翆雨の人-猿橋勝子  伊予原新  2025.10.5.

 2025.10.5. 翆雨の人

 

著者 伊与原新 1972年、大阪生れ。神戸大学理学部卒業後、東京大学大学院理学系研究科で地球惑星科学を専攻し、博士課程修了。2010年、『お台場アイランドベイビー』で横溝正史ミステリ大賞を受賞。2019年、『月まで三キロ』で新田次郎文学賞、静岡書店大賞、未来屋小説大賞を受賞。2024年、『宙(そら)わたる教室』が第70回青少年読書感想文全国コンクール課題図書(高等学校の部)に選出、NHKでドラマ化され話題となる。2025年、『藍を継ぐ海』で第172回直木三十五賞を受賞。他の著書に『八月の銀の雪』『オオルリ流星群』『青ノ果テ 花巻農芸高校地学部の夏』『磁極反転の日』『ルカの方舟』『博物館のファントム 箕作博士の事件簿』『蝶が舞ったら、謎のち晴れ 気象予報士・蝶子の推理』『ブルーネス』『コンタミ 科学汚染』などがある。

 

発行日           2025.7.30. 発行

発行所           新潮社

 

初出 『波』20221月~234月号、6月~241月号

史実を基にしたフィクション

 

 

序章

第1章     翆雨の頃

第2章     霧氷の頃

第3章     飄風の頃

第4章     虹橋(こうきょう)の頃

 

序章

奈良岡は、小平霊園の猿橋のお墓参りに行く。紫陽花は自分と気が合う、雨が好きなのと言っていた勝子のために、普通はお墓には供えないが、あえて供える

勝子は、長く心臓を患っていたが、最後の数年は高齢者施設で平穏に過ごし、2007年没、享年87。生涯独身。面倒くさい人だった

 

第1章     翆雨の頃

16歳の勝子は、白金三光町の自宅から三田の第六高女まで30分かけて歩いて通う

三光町の北側は鉄工所や製版所、ネジ工場などが集まる下町で、南側には細い坂道が幾本も伸び、白金台へと続く明治からの邸宅街で、家族や実業家が立派な屋敷を構える

勝子の自宅は北側だが、南側の地元で雷神様と呼ばれる雷(いかづち)神社の参道の紫陽花がお気に入り。雨が好きで、雨の日は「雨とは何だろう。なぜ降るのだろう」と考え続けた

神応小学校に通った頃は身体も小さくひ弱だったが、第六高女の頃は室内プールで水泳が得意になり、スポーツ万能に。小学校時代担任だった3人の女性教師がいずれも子育てをしながら教壇に立つのを見て、自分も一生続けられる仕事を持ちたいと考えた

自分の得意分野である数学と物理で、医師になるのが夢。女子が医学を学べる専門学校は女子医専を含め3校のみ

憧れている女子医専創業者吉岡彌生(当時65)の半生記を読む。吉岡は医者だった父親に反対されながらも医師の道に進み、地位も資産もない一介の町医者だったのに自分の医院を教室にして東京女医学校を創める

横浜商高から東横電鉄の劇場部門に勤める9つ上の兄英一の手ほどきで英語にも励む

卒業後は親戚の紹介で生命保険会社に勤めながら、4年後に漸く女子医専受験が叶い、筆記試験を終えて面接に臨む。憧れの吉岡の面接を受けたが、「先生のような立派な女医になりたい」と言ったのに対し、「そうたやすくなれるものじゃない」と一笑に付されたことに失望。校門の出口で渡された「学生募集 帝国女子理学専門学校」のチラシに興味を持つ

聞いたこともない学校と思ったら、その4月に開校する予定

女子医専には合格したが、化学・生物より、数学・物理の好きな勝子は帝国理学専門学校に興味を持ち、梅屋敷の帝国女子医薬専に併設される新たな学校の1期生として入学

1942年、勝子は2年生になり、竹平町の中央気象台の三宅泰雄の下で実習開始。三宅は地球化学分野の先駆者。いきなり、大気の電場測定のための新しい放射性蒐電器の製作の話を切り出される。電場の測定が気象予測に繋がり、長期的に観測すれば、大気汚染の兆候なども掴めるかもしれないという。蒐電器の放射性物質に使うポロニウムの物理・化学的研究をテーマとして与えられる。学生だから、女だからといって差別をしない三宅の考えに感激

2年から女子理専でも軍事教練開始。勝子は小隊長。学徒出陣に伴い、勝子たちも’439月に繰り上げ卒業

 

第2章     霧氷の頃

'439月、気象台に嘱託採用。技術職見習い。三宅課長の化学課に配属

同級生の多くは、陸海軍の技術研究所に就職し、勝子の倍近い給料をもらっている

夜は研数学館の夜間部の数学科に通い数学を学ぶ

根室の種馬所が霧の研究の拠点。陸軍気象部、北大、中央気象台の共同観測所。勝子も野外観測に参加

'453月、東京大空襲で気象台本館が焼失、諏訪に疎開。両親は宮城県登米に疎開

勝子は、過労から結核の初期症状で寝込む

終戦後も、連合国側は気象行政を管理監督するにあたり、気象台の資源をそのまま活用する方針で、ラジオや新聞の天気予報も復活

 

第3章     飄風の頃

'54年、勝子の地球化学研究室に9歳下の奈良岡隆文が舞鶴気象台から異動してくる

勝子は4年前から、海水に含まれる炭酸物質の量の測定に従事。大気中の炭酸ガス濃度が増すと海洋が吸収してくれるので、空気中の炭酸ガス濃度は一定に保たれるというのが従来の考え方だが、もしそうでないなら、大気中の炭酸ガスが地面から放出される熱を吸収し、毛布のような役割をはたして地表の気温を上昇させる恐れがある

勝子は、微量拡散分析法を炭酸物質の測定に応用することに成功

‘47年、杉並区馬橋の旧陸軍気象部の施設をもらい受けて中央気象台の気象化学研究室が発足、気象研究所として独立。勝子も嘱託から正規の研究官に昇格。オゾン層の研究に従事したことが勝子の中に大きな変化をもたらす。オゾン層とは、上空2030㎞付近のオゾンが高い濃度で存在する領域のこと。メカニズムは不詳、勝子はオゾン層の変動を説明する理論モデルを構築し、それに具体的な実測値を与えて解析を試み、論文に仕上げる

'54年当時、地球科学研究室は「ビキニ事件」の対応に追われる。情報を開示しないアメリカに代わって、確たるデータを収集・解析するための活動に加わる。海洋調査に加えて、日本国内でも放射能雨が観測され始める

「微量分析の達人」と呼ばれていた勝子の微量拡散分析法を用いて、持ち帰った死の灰から炭酸がどれくらい逃げてしまったかを測定してほしいとの依頼。その結果は第3回日本分析化学会討論会で、ビキニに降った放射性物質についての報告の中で、勝子の名を挙げて発表された

広島にいた親友が爆心地から西2.5㎞で被爆、原爆症に苦しみながらも娘を授かり、お嫁に行くまでは生きていたいという。勝子が諏訪で無事終戦を迎えたことは偶然に過ぎず、その偶然に甘えているだけでいいのか、これまで真剣に核の問題に対峙してこなかった自分が卑劣に思えた

'57年、東大理学部から博士号取得。理学部化学科初の女性博士号。論文は『天然水中の炭酸物質の挙動』。自ら開発した微量拡散分析法を用い、海洋中の炭酸研究の集大成で、水中に溶け込んだ炭酸ガスの3態様――遊離炭酸、重炭酸イオン、炭酸イオン――の存在比を、任意の水の塩素量、温度、pHに対して求めた数値を一覧表にしたもの(「サルハシの表」)

英国がクリスマス島で実験したのはきれいな水爆clean bomb”、爆発によって発生スリ死の灰の量を最小限に抑えたというが、顕著な環境汚染を本当に引き起こさないのかを確かめるべく、勝子らは実験開始後の雨水を採取し放射能を調査。調査委開始の20日後、減衰が非常に速い放射能を検出、推定爆発日が英国の実験日に符合。汚染気塊の流跡線を追うと、貿易風に乗って日本に到達したことが気象学的にも証明された

気象庁所属の峻コツ丸が大変な苦労の末にビキニ海域から持ち帰った貴重なデータにより大気汚染が明らかにされると、米国原子力委員会も漸く重い腰を上げ、いくつかの国際合同調査が実施され、勝子は各国の船から送られてくる試水の分析に励む

'54年春のビキニの水爆実験により周辺の海に撒き散らされた膨大な放射性物質は、北赤道海流に乗って西に移動し、1年後フィリピン沖合に到達、そこから黒潮に乗って北上、夏には日本列島の南岸に来る。さらに1年後には北太平洋の西側一帯に及ぶ

勝子は、核種ごとに分離して測定する方法を開発、定量化に成功。特にストロンチウム90とセシウム137は半減期が長く、人体に溜まりやすいので極めて危険

ビキニ事件を契機に、家庭の主婦を中心に原水爆禁止署名運動が起こったのがきっかけとなって、勝子は平塚らいてう(72)の自宅に招かれる。らいてうの音頭で国内の護憲派女性団体が集結、日本婦人団体連合会が発足し、国際民主婦人連盟に加盟、連盟の世界大会の日本代表団に女性科学者を加えたいということになって、勝子が推薦される。大会での講演の依頼と共に、女性科学者の会設立の企画が持ち上がり、女性研究者に呼び掛ける

'58年世界大会。団長は高田なほ子。社会党創立メンバーで参議院議員。共産党の支配下にある民主主義科学者協会は、日本海沿岸部の雨水に観測された放射性物質が、シベリアでのソ連による原水爆実験によるものとした結論に反発して、特に気象研労組執行部は事ある毎に三宅、勝子の仕事に容喙してくる

日本代表団の訴えの主眼は、核実験の停止。予めらいてうの勧めで勝子が英語で執筆した「日本婦人科学者の核兵器反対声明」という文書を各国代表に配布。講演のタイトルは『核実験の人体に対する影響』。連盟会長でキュリー夫人の高弟コットン女史からも絶賛

直前に日本婦人科学者の会発足。創立総会には50余名の女性研究者が集い多くは2,30

 

第4章     虹橋(こうきょう)の頃

'61年、放射化学実験室設置、米国製の最新鋭のガンマ線スペクトロメーターを使って測定。勝子は三宅と共に、セシウムを濃縮するための通称「AMP法」を開発

海洋中の放射性セシウムを巡り、日米間で論争激化。日本は地球科学研究部、アメリカはスクリプス海洋研究所。太平洋の東西でセシウム137濃度測定の結果が1桁以上違ったところから、アメリカ側は日本の分析手法への疑義を抱く

父が大動脈解離で逝去、享年78。母は8年前に他界

原水爆実験で成層圏まで打ち上げられた放射性物質の地表への降下は、通常46月にかけてが最も多く、スプリング・ピークと呼ばれている。これは夏に向って北半球上空の成層圏内で循環が活発になり、その下にある対流圏――降水などの大気現象が生じる層――への放射性物質の流入が増えるためと考えられている。'58年米英ソは核実験を中止したが、今年秋になって再開

米原子力委員会から、分析手法の相互検定をスクリプスでやろうとの提案が来て、勝子が単身乗り込む。三宅曰く、「敗戦という歴史的なハンデを背負った、日本の科学者たちの「道場破り」なのだ」。米原子力委員会から検定役が派遣されてきて、1週間かかる実験を4回やって精度を競う。世界の海洋研究所を相手に孤軍奮闘した結果は、第1回目こそ僅差で負けたが、残りの3回は10ポイント以上の差で圧勝、勝子のAMP法の正確さと同時に、三宅と勝子の出したデータ通り、北太平洋の放射能汚染が深刻だということが証明された

相互検定の結果は、スクリプスの責任者で海洋学の世界的権威フォルサム博士との共著で論文に。スクリプスのシンボルの大桟橋から見た太平洋の北西の空いっぱいにかかった半円の虹は、今まで見たことがないほど雄大

 

終章

奈良岡の孫が東邦大医学部に入学、大学資料室で猿橋関連の資料を見る

奈良岡も前年死去

共著の論文では、スクリプスでの相互検定では、アメリカ側に2割も多量の試水が配分されていたことが記されており、最初から不利な戦いを強いられていたことが判明

検定の翌年、アメリカは大気圏内、宇宙空間、水中での核実験の停止を決定、英ソと共に部分的核実験禁止条約締結

勝子は、国際的に知名度が増して世界を舞台に活躍するとともに、国内では女性科学者の地位向上のためにさらに精力的に動く。’75年日本学術会議の婦人研究者問題小委員会が設置され勝子は幹事になり、女性科学者の地位向上に関する勧告案を政府に提出することになったが、雲散霧消となったため、学術会議の会員選挙に出馬、初の女性会員となる

‘80年、気象研究所を定年退官。集まった500万円の祝い金を基に「女性科学者に明るい未来をの会」創設、その中心事業に「猿橋賞」(命名は三宅の発案)を設け、私財1500万円を投じる

 

4回猿橋賞受賞者米沢富美子(慶応大名誉教授)による評伝『猿橋勝子という生き方』

 

 

 

 

 

「翠雨(すいう)」とは、新緑の季節に草木の青葉に降る雨のことです。雨に濡れた青葉が翡翠(ひすい)のようにみずみずしく輝く様子から名付けられ、別名「緑雨」や「若葉雨」とも呼ばれます。しっとりと植物を潤し、自然の生命力を感じさせる美しい雨の景色を指す言葉です(AI)

 

 

Amazon

私は闘う。科学だけが導いてくれる真実を手に――。
「雨とは何だろう。なぜ降るのだろう」。少女時代に雨の原理に素朴な疑問を抱き、女性が理系の教育を受ける機会に恵まれない時代に、科学の道を志した猿橋勝子。戦後、アメリカのビキニ水爆実験で降った「死の灰」による放射能汚染の測定にたずさわり、アメリカが主張するよりも放射能汚染が深刻であることを証明した。勝子の研究成果は、後年、核実験の抑止につながる影響を国際社会に与えた。研究を愛した実在の女性科学者の先駆けの、生涯にわたる科学への情熱をよみがえらせる長篇小説。『藍を継ぐ海』で科学の壮大さとあたたかさを伝えた著者による直木賞受賞第一作。

 

 

Google Books

「雨は、なぜ降るのだろう」。少女時代に雨の原理に素朴な疑問を抱いて、戦前、女性が理系の教育を受ける機会に恵まれない時代から、科学の道を志した猿橋勝子。戦後、アメリカのビキニ水爆実験で降った「死の灰」による放射能汚染の測定にたずさわり、後年、核実験の抑止に影響を与える研究成果をあげた。

 

 

未来を変えた女性科学者

大矢博子

 猿橋勝子。
 1920年、東京生まれ。中央気象台研究部(現・気象庁気象研究所)で研究に勤しんだ女性科学者である。1954年、アメリカの水爆実験で日本のマグロ漁船・第五福竜丸が被ばくした一件での、いわゆる「死の灰」による海洋・雨水汚染の研究に携わる。その研究結果は国際的に大きな評価を得て、のちの部分的核実験禁止条約に繫がった。
 日本では科学の門戸が女性にはほぼ閉ざされていた時代の、女性科学者の草分け的存在であり、女性で初めて日本学術会議の会員になった人物である。複数の女性科学者の会の設立、女性科学者を表彰する「猿橋賞」の創設など、科学の世界での女性の地位向上に大きく寄与した。
 ざっくばらんに言えば、すごい人なのだ。たとえば2018322日(勝子の誕生日)には、地球温暖化研究のさきがけでもあるとして彼女の似顔絵がGoogleのロゴに採用されたほどである。にもかかわらず、その功績に対して一般にはあまり名前は知られていない印象が強い。
 その勝子の生涯を描いた小説だ。しかも理系知識と人の営みを融合させた小説で名を馳せる伊与原新の直木賞受賞後第一作であり、そのうえ初の歴史小説だというんだから、期待せずにはいられないじゃないか!
 物語は勝子が亡くなった後の一場面を描いた序章のあと、勝子が十六歳の女学生だった昭和初期に飛ぶ。夢は医者になることだったが、高等女学校を卒業して会社勤めをする。だが医者への夢を断ち切れず、東京女子医学専門学校を受験。だが、あるきっかけでその年開校予定の帝国女子理学専門学校の一期生として物理学を学ぶことになる。
 ――そこから勝子がどのような環境でどのような研究をし、それがどう実を結んだかが綴られるのだがこれが実に興味深い。朝ドラになりそうな人生だ。だがひとつ、驚いたことがある。この時代の、この手の女性の立身伝にはつきものの要素が極めて薄いのである。
 その要素とは、女性差別と戦争だ。女性が結婚もせず科学者として身を立てることは障害が多かったはずだし、戦争の辛苦が皆無だったはずもない。もちろんどちらも作中には登場する。だがそれが御涙頂戴の苦労譚にはなっていないのである。
 戦争の辛苦は、むしろ戦後に描かれる。広島で被爆した友人の存在と第五福竜丸だ。世界で唯一の被爆国である日本の科学者として、雨や海水に含まれる放射性物質の検出とその動きを研究し国際社会に問う。アメリカの研究所との検査結果に乖離があり、どちらが正しいかのアメリカでの相互検定では露骨な差別に遭うが、このときも勝子がとったのはただ真摯に数字を求めるという姿勢だった。
 この描き方こそ、伊与原新だ。その人物のわかりやすい葛藤を押し出してドラマを演出するのではなく、何のために何をしたかという客観的事実に焦点が絞られる。なのにそこにドラマが、猿橋勝子という人物の内面が、浮かび上がるのである。
 研究から離れた彼女の内面が描かれるのは、終盤、子どもを持たない自分は誰に何が残せるだろうと考える場面だ。だがその答えはすぐにわかる。血を分けた子どもこそいなくても、彼女は多くの女性科学者という子どもたちを生み出した。また彼女が生み出した海水の炭酸物質量の変化を示す計算表「サルハシ・テーブル」は、コンピュータが普及するまで三十年にわたって世界の海洋学者に使われ続けた。彼女をそこに至らせたものは何だったのか、それが本書から沁みるように伝わってくる。
 多くの人に読んでほしい小説だ。科学への真摯な探究心が社会を変え、人を変え、未来を変えたのだ。こんな人がいたのだ、この人がいたからこそ今があるのだと感じ入る。今日の私たちの生活は、多くの「こんな人」たちの上に成り立っているのだ。
 勝子の物語は雨で始まり、虹で終わる。これは実に象徴的だ。
 雨のあとに、虹が出る――文章として見れば詩であり、さまざまな比喩やメッセージを思わせる文学表現である。だが同時に現象として見れば、大気中の水分が太陽光を分散させて起きる大気光学という科学である。
 私たちは科学の中に文学を見る。文学の中に科学を見る。そのふたつが結びつくことで、人の世が決して単体として存在するものではなく、あらゆるものが分かち難く結びついた化学反応によって営まれているという事実が浮かび上がってくる。
 それこそが伊与原新がデビュー以来追求しつづけている文学の形なのだ。

(おおや・ひろこ 書評家)

波 20258月号より

 

「面倒くさい人間愛」の人

伊与原新

 もう十年近く前のことだ。ある日、大学院時代の恩師、浜野洋三先生から一通のメールが届いた。用件とは別に近況を知らせてくださる文章の中で、私は「猿橋勝子」と出会った。先生が選考委員をつとめている「猿橋賞」の選考会があったとのことで、こんなことが書かれていたのである。
〈猿橋さんは、19501960年代初頭の米ソの原水爆実験が引き起こした海洋の放射能汚染を追究した地球化学者です。道場破りさながらに単身渡米し、汚染を過小評価するアメリカ側の権威と海水の分析勝負をして見事勝利したという、すごい人なんですよ〉
 私は驚いた。「猿橋賞」が女性科学者を対象とする国内でもっとも権威ある学術賞の一つだということは知っていたが、賞の設立者である猿橋勝子についてはほとんど何の知識もなかったからだ。私はすぐに、物理学者で猿橋賞受賞者でもある米沢富美子による評伝、『猿橋勝子という生き方』を買い求め、夢中でページをめくった。
 一晩で読み終えると、深い感動に包まれるとともに、こんな思いも溢れてきた。「猿橋賞」の知名度に比して、勝子自身の成し遂げたことが、なぜこうも世間に知られていないのか。波瀾万丈で痛快な彼女の生き様から私が受けた励ましは、もっと多くの人と共有するべきだ。それが小説という形でもできるのであれば、いつかこの手で書きたい――。
 数年後、その願いが本誌「波」での連載という形で実現したのが、『翠雨の人』である。執筆を始めるにあたって担当編集者とまず訪れたのは、東京は小平霊園にある、勝子が眠る猿橋家の墓だ。線香をあげて手を合わせ、「精一杯書かせていただきます」と心の中で伝えてはみたものの、勝子が何か応えてくれた気はしなかった。
 実在の人物の生涯を小説にするのは初めてである。しかも、歴史に明るいとはとてもいえない身で大正生まれの女性の一生を書こうというのだから、一筋縄ではいかない。図書館をあちこち回って乏しい資料を集め、当時を知る方々から話をうかがいながら、勝子の人生というパズルを、見つかったピースで一つずつ埋めていくような作業が続いた。
 勝子は帝国女子理学専門学校を卒業後、大戦中に中央気象台に就職し、戦後は気象庁気象研究所で研究に従事した。数多くの論文から研究の中身は把握できるのだが、戦中から戦後すぐにかけての研究現場の具体的な様子についてはほとんど情報がなく、描出に苦労した。当時の実験室の写真が一枚残されていたとしても、そこに写っている装置や器具が何なのか、専門家でもはっきりとはわからないということも多かった。
 しかし、もっとも難しかったのは、そこではない。研究者としてではなく、生身の人間としての猿橋勝子に迫れているという実感が、なかなか得られなかったということだ。それでも、勝子自身が書き残したエッセイやインタビュー記事を読み込み、実際に彼女と交流のあった方々の話をうかがって、私なりの勝子像を作り上げた。
 それをひと言に凝縮した人物評を、この小説の架空の登場人物、勝子の後輩となる奈良岡という研究者に作中で何度か代弁させた。「面倒くさい人」である。
 勝子の「面倒くささ」の基底にあるのは、生来の生真面目さ、融通のきかなさ、頑固さであろう。ただ、本人もおそらくそのことに自覚的でありながら、そんな自分でしかいられないという不器用さ、表裏のない真っすぐさに、私は勝子ならではのチャームを見出していた。
 そして、二年間におよぶ連載期間中、私なりに彼女と向き合い、語り合う中で、勝子像も少しずつ変容していった。勝子の「面倒くささ」が、俄然ポジティブな光を放ち始めたのだ。私同様、後輩として付き合ううちに勝子への見方を変えていったであろう奈良岡に、私はまた自分の思いを代弁させた。単身渡米した勝子に奈良岡が送った手紙の一節である。
〈あなたの面倒くささは、世界に通用します。面倒くささはすなわち、誠実さであり、粘り強さであり、正しさです〉
 勝子のそんな性質はいつも、社会に、仲間に、女性たちに向けられていた。彼女の核をなすのはすなわち、面倒くさいほどの「人間愛」ではなかったかと思うのだ。
 本ができたら、それを持って再び勝子の墓前に報告にいくつもりである。ヨーロッパや中東で紛争が続き、核の脅威が再び高まっていることとともに、今この小説を世に問う意義を伝えたい。今度は何かひと言ぐらいは意見を言ってくれる気もするのだが、どうだろうか。もちろんその前に、「『面倒くさい人』って、何よ」と𠮟られる覚悟はできている。

(いよはら・しん 作家)

波 20258月号より
単行本刊行時掲載

 

 

担当編集者のひとこと

「猿橋賞」という女性科学者に与えられる賞を知っている方は多数いらっしゃるかもしれません。一方で、賞を創設した猿橋勝子という卓越した科学者の生涯は、あまり知られていないようです。
「雨とは何だろう。なぜ降るのだろう」。一般家庭に生まれた勝子は、少女時代に雨の原理に素朴な疑問を抱き、キュリー夫人にあこがれて科学の道を志します。戦時下で科学と戦争のわかちがたい関係に葛藤を覚えた勝子は、戦後、アメリカのビキニ水爆実験で降った「死の灰」による放射能汚染の測定にたずさわり、アメリカが主張するよりも放射能汚染が深刻であることを証明。勝子の研究成果は、後年、核実験の抑止につながるほどの大きな影響を国際社会に与えました。研究を総身で愛した実在の女性科学者の、生涯にわたる科学への情熱をよみがえらせる長篇小説です。
「おもしろくて、ためになる作品を書きたい」と伊与原さんは常々おっしゃいます。直木賞受賞作『藍を継ぐ海』、NHKドラマ原作『宙わたる教室』をはじめ、一貫して科学の壮大さと温かさ、「知る」ことの楽しさを伝え続ける著者による直木賞受賞第一作、ぜひお読みください。(出版部・SK

 

 

書評『翠雨の人』伊与原新著

科学の道、女性に開いた生涯

2025920   日本経済新聞

帝国女子理学専門学校という学校があったことを、不識にも知らなかった。理学を学ぶ女性のための高等教育機関が、昭和16年にはすでに設立されていたのである。

(新潮社・1980円)  いよはら・しん 72年大阪府生まれ。作家。著書に『月まで三キロ』(新田次郎文学賞)、『藍を継ぐ海』(直木賞)など。

その第1期生こそ、世界で活躍した科学者、猿橋勝子だ。

数学と物理が得意な女学生だった勝子は、最初は医学を志すも、紆余曲折を経て、物理の道へ進む。そして、中央気象台にて地球化学者・三宅泰雄に師事、研究活動を始める。

戦時下という状況だからこそ、男性が兵役に取られる中、女性にも活躍の場が与えられたのだった。それは「お国のため」という名目であって、あくまで国力の活用だった。小説内で勝子は、そんな科学者としてのキャリアを歩み出しながら、戦争と科学の関わり、そして科学者のあり方について、思索する。やがて戦後、各国が核開発を進める中、勝子は放射能と戦う科学者となり、核実験による海洋汚染の実態を調べ始める。

勝子は実績を重ね、昭和55年には、女性初の日本学術会議の会員となった。そして後進女性への道も開いた。自然科学分野の女性科学者を表彰する「猿橋賞」も創設した。

本来、科学の道に、性別は関係ないはずだ。しかし、少数派であることの苦難は、まだ現代にも存在している。裾野が広がっていけば、女性「なのに」すごい、と思わなくなる時代が、いつか来るはずだ。

科学の進歩というと、門外漢からすれば、時間の流れに沿って、自然と積み重なっていくもののように感じてしまう。しかし実際には、一人ひとりの科学者が日々の小さな実験を積み重ねてきた成果に他ならない。

本書は、猿橋勝子の生涯を描いた伝記小説でもあるが、科学小説でもある。作者自身、地球惑星物理学が専門の博士号を持つ作家である。科学の細部を描く力は過去作同様、抜きんでており、単なる成果や結論ではなく、研究という営みが、いかに数え切れぬ小さな作業の積み重ねから成り立つかを、一つひとつ追っていく。外からは見えない、実験器具を扱う細部の描写は、実際に研究室をのぞき込んでいるような臨場感をもたらし、猿橋勝子の忍耐と、科学への情熱を伝えてくれる。

《評》文筆家 西田 藍

 

 

Wikipedia

猿橋 勝子(さるはし かつこ、1920322 - 2007929)は、日本地球科学者である。専門は地球化学。海洋放射能の研究などで評価された。東邦大学理事・客員教授を歴任。東京生まれ。

略歴

東京府立第六高等女学校(現・東京都立三田高等学校)を経て、帝国女子理学専門学校(現・東邦大学理学部)を卒業。中央気象台研究部(現・気象庁気象研究所)で三宅泰雄の指導を受けた。1954ビキニ事件におけるいわゆる「死の灰」による大気・海洋汚染の研究以後、三宅と大気及び海洋の放射能汚染の調査研究を行い評価された。その研究成果は1963部分的核実験禁止条約成立に繋がった[1]

1957、東京大学理学博士「天然水中の炭酸物質の行動について」。 1958に設立された「日本婦人科学者の会」の創立者のひとり。

1980、気象庁気象研究所を定年退官するにあたって集まった寄付金をもとに「女性科学者に明るい未来をの会」を設立し、女性科学者を表彰する「猿橋賞」を創設[2]。第22回猿橋賞を受賞した真行寺千佳子によると、猿橋は同賞の創設以来、賞についての正確な情報の流布と効果的な広報を徹底しており、たとえば受賞時の真行寺による記者への受け答えの最中に「研究内容の説明が難しすぎる」と叱咤したという[3]

1980年に女性で初めて日本学術会議会員に選ばれる。翌1981エイボン女性大賞を受賞。1985、「放射性及び親生元素の海洋化学的研究」によって日本地球化学協会から第13回三宅賞[4]を受賞[5]1993年、「長年の海水化学の進歩への貢献」によって日本海水学会から田中賞(功労賞)を受賞[6]平和・民主・革新の日本をめざす全国の会(全国革新懇)世話人も務めた。

2007929間質性肺炎のため東京都内の病院で死去。87歳没。

海洋の放射能汚染調査

1960年、カリフォルニア大学サンディエゴ校スクリップス海洋研究所Scripps Institution of Oceanography)のセオドア・フォルサム博士(Theodore Robert Folsom)らは、南カリフォルニアの海水中のセシウム137の濃度をネイチャー誌に発表した。一方、三宅、猿橋らは日本近海におけるセシウム137の濃度を報告し、その値はフォルサムらの報告した値よりも1050倍の高さを示した。三宅、猿橋らは日米における測定値の差を海流の解析によって説明したが、海水で希釈されるので放射能汚染の心配はないとして核実験の安全性を主張していたアメリカを初めとした科学者からは猿橋らの測定を誤りだとして批判が起こった[7]

そこで、三宅はアメリカ原子力委員会に同一の海水を用いた日米の相互検定を申し入れ、1962年から1963年の間、猿橋は放射能分析法の相互比較を目的としてスクリップス海洋研究所に招聘され、フォルサムとの間で微量放射性物質に対する分析測定法の精度を競うこととなった[8]。猿橋の分析は高い精度を示し、フォルサムは猿橋の分析を認め高く評価するようになり、日米の測定法の相互比較の結果は共著として発表されることとなった[9]

トピック

2018322日のGoogle Doodleは彼女の生誕98年を記念したものとなった。

著書

·              猿橋勝子監修 『親愛なるマリー・キュリー - 女性科学者10人の研究する人生』 東京図書2002ISBN 4-489-00634-9

脚注

1.   ^ “グーグルが注目した日本人女性科学者、猿橋勝子とは”. Newsweek日本版 (201842). 2024929日閲覧。

2.   ^ 女性科学者に明るい未来をの会 2021, p. .

3.   ^ 女性科学者に明るい未来をの会 2021, pp. 22–23.

4.   ^ 本人の師でもある三宅にちなむ。地球化学に顕著な業績をおさめた科学者に贈られるもの。1973年制定

5.   ^ “1985 13 猿橋勝子 東邦大学客員教授 「放射性及び親生元素の海洋化学的研究」”. 三宅賞受賞者. 公益社団法人日本地球惑星科学連合. 2024929日閲覧。

6.   ^ “日本海水学会学会賞受賞者一覧(1974-1993”. 日本海水学会. 2024929日閲覧。

7.   ^ 米沢(2009 pp.25-28

8.   ^ 米沢(2009 pp.28-39

9.   ^ 米沢(2009 p.38

 

 

 

グーグルが注目した日本人女性科学者、猿橋勝子とは

201842日(月)1125

ソフィア・ロット・パーシオ

グーグルの検索画面の登場した猿橋の取り組みは地球温暖化に関する研究の先駆けでもある GOOGLE

<海洋化学と放射能の影響の研究に多大な業績を残した猿橋の足跡>

322日、グーグルの検索ページのロゴに日本人科学者、猿橋勝子(19202007)の似顔絵が現れた。この日は彼女の生誕98周年。同時に「世界水の日」でもあり、似顔絵の背景には彼女の研究した海洋水が描かれた。

猿橋は小学生のときに校舎の窓ガラスを流れ落ちる雨粒を見て、なぜ雨は降るのだろうという疑問を抱いた。彼女はその答えを求めて、探求の旅に出る。専門分野は海洋化学。海水の炭酸濃度に関する先端的な研究を行い、1957年に東京大学で女性初の理学博士号を取得した。

海水中の炭素は、いま地球温暖化で問題となっている地球上の炭素サイクルの重要な部分を占めている。猿橋は55年の論文で、水温、酸性度、塩素量の違いによる炭酸物質量の変化を計算表として示した。これは後に「サルハシの表」と呼ばれ、コンピューターが普及するまで30年間にわたり海洋学者の助けとなった。

猿橋が生きた時代には、放射能の影響が大きな研究課題となった。アメリカが46年にマーシャル諸島の海域で核実験を開始。12年間で23回の実験を行った。

なかでも54年の第五福竜丸事件は世界的に有名だ。ビキニ環礁で広島型原爆1000個分以上の威力を持つ水爆の実験が行われ、日本漁船が被曝した。

猿橋は気象庁気象研究所の一員として、水爆実験による放射性降下物が実験区域から1000キロの海域でも認められることを突き止めた。さらに、放射性物質が風と波によって海上を運ばれる時間を算出した。

「女性だから」ではなく

猿橋は62年、この研究結果をアメリカで発表するため、カリフォルニア大学サンディエゴ校のスクリップス海洋学研究所に招かれた。研究拠点が木造小屋だった日本のほうが、放射性降下物の測定技術ではアメリカより正確であることを示した。

猿橋の研究成果は63年、地下を除く大気圏内、宇宙空間、水中での核爆発を伴う実験を禁止する部分的核実験禁止条約の成立につながった。

「文字通り一心不乱の毎日であった」と、猿橋は書いている。「それは男性にまけまいとする、女性なるが故のがんばりではなかった。一生懸命勉強すると、はじめは幾重ものベールの向こうにあった複雑な自然現象が、一枚ずつベールをはがし、からみあっていた自然のしくみが、しだいにときあかされてくるからである。研究者としての、何ものにも替え難い大きなよろこびが、ここにある」

女性だからではないと書いたものの、猿橋は日本の女性科学者にとっての「ガラスの天井」を何度も突き破っている。81年には女性で初めて日本学術会議の会員に選ばれ、85年にも女性で初めて地球化学研究協会の「三宅賞」を受賞した。

猿橋は、後進の女性科学者が実力を発揮するための踏み台も用意した。58年に「日本婦人科学者の会」(現「日本女性科学者の会」)を設立。女性と男性が共に個性と能力を発揮できる環境づくりと、社会貢献を目指した。

猿橋は気象研究所に35年間勤務し、80年に退職した。同年「女性科学者に明るい未来をの会」を創設し、以後、自然科学の分野で顕著な研究業績を収めた女性科学者に毎年「猿橋賞」を授与することになる。

「立派な科学者になる能力を持つ女性は大勢いる。女性が男性と対等な立場で科学技術に貢献できる日が来ることを期待している」と、猿橋は語っていた。

[20184 3日号掲載]

 

 

東邦大学(とうほうだいがく、英語Toho University)は、日本関東地方南関東)にある私立大学学校法人東邦大学によって運営されている。

概観

大学全体

自然科学および生命科学系の総合大学で、旧設八医科大学の一つ。

旧制「帝国女子医学専門学校」として創立された流れから、全学生に占める女子学生の割合が高く、全学生の4分の3が通う習志野キャンパスでは過半数が女子学生である。大学付属の病院やクリニックがあることから、これらの施設や設備を生かした医学薬学看護学などの教育が行われている。2006からブランディング・プロジェクト(『学校法人東邦大学 CI/ブランド構築プロジェクト』)を立ち上げ、これを実施している。

建学の精神

「自然・生命・人間」

創立者のひとり額田晉の著書『自然・生命・人間』に記されている、自然に対する畏敬、生命の尊厳の自覚、人間の謙虚な心を原点として、豊かな人間性と均衡のとれた知識・技能を有する人材の育成を目標としている。

沿革

略歴

1925(大正14)に兄の額田豊が弟の額田晉と共に、現在の東京都大田区大森西に帝国女子医学専門学校と帝国女子医学専門学校付属病院を設立したのを起源とする[4]

年表

  • 1925 - 経営母体の財団法人帝国女子医学専門学校により帝国女子医学専門学校(旧制専門学校)が設立される。初代理事長に額田豊が就任。初代校長に額田晋が就任。帝国女子医学専門学校付属病院が開設。
  • 1926 - 帝国女子医学専門学校に薬学科、帝国女子医学専門学校付属看護婦養成所を設置
  • 1930 - 帝国女子医学薬学専門学校に校名変更
  • 1941 - 帝国女子理学専門学校を開設
  • 1942 - 経営母体の財団法人帝国女子医学専門学校が財団法人額田教育報恩会に改称される。
  • 1945 - 太平洋戦争による空襲により帝国女子医学薬学専門学校の本館以外の校舎が焼失する。
  • 1946 - 帝国女子医学薬学専門学校薬学科、帝国女子理学専門学校が現千葉県習志野市にあった旧日本陸軍近衛師団所属等含め騎兵連隊が使っていた駐屯地の兵舎を含む建物を再利用として習志野キャンパスとして移転
  • 1947 - 東邦医科大学(旧制大学予科を開設。東邦医科大学付属病院を開設。帝国女子医学薬学専門学校を東邦女子医学薬学専門学校に校名変更。帝国女子理学専門学校を東邦女子理学専門学校に校名変更
  • 1949 - 東邦薬科大学新制大学)を設置。経営母体の財団法人額田教育報恩会が財団法人東邦大学に改称される。
  • 1950 - 戦後の学制改革により文部省(現在の文部科学省)から新制大学として設置認可された東邦大学理学部生物学科、化学科を母体として東邦医科大学(旧制)、東邦薬科大学(新制)3大学が統合・再編されて東邦大学(新制大学)となり医学部、薬学部、理学部が設置される。大学本部は東京都大田区の大森キャンパスに設置される。
  • 1951 - 経営母体の財団法人東邦大学が改組されて現在の学校法人東邦大学となる。
  • 1952 - 千葉県習志野市に東邦大学付属東邦高等学校を開設。東邦大学(新制大学)医学部医学科を開設。東邦医科大学付属病院を東邦大学大森病院に改称。
  • 1955 - 東邦大学の山岳部OBの医師・看護師などにより運営される西穂高診療所が開設される。
  • 1957 - 東京都世田谷区池尻に駒場東邦中学校、駒場東邦高等学校が開設。東邦大学付属看護婦養成所が東邦大学医学部付属准看護学校となる。
  • 1959 - 東邦大学大学院医学研究科開設
  • 1961 - 千葉県習志野市に東邦大学付属東邦中学校を開設、東邦医科大学を廃止。
  • 1964 - 東京都目黒区大橋に東邦大学医学部付属大橋病院(現在の東邦大学医療センター大橋病院)を開設。

 

 

三宅 泰雄(みやけ やすお、1908417 - 19901016)は、日本の地球化学者[1]東京教育大学教授。

経歴

岡山県岡山市にて誕生[1]岡山県立岡山中学校静岡県立静岡中学校[2]旧制静岡高等学校を経て、1931東京大学理学部化学科を卒業[1]

北海道大学理学部助手[1]中央気象台[1]、同台研究部(戦後はそのまま気象庁・同庁気象研究所に改称)勤務。1940 東京大学にて、「西部北太平洋の海洋科学」の論文で理学博士号を取得[1] 1957東京教育大学教授。

1954ビキニ事件を発端にビキニ周辺海域・大気の放射能汚染を調査、研究し、高い評価を得た[1]。以後、海洋や大気の放射能汚染の危険性を訴えつづけた[1]第五福竜丸の船体の保存にも尽力。また、地球化学研究協会を設立し、日本海洋学会会長(1975-1978)、日本地球化学会会長などを務めた[1]。地球化学研究協会が贈る「三宅賞」にその名を残す[1]

受賞

 

 

 

猿橋賞(さるはししょう)は、第一線で活躍する女性科学者を表彰する日本の賞である。

概要

地球化学者の猿橋勝子気象研究所を退官する際、寄付金500万円を基金とし、自然科学分野で優れた業績をあげた女性研究者に対する賞として創設された[1][2]。「女性科学者に明るい未来をの会」(1980創立)から毎年5月頃に、自然科学分野で顕著な研究業績をおさめた50歳未満の女性科学者に対して[1]、「女性自然科学者研究支援基金」を原資として贈られる。賞金額は50万円。受賞者は学会などの他薦、自薦の応募者の中から選定される。受賞から定年までの十数年間は、受賞者自身でも後身の育成に努めて欲しいという期待を込めた(“恩送り”)のが「50歳未満」の由来

歴代受賞者

 

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