未完の天才 南方熊楠  志村真幸  2023.10.26.

 2023.10.26.  未完の天才 南方熊楠

 

著者 志村真幸 1977年、神奈川県生まれ。京都大学大学院人間・環境学研究科博士課程修了。南方熊楠顕彰会理事、龍谷大学国際社会文化研究所研究員、慶應義塾大学非常勤講師。専門は比較文化研究。『南方熊楠のロンドン』(慶應義塾大学出版会)でサントリー学芸賞(2020年、社会・風俗部門)、井筒俊彦学術賞(2021)を受賞。他の著書に『日本犬の誕生』(勉誠出版)、『熊楠と幽霊』(集英社インターナショナル)など。

 

発行日           2023.6.20. 第1刷発行

発行所           講談社 (現代新書)

 

 

はじめに

l  南方熊楠(みなかたくまぐす)という天才

熊楠を研究して22年、熊楠の魅力は「未完の天才」という点にある

多方面で才能を発揮、生物研究ではキノコ、変形菌(粘菌)など幅広く扱い、熊楠の学名のついた新種も少なくない。人類学、民俗学、語源学など人文科学系の分野の業績を挙げる国際的な活躍も顕著で、『Nature』には51篇、『NQ』には324篇の英文論考掲載

「エコロジーの先駆者」と呼ばれ、環境保護に取り組む

「人類史上、最も字を書いた」ともいわれる

l  熊楠は説明できない

いずれか個の分類には当てはまらない人物。何れの業績も未完で最終的な結論が出ていない。柳田国男とともに日本の民俗学の礎を築いたものの途中で喧嘩別れしたし、キノコの新種を発見してもほとんど発表せず。論考も多数あるが集大成したものはない。神社林保護のため日本で最初期にエコロジーの語を導入したが、最も大切な神社については守れず

巨大な可能性の塊だが、中央の学会には認められず在野のままで、経済的にも苦しかった

未完性は、熊楠をめぐる最大の謎

l  未完の理由に迫る

本書では、天才性を紹介するとともに、その未完性について追及する。その理由の第1は、手を付けたのがいずれも難しい分野だったこと、簡単には答えの出ないテーマばかり

またこれまでアウトプットの側面が主に知られていたが、近年では抜書やキノコの最終記録といったインプットの部分の研究も急速に進む。晩年まで付けていた日記の解読も終了

在野のアマチュアで過ごし、生活のために研究をしていたわけではないので、アウトプットだけでは判断できない。研究のゴールをどこに設定していたのか、それを知るにはインプットを見なければならず、本書では「仕事の完成」や学問からの引退というテーマも扱う

日本が開国して外国の知識を吸収し、一方で日本独自の文化を作り上げていった時代に、欧米で長く生活を送り、国際的な学術空間で活躍するかと思うと、日本の民俗や江戸文芸に関する業績も多い、中国や日本を広く包含した「東洋」というアイデンティティを持ち、西欧に対抗しようという意識も強かった。近代日本を象徴する人物でもある

本書は、熊楠の未完性を通じて、熊楠と現代社会との繋がりを探す旅でもある

 

第1章        記憶力――百科事典を暗記する

l  百科事典をまるまる記憶して書き写したという「伝説」

熊楠には、異様なまでの天才にまつわるエピソードが多い

その筆頭が超人的な記憶力に関するもの

l  ボロボロの『和漢三才図会』

原本は1712年頃刊、大坂の医師・寺島良安著の百科事典、全10581

2001年、初めて熊楠旧邸を訪れ、遺品すべてを目録化した中に、1884年再刊した『和漢三才図会』があり、自身と事典の関係を語った「熊楠辞」という重要な文章が見つかる

1879年、友人から借りて書写、全体の1/3に及ぶ

l  伝説とは逆で、書き写して記憶した

書き写して覚える「臨書」だが、どこに何を書いたのかを十数年経っても正確に思い出す

「本を5度読み返すならば代わりに2度写筆せよ、毎日必ず日記は怠るな」が熊楠の教えで、自らも写筆と日記で記憶力を養ったようで、同時に百科事典への愛着と信頼も生まれ、ブリタニカの百科事典など版が改まるたびに買い揃えていた

l  未完を隠した理由

書写の効能を理解した熊楠は、60代後半になるまで「抜書」に専念。語学にも記憶力を武器にどんどん挑戦。書写こそが熊楠の天才の始まり

『和漢三才図会』の書写が未完に終わったことは、熊楠にとっては恥ずかしく悔しい思い出で、後年のロンドン抜書、田辺抜書では、重要部分の抜粋より全篇書写のケースが目立つのも、幼少時の後悔と反省があったのだろう

l  神童としての自己のイメージ

熊楠は自らの天才ぶりもアピール――『N&Q』のデビュー論考は『神童A Witty Boy(1899)だが、『驚異的な記憶力』(1930)と題する論考もあり、暗に自らをアピール

 

第2章        退学と留学――独学の始まり

l  和歌山という「都会」から東京へ

熊楠は野人ではなく都会人。当時の和歌山は屈指の大都会で、生家は城から数キロ

1883年、和歌山中卒で上京、予備門の予備校だった高橋是清の共立学校(現在の開成中・高)に入る。秋山真之、正岡子規らと同期。初年度末の試験で数学で赤点を取り落第、異常な頭痛で故郷に帰り、そのまま東京に戻ることはなかった

l  大学に進んだ目的は?

熊楠の学校嫌いは筋金入りで、中学から独学で、学校での教えは当てにせず、予備門に入ってもひたすら上野図書館に通って読書に耽っていた

南方家は維新後も大商人に発展するが、長男は家督と財産の半分を引継ぎ地元の第四十三銀行の頭取を務めたものの破産、父の始めた酒造業は3男の常楠(つねぐす)が引き継ぎ、現在でも学校の先輩・大隈重信からもらった「世界一統」の社名で繁栄を保つ

予備門に在籍したことは多くの利益をもたらした。まずは英語教育だが、一方で、大学は反面教師となって、ドクトルやプロフェッサーを毛嫌い、独学の基礎が出来る

l  フィールドワークへのめざめ

独学の方法の1つが上野図書館、もう1つがフィールドワーク。生物研究の拠点となっていた江ノ島では海の生き物を採集し、日光では植物を中心に集める

東大初期のお雇い外国人だったアメリカの生物学者エドワード・モースに私淑、江ノ島のモース臨海実験所や大森貝塚も訪れ、モースのフィールドワークを辿る

l  アメリカへ

1886年渡米、翌年ミシガン州立農学校(現州立大)に合格するが、渡米や入学の目的は不詳

キリスト教が嫌いで授業には出ず、林野を歩んで実物を採り、観察し、図書館に通った

日本人留学生間の手書き回覧新聞に寄稿、政治運動への弾圧や懐柔に反発する一方、留学生が欧米流の考えに染まり日本的なものを軽視するのを鋭く批判、ナショナリズムに目覚めるが、熊楠は中国も含む東アジアを自らのアイデンティティとしている点は特筆すべき

l  熊楠の「文明進化論」

熊楠のアメリカ時代ノートに『文明進化論』という未発表の英文論考(1889)がある

当時流行していた社会進化論の考え方に則り、世界で文明が進化した例を3つ挙げ、日本にも比肩しうる時代があったとする。元禄~享保(16901740)で、吉宗、光圀、白石、近松など70人以上を列挙。優れた記憶力がここにも現れ、欧米への対抗意識がもたげる

江戸期を尊び、明治以降を「退化」したと捉える見方は、熊楠の人生を特徴付ける

l  留学生たちの明治

官費留学生は18751940年に3000人余りが送り出されたが、熊楠は私費で渡米

明確な目的があったわけではなく、勉学の中で進むべき方向性を見定めていく

 

第3章        ロンドンでの「転身」――大博物学者への道

l  牧野富太郎による熊楠への追悼文

熊楠より5歳上の牧野富太郎は、『文藝春秋』に追悼文を寄せ、「海外では認められ世人も多く信じているが大文学者ではあっても大植物学者ではない」と切って捨てる。同じような境遇にあって、大学からは冷遇された2人だが、熊楠のロンドン時代の「転向」が原因

l  熊楠、ロンドンへ

1892年、ニューヨークからロンドンへ。8年間を過ごす

渡英直後に、熊楠がフロリダのキーウェストで採集した2種の地衣類が新種と判明

94年までは植物学に注力、熱心に採集に取り組むが、年央以降最終の為の遠出は途絶える

l  熊楠が植物採集をやめた理由

95年に様子が一変、植物学への関心を喪失したかのよう。イギリスの植物相が貧相で、未調査の土地もなく、新種の発見も期待できなかった

l  『ネイチャー』へのデビュー

デビュー作は1893年の『東洋の星座』。古代中国とインドの星座について紹介。東洋にはヨーロッパの星座とは全く異なる星座体系がある事を示し、西洋の人々に衝撃を与える

2本目以降も東洋に関する情報提供者として活動。51篇の投稿の大部分は、これら古代東洋を主題とする科学誌の論考で、『ネイチャー』が評価した熊楠の独自性は、漢籍や江戸以前の古典を利用した比較文化の研究にある

l  大英博物館に迎えられる

93年、大英博物館の大物で、英国中世遺物及び民族誌部長のフランクスに招かれ、日本からの収蔵品に関する知識を求められたのが、熊楠転向のきっかけ。英国が東アジアへ進出した時期で、東洋の収蔵品が急増、これ以後その調査・整理の仕事が舞い込む

l  本の森へ

95年、大英博物館のリーディング・ルームへの入室許可証を得て転向が決定的となる

同館の150万冊にも及ぶ収蔵図書の筆写に集中し、52冊のロンドン抜書というノートとなり、これをもとに西洋と東洋の比較研究を進め、大量の論考を執筆

カール・マルクスも30年通ってノートを取り後の『資本論』の材料としたし、孫文も9カ月の在英中に多分野の書物を漁ってノートを作り、熊楠の書写仲間として厚い友情を築く

l  3つの方向転換

   扱う分野を、植物学から科学史や東洋学関係へと転換

   東洋に関する情報提供という立場を獲得

   生物/フィールドから書籍を利用した学問へと転換

日本人が、ほとんど調べ尽くされているイギリスの植物学に参入するのは困難だった反面、ロンドンで東洋人としての自己を再発見し活躍の場を得た

 

第4章        語学の天才と、その学習方法

l  熊楠は何か国語ができたのか

熊楠の「伝説」の1つに、無数の語学を操れたというのがある

l  漢文

最初に身につけた外国語は漢文。幼少から素読を習い、暗唱したが、現代中国語を話す事は出来ず、孫文とは英語で話す

l  福沢諭吉とのすれちがい

紀州藩校の学習館は、1866年から武家の子弟以外にも門戸を開放、福沢諭吉を招いて英語教育を進めようとしたが、福沢は謝絶、代わりに塾出身者を送ったり、渡米の際には英書を買って送ったこともあるが、熊楠とはすれ違い

熊楠は福沢に心酔、大きな影響を受けた。在野の人間として親近感を覚えていたようで、福沢の天爵説(自然に具わった立派な人格の人物、在野の貴人のこと)に共感し、学位や学会員など一切を辞退

l  学校教育で英語を学ぶ

予備門で高橋是清から英語を本格的に習う。授業の多くが英語で、2か国語必修

l  キューバでスペイン語を話したのか

アメリカ時代に英語以外の欧米系言語に取り組む――キューバに4カ月滞在、熱帯植物の最終に励み、地衣類の新種も発見

l  多言語の海へ

ロンドン時代に多言語を学び始める――あくまで独学で、字書とポリグロット本という対訳本を使って18,9の語を自在に読み、書き抜く

l  「しゃべる」ための訓練方法

酒場などに行って人の話を聞き分ける稽古を通じて話し言葉を覚える

l  NQ(イギリスの『Notes & Queries』への投稿での諸国語の引用

投稿では文献を原文のまま引用するのが常で、1つの諺を複数の言語間で比較したものなど、読者が付いて行けたのか疑問

l  国際的な知識人たちの学術空間

英語が共通言語。新興の学術雑誌からも寄稿依頼が舞い込む

l  挫折したロシア語

アメリカ時代からロシア語を学んだが、結局ものにはならなかった

 

第5章        神社合祀反対運動と「エコロジーの先駆者」

l  熊楠とエコロジー

神社合祀反対運動を通して神社や鎮守の森を守り、紀南や熊野の自然を現在まで保存するのに貢献、自然を総合的に守らなければならないと訴えたことで、エコロジーを日本に持ち込み実践した最初の日本人と位置付けられるが、父祖の地の大山神社を守れなかった挫折から、わずか数年でエコロジーから手を引く

l  熊楠の「履歴書」

南方植物研究所への寄付に関連して求められるままに書いたもので、自伝文学の最高傑作といわれる

l  神社合祀政策とは何だったのか

1906年、神道による国家運営を浸透させるために神社の統廃合方針が打ち出され、三重と和歌山では最も多くの神社の統廃合が行われ、1/10以下にまで削減。1914年終息

l  みかんと神社合祀

明治以降稲作強制から解放され、紀州でも水田から果樹園への転換が進むとともに、稲作関連行事の中心だった神社の存在意義も薄れ、神社合祀が極端なまでに先鋭化していた

l  怒る熊楠

1909年、熊楠が植物採集で籠った那智から離れ、田辺に移ったのちの、近所の神社が合祀され、自らの研究フィールドである神社林が破壊される危機感から、反対運動に立上がる

2年前に変形菌の新種第1号を発見した後、境内が整理され菌を採取した倒木も撤去

l  『南方二書』で熊楠の訴えたこと

反対運動の中で熊楠が各方面に意見書を出した中でよく知られるのが『南方二書』で、自身のエコロジー思想を展開したものとして有名。柳田に紹介された東大の植物学者に対して書かれたものを、柳田が独断で出版し各方面の有力者に配布――和歌山各地で進む神社合祀により森や神林が伐採され、貴重な植物が危険に晒されていることを訴える

明治維新で急激に木材需要が高まったのも神社廃止による森林伐採が進んだ理由

l  現在のエコロジーと熊楠のエコロジー

エコロジーという言葉自体は「生態学」を指す学術用語で、自然環境全体を複合的かつ総合的に観察する学問だったのが、現在ではより広く環境保全や自然保護、さらには資源節約といったイメージで用いられている

熊楠が最初にエコロジーを使ったのは1911年の書簡で、学問的意義として使用

l  神社合祀に自然破壊を見出したこと

本来信仰の問題だった合祀反対運動にエコロジーを持ち込むのは異質だが、信仰を持たなかった/嫌った熊楠は、合祀のもたらす多様な害を多角的に認識した中で生態系を持ち出す

l  「希少なもの」と「ふつうのもの」

熊楠の慧眼は、希少生物と同時に、「よくある種類」も並べているところにあり、両者相俟って保存することの重要性を説く。レイチェル・カーソンの50年前に社会運動として実践

l  身近なものを守る

ただ、高邁な思想や熱情というより、個人的関心や理由によるものだったともいえ、身近なものを守るというのが熊楠における自然保護だったのだろう

熊楠が変形菌やキノコ、シダ植物など隠花植物を専門とした故の総合的な発想であり、この頃牧野富太郎と交流があり、『南方二書』も送ったが、高等植物(被子・裸子植物)とシダを扱い、植物以外の分野には手を出さなかった牧野は反対運動には出てこない

熊楠の動きには一定の説得力があり、合祀阻止や那智に近い森林は保安林として保存。田辺湾の神島の神島神社の神社林は1953年国の天然記念物に指定

l  大山神社の合祀

熊楠が反対運動で最も力を入れたのが生まれ故郷の大山神社合祀で、1909年従弟の知らせで立ち上がるが、神社を残そうという従弟と森の保存まで主張する熊楠と意見の食い違いと村民の柑橘類転作への動きから、13年合祀されてしまう

以後反対運動から一切手を引き、文筆活動に中心を移すが、熊楠の運動は地元に根付き、その後の自然保護運動へと繋がる。1970年代の田辺湾天神岬の別荘地開発に反対し、全国から募金して土地を買い取り、日本におけるナショナル・トラストの先駆けとなる

 

第6章        田辺抜書の世界――人類史上もっとも文字を書いた男

l  インプットとアウトプット

熊楠の学問の日々は、インプットとアウトプットに分けられるが、そのアンバランスが不思議で、膨大なインプットに比べ、アウトプットは意外なほど少ない

インプットの代表例として抜書がある――東京からイギリス初期の課余(かよ)随筆が10冊、85年に和書を書写した南方熊楠叢書が10冊、アメリカ時代ノートが5冊、ロンドン抜書52(1万ページ以上)、帰国後の田辺抜書61冊。何れも書籍や雑誌記事を書写したもので、抜書としながら一言一句写したものもある。書物至上主義

l  田辺抜書の世界

スタートは田辺に定住して数年たった1907年。和紙で作った縦書きの罫紙を2つ折りにして100200丁に綴じたノートに書く。1行を2行にして使う。漢籍と日本の古典を織り交ぜながら写す。前年紀南最古の神社の宮司の娘と結婚、神社収蔵の古書を借りて写す

最後は1934年、紀南の寺社にまつわる文書を扱う

書写したもののうち、論考や書簡に用いたのは、全体の数パーセントにも満たない

l  『彗星夢雑誌(ぞうし)

田辺抜書の中で特に熱心に取り組んだのが『彗星夢雑誌』――親友の家に伝わる手書きの文書集で、幕末維新期に国内を飛び交った情報を親友の祖父がまとめたもの。雑録的な性格が強く、風説留(ふうせつどめ、民間で情報を書き留めた記録集)と位置付けられる。題名は1853年のクリンカーヒューズ彗星出現に因む

l  『彗星夢雑誌』との運命的な再会

最初に原本を見たのは中学時代。田辺に定住するようになって末の妹と偶然出会い、原本を借り受けたが、余りの量に最後まで書写するには至らず

l  『彗星夢雑誌』を論考に使わなかった熊楠

論考への入用(いりよう)の箇所が多くあることを知りながら、実際に載せたのは2例のみ

似たような文書が次々と出版されたこともあって、資料としての価値が失われた

l  抜書のもたらした指の疼痛

帰国後の抜書は墨と筆で書かれているが、それまではペンとインクで書写され、筆圧も強い方だったため指を痛めたようで、1935年には瘭疽(ひょうそ)で指骨関節が痛み筆が取れないくらいだった。同時に目も悪くなっている

 

第7章        英文論考と熊楠のプライド――佐藤彦四郎というライバル

l  一度も定職につかなかった熊楠

熊楠は一生を通じて一度も定職についていない。何度も教授招聘の話を謝絶

帰国後はもっぱら和歌山県内に居住、県外に出歩く事すら滅多になかったという

要因の1つは、県内に生物研究のフィールドに困らなかったことであり、もう1つは郵便の発達で国内外を問わず不便なく交流できたこと

l  原稿料と印税

英文誌への執筆が熱心だったのは、世界的な活躍というプライドの要素が大きい

著書は1926年発刊の3冊のみ。弟の常楠に頼ったが生活は苦しく、晩年弟子がついてパトロンとなって熊楠を支えた

l  『ネイチャー』への最後の投稿

最後の寄稿は1914年。同誌が急速に自然科学系の専門的な内容に変わったためにやめる

以後は『NQ』が主戦場。同誌が読者投稿による質疑応答誌であり、議論のやりとりの論考で賑わったためだが、熊楠も論争が好きで、投稿により他者との交流を楽しんだ

l  熊楠に論争を挑んだロンドン在住日本人ビジネスマン

NQ』は、ノート、クエリー、リプライの3つの欄からなり、熊楠の論考は、比較文化、科学史、東洋事情、民俗学の各分野に及び、たしかな存在感を発揮

1924年佐藤彦四郎の寄稿が始まる――1886年生まれ、東京高等商業(現・一橋)出身で芝川商店という毛織物商社のロンドン支店長となり、現地人と結婚して現地の書店で働き’38年没。主にクエリーに投稿し、イギリス人から必要な知識を教えてもらっていた

l  「日本におけるヨーロッパからの外来語」

1929年、掲題の質問が熊楠を意識して掲載されたが、日英間の郵便に3週間かかる間に佐藤が長大なリストをリプライに投稿。ただその後の質疑では熊楠が多数の資料を用い、学問的に語源を辿って見せたのは、熊楠ならではのものだった

 

第8章        妖怪研究――リアリスト熊楠とロマンチスト柳田国男

l  妖怪は民俗学のテーマではないのか

妖怪は民俗学の中心的テーマであるはずなのに、日本では禁忌

l  柳田国男という人物

柳田は兵庫県福崎出身で、熊楠の8歳下。法科大学から農商務省に入り、全国の農業を視察して回っている中で民俗学に関わり、1908年の宮崎でその基礎となる出発点に出会う

l  柳田と熊楠の出会い

1910年、合祀運動に関連して収監されていた熊楠が、留置場内で差し入れられた柳田の『石神問答』を読んで心を動かされるが、2人の間に交流が始まったのは翌年で、以後17年まで膨大な量の書簡の往復が行われる。直接会ったのは1度きりだが、両者とも相手の書簡を大切に保存

l  河童の正体を探る

日本の妖怪が多様化したのは江戸中~後期のこととされ、多種多様な妖怪が棲息し、固有の名前と姿を持っているが、それを整理したのが柳田。河童についても、まとめる段階で熊楠が全国各地の情報を提供

l  妖怪を否定する熊楠

熊楠は、妖怪の実在を信じていなかったが、妖怪にまつわる伝承や説話があることは否定せず、それを人間の文化と捉え、研究対象とした

l  山人論争

柳田は山人(山間に隠れ住む民)の実在を主張したが、熊楠は否定し、激しい論争の上柳田が敗北したことで、平地=農民主体の民俗学へ舵を切る契機となる

柳田のいう山人とは、サンカ(山窩)やドーニンなど、民族として山に暮らしてきた集団をさし、山から山へ渡り歩き、物々交換で生計を立てる人々で、先住民の生き残りだとする

熊楠は、過去の文献から、猿と山男が混ざったようなものだと実在を否定

l  オオカミに育てられた子

熊楠がもう1つ否定的な証拠として挙げたのが、ヨーロッパに古くからある「野生児」の伝説で、数年後に再び柳田が山人の話を蒸し返し、熊楠の批判を受けて結局農民を中心とする「常民」へ方向転換、柳田の系譜に連なる第2次大戦後の民俗学研究は「ふつうのひとたち」「抑圧され続けてきた庶民」の生活に寄り添うのを使命としていき、妖怪はタブー視

この時の溝が原因で、2人は絶信状態となる。1941年熊楠死去に際して柳田が朝日新聞に寄せた追悼文では、「片意地な所があって、研究成果をほとんど英文で発表」と言いながら、植物の分布を通じて現れた東西交通の研究成果を正当に評価している

l  ロマンを解さない熊楠

柳田と熊楠の差は、ロマンがあるかないか。柳田が、不思議なものに憧れ、その実在を肯定しないまでも信じたいと思うロマンチストだったのに対し、熊楠はリアリスト

柳田の『遠野物語』が妖怪研究のバイブルとなったのに対し、熊楠は妖怪研究に名を残さず、妖怪研究の中では等閑視される

柳田の学問は一国民俗学とも呼ばれ、日本国内にのみ目を向けたからこそ成立し得た側面があるので、熊楠のように諸外国の例を持ち出した比較民俗学の視点は相容れない

日本人を1つの民俗と考え、農民こそを日本人の典型に据えるような考え方は、この後の戦争の時代へと繋がっていく

 

第9章        変形菌(粘菌)とキノコ――新種を発表する方法

l  コレクターの2つのタイプ

熊楠は、全種類の制覇をめざすのではなく、好きな物、目についた物、たまたま出会った物を次々に集めるタイプ。和歌山県内のシダ植物の採集でも、現在分布が確認されているのは370種あるが、熊楠が集めたのは104種に留まる。計画的に採集した様子もない

l  コンプリートをめざさない熊楠

生物学分野で最も熱中したのはキノコ(真菌類)。約5250枚の「菌類図譜」が残され、変形菌(粘菌)200枚を遥かに超えるが、全国どころか和歌山県内を網羅することもない

牧野に植物標本を送るなど、むしろ彼の手足として機能

l  変形菌(粘菌)

キノコについてはほとんど発表しなかった反面、変形菌については業績が残る

熊楠が変形菌に本格的に取り組むようになったのは、イギリスを去るとき日本の隠花植物(花をつけない植物)の研究を勧められたから

l  新種発見の名誉共同体

1916年には自邸の柿の木から採取した変形菌が新種と認められ「ミナカテラ・ロンギフィラ」と名付けられた

変形菌は、胞子→アメーバ細胞または鞭毛細胞→変形体→子実体→胞子という生活環を辿る。変形体の時は自由に形を変えつつ栄養を求めて枯葉や枯木の上をまるで動物のように移動、乾燥や飢餓に見舞われると動くのを止めて、小さなキノコの様な子実体を形成し熟すと胞子を飛ばす。19世紀には生物界を動物と植物に二分する考えが主流だったが、両方の特徴を持つ変形菌は、生物の起源や進化の謎を解き明かす重要な存在と考えられた

そのことに気付いたのは熊楠の慧眼だったが、新種が見つからなくなるとキノコへ重点を移してしまうが、変性菌を研究していた昭和天皇の目に留まり、90点を献上するとともにご進講が始まる

l  キノコについて発表できなかった熊楠

新種の報告や、学術的な論文も発表しなかったために、牧野からも植物学者と見做されなかった。キノコについては、日本ではほとんど未調査だったが、東京時代から採集を始め、1940年にはF.4755の標本番号までいったが、無限の研究領域だった

l  『菌類図譜』には何が記されているのか

熊楠の『菌類図譜』は、キノコの水彩写生図、標本、胞子、英文記載の4要素からなる

海外の図鑑から学名を推定して記載されているが、内外で共通する種は少ないため、実際には別の種であったと考えられる。自身でも新種を次々に命名している

l  なぜ発表しなかったのか

キノコの多くは植物と共生して菌根を作るため、地域性が強く、英文発表には不適。日本のキノコ類については参考図書もなく、自身で命名せざるを得なかった面もある

『菌類図譜』は、歴代の国立科学博物館の研究員たちによって調査が進む

 

終章 熊楠の夢の終わり――仕事の完成と引退とは何か?

l  夢の研究

若い頃から睡眠中に見る夢の記録をつけ、ロンドン時代からは夢の研究を始め、最晩年まで続く。様々な方法論を試したり、古典に現れる夢の記録を参照したり、世界各地から類例を探したり、英文でも法文でもたくさんの文章を残す

未解明なもの、ずっと取り組み続けること、それこそが熊楠にとっての学問だった

l  学問からの引退

学者にとっての引退とは?

英文論考については、1932年限りで英誌の購読を中止、掲載も翌年が最後。理由は不詳

夢の研究や、菌類図譜も死の直前まで続けたが、田辺抜書は1934年で終わっている。邦文論考は41年まで続く

l  永遠に終わらない熊楠

インプットに重きを置き、なおかつコンプリートには関心を持たないタイプの学者であるが故に、分かりづらく評価も難しいが、インプットの解明が進むにつれ、巨大な情報データベースの構築に人生をかけて取り組んだ事実が浮かび上がる

こうした熊楠の活動を特徴付けるのが、未完性であり、現在の学問状況に異議を突き付けるものでもある

 

 

 

 

(書評)『未完の天才 南方熊楠』 志村真幸〈著〉

2023812 500分 朝日新聞

 完成の無意味さ、気づいた故に

 人間は未完の状態で生まれてくる。そして完成した存在であるなら、その魂はこの世に転生する必要は無い。未完ゆえに現世に生まれてくるのである。

 そういう意味では今生に生まれてきた人間のほぼ全てが未完といえる。そして生まれてきた以上、魂の完成を目指して一生励むことになっているが、そのことに興味の無い魂(人間)は別に完成を目指そうとしない。

 そして死の瞬間まで、ついに完成はない。結局、大半の人間は未完で生まれて完成を目指すが、ついに完成を見ずに死ぬことになる。

 「知の巨人」とも呼ばれる南方熊楠は、柳田国男と民俗学の礎を築いたが途中でけんか別れし、キノコの新種をいくつも発見したのに集大成となる本も出していない。熱中していた植物学の研究もパタリとやめた。

 熊楠が「未完の天才」ということは、完成を目指したが、その望みは魂の進化向上ゆえの完成で、この人生を最後の生と定め、輪廻のサイクルからの離脱を求め、可能ならば不退転者であろうと願ったゆえに、彼は完成を目前にしながらあえて未完で終わろうとしたのであろう。その結果、彼の魂は現世を離脱して、永遠の生を手にした不退転者であったかどうかは我々の知るところではないが――。

 熊楠は完成を嫌ったというか、完成の無意味さに気づいていたように思う。仮にそれが未完であったとしても、未完こそが進行のプロセスであるという点において、完成と認めることはできる。小さい未完の連続は、ある意味で未完という名の完成であるからだ。

 私は私の全ての作品を未完と定めている。つまり現世での完成はあり得ず、輪廻転生からの離脱の時に、未完の魂は天地逆転するのである。したがって現世では大方の魂は未完でいいのではないだろうか。それを確認した熊楠は、あえて未完こそ完成の進行形であると、わが魂に印象づけて、この現世を去ったのである。

 評・横尾忠則(美術家)

     *

 『未完の天才 南方熊楠』 志村真幸〈著〉 講談社現代新書 1034円 電子版あり

     *

 しむら・まさき 77年生まれ。南方熊楠顕彰会理事、龍谷大研究員。『南方熊楠のロンドン』でサントリー学芸賞。

 

 

Wikipedia

南方 熊楠(みなかた くまぐす、1867518慶応34151941昭和16年)1229)は、日本博物学者生物学者民俗学者

生物学者としては粘菌の研究で知られているが、キノコ藻類コケシダなどの研究もしており、さらに高等植物や昆虫、小動物の採集も行なっていた。そうした調査に基づいて生態学ecology)を早くから日本に導入した。

1929には昭和天皇進講し、粘菌標品110種類を進献している。

民俗学研究上の主著として『十二支考』『南方随筆』などがある。その他にも、投稿論文、ノート、日記のかたちで学問的成果が残されている。

フランス語イタリア語ドイツ語ラテン語英語スペイン語に長けていた他、漢文の読解力も高く、古今東西の文献を渉猟した。言動や性格が奇抜で人並み外れたものであるため、後世に数々の逸話を残している。

柳田國男から「日本人の可能性の極限」と称され、現代では「知の巨人」との評価もある。

概説[編集]

現在の和歌山県和歌山市に生まれ、東京での学生生活の後に渡米。さらにイギリスに渡って大英博物館で研究を進めた。多くの論文を著し、国内外で大学者として名を知られたが、生涯を在野で過ごした。

熊楠の学問は博物学民俗学人類学植物学生態学など様々な分野に及んでおり、その学風は、一つの分野に関連性のある全ての学問を知ろうとする膨大なものであり、書斎那智山中に籠って勤しんだ研究からは、曼荼羅にもなぞらえられる知識の網が生まれた。

1893明治25年)のイギリス滞在時に、科学雑誌『ネイチャー』誌上での星座に関する質問に答えた「東洋の星座」を発表した。また大英博物館の閲覧室において「ロンドン抜書」と呼ばれる9言語の書籍の筆写からなるノートを作成し、人類学や考古学宗教学セクソロジーなどを独学した。さらに世界各地で発見、採集した地衣・菌類や、科学史、民俗学、人類学に関する英文論考を、『ネイチャー』と『ノーツ・アンド・クエリーズ英語版)』に次々と寄稿した。

生涯で『ネイチャー』誌に51本の論文が掲載されており、これは現在に至るまで単著での掲載本数の歴代最高記録となっている。

帰国後は、和歌山県田辺町(現・田辺市)に居住し、柳田國男らと交流しながら、卓抜な知識と独創的な思考によって、日本の民俗、伝説、宗教を広範な世界の事例と比較して論じ、当時としては早い段階での比較文化学(民俗学)を展開した。菌類の研究では新しい70種を発見し、また自宅のの木では新しいとなった粘菌を発見した。民俗学研究では、『人類雑誌』『郷土研究』『太陽』『日本及日本人』などの雑誌に数多くの論文を発表した。

来歴[編集]

日付は1872年まで旧暦

慶応3年(1867415和歌山城城下町の橋丁(現・和歌山市)に金物商・雑賀屋を営む南方弥兵衛(後に弥右衛門と改名)、すみの次男として生まれる[注釈 1]。南方家は、海南市にある藤白神社を信仰していた。藤白神社には熊野神が籠るといわれる子守楠神社があり、藤白の「藤」と熊野の「熊」そして、この大の「楠」の3文字から名前をとると健康で長寿を授かるという風習がある。南方家の子どもたちは、全て藤白神社から名を授けてもらっているが、熊楠は特に体が弱かったため、「熊」と「楠」の二文字を授かった。生家には商品の鍋や釜を包むための反古紙が山と積まれており、熊楠は、反古に書かれた絵や文字を貪り読んで成長した。学問に興味を持ったのも幼年期からで父親の前妻の兄が学文好きだったので、その残した書籍を読んでおり、学校に入る前から大抵の漢字の音訓を諳んじていた。父弥兵衛は熊楠の様子を見て「この子だけは学問をさせようということで、随分学問を奨励して呉れた」と熊楠は語っている。そのため熊楠は就学前に寺子屋に通わせてもらっていた。他にも漢学塾心学塾にも通っている。

1873年(明治6年)、雄(おの)小学校(現、和歌山市立雄湊小学校)が創設され同校に入学。

1874年(明治7年)頃、近所の産婦人科佐竹宅で『和漢三才図会』を初めて見る。数え10歳の時に売りに出ていたものを父にねだったが買ってもらえなかった。

1876年(明治9年)、雄小学校卒業、鍾秀学校[注釈 2]に入学。

しかし父からあまり書籍を買ってもらえなかったため、岩井屋・津村多賀三郎から『和漢三才図会』105巻を借覧、記憶しながらの筆写を始める。この他12歳迄に『本草綱目』『諸国名所図会』『大和本草』等をも筆写も本格的に行う。これにより熊楠の生涯にわたり筆写で行なう学問スタイルが培われた。

1879年(明治12年)、和歌山中学校(現、和歌山県立桐蔭高校)が創設され同校に入学。教師鳥山啓から博物学を勧められ、薫陶を受ける(のちに鳥山啓は華族女学校教師となる。行進曲『軍艦』の作詞者として知られる)。5月~7月、『和歌山新聞』の記事の抜粋ノートを作成する。12月、作文「祝文」「火ヲ慎ム文」を書く。

1880年(明治13年)4月、作文「教育ヲ主トスル文」を書く。9月、 英語の本を参考にし、和漢の書籍と見比べて自作の教科書『動物学』を書き上げる。

1882年(明治14年)21日、『和漢三才図会』を写し終える。「南方熊楠辞」と題した書き込みは、家族内の問題に悩み「その積もる所終に発して病となり、今に全くは癒えざるぞ憂き」という言葉が見える。春には、父母、弟の常楠とともに高野山金剛峯寺を訪れて、弘法大師一千年忌の名宝展を見る。この目録の筆写を523日に作成。

上京[編集]

1883年(明治16年)、和歌山中学校を卒業し上京。神田共立学校(現・開成高校)入学。当時の共立学校は大学予備門(のちの東京大学)入学を目指して主として英語によって教授する受験予備校の一校で、クラスメートに幸田露伴の弟の成友らもおり、高橋是清からも英語を習った。この頃に世界的な植物学者バークレイが菌類6,000点を集めたと知り、それを超える7,000点の採集を志し、標本・図譜を作ろうと思い立った。またこの頃、手紙の控えなどから成る備忘録をつけている。

1884年(明治17年)9月、大学予備門に入学。同窓生には塩原金之助(夏目漱石)、正岡常規(正岡子規)、秋山真之寺石正路芳賀矢一山田美妙本多光太郎などがいた。学業そっちのけで遺跡発掘や菌類の標本採集などに明け暮れる。郷里では、父・弥右衛門が南方酒造(後の世界一統)を創業していた。

1885年(明治18年)11日、現在残された日記はこの日から始まり194112月の死去までほぼ毎日つけられている。4月、一人で鎌倉から江ノ島に旅行。海辺の動物を採取し、貝類を購入する。429日、日記に「余一昨日より頭痛始まり今日なほ已まず」と書き込む。512日、大森貝塚を訪れ、土器、骨片を拾う。6月、この頃から翌年にかけて『当世書生気質』『南総里見八犬伝』を一冊ずつ買い足して読んでいる。614日、眼病を理由に三学期の試験を欠席することを決定する。7月、日光に旅行。動物、植物、化石鉱物を採集している。1229日 期末試験で代数1課目だけが合格点に達しなかったため落第。予備門を中退。

米・英に留学[編集]

1886年(明治19年)1月、『佳人之奇遇4冊を購入。2月、和歌山へ帰郷。4月、羽山繁太郎の誘いを受け日高郡に旅行する。

心機一転し自由な学問ができる新天地を求め留学を決意。当時外国に留学するには莫大な費用がかかったが、その頃の南方家の財力は頂点に達しており問題はなかった。父親は当初熊楠の留学に反対していたものの徐々に熊楠の熱意に理解を示し、最終的に留学を後押ししたという。1020日より4日間『和歌山新聞』に送別会の広告が掲載される。26日、和歌山市内の松寿亭で送別会が開かれる。参加者は熊楠を入れて16人。このときの熊楠の演説に関しては草稿が残されている。1222日に横浜港を出航して渡米。船内で中国人乗客と筆談する。

1887年(明治20年)18日に米国サンフランシスコ着。パシフィック・ビジネス・カレッジに入学。8月にミシガン州農業大学(ミシガン州ランシング市、現・ミシガン州立大学)入学。当初は商業を学ぶ予定だったが次第に「商買の事」から離れていった[9]。ミシガン州立大学は一流大学であったが、熊楠は大学に入らず、例によって「自分で書籍を買い標本を集め、もっぱら図書館にゆき、曠野林中に遊びて自然を観察す(履歴書)」という生活を送る。熊楠は邦文のものは当時東京にいた弟の常楠から送ってもらい、英文のものは自ら購入して多くの書物や雑誌を読破していった。

1888年(明治21年)、寄宿舎での飲酒を禁ずる校則に違反して自主退学。ミシガン州アナーバー市に移り、動植物の観察と読書に勤しむ。この間、シカゴ地衣類学者ウィリアム・ワート・カルキンズwikidata(: William Wirt Calkins)に師事して標本作製を学ぶ。

この採集整理記載標本作りという生活スタイルは子供の頃に昆虫や藻などを空の弁当箱に詰めたことに始まって、学生時代、アメリカ放浪記を経て帰国後の那智隠遁棲期、田辺定住、そして晩年まで変わることはなかった。これは自分の病(癇癪など)を自覚した熊楠が自らに施した対症療法であろうと指摘されている。

18894月、てんかんの発作がおきる。日記によれば188610月以来のこと。819日、アナーバーにいるミシガン大学の日本人留学生に回覧するため、熊楠が手書きで発行した一部だけの個人新聞『珍事評論』第1号を発行。第3号まで発行。

18903月、プリニウス博物誌』(ラテン語)を購入する。5月、タイラー原始文化』、ハーバート・スペンサー社会学原理』などを購入。5月から11月にかけてヒューロン川の川辺や付近の森林で高等植物、菌類を中心に盛んに採集を行う。12月、シカゴのアマチュア植物学者カルキンスから菌類の標本を送られ、連日、分類目録を作成する。

1891年(明治24年)1月、カルキンスから地衣類60種一箱の標本を送られる。同年5月、フロリダ州ジャクソンヴィル市に移り、生物を調査。中国人の江聖聡が経営する食品店で住み込みで働く。新発見の緑藻を科学雑誌『ネイチャー』に発表、ワシントンD.C.国立博物館から譲渡してほしい旨の連絡が入る。

7月、ピトフォラ・オエドゴニアを採集する。9月にはキューバに渡り採集旅行。石灰岩生地衣を発見(ウィリアム・カルキンスから標本を送られたウィリアム・ニランデルにより、新種として「Gyalecta cubana(ギアレクタ・クバーナ)」と命名されるが、正式に発表されず)。

1892年(明治25年)1月、フロリダに戻り江聖聡と再び同居。9月に渡英した。日本を飛び出してから6年の歳月が流れ、熊楠は25歳になっていた。928日、イギリスで、88日に死去した父・弥右衛門の訃報を受ける。

1893年(明治26年)、科学雑誌『ネイチャー』105日号に初めて論文「極東の星座」を、同1012日号に論文「動物の保護色に関する中国人の先駆的観察」を寄稿。オーガスタス・ウォラストン・フランクスと知り合い大英博物館に出入りするようになる。考古学、人類学、宗教学などの蔵書を読みふける日々が続く。

1030日、自らの生涯にかけがいのない存在となる人物、土宜法龍と巡り合う。仏教を中心とした宗教論、哲学論で熱論を交わす。12月、土宜法龍に対して「事の学」の構想に関する長文の手紙を送る。

1894年(明治27年)、 『ネイチャー』517日号に論文「コムソウダケに関する最古の記録」を、1227日号に論文「『指紋』法の古さについて1」を寄稿。これらの論文はいずれも熊楠の中に蓄積された和漢の知識を駆使して書かれたものである。いわば「東洋の知」をもって英国の学会に切り込んだのである。こうした一連の仕事によって熊楠の名は英国の識者たちに知られるようになった。

1895年(明治28年)、フレデリック・ヴィクター・ディキンズと知り合う。大英博物館で東洋図書目録編纂係としての職を得る。『ネイチャー』627日号に論文「網の発明」を寄稿。またこの年の4月より「ロンドン抜書」を開始する。

1896年(明治29年)227日に母・すみが亡くなった。『ネイチャー』26日号に論文「驚くべき音響1」を寄稿。

1897年(明治30年)1月、シュレーゲルに落斯馬(ロスマ)のことについて手紙を送る。このあといわゆる「ロスマ論争[注釈 3]」に発展。 3月、ロンドンに亡命中の孫逸仙(孫文)と知り合い、親交を始める(孫文32歳、熊楠31歳)。6月、熊楠の日記中に孫文が友情のしるしとして「海外逢知音」を書き付ける。

118日、大英博物館で日本人への人種差別を受け暴力事件を起こす。12月、大英博物館より入館証を返してもらい読書を再開する。

189812月夕方、大英博物館の閲覧室で女性の高声を制し、監督官との口論の末、追い出される。14日、大英博物館から追放の通知を受ける。

1899131日、常楠よりの手紙を読み「此夜不眠」。仕送りを当年限りで打ち切るという内容の前年1221日付の常楠書簡が残されており、このことかと思われる。3月、南ケンジントン博物館での日本書の題号翻訳の仕事を始める。63日付の『N&Q』に同誌初めての投稿「神童」が掲載される。

紀南、植物採集・研究[編集]

1900年(明治33年)1015日、14年ぶりに日本に帰国。大阪の理智院(大阪府泉南郡岬町)、次いで和歌山市の円珠院に居住する。翌1901年(明治34年)、孫文が和歌山に来訪し、熊楠と再会して旧交を温める。

1902年(明治35年)、熊野にて植物採集。採集中に小畔四郎と知り合う。田辺を永住の地と定める。多屋勝四郎らと知り合う。『ネイチャー』717日号に論文「ピトフォラ・オエドゴニア」を寄稿。12月、プルタルコス対比列伝』英訳の読書を再開する。ルソー告白』をフランス原書で読み始める。

1903年(明治36年)、論文『燕石考』完成。『ネイチャー』430日号に論文「日本の発見」を、730日号に論文「ホオベニタケの分布」を寄稿。718日付の土宜法龍宛の手紙の中にいわゆる「南方マンダラ」の図を描き、「いずれの方よりも事理が透徹して、この宇宙をなす」ことを説明する。88日、この日付の土宜法龍宛の手紙の中で、引き続き独自の曼荼羅の思想について説明する。

1904年(明治37年)、田辺に家を借りる。2月、マイアーズの『人格とその死後存続』を読み始める。5月、ヒルシュの『天才と退行』を読み始める。カービーの『エストニアの英雄』を読み始める。

1905年(明治38年)4月より夜寝る前にシェイクスピア全集を読むことを日課とし、興が乗ると翌日朝にも続けて読んだ。日記に掲載されているだけでも23作品をこの時期に読破している[8]6月、ディキンズとの共訳『方丈記』の掲載された『王立アジア協会雑誌』1冊と抜刷11冊が送られる。

1906年(明治39年)2月、アーサー・リスターからジェップを通じて熊楠の送った47種の日本産変形菌の同定に関する手紙が送られる[8]7月、 田辺の闘鶏神社宮司田村宗造の四女松枝と結婚(熊楠40歳、松枝28歳)。6月、タブノキ(クスノキ科)の朽ち木から採集した粘菌の一種が新種として記載された。熊楠が発見した10種の新種粘菌のうち最初のもの[注釈 4]

1907年(明治40年)、前年末発布の神社合祀令に対し、神社合祀反対運動を起こす。624日に長男熊弥誕生。28日より「田辺抜書」を開始する。田辺図書館、田辺中学、法輪寺闘鶏神社などで借りた本の妙写。9月、バートン版の『アラビアン・ナイト12冊を購入し、就寝前に読み耽る。

1908年(明治41年)、『ネイチャー』1126日号に論文「魚類に生える藻類」を寄稿。

1909年(明治42年)9 、新聞『牟婁新報』に神社合祀反対の論陣を張る。

1910年(明治43年)、紀伊教育会主催の講習会場に酩酊状態で押し入り、翌日、家宅侵入で逮捕。監獄で新種の粘菌を発見したという。『ネイチャー』623日号に論文「粘菌の変形体の色1」を寄稿。

1911年(明治44年)、柳田國男との文通が始まり、1913年まで続いた。87日、この日付の柳田國男宛書簡で「植物棲態学 ecology」という言葉を用いる。1112日柳田宛書簡では「エコロジー」、1119日川村竹治宛書簡でも「エコロギー」という言葉を用いている。9月、柳田が『南方二書』を出版。1013日、長女文枝誕生。

1912年(明治45年/大正元年)、田辺湾神島(かしま)が保安林に指定される。

1913年(大正2年)、柳田國男が田辺に来て熊楠と面会する(熊楠47歳、柳田39歳)。この時、熊楠は緊張のあまり酒を痛飲し、泥酔状態で面会したという。この時の模様は柳田の著書「故郷70年」に詳しい。柳田は親友:松本烝治を伴って熊楠宅を訪れた。前述のように熊楠は泥酔していた。そして松本に対して「こいつの親爺は知っている、松本荘一郎で、いつか撲ったことがある」というようなことをいい出した。 ただし「故郷70年」によると面会は1911年になっている。

1914年(大正3年)、1月から192311月まで『太陽』に「十二支考」を連載。『ネイチャー』115日号に論文「古代の開頭手術」を寄稿。なお同年には第一次世界大戦が始まった。

1915年(大正4年)、アメリカ農務省の植物学者スウィングルが田辺を来訪し、神島を共同調査。『N&Q』に「戦争に使われた動物」を掲載。

1916年(大正5年) 、田辺に常楠(弟)の名義で家を買う。79日、自宅の柿の木で粘菌新属を発見[16]

19179月頃よりロシア語を独習し始める。雑誌に「ミイラについて」を掲載。11月頃から「馬に関する民俗と伝説」について調べ始める。

19185月頃、盛んに松葉蘭の研究と文通を行う。12月、「蛇に関する民俗と伝説」の執筆を始める。

1919924日、『大阪毎日新聞』に7回にわたって「百科学者」と題した熊楠の伝記が掲載される。

1920年(大正9年)2月、『集古』庚申一号に「なぞなぞ」を掲載。8月、土宜法龍の招きで小畔四郎らと高野山の菌類などを調査する。

1921年(大正10年)、粘菌新属をミナカテルラ・ロンギフィラドイツ語版Minakatella longifila、「長い糸の南方の粘菌」の意。現在の標準和名はミナカタホコリ)と命名される。命名者はロンドン自然史博物館の粘菌学者グリエルマ・リスターであった。2月、『現代』に「桑名徳蔵と橋抗岩の話」を掲載。また同誌7号から「鳥を食うて王となった話」を連載。

426日、南方植物研究所の発起人について、その後の追加を含めて原敬総理大臣以下28名の名前が『牟婁新報』に掲載される。9月、「の生きたのが来着」連載。10月、第2回の高野山訪問。12月、「犬に関する民俗と伝説」の執筆を始める。

1922年(大正11年)、南方植物研究所設立資金募集のため上京。多くの名士、知人と面会する。7月、日光に採集旅行。11月、植物研究所の基金が集まったことを理由に常楠が仕送りを停止する。

19234月、『N&Q』への投稿論文「鷲石考」を書く。9月、リスター宛てに日本産粘菌141種の目録を送る。

19243月頃、バートン版『アラビアン・ナイト』を連日読み、索引を追補。5月、「十二支考」等の論文の版権料として中村古峡から500円を半金として受け取る。

1925年(大正14年)、長男熊弥が精神異常を発症し、入院のち自宅療養。6月、「人柱の話」を連載。

1926年(大正15年/昭和元年)2月、『南方閑話』が刊行。5月、『南方随筆』刊行。イタリアの菌類学者ブレサドラ大僧正(ジアコーモ・ブレッサドーラ)の『菌図譜』 ("Iconographia Mycologica")の出版に際し、名誉委員に推される。11月、熊楠が品種選定した粘菌標品3790点を東宮(のちの昭和天皇)に進献する。

1927年、「現今本邦に産すと知れた粘菌種の目録」と「「田辺名物考」について」掲載。10月、『彗星』に「続『一代男輪講』の掲載を開始。以後、三田村鳶魚らの『西鶴輪講』に対する多数の注釈を同誌に発表。

192810月、妹尾官林で植物の採集と図記を行なう。

1929年(昭和4年)61日、 紀南行幸の昭和天皇に田辺湾神島沖の戦艦「長門」艦上で進講。粘菌標本を天皇に献上した。進講の予定は25分間であったが、天皇の希望で5分延長された。献上物はの箱など最高級のものに納められるのが常識だったが、開けやすくするため熊楠はキャラメルの大きな空箱に入れて献上した。

1930年(昭和5年)6月、天皇行幸を記念して自詠自筆の記念碑を神島に建立する。植物採集減る。

1933年、「今井君の「大和本草の菌類」に注記す」を掲載。

1934年、『ドルメン』に「地突き唄の文句」を連載。11月、神島の植物を調査し、「田辺湾神島顕著樹木所在図」を作製する。

1935年(昭和10年)8月、神島に渡って久邇宮多嘉王と妃・息子に講話する。1224日、 神島が国の天然記念物に指定される。

1936年、『牟婁新聞』に「新庄村合併について」を連載。

1939年、「訳本『源氏物語』の普及について」を『日本』に12回連載する。

1940年(昭和15年)1110日、学術功労者として東京での紀元二千六百年記念式典への招聘を受けるが、歩行不自由の理由で断る。

1941年(昭和16年)1229日、自宅にて永眠。死因は萎縮腎であった。満74歳没(享年75)。田辺市稲成町の真言宗高山寺に葬られた。

昭和天皇への進講[編集]

1929年(昭和4年)61日に昭和天皇を神島に迎え、「長門」艦上で進講(天皇の前で学問の講義をすること)を行なった。

昭和天皇は皇太子時代から一貫して生物学に強い関心を持ち、とりわけ興味を示したのが、海産生物ヒドロ虫と粘菌(変形菌)の分類学的研究であった。

熊楠の粘菌学の一番弟子であった小畔四郎は昭和天皇の博物学等の担当者・服部広太郎の甥の上司という関係で、服部から生物学講義のための粘菌の標本を見たいとの依頼を受けた。19262月、小畔から熊楠に手紙で、この機会に粘菌標本を40-50種類献上してはと相談した。これに対し、熊楠は3790点を、目録・表啓文・二種の粘菌図譜とともに1110日に進献した。この90点は日本の粘菌を研究する上で基本となる種を網羅する目的で選ばれた。

192935日、服部広太郎が熊楠邸を来訪して仮定の形で進講を打診。425日、進講の決定を知らせる服部広太郎の手紙が届く。

192961日午前8時、御召艦長門が田辺湾に姿を現す。熊楠は正午過ぎ田辺から漁船に乗り新庄村尊重たちと神島近海で待っていた。天皇は530分に長門に畠島から帰艦し、熊楠の進講を受ける。

熊楠はウガ、地衣グアレクタ・クバナ、海洞に棲息する蜘蛛、ナキオカヤドカリ隠花植物標本帖、菌類図譜、粘菌標本を持参。この内、蜘蛛、ナキオカヤドカリ、粘菌標本を献上した。粘菌標本は110点にのぼり、先の進献で漏れた普通種と稀産種、変種が中心で増補するのが目的だったと思われる。入れた箱は大きなボール紙製のキャラメル箱に入れて献上した。これは蓋が開けやすいためといわれてるが、自ら持参するのに軽いものを選んだとも考えられる。

熊楠が所持した標本は国立科学博物館に寄贈され、今は筑波実験植物園にある。

一周年の193061日に行幸記念碑が神島に建立された。

1962年、白浜を訪れた昭和天皇は田辺湾に浮かぶ神島を見て思いを馳せ、熊楠との一期一会を懐かしみ

「雨にけふる神島を見て紀伊の国の生みし南方熊楠を思ふ」

と詠んだ。その和歌が刻まれた御製碑は、1965年に設立された南方熊楠記念館の前庭に立っている。

学問[編集]

生物学[編集]

熊楠は博物学者として紹介されることが多いが、時代としては既に博物学は解体されており、熊楠の活動はその面では完全に植物学の分野に収まる。熊楠の専門分野はいわゆる隠花植物である。東京時代にアメリカのカーチスという学者が生涯に菌類を6000点収集したとの話を聞いて、自分は7000点を集めることを決心したとの逸話がある。

しかしながら、熊楠が生涯で最も時間をかけていたのは、実は顕花植物の収集であったらしい。渡米前には日光などで、またアメリカでも各地で植物採集を行い、帰国後は和歌山県南部の各地で多量の植物採集を行い、それらの標本は、保存状態はともあれ、多くが残されている。初期のものは台紙に張った正式な押し葉標本の形に整えられているものが多いが、後期のものの多くは新聞紙に挟まれただけである。またいくつかには詳細な書き込みや細部の図がつけられており、そのようなものからも彼がしっかりとした植物学者としての知識を持っていたことがうかがえる。ただし、熊楠自身は高等植物に関して専門家であると発言していない。しかし、自然保護運動にせよ、隠花植物の研究にせよ、高等植物に関する知識がその下地を作っていたのであろう。

熊楠については粘菌のことが取り上げられることが多いが、熊楠自身は隠花植物全般を専門にしていた。熊楠は非常に多くの標本を作製し、それらを図として残した。

淡水藻類についても多くのプレパラート標本が作られたのはわかっている。ただし、この分野については熊楠が発表したものも少なく、また標本の保存もよくないため、詳しいことはわかっていない。

菌類のうち、キノコについても熊楠は多くの努力を費やした。乾燥標本も多く作成したが、熊楠はキノコの彩色図に専門的な記載文をつけたものを3,500枚も作成した。熊楠の標本を検討した粘菌学者の萩原博光はこれについて「南方ほど多くの図と記載文を残した研究者は少ないだろう」と述べているという。

粘菌については、熊楠は古くから関心を持っていたのは間違いないが、初期にはむしろ植物や淡水藻類に努力を傾けており、標本の様子などから見て、その精力が注がれたのは田辺に居を定めてからであるらしい。熊楠は6,000点以上の変形菌の標本を残し、数度にわたって変形菌目録を発表した。熊楠が発見した新種は10種ほどがあり、中でもミナカタホコリには熊楠の名が残されたことでよく知られる。しかし、萩原は熊楠の先進性を別のところに認めている。ミナカタホコリは生きた樹木樹皮に発生するもので、このような環境に生息する変形菌の研究は1970年代以降に注目されるようになったものであり、また1990年代に注目されるようになった冬季に発生する粘菌にも熊楠が注目していたことがわかっている。

評価[編集]

このように、広範囲の分野に多くの研究を行っており、その残されたものから判断すると、熊楠が高度な専門家であったことは間違いない。しかしながら、熊楠はこれらの分野において、ほとんど論文を発表していない。これは、出版された論文をもって正式な業績と見なす科学の世界では致命的である。たとえば粘菌の分野では、熊楠は数度にわたって目録を発表しており、熊楠以前には日本から36種しか記録されていなかった日本の粘菌相に178種を追加した。これだけでも熊楠は変形菌研究の歴史に大きな名を残している。しかし、例えば熊楠は「新種」を記載してはおらず、熊楠の手による新種は、全て他の研究者によって発表されたものである。これはキノコの分野でも同じであり、そういった観点からは、熊楠に対しては「優れた観察者およびコレクター」(萩原(1999),p.245)という評価しかできない。

国立科学博物館筑波実験植物園植物研究部長の細矢剛は、『菌類図譜』について「記載方法が自己流で内容にもムラがある」ため生物学的な価値は高くないと指摘しつつ、においや味についても書き込んでいるのは熊楠自身のためのデータベース的な役割だったのではないかと推測し、文化的価値を認めている。ワタリウム美術館館長の和多利恵津子は『南方熊楠菌類図譜』(新潮社)においてアート作品としての面を評価している。

『ネイチャー』誌に掲載された論文の数は約50報、日本人最高記録保持者となっている[注釈 5] これについては、熊楠が目指していた菌類図説がもし発表されていれば、また評価は違ったかも知れない。ただ、熊楠自身の残したメモや日記、手紙類から、熊楠の学問について推測するための努力は今も続けられている。

論文[編集]

熊楠の手による論文はきちんとした起承転結が無く、結論らしき部分がないまま突然終わってしまうこともあった。また、扱っている話題が飛び飛びに飛躍し、隣人の悪口などまったく関連のない話題が突然割り込んでくることもあった。更に猥談が挟み込まれることも多く、柳田國男はそうした熊楠の論文に度々苦言を呈した。しかし、思考は細部に至るまで緻密であり、一つ一つの論理に散漫なところはまったくなく、こうした熊楠の論文の傾向を中沢新一は研究と同じく文章を書くことも熊楠自身の気性を落ち着かせるために重要だったためと分析している。「熊楠の文章は、異質なレベルの間を、自在にジャンプしていくのだ。(中略)話題と話題がなめらかに接続されていくことよりも、熊楠はそれらが、カタストロフィックにジャンプしていくことのほうを、好むのだ。」「文章に猥談を突入させることによって、彼の文章はつねに、なまなましい生命が侵入しているような印象があたえられる、(中略)言葉の秩序の中に、いきなり生命のマテリアルな基底が、突入してくるのだ。このおかげで熊楠の文章は、ヘテロジニアスな構造をもつことになる。」と分析。「こういう構造をもった文章でなければ、熊楠は書いた気がしなかったのだ。手紙にせよ、論文にせよ、なにかを書くことは、熊楠の中では、自分の大脳にたえまなく発生する分裂する力に、フォルムをあたえ満足させる、という以外の意味をもっていなかったからだ。」と考え、また熊楠の文体構造の特徴を「マンダラ的である」とも語り、「マンダラの構造を、文章表現に移し変えると、そこに熊楠の文体が生まれ出てくる。」とも述べている。

南方マンダラ[編集]

1903718日に土宜法龍との書簡の中で記されたマンダラ。書簡の中で図で記されている[5]。この図において熊楠は多くの線を使って、この世界は因果関係が交錯し、更にそれがお互いに連鎖して世界の現象になって現れると説明した。

概要は、わたしたちの生きるこの世界は、物理学などによって知ることのできる「物不思議」という領域、心理学などによって研究可能な領域である「心不思議」、そして両者が交わるところである「事不思議」という領域、更に推論・予知、いわば第六感で知ることができるような領域である「理不思議」で成り立ってる。そして、これらは人智を超えて、もはや知ることが不可能な「大日如来の大不思議」によって包まれている。「大不思議」には内も外もなく区別も対立もない。それは「完全」であるとともに「無」である。この図の中心に当たる部分(イ)を熊楠は「萃点(すいてん)」と名付けている。それは様々な因果が交錯する一点である熊楠によると、「萃点」からものごとを考えることが、問題解決の最も近道であるという。

熊楠の考えるマンダラとは「森羅万象」を指すのである。それは決して観念的なものではない。今ここにありのままに実体として展開している世界そのものにある。

自然保護運動[編集]

熊楠は自然保護運動における先達としても評価されている。

1906年(明治39年)末に布告された「神社合祀令」によって土着の信仰・習俗が毀損され、また神社林(いわゆる「鎮守の森」)が伐採されて固有の生態系が破壊されてしまうことを憂い、翌1907年(明治40年)から神社合祀反対運動を起こした。

特に、田辺湾の小島である神島の保護運動に力を注いだ。結果としてこの島は天然記念物に指定され、後に昭和天皇が行幸する地となった。熊楠はこの島の珍しい植物を取り上げて保護を訴えたが、地域の自然を代表する生物群集として島を生態学的に論じたこともあり、その点で極めて先進的であった。

この運動は自然保護運動、あるいはエコロジー活動の先がけとして高く評価されており、2004年(平成16年)に世界遺産(文化遺産)にも登録された熊野古道が今に残る端緒ともなっている。

記憶力[編集]

熊楠は子供の頃から、驚異的な記憶力を持つ神童だった。また常軌を逸した読書家でもあり、蔵書家の家で100冊を超える本を見せてもらい、それを家に帰って記憶から書写するという卓抜した能力をもっていた。この伝説については、一部分を丸暗記して筆写した可能性はあるが、105巻すべてをそのまま記憶して筆写したというのは虚構である。むしろ本を借りてきて写し書くことによって内容を隅から隅まで記憶していったというのが正確だろう。

熊楠は自身の記憶法については土宜法龍真言宗僧侶)に書簡で述べている。それを簡単にまとめると以下のようになる。

自分の理解したことを並べて分類する。

分類したまとまりを互いに関連させ連想のネットワークを作る。

それらを繰り返す。

日本の雑誌に論考を発表するようになってからも、必要なデータがどの本のどのページにあるか記憶していて、いきなりそのページをぱっとあけたり、原稿を書くときも、覚えていることを頭の中で組み立ててすらすらと書いていった。

蔵の中へ出たり入ったりしていてどこに何ページということはちゃんと覚えていた。よく「何ページにあるとおもったら、やっぱりあった」と言って喜んでいた。

田辺在住の知人野口利太郎は熊楠と会話した際、某氏の話が出た。熊楠は即座に「ああ、あれは富里の平瀬の出身で、先祖の先祖にはこんなことがあり、こんなことをしていた」ということを話した。野口は「他処の系図や履歴などを知っていたのは全く不思議だった」と述べている。

元田辺署の署長をした小川周吉が巡査部長をしていた頃、南方を色々調べたことがあった。その後、熊楠と一緒に飲んだが、他へ転任して20年ほど経って今度は署長として田辺へ着任した時、挨拶に行ったところ熊楠は小川の名前を覚えていたどころか、飲んだ席にいた芸者の名前や原籍まで覚えていて話したという。旧制中学入学前に『和漢三才図会』『本草綱目』『諸国名所図会』『大和本草』『太平記』を書き写した筆写魔(ただし『和漢三才図会』のみは筆写完了は旧制中学在学中)であり、また、旧制中学在学中には漢訳大蔵経を読破したといわれるが、研究が進展した現在、伝記を著した唐澤太輔は、南方が『華厳経』そのものを読んでいた形跡がないことを指摘しており、また友人土宜法龍は「仏教の有名な寓話(譬喩)を無理やり持ち出してきているだけで、教理をしっかり押さえていない(大意)」と批判指摘している。

さすがの熊楠も老化には勝てず、晩年は記憶力低下に対して様々な策を講じていた。本の内容を即座に検索できる索引の作成、自身の発表していた和文論文の利用。さらにどうしても思い出せないときは知人に手紙を宛てて文献の出典などを聞いていた。夜中の離れの書斎で独り言を言っていた。夜通し喋っており「このぐらいのことがおぼえられませんかね、バカやろう」「南方先生はバカだから」と言っていた。晩年はさすがに覚えていても忘れて、それを涙をこぼして歯がゆがった。「どうしてこんなことになったのかな」といった。

語学力[編集]

語学には極めて堪能で、十数言語(ときに、二十数言語)解したと言われる。中でも英語フランス語ドイツ語イタリア語ラテン語スペイン語について、専門書を読み込む読解力を有していた。また、ギリシア語ロシア語などに関しても、ある程度学習したと考えられる。ただし、話したり書いたりしていることが確かめられる外国語は英語のみであり(参考文献では他言語も引用していた)、十数言語を「自由に操った」というのは伝説と考えられる。

語学習得の極意は「対訳本に目を通す、それから酒場に出向き周囲の会話から繰り返し出てくる言葉を覚える」の2つだけであった。

英語運用能力が知識人として十分であったことは大英博物館スタッフや文学者アーサー・モリソンを含むイギリス知識人との交友や、『全集』の400ページに及ぶ英語論文が示している。

フランス語も著作での引用から、多数の文献を読みこなすに十分な読解力があったと評価してよい。

ドイツ語、イタリア語、スペイン語はいずれも「ロンドン抜書」での筆写量はそれなりの量に及ぶが、論述での利用はかなり少なくなる。

サンスクリット語については、熊楠の知識が土宜法龍との出会いを取り持った可能性がある。

ロンドン大学事務総長の職にあったフレデリック・ヴィクター・ディキンズは『竹取物語』を英訳した草稿に目を通してもらおうと、熊楠を大学に呼び出す。熊楠はページをめくるごとにディキンズの不適切な翻訳部分を指摘し、推敲するよう命じる。日本語に精通して翻訳に自信を持っていたディキンズは、30歳年下の若造の不躾な振る舞いに「目上の者に対して敬意も払えない日本の野蛮人め」と激昂。熊楠もディキンズのこの高慢な態度に腹を立て、「権威に媚び、明らかな間違いを不問にしてまで阿諛追従する者など日本にはいない」と怒鳴り返す。その場は喧嘩別れに終わるが、しばらくして熊楠の言い分に得心したディキンズは、それから終生、熊楠を友人として扱った。

人物[編集]

奇行が多かったことで知られる。異常な癇癪持ちであり、一度怒り出すと手がつけられないほど凶暴になると、両親など周囲の人々は熊楠の子供時代から頭を抱えていた。熊楠も自分のそういった気性を自覚しており、自分が生物学などの学問に打ち込むことは、それに熱中してそうした気性を落ち着かせるためにやるものだと、柳田國男宛の書簡で書いている。

多汗症から、薄着あるいは裸で過ごすことが多かった。田辺の山中で採集を行った際、ふんどしだけの裸で山を駆け下り、農村の娘たちを驚かせたために「てんぎゃん」(紀州方言天狗のこと)と呼ばれたという話も残る。

裸になるのは6月頃から9月半ばまでだった。裸は裸でも普通の人とは違い、盛夏には邪魔になるものは全部取り除け、一糸まとわぬ、それこそ生まれたままの姿になった。

渡米の前に「僕もこれから勉強をつんで、洋行すましたそのあとは、降るアメリカをあとに見て、晴るる日の本立ち帰り、一大事業をなしたのち、天下の男といわれたい」という決意の都々逸を残している。この留学は徴兵で子供を失うことを危惧していた父と、徴兵による画一的な指導を嫌った熊楠との間で利害の一致を見たために実現したと考えられている。

幼少のころは興味のない科目には全く目を向けず散漫な態度を教師に叱られ、大学時代も勉学に打ち込む同級生を傍目に「こんなことで一度だけの命を賭けるのは馬鹿馬鹿しい」と大学教育に見切りをつける。

好きであったことで有名。ロンドン留学から帰国後、猫を飼い始める。名前は一貫してチョボ六。ロンドン時代は、掛け布団がわりに猫を抱いて寝ていたという。のちに妻となる松枝に会う口実として、何度も汚い猫を連れてきては猫の体を松枝に洗ってもらった。

熊楠は、柳田國男にジョージ・ゴム英語版)(George Laurence Gomme)編『The handbook of folklore(民俗学便覧)』を貸している。これは、日本の民俗学の体系化に大きな影響を与えることとなった。

ホメロスの『オデュッセイア』が中世日本にも伝わり、幸若舞などにもなっている説話『百合若大臣』に翻案されたという説を唱えた。

生涯定職に就かなかったためにろくに収入がなく、父の遺産や造り酒屋として成功していた弟・常楠の援助に頼りっきりだった。常楠は、奇行が多い上に何かにつけて自分に援助を求めてくる兄を快く思っておらず、研究所設立のため資金集めをしていたときに遺産相続の問題で衝突して以降、生涯絶縁状態になった。熊楠が危篤の際には電報を受けて駆けつけたが、臨終には間に合わなかった。

口からの内容物を自在に嘔吐できる反芻胃を持つ体質で、小学校時代もケンカをするとパッと吐いた。そのため、ケンカに負けたことがなかったという。

蔵書家ではあったが、不要な本はたとえ贈呈されたものであっても返却したという。また、「学問は活物(いきもの)で書籍は糟粕だ」とのことばも残している。ただし、残されている蔵書のほとんどはシミ一つなく色褪せない状態で保存されているという。

酒豪であり、友人とともに盛り場に繰り出して芸者をあげて馬鹿騒ぎをするのが何よりも好きだった。酔って喧嘩をして警察の世話になるなど、酒にまつわる失敗も少なくなかった。

江戸川乱歩岩田準一とともに男色衆道)関連の文献研究を熱心に行ったことでも知られている。戦前の日本では男色行為は決して珍しいことではなかったが、熊楠自身にそういった経験があったかどうかは不明である。

当時の人間にしては珍しく、比較的多くの写真が残っているため、写真に撮られるのが好きだったといわれている。

臨終の際、医者を呼ぶかと問われると「紫の花が消えるから」と拒否したという。

熊楠の脳は大阪大学医学部ホルマリン漬けとして保存されている。熊楠本人は幽体離脱幻覚などを度々体験していたため、死後自分の脳を調べてもらうよう要望していた。MRIで調べたところ右側頭葉奥の海馬に萎縮があり、それが幻覚の元になった可能性があるといわれる。

甘いもの、特にあんパンが好物で、好きな人にもよくあげたという。近所の子供にもあげていた。

初対面の人や大勢の前で話すのが不得手で羞恥・恐怖心をまぎらすためビールを鯨飲したが昭和には酒を止めた。娘の文枝によれば、深酒して孫文の手紙を騙しとられたのが理由と述べている。タバコはゴールデンバットや吸い口のついた敷島だった。ブランチはバターを塗った食パンが中心だった。他に好物はニラの味噌汁、類(特にステーキ)、ウナギの蒲焼き、のレバー、空豆の醤油煮、鶏の天ぷら。苦手なものは刺身で、理由は寄生虫を心配したため。

徹夜のときはアンパン6つと決まっていた。

洋服は最初のボタンをかけ違えば最後までうまく合わないからと嫌って、四季を通じて和服だった。

風呂が好きだった。ぬるめの湯船に目をつむって長時間過ごすのが常だった。何か構想を練るときの憩いの場所であった。二時間ぐらい入っていた。気に入った人がくると自分が風呂に入っているときは、風呂のところにたたせてぬくもりながら二時間ぐらい話していた。

8時に研究室から出て寝室に入り、夕方6時に熟睡から覚めて研究室に入る夜型の生活を送っていた。このため昼間の訪問客は常に門前払いをされており、人間嫌いと評されていた。

エピソード[編集]

手紙でも原稿などを書き出したら決して反故にせず、書き損じて破ったりするような事も一切なく、続けて一気に書いた。休むにしても2時間程で起き出して、夜中の何時であっても構う事は無かった。

机の上では書き物をせず、の上で何も敷かずに描いていた。手紙を書く時も座布団を除けて畳の上へ巻き紙を置き、座って書いた。若いうちは机にしたりテーブルにしていたが、晩年は足の具合が悪いので畳だった。

本を読んだり書き物をしている時は八畳の離れで過ごし、そこから一切出る事が無かった。「飯も言うてくるな」と自分に食事をさせるなと言ったが、そのうち出てきて「今朝から飯食ったか」と食べたかどうかさえ覚えていない程、没頭していた。

夏は離れの部屋でうたた寝する程度の就寝習慣で、蚊帳に入って寝たことがなく、大抵は起きて過ごしていた。このような睡眠時間であっても3日くらいは大丈夫だった。

熊楠が飼っていた2001(平成13年)7月まで生きていた。正確な年齢はわからないものの、100歳程といわれる。

1941年(昭和16年)112日、海南市藤白にいる熊弥に、『日本動物図鑑』を届けたことが日記にある。1116日、『今昔物語』上巻(辻本尚古堂、1896年、江戸時代の井沢長秀注本を活字にしたもの)に「此今昔物語二冊、代金三円、昭和十六年一月十六日東京神田神保町一誠堂書店より購収、娘文枝ニ与フル者也、南方熊楠」と書き入れた。128日の真珠湾攻撃の報道を知っていたかどうか、当日には何の記載もない。

大英博物館の図書館で閲覧者に人種差別発言を受けた熊楠は大勢の前で頭突きを喰らわせ3か月の入館禁止となった。1年後に再度同じ者を殴打したため博物館から追放されたが、学才を惜しむ有力イギリス人たちから嘆願書が出され復職した。

電灯が嫌いで常に提灯を使用していたが、ある時、本棚へかけて燃えだすぼやを起こしてしまい、これをきっかけに電灯を使うようになった。

熊楠が昼寝中に来客があった時の事、留守だと言うのだが伸ばした両足が玄関から見え、居留守だと分かっていた。客が「本当なのですか」と尋ねると「本人自身でそう言ってるので間違いなし」と答えるので家の者たちは冷や汗をかいた。

ストーブは無かったため、妻はいつ熊楠が起きてもいいように火鉢に炭団をくべて暖をとり、お茶はいつでも沸いているようにしていた。

風呂から上がっても濡れた体を拭くこともせず浴衣も着ずに裸でいたので、妻が風呂から台所までゴザを敷き詰めていた。寒い日でも変わらずに同じ行動をしていた。

著作[編集]

生前刊行本[編集]

『南方二書』柳田國男編(私家版小冊子) 1911

『南方閑話』坂本書店 1926

『南方随筆』岡書院 1926

『続南方随筆』岡書院 1926

全集・選集・日記[編集]

『南方熊楠全集』全12 乾元社 19511952

『南方熊楠全集』全10巻別巻2 平凡社 19711975

『南方熊楠選集』全6巻別巻1 平凡社 1984

『南方熊楠日記』全4 長谷川興蔵編、八坂書房 19871989

書簡集[編集]

『南方熊楠書簡集』紀南文化財研究会編、紀南文化財研究会(紀南郷土叢書・第11輯) 1981 増補版1988

『南方熊楠書簡抄 宮武省三宛』笠井清編、吉川弘文館 1988

『南方熊楠書簡 盟友毛利清雅へ』中瀬喜陽編、日本エディタースクール出版部 1988

『門弟への手紙 上松蓊へ』中瀬喜陽編、日本エディタースクール出版部 1990

『竹馬の友 小笠原誉至夫宛書簡』長谷川興蔵・小笠原謙三編、八坂書房 1993

『南方熊楠書翰 高山寺蔵 土宜法龍宛1893-1922』奥山直司・雲藤等・神田英昭編、藤原書店 2010

『キノコ四天王 樫山嘉一宛南方熊楠書簡』吉川壽洋編、南方熊楠記念館 2011

往復書簡集[編集]

『柳田国男・南方熊楠 往復書簡集』飯倉照平編、平凡社 1976年/平凡社ライブラリー(上・下) 1994

『南方熊楠・土宜法竜 往復書簡』中瀬喜陽・長谷川興蔵編、八坂書房 1991

『南方熊楠男色談義 岩田準一 往復書簡』長谷川興蔵・月川和雄編、八坂書房 1991

『南方熊楠・リスター往復書簡』 山本幸憲編、南方熊楠邸保存顕彰会 1994

『南方熊楠・平沼大三郎 往復書簡〈大正15年〉』南方熊楠顕彰館(南方熊楠資料叢書) 2007

『南方熊楠・小畔四郎 往復書簡(全4巻)』南方熊楠顕彰館(南方熊楠資料叢書) 20082011

著作(編者版)[編集]

『南方熊楠随筆集』益田勝実編、筑摩書房〈筑摩叢書〉 1968年/ちくま学芸文庫 1994

『十二支考』全3 飯倉照平校訂、平凡社東洋文庫 197273年、ワイド版2006

『南方熊楠文集』全2 岩村忍編、平凡社東洋文庫 1979年、ワイド版2006

『熊楠漫筆 南方熊楠未刊文集』飯倉照平・鶴見和子・長谷川興蔵編、八坂書房 1991

『南方熊楠コレクション』全5 中沢新一編・解説、河出書房新社〈河出文庫 199192年、新装版2015

I 南方マンダラ、II 南方民俗学、III 浄のセクソロジー、IV 動と不動のコスモロジー、V 森の思想

『十二支考』(上・下)宮田登解説、岩波文庫 1994年、ワイド版2003

『南方熊楠 珍事評論』長谷川興蔵・武内善信校訂、平凡社 1995

『南方熊楠 履歴書 ほか』〈人間の記録84〉日本図書センター 1999

英文著作(編訳版)[編集]

『南方熊楠英文論考 「ネイチャー」誌篇』 飯倉照平監修・松居竜五・田村義也・中西須美訳、集英社 2005

『南方熊楠英文論考 「ノーツ アンド クエリーズ」誌篇』 飯倉照平監修・松居竜五・田村義也・中西須美・志村真幸・南條竹則・前島志保訳、集英社 2014[44]

復刻版[編集]

『南方随筆』萩原星文館 1943

『南方随筆 正・続』復刻版 沖積舎 1992

『南方二書 原本翻刻』南方熊楠邸保存顕彰会 2006

資料・目録[編集]

『南方熊楠菌誌』第12 小林義雄編・解説、八坂書房 1987-89 熊楠の英文記載・和文解説

『南方熊楠菌誌』第1巻〜第5 同上、南方熊楠記念館 1989-96 改訂版

『南方熊楠菌類彩色図譜百選』小林義雄編、学伸社エンタプライズ 1989

『南方熊楠記念館蔵品目録 資料・蔵書篇』南方熊楠記念館 1998

『南方熊楠変形菌標本目録』萩原光博編、南方熊楠顕彰館 1999

『南方熊楠邸蔵書目録』南方熊楠資料研究会編、南方熊楠邸保存顕彰会 2004

『南方熊楠邸資料目録』南方熊楠資料研究会編、南方熊楠邸保存顕彰会 2005

『南方熊楠プレパラート標本目録』萩原光博編、南方熊楠顕彰館 2005

『南方熊楠菌類図譜』ワタリウム美術館編・萩原博光解説、新潮社 2007 120枚を厳選。

評価・顕彰[編集]

1946年秋に満州より引揚帰国した岡田桑三は、渋沢敬三に南方熊楠顕彰事業開始を働きかけ、およそ1年後の194710月、熊楠と親交のあった杉村楚人冠の子息で朝日新聞記者であった杉村武の尽力で、朝日新聞社会議室で渋沢の呼びかけによるミナカタソサエティ準備会が開催され、渋沢が会長に、岡田が代表幹事に指名された。昭和天皇が、1948年に渋沢に熊楠の標本の現状を質したことも、ソサエティによる戦後初期の顕彰活動にはずみをつけた。ソサエティによる活動成果には、乾元社版「南方熊楠全集」の編纂・刊行と「ミナカタ・クマグス展」1951年の開催が挙げられる。

1962年(昭和37年)5月、白浜町を行幸した昭和天皇は御宿所の屋上から神島を眺めて御製「雨にけぶる 神島を見て 紀伊の国の 生みし南方熊楠を思ふ」を詠んでいる。これは、昭和天皇が民間人を詠んだ最初の歌であった。この歌碑は、白浜町の南方熊楠記念館のある番所山に建てられている。

1965年(昭和40年)4月、白浜町の絶景の地である「番所山」に、熊楠の娘婿である岡本清造(日本大学経済学部教授・水産経済学者)や地元関係者の尽力により「南方熊楠記念館」が開館、主要な遺品、資料が展示されている(運営は公益財団法人南方熊楠記念館)。

1980年代に入り南方再評価の動きが生じ、1987年(昭和62年)地元和歌山県田辺市では、熊楠の業績を顕彰し、あわせてその終の栖となった旧邸を保存することを目的として、1987年(昭和62年)6月に「南方熊楠邸保存顕彰会(現・南方熊楠顕彰会)」が発足、1989年(平成元年)から募金活動を展開した。田辺市は、顕彰会が集めた寄附金とふるさと創生資金を基金として積み立て、その利息を財源として邸内の資料の調査研究(南方熊楠邸資料研究会)や整理保存、南方熊楠賞の制定・実施、南方を訪ねての開催、南方邸の公開等、熊楠の業績を顕彰する事業を南方熊楠邸保存顕彰会とともに官民協働で実施した。2000年(平成12年)に長女文枝が亡くなった後、その遺志によって旧邸と蔵書・資料はすべて田辺市に遺贈された。これを契機として、熊楠の遺産を恒久的に保存し、その思想および学問活動に関する調査・研究を行うとともに、その成果を発信するための拠点として旧邸の隣地に南方熊楠顕彰館を建設、旧邸を熊楠存命時のすがたに改修した。その建設・改修資金には基金が充てられた。なお、熊楠没後邸内に残されていた資料は、遺族の段階で、一部が南方熊楠記念館に、高等植物標本を除く植物標本は国立科学博物館植物研究部に移管されたが、高等植物標本とほとんどの蔵書・資料は南方熊楠顕彰館が引き継いでいる。

出生地和歌山市では、橋丁の生誕の地に南方熊楠の胸像を建てている。

1990年に週刊少年漫画誌である『週刊少年ジャンプ』において、岸大武郎により『てんぎゃん -南方熊楠伝-』というタイトルで、熊楠の半生がその奇行・暴れぶりから研究現場での苦闘まで鮮やかに漫画化されたが、雑誌の購買層には合わず、短命漫画となった。なお、当作品は一部完(熊楠がイギリス留学に旅立つ)という形で連載を終えているため、岸大武郎は留学してからのプロットも構想済みである。しかし、現在は版権の関係で連載を再開することはできないため、未完のままとなっている。

2017年は南方熊楠生誕150年となり、田辺市は熊楠の功績をたたえ名誉市民の称号を贈ることとなった。

家族[編集]

父:南方弥右衛門(1829-1892 - 南方酒造(現:世界一統)創業者。入野村(現川辺町入野)の向畑庄兵衛の次男で、南方家の娘と結婚し、南方弥兵衛となる。南方家は雑賀屋(さいかや)と呼ばれた商家で、西南戦争の好況で巨利を得、和歌山県で5番目といわれる資産家。妻に先立たれ、熊楠たちの母となる西村すみと再婚。長男に家督を譲ったのち弥右衛門を名乗る。明治17年(1884年)に南方酒造(のち世界一統)を創業、明治23年(1888年)に三男が継承。

母:すみ - 旧姓西村。紀州藩医師徳田諄庵の遠縁。

兄:藤吉(1859-1924 - 明治11年(1878年)より家督を継ぎ弥兵衛を名乗る。好色気ままのため破産するだろうという父親の予言通り、妾を5人囲い、相場に手を出して明治30年に破産し、弟・常楠の世話になる(『南方熊楠 履歴書(矢吹義夫宛書簡)』より)

姉:垣内くま(1864-1924) - 東京小石川の垣内家に嫁ぐ。熊楠によると、和歌山で有数の美女。三味線を引きながら頓死

弟:常楠(1870-1954 - 世界一統第2代社長。東京専門学校(現早稲田大学)卒。父親から自分の跡を継ぐべき者と信頼され、父没後本家として酒造を継ぐ。熊楠には長兄の破産の影響で困窮し仕送りできなくなったとしていたが、のちにそれが嘘であり、熊楠の分の遺産まで使っていたことがわかり、熊楠を嘆かせた(『南方熊楠 履歴書(矢吹義夫宛書簡)』より)。常楠側は海外留学中の支援で熊楠分の遺産は使い果たしたという理解であり、研究ばかりで稼ぎのない兄に不満があったとされる。和歌山市会議員。妻・ます(旧姓中野)との間に2児。

妹:藤枝(1872-1887 - 16歳で夭折

弟:西村楠次郎(1876-1921

妻:松枝(1876-1921 - 鬪雞神社の社司・田村宗造の四女で、明治39年(1906年)に結婚、娘とともに晩年の熊楠を助けて『菌類図譜』などの研究活動を手伝った。

長男:熊弥(1907-1960 - 1907年(明治40年)624日生まれる。幼名・蟇六。旧制高知高校受験中に精神の病を発症し、50代半ば(1960年)で死去。

長女:文枝(1911-2000 - 1911年(明治44年)1013日生まれる。1946年(昭和21年)に岡本清造と結婚する。2000年(平成12年)没。

子孫[編集]

長男の熊弥、長女の文枝ともに子がいなかったため、熊楠直系の子孫は途絶えた。熊楠の実弟である常楠の家系は、世界一統という造り酒屋として現在も続いている。

主要論文[編集]

涅齒に就て 東京人類學會雜誌 Vol.23 (1907-1908) No.270

本邦産粘菌類目録 植物学雑誌 Vol.22 (1908) No.260

本邦に於ける動物崇拜追加 東京人類學會雜誌 Vol.26 (1910-1911) No.296

山神「オコゼ」魚を好むと云ふ事 東京人類學會雜誌 Vol.26 (1910-1911) No.299

西暦九世紀の支那書に載たる「シンダレラ」物語 異れる民族間に存する類似古話の比較研究 東京人類學會雜誌 Vol.26 (1910-1911) No.300

秘魯國に漂着せる日本入 人類學雜誌 Vol.28 (1912-1913) No.10

訂正本邦産粘菌類目録 植物学雑誌 Vol.27 (1913) No.321

厠神 人類學雜誌 Vol.29 (1914) No.5

詛言に就て 人類學雜誌 Vol.30 (1915) No.4

一枚齒齒が生た産れ兒 人類學雜誌 Vol.30 (1915) No.11

眼と吭に佛有りと云ふ事 人類學雜誌 Vol.31 (1916) No.2

山の神に就て 人類學雜誌 Vol.32 (1917) No.5

親の言葉に背く子の話 人類學雜誌 Vol.33 (1918) No.1

西神と十二獣に就て 人類學雜誌 Vol.34 (1919) No.8

現今本邦ニ産スト知レタ粘菌種ノ目録 植物学雑誌 Vol.41 (1927) No.482

注釈[編集]

^ 熊楠の生まれた時、父弥兵衛は39歳、母住が30歳であった。ちなみに、この二人の間には、長男藤吉、長女くま、次男熊楠、三男常楠、次女藤枝、四男楠次郎の6人が生まれている。生誕地は橋丁二十二番地、その跡地に当たる駐車場の角に、和歌山市によって熊楠の胸像が1994年に建てられている[7]

^ 速成中学校(旧制の高等小学校と同じ)で希望者のみ入学した。

^ 中国代の辞書『正字通』にある「落斯馬」という動物がイッカクであると書いたシュレーゲルに対し、熊楠はセイウチであると主張した論争。熊楠が勝利。

^ 発見場所は、稲荷村(現・田辺市)の糸田にある猿神(古くは山王権現社と呼ばれていた)で、高山寺のある台地の会津川に臨む見晴らしの良い場所にあった[13]

^ 当時の『ネイチャー』誌における投稿論文は、現在の査読を行わない読者投稿欄のようなものであった[要出典]

^ 写真多数の図版本。長谷川興蔵(1924-1992)は、編集者として生涯かけ平凡社・八坂書房で著作資料の校訂を担当した。

^ 同じ谷川健一編で、熊楠を柳田国男・折口信夫と比較論考した『南方熊楠、その他』(思潮社、1991年)がある。

^ 著者没後に刊、編者ほか3名による共著。

 

 

 

コメント

このブログの人気の投稿

近代数寄者の茶会記  谷晃  2021.5.1.

新 東京いい店やれる店  ホイチョイ・プロダクションズ  2013.5.26.

自由学園物語  羽仁進  2021.5.21.