完落ち  赤石晋一郎  2021.9.26.

 

2021.9.26. 完落ち 警視庁捜査一課「取調室」秘録

 

著者 赤石晋一郎 1970年生まれ。ヨハネスブルグで育つ。『FRIDAY』『週刊文春』記者を経て、19年ジャーナリストとして独立。日韓関係、人物ルポ、政治事件、スポーツなど幅広い分野で執筆を行う。著書に『韓国人、韓国を叱る 日韓歴史問題の新証言者たち』ほか

 

発行日           2021.4.15. 第1刷発行

発行所           文藝春秋        

 

初出

序章     書き下ろし

第1章        文藝春秋デジタル 2020223

第2章        文藝春秋デジタル 2020329

第3章        月刊『文藝春秋』 20194月号 『伝説の刑事の独白』

第4章        月刊『文藝春秋』 20196月号

第5章        月刊『文藝春秋』 20195月号

第6章        文藝春秋デジタル 2020524

第7章        文藝春秋デジタル 2020820

第8章        書き下ろし

終章     書き下ろし

 

昭和、平成は事件の時代といっても過言ではない。ロス疑惑に始まり、宮﨑勤による連続幼女誘拐事件、オウム真理教による地下鉄サリン事件と特異な事件が連続して起こった。大峯はそのすべての現場に捜査員として関わることになった。これ程数多くの大事件の捜査に携わった刑事は他にはいないだろう。大峯は警視庁捜査一課で抜群の力量を示し、後に伝説の刑事と呼ばれることになる(「序章」より)

 

 

大峯泰廣略歴 1948年生まれ

父親は交番の巡査。《七人の刑事》に触発され、JTを退社して警視庁入庁

向島署(巡査、巡査長、巡査部長)に配属、自転車泥棒検挙で腕を上げたのが認められて刑事養成講習に派遣、亀有署(巡査部長)

1980.7.11.    捜査一課(巡査部長)

1983.8.16.    王子署(警部補)

1985.4.2.      捜査一課(警部補)

1991.3.11.    荻窪署 刑事課長代理(警部)

1992.8.31.    第一機動捜査隊班長(警部)

1993.3.5.    捜査一課        1993.9.16. 捜査一課 殺人捜査第4係・係長(警部)

1995.9.6.      捜査一課 殺人捜査第2係・係長(警部)

1999.4.15.    捜査一課 殺人捜査第1係・係長(警部)

2000.2.28.    小岩署 刑事課長(警視)

2002.3.5.      第二機動捜査隊副隊長(警視)

2003.3.4.    捜査一課 管理官(警視)

2005.2.27.    捜査一課 理事官(警視)

 

序章    「疑惑」~ロス市ホテル内女性殺人未遂事件 1985

大峯は初めて世間を騒然とさせる事件の捜査の応援に駆り出され、女性容疑者の留置場が置かれていた浅草菊谷橋で三浦和義の愛人の取り調べを行い苛立ちを感じる

1981年、ロスのフリーウェイで三浦夫妻が銃撃され一美夫人は日本に救急搬送されたが死去。悲劇のヒーローとなった三浦に、84年『週刊文春』が疑惑報道

週刊誌による事件の先行報道や警視庁に海外捜査の前例がなかったことは異例

5月には殺人を依頼されたという女性が名乗り出る。銃撃の3か月前に一美がホテルで襲われ暴行を受けた際の加害者で、三浦から保険金殺人を依頼されていたという

85年、三浦と愛人を逮捕。愛人の尋問で嘘を告白していたことが露見。銃撃事件捜査の主眼が移り、88年銃撃の実行犯とみられた容疑者を逮捕する

ロスの現場で目撃された白いレンタカーの借主だったが、それ以上の捜査の進展はない

もう1つのロス疑惑といわれた79年のミイラ化した東洋系女性遺体の発見では、三浦の交際していた相手と判明したが、それ以上の手がかりはなく迷宮入り

08年、サイパンにいた三浦をロス市警が殺人の共謀罪で逮捕。三浦はロスに移送され、徹底的に争う構えを見せていたが、突然自殺、事件は幕引きとなる

警察の狙いは事前にマスコミによって広く報じられ、捜査を進める上で大きな障碍でしかなかった。昭和・平成の大事件をいくつも手掛けた伝説の刑事と呼ばれた男の輝かしい経歴の出発点での苦い挫折でありほろ苦い記憶

 

第1章        KO」~首都圏連続ノックアウト強盗致死事件 1981

捜査一課に配属されて最初に扱ったのが「KO(ノックアウト)強盗事件

高円寺の路上で初老の紳士が殴られて死亡、持ち物が散乱。散々聞き込みをしたが目撃情報はなく変死事件として処理されたが、当時首都圏では同じような強盗事件が頻発、「KO強盗」と名付けられ恐怖を煽っていた

「仮睡盗(かすいとう)」という酔い潰れて寝ている人間から財布などを盗むコソ泥の逮捕から始め、あまりに多勢逮捕されたので新米の大峯にも取り調べの順番が割り当てられ、偶然にもそれがKO強盗の真犯人で、200件余りの犯行を自供

酒もたばこもギャンブルもやらない犯人の動機は、ゲイで若い男に貢ぐこと

自供した犯行の中に、大峯が亀有署の刑事時代、事故死として解剖にも回さなかったものがあり、大峯は自らの力不足を知らされた

 

第2章        「警官」~宝石商強盗殺人事件 1984

83年、王子署に転出、やがて刑事課係長となり、3人でチームを組む

84年、宝石商の妻が届けた家出人捜索願から事件性を感じた防犯係が刑事課長に報告し大峯の担当となる

宝石商が会う予定だった男は元警察官で探偵事務所を経営。理想の警察官だったが、40代で退官、居酒屋を始めるために借金した挙句倒産、暴力団に宝石を売り歩いていることが判明。警視庁捜査一課に捜査を依頼、取り調べで創価学会の信者だったことをネタに自白を取り、共犯者も一緒に強盗殺人として逮捕すると、他にも同様事件が発覚。93年死刑判決確定。元同僚から借りまくった金は踏み倒せないという小さなプライドが凶行に繋がる

 

第3章        「猥褻」~宮﨑勤 首都圏連続幼女誘拐殺人事件 1989

昭和の最後から平成にかけて東京・埼玉で発生した、連続幼女誘拐殺人事件は、47歳の4人が犠牲に。遺体を切断、焼いた遺骨を遺族に送り付け、犯行声明文を出す「劇場型犯罪」

当初大峯が担当したのは4人目の殺害事件で、深川署に応援に行く。八王子で少女に対する強制猥褻の男が逮捕されたと聞いて取り調べに立候補。有明にテニスのパンチラを撮りに行くと聞いて、深川署の犯行現場の東雲に土地勘があると閃き、連続誘拐事件のホシだと確信するが、決定的証拠はない

ようやく自供に持ち込んだが、捜査は始まったばかりで完落ちが重要

すべてを話さず、嘘を繰り返す。話の矛盾を突きながら最終的に4人の犯行を認めさせる

マスコミは「心の闇」を取り上げるが、取り調べを通じて事件の動機はあくまで猥褻目的

人間形成に大きく影響したのは「家族」ではなかったか。曾祖父も祖父も町会議員、父は秋川新聞を経営、何不自由なく育ったはずだが、宮﨑は家族の話を嫌がり、父親は嫌いだという。親子関係の問題は間違いなくあり、その歪みが彼を倫理感のない人間に育てた

父親は事件後自宅を売って被害者の賠償金に充て、94年投身自殺。宮﨑は08年死刑執行

最後まで自分の罪と向き合うことはなかった

 

第4章        「強奪」~練馬社長宅3億円現金強奪事件 1990

02年、マブチモーター社長宅で火災、社長夫人と娘が遺体で発見され、放火殺人と断定

翌月、目黒でも強盗殺人事件発生し現場に出動。荒っぽい手口で歯科医師が殺されたが、目撃情報や遺留品はない

3年後容疑者逮捕。2件の犯行のほかにもう1件金券ショップ社長も殺害

犯人との出会いは90年、練馬区早宮の工務店社長宅の3億円強盗事件

一旦下請けだった容疑者を訊問したがシロとして釈放。別途、急に羽振りがよくなった無職の男の情報が入り、調べてみると無職は前科11犯、両者が刑務所仲間と判明、香港から帰ってきたところを取り押さえ、容疑者との関係を質すと意外に簡単に自供

無職の前科男は懲役12年の実刑判決を受け、02年仮出所後、その時の刑務所仲間とともにマブチモーター事件を起こす。逮捕後黙秘を続けていたが、突如週刊誌に手記を発表、一連の強盗殺人について自供。09年には獄中手記を出版し、3億円事件は顔を見られたから逮捕されたが、殺していれば逃げ切れると思っていたと語ったように、マブチの放火殺人の動機は実に短絡的なもの

07年死刑確定。17年収監中に食道がんで病死、74

 

第5章        「信仰」~オウム真理教 地下鉄サリン事件 1995

953月、事件発生の2日後に教団への強制捜査に入る。上九一色村はもぬけの殻だったがサリン製造プラントを発見、さらに翌月幹部を逮捕

大峯が取り調べたのはサリン製造のキーマン土谷正実。完全黙秘を貫く容疑者を「接見禁止」をかいくぐって両親に会わせたがびくともしない。本部前でサリン製造の統括責任者だったNo.2の村井が刺殺されたため、土谷の証言が頼みの綱となる

容疑者の洗脳を解いて自白させようとしていたが、土谷の場合は逆にその信仰心に訴え、尊師を救うためにサリン製造を認めろと迫ると、饒舌に喋り出した

林郁夫が真っ先に洗脳から覚めたのは臨床医としての社会経験があったからで、医師の倫理を突かれていち早く洗脳が解けたが、土谷のように教団内でだけ過ごしていると洗脳を解くのは難しい。土谷のオウムに対する疑念が晴れたのは「夢精」。修業中の栄養不足から「夢精」がなくなったことが活動にのめり込むきっかけだったという

11年最高裁上告棄却で土谷の死刑確定。判決の前、土谷はメディアに謝罪と後悔の念を綴った手記を寄せ、生まれてこなければよかったと自身を恥じ、洗脳が解けたことを示している。18年執行

 

第6章        「自演」~証券マン殺人・死体遺棄事件 1996

96年、葉山の豪邸に住む自称デザイナーが失踪、身代金目的の誘拐事件に発展

同年初、東和証券渋谷支店課長代理がインサイダー取引をエサに多額の金を集めた挙句失踪する事件が発生。課長代理はかねて自称デザイナーが黒幕であることを匂わせていた

デザイナーの自宅には誘拐を思わせるかのように本人の切断した指が送られてきたが、病院をしらみつぶしに調べると、本人らしき奴が愛人と現れていたことが判明、誘拐が狂言だとなる

課長代理と酷似した事件が6年前にもあって同じデザイナーの関与が取り沙汰されていたところから、課長代理殺害の可能性が高まり、愛人の証言から遺体が発見され自白に追い込んだが、否認に転じ法廷闘争に持ち込まれるも、証拠は動かなかった

6年前の事件の立件も考え死刑に追い込もうとしたが、虻蜂取らずになってはとの配慮から諦め、無期懲役が確定。6年前の事件は迷宮入りに

 

第7章        「遺体」~阿佐ヶ谷女性殺人死体遺棄事件・檜原村老女殺人事件 199798

阿佐ヶ谷の麻雀店店員の行方不明事件は、ソープで働いていた女がヒモ亭主のために始めた麻雀店で、客として来ていた未亡人の資産に目をつけ、店番を任すなど親交を深め、何度か未亡人の預貯金引出を図り失敗していた

未亡人の失踪から1.5年して家出人届が出され、事件性ありとして捜査一課に回ってくる

経営者を重要参考人として取り調べが始まって暫くして逃げ出す

ソープで経営者に貢いでいた屑鉄工場の社長が、経営者に頼まれて犬の死体を運んで捨てたことがわかり、遺体発見が新聞報道されると、経営者が観念して出頭

未亡人とヒモ亭主の仲が経営者に知れるところとなって、逆上した経営者が未亡人を絞め殺したもので、復讐心が余って未亡人の財産にまで手を付けようとしていた

その1年後、また老女の失踪事件。檜原村の83歳が1年以上行方不明だという

同居している三男の嫁が以前にも老女の貯金を使い込んだことがあり、今回も怪しまれ事情聴取となる。4人の子供の教育費などで家計が火の車だったため、老女の預金を寸借したのがばれそうになっての殺しだが、1年前の犯行で遺体を焼却していることもあって、物証がとれないなか、漸くDNAなどで物証を揃え立件

衝動的に人を殺し、残忍な形で遺体を処分するという異常な犯行であるという点が共通

 

第8章        「迷宮」~世田谷一家4人殺人事件 2005

00年大晦日前夜に宮沢家に侵入した犯人が一家4人を惨殺、屋内を物色した後、翌朝隣家の両親が訪ねてきたところで姿を消す

05年、大峯は新設の未解決担当理事官となり、重要事件4件すべてを担当

世田谷事件に集中することとし、捜査員も5倍の150人体制に。報告書を読むと初動捜査の聞き込み不十分が明瞭、やり直しては見たが5年も経過して人々の記憶は風化、指紋についても改めてローラーをかけたが合致する指紋は出ず、DNAでは新たに詳細な分類結果が出て父系はアジア系黄色人種、母系は南欧系白人だという

聞き込みの過程では、捜査員が虚偽の指紋をつけて報告書が作成されるという虚偽公文書作成のスキャンダルまで発覚

犯人は混血の疑いが強いとの鑑定結果を広報する公開捜査を提案したが、上層部は却下

担当していた未解決事件のうち、92年の東村山警察官殺害事件も再捜査したが、残り2年の時効が成立

10年の法改正により、殺人事件のみ公訴時効廃止となり、世田谷事件の時効はなくなる

公開捜査という最後に残された手法を却下された以上、事件を解決できない責任を取らざるを得ないと、半ば上層部に抗議する形で辞任を決意、定年まで2年弱を残して退官

 

終章 「動機」~人はなぜ罪を犯すのか

86年、中学生の息子から学校が荒れ放題だと聞かされ、休暇の時に学校を覗く

余りの酷さに自らの時間を割いて改善に乗り出し、地域・学校・家庭を結びつけるトライアングルという非行防止組織を作って関係者に呼び掛ける活動を7年続ける

子供のうちに指導すれば、犯罪は抑止できるというのが刑事の経験からの結論

計画的に犯罪を犯した人間には、生育環境に問題があったケースが多い

どの捜査でも容疑者の親が生きていれば必ず話を聞きに行き、幼少期はどうだったのかについて聞き込みをする。成育歴を知れば、なぜ犯罪に手を染めたのか、背景が見えてくる

取調室の中で犯罪者を落とすことができたのは、彼等の人生を丁寧に聞き出し、それを理解しようとしたからで、生まれながらの犯罪者はいない

 

 

あとがき

大峯に会ったのは18年、著者が『週刊文春』の記者の頃

何度も警視総監賞を受賞した輝かしいキャリアは、刑事ドラマを見ているよう

真骨頂は宮﨑勤の事件。直感が働けば、管轄外の所轄でも自ら取り調べに行き、難事件の容疑者を僅か1日で落とす早業は大峯の我が儘が糸口。メディアが「モンスター」に祭り上げ、言い訳と屁理屈を重ねる宮﨑に対し、単なる猥褻目的だと喝破

オウムの土谷の時も、土谷の厚い信仰心を利用した大峯の深い洞察が功を奏したもの

その強烈な個性が最後に組織と衝突。最後まで刑事であろうとした大峯の矜持を感じさせる。20年末ようやく警視庁がDNA型を基にした特殊鑑定に着手すると決断

学級崩壊した中学の話は、大峯の本質をよく表している。伝説の刑事の情熱は、常に人間に向かっていたことを象徴するエピソード

21年初、大峯が最も敬意を持っていた上司でミスター一課長と呼ばれた寺尾正大死去。もう1人の伝説の刑事だった

 

 

 

【書評】落としの名手の対話力:赤石晋一郎著『完落ち 警視庁捜査一課「取調室」秘録』

社会 2021.05.14

幸脇 啓子 Profile

宮崎勉(連続幼女誘拐殺人事件)、土谷正実(地下鉄サリン事件)など、歴史に残る凶悪犯罪者の自白を引き出したひとりの刑事。なぜ彼らは、死刑になるとわかっても口を開いたのか。警視総監賞を幾度も受賞した名刑事が見せる、落としの対話力とは――

 

人はどんな時に、自分の罪を告白したくなるのだろうか。

本書の主人公は、昭和史に残る数々の事件で犯罪者から「自白」を取った名刑事、大峯泰廣。
1948
年に生まれ、1972年、専売公社(現JT)から24歳で警察官へ転職し、長く捜査一課に勤めた後、2005年に退職している。

その間、連続幼女誘拐殺人事件の宮崎勉、地下鉄サリン事件の土谷正実など、取調室に入ってからも頑なに罪を認めようとしなかった人間が、最後は大峯を相手に真実を語り、裁かれていった。

犯罪者が「落ちる」。
警察小説では手に汗握るクライマックスとして描かれることも多いが、現実がそう簡単でないことは容易に想像できる。

言えば最後、死刑が待っているかもしれないのだ。
なのになぜ、あえて口を開く必要がある?

本書を読むと、鍵は名刑事の研ぎ澄まされた鋭い勘と優れた対話の力にあるようだ。

宮崎を相手に「もう分かってるんだ」「お前は社会的に非難されるような犯罪を犯した。違うか?」と畳みかけ、追い込んだかと思えば、土谷には「尊師を救ってやれよ」「お前が言わなければしょうがないだろう」と諭す。

相手が犯人であるという確信をベースに持ちつつ、よく相手を観察し、親の話をしたり世間話をしたり、「すべてを知っているぞ」とある種のはったりをかましたりしながら、じっとその時を待つ。

相手によって口調を変え語りかける内容を変え、だんまりを決め込まれてもあきらめることなく対話しながら、相手の気持ちが揺らぐ瞬間を見逃さない。
ここ、と決めたら鋭く追い込む。

追い打ちをかけると、宮崎はまた黙りこくってしまった。おどおどし始め、生唾を飲み込み、小鼻がピクッと動いた。
こいつは落ちるな――“

 “……わかりました」
土谷は静かにそう言った。
――
サリンを作ったのは、お前だよな?
……そうです」
とうとう土谷が落ちた

彼らが落ちる瞬間、なぜかふうっと息を吐きたくなり、自分がそこまで緊張しながら読み進めていたことに気が付く。

まるで教師と生徒のように

著者は「FRIDAY」「週刊文春」など雑誌記者を経て、ジャーナリストとして独立。
会食で出会った大峯が語る逸話に惹きつけられ、取材を始めたという。

著者はあとがきで、大峯の対話力をこう表現している。

 “ときに諭し、ときに叱り飛ばす。まるで教師と生徒のような関係性が、取調室のやりとりからは窺うことができる。その視線は厳しくもあり優しくもある

著者自身が大峯と話すことに魅力を感じ、もっと話を続けたい、聞きたいと思っているうちに、自然と生まれてきたのが本書なのではないか。

そう思うのは、本書が昭和の名刑事が事件を解決に導く栄光譚にとどまらず、警察という大きな組織に感じる葛藤や、ときに生まれてくる犯罪者への同情、今でも残っている悔いなど、大峯の人間らしさが随所に出てくるからだ。

それらを描く著者の視点からは、取材者と被取材者の間の堅い信頼関係と、深く長い対話の積み重ねが伝わってくる。

最近、ビジネスの世界でも「対話」はキーワードのひとつだ。
多くの企業が上司と部下との1on1を取り入れ、旧来の指示命令とは違うコミュニケーションを組織の中に広げようとしていて、傾聴を学ぶ研修も人気だという。

確かに、人と話すことは、ときにとても難しい。
何で分かり合えないのかイライラすることもあれば、驚くくらい最初から意気投合することもある。
知らず知らずのうちに、苦手なタイプとのコミュニケーションを避けていることもしょっちゅうだ。

コミュニケーションの壁をなんとか乗り越えようと、対話のスキルを学ぶ人が増えているのだろう。

名刑事はそんな対話力を天性のうちにか経験のなかでか身につけ、自分の罪については喋るまいとする犯罪者たちを追い詰めてきた。
なにしろ相手にするのは、一筋縄ではいかない奴らばかりなのだ。
並の対話力では、到底かなわない。

そんな大峯との間には、いったいどんな対話が生まれるのだろう。
2
年余り酒を酌み交わし、話を聞き続けた著者のことが羨ましくなってくる。

覚せい剤もやる「七人の不良生徒」

序章を含めた全10章のうち、終章だけはまったく毛色が違う。

時代は1980年代半ば、舞台は都内の荒れた中学校。
登場人物は、煙草やケンカはもちろんバイク泥棒に万引き、カツアゲ、覚せい剤までやっている「七人の不良生徒」と、その同級生の父親である大峯だ。

他の章と共通するのは、そこに対話があること。
とはいえそこは凶悪犯罪者と対峙してきた刑事。じっと優しく不良の話に耳を傾けるなんてことはなく、「お前、煙草を吸っていたな!何をやっているんだ!」といきなり殴りつけたこともあるというが、不良たちも犯罪者たちと同じく、大峯との対話を通して口を開き行動を変えていった。

この終章があることで、本書はぐっと深みを増す。

そこに出てくるのは、幾多の犯罪者を自白に導いた強面の名刑事ではなく、相手を理解し、話を続けることで気持ちを動かしていくことができるひとりの人間だ。

その存在は、なんだかとても暖かい。

 

幸脇 啓子SAINOWAKI Keiko経歴・執筆一覧を見る

1978年東京生まれ。編集者。東京大学文学部卒業後、文藝春秋で『Sports Graphic Number』などを経て、『文藝春秋』で編集次長を務める。2017年、独立。スポーツや文化、経済の取材を重ね、ノンフィクション作品に魅了される。

 

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