軍服を着た救済者たち  Wolfram Wette  2021.12.3.

 

2021.12.3.  軍服を着た救済者たち ドイツ国防軍とユダヤ人救出工作

Retter in Uniform Handlungsspielräume im Vernichtungskrieg der Wehrmacht

2002

 

編者 Wolfram Wette 1940年生まれ。作家。政治学、歴史学、哲学を学ぶ。1971年ミュンヘン大で学位取得。91年フライブルクで教授資格取得。7195年フライブルク・イム・ブライスガウの軍事史研究所で歴史を研究し、フライブルク大の歴史ゼミで近現代史を担当。ドイツ軍事史の権威。95年以降フリーの作家

 

訳者 関口宏道 1941年生まれ。東外大ドイツ語学科卒。早大大学院文学研究科博士課程修了。マンハイム大、ビーレフェルト大に留学。玉川大教授を経て、現在松蔭大教授。専攻はドイツ現代史

 

発行日           2014.5.15. 印刷      6.5. 発行

発行所           白水社

 

 

『戦火のマエストロ 近衛秀麿』で、秀麿がユダヤ人救出に動いたとの記述あり、本書にも言及

 

 

本書は、軍服を着た人を対象に、人間を野蛮化する命令に抵抗し、道議的な怒りにとどまらず、積極的な抵抗姿勢を示した人たちの行動を、感動的かつ緊迫感に満ちた描写の中で明らかにする

旧来の「抵抗か協力か」という図式は限定的な意味でしか正当性を持たない

今日ヨーロッパの大部分の諸国において、自国民の欠陥や罪過が研究されている。それは時には自分たちの国にはそのようなことはなかったとするある種の自負心すら伴う。他方、ドイツにおいては、抵抗する無名の男女、全く普通の人達の存在も関心の的となっている

反抗者、援助者、そして救済者の研究は、現代歴史学の急務であると同時に、過去と将来に対する義務でもある。非人間的な時代において、人間性が存在したのだという細部に至るまで証明された諸事例を伝える必要がある

彼等がまた尊敬されることを望みたい

 

Ø  歴史研究の問題としての国防軍援助者と救済者  ヴォルフラム・ヴェッテ

l  オスカー・シンドラー事件

90年代、多くのドイツ人は、アメリカ人映画監督スピルバーグの映画を通して、ドイツ人企業家シンドラーの救済行為について知る。そうした個々人に自由裁量の余地が存在したことを知る。ただ、彼は東部戦争の真っただ中で、国防軍によって征服され、占領下に置かれた東ヨーロッパ諸国で活動していたとはいえ、ドイツ人兵士たちが置かれた強制的状況とは比較することはできない。兵士たちは国防軍の中で、軍務を遂行していた

l  抵抗、脱走、救済

19百万の軍属を抱える国防軍は、当時のドイツ社会の縮図そのもの

国防軍自体にも多様な抵抗思想と行動が存在したことは、44.7.20.の将校たちが立証

国防力破壊工作者たち、少数の戦争拒否者たち、軍の脱走兵がまずは研究の視野に入る

今では、軍部の抵抗全体が十分に研究され、論文も出てきている

これまで援助者と救済者は、殆どテーマとして取り上げられてこず、彼等を歴史に組み入れようとする活動は漸く2,3年前に開始

 

l  ドイツ軍部の批判的少数派

1933年ヒトラーの権力掌握後は、軍国主義一色で、戦争反対の見解を公式に表明することは、もはや不可能だった、という歴史的調査結果に基づいて、国防軍において、その規範から逸脱した態度を、援助と救済という行動で表明した人間を探し出そうという考えが生まれた

 

l  救済者研究の資料的問題

国防軍の軍服を着た援助者や救済者は、自らの行動、動機、見解をひたすら隠したため、救済者研究は非常に困難な資料上の問題を抱えている

口頭での、あるいは文書による目撃者証言が特別の価値を持つ

 

l  救済された人間の証言

ブレーメン財団の支援で立ち上げたプロジェクト「国防軍の反逆者、援助者、そして救済者」のメンバーがエルサレムのヤド・ヴァシェムの文書館を訪問

そこにはイスラエル国家から「諸国民の中の正義の人達」として尊敬された人々の文書が保管されているが、それらの書類に含まれているのは、救済されたユダヤ人の口頭ないしは書面による証言。「正義の人」として表彰された17500人の中にはドイツ人が336人、オーストリア人が83人いるが、その中の4045名が国防軍軍人

 

l  ドイツ人援助者と救済者に関する文献

1994年、イスラエルのジャーナリストが、ヤド・ヴァシェムの資料を基にナチスからユダヤ人を救済した人に関する本を出版したが、その中に抵抗者のなかにはヒトラーの軍隊の兵士もいたと明言しているし、他の書物にも国防軍の援助者に関する指摘が見られ、また、抵抗運動に関する文献中にも散見

 

l  伝記による接近

救済は決して危険地帯からの最終的ないし持続的な脱出を意味するものではなく、その都度一時的な保護でしかなかった。本書に取り上げた夫々の救済行為は、全体との連関を欠いた描写を避けるために、殲滅戦争という文脈に置かれて描写されている

さらにそれぞれの著者たちは、救済者の簡単な伝記によって、その動機を解明し、その救済行為と結びついた危険度を分析しようとした。救済行為が必ずしも人道的な考慮からのみなされたわけでもなく、軍事的利害とも結びついたこともあり、決してすべてを美化してはならない

 

l  自由裁量の余地という範疇

国防軍兵士に個人と良心に対する自由裁量の余地が存在したわけではなく、自由裁量の余地を持っていたのは、勇気と危険を引き受ける覚悟をもって自由を勝ち取り、その行動を人道性と良心に従わせ、処罰の威嚇や軍事法廷の厳しさに怯むことのなかった兵士のみ

 

l  典型的な救済者は存在するか

ベルリン工科大学の反ユダヤ主義研究センターでは、ユダヤ人の救出という社会現象を量的に算出する目的で、数千人の救済者のデータが収集されている

本書は、わずかな限られた事例を挙げ、利他的な救済者という一般的な人物像を描くことができると主張するわけではなく、国防軍の軍服を着た勇気ある援助者と救済者を、その歴史的個性の中で認識し叙述することを意図しているし、著者のバックグラウンドも文体も様々

 

l  救済者の動機

援助の意思決定は咄嗟の気分に基づくといい、窮地に立ったユダヤ人が最初に行動を起こしたと記す。救済者の70%は数分のうちに決断し、80%は事前に他人と相談せずに決断したというが、そうした行動をとらせる人道的な基本的態度は、数秒のうちに生じるものではなく、救済者の人格と生活様式の中で身についているものであり、経験と教育によって伝達されたものに違いない。援助者の歴史を研究するため伝記による接近もこの点を出発点として、彼等がどのようにして勇敢な行動をとることができたのかを解明する

 

l  アントーン・シュミット軍曹――リトアニア・ヴィルナのユダヤ人救済者

オーストリア人軍曹のシュミットは妻に送った手紙で、「11人のキリスト教徒が、実際にたった1人のユダヤ人でも救済しようとすれば、ナチ党の連中はユダヤ人問題解決でとてつもない困難に陥るだろう。ナチ党の連中は、すべての誠実なキリスト教徒を排除し、刑務所にぶち込むことは間違いなくできないであろう」

 

l  その他の軍服を着た援助者と救済者

国防法に規定され、実践もされた仲間意識が救済行為を有利にしたかどうか、あるいは阻止したのかどうかという問題を考慮した後で、さらに9件の「軍服を着た救済者たち」を取り上げる

 

l  ユダヤ人救済は犯罪構成要件だったか

迫害されたユダヤ人を支援することに対する禁止令はドイツにはなかった

ナチ国家によって実践された反ユダヤ主義は、「諸措置」の中に含まれ、住民の反ユダヤ主義的急進性が不十分だとして、41年秋以降ユダヤ人との接触は処罰の対象となり、禁止令の実践はゲシュタポに委託された

国防軍における反ユダヤ主義も、42年秋になって漸く軍としての職務上の義務となった

 

l  国防軍の免責か

本書の研究が、国防軍を免責するために考えられたのかと問われるかもしれない

195599年にかけて、「清潔な国防軍」というイメージが公式の場で初めて問題化され、かつ虚妄に過ぎなかったと暴露された大きな社会的事件があった

本研究では、国防軍はあくまで行動の背景であって、調査対象ではない

著者たちにとって重要なのは、勇気ある個々人の見解、精神的立場、そして行動を調査すること。彼等は極めて困難な条件下であっても、その人道主義的な見解を放棄しなかった

軍事的服従のほかに、個々人が責任を負う人道主義的態度をとる可能性も存在したのだという事実を証明している

 

l  救済による抵抗

援助者たちは伝統的な意味での軍事的抵抗者ではなく、実践的、具体的に行動した

大部分はプロイセンの貴族出身者だったが、この点において44.7.20.の暗殺を計画した参謀本部員たちと異なる。救済という行為によって、彼等の抵抗を実践するという唯一の可能性を見たことに疑問の余地はない

 

 

Ø  ユダヤ人救済者と「仲間意識」――国防軍における共同体モラルと共同体テロル

国防軍兵士たちは、その適応、順応、同調に対する異常なほどの受容的態度によって、他の軍隊の軍人よりも際立っている。6年間の全面戦争を戦い、社会的団結とその軍事的効率は降伏するまで変わることはなかった。同時に、人類史上最悪の犯罪に加担

仲間内における言論の自由は、仲間意識という曖昧な観念でまとめられた一連の多様な行動様式と社会的実践の1

仲間意識は、社交と社会的保護、利他的な援助の用意と情緒的な安全を保証

 

 

Ø  アントーン・シュミット軍曹――ヴィルナの救済者

ヴィルナは「リトアニアのエルサレム」で、数百年来ユダヤ人の最も重要な精神的中心地の1つで、イディッシュ文化と文学が繁栄

ヒトラー=スターリン条約によって1939年赤軍がヴィルナを占領、ソヴィエト連邦に併合され、多くのユダヤ人がソ連邦に移送され殺害された

41年最初のユダヤ人大量殺害が行われ、侵入してきたドイツ軍は歓迎されたが、ドイツ総督府はすぐに迫害を再開

シュミットは1900年生まれ、郵便局員の息子、28年以来ウィーンのラジオ店主、敬虔なキリスト教徒で、いかなる政治団体にも所属していない。38年には何人かのユダヤ人の知己の海外逃亡を手助け。40年以降、ポーランドにある国土防衛軍部隊の兵士で、リトアニア占領と共にヴィルナの敗走兵集合所の主任として配属。部隊からはぐれた兵士を戦線に送還する部署で、41年晩夏から翌年1月までの間に300人に上のユダヤ人を国防軍のトラックで国外に移送

集合所に隣接する工場にユダヤ人を雇い、証明書を準備

4112月、バルバロッサ作戦の蹉跌で、ユダヤ人根絶が指示される

同月、シオニスト組織の活動家がヴィルナで抵抗運動を立ち上げ。1年後に共産主義者と一緒に統一パルチザン組織結成

シュミットの武器援助によってゲットー間の連絡が取れ、ユダヤ人組織による武装蜂起が計画された。シュミットの家が抵抗運動家の集合場所であり、隠れ家になった

421月逮捕。軍事法廷でユダヤ人救助を公言し、恩赦の請願も却下され、銃殺刑に

司祭を通じて家族に手紙を送り、人間として行動したまでと言い遺す

戦後生存していたパルチザンのリーダーが、アイヒマン裁判でシュミットのことを証言、法廷は「正義の人」に対する2分間の黙祷を捧げた

1964年、ヤド・ヴァシェムはシュミットを「諸国民の中の正義の人」の栄誉で表彰

68年、ドキュメンタリー映画《シュミット軍曹》製作

2000年、レンズブルクのドイツ連邦軍の陸軍防空学校はシュミット軍曹に因んで命名

 

 

Ø  ヴィルム・ホーゼンフェルト大尉――ワルシャワの救済者

ヴウァディスワフ・シュピルマンという若き著名なピアニスト兼作曲家は、後に家族がみなトレブリンカで殺害されたが、彼は自らの評判のお陰で移送の直前この運命から逃れ、ゲットーをさまよっている間にホーゼンフェルトに発見・救助される

ホーゼンフェルトは、42/43年ワルシャワ要塞司令部のスポーツ担当将校として着任、スポーツ施設でユダヤ人を労働者として雇い、親衛隊の危険な介入から守った

ゲットーで蜂起し捕虜となったポーランド人の尋問も彼の任務の1

ホーゼンフェルトの部隊は、突然捕虜収容所の建設を命じられ、大勢の無気力な捕虜の中に尊厳を保ち続けるポーランド人を発見、援助を差し伸べることで引き続き彼等の生存を可能にしようという強力な意思を呼び覚まされた。捕虜に会いに来た家族に何人もの捕虜を解放、家族の元に戻した

上司も公正な援護射撃をしてくれたし、援護してくれた部下もいた

深い信仰心を持ち、教会の信仰箇条の言葉通りに生きて証明した

1971年妻が死に、98年娘の1人によって家の床下から4244年の日記や妻宛て600通娘たち宛て208通の手紙、戦後のソ連の捕虜時代の葉書、妻から夫への521通の手紙の詰まった箱が発見されて様々な話が明るみに出た

1895年生まれ、第1次大戦で3度負傷し、すんでのところで足を失うところだった。完全に国民的・愛国主義的心情の中で祖国への義務を果たすべきとして教育され、1939年お人好しにも戦場に赴く

 

 

Ø  カール・フォン・ボトマー大佐――疑わしきは国際法に則って

ボトマーは、1880年生まれ、1911年陸軍大学校卒、第1次大戦終戦時は参謀本部にいて少佐で退役。ナチ党には批判的だったが、34年補充将校として国防軍に採用

4043年、フランスなどを経由して旧セルビアの野戦司令部の指揮官に任命

41年のセルビアでの事件では、抵抗勢力の殲滅という国防軍最高司令部の指示にも拘らず、現地司令官はパルチザンとの闘争方針を発表し、人質を戦時国際法に則ったものにしようと試みる。ドイツ軍の報復措置によって住民がパルチザンに殺到するのを助長していると考え、ハーグ陸戦協定との整合性を求める

司令官を引き継いだボトマーは、無辜の民に禍が降りかかることを憂慮、在任中は野戦司令部の「制裁措置」を認めなかったばかりか、地元住民に対する裁判権の行使においても証明され得る判決に基づいてのみ銃殺を命じることができるとした

軍事法廷の判決への恩赦申請は大部分拒否され、幾度となく書面で警告され、非難され、自分の「誤った見解」を指摘されたが、自分の見解が指示されないのであればこの任務には適任ではないので配置替えされなければならないと上官に訴えている

43年除隊、「適切な任務なし」としてドイツに送還されるが、ユダヤ人処遇に関する見解が原因で、保安諜報部との絶えざる抗争があったとしている

46年、ユーゴの軍事顧問団の指示に従い逮捕、収容所を転々とした後、報復措置や人質銃殺命令の責任により死刑判決を受ける。誤った非難であることは、ボトマー離任の際地元ユーゴの住民が残念がったという事実からも推察される

 

 

Ø  ラインホルト・ロフィ少尉――殺人行為の拒絶

1922年生まれ。翌年父が戦病死、熱狂的な軍人で誠実なカトリックの祖父に育てられた

42年、軍曹からユダヤ人老人の銃殺を命じられ、キリスト教徒ゆえにできないと拒絶

祖父はナチズムに批判的で、ロフィも根っからのボーイスカウトで、少年団にもヒトラー・ユーゲントにも参加を拒否したが、37年にはカトリック系の青少年団は禁止に

ナチから様々な嫌がらせを受けたため、41年国防軍への召集はナチからの解放と考え、特に軍の仲間意識を気に入った。東部戦線に派遣され分隊長として参戦

444月、劣勢の中でロシアの主要戦線の背後に回り、銃器を使わずにロシア兵を逮捕するよう命令を受け、部下を無意味に死なせないため命令に抵抗、さらに強制収容所とユダヤ人殲滅についても例を挙げて事実を伝えたが、密告にあって憲兵隊に逮捕され、国防軍破壊工作の嫌疑によって死刑が求刑され、最高司令部からの判決の確定までの間収容所を転々とする。判決確定書は公布されず、6年の禁固、公民権剥奪、将校の地位喪失、即時保護観察部隊引き渡しのための刑執行の延期へと変更。やがて前線に連れていかれ負傷して野戦病院にいるところをロシア軍に包囲され、移動する列車から脱出して故郷に戻る

戦後、地元の判決で軍事法廷の判決が破棄され、高校教師として働き、ナチズムや国防軍、その刑罰体系に関し、「勇気と市民的勇気は学ぶことが出来る」と題した講演を上級クラスで行っている

 

 

Ø  エーリヒ・ハイム軍曹――ポーランドとベルギーの戦争捕虜援助者

1896年生まれ。高級森林官の息子。第1次大戦従軍。戦後親の後を継ぐがホモの嫌疑で公務員を解雇され、39年召集、捕虜収容所の監視となり、収容されていたポーランド人、ベルギー人と規律違反の親密な関係を築く

ポーランド・パルチザンの武器調達を支援していたハイムは、信頼していたポーランドの抵抗組織の人間が実はドイツ保安諜報部の秘密諜報員だったためにポーランドの将校との親密な関係を話して逮捕され、終戦3か月前に絞首刑となる

44年中ごろ、ポーランド人将校の間で抵抗集団ができ、集団脱走が計画され、ポーランド捕虜と親しかったハイムに武器や地図の調達協力要請が来るが、ハイムは上官に報告せず、脱走支援に全力を尽くす

自分の戦争への背信行為は1944年には反逆罪ではなかった、自分の行為はドイツが敗戦という事態に直面した状態の中で戦争の期間を短縮した、捕虜となった敵の将校の逃亡を援助すること自体によって戦争を短縮した、というまっとうな確信を抱いていた

 

 

Ø  ヴィリ・シュルツ大尉――ユダヤ人救済者にして脱走者

1899年ポーランド東部生まれ。国土防衛軍兵士の息子。第1次大戦終戦直前国防軍入隊。ナチ党員。無条件にナチ世界観の基盤に立っていた。40年空軍に入隊し、42年占領地ミンスクの空軍関係部署の所長に任命

433月、シュルツがミンスクにあったソヴィエト最大のゲットーにいたユダヤ人女性たちと逃亡

「ユダヤ人を監督する」という権限を委ねられたシュルツは、ゲットーからの労働力にも責任を負っていたが、ある時娘ほどの若いユダヤ人女性に恋心を抱き、食糧をエサに接近

431月、バルバロッサ作戦の蹉跌で、シュルツは愛人の3姉妹救出に動き始めるが、2か月後に転属命令が来る

シュルツは決して抵抗運動家ではなく、彼にとって間違いなく重要だったのは、国防軍の一部は軍服を着た殺人集団となったが、自分は共犯者にはなりたくないということ

労働作業用の国防軍貨物自動車を偽装してユダヤ人25名を乗せ、パルチザンの助けを期待して逃亡を決行

逃亡のニュースは直ちにラジオで知らされ、「ドイツ人の純潔」を監督する最高責任者のヒムラーは即座に反応。ミンスクのゲットーは強制収容所に変化、全員殺害されるか絶滅収容所に移送

パルチザンによって焼かれた国防軍のトラックが発見され、シュルツには罰金3000マルクが課された。それほど彼の財産侵害は重く見積もられた

逃亡後ソ連に拘束され、反ファシズム再教育施設にオクラレタガ、44年末病死

愛人の方はシベリアに送られ、ポーランド出身の生き残りと再婚しドイツへの帰国が決まった直後に医療ミスで死去

逃亡後軍の裁判所が調査を開始。シュルツは早くから、ゲットーに囲い込まれた人たちへの同情的態度で知られていたし、国防軍の掲げる敵対者像を無視していたが、軍事法廷はシュルツが自ら救助に動いたとは認めようとせず、パルチザンやユダヤ人と付き合っていたことも認めたくないようだった

妻は、「夫の行動により、彼に対する正規の懲戒手続きによって俸給の1/3が天引きされることになった」との正式連絡を受けた

 

 

Ø  大尉フリッツ・フィードラー博士――ホロデンカの善人

1886年ベルリン生まれ。郵便集配人の子供。第1次大戦に予備役少尉として入隊、鉄十字章をもらい病に倒れ帰還。戦後は英語の教師として評価。愛国者を自認、ナチス嫌い

1964年、フィードラーはヤド・ヴァシェム表彰を受けるためにイスラエルを来訪。41年ポーランドで親衛隊による銃殺からユダヤ人を救済した事績が認められたもの

1939年予備役中尉として再入隊、40年大尉に昇進。高齢のため軍政に投入され、ウクライナのホロデンカ地区司令官を引き受け

ホロデンカの人口は15千、うち6千がユダヤ人。399月ロシア軍が侵入してきて第2次大戦が始まったが、41年ドイツがソ連を攻撃するとハンガリーによって占領され、その後ドイツ軍に取って代わられた

国防軍地区司令官として着任したフィードラーは、すぐに地元のユダヤ人歯科医夫妻と懇意になる。大量予防接種の際は、地区司令部にいた全ユダヤ人200名あまりを地区司令部敷地内に匿い接種から救った。事々に親衛隊と衝突したため親衛隊によってロシアに左遷

その後フィードラーは彼が保護したユダヤ人との接触を失ったが、歯科医の息子は戦後イスラエルに移住し、フィードラーを探し当てて、ヤド・ヴァシェム賞に繋がる

フィードラーは、ユダヤ人迫害の背後にある狂気を見ていた。中世の魔女火刑に準えていた。心情において学者であり、博愛主義者だった

同時に、彼の勤務地の兵士たちが彼を援助しなかったら、1人のユダヤ人も救えなかっただろう。彼は兵士たちを信頼し、誰も密告しないであろうことを知っていた

地区司令部の職員たちが親衛隊の犯罪を断罪する点で一致していたことは救済行為にとって重大な意味を持った

64年、フィードラーは歯科医の家でイスラエルで生存しているホロデンカのユダヤ人約20名に会った。全員が感謝で迎え、フィードラーが占領中の救済行為を自慢することもなかった

 

 

Ø  カール・ラープス軍曹――青少年運動に魅せられた救済者

1896年生まれ。生涯市民的な青少年運動と連帯を感じ、自然の遍歴を好み、熱狂的な感情移入のできるヴァイオリン弾き。ワンダーフォーゲル運動に参8加

41年、郡役場の地区建築監督官として勤務。初めてポーランド人とユダヤ人を「劣等人種」として迫害する現場に居合わせ、救済行為に駆り立てられる。ユダヤ人の生活状況を改善し、強制労働を緩和し、移送から外した。避難所として宿舎を用意し、現物給付の保証と最終的には具体的な逃亡援助まで行った

アウシュヴィッツへの主要道路と鉄道線路の間に広大な土地を確保し、迫害された者の隠れ家として改修することを決心し、ゲシュタポからの追及を撃退

43年、ゲシュタポの復讐でアウシュヴィッツに移送されそうになると、空軍部隊に頼み込んでグライダー学校に転属

後日、大統領への手紙の中で、ラープスは自分の戦時中の行為の動機を、「悲劇的かつ危険な年月における自分の行動は、自明なことであり、人間としての当然の行為、キリスト教徒の義務であり、基本的には何ら特別なことではなかった」と述べている

ラープスは、少なくとも自らのナチズムへの留保的な態度のために繰り返し差別されていると感じていた。39年の開戦時、年齢と子沢山にも拘らず独立の建築家としての仕事続行を妨害され、空軍に召集されたのは、影響力のある党メンバーによって懲戒処分として仕組まれていたことは明らか

戦後の非ナチ化審査は彼の矛盾した性格ゆえに長期に及ぶ。かつてのユダヤ人から救済活動の明確な証拠を入手し漸く罪責免除者となり、フランクフルトの建築監督官の職に復帰

71年以降、自分の人道的行為の承認を求めて周囲に訴え続ける。その目的は、道徳的復権と財政的負担調整で、かつてポーランド人の財産を挑発したという中傷が邪魔をしていた

72年、連邦共和国第一級功労賞受賞によって漸く報われた。80年にはヤド・ヴァシェムも死後ではあったが「正義の人」メダルを授与

 

 

Ø  中尉アルベルト・バッテル博士とマックス・リートケ少佐――親衛隊との対決

ポーランド南東ウクライナ国境近くの町ブシェミシルでは、国防軍が武器の使用も辞さない脅かしによって、親衛隊の殺人行為を阻止したことが比較的最近になって漸く知られるようになった

アイヒマン裁判に関連してイスラエルの歴史家が明らかにしヤド・ヴァシェムに持ち込み、82年初めて生き残りが証言に立ちバッテルが表彰され、94年にはリートケも対象に

総督府にとって「国防軍ユダヤ人」を親衛隊の移送と殺人行為から守ることは重要で、国防軍情報局がしばしば親衛隊にブレーキをかけようとしたことは様々な面において証拠づけられている。軍司令部や総督府の軍管区司令官と、全国指導者=親衛隊の利害が相互対立していたことは明らか

特にブシェミシルは軍のトラック置き場と軍宿泊設備管理棟があり、東部戦線の南方地区への補給確保にとって最重要地であり、42年時点で国防軍と親衛隊の間には地域レベルの、ユダヤ人労働力に対する「赤色労働証明書」の発行について具体的な取り決めがあった

427月、3回にわたる絶滅収容所への移送が始まる。リートケはすぐに親衛隊の国境警察長官と会談し、ユダヤ人労働力の迅速な確保を要請。さらに実力行使に出て移送対象のユダヤ人たちを司令部の地下室で1週間匿う。バッテルは2500人の該当者の労働証明書に署名、さらに多くの人間を救済しようとしたが、親衛隊によってゲットーは一掃され1万人余りのユダヤ人が犠牲となった

興味深いのは、彼等のそれぞれの行動様式が伝記全体とどのような関係にあるのか、その行動様式がどのように同時代人から評価されたのかということ

リートケは着任早々だったので、ほとんどはバッテルの差配によるもの。「ユダヤ人の味方」とすら見做されたのはバッテルで、人間的な主体的行動を行わせた

バッテルは、1891年カトリックの家に生まれ、ドイツで教育を受け、第1次大戦に従軍、戦後は弁護士、33年ナチ入党するが、36年には裁判所の決定に苦情を申し立て、ユダヤ人よりの発言が党情報局に不快感を引き起こしている。義兄のユダヤ人の国外逃亡を支援

非ナチ化審査では、かつての同僚が不利な証言をしたため「共犯者」とされ弁護士資格を剥奪されたが、後に反対のことが証明されており、二重の役割をしていた。43年除隊を勧告され弁護士に戻るが、終戦直前国民突撃隊に参加、終戦でソ連に抑留され審査を経て釈放。党員の経歴や同業者の強硬な非難もありその後も勾留・釈放が繰り返され、弁護士資格は回復されないまま61歳で死去

リートケは、1894年プロイセン領オランダの牧師の家に生まれ、神学を修めた後従軍、戦後はジャーナリスト。ポーランド戦役から軍歴に復帰。地区司令官歴任後、終戦時はソ連の捕虜。リトアニアから告発され虐殺などで死刑以外では最も重い25年金庫の判決を受け、何度も控訴したが却下、拘留中に重い心臓病に罹患、55年そのまま死去

ユダヤ人労働力の軍事合目的的な根拠を、救済の隠蔽策として前面に押し出すことができた期間、救済行為は可能だったので、リートケとバッテルの場合も国防軍の規律に基づく処罰はされたが、ゲシュタポに移行する危険は避けられた

4210月、国防軍内部でも、「将校のユダヤ主義に対する態度」についての指示がありユダヤ主義との結びつきは将校として不適格とされたが、罰則による威嚇はなかった

親衛隊からの圧力や党裁判所に提訴されたため2人は別の戦場に移されたが、懲罰的な前線出撃命令と比較しうる制裁はなかったし、2人は危険を伴うと承知しながら命を懸けたとも証言している

親衛隊と国防軍に根本的な政治的対立があったわけではないが、国防軍における集団的団結が救済行動に影響を与えたことも間違いない。制度的混乱、多頭制の競合の中で、勇気ある人間が支配権を握るということもいえるが、自由裁量の余地が抑圧的で圧殺的な隘路の中にあったこと、その中で首尾よくやり抜くことは全く展望がなかったということをブシェミシル事件は証明している

1982年、バッテルはヤド・ヴァシェムから「正義の人」として表彰され、84年以降「良心の蜂起」という巡回展で国防軍に肯定的に受け入れられた

リートケは、1994年ヤド・ヴァシェムから表彰を受け

2000年、連邦防衛相は、連邦国防軍兵士の中央記念式典と公的誓約を控え、バッテルの名を挙げてその救済行為を想

 

 

Ø  ハインツ・ドロッセル中尉――ベルリンのユダヤ人救済

1916年生まれ。39年ベルリン大で法学士を取得直後ナチ組織のメンバーであることを証明する書類を提示できなかったため国防軍に一兵卒として召集され、終戦まで最前線で戦争を体験。最後は中尉。44年末野戦病院に収容された後休暇でベルリンの両親に会いに行ったときに両親が親しくしていた隣家のユダヤ人家族から援助を求められた

ドロッセルは休暇から戻りたくなかったが、戦争の終わる気配はないまま、ユダヤ人家族の逃亡を支援

休暇の期限を過ぎてドロッセルは前線に向かって逃避行を始める。前線に向かえば脱走兵とは疑われない。きわどく生き延びて戦後は裁判官の道を歩む

救済されたユダヤ人一家はアメリカに移住し、著名な物理学者となり、救済者との結びつきを復活させ、親密な友人となって、ヤド・ヴァシェムへ表彰を働きかける

ドロッセルは、81年定年後自叙伝を自費出版する。ユダヤ人友人が序文を書いたことで、2000年両親とともにヤド・ヴァシェム表彰を受ける

ドロッセルは表彰を受けるに際して、救済の動機について語る。「両親の教育のお陰で、友人を助けるのが自明のことだった」、聖体拝領の時に父が、「いつまでも誠実な人間でいなさい。たとえ困難に陥ろうとも」と忠告してくれたのを心に刻み、生涯にわたってその忠告に忠実であろうとして来たことを思い出す

自叙伝にも当時のことを注意深く観察して正確で現実に近い描写が見られる。本のタイトル『狐の時代』によって、著者はナチ時代には、キツネの性格を持たなければならなかったということを明らかにしている。「勇敢で高潔で、そして用心深く、非常に慎重に」。したがって、ここで物語るのは、暴力組織と精神的な距離を保ったままの、不本意ながら6年間国防軍に所属したかつての中尉であり、自らをいかなる戦士の熱情からも遠い「軍事上責任ある地位にない人物」と呼ぶことが理解される

 

 

 

 

 

 

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