ピアノの巨人 豊増昇  小澤征爾/幹雄  2021.11.17.

 

2021.11.17. ピアノの巨人 豊増昇 

~ 「ベルリン・フィルとの初協演」「バッハ全曲連続演奏」

 

編著

小澤征爾

小澤幹雄 1937年中国大連生まれ。征爾の弟。放送タレント、エッセイスト。早稲田大学仏文科中退。「王様と私」「風と共に去りぬ」「放浪記」など東宝芸術座、帝劇に出演。「小澤幹雄のやわらかクラシック」(FM東京)「芸術ジャーナル」(NHKFM)「朝ワイド」(テレビ朝日)などのパーソナリティーを務める

 

発行日           2015.12.21. 初版発行

発行所           小澤昔ばなし研究所

 

 

はじめに                   小澤征爾(20159月 80歳を迎えて)

豊増先生からピアノのレッスンを受けた中学3年の間、来る日も来る日もバッハばかり叩き込まれた。今になって思えば貴重なレッスンだった

3年の春、ラグビーで指を骨折してもう音楽は出来ないと落ち込んでいた時、先生が「指揮という道もあるよ」とおっしゃった

それまでオーケストラを聴いたこともない僕に、それは考えてもみない一言だった

先生への深い感謝の気持ちを込めて、弟のボン(幹雄)に手伝ってもらってこの本を作った

豊増先生のみたまに捧げたい

 

Ø  「ちょっとさん」が語る豊増昇

豊増敏子(語り) 小澤幹雄(聞き書き) 追記は小澤幹雄による

l  序 故郷で開かれた生誕百年音楽祭

2013年、佐賀市文化会館大ホールにて、「豊増昇生誕100年記念音楽祭」最終日のコンサート開催。主催は佐賀県芸術文化協会と音楽祭実行委員会

出演は、愛弟子の1人で「左手のピアニスト」として活躍する館野泉始め、ゆかりの音楽家とオーケストラ

プログラムは、

1.    末吉保雄作曲《憶う日に》~左手のピアノとオーケストラのための~

2.    ベートーヴェン作曲《交響曲第5番・運命》

3.    講演『豊増先生と兄小澤征爾』 小澤幹雄

4.    一柳慧作曲《ピアノ協奏曲第5番・フィンランド》~左手のための~

指揮 十束(とつか)尚宏  ピアノ 館野泉  豊増昇記念オーケストラ

末吉は若い頃豊増門下でピアノを勉強

十束は小澤征爾に師事、ボストン交響楽団のタングルウッド音楽祭でクーセヴィツキ―大賞を受賞、ヨーロッパ各地で活躍する実力派

オーケストラは、豊増の甥の久原興民(兄の長男)が元都響、現在佐賀を中心に演奏活動をするヴァイオリニストで、彼が声を掛けて集めた

生前、佐賀でも3(38,51,57)リサイタル開催

 

l  生い立ち

大正に年号が変わった年に佐賀で52女の5男に生まれる。父は弁護士から市議会議長、衆院議員。母は佐賀の女子教育に長く活躍した教育者、実習女学校開校

小学校4年から、佐賀師範の先生についてピアノを始める

 

l  東京音楽学校時代

東京の私立高千穂小に転校、横浜に嫁いだ姉の所に預けられる

コハンスキーに師事、高千穂中4年の時、東京音楽学校に入学

31年、コハンスキーの後任として着任したシロタの薫陶を受け、「シロタ三羽烏」として注目され、33年の卒業演奏会ではベートーヴェンの協奏曲4番を弾き、作曲家の箕作秋吉が絶賛。同期卒業に長門美保、安部幸明(作曲)、藤山一郎、福井直弘(ピアノ、武蔵野音大学長)がいる

コハンスキー(1893)は白系ロシア人。東京音楽学校で20年代からピアノ教師を務めていた高折宮次がクロイツァーに師事した際、日本のピアノ教育の立ち遅れを挽回するためにクロイツァーの弟子だったコハンスキーを招聘。井口御三家を育てたことで有名

シロタは、31年着任。ブゾーニの弟子。反ユダヤ主義を逃れて日本に移住。三羽烏のほか、園田孝弘、藤田晴子を育て、貴志康一、尾高尚忠にも貴重な助言を与える

 

l  ヨーロッパ留学・デビュー

33年卒業し、バッハ中心のプログラムでデビュー

35年研究科卒、教務嘱託として残るが、ヴァインガルテン招聘に反発してヨーロッパへ

37年、リストの高弟ラモンドに師事、ベルリン音大の特待生に推挙

同年のパリ万博の音楽大会にソプラノの太田綾子と共に日本代表で出演した後、ベルリンに戻ってデビュー・リサイタル。新聞は「日本人がバッハを弾く」と珍しげに取り上げる

プロテスタントであるバッハの音楽は、ドイツ人音楽家にしか演奏できないという考えを打ち破るが、ナチスの台頭に帰国を勧奨され、12カ月で帰国

 

l  出会い・結婚

39年、嘱託として武蔵野音楽学校でピアノを教えていた時の教え子と結婚

敏子夫人のことを「ちょっと」と呼ぶので、皆が夫人のことを「ちょっとさん」とからかった

 

l  鍵盤の小さいピアノ

56年、ベルリン・フィルとの協演のため渡欧

マジョルカ島のショパン記念館で弾いたショパンのピアノは、手の小さいショパンのために作られた特製で、幅が狭く、手が小さくて悩んでいた豊増は同じだと驚いていた

数年前に、豊増は全体で10㎝幅の狭いピアノを作らせていたが、元々ピアノの鍵盤の幅は一定ではなかった

豊増の教え子の中田喜直も手が小さく、豊増の紹介で幅の狭いピアノを作ってもらい、作曲家としてのデビュー作のピアノ曲《バラード第1番》は豊増の献呈

中田は航空隊に入り、終戦を迎えるが、死を覚悟して書いた4通の遺書のうち1通は恩師豊増宛だった

 

l  戦時下の生活

41年、念願の「ベートーヴェン ピアノ・ソナタ全曲連続公演」を7回にわたって丸の内の明治生命講堂にて開催。最終日が真珠湾攻撃の日だったが満席

連続公演は戦後に再開、計5回。最後はベートーヴェン生誕200年の前年で、70年の生誕200年には協奏曲全5曲の連続演奏会をマルケヴィッチ指揮の日フィルと協演

453月の空襲で麹町の家は焼け、3台のピアノと楽譜も灰塵に帰す

 

l  戦後初の渡欧新バッハ協会・各地でのリサイタル

54年、ハノーファーの「新バッハ協会」から「バッハ祭」に招聘。バッハ研究の国際的中央機関で、日本人会員は豊増1人。日本におけるバッハ音楽の普及について講演し演奏

その後、ウィーン、ベルリン、ロンドンで演奏会。特に《ゴールトベルグ変奏曲》は絶賛

翌シーズンのベルリン・フィルとの協演が約束される

 

Ø  バッハの豊増

l  豊増昇とバッハ

「バッハの豊増」といわれ、50年のバッハ没後200年を迎え、14カ月に15回にわたってバッハのピアノ曲全曲の連続演奏会を開催。これが評価されてバッハ協会の会員に推挙

連続演奏開始に当たって、自らの希望と主張を音楽誌に寄稿『バッハの演奏について』

バッハの作品のように、完全な形式を具え、人間や時代の動揺からむしろ超絶せる客観的な存在の如く独立の世界領域を作っているようなものは、忠実にそのまま彼自身の再現を目指して表現しようと心掛けるべきで、近代におけるバッハ研究の第一人者ブゾーニの方法といえど、無条件に賛成できない

古典の作品と現代の演奏との調和点をどこに発見すべきかという根本課題を解決するために、まずは古典の深い研究から出発し、全作品を細大漏らさず極めて見る

 

l  ベルリン・フィルとの協演

5612月、ベルリン・フィルの定期演奏会に日本人初のソリストとして招聘

指揮者では、戦前には山田耕筰、近衛秀麿、貴志康一が、戦後も朝比奈隆が招かれている

指揮はヨゼフ・カイベルト。楽器の数は独奏者の意見で決める。練習は1回だけ

プログラムは、ヒンデミットの組曲《いとも気高き幻想》、セザール・フランク作曲《交響的変奏曲》(ピアノ独奏:豊増)、ブラームス《交響曲第1番》

 

Ø  音楽教育者として

l  バイエル

1961年、バイエル全曲(106)を録音し、朝日ソノラマから出版。

バイエルを古典音楽への優れた入門書と評価

「バイエル追放」の動きに対し、バイエルは子供を古典的なピアノ音楽の世界へ自然に誘おうとして、バッハ、モーツァルト、ベートーヴェンの音楽の系統に属するものを土台にし理想としている古典音楽への入門書なので、100年前の感覚の上に立ってはいるが、広く遥かな音楽の世界へ通じるものと、反論している

 

l  音楽教科書

1971年、朝日新聞の『現代教科書批判』に『平均的で中心欠く』と題して寄稿、教科書が画一的で大同小異、音楽教育における自由の精神が失われていると鋭く批判

教科書批判は、「指導要領」の批判に帰着

伴奏をつけてない楽譜がある。元来伴奏は歌の付属物ではなく、楽曲そのものの個性をなす要素なので、これを除いて見せてはその音楽的意義は半減

全体の編成を機械的な平均によって案分するため、本当の中心が弱くなり、生きている音楽を身につけるという真の目標は薄らぎ、肝心な教育上一番大切な事柄は見失われるようになっているのは否めない事実。例えば、音楽教育上最も基本的なソルフェージュの取り扱いはほとんど顧みられていない。戦前は曲がりなりにも練習の基礎を統一していたのに、今では各部分が無統一のままに放任。教科書には何が一番重要であり、何がそうでないかが、あまりにも雑然と盛りだくさんな事項の中に見失われている

 

Ø  恩師を語る

l  「スモール豊増」の思い出  館野泉

私が先生にレッスンを受けるようになったのは小学校5年。5歳から始め、46年の全日本学生音楽コンクール小学生の部で、ドビュッシーの《子供の領分》を弾いて2位に入った翌年入門。「スモール豊増」といって可愛がってもらった

先生が渡欧中にはコハンスキー先生に預けられ、さらに芸大在学中には安川加寿子先生にも教えを受け幸せだった

2014年、ベルリン東京友好20年にベルリン・フィルハーモニー・カンマザールでの私のリサイタルは大成功だったが、その時の歓迎レセプションで、「恩賜豊増先生がベルリン・フィルと協演した場所で弾くことが小さい頃からの夢だった」と挨拶

先生との8年間に学んだことは、「音楽に対する愛情」と「音楽に自由に向き合う姿勢」

 

l  ピアノとラグビー、小澤君指揮もあるよ  小澤征爾

先生にレッスンを受けるようになったのは1948年、成城学園中学に入った時

小田原の小学校でピアノのレッスンをとっていたが、東京の中学入学を気に東京の先生を探すことになり、父が北京で知り合った友人の弟の豊増先生に連れていかれる

中学でラグビーにはまり、3年の試合で両手の人差し指を骨折、先生に「もうピアノは弾けない」と言ったら、先生が「指揮もあるよ」といわれた

3年の時日比谷公会堂で日響の定期に行ったらクロイツァーが弾き揮()りをやっていた

母に「指揮をやりたい」と言ったら、親戚の斎藤秀雄に引き合わされ、52年新設の桐朋女子高等音楽科の第1期生として入学。男子は4人だけ、指揮科は1

4年足らずのレッスンだったが、バッハを徹底的に仕込まれたのが後でどれほど役に立ったことか

 

l  憶う日に  末吉保雄

2013年の「豊増昇生誕100年記念音楽祭」で拙作を演奏

曲は、短いコラール風の主題を、繰り返し変奏する一種のパッサカリア(変奏曲の一種)で、先生の示されたバッハをこれからも極め続けたいとの願いを込めたもの

52(高一)64年まで、芸大入学時の2年を除き、様々な曲を聴いていただいた

ウアテキスト(楽曲の、現存する様々な資料の検討を経て、作曲者の意図をできるだけ忠実に再現しようと編集された原典版)を使っての勉強も先生が最初

晩学で、中学2年以来指揮者の秋山和慶の母上にピアノを習っていたが、突然先生の所に連れていかれ、アマチュアは教えないとのことだったが、レッスンが始まる

高三で終生の恩師となる石桁真礼生先生への入門が叶ったのも先生のお導き

 

末吉プロフィール:1937年東京生まれ。藝大館野と同期。パリ・エコールノルマル音楽院作曲科卒。65年フランス国立放送音楽研究所講習生。作曲活動に加え、藝大、桐朋教授。日本現代音楽協会名誉会員

 

l  「昇叔父さん」のこと  久原興民(1939年佐賀市生まれ。武蔵野音大卒。ヴァイオリニスト。2002年設立のプロアマ混合のアルモニア管弦楽団代表)

父勝夫(昇の兄)38で亡くなったので、母方の姓を名乗る。中学の時東京の叔父の家に行って生の音楽を聴けたのがいい思い出

2013年の生誕100年記念音楽祭では、私が代表を務める佐賀のアルモニア管弦楽団を中心に記念オーケストラを結成して演奏したことで少しは恩返しができた

 

Ø  父の思い出 吉島龍子

56年のヨーロッパ演奏旅行に初めて母が同行。以後国内でも同行はしていない

兄には2羽のドイツの伝書鳩、私にはウィーンのお人形のお土産

64年の第2回以降、ライプツィヒのバッハコンクールのピアノ部門審査員として亡くなるまでつとめる

68年第3回に同行したのが最初で最後の旅行

74年、築地の中央会館でのリサイタルが最後の演奏

73年胃がん手術、再起復活が築地で、その後渡欧、暫くして肺への転移発覚、入院3日後に逝去。亡くなる4日前にもレッスンをしていた

1回限りの演奏が大事」と生の演奏に拘り、レコード録音は好きではなかった

 

 

 

紀伊国屋書店

内容説明

指揮者として八十歳を迎えた小澤征爾が、心を込めて恩師に贈る感謝の書。第二次大戦前から活躍し、日本人として初めてベルリン・フィルと協演した豊増昇。その切り拓いた道の先に日本音楽界が花開いた。少年時代の小澤征爾が、ラグビーで指を骨折し、ピアノを諦めようとした時「指揮という道もあるよ」と新しい可能性を示したのは豊増昇だった。

 

 

Wikipedia

豊増 昇(とよます のぼる、1912523 - 1975109)は、日本ピアニスト音楽教育者日本藝術院会員。佐賀県佐賀市出身。

経歴[編集]

1933年、東京音楽学校卒。高折宮次レオ・シロタらに師事。1936年ドイツに留学、1943年東京音楽学校教授。その後、京都市立音楽短期大学教授を経て、1959年に武庫川女子大学音楽部長となった。

1940年にベートーヴェンピアノソナタピアノ協奏曲全作品、1950年にバッハのピアノ曲全作品の連続演奏会をおこなった。1961日本芸術院賞受賞[1]1962年芸術院会員。

1975年、肺癌のため死去。

小澤征爾に、指揮者になる事を勧めた人物でもある[2]1993年には郷里佐賀で「豊増昇生誕百年記念音楽祭」が開かれた[3]

 

 

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