秀でた皇太子妃の御製を通じて、皇室で自然科学の研究と和歌がかくも深く営まれてきた、その背景にも思いを馳せた。二千二百枚の大長編を閉じる時、歴史に残る昭和の難事業を、しかと見届けた心地がした。
(おざき・まりこ 文芸評論家)
波 2025年4月号より
単行本刊行時掲載
インタビュー/対談/エッセイ
ささいな呟きの重み
刊行から十三年を経て文庫化されたデビュー作『火山のふもとで』(読売文学賞受賞作)が、改めて読者の注目を集めている松家仁之さん。同書の「前日譚」にもあたる大長篇、『天使も踏むを畏れるところ』(上・下)がいよいよ刊行になります。構想から約二十五年という、本書執筆の背景を伺いました。
もとはと言えば、『火山のふもとで』と『天使も踏むを畏れるところ』は、ひとつの物語だったんです。編集者として仕事をしていた二十五年ほど前に生まれた構想は、漠然としていましたし、着手する時間もありませんでした。それから約十年後に出版社を退職し、書き始めてみると、この話をひとつの物語で書くのは到底無理だとすぐにわかりました。1980年代前半の浅間山麓を舞台に、老建築家・村井俊輔の設計事務所に入所したばかりの青年を主人公とした『火山のふもとで』を、まずは書き上げることになりました。
――『天使も踏むを畏れるところ』は、気鋭の建築家である村井俊輔を中心に、皇居「新宮殿」造営という国家的プロジェクトが描かれてゆく、完全に独立した長篇になりました。
はい。執筆を開始するまで『火山のふもとで』から十年ほど間隔があいています。調べなければならないことがあり、調べればつぎつぎに発見があり、物語の雰囲気も書き方もだいぶ異なるものになったので、独立した長篇です。
天皇の容態が悪くなるにしたがって社会全体が自粛の空気に包まれていった昭和最後の日々を、ある世代以上ならよく覚えていると思います。その後、現在の上皇ご夫妻による平成の三十年間があり、さらに令和になって早くも七年が経っています。この間の変化はとても大きい。
初代宮内庁長官である田島道治の『昭和天皇拝謁記』の刊行があり、宮内庁のSNSの発信も始まって、宮殿内の映像の一部も公開され始めたこの時代だから、『天使……』を書くことができたのではないか、という感慨があります。
――なぜ皇居「新宮殿」の造営というテーマで小説を書こうと思われたのですか。
中学生の頃から建築には関心がありました。建築との出会いをさらにさかのぼれば、小学生のときいちばん好きだった場所が、校庭の隅に建っていた木造平屋の図書館だったんですね。なかにいると壁の三方がすべて書棚、本の匂いが漂っていて、大きなテーブルも椅子もすべて木製でした。あんなに居心地のいい場所はなかった。
建築家になりたいと思ったこともありますが、理数系の科目が苦手だったので、自分にはその資格がないと早々に諦めてしまいました。ただ、建築への関心は途切れずに続いて、本ばかりでなく建築雑誌のバックナンバーも飽きずに眺めているうちに、その建築作品にいちばん惹きつけられ、敬意を覚えたのが、吉村順三という建築家でした。
吉村順三さんには、編集者時代に一度だけ、篠山紀信さんのグラビア連載「日本人の仕事場」に登場していただいたことがありました(「小説新潮」1990年8月号)。想像していたとおり寡黙で、静かな威厳があり、それでいてなんとも好ましい、あたたかい人柄が伝わってきました。撮影後にうかがったお話も忘れがたく、特別な記憶です。
吉村さんの代表作のひとつは、軽井沢にあるご自身の山荘だという評価が少なくないのですが、これは延床面積が八十七・七平米。いっぽう延床面積が二万三千平米、つまり山荘の二百六十倍以上もの大きさがある皇居「新宮殿」が、もうひとつの代表作だと私は考えています。吉村さんは新宮殿落成の三年前に、設計者を辞任しました。なぜ途中で辞めざるを得なかったのか――どういうことがあったのかを調べてゆくうちに、「新宮殿」の造営をめぐる物語をフィクションで書いてみたいと考えるようになりました。
――あくまでも小説として、フィクションとして書くということですね。
はい、そうです。皇居「新宮殿」の設計をめぐっては、宮内庁や共同企業体による詳細な造営記録が残されていますし、関連書籍がいくつも出ていますが、当時、この大プロジェクトに関わった人々が、それぞれの立場でなにを考え、なにを感じ、どのようにふるまったかは、よく見えてこない。これはフィクションでしか描くことはできないだろうと考えました。
社会的な背景や、新宮殿の進捗状況などはできるかぎり史実に即して書きましたが、建築家・村井俊輔は私が創造したフィクショナルな人物であり、吉村順三氏とはべつの存在です。その他、多くの登場人物も同様です。昭和天皇ご夫妻や美智子妃など、実名で登場する限られた人々も、描かれている言動はあくまでフィクションです。
――関東大震災から東京オリンピックまで、長い時間が描かれていますね。
戦前から戦後の高度成長期まで、日本社会がどのように変化していったか、歴史をさかのぼることなしには、「新宮殿」を描けないと考えました。敗戦の年の5月に、山の手空襲の飛び火で皇居内の明治宮殿が焼失し、消火にあたった消防隊員や職員が三十名ほど亡くなっています。その後は、あらゆる儀式が宮内庁庁舎内の仮施設で行われました。私自身、調べてみるまで、そのことさえ知りませんでした。
「新宮殿」の竣工は、戦後二十三年も経ってからのことですが、この造営計画になかなか賛成されなかったのが昭和天皇だったと言われています。国民の暮らしの復興の目処が立たないうちは、というこだわりがあったらしい。
その空気を変えたのが、日本経済の復興、なかでも東京オリンピックに向かう活況であり、さらに皇太子と美智子妃のご成婚だったのではと思うのです。ご成婚のテレビ中継で、国民の皇室への視線が格段に親しみのあるものに変わったのは事実でしょう。そうした好機が、長年の懸案だった新宮殿造営のプロジェクトの背中を押したのだと考えています。
――多くの人物が登場する群像劇でもありますね。
登場人物それぞれの人生――建築家の村井俊輔や、建設省から宮内庁に出向してきた建設技官の杉浦、宮内庁の造営部長に昇進していく牧野、村井の友人である画家の山口など、彼らがそれまでどのような環境で暮らしてきたのかまで、さかのぼって描きました。昭和天皇の侍従、西尾の言動も重要でした。「新宮殿」へのそれぞれ異なる思いを理解しなければ、この物語は成立しなかったでしょう。
村井俊輔の視点だけでは、「新宮殿」造営という大きな物語を立体的に描くことはできません。建築と同じように、窓もあれば、一階、二階もあり、外側から見るのと内側から見るのとの違いもあります。百年に一度あるかないかの国家的プロジェクトとはいえ、一人一人の立場を考えれば、ささいな呟きにも重みが出てくる。視点を増やさないと大事な部分が死角に隠されてしまうかもしれない。プロジェクトの推移を人物の視点を変えながら見ていくことで、できるだけすみずみまで描いてみたい――そう考えたんです。
――小説の冒頭は黒澤明の「生きる」から始まります。
宮殿とは関係なさそうですよね(笑)。この冒頭の章で、建設省の技官・杉浦は、宮内庁への出向を突然打診されます。彼は当初それを固辞する。しかし、「生きる」で志村喬が演じた主人公が、途中から人が変わったように行動するのとどこか重なって、杉浦の姿勢も人生も変わっていきます。黒澤映画はほかにも「天国と地獄」が、そして侍従と親交のあった小津安二郎の「東京物語」や「秋刀魚の味」も登場します。あの時代の日本人の佇まいを彷彿とさせる映像に助けてもらいました。
――たくさんの「寄り道」の面白さがまたこたえられません。
上巻がまどろっこしい螺旋階段の上りだとすれば、下巻は直線的な下り階段かもしれません。一段ずつおつきあいくだされば、これほどありがたいことはないですね。
(2025年3月5日、東京神楽坂)
(まついえ・まさし)
波 2025年4月号より
単行本刊行時掲載
皇居宮殿をつくる、直面する畏れ 松家仁之さん、新刊「天使も踏むを畏れるところ」
2025年4月16日 朝日新聞
もともとは新潮社の編集者だった松家仁之さんが2012年に発表した「火山のふもとで」は、いきなり読売文学賞を受賞する鮮烈なデビュー作だった。でも新刊の「天使も踏むを畏(おそ)れるところ」(新潮社)を読むと、よくわかる。最初の作品は、松家さんが描きたかった大きな物語の、ごく一部分にすぎなかったのだと。
デビュー作は、「先生」と呼ばれる老建築家のもとで建築を学ぶ青年の物語だった。新作の舞台は、1960年代へとさかのぼる。
主役は村井俊輔という気鋭の建築家。空襲で焼け落ちた皇居の宮殿を、新たに設計しなおす仕事を宮内庁から依頼される。
「火山のふもとで」を読んだ人は、語り手の青年が「村井設計事務所」で建築を学んでいたことを思い出すかもしれない。ふたつの小説には多くの共通する人物が登場し、刊行順とは逆になるけれど、物語の流れがきれいにつながっている。デビュー作を読んでいない人は、新作から読み始めてもよさそうだ。
「『火山のふもとで』を書き始めたら、新宮殿の話は一緒には書けないなと思ったんです。若い建築家が老大家のもとで学ぶ話だけで、もう書くことがたくさんあって」と松家さんは振り返る。
「それともうひとつ、新宮殿についてはさまざまな史料に基づいて書かなければいけない。『火山のふもとで』とはだいぶ違う書き方をする必要があった」
「天使も踏むを畏れるところ」は、建築家の吉村順三(1908~97)が皇居新宮殿の設計にかかわった史実に沿って物語が展開する。
「膨大な史料からわかるいろいろな情報から物語が生まれ、史料にはない余白の部分を使ってフィクションをさらに広げる、という感じでしょうか。だから村井は吉村順三をモデルにしてはいますけど、あくまでもフィクションはフィクションなんです」
敗戦で天皇が「象徴」となったことを、戸惑いながらも国民が受け入れようとしていた時代。新しい宮殿は「畏れつつ見上げるのではなく、気安い笑顔で集まる場所にならなければ」と村井は考えるが、その思いは、見えない何かにことごとくはね返される。
村井の前に立ちふさがったものは、いったい何だったのか。そのヒントは、「畏れつつ見上げるのではなく」の「畏」という文字にある。
「天使も踏むを畏れるところ」という少しいかめしい書名には、元ネタがある。20世紀英国の作家E・M・フォースターの小説「天使も踏むを恐れるところ」。詩人アレキサンダー・ポープの「愚か者は、天使も足を踏み入れるのをためらう場所に突進する」という警句に由来するタイトルだというが、注目したいのは、松家さんが「恐」ではなく「畏」という字を使ったことだ。
長く「畏れおおい」存在だった天皇や皇室が、国民にひらかれた存在に転じることの難しさ。戦後日本に突然降ってきた民主主義という考え方を、社会が受け入れていくことの難しさ。気鋭の建築家が直面したのは、時代の転換期のそうした困難だったのではないか。
そんなことを考えていたら、松家さんがふと、この「天使」は「天子」でもあるんですよね、と言った。
「周囲だけでなく、天皇自身も天皇という存在のありようを畏れていたかもしれないなって」
物語の舞台となった60年代から半世紀以上。社会はどれだけ変わり、どれだけ変わっていないのか。緊迫の人間ドラマのあとに、時代を超えた問いが残る。(編集委員・柏崎歓)
大林組80年史
第三章 新宮殿造営
第一節 着工までの経過
皇居造営審議会を設けて諮問
昭和二十年五月二十五日、大空襲によって皇居も被災し、明治二十一年(一八八八)に造営された宮殿は焼失した。以後、天皇陛下は、吹上御苑内の御文庫を仮りの御住居とされ、御公務は宮内庁庁舎でおとりになった。その後昭和二十八年三月、宮内庁庁舎三階事務室を改修して仮宮殿とされ、御住居には依然として御文庫を御使用になられた。しかし仮宮殿は手狭まであり、御文庫も昭和十六年(一九四一)防空施設として大林組が施工したもので、建物の性質上日常の御生活には適さなかった。そこで新宮殿の造営をのぞむ声が国民からおこり、政府もまたこれを意図したが、陛下御自身は国家財政の負担と国民の耐乏生活を配慮されて容易におゆるしにならなかったといわれる。
しかし国力の回復にともない、また外国貴賓の御接見等国家的行事が増加するにつれ、その必要はいよいよ痛感されたので、宮内庁当局は内々造営の準備に着手し、昭和三十三年(一九五八)三月にはほぼ基本構想をまとめた。
昭和三十四年(一九五九)四月、政府は皇居造営審議会を設け、各界の学識経験者に諮問した結果、翌三十五年一月、その答申にもとづいて皇居造営を閣議決定した。このとき両陛下の御生活を公私に分離する方針がとられ、日常の御住居として吹上御所を造営することとなり、昭和三十六年(一九六一)十一月落成したことは、第三編でのべたとおりである。同三十七年、東京芸術大学教授吉村順三氏が基本設計に着手し、同三十八年三月には宮内庁臨時皇居造営部の実施設計にうつされ、作業が進められた。
施工間においては昭和三十七年秋、宮内庁の指示により、まず大林組と清水建設が協力して施工計画を開始し、同三十八年には基本設計にもとづく各種試作工事が行なわれた。そしていよいよ昭和三十九年(一九六四)着工と決定すると、年初から大林組、鹿島建設、清水建設、大成建設、竹中工務店の五社の技術者が宮内庁に出向き、本格的に施工計画を進行させることとなった。
昭和三十九年六月十五日、以上五社の社長は宮内庁に出頭し、宇佐美同庁長官から五社共同企業体による宮殿造営を正式に下命された。工事の責任区分は下のごとくである。(括弧内は完成後の名称)
- 大林組 表御座所、同付属棟(表御座所北棟〔一部渡り廊下を含む〕)、小食堂(連翠)
- 鹿島建設 大食堂(豊明殿)、設備センター(設備管制所)
- 清水建設 大広間(長和殿)
- 大成建設 ギャラリー(回廊)、第三、第四休所(千草の間、千鳥の間)、地下駐車場
- 竹中工務店 正殿〔一部渡り廊下を含む〕
共同企業体の組織と運営
共同企業体の意思決定機関としては、構成各社の担当重役による運営委員会があり、その直属の諮問機関として技術研究協議会と本部安全協議会を設け、実施機関としては五社の職員によって組織される工事事務所をおいた。工事事務所は所長および企画、施工、設備、設計をそれぞれに担当する各副所長、事務長ならびに事務次長以下によって構成された。所長は工事期間中交替しないこととして、大林組取締役府川光之助が就任し、事務長は運営委員会事務長の兼任とし、これは年度ごとに交替する代表会社から選任された。運営委員会は、宮殿造営工事共同企業体協定書および同細則にのっとって運営され、昭和三十九年六月を最初として、同四十三年十月にいたるまで、四〇回にわたって開催された。
- 造営顧問 内田祥三、関野克、吉田五十八、久田俊彦、平賀謙一、平山謙三郎
- 株式会社大林組社長 大林芳郎、鹿島建設株式会社社長 渥美健夫、清水建設株式会社副社長 野地紀一、大成建設株式会社社長 本間嘉平、株式会社竹中工務店社長 竹中錬一
- 宮殿造営工事共同企業体工事事務所長 府川光之助
新潮社 ホームページ
ささいな呟きの重み
刊行から十三年を経て文庫化されたデビュー作『火山のふもとで』(読売文学賞受賞作)が、改めて読者の注目を集めている松家仁之さん。同書の「前日譚」にもあたる大長篇、『天使も踏むを畏れるところ』(上・下)がいよいよ刊行になります。構想から約二十五年という、本書執筆の背景を伺いました。
もとはと言えば、『火山のふもとで』と『天使も踏むを畏れるところ』は、ひとつの物語だったんです。編集者として仕事をしていた二十五年ほど前に生まれた構想は、漠然としていましたし、着手する時間もありませんでした。それから約十年後に出版社を退職し、書き始めてみると、この話をひとつの物語で書くのは到底無理だとすぐにわかりました。1980年代前半の浅間山麓を舞台に、老建築家・村井俊輔の設計事務所に入所したばかりの青年を主人公とした『火山のふもとで』を、まずは書き上げることになりました。
――『天使も踏むを畏れるところ』は、気鋭の建築家である村井俊輔を中心に、皇居「新宮殿」造営という国家的プロジェクトが描かれてゆく、完全に独立した長篇になりました。
はい。執筆を開始するまで『火山のふもとで』から十年ほど間隔があいています。調べなければならないことがあり、調べればつぎつぎに発見があり、物語の雰囲気も書き方もだいぶ異なるものになったので、独立した長篇です。
天皇の容態が悪くなるにしたがって社会全体が自粛の空気に包まれていった昭和最後の日々を、ある世代以上ならよく覚えていると思います。その後、現在の上皇ご夫妻による平成の三十年間があり、さらに令和になって早くも七年が経っています。この間の変化はとても大きい。
初代宮内庁長官である田島道治の『昭和天皇拝謁記』の刊行があり、宮内庁のSNSの発信も始まって、宮殿内の映像の一部も公開され始めたこの時代だから、『天使……』を書くことができたのではないか、という感慨があります。
――なぜ皇居「新宮殿」の造営というテーマで小説を書こうと思われたのですか。
中学生の頃から建築には関心がありました。建築との出会いをさらにさかのぼれば、小学生のときいちばん好きだった場所が、校庭の隅に建っていた木造平屋の図書館だったんですね。なかにいると壁の三方がすべて書棚、本の匂いが漂っていて、大きなテーブルも椅子もすべて木製でした。あんなに居心地のいい場所はなかった。
建築家になりたいと思ったこともありますが、理数系の科目が苦手だったので、自分にはその資格がないと早々に諦めてしまいました。ただ、建築への関心は途切れずに続いて、本ばかりでなく建築雑誌のバックナンバーも飽きずに眺めているうちに、その建築作品にいちばん惹きつけられ、敬意を覚えたのが、吉村順三という建築家でした。
吉村順三さんには、編集者時代に一度だけ、篠山紀信さんのグラビア連載「日本人の仕事場」に登場していただいたことがありました(「小説新潮」1990年8月号)。想像していたとおり寡黙で、静かな威厳があり、それでいてなんとも好ましい、あたたかい人柄が伝わってきました。撮影後にうかがったお話も忘れがたく、特別な記憶です。
吉村さんの代表作のひとつは、軽井沢にあるご自身の山荘だという評価が少なくないのですが、これは延床面積が八十七・七平米。いっぽう延床面積が二万三千平米、つまり山荘の二百六十倍以上もの大きさがある皇居「新宮殿」が、もうひとつの代表作だと私は考えています。吉村さんは新宮殿落成の三年前に、設計者を辞任しました。なぜ途中で辞めざるを得なかったのか――どういうことがあったのかを調べてゆくうちに、「新宮殿」の造営をめぐる物語をフィクションで書いてみたいと考えるようになりました。
――あくまでも小説として、フィクションとして書くということですね。
はい、そうです。皇居「新宮殿」の設計をめぐっては、宮内庁や共同企業体による詳細な造営記録が残されていますし、関連書籍がいくつも出ていますが、当時、この大プロジェクトに関わった人々が、それぞれの立場でなにを考え、なにを感じ、どのようにふるまったかは、よく見えてこない。これはフィクションでしか描くことはできないだろうと考えました。
社会的な背景や、新宮殿の進捗状況などはできるかぎり史実に即して書きましたが、建築家・村井俊輔は私が創造したフィクショナルな人物であり、吉村順三氏とはべつの存在です。その他、多くの登場人物も同様です。昭和天皇ご夫妻や美智子妃など、実名で登場する限られた人々も、描かれている言動はあくまでフィクションです。
――関東大震災から東京オリンピックまで、長い時間が描かれていますね。
戦前から戦後の高度成長期まで、日本社会がどのように変化していったか、歴史をさかのぼることなしには、「新宮殿」を描けないと考えました。敗戦の年の5月に、山の手空襲の飛び火で皇居内の明治宮殿が焼失し、消火にあたった消防隊員や職員が三十名ほど亡くなっています。その後は、あらゆる儀式が宮内庁庁舎内の仮施設で行われました。私自身、調べてみるまで、そのことさえ知りませんでした。
「新宮殿」の竣工は、戦後二十三年も経ってからのことですが、この造営計画になかなか賛成されなかったのが昭和天皇だったと言われています。国民の暮らしの復興の目処が立たないうちは、というこだわりがあったらしい。
その空気を変えたのが、日本経済の復興、なかでも東京オリンピックに向かう活況であり、さらに皇太子と美智子妃のご成婚だったのではと思うのです。ご成婚のテレビ中継で、国民の皇室への視線が格段に親しみのあるものに変わったのは事実でしょう。そうした好機が、長年の懸案だった新宮殿造営のプロジェクトの背中を押したのだと考えています。
――多くの人物が登場する群像劇でもありますね。
登場人物それぞれの人生――建築家の村井俊輔や、建設省から宮内庁に出向してきた建設技官の杉浦、宮内庁の造営部長に昇進していく牧野、村井の友人である画家の山口など、彼らがそれまでどのような環境で暮らしてきたのかまで、さかのぼって描きました。昭和天皇の侍従、西尾の言動も重要でした。「新宮殿」へのそれぞれ異なる思いを理解しなければ、この物語は成立しなかったでしょう。
村井俊輔の視点だけでは、「新宮殿」造営という大きな物語を立体的に描くことはできません。建築と同じように、窓もあれば、一階、二階もあり、外側から見るのと内側から見るのとの違いもあります。百年に一度あるかないかの国家的プロジェクトとはいえ、一人一人の立場を考えれば、ささいな呟きにも重みが出てくる。視点を増やさないと大事な部分が死角に隠されてしまうかもしれない。プロジェクトの推移を人物の視点を変えながら見ていくことで、できるだけすみずみまで描いてみたい――そう考えたんです。
――小説の冒頭は黒澤明の「生きる」から始まります。
宮殿とは関係なさそうですよね(笑)。この冒頭の章で、建設省の技官・杉浦は、宮内庁への出向を突然打診されます。彼は当初それを固辞する。しかし、「生きる」で志村喬が演じた主人公が、途中から人が変わったように行動するのとどこか重なって、杉浦の姿勢も人生も変わっていきます。黒澤映画はほかにも「天国と地獄」が、そして侍従と親交のあった小津安二郎の「東京物語」や「秋刀魚の味」も登場します。あの時代の日本人の佇まいを彷彿とさせる映像に助けてもらいました。
――たくさんの「寄り道」の面白さがまたこたえられません。
上巻がまどろっこしい螺旋階段の上りだとすれば、下巻は直線的な下り階段かもしれません。一段ずつおつきあいくだされば、これほどありがたいことはないですね。
(2025年3月5日、東京神楽坂)
(まついえ・まさし)
波 2025年4月号より
単行本刊行時掲載
担当編集者のひとこと
終戦間近、皇居の宮殿が空襲で焼失していたことをご存知でしょうか。また正月の一般参賀でお馴染みの新宮殿の造営は昭和天皇の了解がなかなか得られず、敗戦から十五年後に始まり、設計者は宮内庁と対立して辞任したものの、当初の計画通りに彼の設計で完成していたことを。
松家仁之著『天使も踏むを畏れるところ』(上下巻)はこの史実を描いた長篇小説です。チーフアーキテクトを依嘱された建築家の村井、心ならずも宮内庁へ出向した建設技官の杉浦、造営責任者となる官僚の牧野ら関係者はどんな経験や考えの持ち主だったか。天皇の侍従や美智子妃のよき理解者となる女性園芸家らを通して皇室と皇居内の暮らしも克明に綴られ、世紀の一大プロジェクトの全体像を見事に捉えています。
長年、日本と海外の文芸、人文系の雑誌の編集に携わってきた松家さんは「小説家になりたかったのではない。この小説を書きたかった」と著者インタビューで答えています。「『戦争と平和』や『細雪』など長篇小説を読む歓びは、こういうものだった」と担当編集者が寝食を忘れて耽読した本書を読者の方々へ自信をもってお薦めします。(出版部・NT)
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