テンプル騎士団全史  Dan Jones  2021.11.8.

 

2021.11.8. テンプル騎士団全史

The Templars The Rise and Fall of God’s Holy Warriors 2017

 

著者 Dan Jones 1981年生まれ。イギリスの歴史ジャーナリスト。ケンブリッジ大学卒業後、新聞・雑誌などで歴史関連記事の執筆を始める。2009年、“Summer of Blood”でデビュー。その後、“The Wars of the Roses” ”The Plantagenets”など、薔薇戦争やヘンリー7世をテーマとした作品を立て続けに発表し、”The Templars”は世界的ベストセラーとなる。現在、最も注目される歴史家の1

 

訳者 ダコスタ吉村花子 翻訳家。明治学院大学文学部フランス文学科を経て、リモージュ大学歴史学DEA修了

 

発行日           2021.4.20. 初版印刷          4.30. 初版発行

発行所           河出書房新社

 

 

著者より

テンプル騎士団の歴史は、時代、領土、文化など広範に跨る。人名や地名の表記は各国語が入り乱れ、言語ごとに大きく異なり、原典の綴りが一貫していないことも珍しくない

ムハンマドという重要な人名の最適な英語表記についてさえ意見が一致しない

テンプル騎士団を苦しめたクルド族出身のエジプト及びシリアの偉大なるスルタン、サラーフッディーン・ユースフ・イブン・アイユーブは、英米では「サラディン」で知られるが、これは十字軍参加者たちが付けたニックネーム

 

はじめに

テンプル騎士団は聖なる戦士たち。神の教えと剣に生きた男たち。巡礼者でありながら戦士、貧者でありながら銀行家。それがテンプル騎士。彼等の制服の赤い十字架は、キリストが人類のために流した血を象徴し、騎士たちも神のために血を流す覚悟があることを示す。テンプル騎士団は、1114世紀、中世ヨーロッパと聖地に存在していた多くの修道会の1つに過ぎないものの、知名度の高さは群を抜き、どの修道会よりも物議を醸してきた

中世のキリスト教会は、パレスティナ、シリア、小アジア、エジプト、アフリカ北西部、南スペインを支配していたイスラム教徒に狙いを定め戦争を仕掛けた。これが十字軍であり、テンプル騎士団はこの戦いの産物。「テンプル騎士団」という言葉は、「神殿の貧しき騎士団」の省略形で、キリスト教で最も聖なる都市に立つ神殿の丘がその起源であることを示している

当時から半ば伝説化され、十字軍の心的風景の一部として芸術作品や民族伝説、史話に登場

設立は1119年。純潔、服従、清貧をモットーとし、特に清貧は総長の公式印章に、鎧に身を固めた2人の同志が1頭の馬に乗り合っている図が描かれるほど重要視

騎士団自体ほどなくして富と影響力を手にする。各国の王や教皇たちと交わり、戦費調達を助け、王国政府の財務管理を請け負い、徴税、城砦建設、軍隊の訓練、貿易摩擦への介入など、また他の騎士修道会と抗争を繰り広げる。当初こそ貧しかったが、強大な組織となり、中世後期に至るまで存続

幅広い人気を誇り、多くの人々にとって、身近なヒーローだった。非戦闘修道士たちがヨーロッパ各地の修道院で唱える祈禱は、神の救いを求めるすべてのキリスト教徒にとって重大な意味を持っていた。騎士団の資産の一部は敬虔な貴族からの寄進によるものだが、市井の人々からのささやかな寄進もそれに劣らなかった

不可解で、キリスト教の掲げる平和主義を破ると批判する人々も多く、特権的立場に疑問を唱える学者や修道士たちは辛辣。評価は毀誉褒貶

14世紀初め、突然多くのテンプル騎士団関係者が逮捕、拷問、迫害され、見せしめの裁判にかけられた。集団で火炙りとなり、全財産を差し押さえられた。騎士団の崩壊は全キリスト教徒に衝撃を与え、迫害からわずか数年で騎士団は閉鎖・解散。あまりの唐突・暴力的な結末に、却ってテンプル騎士団の伝説に一層の威光をもたらす結果となり、崩壊から700年以上たった現在でも、テンプル騎士団は人々を魅了し、模倣され、妄想の対象であり続けている

テンプル騎士団とは何者だったのか。多くのフィクションや映画に登場し、多種多様な役割を負わされてきたが、現実とはかけ離れている

本書は、美化された伝説ではなく、ありのままの騎士団の軌跡を追求することを目的とする

伝説より実像の方が、より驚異に値することを明らかにする

テンプル騎士団の設立から崩壊までを辿り、いかなる変容を遂げたのか、近東やヨーロッパにおけるプレゼンス、中世のキリスト教徒軍対イスラム勢力の戦いにおける役割を見ていく

1部では、テンプル騎士団の起源について説明。フランスの騎士ユーグ・ド・パイヤンと8人の同志が、第1次十字軍の余波残る不穏なイェルサレムで、キリスト教徒戦士たちの修道会として発足したのが始まり。当初の目的はイエスの足跡を辿る巡礼者の保護にあり、1080年頃にイェルサレムで病院を設立した有志の医師グループ(聖ヨハネ騎士団など)から部分的に主導権を奪い、キリスト教イェルサレム王国の国王から認可され、ローマ教皇から承認を得るなど、瞬く間に組織化し拡大

2部では、テンプル騎士団がどのように路傍の救援隊から十字軍最前線のエリート軍団に変貌したのかを見る。テンプル騎士団が十字軍国家の政治史、軍事史における傑出した組織と目される過程を検証するとともに、十字軍史上でも際立って特異な人物たちにも注目

3部では、テンプル騎士団がヨーロッパからの寄進に支えられた十字軍援軍から、軍事力とキリスト教圏を縦横に走る高度な資産・人材ネットワークを兼ね備えた組織へと成長する過程を見る。サラディンによって一掃されたテンプル騎士団はリチャード獅子心王によって1190年頃再建され、13世紀には傑出した人物たちと出会うとともに、多くの騎士団が林立し、派閥闘争が激化し、1260年代の新たな脅威の前に総崩れとなる

4部では、テンプル騎士団崩壊の原因を探る。フランス王による騎士団の掃討と資産没収に向けた動きが激化し、終焉を迎える

エピローグでは、人々の創造におけるテンプル騎士団の広がりを俯瞰し、騎士団がロマン化され、復活さえ遂げた過程を検討

 

第1部    巡礼者たち―1102年頃~1144

1.    サソリがうごめく黄金の鉢

1102年、敬虔なキリスト教徒たちがキリスト教イェルサレム王国の主要港ヤッファに上陸、キリストの墓に向かう

キリスト教とのイェルサレム巡礼は4世紀末から始まる。以後700年間、イェルサレムの町と周辺地域はローマ皇帝、ペルシャ王、ウマイヤ朝カリフたち、マムルーク朝支配者の統治を受けてきた。アラブ軍がビザンティン帝国から奪った7世紀から11世紀末まではイスラム教徒が支配。イスラム教徒にとってのイェルサレムは、メッカ、メディナに次ぐ聖地

109699年、第1次十字軍によって聖地の主要地域がキリスト教徒に征服される

強行ウルバヌス2世は、十字軍参加者に、教会が信者に課している贖罪のためのあらゆる苦行と同等だという魅力的な約束をし、教徒の純粋な正義感に訴えて聖地回復を図る

イスラム国家を駆逐した十字軍は、地中海沿岸に一連の新生十字軍国家を建設、イェルサレム初代国王ボードゥアン1世の統治が始まったものの、内輪揉めが疲弊を引き起こす

建国後も、周囲は敵意を持ったイスラム教徒やサラセン人に囲まれ、巡礼者にとっては危険極まりない旅で、イェルサレムは「サソリがうごめく黄金の鉢」とまで呼ばれたが、こうした危険を冒したいという熱意は、巡礼をさらに魅惑的にしていた。苦痛や苦悩は、あらゆる巡礼者たちの求める魂の救済と罪の許しに不可欠な要素と考えられていたからだ

イェルサレム王国の防衛が必要なことは明らかで、ここからテンプル騎士団の物語が始まる

 

2.    イェルサレムの防衛

テンプル騎士団はイェルサレムで1119年設立、翌年公認

聖地を統治するために留まった十字軍参加者たちは外国からの侵略者であり、多種多様な民族が住む社会で支配系統を確立しようと格闘。ヨーロッパからの大部隊の援軍も得て領土を拡大するが、レパント地方(地中海東岸)の予測不可能で暴力的な日常の現実は変わらず

1118年、ボードゥアン1世と総大司教が逝去すると、セルジュークやファーティマが攻め込んできて一進一退を繰り返す

キリスト教は平和を根幹としているが、第1次十字軍までに、「キリスト教徒の戦い」という概念は単なる隠喩ではなくなり、ヨーロッパにおけるキリスト教社会は騎士を中心にして形成され、聖職者たちはもはや魂の苦闘に甘んじるのみならず、状況に応じてより直接的に戦争に従事し始めた。霊的報いのためにキリスト教徒の聖戦に従事する世俗人という概念が広く受け入れられ、十字軍運動を形作る重要な要素となり、イスラム教徒と戦うために東方へと向かう平信徒は「キリストの騎士」の一員となり、「福音の騎士」として歩むものとされ、遂には武力に訴える聖職者という概念が初めて制度として認められた

1120年、聖地の最高位の聖職者が集まった会議で、「聖職者が自衛のために武器を取る場合、いかなる罪にも問われない」との教会法が出され、剣を手にする信者は十字軍国家防衛に仕える中核的存在であるという概念が成立し、テンプル騎士団の起源と歴史の根幹となった

フランス人ユーグ・ド・パイヤンが祈りを捧げようとローマからイェルサレムにやってくる。1070年以前にシャンパーニュで生まれ、イェルサレムに来て国王指揮下の軍隊に入り、次いで修道士になろうと決意

ベネディクト会修道士たちは病や怪我に苦しむ巡礼者たちに手を差し伸べ、イェルサレムの聖ヨハネ病院で治療に当たっていて、聖ヨハネ騎士団と呼ばれるようになるが、1113年教皇に公認され、聖墳墓教会近くに拠点を置いて活動を繰り広げ、イェルサレムの人々の生活に深く根付き、高く評価されていた。彼等のような敬虔な騎士グループが他にもいくつも存在したところから、国王は彼等を聖墳墓教会に帰属させるのではなく、衣食住を与えて、イェルサレムの防衛と巡礼者の保護の責任を持たせようとした。護衛隊であり貧窮者であり、ひたすら剣と祈りに身を捧げるしがない結社という1つの目標を手にしたのがテンプル騎士団

十字軍の統治下では、スンニ派の強大なカリフ国であるウマイヤ王朝時代1030年代に建て直された岩のドームもアル=アクサー・モスクも聖性を奪われ、ドームは教会となり、モスクはイェルサレム王の宮殿として使用され、キリスト教徒は岩のドームを「主の神殿」と呼び、モスクをソロモン神殿と同一視、イスラムからキリスト教へと統治が代わっても、この場所は霊的な生き方を享受したいと望む各国の人々を惹きつけてやまなかった

結社を設立したパイヤンが1120年に本部を構えることを許されたのもここで、「主の神殿」のすぐそばに住んでいたために「神殿(テンプル)の騎士団」と呼ばれるようになったが、キリスト教徒が1099年イェルサレムを征服した際は、この場所でイスラム教徒の女性や子供に対する史上最悪の虐殺の1つが行われた

当初10年は、王や大司教からの僅かな施しによって生計を立てていた

 

3.    騎士団

当代随一の聖職者の1人となったベルナール・ド・クレルヴォー(聖ベルナール)は、修道院改革の旗手、高名な学者、表現力豊かな疲れを知らぬ書簡の書き手、卓越した伝道者、初期テンプル騎士団の貢献者であり基礎固めの立役者。彼の信仰への目覚めが12世紀前半におけるカトリック教会の方向性を決めたと言ってもよい

パイヤンがフランスに向けて出発した1126年、聖ベルナールは36歳、シャンパーニュ地方のクレルヴォ―に自ら設立した修道院の院長として12年勤務。1098年自らディジョン近くのシトーに新設したシトー修道会は、ベネディクト会とは対照的に、質素な禁欲生活、厳しい肉体労働、文明から隔絶した孤独な生活を送り、従順、祈禱、学問に精進、謹厳な生活を旨とした

シトー会以外にも修道院生活を変えようと試みた者は多く、キリスト教の新生という点では、中世を通して12世紀は最も実り多き時期の1つであり、修道院生活は民間で爆発的に普及し、キリスト教始まって以来の多様性が開花

清貧、従順、瞑想を中心とする新たな生き方を模索して多くの修道会がフランス各地に溢れ、中には女性が修道女として戒律を守りながら生活するための女子修道院もあった

聖ベルナールがイェルサレム国王ボードゥアン2世からの手紙で、東方の紛争地域でテンプル修道士と呼ばれる新たなキリスト教グループの立ち上げを知らされ、使者を送るので彼等がローマ教皇から公式な認可と宗規、さらには資金支援が得られるよう助力を求められる

発展途中のテンプル騎士団の理想と、若き日ベルナールが身を投じたシトー会の運動には、清貧と従順を核とし、俗世の虚栄心を退け、神に仕えるために肉体的重労働を引き受ける新たな霊的組織という相似点があったところから、ベルナールが動き出す

西方に派遣されたのはパイヤンのほかにもボードゥアン2世の軍総司令官も同道、ボードゥアンの娘とアンジュー伯フルク5世を結婚させ、ボードゥアンの世継ぎにしようと画策

1125年に始まったボードゥアンによるダマスカス襲撃は、かつてスンニ派カリフ国の本拠地をトルコ系から奪還するためで、西方からの支援が不可欠で、そのための支援の徴募もパイヤンに課せられた使命。テンプル騎士団は、修道会としては新生だが、十字軍国家のために行動するエリート軍人集団としてすでに定着していた

パイヤン一行は、フランドルからノルマンディー、イングランドなどを歴訪、東方への支援を確約させることに貢献、故郷シャンパーニュ地方を中心にテンプル騎士団の増強にも成功

フルク5世もイェルサレムに渡ることを了承

ベルナール以下の聖職者が集まった公会議でテンプル騎士団の初期宗規が採択された

この時期、アラゴン王アルフォンソ1(武人王)も対イスラム最前線にいたが、彼の敵は南スペインのムーア人で、その戦いは「国土回復運動(レコンキスタ)」と呼ばれていた

 

4.    あらゆる良い贈り物

イベリア半島では、かつてはキリスト教徒とイスラム教徒が共存していたこともあったが、1101年ローマ教皇がイスラム教徒の北アフリカへの追放を承認、スペインのキリスト教徒に東方への参戦を禁じて、スペインの対イスラム戦争を聖地での戦いと同等に扱い、聖地回復を目指すより壮大な戦いの一部として、公に聖戦の第2舞台となり、アルフォンソ1世はこの世界観に熱狂

1134年、アラゴン軍がイスラムの大群の前に敗北を喫し、アルフォンソ1世もその時負った手傷がもとで死去。アルフォンソ1世は遺言状で、聖墳墓教会と聖ヨハネ騎士団、テンプル騎士団を相続人に指名しており、テンプル騎士団は宗規を手にしてから僅か5年で1王国の1/3を与えられるという大躍進を遂げ、以後2世紀に渡るレコンキスタで一定の役割を担う

この遺贈は、十字軍運動に対する派手な気前の良さがヨーロッパ中に広まっていたことを示し、これなしでは騎士修道会という概念は立ち行かなかった

パイヤンはテンプル騎士団の名声を確立してイェルサレムに戻るが、以降10年間大規模な軍事行動はせず。1129年のダマスカス攻撃ではボードゥアンの作戦ミスから大敗を喫している

1136年パイヤン死去。後継は投票で選出された副総長のロベール・ド・クラオン(ロベール・ル・ブルギニョン)で、教皇宮廷と確固たる関係を築いた功績を残す

1139年、ローマ教皇インノケンティウス2世からテンプル騎士団に宛てた勅書では、新約聖書の『ヤコブの手紙』からの引用で「あらゆる良い贈り物」で始まり、広範囲にわたる特権を付与。騎士たちを、「現世の華やかさや個人的財産をなげうち神の声に耳を傾ける者」と褒め讃え、「命の源である十字架の印を常に胸に付ける」権利があるとして、白いマントに赤い十字架の組み合わせがテンプル騎士団の独特な制服に採用されることになる

インノケンティウスが権力闘争で勝利し、教会分裂を回避するのにベルナールの支援が大きき寄与したことが背景にあり、勅書ではテンプル騎士団が「今後いかなる時も、聖座の保護と後見下」にあるとされ、キリスト教圏全域において、ローマ教皇の命令にのみ従い、封建領主や司教の権威からの独立が保証され、「カトリック教会の擁護者、キリストの敵の攻撃者」に指名されたうえに、教会による1/10税の免除と、所有地の居住者からの同税徴宗収の権利が認められる。一方で、聖ヨハネ騎士団がローマ教皇から宗規を認められたのは1153

テンプル騎士団はインノケンティウス2世の没後も12世紀半ばまでローマ教皇と緊密な関係を保ち、独自に司祭を任命し、他の聖職者の管轄権にあっても専用小礼拝堂の建設が認められ、そこでは彼等に費用を払う義務なしに1/10税の徴収や埋葬費用の請求が許されるという経済的特権を維持。こうした特権によって騎士団は莫大な資産を手中に収めることになる

清貧の中で生きたからこそ彼等は裕になる。聖地の銃霊者保護の約束や、信仰心からくる暴力という概念が厳格な徳と相俟って、権力者の庇護を集め、権力者と同様にキリスト教圏の市井の男女も寄進を行ったので、テンプル騎士団の財政は領地、資産、建物、領地収入、労役、個人的所有物の遺贈で潤った。熱心な男たちは騎士団に入会し、戦闘員としてイスラム教徒と闘ったり、非戦闘員として重要な働きもした

1135年、イングランド王ヘンリー1世が没すると男子後継者がいないまま、血の争いが勃発(無政府時代)。両者ともテンプル騎士団とは深い繋がりがあったところから、最も寛大なる庇護者を証明しようとなりふり構わず寄進を行い、その政治的支援と霊的保証を期待した

フランスでも各地で寄進が続き、広大な不動産ネットワークが築かれ、修道院が次々と建てられていく

アルフォンソ1世の奇異な遺言に異議が唱えられ、テンプル騎士団のアルゴン統治には至らなかったが、着実にイベリア半島に支配地を拡大。国境の要塞維持を任され、必要な費用を賄うために多大の寄進がなされた。遺言状に指示された分け前を取り上げられ、代わりに僅かの領地を与えられた聖ヨハネ騎士団や聖墳墓教会とは別格の扱い

西方ラテン諸国でのテンプル騎士団の評判は高まる一方で、資産も飛躍的に増大。イングランドからイェルサレムまで、キリスト教徒王に助力し、ローマ教皇に3代にわたって取り入り、アラゴン王アルフォンソ1世やベルナールのような全く異なる気質の人物を味方につけたことで、自らの政治的力量を証明。イェルサレムの総長の下、ピラミッド型修道院組織として有効に活動、僅か30年足らずで、1140年代後半には騎士団の名はキリスト教世界に知れ渡った

1147年、ローマ教会が東方に新たな攻撃を仕掛ける第2次十字軍では、テンプル騎士団が中心を担う

 

第2部   戦士たち―11441187

5.    天国と地獄の戦い

1144年、第1次十字軍が最初に攻略した町で、東方のキリスト教圏の最北にある宝でもあったエデッサ伯国が、「極悪で非道なキリスト教迫害者」と呼ばれたザンギーによって陥落

ローマ教皇エウゲニウス3世の呼びかけに応じたのがフランスのルイ7世であり、ドイツ王コンラート3世も呼応、ベルナールも熱狂的に呼びかけを広げ、漸く陥落から3年後に東方へ向けて報復隊の出発準備が整うが、テンプル騎士団以外は無数の信者からなるただの群衆に過ぎないことが明らかになる

陸路コンスタンチノープルに入ったコンラートの軍隊は、東のセルジューク帝国からの攻撃を受けてコンラート自身も重傷を負い、ルイ7世軍に合流。ルイ7世軍も地中海出る手前の呪われた山越えでトルコ側の攻撃に遭って足止め。テンプル騎士団だけが行進を続け、ルイ7世も十字軍の指揮権を騎士団に移譲、騎士団の統率の下に軍勢は再組織化され、鍛え直された

兵站に苦しみ困窮の中を何とかルイ7世軍はアンティオキアまで辿り着く

 

6.    戦争の粉砕機

アンティオキアで旅費が尽きたルイ7世もコンラート3世もテンプル騎士団の財力に頼る

イェルサレムでは、イスラムの聖地ダマスカス攻略に向けた準備が進む

十字軍の目的はエデッサの奪回だったが、ダマスカス攻撃へと戦術を転換。ドイツ騎兵がトルコ勢に襲い掛かり、「戦争の粉砕機は始動を開始した」といわれたが、強固な守りに遭い、食料が尽きたこともあって撤退。テンプル騎士団は聖ヨハネ騎士団とともに十字軍を支援したが、殆ど見返りもないままに1148年、49年と相次いでコンラートもルイも聖地を後にする

30年の間にテンプル騎士団は、近東のイスラム教圏外に築かれた「神の王国」とほぼ同義語となったが、これこそ彼等にとって最大の栄誉であり、最悪の災いでもあった

 

7.    邪悪な塔

破壊されたガザの町は、114950年にかけて目覚め始めたが、その中心にいたのがテンプル騎士団。自身の所有物として城を築き、民衆を警護

さらに南のアスカロンを攻撃する足場となる

アスカロン攻撃では、巨大な建造物を持ち込む。「邪悪な塔」と呼ばれ、城壁と同じくらいの高さがあって高所の戦闘用足場から敵の胸壁と同じ高さで相手を討つことができた

1154年時点でも、テンプル騎士団はイェルサレム王国の戦力の中核を担う。彼等が忠誠を誓うのは神、総長、ローマ教皇のみで、本能と独断に頼っていたため、その独立性ゆえに危険と見做されるようになる

 

8.    権力と富

エジプトのファーティマ朝カリフが内紛から惨殺され、加害者の宰相親子はカイロを脱出したが、テンプル騎士団によって捕らえられ

1150年代中期に入る頃には、テンプル騎士団は聖地のカトリック教徒国家を舞台に広範に活躍。1000名に満たない騎士たちが3つの十字軍国家に広がっていた

同じ頃、アラゴン、カスティーリャ、ポルトガルなどの各王国のテンプル騎士団は聖戦にかかり切り。約30年かけてイベリア半島に定着し、1150年代後半にはレコンキスタに従事する貴族たちから寄進された要塞や土地を含む大規模な財を築いた。とりわけ熱心な庇護者がポルトガル王で、テンプル騎士団の働きでイスラム教徒を駆逐しリスボンに司教座を設立

 

9.    二つの地における災難

1163年、イェルサレム王国ではアモーリー1世が即位したが、周辺のイスラム国家の興隆に押され、まず北のアンティオキアが占拠される

スンニ派セルジューク朝下のトルコ人と、シーア派ファーティマ朝エジプトの対立があったからこそ、十字軍参加者は土地を切り拓き、王国を維持することができたが、ザンギーの息子ヌールッディーンの支配下にシリアの統一が実現、ファーティマ朝も崩壊寸前で、キリスト教徒支配下の沿岸地域は包囲されたも同然

一方、アモーリーとテンプル騎士団の関係が、エジプト攻撃や土地の遺贈などを巡って悪化

サラディンに率いられたスンニ派イスラム教徒軍が勢力を拡大、ヌールッディーンよりさらに危険で、クルドのシールクーフより狡猾、ザンギーより残忍な指導者が出現、テンプル騎士団も存続の危機に

 

10. 炎の涙

イスラム圏で頭角を現したサラディンは、シールクーフの甥で、エジプト陥落では司令官を務めたが、1169年伯父の急死の後を追って主導権を握り、さらに覇権を争ったヌールッディーンが1174年死去すると後釜に座り、その未亡人と結婚して正統性を確立し、1180年までにはレパント地方イスラム圏の覇者となる。後にアイユーブ朝と称するがその起源は1169

サラディンの勢力伸長に伴い、騎士団との衝突も急増、最初の大規模な衝突は1177年。アモーリーが赤痢で死去して以降イェルサレム王国は弱体化、後継のボードゥアン4世は幼少でハンセン病。テンプル騎士団の活躍で何とかサラディン軍を撃退

ヨルダン川対岸、ガリラヤ湖の近くの「ヤコブの浅瀬」と呼ばれた地は、中国からモロッコまでの通商路の中央に位置する重要拠点で、1178年イェルサレム王国とテンプル騎士団は共同で新しい要塞を築き、巡礼者や隊商の安全を確保しようとしたが、サラディンの抵抗に遭って、城壁完成直後に攻撃され城は崩壊。崩れ落ちる塔から降り注ぐ「炎の涙」が目撃された

 

11. イェルサレムに災いあれ!

1180年、両陣営間に2年の休戦協定締結

テンプル騎士団はすぐに東方での資金不足を補填するために西方での支援募集活動を開始

ローマ教皇アレクサンデル3世に新たな十字軍派遣を要請。教皇は受けたが、フランスではルイ7世が死去して僅か15歳の息子がフィリップ2世として即位したばかり、イングランド王ヘンリー2世も老齢で十字軍の結成など程遠い話

1187年、クレッソン泉に続くハッティンの闘いでもテンプル騎士団はサラディン軍に惨敗、リーダーを失ったキリスト教の国々にサラディン軍が襲いかかり、キリスト教イェルサレム王国の崩壊の始まりとなる。年末までにはサラディンがイェルサレムに入城。テンプル騎士団本部のあったアル=アクサー・モスクも占拠され浄化され、パイヤンとテンプル騎士団が守ろうとしたほぼすべてのものを塵と化させるのに15週とかからなかった

 

第3部   銀行家たち―11891260

12.    富を求めて

118789年、テンプル騎士団はかつての貧しく持たざる状況に追い込まれ、屈辱と困窮から終焉目前、シリアのフランク人都市の中心アッコンの近くに本部を移す

イェルサレムや聖十字架の損失に西方の国王たちは仰天し、最大規模の十字軍が計画される

アッコンを巡って、サラディン軍も包囲に出陣、小競り合いを繰り返しながら、優勢に進める

劣勢を覆したのはイングランド王リチャード1世獅子心王、曽祖父がイェルサレム王フルク1世で、1187年十字軍戦士を宣言するが、父ヘンリー2世との激しい確執もあって、東征に出発するのは1191年のこと。東方に向かう途中、先々で流血騒ぎを起こし、リスボンを略奪、シチリアを侵略、キプロスを征服

さらにフランスのフィリップ2(尊厳王)も参戦。リチャード1世はフィリップ2世の義母姉アデルと婚約していたが破棄

1191年、サラディン軍が守るアッコン城が陥落。テンプル騎士団も息を吹き返す。フィリップ2世の十字軍の目的はアッコン奪回だったため、陥落直後には引き揚げたが、リチャード1世にとってはまだ始まりにすぎず、さらに南下してイェルサレムを目指し、テンプル騎士団も最後衛として従う

1192年、リチャード1世はサラディンと3年の停戦協定を締結して帰国するが、帰路、アッコン陥落の功績を巡って諍いのあったオーストリア公レオポルド5世に身柄を拘束され、彼の主君筋の神聖ローマ皇帝ハインリヒ6世の人質となる。14カ月幽閉されたのち身代金を払って解放されるが、その額は十字軍遠征の費用にほぼ匹敵したという

リチャードの支配下で目的と規律を取り戻したテンプル騎士団は、リチャードが征服したキプロスを譲り受けたが、地元の反感を買って大規模な反乱に見舞われる

 

13.    貧窮とはほど遠く

1120年代にパイヤンがイングランドを訪問して以来、テンプル騎士たちは王国の重大事に関わってきたが、80年頃テンプル騎士団のイングランド管区長に就任したステファンは、大物貴族として国王、大修道院長などと親交を結び、テンプル騎士団の興隆期を築く。国王の外交官として活躍

1185年は、イングランドのテンプル騎士団にとって黄金の年。ヘンリー2世が騎士団を銀行として信頼し、騎士団本部を宝庫として使い始め、周辺一帯を含め国王の要塞の1つとなる

88年のハッティンでの敗北の知らせにヘンリー2世は、新十字軍に向けた緊急資金拠出のため、テンプル騎士団に「サラディン1/10税」の徴収を命じる

ヘンリー2世の息子リチャード1世は、聖地におけるテンプル騎士団の軍事力復活の立役者と同時に、国内でも全土で騎士団に資産を譲渡し、課税を免除する勅許状を発出

ローマ教皇を始めいくつもの西方の有力諸侯たちがテンプル騎士団を庇護、騎士団も戦闘能力とキリスト教会の特権と国際的なネットワークを融合させ、権力者のために役立てたところから、1159年ローマ教皇に就任したアレクサンデル3世以降、歴代教皇の内輪の集まりにテンプル騎士がいたり、財務面を任せたり、テンプル騎士団がビジネスノウハウを持った集団として認識され始めていたことがわかる

フランスやその属領でも、テンプル騎士団は王室に近い。パリの城壁外に広大な複合施設を擁し、王室の財務官を務めていた騎士もいるほどで、国王や国と共存共栄の関係を築く

キリスト教圏全体でも同様の状況で、イタリア半島全体から南はシチリア島まで急拡大、アラゴン王国でも不動産などの富を所有。罪を悔い改めた証としての寄進が相次ぎ、修道士たちは寄進者たちのために日々祈った。1213年、5歳のハイメ1世が即位するとローマ教皇はテンプル騎士団の管区長に養育を一任、その後のレコンキスタで成果を上げる基礎を築き、スペインでも騎士団の存在感がピークに達する

ローマ教皇インノケンティウス3世ほど熱心にテンプル騎士団を保護した者はいない。1198年就任後18年にわたり教会改革を行い、東方における戦いという使命の擁護に全力を傾注

十字軍運動に最悪の損失をもたらしたサラディンが1193年死去したこともあって、12024年第4次十字軍を立ち上げたが、ヨーロッパ各国軍やヴェネツィアの艦隊は聖地に向かう代わりにコンスタンティノープルに向かい、ビザンティン帝国を襲った

教皇は1216年没するまで様々な特権をテンプル騎士団に与えたので、騎士団は創設以来空前の権力と財力とネットワークを誇り、戦闘から銀行、不動産管理、国際外交へと活動の幅を広げていった。東方の雲行きが怪しくなって第5次十字軍が計画され、エジプトとナイルデルタの商都に焦点が当てられた時、テンプル騎士団以上に頼りになる者はいなかった

 

14.    ダミエッタ!

1213年にインノケンティウス教皇が呼びかけ、その没後は後継者ホノリウス3世が遺志を継いで始まった第5次十字軍が、1218年アッコン近くの巡礼城を発してナイルデルタの町ダミエッタを目指す。同時にポルトガルからも大船団が同地に向かい共同してダミエッタを襲撃するが、抵抗が激しく、冬になって食料補給が尽きてくると大苦戦を強いられる

翌年末になって漸く陥落させるが、エジプト軍を深追いし過ぎた結果、ナイルの水利に疎いところを突かれ、撤退を余儀なくされる

 

15.    敵意と憎悪

1228年、西方最強の統治者だった神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世がアッコンを訪れ、イェルサレムの王位を主張して十字軍を立ち上げる

その前年、ホノリウス3世の後を継いだグレゴリウス9世は、十字軍参加をぐずぐずと引き伸ばし続けていたフリードリヒ2世を破門したこともあって、フリードリヒ2世とテンプル騎士団の関係も破綻

フリードリヒ2世は、アイユーブ朝の跡目争いに付け込んでキリスト教徒の失地回復を狙うが、テンプル騎士団は破門された相手と組むことはせず静観

1229年、アイユーブとの間に10年の停戦協定が結ばれ、キリスト教ともイスラム教徒もイェルサレムを訪れることができるようになり、キリスト教徒はベツレヘムなどの正統な統治者と認められ、フリードリヒ2世がイェルサレム王を手中にする

1230年代末、さらなる十字軍の波が聖地に寄せる。率いるのはイングランド王ヘンリー3世の弟コーンウォール伯リチャードなどで、男爵十字軍と呼ばれ、フリードリヒ2世が獲得した領土をさらに広げる。1241年にはイスラム教徒のイェルサレムの町への出入りが制限される

1244年、トルコ系ホラズムの民の来襲まで続く

フリードリヒ2世の帰国後は、キリスト教国内部の覇権争いが再発したが、アイユーブも跡目争いに明け暮れし分裂していた

テンプル騎士団は、初めて西方の国王に戦いを仕掛けて苦杯を嘗め、フリードリヒ2世の力の及ぶところでは財産没収などの目に遭ったが、力の及ばない地域の騎士団は発展を続け、特に123040年代初頭にかけて特に商業の分野で大きな成長を遂げる

特にテンプル騎士団の勢力が強かったのはマルセイユ。港の関税が免除されたこともあって、巡礼船や商船で賑わう

銀行業の分野でも急成長、王族などの資産保護に貢献。年金支払いなどの行政サービスも請け負い、戦争捕虜や人質の身代金の立て替え、大金の貸し付けなども

13世紀半ばには、組織としてのテンプル騎士団は空前の繁栄を誇る。戦う集団ではなく、世界を股にかけるビジネスネットワークであり、ソロモン神殿の貧しき騎士たちはもはや「神殿」にはおらず、貧しくもなかった。ただ、十字軍の使命を放棄したわけではなく、じきに十字軍最後の火花が散り、戦場に呼び戻される

 

16.    我らが旗を掲げよ!

イスラム教徒は神殿の丘に行くことは出来ても、そこをキリスト教徒が冒すことには耐えられず、キリスト教徒と友好関係を維持しようとする勢力に対抗して、スンニ派でペルシャや中央アジア出身のトルコ系ホラズムの民と手を組んだアイユーブの一派が1244年に決起

たちまちイェルサレムは陥落、西方の国王に助けを求めた際呼応したのがフランスのルイ9

祖父フィリップ2世、曽祖父ルイ7世の促成を辿ることを使命と確信し、テンプル騎士団の力を借りて東方の失地回復へ立つ

1249年、ルイ9世とテンプル騎士団の大船団がダミエッタへと向かうが、またしてもナイルの前に敗退、ルイ9世は捕虜となって莫大な身代金を要求される

ルイ9世は解放後もイェルサレムに留まって聖地立て直しの十字軍事業に奔走したが、国王不在のフランスを治めていた母后の他界で政界が分裂したのを機に1254年帰国

最後の十字軍王として、キリスト教を尊んだ模範的王制として歴代フランス王の中でも傑出

ルイ9世の治世では、フランス王とテンプル騎士団の関係が頂点を迎え、彼の出発後、聖地防衛を担ったのは東方の騎士修道会で、これに西方のキリスト教圏の君主たちが僅かながらも支援を行っていたが、十字軍国家は徐々に勢力を失い、騎士団の資産と名声も下降を辿り始める

西方ではテンプル騎士団に対する疑惑が強まり、13世紀後半には2つの敵対する勢力に対峙――1つはマルムーク。もとはナイル川河岸で創設された部隊で、東方のキリスト教徒殲滅を期してレパント地方イスラム圏全体に勢力を広げる。もう1つはルイ9世の孫、フランス王フィリップ4

 

第4部   異端者たち―12601314

17.    喉のしこり

「征服の父」「エジプトの獅子」と言われたバイバルスは、126077年に東地中海に誕生したスンニ派帝国を統治。アイユーブ朝崩壊から10年経って興隆した王朝はマルムーク朝と呼ばれた戦争国家。民族的にはトルコ系遊牧民族のキプチャックに属し、黒海北の草原地帯(ステップ)に誕生。アイユーブ朝に傭兵として仕え、カイロで独立。13世紀初頭に始まったモンゴル族の西方進出に対抗し、一旦は撃退

バイバルスの目的は2つ――エジプトとシリアのイスラムの民を統合してマルムーク統一国家を創ることと、パレスティナとシリアからのキリスト教徒の一掃

キリスト教国家は、モンゴルが宗教に寛容なことに目をつけ、協働してイスラム教徒の駆逐を図ろうとした

1265年、バイバルスによるキリスト教国家への本格的襲撃開始。各地の要塞が陥落。テンプル騎士団の城も包囲。イェルサレム王不在のまま、東方の貴族間の対立が進み、十字軍国家の安全は崩壊寸前に

1268年、再びバイバルスが進撃、トリポリとキプロス王国を除くアンティオキアまでの沿岸を征服

1271年にヘンリー3世の長男で後継者のエドワード王子に率いられた遠征軍が来て、翌年10年の休戦協定が結ばれる。その5年後バイバルスは謎の死を遂げる

 

18.    町は陥落する

1291年、マルムーク軍が聖ヨハネ騎士団が守るアッコンを攻撃、テンプル騎士団の施設も陥落

1292年、ローマ教皇ニコラウス4世の下に集まったキリスト教圏全体の会議で、脆弱化した騎士団の合併案が示される。騎士団存亡の危機となるが、辛うじて合併は回避

テンプル騎士団は、時間をかけて海軍力を高め、14世紀の最初の2年間聖地の一部の占領に成功するが、2年後にはマルムーク艦隊に海上封鎖され投降、バビロンに連行され奴隷に

 

19.    悪魔にそそのかされて

1305年、リヨンにキリスト教国の有力者が参集、ボルドー大司教がクレメンス5世としてローマ教皇に戴冠される。教皇選出の勢いに乗ってフランス王フィリップ4世を中心に新十字軍結成の動きも表面化

1306年、新教皇からテンプル騎士団と聖ヨハネ騎士団に対し、統合を前提とした十字軍派遣の打診が来る

封建関係では一般的行為とされた口づけは、キリスト教でも平安の表現として多用されていたが、男色は「汚らわしくおぞましい罪」として糾弾されており、新メンバーへの口づけが騎士団の習慣であることを認めつつ、騎士団の妥協を許さない規律が強調され、フィリップ4世の耳に誹謗中傷が入ると、国王との会見を経て、テンプル騎士団の醜聞の噂が広まる

1307年、フランス国王が動き、全土でテンプル騎士団の一斉召喚が始まる

 

20.    異端の堕落

糾弾されたのは、騎士団入会に対して行われる闇の行為と奇妙な儀式についてで、発端は入会者への口づけだったが、告発状では儀式を堕落した乱痴気騒ぎに仕立てている

1160年代にカトリック教会に最初の異端の嵐が吹き荒れて以降、西ヨーロッパの高位聖職者や敬虔な世俗君主たちは異端の炙り出しに強迫観念にも似た執念を燃やしていたが、この時も例外ではなく、異端と認めるまで厳しい尋問・拷問が続き、テンプル騎士団にはびこる不信仰の証拠を探す。異端を炙り出すのは教会だが、それを罰するのは世俗当局なので、異端がはびこっていると証明できれば、フィリップ4世は騎士団の閉鎖と資産没収の権利を教皇から奪い取ることができる

国王の暴挙に教皇は抗議の手紙を書くが、フィリップ4世は無視

周辺のキリスト教徒君主に対し教皇は勅書を発出、国王に対する教会の優位を唱えたが、教皇は後手に回った印象を与えただけで、君主たちは当惑

教皇の介入が逆効果となって、ヨーロッパ各地でテンプル騎士団が追及を受けることになる

イングランド、スコットランド、アイルランド、ウェールズのメンバーが全員逮捕され、ナポリ王も教皇の命令に従う

教皇は突如審問を中断させ、捕らえられていた騎士団のメンバーも次々に供述を撤回

教皇は病弱でローマへは行けず、ポワティエに居住していたが、国王の圧力に耐えかねて脱出、辺境近くのアヴィニョンに移動、「アヴィニョン教皇庁」が成立し、以後70年近く歴代教皇の住まいとなる。バビロン捕囚に準え「アヴィニョン捕囚」と言われる歴史的事件

 

21.    主は我らの仇を取らん

個人としては自白によって赦しを与えられたが、騎士団全体の有罪の証拠集めのために拘束と訊問・拷問は続く

キリスト教圏各地から集まった高位の聖職者たちはテンプル騎士団に向けられた糾弾に対し懐疑的だったが、教皇もフランス人であり、最終的にはフランス王の言うがままになるしかなく、強制された自白に基づく罪によって、「カトリック教徒全体にとって忌むべき存在で、神の教会にとっても聖地での事業継続にとっても無用となるだろう」と断罪され、弁解の機会も与えられないまま、192年続いたテンプル騎士団は廃止に追い込まれた

資産がフィリップ4世の手に渡らず、教皇により「教皇座の処分」に付されたことがせめてもの救いで、騎士団の統合については言及されていない

1312年、テンプル騎士団の資産は東方での任務を支えるため、聖ヨハネ騎士団に譲渡

フィリップ4世の勝利はあくまで個人的なものであり、秘密、異端、堕落、偶像崇拝、冒涜、肉欲、邪悪さに蝕まれていると彼が信じ込んでいた組織に対しての勝利

騎士団メンバーの多くは罪を告白し赦しを与えられ、他の修道会に送られ、アヴィニョンの教皇宮廷から年金を給付された

1314年、騎士団のトップ2人が火刑に処せられ、呪いの言葉を残していった効果からか、1年も経たずに反対側の当事者の2人、教皇と国王が相次いで他界

テンプル騎士団が大きな役割を果たした十字軍は、騎士団消滅後も聖なる戦いという概念はヨーロッパのキリスト教徒たちの心に深く刻まれ、聖地奪回の夢は消えず、カトリック教会も周辺部の様々な「異教徒」に対する攻撃を十字軍運動と認め、世俗の君主たちをたきつけた

イベリア半島のレコンキスタは1415世紀も続く。グラナダ王国はカスティーリャ王国の隷属国だったが、多くのイスラム教徒が住み誇り高きイスラム独立国として存在し、1479年アラゴン王とカスティーリャ女王の夫妻が合流して1492年イスラム王朝を追放して漸く終焉

133040年代、十字軍は新たな標的としてトルコが支配する地中海の港を攻撃するために海軍同盟が結成され、60年代にはイスラム教徒の町を略奪し、短期間征服した都市もあったが、1378年教会の大分裂とともに十字軍の動きも分散

聖ヨハネ騎士団はテンプル騎士団の莫大な資産を引き継いだが、彼等の生き残りで決定打となったのはロードス島の制服。2世紀以上にわたって島に住み、エーゲ海交易に携わり、イタリア人に加勢して小アジア西岸のトルコの港を攻撃したが、1522年スレイマン1世に降伏

降伏後も聖ヨハネ騎士団は消滅したわけではなく、1530年にはスペイン王カルロス1世からマルタ島を与えられ、1798年のナポレオンによる征服を経て現代でもなお存続。「マルタ騎士団」とも呼ばれ、ローマを拠点とするカトリック修道会であり、国際法により主権実体として認知され、独自の国歌、国旗、旅券、軍隊を保有

ヨーロッパでは同種の団体が複数存在していたが、19世紀の英国で再編成が進み、1888年にはヴィクトリア女王から勅許状を与えられ、プロテスタント色の濃いキリスト教集団として英国王の権限下にあり、慈善事業を支える独立組織となっている

エラスムスは宗教改革初期の暴力に言及、「キリスト教徒によるキリスト教徒への行為」はイスラム教徒がなした最も邪悪な行いの多くよりも「さらに残酷」だったと仄めかす。オスマン帝国の危険性を認めつつ、戦争の哲学的正当化と何世紀も前の十字軍運動を蝕んだ堕落について徹底的に検証し、最終的には、イスラムと西方が和平へと至る最良の道は、異教徒をイエス・キリスト信仰に改宗させることだと論じている。当時のような困難で錯乱した時期にこそ必要とされるキリスト教徒戦士の失われた理想像についても述べ、それは究極の十字軍戦士であり、「聖ベルナールの描く戦士たち、修道士と呼ぶべきか、騎士と呼ぶべきか定かではないが、その誠実な品行と、戦士としての勇敢さは卓越していた」という

テンプル騎士団は消滅して何年経とうとも、十字軍運動が続く限り人々の想像の中で生き続けた

 

エピローグ――聖杯

エッシェンバッハ著『パルツィヴァール』(1210)は、アーサー王伝説を題材としているが、広範な読者層を獲得し大きな影響を及ぼす。騎士道精神を極めようと聖杯を求める旅に出る話だが、ジェルフィー・オブ・モンマスやクレティアン・トロワなど前時代の著述家たちによって確立された話で、そこにテンプル騎士団を思わせる存在がある

テンプル騎士団はある意味常に2つの領域、現実世界と想像世界に存在している

洋の東西を問わず、あらゆる国のフィクション作家たちが取り上げたが、民衆の想像の中に残した印象は他の騎士団とは著しく異なり、確固たる地位を築いたと言えるのは唯一テンプル騎士団くらい

当初から騎士たちが神の召命に応えて立ち上がったという特異な点を忘れてはならず、この点こそ真に騎士道にかなった騎士の典型とされた。彼等こそアーサー王伝説に登場するすべての騎士が目指す理想だった

テンプル騎士団の不滅の任期は、彼等の没落に多くを負っている

物語作家たちは何世代にもわたってテンプル騎士団の理想と現実の間の落差を題材に、数え切れないほどの物語を紡いできた

騎士団に関する「もし~立ったら歴史はどうなっていたか」という疑問は一大産業を形成しているが、その多くは、これほどの地位と権力を手にしていた騎士団がいとも簡単に抑えつけられて解散することなどありえない、という誤った仮定の上に立っていて、まだ存在して陰で世界を操っていると考える

『レンヌ=ル=シャトーの謎』(1982)や『ダ・ヴィンチ・コード』(2003)、『フーコーの振り子』(1988)など、テンプル騎士団の関わる人気小説でも、騎士団存続説の根拠のほとんどがフィクションからの借用や創作に過ぎない

イングランドとフランスにおけるフリーメーソンの台頭と同時期に現れた騎士団復活説はさらに興味をそそられる。著名なメンバーが、彼等の起源を敢えてテンプル騎士団の歴史に結び付けようとした

2011年オスロで発生したファシストのテロ事件の首謀者ブレイビクは、国際的な新生テンプル騎士団一派に属していると主張、現代における騎士団の遺産が必ずしも穏やかなものではないことを示す。メキシコの麻薬組織にも似た考え方が流れる

パイヤンがイェルサレムで立ち上げた組織を賛美する者は後を絶たない。未来の世代たちを鼓舞し、楽しませ、好奇心をそそりながら、テンプル騎士団の伝説はこの先も生き続ける。それこそがテンプル騎士団の真の遺産なのかもしれない

 

 

訳者あとがき

テンプル騎士団が今日でもこれほど人々を魅了するのは、とびぬけた戦闘能力、絶大な影響力、そしてそれらが反転したかのような衝撃的かつ悲劇的な最期が主な要因だろう

騎士団が生まれた当時のイェルサレムは、十字軍運動でヨーロッパから東方へ向かった諸侯たちの建国したキリスト教国だった。イェルサレム王国、エデッサ伯国、トリポリ泊国、アンティオキア公国といった十字軍国家は必ずしも足並みが揃っているとはいえなかったが、イスラム教徒勢力も激しい内部抗争を繰り広げ、微妙なバランスをとっていた。徐々にイスラム圏がまとまるにつれ、キリスト教徒側は劣勢になり、加えてモンゴルの来襲でさらなる打撃を被る。こうした中でもテンプル騎士団は戦いのプロであり、頼もしい精鋭集団であり、ヨーロッパの政局とも深く連動。当時のカトリック教会は内部分裂を経つつもヨーロッパ広域に決定的な権威を確立し始めており、同時に神聖ローマ皇帝、フランス王、イングランド王を始めとする西ヨーロッパ君主が覇権を巡り激しく争っていた。テンプル騎士団はこうした微妙な力関係を利用しつつ勢力を広げ、当方と西方の強力なネットワークを編み上げて東方での戦いを支えていた。だが十字軍国家の凋落と共に、騎士団の政治力も戦闘力も資金力も衰退し始める。その存在自体が十字軍運動の産物であったテンプル騎士団は、東方での十字軍運動の終わりの始まりと共に消え去った

 

 

 

 

テンプル騎士団全史 ダン・ジョーンズ著 余さず語られる興亡の200

2021612 日本経済新聞

テンプル騎士団といえば、もはやポップカルチャーである。ビデオゲームの『アサシン クリード』、映画の『キングダム・オブ・ヘブン』、『ダ・ヴィンチ・コード』等々と登場して、ときに強欲非情な悪役として、ときに秘儀秘宝の守り手として、あるいは謎の秘密結社として、まさに大活躍なのである。が、それもステレオタイプのなせる業であり、劇画化されたイメージだけが独り歩きしているといえなくない。

著者は81年生まれ。英歴史ジャーナリスト。ヘンリー7世を扱った作品も。

本当のところ、テンプル騎士団とは何だったのか。いつ、どこの、どんな歴史に、いかなる足跡を残しているのか。そう問われて、すらすら答えられる向きは恐らく多くないのだ。そこで一読をお勧めするのが、ダン・ジョーンズの『テンプル騎士団全史』である。

邦題の通り、まさしく全史だ。12世紀、ヨーロッパのキリスト教徒による十字軍で創設されると、その東方聖地における戦いの実質的な主役に成長、同時に寄付寄進と税制上の特権で飛び抜けた富を手にする。が、それを妬んだフランス王フィリップ4世の策謀により、14世紀には滅亡を強いられる。かかるテンプル騎士団の200年が、余さずに語られる――まさに語りで、これはナレーションスタイルの歴史なのである。

歴史の流れを時系列に叙述していくそれは、歴史書といえば一番に思い浮かぶスタイル、つまりは古典的な方法である。が、これを歴史学の教授、学者、研究者といった専門家たちは嫌いがちだ。歴史を輪切りに、その断面をつぶさに提示する方法が専らなのだ。つまりは歴史を語るのでなく、歴史を分析するスタイルである。このほうが、より客観的になれるからだ。語りは、差はあれ主観が入らざるをえないのだ。

あえてしたダン・ジョーンズは、なるほど学者でも教授でもない。ジャーナリスト、テレビ番組のプレゼンター、そして近年歴史物の作家として成功した。成功するはずで、そのナレーションスタイルの歴史は、一般の読者が最も読みたいものなのだ。それが近年とみに減ったせいで、一方のポップカルチャー、他方の専門研究の間に深刻な溝が生じた。結果として、全体の歴史の理解は貧相になる。よくないと思うにつけても、待望の一冊である。

《評》作家 佐藤 賢一

 

 

Wikipedia

テンプル騎士団は、中世ヨーロッパで活躍した騎士修道会。正式名称は「キリストとソロモン神殿の貧しき戦友たち(ラテン語Pauperes commilitones Christi Templique Solomonici)」であり、日本語では「神殿騎士団」や「聖堂騎士団」などとも呼ばれる。

十字軍活動以降、いくつかの騎士修道会(構成員たちが武器を持って戦闘にも従事するタイプの修道会)が誕生したが、テンプル騎士団はその中でももっとも有名なものである。創設は10961回十字軍の終了後の1119であり、ヨーロッパ人によって確保されたエルサレムへの巡礼に向かう人々を保護するために設立された。

概要[編集]

テンプル騎士団は構成員が修道士であると同時に戦士であり、設立の趣旨でもある第1次十字軍が得た聖地エルサレムの防衛に主要な役割を果たした。特筆すべき点として、騎士団が保有する資産(構成員が所属前に保有していた不動産や各国の王族や有力貴族からの寄進された土地など)の殆どを換金し、その管理のために財務システムを発達させ、後に発生するメディチ家などによる国際銀行の構築に先立ち、独自の国際的財務管理システムを所有していたとされる事が挙げられる。ヨーロッパ全域に広がったテンプル騎士団は聖地がイスラム教徒の手に奪い返されて本来の目的を失った後も活動し続けたが、1300年代初頭にフランス王フィリップ4の策略によって壊滅状態となり、1312の教皇庁による異端裁判で正式に解体された。

組織構造[編集]

テンプル騎士団はれっきとした修道会であったため、会憲と会則を保持していた。会の発足時には改革シトー会の創立者で当時の欧州キリスト教界で強い影響力を持っていたクレルヴォーのベルナルドゥスの支援を受け、ベルナルドゥス自身が会憲の執筆を行ったことで知られる。テンプル騎士団は各国に管区長(マスター)とよばれる地区責任者がおり、騎士団全体を統括するのが総長(グランド・マスター)であった。総長の任期は終身で、東方における軍事活動と西方における会の資産管理のどちらにも責任を負っていた。

テンプル騎士団は以下の4つのグループから構成されていた。

騎士 - 重装備、貴族出身

従士 - 軽装備、平民出身

修道士 - 資産管理

司祭 - 霊的指導

通常、1人の騎士には10人ほどの従士がついていた。 さらに一部の修道士は資産管理業務を専門としていた。テンプル騎士団は十字軍従軍者の資産を預かる業務も行っていたが、あくまで主目的は戦闘にあった。

テンプル騎士団は入会者や各地の信徒から寄進を受けることで資産を増やしたが、その資産を用いて聖地や中東地域に多くの要塞を配置し、武装した騎士を常駐させた。テンプル騎士団のユニフォームは白い長衣の上に赤い十字架のマークをつけたもので、テンプル騎士団を描いた絵でもよく見られる。

騎士団の入会儀式では、入会への意志の固さが問われ、秘密儀式が行われていた。入会式の全容が秘密とされたことが後に騎士団を異端として告発するにあたって利用された。しかし秘密儀式といっても、実際には通常の騎士団のような誓いや、修道会のような清貧・貞潔・従順の誓いを立てていたにすぎなかった。上級騎士たちは決して降伏しないことを誓い、戦死こそが天国の保障であると考えていたとされる。このような戦士としての士気の高さ、熱心に行われた鍛錬と十分な装備などがあいまって中世最強の騎士団と呼ばれるほどになった。

l  歴史[編集]

創設と初期の活動[編集]

テンプル騎士団初期の本部、エルサレムの神殿の丘にある。元の神殿の遺構の上にたてられたため、十字軍はその神殿を「ソロモン王のエルサレム神殿」と呼んだ。「テンプル騎士団」の名はこの「神殿(temple)」から取られた

テンプル騎士団の歴史は第1回十字軍の成功にさかのぼる。第1回十字軍は聖地の占領に成功したものの、十字軍参加者の殆どは聖地奪還に満足して帰国してしまい、中東地域に残されたキリスト教勢力(十字軍国家)は慢性的な兵力不足に直面した。この事に憂慮して聖地の守護を唱えたフランスの貴族、ユーグ・ド・パイヤン英語版)のもとに9人の騎士たちが集まり、聖地への巡礼者を保護するという目的で活動を開始し、すでに活動していた聖ヨハネ騎士団修道会の例にならって聖アウグスチノ修道会の会則を守って生活するという誓いを立てた。エルサレム王国ボードゥアン2は彼らの宿舎の用地として神殿の丘を与えた。神殿の丘にはもともとソロモン王のつくったエルサレム神殿があったという伝承があった。このことから会の名称「テンプル騎士団」が生まれることになる。

ユーグ・ド・パイヤンは、自分たちのグループもヨハネ騎士団のような騎士修道会として認可されたいと願い、当時の宗教界の大物であったクレルヴォーのベルナルドゥスに会則の作成と教皇庁へのとりなしを依頼した。ベルナルドゥスの尽力の甲斐あって1128113、フランスのトロアで行われた教会会議において、教皇ホノリウス2はテンプル騎士団を騎士修道会として認可した。当時のヨーロッパ貴族の間では聖地維持のためになんらかの貢献をしたいという意見が多かったため、テンプル騎士団はフランス王をはじめ多くの王侯貴族の寄進を得て入会者も増えた。1139に教皇インノケンティウス2がテンプル騎士団に国境通過の自由、課税の禁止、教皇以外の君主や司教への服従の義務の免除など多くの特権を付与したことが、その勢力を拡大する契機となった。

テンプル騎士団は11472回十字軍に際して、フランスのルイ7を助けて奮闘したため、十字軍の終了後、ルイ7世は騎士団にパリ郊外の広大な土地を寄贈した。ここにテンプル騎士団の西欧における拠点が建設された。この支部は壮麗な居館のまわりに城壁をめぐらした城砦に近いもので、教皇や外国君主がフランスを訪れる際には宿舎となり、王室の財宝や通貨の保管まで任されるようになった。1163には教皇アレクサンデル3が自らの選出に際し、尽力したテンプル騎士団に報いる形で回勅 Omne Datum Optium を出して、修道会と財産の聖座による保護、司教からの独立などの特権を賦与した。

テンプル騎士団の騎士たちの強さと勇敢さは伝説的なものであった。特に1177モンジザールの戦いサラーフッディーン率いるイスラーム軍を撃退し、フランスのフィリッ2イングランドリチャード1(獅子心王)とも共闘した。イベリア半島でも対ムスリム勢力戦に従事して、その勇名を不動のものとした。

しかし、数々の特権を受けて肥大化していく騎士団に対し、地域の司教たちやほかの修道会からの批判の声が聞かれるようになった。それだけでなく、後述するように一切の課税を免除され、自前の艦隊まで有して商業活動や金融活動を行っていた騎士団は、商人や製造業者たちの敵意を受けるようになっていった。

財務機関としての発達[編集]

軍事組織としての表の顔に加えて持っていたテンプル騎士団のもう一つの顔が、財務機関としてのものであった。第1回の十字軍は参加者自身が資金を集めていたが、全財産を売り払う者もいたために物価下落を招いたという非難があった。このために第2回以降は教会が遠征費の調達をすることになり、テンプル騎士団が資金の管理に関わるようになった。12世紀中頃になると、ヨーロッパで預託した金を、エルサレムでテンプル騎士団から受け取れるようになった。危険がともなう現金輸送よりも便利であり、巡礼者から国王にいたるまで幅広く利用された[1]。もともと入会者たちは、この世の栄華を捨てる証として個人の私有財産を会に寄贈して共有しており、この慣習はほかの修道会でも行われていた。会の活動目的が聖地守護と軍事活動であっても、実際に前線で戦うのは会員の数%にすぎなかった。ほとんどの会員は軍事活動そのものより、それを支援するための兵站および経済的基盤の構築にあたった。巡礼者に対しては、現金を持って移動するリスクを防ぐため、自己宛為替手形(lettre de change)の発行等の銀行機関のようなサービスも行った。また現在で言う預金通帳のような書類(bon de dépôt)もテンプル騎士団のイノヴェーションだと言われている。

1187年の十字軍の惨敗も、金融業務の拡大に結びついた。軍事力のみでは聖地の回復は困難と判断したテンプル騎士団は、所領経営を開始する。所領は管区とコマンドリーに分かれており、管区はヨーロッパに10から13、西アジアに3があった。管区の下部組織にあたる所領の最小単位がコマンドリーで、修道院・聖堂・農地で形成されており農地の生産物を貨幣化した。金融業務ではイタリア商人との取引が増え、13世紀中頃にはシャンパーニュの大市を期日としていた[2]。このように多くの寄進を集めたことによって12世紀から13世紀にかけてテンプル騎士団は莫大な資産をつくり、それによって欧州から中東にいたる広い地域に多くの土地を保有した。そこに教会と城砦を築き、ブドウ畑農園を作り、やがて自前の艦隊まで持ち、最盛期にはキプロス島全島すら所有していた。パリにあった支部はフランス王国の非公式な国庫といえるほどの規模になり、たびたびフランス王に対する経済援助を行っている。1146にはルイ7世の命により王国の国庫は正式にテンプル騎士団に預けられ、この体制はフィリップ4世の統治時代(後述)まで続く事となる。

聖地の喪失[編集]

テンプル騎士団の経済的な発展とは裏腹に、1187までに中東情勢は悪化の一途をたどっていた。当時の総長ジェラール・ド・リデフォール英語版)は宿敵サラーフッディーンとの数次にわたる戦いに敗北するだけでなく、自らが捕虜となるという致命的な失態を演じた。これは投降よりは死を選ぶという騎士団の勇名に泥を塗ることになった。ジェラールは一度は解放されたが、再び捕虜となって斬首されたため、ヨーロッパでのテンプル騎士団の威信は落ちた。

1291レヴァントにおける最後の十字軍国家であったエルサレム王国のアッコンマムルーク朝アシュラフ・ハリールにより陥落すると、キリスト勢力は完全に聖地周辺の足がかりを失うことになった。軍事活動がなくなっては存続できない他の騎士団が存亡をかけて新たな目標を見つけていく[注釈 1]中で、特権と財産に守られていたテンプル騎士団には危機感がなく、スペインでのムスリム勢力との小競り合いを除けば、ほとんどすべての軍事活動を停止するようになっていた。

騎士団の壊滅[編集]

テンプル騎士団の破滅は突如として訪れた。13世紀の終わり、中央集権化をすすめていたフランス王フィリップ4世(美男王)は財政面で幾度も騎士団の援助を受けていたにもかかわらず、自らの新しいアイデアに夢中になっていた。それは当時もっとも勢力のあった2つの騎士団、テンプル騎士団と聖ヨハネ騎士団を合併し、自らがその指導者の座について聖地を再征服。その後、自分の子孫にその座を継承していくことで自らの一族が何世代にわたって全ヨーロッパにおよぶ強大な影響力を及ぼす、という夢であった。

しかし、現実にはフランスは慢性的な財政難にあえいでいた。フィリップ4世は腹心のギヨーム・ド・ノガレの献策にしたがって、1296に教皇庁への献金を禁止し、通貨改鋳をおこなった。さらに1306にはフランス国内のユダヤ人をいっせいに逮捕、資産を没収した後に追放するという暴挙に出た。こうしてまとまった資産を手にしたフィリップ4世が次に目をつけたのが裕福なテンプル騎士団であった。

上記の説とは別に、当時のフランスはイギリスとの戦争によって多額の債務を抱え、テンプル騎士団が最大の債権者であった。そのため、フィリップ4世は債務の帳消しをはかってテンプル騎士団の壊滅と資産の没収(略奪)を計画したともいわれる[3]

いずれの動機であれ、まず手始めにフィリップは聖ヨハネ騎士団との合併をテンプル騎士団総長ジャック・ド・モレーに提案したが、これは即座に拒絶された。そこで王はどのようにテンプル騎士団の資産を没収するかを検討したが、そもそも何の罪もない人々を一般的な裁判形式で裁いても有罪の立証に持ち込むことは難しい。そこで、匿名の証言を採用できる「異端審問方式」を用いることで有罪に持ち込もうと考えた。異端審問を行うには教皇庁の認可が必要であるが、当時の教皇はフランス王の意のままに動くフランス人クレメンス5であり、何の問題もなかった。こうしてテンプル騎士団を入会儀式における男色ソドミー)行為、反キリストの誓い、悪魔崇拝といった容疑で起訴することになった。

13071013[注釈 2]、フィリップ4世はフランス全土においてテンプル騎士団の会員を何の前触れもなく一斉に逮捕。異端的行為など100以上の不当な罪名をかぶせたうえ、罪を「自白」するまで拷問を行った。異端審問において立ち会った審問官はすべてフランス王の息のかかった高位聖職者たちで、特権を持ったテンプル騎士団に敵意を持つ人ばかりであった。騎士団は異端の汚名を着せられ、資産は聖ヨハネ騎士団へ移すこと、以後の活動を全面的に禁止することが決定された[注釈 3]。裁判では、拷問によって自白した内容を覆した場合、求刑された終身刑やより苦痛の少ない処刑を、異端として火あぶりの刑に変更すると脅され、多くの被告は自白を覆さず刑に甘んじた[4]

さらに1312、教皇クレメンス5世はフィリップ4世の意をうけて開いたヴィエンヌ公会議で正式にテンプル騎士団の禁止を決定、フランス以外の国においてもテンプル騎士団の禁止を通知したが、効果はなかった[注釈 4]。たとえばポルトガルでは国王が逮捕を拒否し、「キリスト騎士団」という名前での存続が認められた。カスティーリャアラゴンでもテンプル騎士団に対する弾圧は一切行われなかった。ドイツキプロス島では、裁判までは行われたが証拠不十分で無罪の判決が下された。また、教皇庁と対立していたロバート1の治めるスコットランドはそもそも教皇の決定など意に介していなかったので、同地でも騎士団は弾圧を免れた。

資産の没収を終えると、フィリップ4世は口封じのために1314、投獄されていた4人の指導者たちの処刑を指示。ジャック・ド・モレーら最高指導者たちはシテ島の刑場で生きたまま火あぶりにされた。

名誉回復[編集]

テンプル騎士団については、19世紀に至るまで彼らの異端という汚名は晴らされることがなく、無批判に受け入れられていた。しかし1813にフランスのレイヌアールが初めてこれに疑義を呈した。最終的に1907にドイツの歴史学者ハインリヒ・フィンケが「彼らの罪状は事実無根で、フィリップ4世が資産狙いで壊滅させた」ことを明らかにした。

現代のカトリック教会の公式見解では、テンプル騎士団に対する異端の疑いは完全な冤罪であり、裁判はフランス王の意図を含んだ不公正なものであったとしている。また、ヴィエンヌ公会議で教皇がテンプル騎士団の禁止を決定したことも、当時の社会からの批判に流されたものであったと結論づけている。20071012ローマ教皇庁は、テンプル騎士団の裁判資料である『テンプル騎士団弾劾の過程』(Processus Contra Templarios )を公開・頒布した [1]

金融業務・会計[編集]

テンプル騎士団は、12世紀から13世紀にかけて国際金融業務を行なった。初期から櫃型の金庫に金を保管し、騎士団による安全管理が信用を呼んで顧客を集めた。預かったものは貨幣以外に宝石、貴重品、証書類もあった。こうしたいわゆる預金業務(depots reguliers)に加え、寄託された資産の運用( depots irreguliers )も行うようになり、業務が拡大した。depots irreguliersはフランス王室の財政に取り入れられて役人たちもテンプル騎士団に口座を開設し、イングランドやスペインのテンプル騎士団も口座の管理を行ない、ローマ教皇も法王庁の口座を開設した。高い信用を得た騎士団は、顧客間の契約の保証人となったり、口座振替を利用した定期振込なども行なった[5]

テンプル騎士団がイタリア商人と行った取引は、イタリア海港都市が内陸に進出するための手段でもあった。ジェノヴァヴェネツィアなどの都市国家は内陸での組織網は持っていなかったため、ヨーロッパ内陸と西アジアで活動するテンプル騎士団が協力をした。イタリア商人は十字軍への貸付も行い、テンプル騎士団はイタリア商人と十字軍の仲介役となった。イタリアへの支払い期日はシャンパーニュの大市の市日、支払い場所はパリとして十字軍に貸付された。こうして現金移送のリスクを回避し、為替取引の利潤と利子を得ることを意図していた[6]

現存するテンプル騎士団の会計帳簿は、縦33センチ・横11.5センチの羊皮紙が8枚あり、ラテン語で記帳された現金日記帳である。多種類の帳簿があったとされ、現在確認されているのは11種類ある。(1) 王の帳簿(王への振込)、(2) 大きな帳簿(主要な顧客)、(3) 新しい小さな帳簿(主要顧客に準ずる特定の顧客)、(4) 古い小さな帳簿、(5) 債務者の帳簿(顧客の債権債務)、(6) 兄弟達の大きな帳簿(フランス各地のコマンドリーからパリへの振込記録)、(7) 皮革で覆われた帳簿(コマンドリーへの振込)、(8) 古い帳簿(特定の金融業務)、(9) 兄弟達の小さな帳簿(パリのテンプルへの振込)、(10) 抵当に関する小さな帳簿、(11) 遅れた振込の参照記録である。多数の帳簿が必要とされた理由としては、資産運用( depots irreguliers )の状況を多数の顧客に通知する際に効率がよかったためと推測される。各口座の抜粋は年3回作成されて顧客に送られ、帳簿の内容は定期的に監査された[注釈 5][8]

l  テンプル騎士団の伝説[編集]

テンプル騎士団にまつわる伝説は多い。伝説の多くはテンプル騎士団の最初の本部が置かれたエルサレム神殿とのつながりから生まれたものである。代表的なのが、彼らはエルサレム神殿の跡地から聖杯を、あるいは聖櫃を、あるいはイエスが架けられた十字架を発見したなどというものである。

また、多くの団体が自らの出自をテンプル騎士団と結びつけることで、その神秘性を高めようとしてきた歴史もある。著名なものはフリーメイソンで、彼らは19世紀に入ってから神殿の図が入った紋章を使い始め、自らのルーツをテンプル騎士団と結び付けようとした。代表的な伝説は、騎士団がロバート・ブルース支配下のスコットランドで存続したというもので、ここからスコットランド儀礼のフリーメーソン団やフランスを中心とするジャコバイト系フリーメーソン団、諸々のオカルト系フリーメーソン団が生まれた。現在も『ダ・ヴィンチ・コード』など多くのフィクション作品において、テンプル騎士団の神秘的なイメージは利用されつづけている。

 

 

 

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