渡邉洪基 瀧井一博 2016.11.28.
2016.11.28. 渡邉洪基(わたなべ ひろもと) 衆智を集むるを第一とす
著者 瀧井一博 1967年福岡県生まれ。90年京大法卒、95年同大学院法学研究科博士後期課程単位取得退学。現在国際日本文化研究センター教授。博士(法学)。『文明史の中の明治憲法――この国のかたちと西洋体験』で、03年大佛次郎論壇賞、角川財団学芸賞。『伊藤博文――知の政治家』で10年サントリー学芸賞
発行日 2016.8.10. 初版第1刷発行
発行所 ミネルヴァ書房(ミネルヴァ日本評伝選)
渡邉洪基(1848~1901) 明治期の官僚、政治家。帝国大学(現東京大学)の初代総長であり、民権運動に対する政府の弾圧策として悪名高い「集会条例」の起草者。その一方で、国家学会や統計協会など多くの学会や組織の立ち上げに関わり、「三十六会長」と言われる。本書では、日本の近代化を支える「知」のあり方を追求した明治国家の造形者の一人として、渡邉に新たな光を当てる
「衆智を集むるを第一とす」 郷里である武生に対し、渡邉が図書館ないし博物館の設置を説いた明治11年の書状「武生地方有志諸君に告ぐ」に見られる一説。様々な知識の集積と人々の交流こそ日本が近代国家として発展していく源泉であるという渡邉の思想が端的に示されている
はじめに
帝大総長としては、当代屈指の知識人であり、帝大の前身の旧・東京大学時代にも総理を歴任していた加藤弘之や、明治期の文部行政にその名を欠かすことのできない後の文相・浜尾新(第3代)、明治初期啓蒙知識人の一翼を担った第4代・外山正一が有名であり、近年刊行された一般向けの東京大学史は、初代総長としての渡邉は「前東京府知事という妙な経歴を持つ官僚で、大学人から違和感を持って受け止められた」と素っ気なく記すのみ。また、教育史の大家の手になる日本大学通史ではその名すら出てこない
本書は、この忘れられた”東大”初代総長を掘り起こし、その思想の歴史的評価を試みる
渡邉は、言葉の通常の意味における思想家や学者ではない。一介の官僚に過ぎないとも言える彼は、自分の考えを体系的に書物の形に取りまとめて世に残したわけではないが、埋もれた彼の論稿が多々ある。本書ではそれらを網羅的に利用するとともに、東大文書館に所蔵されている『渡邉洪基資料』にある一次史料をも利用して、渡邉の思想の全体像というものを浮き彫りにする
忘れられた人物の思想像を描くというからには、そこにどのような歴史的意義があるのかを十分に説明しなければならない。ある歴史上の人物との比較の可能性を示唆したい。それはプロイセン文部省の官僚で、「大学のビスマルク」と呼ばれたアルトホフ。19世紀末から20世紀初頭にかけてのドイツの文部行政を牛耳った人物として大学史の上で大いに注目されている。当時のドイツの学術行政を「アルトホフ体制」と呼ぶ。フンボルトの提唱する研究と教育という教養主義に基づくドイツの古典的大学制度に対し、産業化社会の進展に合わせてより実証的で専門分化された精密科学の勃興が始まる、まさに歴史の転換点にあって、予算獲得の天才と言われたアルトホフの手腕によってドイツの大学の実験室には高度な基礎研究を支えるための潤沢な資金が投入され、全ドイツから優秀な科学者が集められた。「ドイツ近代科学を支えた官僚」と呼ぶにふさわしい
国家の体制を構築するファクターとしての「知」という視覚から、科学を中央で管理することによって学術体制の国家化を推進。いわば「知」の「国制」化
日本の近代的学問の出発点において、国制知を体現したのが渡邉。”官学の牙城=帝大”を作って有望な青年をスカウトし、伊藤博文の「子分製造所=官僚養成所」とする
「三十六会長」の呼称も、それほど多くの学会、学術組織の長に納まり、運営を担っていた現れ。帝大、学習院、工手学校(現工学院大)、大倉商業(現経済大)のほか、国家学会、建築学会等の学会組織、国民協会などの政党、貨幣制度調査会などの政策審議会、各種鉄道会社、明治美術会など
慶應義塾出身で福澤の門弟にも拘わらず、自由民権運動を弾圧する集会条例を起草したことで当時から悪名を馳せていたが、弾圧するというよりも媒介者の側面が強く、自分こそが福澤の実学の精神を正統に継承し実践しているとの自負すらあったのではないか
渡邉の中で多くの多様で脈絡のない組織の間に何があったのか、解明されたとき、明治日本で形作られようとしていた国制知の全容に迫ることができる
第1章
幕末の思想形成
1848年、越前府中善光寺町(現越前市)の町医の生まれ。明治2年に武生と改称。越前福井藩の付き家老が幕府から大名待遇を得ていたため、伝統的に独自意識が強い
幕末に有為の人物を輩出。その代表が松井耕雪。越前の産業振興に貢献、藩校の建学に尽力
日本の種痘史上に特筆される福井藩の蘭医笠原良策に賛同して、洪基の父は息子を実験台に提供。父が藩内で種痘普及に果たした貢献が認められて、彼は息子ともども町医にもかかわらず帯刀御免となっている
父この関係は必ずしも良好ではなく、特に1876年洪基が欧州から帰朝した後は血気と泰西の個人主義を承け、旧時代の親との確執の素地が早くからあった
1863年、福井に出て医学を修める傍ら、蘭語・漢語を学び、さらに勘定奉行について江戸に出ることになり、佐倉の医塾順天堂に入塾
1865年慶應義塾に入社、医学を捨て政治兵術を学ぶ
1868年、鳥羽伏見の戦い勃発の頃、渡邉は幕府の医学所に奉職.頭取は緒方洪庵の後を継いで松本良順で、従来の会読方式から講義方式に変更
北上する戦線に、松本は旧幕軍を見殺しにできないとして会津へと向かい、そこに渡邉らも付いていったため、賊軍として流転の日々を送る羽目に
その途上、米沢藩で引き止められ、弱冠20歳足らずして、学校を組織し新しい学問の指導に当たるという大役を担うが、維新の混乱で米沢藩も官軍に恭順し、渡邉も僅か5か月で上京
第2章
維新官僚への転身
2通の建白書を新政府に提出 ⇒ 国の基本理念を5カ条にまとめたものと、王政復古の下での具体的施策。特に日本を取り巻く国際情勢と学術行政について詳述
福井の主君筋から学資を得て、明治政府が開設した大学に入学
維新後、幕府の直轄校であった昌平坂学問所、開成所、医学所を接収し、昌平学校、開成学校、医学校とした後、明治2年昌平学校を母体として大学本校とし、開成学校を大学南校、医学校を大学東校と改称。後者の2校は明治10年に合併して東大(旧東大)となり、その後拡充されて明治19年に帝国大学となり、渡邉が総長となる
渡邉が在籍したのはどちらか不詳だが、明治2年末には大学少助教、翌3年には中助教に昇任
ところが直後に外務省大録に任じられ異動、しばらく外交官としてのキャリアを積む
普仏戦争に対し局外中立の布告文を出す際、フランスから代筆の申し出があったのに対し、渡邉が猛然と反対し自ら起草。それが高く評価された
1869年 武生騒動 ⇒ 版籍奉還で、福井藩に併合されることになった府中領武生が、それを不服として農民らの暴動に発展した事件。すぐに福井藩によって鎮圧され、渡邉も嘆願書を出したかどで拘留され、役職罷免となるがすぐに放免
復任後は、72年の条約改正交渉に参加
71年 岩倉使節団派遣と在外公館の設置、海外留学生の派遣によって、新生日本を喧伝することが、ひいては条約改正を有利に進める基礎となると渡邉が建言書で提言
渡邉も岩倉使節団の一員として随行
使節団は、唯一洋行経験のあった副使の伊藤博文が実質取り仕切ったことから反発も多く、渡邉もその1人。後に伊藤内閣の下で初代総長にもなるが、最初の出会いは印象が悪く、使節団の目的に反して本格的な条約改正交渉に入ろうとする伊藤に反発して辞表を出し、途中で一人帰国
第3章
欧州への赴任――societyの発見
1873年庄司貞子(てい)と結婚。外務省2等書記官となり、イタリア・オーストリア駐箚(さつ)としてウィーンに赴任(臨時代理公使)。あらかじめ妻に英語を学ばせ、夫人同伴赴任の初めとなり、現地では当時のジャポニズムの下、オーストリアの貴族婦人が貞子から聞き取りして日本に関する書籍を出版(貞子に捧げられている)するなど、ウィーンの上流社会でも喝采を浴びる
ヨーロッパの経済発展の由来について調査 ⇒ 官商は民業圧迫ゆえ断固排斥すべし
海外事情に暗い国内産業のために、その仲立ちとなるような商社の設立を政府が行うべきであり、殖産興業のための政府の役割を官業主導の産業振興よりも、商社的な仲介という媒介の機能に求めた ⇒ 後年の渡邉の行動原理となる
現地の盛んな結社活動に関心を示す ⇒ 人々の社会的交流を通じ、知識の交換と結合の場として国家繁栄の鍵だとみなし、日本で実践することになる
オーストリア帝国地理学協会の会員となって、そこに西洋文明の1つの結晶を認め、その日本への移植を志す
76年、帰国の途上欧州・中東各国を回り、その風俗・習慣にも触れる
殖産の道を開く学術、具体的には工学や化学の必要性・重要性を説く
新知識を制度化し、それに立脚して国家建設を推し進めようとする学問観で、伊藤と渡邉が共感
第4章
萬年会、統計協会、東京地学協会――societyの移植
76年 外務権大書記官・記録局長を拝命。初めて日本政府の人間として竹島の帰属を問題にする。海上の岩礁として何の価値もないとされた竹島(当時は松島と呼ばれていた)こそ軍事的に重要だとして日本帰属を明確にすべきと提唱したが、政府の主流とはならなかった
l 78年、萬年会設立 ⇒ 「武生地方有志諸君に告ぐ」と題した書状で、その土地の繁栄のためには衆智を集めることが肝要とし、自ら資金提供を申し出、併せて有志を募った
地域に立脚し、知を喚起して衆智と化し、中央指導の知の流通に対抗して、地域から国家、そしてさらには世界全体へと人々が切磋琢磨しながら結びつき、豊かになっていく姿が思い描かれた
愛宕にある曹洞宗萬年山青松寺の近くに住んでいたところから、青松寺が会合の場となり、そのまま会の名前となった
l 79年、統計協会設立 ⇒ 69年の初の人口調査をきっかけに、各種データの収集と整理の実務が必要となった
l 79年、東京地学協会発足 ⇒ 国家の統治にあたって、地理学の知識は内政外政の双方にとって必要不可欠だという認識を国家のエリートに周知させ、国運隆盛のための地政学的知識を流通せしめることを目的とする。純学術的な地学会の誕生で合併
第5章
新たな「治国平天下」の学を求めて
77年、新生学習院開業式 ⇒ 江戸末期に1847年開設された公家の子弟のための学問所の再出発で、翌78年渡邉が次長就任。教頭の役割で、学習院の改革を陣頭指揮
華族教育の重点を、軍人教育、政治と経済の研鑽において刷新
80年、集会条例起草 ⇒ 慶應義塾塾生にもかかわらず、藩閥政府の軍門に下った変節漢として渡邉の名を広く知らしめた。政府側の法案説明に当たったために世の批判を浴びたが、実際は自由民権運動の高まりに危機感を感じた内閣の命を受けて立案したもの。法の目的自体、講学の集会と政談集会を峻別することにあり、政府が取り締まりの目安としたのは集会の名称だったため、もぐりの集会が多発して法の実効性はなかった
国会開設を唱え、日本中が政治熱に浮かされ、世論が沸騰した中、渡邉は官を辞し、国家の経綸に与るものはその領国を自らの目で観察しなければならないとし、81.5.~82.3.全国を視察して歩く ⇒ 『郵便報知新聞』の記者だった原敬が前半部分に同行
周遊の成果その1 「実勢」という視座。物事の実状に多大な関心
その2 鉄道への関心。そのための鉄と石炭の殖産の必要性を説く
その3 政治教育への関心。民権派の伸張を「大勢」と見做し、反動的な姿勢だけでは解決しないと説く。「実際より研究」というスタンスを掲げ、社会の実勢を事実に即して把握し、それに立脚した政策を練り上げるというような研究の姿勢こそ大事
82年、政治学校設立の建議書を作成 ⇒ 新体制に相応しい「治国平天下の学」として政治学を立論。これまで私学が担ってきた政治経済についての知識・教育を国家に取り戻す
第6章
帝国大学初代総長
82年、元老院議官就任 ⇒ 国家の立法を実際に審議する立場に
83年、工学会に参加(翌年副会長就任) ⇒ 工部省下の工部大学校の卒業生の親睦団体で、工業上の知見を広く世間に発信することを目的に設立されたが、渡邉によって内輪の集まりから社会に開かれた学術団体として位置付けが変わる
83年、東京府知事就任 ⇒ 大東亜博覧会開催構想に加担。現在の都の記章を考案
84年、工部少輔へ ⇒ 官業から民業への移行が世の趨勢となる中、内務省管轄の土木事業を工部省に移管、運輸行政とともに工部省管轄の柱とした
86年、帝国大学創設 ⇒ 81年の政変は国家建築の「準拠理論」を巡る闘争でもあり、イギリス的立憲政治を支持する大隈一派が追放され、プロイセン流立憲君主制が明治藩閥政府の基本として確立するが、大隈は下野した後も政党と学校の設立で対抗。反政府勢力の再生産装置として政府の脅威となり、東大を法・文・理・医・工の分科大学として再編する形で帝国大学が成立、その初代総長として渡邉に白羽の矢が立つ
東大総長だった加藤弘之の横滑りが予想されたが、文相森有礼との確執から排斥され、消去法的に改革の手腕を買われた渡邉にお鉢が回ってきた
大学史では森の陰に隠れてほとんど無視されてきたが、能吏として再評価する動きもあり、さらには伊藤の片腕として、国制改革の重要な一コマとして位置付けられた帝国大学を知の連携の場とするべく奔走したことは評価されてしかるべき
総長の傍ら、「三十六会長」として、相変わらず各種の学会活動にも精励、学問と実業の繋がりを重視した功利的学問観を敷衍、知を通じて学者と他の社会との連携に尽力
学生の就職の斡旋にも注力 ⇒ 有望な学生を官界、財界に推挙
産官学連携にも積極的に関与 ⇒ 工手学校(現工学院大)の設立に乗り出す
第7章
国家学会の創設
87年、国家学会創設 ⇒ あらゆる国家の統治体制を「国制」と呼び、その支配を正当化し効率化するための知的裏付けや知識集団の存在、さらにはそれらを再生産していく組織体系が必要だとして、帝大の法科大学内に設立され、現在に至るまで東大大学院法学政治学研究科と東大法学部のスタッフによって構成される学術団体として存続。機関誌『国家学会雑誌』は東大の法学政治学の最前線の業績を掲載する学術誌として、日本の学会で揺ぎ無い地位を得ている。この学会を開き、運営したのが渡邉
実際派・渡邉の国家学構想に対し、純理派の加藤弘之は生物の進化主義に基づく理学によって国家を革新すべきとして反論、最終的には「学理とともに応用を講ずる」ことを目的とするよう変更している
第8章
晩年――媒介者の最期
90年、総長退任 ⇒ 在任中の国家学会の活動の考察を通じて、帝国大学を拠点として渡邉が造形しようとした知の在り方を論じてきたが、そこから浮き彫りとなったのは、知を産出する機関としての大学を一般社会と連携させる媒介者としての姿
大学と社会の間を取り持つフォーラムをいくつも組織 ⇒ 国家学会のほか、市民講座を拡充し大学を挙げての大学通俗講談会を設けたり、法学協会講談会や私立5大法律学校連合大討論会を開催したりする。知はあくまで「通俗」的(プラクティカル)なものという信念
大学を研究の場と位置付け、学問の政治化を矯正し、政談から切り離して、専門的見地から学問的に討究する真理探究こそが大学の務めだとした
後任の加藤が山県の姻戚だったことも総長退任の理由
90年、特命全権公使としてウィーンに駐在 ⇒ 西欧列強間の熾烈な経済競争に危機感を持ち、西洋勢力の伸張に対抗して東アジア世界の防衛を説く
「国力」とはエネルギーであると言い換え、国際社会は各国が自らのエネルギーを蓄え発展させ、その力を競い合っている場であるとした
92年、第2回の衆議院議員選挙に海外から立候補して当選
政党とは、政見の異同によって成り立つ自由な結社であり、政策的な意見を自由に表明して討議するためのものだが、当時の政党は朋党や徒党といった無頼の集まりでしかない
帰国後は、本格的に鉄道事業や銀行経営といった実業家の活動も開始
鉄道事業では、谷干城が軍事目的から広軌を主張したのに対し、渡邉は経済優先の見地からコストも安く技術的にも難が少ない狭軌に理があるとした
学理の社会と現実社会を接合することに腐心 ⇒ その一例が93年発足の貨幣制度調査会も、早くから金本位制が世界の主流になる中で、日本も銀本位から転換すべく、そのための調査・研究の会の立ち上げを建議していた。結果は、調査会の結論は時期尚早となったが、蔵相の松方が強引に政治決着で金本位制移行を決断。学理が政治の前には無力だということを思い知らされる
福澤との関係 ⇒ 民にあって官とは距離を置く「痩せ我慢の説」を唱える師に対し、維新後すぐに翻身して官途に就き、帝大総長になって私学に睨みを利かせるまでになったが、渡邉が学習院次長だった時に福澤が弟子の就職を依頼している。北里の伝染病研究所の愛宕への移転の際も、支援していた福澤が、反対運動の様子を地元住民だった渡邉に探りを入れた書簡が残っている
92年、国民協会結成に参加 ⇒ 国粋主義を前面に打ち出し、対外強硬運動の一翼を担った政党であり、品川弥次郎内相の選挙干渉のお陰で当選した議員が主体となって出来た典型的な「吏党」だが、もともとは社交クラブで、たまたま社会に孤立した各界の専門知・実践知を結び合わせるための結社だったが、品川と西郷従道を担いだのが間違い
1900年、立憲政友会発足 ⇒ 伊藤との新党の創立委員として参加
1900年、大倉商業開学 ⇒ 初代校長(督長)。98年の条約改正で外国人居留地が撤廃され、内地雑居が始まったことから、外国人商人との競争に太刀打ちできる人間育成を目的とした。渋沢栄一、石黒忠悳、渡邉の3人で趣意書作成
1901年、狭心症で死去。享年54。98年貞子と死別、翌年再婚して最初の子が生まれる直前に倒れ、生まれた直後に死去。危篤の報を受けた原が授爵に奔走したが奏功せず
渡邉洪基 瀧井一博著 官僚出身 帝大初代総長の活躍
2016/10/23 3:30
日本経済新聞 朝刊
現在の東京大学は、ルーツを2つ持つ。ひとつは明治10年創立の旧東京大学。もうひとつは明治19年創立の帝国大学である。旧東大は東京開成学校と東京医学校を合併してできた学術専門の大学。帝大のほうは、旧東大を改組し、工部大学校などを組み入れて、「国家ノ須要ニ応スル」大学としてできた。だから、帝大は、伊藤博文や初代文部大臣森有礼などが旧東大をテーク・オーバーして出来(でき)た大学といえる。東大が官僚養成大学というイメージをもったのは帝大をルーツとしたものである。
本書は、この帝大の初代総長渡邉洪基の評伝である。しかし、渡邉は旧東大総長加藤弘之のような学者総長ではない。前歴が東京府知事の官僚総長だった。渡邉の就任は本命の加藤弘之をそでにしてのものだから、学者連には評判が悪かった。伊藤のパシリ役の総長のように思われてきた。そんなことが影響して、帝国大学にふれた教育史学者も渡邉については立ち入ってこなかった。
といっても本書は忘れられた人物を発掘しただけのものではない。渡邉が、パシリ教育官僚ではなく、実は類(たぐい)まれな経綸(けいりん)の士であったことが明らかにされ、それをつうじて明治日本の生成の現場がしだいに浮かび上がっていく。ここらあたり著者の筆遣いはまことに鮮やかである。
渡邉は学理の社会と現実社会との媒介と衆知を集めることが、これからの国家の姿形を造るにあたっての要と考えた。フランスのグランゼコールなどを参照しながら実用的な学校の創立を考案し、それが帝国大学の構想につながっていく。法科大学に国家学会を立ち上げたのも渡邉だった。他方で統計協会や東京地学協会などの各種団体のオルガナイザーとなる。いまいうところの集合知の糾合のために八面六臂(はちめんろっぴ)の活躍をする。
まさしく。渡邉は帝国大学の思想の構築者だった。同時に、近代国家をつくるにあたって単なる「学知」ではない「国制知」(国家の構成と諸制度を構想し、それを運営していく知的営みとそれに携わる学識集団)のプランナーであり、実践者だった。
渡邉は大学人を前にして「純理に拘泥するばかりで社会に利益をもたらさない学問は無価値」といってはばからなかった。著者もいうように、いまの役に立つ学問をスローガンにした大学改革論と重なるものがある。しかし、構想力のスケールで両者は根本的にちがっているようにもみえる。歴史を鑑(かがみ)にして今を考えることに誘う秀逸な評伝である。
(ミネルヴァ書房・3500円)
たきい・かずひろ 67年福岡県生まれ。国際日本文化研究センター教授。著書に『伊藤博文』など。
《評》関西大学東京センター長
竹内 洋
Wikipedia
渡辺 洪基[4](わたなべ ひろもと / わたなべ こうき、1848年1月28日(弘化4年12月23日) - 1901年(明治34年)5月24日)は、日本の政治家、官僚、教育者。衆議院および貴族院議員、元老院議官、東京府知事、初代帝国大学総長、学習院次長、太政官法制部主事、駐オーストリア公使、日本建築学会会長、東京統計協会会長等を歴任。1895年(明治28年)11月から死去まで慶應義塾評議員。「工手学校」を創立した。幼名を孝一郎。浩堂と号す。母の名は蔦埜(つたの)。正三位勲一等。
- 1848年(弘化4年)- 越前府中善光寺通り(現在の越前市)に福井藩士で医者の渡辺静庵の長男として生まれる。
- 1857年(安政4年)- 府中の「立教館」に入学。(10歳)。のち福井の済世館で学ぶ。
- 1864年(元治元年)- 18歳で江戸に出て佐倉の佐藤舜海に師事。
- 1865年(慶応元年)- 福澤諭吉に師事して慶應義塾を卒業後、会津で英学校を開く。戊辰戦争では幕府側として参戦。
- 1870年(明治3年)- 外務省大録(議長級)として出仕。
- 1871年(明治4年)- 岩倉使節団に随行(22歳)。
- 1874年(明治7年)- 一等書記官に昇進。オーストリア臨時代理公使。
- 1882年(明治15年)- 元老院議官(明治17年(1884年)7月19日まで)
- 1885年(明治18年)- 東京府知事着任。
- 1886年(明治19年)- 帝国大学(後の東京帝国大学現東京大学)初代総長(39歳)。
- 1887年(明治20年)- 工手学校(工学院大学の前身)を築地に設立(40歳)。
- 1890年(明治23年)- 駐オーストリア特命全権大使
- 1891年(明治24年)- 芝紅葉館において、慶應義塾の同窓である中沢彦吉、九鬼隆一、加藤政之助、加藤六藏、柏田盛文、犬養毅、井上角五郎、牛場卓蔵、鹿島秀麿、塩路彦右衛門、橋本久太郎らと共に同窓会を行う。
- 1892年(明治25年)- 両毛鉄道社長(45歳)。品川弥二郎の手引により国民協会創立に参画。第2回衆議院議員総選挙に東京府第2区より出馬し当選。
- 1895年(明治28年)- 慶應義塾評議員
- 1897年(明治30年)- 貴族院議員に勅選。
- 1897年(明治30年)12月28日 - 錦鶏間祗候[5]
- 1900年(明治33年)- 政商・大倉喜八郎の設立した大倉商業学校(東京経済大学の前身)の督長に就任する。
- 1901年(明治34年)- 死去
- 「従三位勲二等渡辺洪基叙勲ノ件」(国立公文書館所蔵 「叙勲裁可書・明治三十四年・叙勲巻一」) - アジア歴史資料センター Ref.A1011252580
- 『夢 : 渡辺洪基伝』 渡辺進、1973年1月
- 東京大学百年史編集室編 『渡辺洪基史料目録』 東京大学百年史編集室、1977年2月
- 東京大学史史料室編 『渡邊洪基史料目録』 東京大学史史料室、2005年3月
- 黒木彬文 「自由民権運動と万年会の成立 : 非藩閥政府高官・渡辺洪基の殖産興業活動」(『政治研究』第34号、九州大学法学部政治研究室、1987年3月、NAID 40002049117)
- 中野実 「帝国大学体制形成に関する史的研究 : 初代総長渡辺洪基時代を中心にして」(『東京大学史紀要』第15号、東京大学史史料室、1997年3月)
- 中野実著 『近代日本大学制度の成立』 吉川弘文館、2003年10月、ISBN
9784642037556
- 東京大学創立一二〇周年記念刊行会編 『東京大学歴代総長式辞告辞集』 東京大学、1997年11月、ISBN 4130010735
- 瀧井一博 「初期国家学会の考察 : 伊藤博文と渡辺洪基」(『人文論集』第37巻第1号、神戸商科大学学術研究会、2001年8月、NAID 40001971424)
- 「渡辺洪基 : 日本のアルトホーフ」(『人文論集』第41巻第2号、兵庫県立大学神戸学園都市キャンパス学術研究会ほか、2006年3月、NAID 110006605295)
- 「渡辺洪基と国家学会」(佐藤幸治ほか編集委員 『現代社会における国家と法 : 阿部照哉先生喜寿記念論文集』
成文堂、2007年5月、ISBN
9784792304249)
- 「帝国大学の初志 : 初代総長、渡辺洪基の考えたこと」(猪木武徳、マルクス・リュッターマン編著 『近代日本の公と私、官と民』 NTT出版、2014年10月、ISBN 9784757143333)
- 「博覧と衆智 : 渡辺洪基と萬年会の目指したもの」(佐野真由子編 『万国博覧会と人間の歴史』 思文閣出版、2015年10月、ISBN
9784784218196)
- 瀧井一博著 『渡邉洪基 : 衆智を集むるを第一とす』
ミネルヴァ書房〈ミネルヴァ日本評伝選〉、2016年8月、ISBN
9784623077144
- 荒井明夫 「渡辺洪基」(伊藤隆、季武嘉也編 『近現代日本人物史料情報辞典』 吉川弘文館、2004年7月、ISBN 4642013415)
- 文殊谷康之著 『渡邉洪基伝 : 明治国家のプランナー』
ルネッサンスブックス、2006年10月、ISBN 4779000815
学職
|
||
東京統計協会会長
1897年 - 1901年 1882年 - 1890年 1880年 - 1881年 |
||
次代:
榎本武揚 |
||
次代:
学長 古市公威 |
||
その他の役職
|
||
先代:
(新設) |
||
先代:
(新設) |
コメント
コメントを投稿