多田駿 伝  岩井秀一郎  2017.8.1.

2017.8.1. 多田駿 伝 ――「日中和平」を模索し続けた陸軍大将の無念――

著者 岩井秀一郎 歴史研究者。1986年長野県生まれ。94年より深谷市在住。11年日大文理史学科卒。一般企業で働く傍ら、昭和史を中心とした歴史研究・調査を続ける。本書が初の著書

発行日           2017.3.6. 初版第1刷発行
発行所           小学館

プロローグ ――終の住処を訪ねて
館山市の那古船形駅の近くに多田駿(はやお)の「隠棲」した家がある
陸士15期、陸軍大学校25期。戦前に予備役となって以降の住まい

序章 参謀次長の涙――「日中和平」ならず
1938115日大本営政府連絡会議で、日中戦争の今後の方針が決まる ⇒ 多田は、参謀次長として不拡大派の中心的存在だった。次長とは、参謀本部の事実上のトップ
日支事変開始後突如次長(中将)となり、開戦当時の事情はいざ知らず、ただただ1日も速く戦争状態を終結せんことを念願。石原中将(参謀作戦部長)も、参謀本部の方針として滿洲建国がうまくいかない現時点では日支親善が第1と考える
前年末、多田は近衛首相の風見章書記官長に内緒で、杉山陸相は軍を代表して内閣にあるにも拘らず、和平問題に対して連絡会を開催しなければならないとは何たる醜態か、それでは陸相を内閣閣僚とする意義がない、内閣も内閣だが、杉山の如き無能なるものは速やかに退却せしむべきと、陸士の3期先輩にもかかわらず手厳しい苦情をいう
日支間交渉の仲介に当たっていた駐日ドイツ大使と廣田外相との間で、具体的な交渉の延長について協議されたが、廣田は蒋介石による遅延策と見て閣議では強硬論を述べ、統帥部の代表として出ていた多田の和平論を一蹴
15日の連絡会は、参謀総長が皇族だったため多田が大本営を代表して出席、支那側最後の確答を待つべきと主張するも、内閣は戦線が有利に展開していたこともあって、誠意ない蒋介石を相手にせずとして強気、米内海相は、古賀軍令部次長が多田の交渉継続策を支持したのを抑えつけて、統帥部が蒋介石の態度に誠意なしとした外務大臣を信用しないのは政府不信であり総辞職の他なしとまで言った ⇒ 多田は、明治天皇が朕に辞職なしとのたまわったことを引き合いに、国家重大の時に政府の辞職云々とは何ぞやと噛みつき、涙ながら和平を訴えた
まる1日かけた会議で多田は、交渉打ち切りには賛成しないが、内閣が潰れるとあれば敢えて反対はしないとして折れる
16日「近衛声明」発表 ⇒ 不拡大派が完敗し、日中和平への道が閉ざされたことを意味。近衛は戦後発表された手記の中で、この「対手とせず」声明を明らかな失敗と認めている
参謀本部では、多田の転出(12)、河辺虎四郎作戦課長の更迭で、和平派は勢力を失う
天皇も、日中戦争の幾多の場面で戦線の不拡大を希望していたが、滿洲事変を独断で主導した石原や板垣ら陸軍参謀の一部に対する根強い不信感から、最後まで石原や多田を支持することはなかった。多田が陸相に推薦された際も天皇の意向で流れた ⇒ 歴史のif
この時ばかりは、いつもは強硬な統帥府が弱気で、弱気の内閣が強硬だった
「中国通」軍人の見せた涙は、他の軍人や政府要人とは明らかに違う人生を歩んだ足跡を辿ることによってわかるだろう

第1章        「弱い者いじめ」が大嫌い――仙台から滿洲・天津へ
1882.2.24. 元仙台藩士の長男として誕生。祖先は代々砲術を得意としており、駿も砲兵科の将校になる。仙台陸軍地方幼年学校の1期生(2期に板垣・土肥原、6期に石原がいる名門)
1903年陸士卒、04年砲兵少尉として旅順攻囲戦に参加
13年陸大卒、河本大作(陸士同期の親友)の妹睦と結婚
14年参謀本部入り
17年中華民国大学校教官として招聘 ⇒ 中国のエリート学生と接しその教育に携わる
当時、中華民国大総統の最高軍事顧問だった青木宣純中将や坂西(ばんざい)利八郎少将の補佐官として仕える。青木は、袁世凱から「信頼に足る唯一の日本人」とまで言われるほど信頼された屈指の中国通。青木や坂西を見て、中国人との対等の付き合いの重要性を学ぶ
19年帰国し、陸軍大学校教官
32年建国直後の滿洲国軍政部最高顧問として同国軍の育成を任される(少将に進級)
多田の教訓は、弱い者いじめをするな、というもので、滿洲国の五族協和の理想の達成も、まず日本人の誤れる優越感と特権的立場を去ることから始めねばならぬと諭した
多田は、日中戦争の要因の1つとして、日本人の振る舞いに対する中国人の反発を挙げる
東洋のマタハリ川島芳子は、一時河本大作が面倒を見ていたが、多田も熱河作戦を指導した際彼女を間諜として使い、しばらく宿舎を一緒にしていたことから、両者のよからぬ噂が立ったことが様々な記録に残されている。戦後の小説や評伝にも「深い仲」にあったことが書かれている。33年には多田夫人と芳子が母娘の杯を交わすという新聞記事まで出た
35年天津の支那駐屯軍司令官(中将) ⇒ 着任早々に、「華北自治声明=多田声明」を出して華北地域を国民政府の支配から引き離そうとしたことが中国側を刺激して物議を醸したが、真意はそのあとの「対支基礎的観念」で、日本人の尊大な態度を改めようとした
36年香川・善通寺の第11師団長(初代が乃木希典)
37年参謀次長就任 ⇒ 病気で退任した今井清の後任。当面日本は滿洲国建設の完成に専念し、対ソ軍備を完成し、国防を安固とすべきで、支那に手を出して支離滅裂にしてはならないと主張する第1(作戦)部長石原の推挽による

第2章        不拡大派"最後の砦――「中国通」参謀次長の本懐
多田が次長就任当時の参謀本部は、「統帥権の独立」の名のもとに国政の3権を超越した存在として万能性を持っていた
当時の内閣 ⇒ 首相が近衛、外相廣田、内相馬場、蔵相賀屋、陸相杉山、海相米内
参謀本部内は、盧溝橋事件を受けて、武藤章作戦課長の拡大派と石原作戦部長の不拡大派が対立。不拡大方針をとるが、現地では相互の不信から軋轢が強ま一方となる
さらに、上海で海軍軍人が殺害され上海の艦隊や総領事館が襲撃されるに及んで、海相の米内が事変不拡大主義から態度を一変させ強硬論に転じる ⇒ 戦後米内は「戦争に反対し、大勢に抗った軍人」との評価で好意的に受け取られることが多いが、この時ばかりは違った。元々米内は襲撃された「出雲」に第3艦隊司令長官として座乗、上海を海軍の縄張りとして考えており、そこへの中国側の実力行使に対しては実力で対抗するしかないと考えたのだろう。首都南京の占領まで口にして、第2次上海事変へと拡大
天皇から、諸方面に兵力を使用しても、戦局は長引くのみ、重点に兵力を集中して一大打撃を加えたのち我が公明なる態度をもって和平に導き、速やかに時局を収拾する方策はないか、とのご下問に対し、海軍は上海を叩く強硬論を唱え、石原も賛成したが多田のみ甘い見通しを奉答することに慎重論を唱える
多田は、アジア主義者で日本の大陸進出を主張し、孫文や蒋介石とも親しい頭山満に水面下での和平交渉を依頼
上海の海軍が、陸軍の増援を強硬に主張、天皇の直訴で実現すると、石原は作戦部長を辞任、ソ連対策の目的もあって関東軍参謀副長に転出
石原は退任前に、駐日ドイツ武官オットー少将を通じ、駐華ドイツ大使トラウトマンに和平工作を依頼。ドイツと中国は伝統的に貿易面で大変密接な関係にあっただけでなく軍事面でも深いつながりがあった
廣田外相も正式ルートで駐日ドイツ大使ディルクセンを通じ和平交渉に乗り出す
蘇州陥落で首都を南京から重慶に移した国民党軍に対し、現地軍は上海を落とした後は南京を目標として戦線を拡大、本部でも強硬派に押し切られる形で、多田も認めざるを得なくなる
蒋介石からトラウトマンを通じて和平交渉に応じる旨の回答がくるが、直近の軍事的成功を背景に陸海軍が強気に出て、さらに強硬な講和というより降伏条件を突き付ける
参謀本部内には、多田の他にも不拡大派がいて、戦争指導班の秩父宮は、直接再々多田に和平を訴える ⇒ 多田は、皇族が表に出過ぎることを懸念して、皇族としての発言なら自分の方から伺うし、参謀本部員としてならば順序を経て申し出られるのが常道、と諭したという
38.1.11.御前会議 ⇒ 参謀総長が、「大乗理念=公明正大にして支那民衆をして怨恨を懐かしめないよう努めて寛大な対応をする」としたが、万一支那が和平を求めない場合は国民政府を対手とせずとの方針を奏上、天皇の裁可を得る
天皇はもともと日中関係の悪化を心配し戦線不拡大を要望しており、参謀本部の不拡大派に近い考えだったが、陸軍に対する根強い不信感は最後まで不拡大派とも溝を越えられず、さらに積極論を展開する近衛に対する信任が問題を複雑にした
国民政府からの、さらなる詳細の説明を求めるとの回答に対し、内閣は強硬論と、多田の和平論に二分、持ち帰った統帥部では、政変が起こりかねないことを恐れ、「閣議に反対するが、あえて不同意は唱えない」ということで落ち着く
38.1.15.御前会議 ⇒ 再度参謀本部から和平論を主張するが、平行線のまま、内閣の崩壊を懸念した多田が折れることで、最後の砦も陥落

第3章        失われた良識――熾烈な権力抗争の中で
連絡会議での杉山陸相と多田との衝突は余程激しかったらしく、米内の日記にもその様子が書かれているが、米内自身も「交渉打ち切りか、内閣総辞職か」と迫っていたことについての記載はない。米内は「良識派」「対米避戦派」として評価されているが、日米開戦に繋がる最も鋭い対立をもたらした事案の1つが「中国からの撤兵」であったことを考えれば、その評価も変わってくる ⇒ 阿川弘之著『米内光正』でも和平に反対した発言どころか、この日の連絡会議についても全く触れられていないし、米内の秘書官だった実松譲著『新版 米内光正』でも、米内の言動には触れずに近衛の責任を追及している。
2次上海事変でも、対蘇の考慮から兵力増強による戦線拡大に躊躇する杉山に対し、米内は南京攻略を強硬に要求していた
極東国際軍事裁判で死刑になった海軍軍人は1人もいないこともあって、海軍善玉論が戦後広く定着しているが、それでは説明のできないことが多々ある
国民党政府内にも和平派がいて、汪兆銘は予てから蒋介石の強硬路線に反対していたので、不拡大派は汪兆銘を通じて和平の可能性を探り続けるも、多田の信頼する河辺課長が転出
近衛首相は、石原の戦線不拡大論に同調し、定見を持たない杉山陸相に不満を持ち、多田にも相談のうえ、石原と思想的に近い板垣を後任に据える
387月張鼓峰事件 ⇒ 滿洲・朝鮮・ソ連の国境で勃発した日ソ軍の衝突。外務大臣から外交優先の処理を上奏した直後、限定的な武力行使によるソ連撃退で事態の収拾を図ろうとして参謀総長から天皇の裁可を得ようとしたが、天皇の意向を忖度した参謀総長の閑院宮が上奏を取りやめ、それが陸相に伝わっていなかったために、その後兵力使用に伴う見解を上奏するが、天皇から外相との違いを指摘され裁可が下りなかったばかりか、天皇の陸軍不信が倍加。多田の奔走でようやく天皇の納得が得られた
3811月その後の戦線膠着状態で片付かない支那事変に参った近衛は、「新東亜秩序」を提唱、前回の「近衛声明」を撤回するが、和平に向けて新しく動き出そうとしていた矢先に、板垣陸相主導により、多田の関東軍麾下の第3軍司令官に転補 ⇒ 板垣が陸相になった際、拡大派の主張に妥協して次官に積極派の東條を起用していたが、その東條と多田の「喧嘩両成敗」
東條は、陸士、陸大とも多田の2期後輩。石原とは関東軍の参謀長と副長の関係で、対滿洲政策を巡り鋭く対立、結局は石原が無断帰国、石原を庇った多田と東條が衝突。板垣は思想的に石原に近く、東條を更迭しようとしたが、東條は多田と差し違えでなければ承知せずとなったため、やむなく陸軍省内の拡大派からも疎まれていた多田の転任と引き換えに東條に辞職を認めさせた
東條は航空総監に栄転、多田は閑職に左遷となり、板垣と絶好までするほど怒ったが、東條は栄転にも関わらず転出の腹いせに、多田ら不拡大派の完全失脚を狙って特高を使い滿洲国大使館に侵入、軍人を不法監禁している
多田は、積極論が勢いを得やすいい陸軍内にあって、それに抗した人々の筆頭ともいえ、「良識派」として位置付けられている。「東洋道義に厚い、私心のない武将で、日本歴史に特筆さるべきもの」だったが、戦前はそれを声高には言えなかった

第4章        幻の陸軍大臣――東條英機の対極として
多田が指揮を執った第3軍は牡丹江駐留で、国軍中でも最精鋭を謳われた部隊
中国と戦争を行っている間は絶対にソ連と事を起こすべきではないと意見具申
にもかかわらず395月にはノモンハン事件が西部モンゴル国境で起こる
398月突然の独ソ不可侵条約締結で平沼内閣が総辞職した後の阿部内閣の陸相に、陸軍からは多田が推挙されたが、新聞予想をご覧になった天皇から、侍従武官長として信頼していた畑か梅津と言われ、畑に決定。多田説に対しては陸軍内部に激しい反対があり、、血を見るとまで言われた
399月北支方面軍司令官の親補。支那事変開始後に北京に新設されたもの、多田の最後の任地 ⇒ 民衆統治の基本として「悦服」を説く。民衆の心を把握するのではなく、喜んで服すようにすべきというもので、天津時代から一貫している
民間重視、弱者救済。相手の文化に敬意を払い、民衆を立てつつも、中国人の権謀術策への注意を怠らない
和平問題には常に心にあり、それなりの働きかけもしている
共産党の撲滅も任務の1
413?石原が待命に
417月大将に昇進とともに軍事参議官に補せられ待命となる ⇒ 2か月後に予備役
いずれも東條陸相の人事であり、多田は天皇に軍状奏上の後の陸軍省での報告会では一言も発言せず、武藤軍務局長はじめ陸軍の若手は憤慨
多田・石原が東條に敗れざるを得なかった重要なものの1つに、天皇との距離がある ⇒ 「一生懸命仕事をやる」と天皇から好意的な評価を得た東條に対し、多田は石原・板垣とともに、評価が低く、板垣陸相の後任として名が挙がった際も、天皇は畑を選んでいる
大将昇進と離任が決まってからも、陸相官邸での記者会見で、現地の中国人に対する態度、日華関係に関するあるべき姿を語っているが、「悦服」という言葉を繰り返し用いながら、武力に寄らない日滿中の融和を説いている
全体主義より、一体主義を説く ⇒ 天下の物事一より小はなく一より大なるものなし。宇宙は一に始まり、一になる。したがって一に尊び一を究め一に帰して全しということになる。「一」は多田が最も大切にした宗教的、科学的概念。陸軍中央で「全体主義」政策を進めていたのは東條や武藤であることを思えば、これらの言辞が禅問答や哲学だけを語っているのではない
419月予備役編入、正式に軍職から離れる

第5章        房総での閑日月――自責の念を抱えた将軍
423月房総に居を移す ⇒ 投網と読書、晴耕雨読の毎日
膨大な図書の中から1200冊ほどが早稲田大学に寄贈 ⇒ 「宝韜(とう:弓・剣をしまう袋)(多田の書斎号)文庫」と題され、「資治通鑑」などの歴史書を始め、明・清時代の兵法書が多数含まれる
隠棲後も折に触れて政権の批判は行っていた ⇒ 陸相の東條の総長兼任を聞き、「幕府とならねばいいが」と懸念、滿洲国に関しても、「弱い者虐めをしているうちはまだ駄目。滿洲がうまくいかないから支那事変がこうなって来た」と建国の失敗を認めている
さらに、アジア地域での日本の立場にまで言及、「弱い者虐め」を激しく嫌っている
ただ、勇敢に戦う兵士たちへの思いはまた別で、戦死者に対する悲痛な心中が地方への慰問等の行動となって現れている
北白川宮永久王の偲ぶ会の講話では、奇しくも3度も配下におられた皇族が飛行機事故で亡くなられて自責の念に日夜苛まれている苦悩を肉声として残している
日米開戦にも反対していたが、反戦論や戦争批判が多田自身の手になる文章として明確に書かれているものは確認できない。ただ、周囲の人々の間ではある程度は知られていた
戦後、東京裁判のA級戦犯として自宅軟禁後、巣鴨入所を命じられたが尿道炎を発症して延期され、不起訴となり、検察側証人として1度出廷したのみ
幣原内閣の書記官長だった楢橋渡が、連合軍との折衝に当たり、多田を救った ⇒ 北京駐在以来の知り合いで、戦時中から多田を「人道主義者」と評していた
法廷では友人の松井、板垣、土肥原のために堂々弁護の証言をした ⇒ 上海、南京、漢口の作戦はそれぞれ別個かつ偶発的なもので、南京を陥とせば講和の機会があると考えていたこと、当時太平洋戦争の計画などはなかったことなどを証言 ⇒ ウェブサイト「NHK戦争証言アーカイブスー468月第31号」で動画を見ることができる
戦時中日本に協力して中国人民のために戦った人々は、蒋介石からも離れ、中国人民からは対日協力者として非難され、共産党からも受け入れられずに香港に逃げ込んだが、彼らにしてみれば、戦後経済発展を遂げた日本は、ただ自分たちを「利用し、裏切った」と見えていたが、多田にとっては「報われざる対日協力者」たちへの己の無力を痛感し続けた日々
4812月胃がんに手逝去、享年678日後に戦犯容疑解除

終章 相馬御風への手紙――良寛を介して溢れる心情
幼いころから哲学や宗教など人間の精神世界の探求に興味を抱き、良寛和尚に傾倒したが、その傾倒ぶりは、良寛研究の第1人者相馬御風との交流においてもよく現れている
御風との交流は、多田が参謀次長になった後で亡くなるまでの10年間
御風への手紙では、「不惜身命のみを礼賛するのは一考も二考も要す。惜身命も大事」と世間の短見を否定した率直な心情を認めた
御風の母黒光の父は多田家からの養子であり、多田は「伯母」と呼んでいた

エピローグ 友とともに
石原とのつながりが多田の人生の命運を決める大きな要因


Wikipedia
多田 駿(ただ はやお[1]1882(明治15年)224 - 1948(昭和23年)1218)は、日本陸軍軍人。最終階級は陸軍大将。宮城県仙台市生まれ。生家は旧仙台藩(伊達藩)士である。
人物[編集]
仙台陸軍地方幼年学校1期)、陸軍士官学校(第15期成績順位35番)砲兵科、陸軍大学校(第25期成績順位12番)卒業。
1937昭和12年)7月に盧溝橋事件が起き、支那事変が始まった。
翌月の8月に今井清のあとをうけ、参謀次長となる(石原完爾作戦部長の推挽)。事変については石原と同じく不拡大派であり、蒋介石との和平交渉継続を唱えていた。
1938(昭和13年)115の連絡会議ではトラウトマン和平工作の打ち切りを主張する広田弘毅外相に対し、この期を逃せば長期戦争になる恐れがあるため交渉継続を主張した。多田は結論を参謀本部に持ち帰って協議し、参謀本部は政変回避のために不同意であるが反対はしないこととなったため、和平工作は打ち切られた。多田の在任した一年強の期間、参謀本部は不拡大方針でいた[2]。また、杉山元陸相の更迭を盛んに主張している[3]
拡大派の陸軍次官東條英機と対立したため、両者更迭となった。多田は皇族総長の下で一切を取り仕切る次長として、カウンターパートである陸軍次官を飛ばして直接陸相(杉山の後任である板垣は陸士の1期後輩であり、仙台幼年学校の同窓であるという親しい関係にあった)と接触することが多く、これが東條次官から不快に思われた側面もあった[4]
平沼内閣総辞職の際、後継内閣の陸相として新聞に名が挙がっていた
1939(昭和14年)8月、阿部内閣の組閣時には板垣陸相の後任として陸軍三長官会議で一度は陸相候補に決定した。
しかし、3司令官の多田がいた牡丹江飯沼守人人事局長が承諾を取るために派遣され、関東軍に足止めされているうちに昭和天皇より陸相には梅津との思し召しがあった[5]。陸軍三長官会議のやり直しで後継陸相を畑としたため、多田陸相は実現しなかった。
東条英機により軍事参議官在任2か月で予備役へ編入された(同期の梅津美治郎蓮沼蕃は現役続行)。
東條が陸軍の実権を握り首相となってからは太平洋戦争中も予備役から呼び戻されることなく、館山市に居を構え[6]、帰依する良寛の書を読むなど自適の生活を送り、終戦を迎えることになった。
1945(昭和20年)12月、A級戦犯容疑者に指名を受け、逮捕される。不起訴となるも、健康上の理由で巣鴨プリズンの入所延長が認められたが、1948(昭和23年)12月に胃癌により死去した。死の一週間後に戦犯指定は解除された。
略歴[編集]
1903年(明治36年)11 - 陸軍士官学校第15期(砲兵科)卒業、乃木希典の次男乃木保典(歩兵科)と同期
1904年(明治37年)3 - 少尉に任官。野砲第18連隊附。
7 - 日露戦争に従軍(〜19056月)。旅順攻囲戦に参加。
1905年(明治38年)6 - 中尉に昇進。
1909年(明治42年)11 - 陸軍砲工学校高等科卒業。
1913年(大正2年)8 - 大尉に昇進。
11 - 陸軍大学校卒業(第25期)。
1915年(大正4年)6 - 参謀本部員。
1917年(大正6年)3 - 中華民国政府応召(北京陸軍大学教官)。
1919年(大正8年)12 - 少佐に昇進。陸軍大学校教官。
1923年(大正12年)8 - 中佐に昇進。
1924年(大正13年)7 - 欧米出張(〜19252月)。
1925年(大正14年)5 - 野重第2連隊附。
1926年(大正15年)310 - 中華民国政府応召(北京陸軍大学教官)。
1927年(昭和2年)726 - 大佐に昇進。陸軍大学校教官。
1928年(昭和3年)38 - 野砲第4連隊長。
1930年(昭和5年)36 - 16師団(京都)参謀長。
1931年(昭和6年)3 - 中華民国政府応召(北京陸軍大学教官)。
1932年(昭和7年)411 - 満州国建国に伴い最高顧問に就任。
88 - 少将に昇進。
1934年(昭和9年)81 - 野重第6旅団長。
1935年(昭和10年)81 - 支那駐屯軍司令官。
924 - 河北5省分離(冀東防共自治政府)を公言[7]
1936年(昭和11年)428 - 中将に昇進。
51 - 11師団(香川)師団長。
1937年(昭和12年)814 - 参謀次長。
1937年(昭和12年)814日〜1938年(昭和13年)35 - 陸軍大学校校長を兼務。
1938年(昭和13年)1210 - 3司令官。
1939年(昭和14年)912 - 北支那方面軍司令官。
1940年(昭和15年)429 - 功二級金鵄勲章を受章。
1941年(昭和16年)77 - 大将に昇進、軍事参議官
1941年(昭和16年)9 - 予備役に編入(以降 営農生活)
1945年(昭和20年)122 - A級戦犯の容疑で逮捕
1948年(昭和23年)1216 - 胃癌で死去
1948年(昭和23年)1224 - 釈放(既に死去していたが、釈放者のリストには入っていた)
参考文献[編集]
『日本陸海軍総合事典』秦郁彦編 東京大学出版会 1994年、など。陸士と陸大の卒業成績順位は同著p251にあり
栄典[編集]
日中戦争不拡大論者として[編集]
1936年、多田駿は冀察政務委員会の委員長・宋哲元と防共協定を結んでおり、田代皖一郎橋本群と共に対中穏健派であった。
19377月の盧溝橋事件に端を発して日中戦争が始まったが、多田は蒋介石政権よりもソ連の脅威を重視しており、参謀本部作戦部長の石原莞爾少将・陸軍軍務課長の柴山兼四郎大佐らと、戦線不拡大を唱えていた。
1937年末、蒋介石との講和のタイミングと見て、ドイツ仲介よる和平工作(トラウトマン和平工作)を展開する。
1938115日 大本営連絡会議に参謀本部次長として出席。「トラウトマン工作打ち切り」を唱える政府側(近衛文麿首相・広田弘毅外相・杉山元陸相・米内光政海相)に対し、参謀本部側は和平工作継続を主張しており、多田は1人蒋介石との和平交渉継続を唱えるも押し切られる。翌日、近衛首相は「以後蒋介石は交渉相手としない」旨を宣言する(第一次近衛声明)。
その他[編集]
張作霖爆殺事件河本大作大佐は義兄(妻の兄)。
陸大教官時代に、「支那人1万人の捕虜を得た情況で如何に処理すべきか」との問題を出した事がある。学生達は様々に苦心した答案を用意したが、多田が用意していた模範解答は以下の通りだったという。「全員武装を解除した上で釈放、生業に就かしむるべし」。
川島芳子が特務工作員として思うように動かないと感じ始めると、暗殺命令を出していたともされている[9]
支那駐屯軍司令官在任中の19351217日に天津の多田駿宅に爆弾が投げ込まれ、中国人召使が負傷した事件がある。これ以外にも満州国建国から盧溝橋事件までにあらゆる抗日テロがあった。
多田が収集した明代・清代の兵法書など1253冊が早稲田大学図書館に所蔵されている。
評伝[編集]
岩井秀一郎『多田駿伝:「日中和平」を模索し続けた陸軍大将の無念』(201731日、小学館ISBN 978-4093798761
脚注[編集]
^ 林茂 『日本の歴史25 太平洋戦争』 中公文庫新版 S-2-25 ISBN 978-412204742660pでは「しゅん」とルビが振られている。
^ 中隆吉 『日本軍閥暗闘史』 中公文庫 [た-27-1 ISBN 412201500694p
^ 風見章 『近衛内閣』 中公文庫 M185 ISBN 412200952989p
^ 藤井非三四 『昭和の陸軍人事 大戦争を戦う組織の力を発揮する手段』 光人社NF文庫 [ふ-N-920 ISBN 978-476982920145p
^ 半藤一利+横山恵一+秦郁彦+原剛 『歴代陸軍大将全覧 昭和篇/満州事変・支那事変期』 中公新書ラクレ 337 ISBN 978-4121503374246-247p
^ 半藤一利+横山恵一+秦郁彦+原剛 『歴代陸軍大将全覧 昭和篇/太平洋戦争期』 中公新書ラクレ 340 ISBN 978-412150340445p
^ 江口圭一 『大系日本の歴史14 二つの大戦』 小学館ライブラリー SL1014 ISBN 4094610146274p

^ 『阿片王一代 - 中国阿片市場の帝王・里見甫の生涯 - 』(千賀基文光人社2007年)

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