コソボ 苦闘する親米国家  木村元彦  2023.10.14.

 2023.10.14. コソボ 苦闘する親米国家 

  ~ ユーゴサッカー最後の代表チームと臓器密売の現場を追う

 

著者 木村元彦 1962年愛知県生まれ。ジャーナリスト。中央大文卒。アジア・東欧などの民族問題を中心に取材・執筆。著書に『悪者見参』、『終わらぬ民族浄化』、『オシムの言葉』で2005年度ミズノスポーツライター賞最優秀賞受賞

 

発行日           2023.1.31. 第1刷発行

発行所           集英社インターナショナル

 

序章 NATO空爆後、放置された民族浄化

1990年代は、ユーゴ紛争に於いて、米国のルーダー・フィン社(所謂戦争広告代理店)と大手テレビ局が、ボスニア・ヘルツェゴビナ政府をクライアントとして作り上げた「セルビア勢力だけが一方的な悪者」という「セルビア悪玉論」が世界的に流通したが、名古屋グランパスのストイコビッチ(現セルビア代表監督)Jリーグの降格争いの常連だったジェフ千葉にナビスコカップ優勝をもたらしたイビツァ・オシムの生き様は、民族が融和していた古き良きユーゴの理念を体現していた

ユーゴにはサッカーの才能に恵まれた選手が多く、コソボもその例外ではないが、16年にFIFA加盟を果たしながら国としての成績は低迷、その理由の1つがコソボをルーツに持つ選手の多くがコソボ代表を選択しないこと。その背景にはコソボ人という概念が全く成立していないことにある。国旗の6つの星がコソボに居住する6つの民族、アルバニア人、セルビア人、トルコ人、ゴラン人、ボシュニャク人、ロマを意味しているように、コソボは多民族国家であり、その理念の下に誕生したはずだが、皆が同じ方向を向いていない

人口の9割を占めるアルバニア人のほとんどは自分をコソボ人ではなくアルバニア人と思っていてアルバニアとの合併を主張し、セルビア人にとってはコソボは中世より栄えたセルビア正教の聖地であり民族発祥の地として独立など認めるわけにはいかない

コソボ独立の端緒は、1999年米国がNATO軍を主導して行ったセルビア全土への空爆

コソボはユーゴ連邦構成員のセルビア共和国のけるアルバニア人の自治州だったが、セルビア人への迫害が始まったため、自治権を剥奪され、非暴力主義の新政府と、武力でセルビア治安部隊に対抗するKLA(コソボ解放軍)が並立、内戦状態となる。99年アルバニア民間人に対する虐殺が勃発、西欧連合グループによる調停が行われたが、米軍によるユーゴの実質植民地化を要求する内容だったためセルビアが拒否し、NATOによる空爆開始

空爆によってセルビア治安部隊はコソボから撤退。以降コソボに関する報道が途絶えた

その空白を追ったのが本書

 

第1章        コソボのマイノリティ 20062009

1. 二度と戻れぬ生家を尋ねて

空爆によってセルビア治安部隊が撤退すると、UNMIK(国連コソボ暫定統治機関)KFOR(NATO主体のコソボ治安維持部隊)の監視下にありながら、セルビア人が「民族浄化」の標的となり、居住地を追われるのみならず、KLAによって拉致されたセルビア人の多くがアルバニア本国で内臓を抜かれて殺され、臓器移植ビジネスの犠牲者になっていた

米国はコソボの南部に米軍基地建設を狙ってKLAと組み、KLAはアルバニア人によるアルバニア人のためのコソボ独立を目的とする。コソボは世界で一番の親米国家たる所以

043月暴動では、セルビア人部落やセルビア正教会が焼き討ちされ、多くの難民が誕生

サンフレッチェ広島のコーチ・ポポビッチはコソボ出身のセルビア人。彼に代わって生家を視察するべく07年セルビアの首都ベオグラードに飛ぶ

かつては多民族が混在していた町が空爆で様相を一変し、民族間の敵味方の線引きを後戻りできないほど旗幟鮮明にもたらした結果、白昼堂々と無辜の民間人が拉致され、行方すらまったくわからず、警察もメディアも動かない。先祖代々続く土地に暮らしていたセルビア人が迫害され追い出されていく。避難民は各地のエンクレイブ(少数民族集住地域)に逃げ込むか難民として漂流

サッカーと民族性について、ユーゴにおいてセルビア人ならレッドスター・ベオグラード、クロアチア人ならディナモ・ザグレブというようにチームと民族は極めて密接に結びついており、これが紛争に利用された

ユーゴ紛争における戦争責任の追及については、国連の安保理決議により設置されたICTY(旧ユーゴ国際戦犯法廷)が担う。スイス人の女性検事カルラ・デル・ポンテが大量虐殺を指揮した戦争犯罪者を次々に訴追、セルビアのミロシェビッチ大統領、スレプレニツァのイスラム教徒大虐殺のムラジッチ、カラジッチ、クライナの民族浄化作戦でセルビア人20万人を追い出して難民にしたクロアチアのゴトビナ将軍などが対象だが、新聞は一般のセルビア人兵士まで顔写真入りの実名で公表し、私刑を煽っている

生家のあるペーチのデチャニ修道院は世界危機遺産に指定され、イタリア軍によって守られるが、テロリストは680年前からコソボにセルビア人が住んでいたという痕跡を抹消するために攻撃を続ける。コソボ唯一の外貨を稼ぐ観光資源が破壊されようとしている

1389年、オスマントルコがこの地に侵攻した「コソボの戦い」以降、抗争してきたのはオスマンによってムスリム化されたアルバニア人と、キリスト教東方正教(=セルビア正教)のセルビア人で、そこにクロアチアが加わって三つ巴の戦いとなり、他の少数民族は無視

クロアチアがユーゴからの独立を目指したのは、貧しいコソボへの援助を嫌ったから

セルビアがムスリムを排除してクロアチアと組むのは、元々同じキリスト教徒だとする

クロアチアがムスリムと組む時は、同じ領土で暮らした歴史的な同士だとする

ムスリムがクロアチアを排除してセルビアに接近する時は、同じスラブ人という

生家を何とか探し当てると、そこには一面識もない多民族の家族が居ぬきで居座っていた

 

2. 2008年 コソボ独立

2006年のモンテネグロの独立は、セルビア・モンテネグロという連合国家体制を取って3年の準備期間ののち住民投票で決を採った結果だったが、コソボの場合はアメリカの承認で一方的に行われたものだったため、セルビア人の怒りの矛先は米国大使館に向かう

 

第2章        黄色い家 臓器密売の現場 2013

1. 黄色い家 カルラ・デル・ポンテの告発

拉致被害者のある真相が明らかになったのはICTYの国連検事カルラ・デル・ポンテ(元スイス司法長官)の回想録がきっかけ。セルビア人3000人がアルバニアの「黄色い家」に拉致され彼らの臓器が密売された証言と証拠があったと発表

同害刑法という古い復讐の慣例以外に法の支配の概念を持たない土地で、目撃証言を法廷でする意思のあるアルバニア系住民を見つけてもその安全確保すら難しく、さらには特殊言語であるアルバニア語の通訳を見つけるのも困難だしその正確性を担保するものがない

調査・証拠固めに奔走したデル・ポンテを阻んだのは米国という壁。KLAの犯罪を摘発しようとしても米国は情報開示に応じない

黄色い家を突き止めても証言は得られず。欧州評議会法務人権委員会も動いて、コソボの臓器密売を摘発、人間1人の臓器を全部売ると100万ドルにもなることを暴露して、この犯罪の加害者の逮捕と裁きに全世界が協力すべきだとしたが、コソボは全面的に否定

 

2. 臓器密売の現場を追う

デル・ポンテの著作をきっかけに、ベオグラードの放送局が黄色い家についての詳細なドキュメンタリーを放送。そのディレクターだった女性に会って、黄色い家に行くアドバイスをもらって、モンテネグロ経由でアルバニアに入る。地元の旅行社を雇って山中に1軒だけある家を訪ねるが最後の10㎞は徒歩。管理人には会えたが追い返される

 

3. オシムの思いを受け継ぐコソボサッカー協会会長

ペーチに戻ってサッカー協会のコミッショナーに会う。ポポビッチの元同僚

数カ月前、セルビア民族主義の色濃いチームとアルバニア南部地域にあるサポーターの大半がイスラムというチームが対戦、セルビア側が虐殺の象徴である「スレプレニツァ」と横断幕を掲げて挑発すると、ムスリム側は「パズルは解けたよ。心臓、腎臓、肺。黄色い家ブラボー!」と剥き出しの悪意で応酬。お互い加害を十分認知した上で相手にぶつける

 

第3章        密着コソボ代表 双頭の鷲か、6つの星か

1. セルビア対アルバニア戦 ドローン事件

コソボ独立によって噴き出たアルバニア・ナショナリズム、その野心の最終形態である大アルバニア主義の脅威が最初に露見したのが、2014年ベオグラードでのサッカー・ヨーロッパ選手権予選のセルビア対アルバニア戦。前半終了間際に大アルバニアの領土図を描いた旗を下げたドローンが飛来、サポーターを交えた大乱闘に発展、没収試合となる。両チームに罰金、試合は30でセルビアの勝、次のセルビアのホームでの試合は無観客となったが、両チームがCAS(スポーツ仲裁裁判所)に提訴、なぜか裁定は逆の結果に

コソボでは分断の亀裂が深まり、セルビア人の有望選手がコソボの代表から外された。アルバニア人には好意的に迎えられても、セルビア人の方がコソボ国家のためにプレーするのを許さなかった

2015年、ISIL誕生。捕虜の頭部を鉈で切り落とした写真がSNSで発信され衝撃が走ったが、その男がコソボ出身のアルバニア人だったことで、統計でもムジャヒディン(戦士)の出身国で最も多いのがコソボ。コソボは米国の後ろ盾で独立を果たした国家、政治外交では最も親米の国。08年コソボ議会が独立宣言すると翌日即座に承認したのも合衆国であり、よりによってそんな国から、反米のイスラム国に多くの人間が兵士として移住

同年末には、ドイツが難民受け入れを緩和するとの情報に、人口180万のコソボから10万の難民が国外へ脱出。若年層の失業率が65%超とあってはイスラム行きもただの選択肢

イスラム国のリクルーターがコソボ国内の至る所に出没するだけでなく、国内のイスラム寺院のイマーム(指導者)までが信者にシリア行きを勧める

 

2. 20165月 FIFA加盟

2016円、FIFAがコソボの加盟を承認。セルビア人を副会長に起用して、人種差別や民族の排除・分断を認めないというFIFAのスローガンを受け入れた。副会長は、セルビア人から裏切り者との中傷を受けながらも、コソボでの少数民族として生きていくことを決意

 

3. 2016年 ロシア杯予選密着

09年からコソボの代表監督を務めるブニャーキは、91年のユーゴ内戦での徴兵に際し、クロアチア人虐殺に加担するのを回避するためにスウェーデンに亡命し、同国でプレーを続けた経験をもつ。16年のW杯予選開始直前まで国外で活躍する有力選手のコソボ代表でのプレーを説得、陣容が何とか形を成したのは試合の3日前。さらにホームの初戦でありながら、コソボにはFIFAの基準を満たすスタジアムがないためアルバニア国内の開催となったため、FIFAから対戦両国以外の国旗の持ち込みが禁止された

チームがアルバニアに向かう中、副会長はコソボ協会の裏切りで1人取り残され、我々NHKBSのドキュメンタリー撮影チームと一緒に試合会場に向かう

コソボ国家には、どの民族の言葉で歌うのか、議論を避けての制定だったため歌詞がない

試合会場では、アルバニア!のコールだけがこだます。惨敗後の記者会見でも、大アルバニアを否定し続けてきた監督に対する制裁のような質問が続き、責任を追及される

スイスなどは、コソボ出身のアルバニア人選手で成立しているといっても過言ではない

2018年のロシア大海のスイス対セルビア戦で事件勃発。ゴールしたアルバニア人2選手がゴール後に両掌を広げて交差させる双頭の鷲が羽ばたくポーズ(アルバニア国旗)を取り、それに対しセルビアの監督は「ICTYの裁判にかける」と発言。FIFAは両者に罰金を科す

パフォーマンスした2選手は、「ただ興奮しただけ。ルーツを持つ故郷の人々のため」といったが、当時の周辺の情報を知れば知る程、FIFAの禁ずる政治的宣伝以外の何物でもない

アルバニアの首相は、2選手の行為を支持すると発表、罰金をカバーするための募金の口座まで作った。愚かであり、ナショナリズムを内向きに利用、若い選手を扇動し兼ねない

 

4. 20196月 NATO空爆祝賀式典

19年には、コソボの独立ではなく、空爆の20周年を記念した式典が挙行され、当時のクリントン大統領とオルブライト国務長官が招待された。歓迎する人々が持つのは星条旗とアルバニアの国旗で、コソボの国旗はない。ユダヤ系チェコ人としてプラハに生まれ、ナチのホロコーストから逃れ、アメリカで教育を受けて国務長官まで上り詰めたオルブライトは、あいさつの中で「私も難民だった」とアルバニア難民に寄り添う意図を示したが、空爆が又無数の難民を生んだことには気づかないふりをしていた

コソボ国境に近いセルビアの街はアルバニア人が多数を占めるが両民族とも平和的に共存しているにもかかわらず、コソボ内のエンクレイブと領土交換の話を米国政府が推奨しているという。国境線を変えれば問題が解決するほど簡単なものではない

コソボ問題の解決なくしてはセルビアはEUに加盟できないし、コソボも国連に入れない

アルバニア人にとっては、絶滅の危機から救ってくれたのがNATOであり、アメリカには大きな借りがある。政府、民心ともに世界で一番の親米国であることを自ら認める

 

終章 火種を抱え続ける火薬庫

コソボのサッカーも徐々に力をつけ始め、オシムが言った、「ユーゴから分離独立した各共和国がすべて大きな大会に出場する」という神話つくりに近づきつつある

22年のカタール大会では、セルビアがロッカールームに、コソボを自国領土とする地図の上にキリル文字で「諦めない」と記した旗を掲げ、罰金を食らう。4年前挑発に耐えた先達の忍耐を無にする行為だった。コソボ・サッカー協会も激しく抗議

コソボの政局は、19年の総選挙でアルバニア本国との合併を公約に掲げる政党・自己決定運動党が勝利し、同党代表が首相となったが、セルビア人対策で強硬な姿勢を見せる一方、家族をノルウェーに住まわせ、いざとなればコソボから逃げ出す気配も見せている

コソボは22年末にEU加盟を申請したが、自己決定運動党が政権与党である限り、東西冷戦終結時の境界線を国境とする現状承認の原則を掲げるEUとは相容れない

 

あとがき

NATO空爆20周年記念式典を見ながら、「違うだろう」という思いを強くしている

ミロシェビッチによるコソボのアルバニア人に対する人道破綻はあったが、本来同盟国が攻められた時のみ武力を発動する安全保障だったNATOの軍隊が、その域を超えて主権国家の領空を侵犯し、空爆を敢行する大義があったのかどうか。コソボの独立のプロセスは正当なものだったのか。ミロシェビッチがコソボから自治権を剥奪した後、彼の地に暮らすアルバニア人が一方的に独立を宣言(1991)したが、承認する国はなかった。根拠は国際法にある現状承認の原則で、植民地が宗主国から独立する際の条件は「共和国であることと、国境を変化させないこと」であり、アメリカもロシアもそれを認めている

米国がこの地に基地を欲したための強引なやり方にロシアが激怒し、以後NATOに対する不信と警戒が急激に高まり対立を深める。2008年のジョージア共和国内の南オセチアやアブハジアの独立の動きにロシアが加担して軍隊を派遣、強引に独立を承認したのも、コソボで米国がやったことと同じ動きといえるし、ウクライナでも同じことが起こっている

ベオグラードでコソボ独立反対集会の演壇に登場したカンヌ映画祭パルム・ドール2度の映画監督エミール・クストリツァ監督は、セルビア悪玉論に加担した西側メディアを痛烈に批判したが、『ベルリン・天使の詩』の脚本家ペーター・ハントケを高く評価し、「ハント家は最もラジカルでクレージーな形で人間を定義する今世紀最大の作家。ノーベル賞受賞の障碍は、彼の言説がセルビア人よりだと思われていることだが、彼が怒りを持っているのは世界の不正義に対してであって、セルビア人の側に立っているわけではない」

スーザン・ソンタグも大江健三郎も99年のNATOの空爆を容認するなか、ハントケは世界の文学者で唯一反対を表明。2019年ハントケはノーベル賞を受賞したが、ジェノサイドを肯定する人物への授賞だとバッシングに遭う。スウェーデン・アカデミーは、「ハントケの作品の中に、市民社会を攻撃したり、全ての人が対等で尊重されるべきであることを疑問視するようなものは何も見出さなかった」と異例の声明を発表

本書は、祖国への攻撃に「NATO STOP STRIKE」とTシャツに記す抗議に至ったストイコビッチの葛藤を描いた『悪者見参』と、黄色い家に連なる拉致問題を追った『終わらぬ民族浄化』に続く連作ともいえる

 

 

 

 

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旧ユーゴスラビア7つ目の独立国として2008年に誕生したコソボ。

1999年のNATOによる空爆以降、コソボで3000人以上の無辜の市民が拉致・殺害され、臓器密売の犠牲者になっていることは、ほとんど知られていない。

才能あふれる旧ユーゴのサッカーを視点の軸に、「世界一の親米国家」コソボの民族紛争と殺戮、そして融和への希望を追う。 サッカーは、民族の分断をエスカレートさせるのか、民族を融和に導くのか……!?

 

 

(書評)『コソボ 苦闘する親米国家』 木村元彦〈著〉

2023318 500分 朝日

『コソボ 苦闘する親米国家 ユーゴサッカー最後の代表チームと臓器密売の現場を追う』

 深い分断、融和へオシムの遺産

 著者は、『悪者見参』『オシムの言葉』などで旧ユーゴスラビアのサッカーと現代史の重なり合いを丹念な取材を元に描いたジャーナリストである。

 コソボは、アルバニア人が住人の9割を占める小国。セルビア正教の総主教修道院がありセルビア人の精神的支柱でもある。旧ユーゴ時代にセルビアの自治州だったコソボは74年に他の共和国と同等の地位を得たが、89年にセルビアのミロシェビッチ大統領が自治権を大幅に削減。反発したアルバニア人は二通りの抵抗の道を選ぶ。非暴力主義を貫き新政府樹立にかけるか、コソボ解放軍のゲリラ活動で内戦を戦うかだ。

 99年、コソボのラチャク村でアルバニア民間人の虐殺が起こる。著者も虐殺当時この現場に訪れ確認している。英米独仏伊ロの調停を拒否したミロシェビッチに対し、NATO軍は空爆で応え、セルビア治安部隊は撤退した。だが、実はこの調停ではNATO軍の自由な軍事行動と、訴追と課税の免除という無茶な条項が最終段階で米国に入れられていたのだった。

 衝撃的なのは、コソボ解放軍によって3千人とも言われるセルビア人が誘拐され、秘密裏に臓器が売買されていたことだ。しかも、独立したコソボの首相を含む政府要人の関与も強く疑われている。これをマフィアとの闘いで名を上げた国連検事のカルラ・デル・ポンテが告発するが、調査段階で米国は非協力的態度をとる。空爆の正当化に固執する米国の姿が忘れ難い。

 臓器売買のためにセルビア人が殺害された「黄色い家」への著者の訪問記は必読。また、民族の分断が深まるなか、様々な民族が共存するチームを作ろうと奮闘したコソボサッカー協会の会長ファデル・ヴォークリのように、民族融和を目指す人々の言動にも注目したい。ここに、あえて民族対立から切り離して旧ユーゴチームを編成し率いたオシムの遺産を見出すことができるだろう。

 評・藤原辰史(京都大学准教授・食農思想史)

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 『コソボ 苦闘する親米国家 ユーゴサッカー最後の代表チームと臓器密売の現場を追う』 木村元彦〈著〉 集英社インターナショナル 1980

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 きむら・ゆきひこ 62年生まれ。ジャーナリスト。『オシムの言葉』でミズノスポーツライター賞最優秀賞受賞。

 

Wikipedia

コソボ共和国(コソボきょうわこく、アルバニア語: Republika e Kosovës)は、バルカン半島中部の内陸部に位置する国家。北東をセルビア、南東を北マケドニア、南西をアルバニア、北西をモンテネグロに囲まれている。略称KOS国際連合UN)には未加盟であるが、20167月時点で113の国連加盟国が国家として承認している。

概説[編集]

面積は1887平方キロメートル(日本の岐阜県に相当)。国民9割以上はアルバニア人で、他にセルビア人などが暮らす。人口は約180万人で、その3分の1は首都プリシュティナに集まっていると推定されている。

かつてはユーゴスラビアのセルビアに属する自治州の一つで、2008217コソボ議会独立を宣言した。20167月現在、国連加盟国の内、113か国がコソボの独立を承認した。独立を承認していない国は、セルビア領土の一部(コソボ・メトヒヤ自治州)とみなしている。

鉱物資源が豊かであり、大麦小麦タバコトウモロコシなどもとれる。

呼称[編集]

「コソボ」という地名は、ブルガリア語クロウタドリを意味する「コス」(ブルガリア語: Кос / Kos)に由来している。アルバニア語ではKosovaもしくはKosovëセルビア語キリル文字表記ではКосовоラテン文字表記ではKosovoである。

特にセルビア人の間で、この地域の西部はメトヒヤ(セルビア語: Метохија / Metohija)と呼ばれており、この地域全体を指す呼称としては「コソボとメトヒヤ」(セルビア語: Косово и Метохија / Kosovo i Metohija、コソヴォ・イ・メトヒヤ)が使われている。他方、アルバニア人の間ではメトヒヤの名前は使われず、この地域全体を指してコソヴァと呼ぶ。

20082月に独立を宣言した際の憲法上の国名は、アルバニア語でRepublika e Kosovësセルビア語Република Косово / Republika Kosovoである。その他の言語での表記としては、英語ではRepublic of Kosovoトルコ語ではKosova Cumhuriyetiボスニア語ではRepublika Kosovoである。日本語表記はコソボ共和国、通称コソボである。コソヴォとも表記する。アルバニア語名に沿ったコソバないしコソヴァという表記はあまり使用されていない。

セルビアは、コソボを自国の一部と規定しており、コソボ・メトヒヤ自治州(セルビア語: Аутономна Покрајина Косово и Метохија / Autonomna Pokrajina Kosovo i Metohija)と呼んでいる。コソボの独立を承認していない国々は、コソボを国連の管理下にあるセルビアの一部として取り扱っている。

歴史[編集]

6-7世紀以前のコソボの歴史は、現在でもあまり明らかではない。6-7世紀以前には、古代トラキア人やイリュリア人が住んでいたといわれている。古代トラキア人は多くの氏族に分かれており、そのうちのコソボの地域に住んでいたある氏族は、ダルダニア人と呼ばれた。このため、この地方は当時ダルダニア英語版)(Dardania)と呼ばれていた。

ブルガリア帝国の進出[編集]

東ヨーロッパから侵入したスラヴ人の定住に続いて、6-7世紀以降には、古ブルガリアからブルガール人(現在のブルガリア人の祖先)がやってきて、ダルダニアを征服した。681年にアスパルフによって建国された、ブルガール人を主体とする第一次ブルガリア帝国は、やがてこの地方をその支配下に置くようになった。ブルガリア帝国ではブルガール人とスラヴ人の融合が進み、現在のブルガリア人の祖となった。コソボや隣のマケドニアの地域はブルガリア帝国の重要な一部だった。

セルビア王国成立[編集]

12-13世紀、セルビア人の居住地域は、諸侯により群雄割拠される状態が続いていた。こうした中から台頭したセルビア人の指導者ステファン・ネマニャは、コソボを含む現在の南部セルビア地方を中心としてセルビア諸侯国を統一し、セルビア王国を建国した。これが現代においても、セルビア人がコソボを「セルビア建国の地」として特別視する理由である。

オスマン帝国との戦い[編集]

オスマン帝国がバルカン半島を征服しようとした時、セルビア人は自分たちの土地を守るために戦い抜き、最終的に「コソボの戦い」へ至った。コソボの戦いで、セルビア人はオスマン帝国の4万人の兵士と激しく戦い、オスマン帝国の皇帝ムラト1を殺すことに成功した。皇子バヤズィト1は、コソボの戦いの中で新皇帝となった。最後の戦いが行われた平原には、ムラト1世の墓地が今でも残されている。結局オスマン帝国に敗北し、セルビアの貴族も、指導者のセルビア侯ラザル・フレベリャノヴィチも全て殺された。それ以来バルカン半島のほとんどはオスマン帝国に征服され、5世紀もの間自分たちの国を持つことができなかった。

オスマン帝国の支配[編集]

コソボの地で初のセルビア人の統一王国が誕生したことと、コソボの戦いでの敗北によってセルビアは最終的にオスマン帝国に併呑されるに至ったことから、セルビア人からはコソボは重要な土地とみなされている。コソボの戦いは伝説化され、民族的悲劇として後世に語り継がれることとなった。

コソボの最も多くの人口をアルバニア人が占めるようになったのは、17世紀後半から18世紀前半にかけて、オーストリア皇帝の呼びかけに応じ、ペーチセルビア正教総主教に率いられたセルビア正教徒がドナウ川対岸へ移住したことが背景にあるとされる。これを受けてオスマン帝国側は、アルバニア人ムスリムをコソボに入植させていった。

民族意識の高揚[編集]

19世紀に入りアルバニア人の民族意識が高揚してくると、4つの県、サンジャク・プリズレンギリシア語版英語版)、サンジャク・ディブラギリシア語版英語版)、サンジャク・スコピオンギリシア語版英語版)、サンジャク・ニシュギリシア語版英語版)をひとつにまとめたプリズレン・ヴィライェト英語版)(1871 - 1877)が設置され、すぐにコソヴァ・ヴィライェトトルコ語版英語版)(1877 - 1913)となった。1878にはコソボの都市プリズレンで民族主義者の団体「プリズレン連盟」(アルバニア国民連盟)が結成され、民族運動が展開された。20世紀初頭のバルカン戦争後、1912にアルバニアの独立が宣言されると、その国土にコソボも組み込まれた。しかし、列強が介入した1913の国境画定でコソボはアルバニア国土から削られ、セルビア王国に組み込まれる。第一次世界大戦中はオーストリア・ハンガリー帝国ブルガリア王国の占領下にあった。

ユーゴスラビア王国成立[編集]

ユーゴスラビア社会主義連邦共和国時代の行政区分

第一次世界大戦後に成立したユーゴスラビア王国は、第二次世界大戦ではナチス・ドイツファシスト・イタリアなど枢軸国の侵攻を受けた。コソボにあたる領域はブルガリア王国アルバニア王国の一部に併合された。戦後、第二のユーゴとなるユーゴスラビア連邦人民共和国が成立すると、コソボ一帯はアルバニア人が多数を占めていたことから、1946セルビア共和国内の自治州(コソボ・メトヒヤ自治州)とされた。これがコソボとセルビアの行政的な境となって今日に至っている。1950年代になるとコソボ独立運動が展開されるようになり、ユーゴ政府は独立運動を抑えつつ、1964に民族分権化政策によってコソボ・メトヒヤ自治州をコソボ自治州に改称した。1968、自治権拡大を求めるアルバニア人の暴動が発生し、1974のユーゴスラビア連邦の憲法改正により、コソボ自治州はコソボ社会主義自治州に改組され自治権も連邦構成共和国並みに拡大された。しかし、アルバニア人は更なる自治権拡大を目指し、一方でコソボをセルビアの一部と見なすセルビア人の民族主義者は自治権拡大に苛立ちを強めた。この双方の利害対立が、チトー大統領の死後大きく表面化することとなる。

独立運動[編集]

端緒[編集]

19813月から4月にかけてプリシュティナのアルバニア人学生が抗議活動を開始し、6都市で2万人が参加するコソボ抗議活動に膨れ上がったが、ユーゴスラビア政府に厳しく弾圧された。1982スイスに在住していたアルバニア人が「コソボ共和国社会主義運動」という左翼的な組織を設立した。彼らの目的はコソボをユーゴスラビアから分離し、独立した国を創ることだった。1980年代にこの組織は世界中に分散しているアルバニア人を集め、水面下でネットワークを張り巡らし、武装勢力を結成している。この組織を大きくするために左翼ばかりでなく、イスラーム原理主義やアルバニア国粋主義イデオロギーとして掲げた。そして彼らは組織の名前を「コソボ解放軍」(アルバニア語名: UÇK、英語名: KLA)と改名した。

1989年に東欧革命が起きて、ソビエト連邦を中心とする東欧社会主義ブロックが崩壊すると、ソ連と一線を画していたユーゴスラビアでも各民族のナショナリズムが高まった。セルビア人の民族主義者でセルビア大統領のスロボダン・ミロシェヴィッチは、ユーゴスラビアの各共和国が対等の立場を持つ体制を改め、セルビア人によるヘゲモニーを確立することを目指していた。ミロシェヴィッチはセルビア内の自治州だったコソボ、ヴォイヴォディナの両社会主義自治州の自治権を大幅に減らし、コソボ・メトヒヤ自治州へと改称した。

コソボ解放軍の実力行使[編集]

コソボ紛争[編集]

実質的にはセルビア人が主導しており、コソボの独立を阻止したいユーゴスラビア政府は、クロアチア紛争ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争により大量に発生したセルビア人難民の居住地としてコソボを指定した。この結果、コソボの民族バランスは大きくセルビア人側が増えることになった。これに対して、コソボのアルバニア人指導者イブラヒム・ルゴヴァの非暴力主義に対し、アルバニア人から懐疑的な意見が出されるようになった。デイトン合意によってクロアチア、ボスニア紛争が一旦落ち着いた後の1990年代後半に入ると、軍事闘争によるセルビアからの独立を主張するコソボ解放軍が影響力を強めた。一方、隣国のアルバニアは1997に全国的な規模で拡大したネズミ講が破綻して、社会的な混乱に陥っていた。このような情勢で、コソボ解放軍は混乱したアルバニアに自由に出入りし、セルビア側の追っ手を回避。戻って来る時にはアルバニア国内で流出した武器やアルバニアでリクルートした兵士を伴って来た。コソボ解放軍の指導者の一人で、後に首相となったハシム・サチは、アルバニア領内で兵員と武器を調達する活動をしていた。翌1998になると、セルビアとしてもコソボのゲリラ活動に対して対応をせざるを得なくなってきた。セルビアは大規模なゲリラ掃討作戦を展開し、セルビア警察特殊部隊によってコソボ解放軍幹部が暗殺されるなど、コソボ全土にわたって武力衝突が拡大することになった。これがコソボ紛争の始まりである。

国際連合コソボ暫定行政ミッションの始まり[編集]

戦闘員ではないアルバニア人が攻撃を受け、多くのアルバニア人が隣接する北マケドニアやアルバニア、モンテネグロなどに流出し、再びセルビア側の「非人道的行為」がクローズアップされるようになった。国連欧州連合EU)は、セルビアとコソボの間に立って調停活動を行うことになった。19993月からは、北大西洋条約機構NATO)が国際世論に押されて、セルビアに対する大規模な空爆を実施するに至った(アライド・フォース作戦)。この空爆は約3カ月続き、国際社会からの圧力に対抗しきれなくなったセルビアはコソボからの撤退を開始。翌年までに全てのユーゴスラビア連邦軍を撤退させた。これによってコソボはセルビア政府からの実効支配から完全に脱することになった。代わって国連の暫定統治機構である国際連合コソボ暫定行政ミッションUnited Nations Interim Administration Mission in KosovoUNMIK)が置かれ、軍事部門としてNATO主体の国際部隊 (KFOR) が駐留を開始した。それ以降、主にセルビア系住民が多数を占める限られた一部の地域と一部の出先機関を除いて、ユーゴスラビア政府やそれを継承したセルビア・モンテネグロ2003-2006年)、セルビア(2006-)による実効支配は及んでいない。

しかし、セルビア側が撤退してUNMIKの管理下に入った後も、コソボ解放軍の元構成員によって非アルバニア人に対する殺害や拉致、人身売買が行われたり、何者かによって爆発物が仕掛けられたりといった迫害を受けており、人権が守られているとは言えない。加えて、多くのセルビア正教会の聖堂が破壊され、迫害を恐れた非アルバニア人がコソボを後にする事例が多く発生している[要出典]

コソボ紛争は2020年代にもコソボの内政や国際関係に影を落としている。コソボ大統領だったハシム・サチ202011月に辞任したのは、オランダデン・ハーグに設置されているコソボ紛争の戦争犯罪を裁く特別法廷で訴追が確定したためである[2]

地位問題[編集]

1991に行われたコソボの独立宣言を国際的に承認した国は、同じアルバニア人が住む隣国アルバニアしか存在しなかった。このためコソボの独立は国際的に承認を得たものとは認識されず、あくまでも「セルビアの自治州」であるというのが国際的な建前になっていた。一方で1999のコソボ紛争以降、コソボがセルビアの実効支配から完全に脱していた。したがってコソボは1999年以降、「独立国ではないものの、他の国の支配下にあるものでもない」という非常に微妙な地位に留め置かれていた。現状で微妙な地位に置かれているコソボを将来的にどのような地位に置くか、という議論がコソボの地位に関する問題だった。

コソボの独立[編集]

200711月の選挙では、コソボのセルビアからの即時独立を主張するハシム・サチ率いるコソボ民主党が第一党となり、翌2008にはサチが首相に選出された。主にアルバニア系住民に支持されたサチが率いるコソボ暫定政府は、独立の方針を強く訴えた。地位問題において欧州連合EU)とアメリカ合衆国の支持を得たコソボは、20082月のセルビア大統領選挙の確定以降における独立の方針を明確化し、2008217、コソボ自治州議会はセルビアからの独立宣言を採択した。また同時に「国旗」が発表された[10]4月に議会で批准されたコソボ憲法は、615から正式に発効した。

セルビアの反発[編集]

この独立宣言に対して、セルビアでは大きな反発が起こり、217日未明から首都ベオグラードノヴィ・サドで、米国大使館や米系商店、当時のEU議長国だったスロベニア系商店への投石騒動が起きた[11][12]。この他にも、迫害を恐れてコソボを脱出したセルビア人住民が出ていると伝えられている[13]

コソボの承認[編集]

国家承認のプロセスについては、独立宣言の翌日の218日にアメリカ政府が承認を公表し、ヨーロッパの国連安保理常任理事国であるイギリスフランスも同日に承認している。ドイツ220日に承認した[14]。一方でEU加盟国を個々に見た場合、国内に民族問題を抱えるスペインキプロススロバキアルーマニアギリシャなどは独立承認に慎重な姿勢を示している国もある[15]。このためEUによる機関承認は見送られている[16]。同じスラブ人として歴史的にセルビアと繋がりが深いうえに米欧と一線を画すロシア連邦や、少数民族の独立運動を多く抱える中華人民共和国も同様だった。

その後、独立宣言が打ち出された当初には即座に承認しなかった国々にも承認が広まった[17]。セルビアの周辺国では、20083月にクロアチアハンガリーそしてブルガリアがコソボの独立を承認した。コソボの独立に際して、大アルバニア主義の拡大が憂慮されていた中、200810月には大アルバニア主義の利害国で国内に一定数のアルバニア人を抱えるモンテネグロと、マケドニア紛争の当事国である北マケドニアがコソボを承認した[18]。人口の3割以上をセルビア人が占めるモンテネグロでは激しい反発が起こり、首都ポドゴリツァでは大規模な抗議集会が行われた[19]

その一方で、セルビア政府はコソボの分離独立を「永遠に認めない」と明言しており、2008年の国連総会では、同国の要請を受けて国際司法裁判所に独立の是非の判断を求めた。ロシアもコソボの独立をセルビア政府の合意なしには承認しない意向で[20]、中国もこれに同調しており、国連安全保障理事会で拒否権を持つ両国の反対により、国際連合安全保障理事会での承認は困難となっている。またインドスペインなどの少数民族の独立運動の問題を抱えている国々も承認しない意向を表明している。「大アルバニア」の利害国としては、ギリシャが承認を行っていない。

日本2008318日、コソボを国家として承認。2009225日、外交関係を開設した[21]

独立承認国[編集]

20167月時点で、コソボはアメリカ合衆国イギリスドイツフランス日本など113か国から承認を受けている[22]。一方で、セルビアをはじめ、ロシア、中国、スペイン、キプロス、ギリシャ、ルーマニアボスニア・ヘルツェゴビナスロバキアジョージアウクライナブラジルアルゼンチンチリ、インド、インドネシア南アフリカなどが承認していない。

2010722には、国際司法裁判所がコソボのセルビアからの独立宣言を「国際法違反にはあたらない」と判断した[23]。国際司法裁判所の判断は勧告的意見とされ、法的な拘束力はないものの、承認するか否かを決めかねていた国際社会には大きな判断材料になると同時に、民族自決を掲げる少数民族の分離独立に大きな影響を与えるとされる[24]

国際関係[編集]

独立を宣言して以降、コソボは上記のような承認国の拡大と国際機関への加盟を追求してきた。ハシム・サチ大統領はセルビアとの関係正常化と、欧州連合北大西洋条約機構への加盟を希望すると表明している。前述のように、セルビアはコソボの独立を認めていないが、近年ではセルビア系住民が多数派を占めるコソボ北部とアルバニア系住民が多数派を占めるセルビア南部を交換し、両国の関係正常化を目指すといった動きを見せており、全くの没交渉ではない。EUの仲介などにより、コソボ北部のセルビア人保護などについて交渉や政府間合意を行っている。2020年には、米国の仲介で21年ぶりの空路再開で合意した。

アルバニア人を主体とし、公用語の一つとしてアルバニア語を共有するアルバニアとは特別な関係にある。アルバニアは1992年にコソボ共和国が独立を宣言した際、独立を承認した数少ない国の一つであった。20082月にコソボが独立を宣言した際にも最初に同国の独立を承認した国の一つである。

日本との関係[編集]

駐日コソボ大使館[編集]

住所:東京都港区西新橋三丁目13-7 VORT虎ノ門サウスビル10

アクセス:東京メトロ日比谷線虎ノ門ヒルズ駅

地方行政区画[編集]

コソボは全体で7つの(ラヨーニ (Rajoni) / オクルグ (Okrug) )に分けられている。1999UNMIKの保護下に入った後の2000に、UNMIKによってセルビア統治時代の5郡から7郡へと再編された。それぞれの郡の下には、コソボで最小の行政区画である基礎自治体(コムーナ (Komuna) / オプシュティナ (Opština) )が置かれ、全国で30の基礎自治体がある。

経済[編集]

通貨ユーロが使われているが、欧州中央銀行ECB)と正式な導入協定を結んではいない。

2018国内総生産GDP)は約79億ドルであり[3]、経済的にはヨーロッパの後進地域である。主要産業は農業で、土地が肥沃な盆地部では大麦小麦トウモロコシタバコが生産される。鉱物資源が豊かで、トレプチャの亜鉛鉱山はヨーロッパでも最大級の規模を誇る。その他にも石炭アンチモンボーキサイトクロムなどが産出される。石炭のうち褐炭が豊富で、それを燃やす火力発電が電力の95%を賄う[28]。このため電力料金はヨーロッパで最も安い水準だが、設備の老朽化などにより停電が多く、大気汚染が深刻であり、温室効果ガスである二酸化炭素の排出削減も困難な現実がある[28]

2011年時点でGDP成長率は5%程度であるが、貧しい者も多く、ヨーロッパの最貧国の1つである。失業率3割とヨーロッパ最悪の水準。特に若者では6割にも達しており、犯罪や国外移民、さらに中東へ渡ってのテロ組織「ISIL」参加などの問題を生んでいる[29]。国連の調査では、2013年時点でGDP16%が、国外に住む国民縁者からの送金である。自分達の稼ぎでは生活が成り立たない者も多く、全世帯の25%は、この国外からの送金に頼って生活している[30]

インターネットは普及途上で、ホームページすら持たない企業も多い[31]

政治[編集]

国連安保理決議1244により国際連合コソボ暫定行政ミッション (UNMIK) の暫定統治下にあり、出入国管理、国境警備も当初はUNMIKが行っていた。UNMIKの下にコソボ住民による暫定自治諸機構(Provisional Institutions of Self GovernmentPISG)が2001から置かれている。

独立後は国連コソボ暫定行政ミッションに代わって、EUを中心に組織される文民行政団「国際文民事務所」を派遣し、一定の行政的役割を担わせる意向をEUが示している[32]。ただし、安保理決議によって派遣されている国連コソボ暫定行政ミッションを撤退または大幅に縮小させるには安保理の決議を経る必要があるとの見解もあり、独立そのものに慎重な姿勢を示しているロシアの承認を得る必要がある。

20082月、コソボは独立を宣言した。前述のように、コソボの独立を承認するか否かの対応は国により異なるが、UNMIKの役割は大幅に縮小され、警察・関税・司法の分野における任務をEUCFSPミッション(European Union Rule of Law Mission in KosovoEULEX)が引き継いだ。

議会[編集]

1院制(定数120名)[21]

軍事[]

コソボ独自の軍事力として、治安軍を有している。

またコソボ紛争終結に伴い、北大西洋条約機構NATO)加盟国を主体とするKFOR(コソボ治安維持部隊)が駐留している。

コソボ議会は20181214日、治安軍を軍に昇格させる法律を成立させた。アメリカ合衆国のドナルド・トランプ政権による支持を背景としている。これに対して中国の支持を背景とするセルビアとセルビアを支援するロシア連邦は反発し、地域の不安定化を懸念するNATO欧州連合EU)も批判的である[33]

ユーゴスラビアやセルビアへの武力抵抗を担った組織については「コソボ解放軍」を参照。

住民[編集]

民族構成は以下の通りである。

アルバニア人: 92%

セルビア人: 4%

ボシュニャク人およびゴーラ: 2%

トルコ人: 1%

ロマ: 1%

オスマン帝国時代の統治により、コソボのアルバニア人の比率は高かった。ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争後にセルビアがコソボの分離運動を抑えるために、ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争で難民となったセルビア人をコソボに入植させた。これによって一時的にコソボ内のセルビア人の割合は高くなったが、逆にアルバニア人の反感を招き、本格的な紛争に発展した。コソボ紛争により、コソボ内のセルビア人は約20万人がコソボ外に国内避難民として退去、紛争終了後も治安問題、就職困難などの理由で難民帰還はほとんど進んでいない。現在、セルビア人はミトロヴィツァ市北側をはじめコソボの北部に多く住んでいる他、中・南部にもセルビア人が住む居住地が飛地状に点在している。コソボの独立を良しとしないセルビア系住民は、2008628に独自議会の設立を宣言した。北部のセルビア人はコソボの統合に反対しセルビアから行政サービスを受けていたが、2013年のコソボ・セルビア間の合意を受けて同年に実施されたコソボの統一地方選挙に紛争後初めて参加した。

このコソボ・セルビア間合意により、ミトロヴィツァなど北部のセルビア人居住地域でも、セルビア共和国が管轄していた警察・司法権限がコソボ側へ移されている。EU加盟を目指すセルビア政府の外交政策が影響しているとみられるが、コソボ内のセルビア人には「見捨てられる」との懸念が強まっている。

言語[編集]

コソボの公用語アルバニア語セルビア語で、法律は英語でも翻訳版が作られている。大多数を占めるアルバニア人はアルバニア語を使い、日常生活ではアルバニア語の2方言のうちの、地続きのアルバニア北部で使われるゲグ方言に分類される言葉を使う。

宗教[編集]

コソボの宗教英語版)」を参照

アルバニア人住民の大半がイスラム教を信仰している。ローマ・カトリック信者も存在する。セルビア人住民はセルビア正教を信仰している。

婚姻[編集]

婚姻の際には、婚姻前の姓を保持する(夫婦別姓)、配偶者の姓への改姓(夫婦同姓)、複合姓より選択できる。

スポーツ[編集]

サッカー[編集]

コソボ国内ではサッカーが最も人気のスポーツとなっており、1945にサッカーリーグのライファイゼン・スーペルリーガが創設されている。コソボサッカー連盟FFK)は、2015年と2016年にUEFAFIFAにそれぞれ加盟を果たしている。サッカーコソボ代表は、FIFAワールドカップ予選には2018年大会・予選から参加しており、2022年大会・予選もグループ最下位で敗退し本大会への出場の夢は未だ叶っていない。

 

 

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