文化としての日本のうた  佐野靖・杉本和寛編  2016.6.9.

2016.6.9. 文化としての日本のうた

編者
佐野靖 東京藝大音楽学部教授。1957年徳島県生まれ。東京藝大音楽学部楽理科卒、同大学院音楽研究科(音楽教育専攻)修了。音楽科の授業研究、カリキュラム、音楽教員養成制度を主なテーマに研究を展開。教科書や専門誌の編集、教育行政の協力者等の任にも携わる。各地で童謡、唱歌などの日本のうたを歌い継ぐ活動を展開。近年「音楽アウトリーチ」の活動にも積極的で、全国各地の学校等に生演奏やワークショップを提供

杉本和寛 東京藝大音楽学部教授。1965年大阪府生まれ。東大文学部国文学専修課程卒、同大学院人文社会系研究科(日本文化研究専攻)修了。博士(文学)。日本近世文学研究を専門分野とし、特に江戸時代前期の小説である西鶴や後続の浮世絵草子作品を主たる研究課題としている。佐野靖との共同開講の演習「音楽文化研究・文化としての日本のうた」を契機に日本近代の「うた文化」にも関心を深め、レクチャーコンサート等にも参加。現在は大学院において、声楽科教授の永井和子、福島明也両氏とともに「声楽特殊研究(日本歌曲)」を担当

発行日           2016.3.18. 初版第1刷発行
発行所           東洋館出版社


東京藝大の授業へようこそ!!
実演家と研究者、大御所の先達と若手がそれぞれの立場、さまざまな視点から「日本のうた」にアプローチします
東京藝大学長 宮田亮平氏推薦 (直後に文化庁長官に就任)


はじめに
11年の東日本大震災は、我々日本人の精神や文化に決して小さくはない変化をもたらしたが、本書のテーマである「日本のうた」においても、その影響を見ることができる
日経では、復興支援活動を通じて人々の心を勇気づけた歌や音楽の1つとして《故郷》を挙げ、震災直後の4月、ドミンゴが周囲の反対を押し切って来日し、不慣れな日本語で「故郷」を歌った姿が放映されて以来、《アメイジング・グレース》や《上を向いて歩こう》などとともに、この歌がチャリティ公演の定番に躍り出たことを紹介
《故郷》は、191114年に刊行された『尋常小学唱歌』に収められた曲の1
文部省唱歌のすべてが、その誕生から同じような受け止められ方をしたわけではなく、現代日本人の抒情に訴えかけるような歌のほかに《出征兵士》《天照大神》などもあり、その目指す方向性が今日的な認識とは異なっていることがうかがえる
《故郷》とても必ずしも例外ではなく、小学校生徒は遊学している時代ではないから題目は了解に苦しむという人もあろうが、故郷尾を離れて大都市部に労働者として供給されることが想定される子供たちに、故郷のなつかしさを「吹き込む」ことを意図し、そこから郷土愛、さらには国家愛へと広げていくことが明確に示されており、近代国家における「国民」形成の一手段としての役割を担わされていた
大正期の童謡運動を詩作の面から牽引した北原白秋は、「小学唱歌はその根本において一代革新を要する。さもなければ日本の児童はその詩若しくはその音楽の方面において真に救われる道がない」と痛烈に批判
《故郷》の作詞者・高野辰之も、自身の関わった歌詞についてはそれ以前の唱歌集に比べて進歩があるとしつつも、愛吟されることの少ない感があるとし、曲調についての不満を持っていたことが指摘されている
表層的に「近代性」を読み取ることは十分可能であろうし、近代、さらには現代における日本人の心象風景、あるいは仮象の原風景とでもいうべきものを形作るとともに、その深奥に静かに潜みながら折に触れて立ち現れ、我々の心を揺さぶり続けてきたことも間違いない
時代、社会、組織、制度など様々な文脈と関わりながら、1つの歌が歌い継がれ、あるいは消え去っていく。その歌を口ずさむ11人の境遇や心情という文脈もまた、歌の消長に深く関わってくる。「愛吟されることが少ない」と作った本人が嘆いた歌が、約100年の歳月を経て震災に傷ついた人々の心を癒し、奮い立たせている。歌の中に「故郷」を見出してきた人々によって、この歌は1つの文化となってきた
本書は、0512年の間、佐野、杉本両名で開講した藝大大学院音楽研究科の演習「音楽文化研究・日本のうた」を出発点としている
藝大音楽部では、近代以降の「日本のうた」についての関心が薄く、藝大の前身が明治以降の日本の「うた文化」形成に深くかかわってきた実態について、著者自身も理解不足であることを痛感。演習の開講によって多くの藝大生に「日本のうた」に関する知見が共有されることを目的とした
日本人にとっての「うた文化」の重層性を強く印象付けられた
以下3部に分けて論考したほか、戦後日本の「うた文化」に大きく寄与した歌手・作曲家・指導者の言葉と、現在活躍中の若手演奏家による「うた」への取り組みを随所に挟み、学術的な視点とは異なった「生(なま)」な「日本のうた」とその格闘ぶりを紹介
《故郷》についても、作曲家・岡野貞一の再評価が進んでいるが、文化としての「日本のうた」は、これまでの蓄積を取捨選択、あるいは淘汰しながら、今なお刻一刻とその姿を変貌、成長させている。我々の身体や心性に刻まれた「うた」の来し方行く末はいかなるものか、本書を通してその一端でも感じ取っていただけることを願う

第1部        うたと遊び・教育とのかかわり ~ 話す・歌う・動く
Ø  童謡を踊る――土川五郎とその時代
子供たちと「うた」のかかわりについて、戦前~現代の事例を紹介・分析し、広く教育と「うた文化」の関係性をとらえ直す契機としようとするもの
同様には、「歌われる」側面のほか、文学として「読まれる」側面に加え、「踊られる」側面もある  お遊戯の最初期の実践は、伊澤修二の「唱歌嬉戯(きぎ)」とお茶の水幼稚園の「保育唱歌」だが、官製の唱歌に対する批判として童謡ができたように、体育や訓練を目的とする「唱歌嬉戯」へのアンチテーゼとして大正~昭和の教育者・遊戯創作家の土川五郎が提唱したのが「律動遊戯」や「表情遊戯」であり、その代表作が童謡絵雑誌『コドモノクニ』(2835)の振り付け
「歌われる」童謡のスタイルを確立した《金の星》は、童謡詩人や作曲家を伴って日本各地で精力的に童謡講習会を行うが、その中で童謡詩人・野口雨情は、童謡が「踊れるもの」でなければならないと主張
舞踏の伴奏に童謡を用いた最も初期の例としては、日本舞踏家で児童舞踏家の藤間静枝と童謡作曲家の本居長与、その娘で童謡歌手だった本居姉妹たちの実践がある  《青い目のお人形さん》《十五夜お月さん》などの公演は大きな人気を博す
島田豊は、童謡を用いて、「子供が踊る、子供のためのダンス」を意味する「児童舞踏」というジャンルを作った人物。ビクター・レコードの専属振付家として大量の児童舞踏作品を生み出しており、童謡振り付けでは土川と競う
Ø  就学前教育と子どもの歌
保育現場が音楽と密接な関係にあるのは日本独特の慣習だが、もともとはドイツ・チューリンゲンで「幼稚園」を創設した「近代幼児教育の祖」として知られるフレーベルが考案・提唱したもの。一斉的な活動として行われることの多い保育教育の場での歌う活動で覚えた歌は子供たちの中で消化され、さまざまな形で彼らの表現や遊びを豊かにしている。歌の作られた時代や歌詞の言葉遣いや内容を超越して子供文化の中で日本のうた文化が受け継がれていく

Ø  私たち姉妹と日本のうた ~ 佐藤容子、寛子
2人の「日本のうた」の原点は、2人を取り巻いてきた「うた」にある。初めての発表会で歌ったのが《みかんの花咲く丘》と《ゆりかごのうた》。爾来2人の傍らには常に「童謡・唱歌」が身近にあった
「美しい日本のうた」を伝えるためにはどうしたらいいか。「日本語の音色」について考える。「風景が見える言葉を伝えたい」と思い、その言葉にふさわしい音色を模索し音という形にする。その工夫の1つとして「発声」と「発語」の関わりがあり、音楽の中での発語は、母音そのものが持つエネルギーと子音のエネルギーのバランスによって伝わる言葉の印象が大きく変化するところから、まずは意識的に「発語」の種類を揃える作業が必要となり、次いで母音と子音のバランスを揃えることが重要

Ø  《荒城の月》と私 ~ 佐藤容子
《荒城の月》は特別な存在であり、発声のバロメータになっている
表現のポイントは3

Ø  二重唱《花》-アルト側からの視点 ~ 佐藤寛子
心地よいハーモニーを作るためには、ソプラノとアルトが同じ方向に声の出口を感じていることが大切で、母音の音色を揃え、発語の種類と発声の出口をソプラノと同じに感じることを心掛ける

Ø  NHKラジオ番組「子供の時間」の果たした教育的役割
日本で初めて童謡がラジオ放送されたのは1925年、東京放送局の開局から4日目のこと
その後、本放送初日に「子供の時間」が始まり、数多くの童謡や唱歌が紹介されたが、中でも人気があったのは、読者から募った童謡に山田耕筰はじめ著名な童謡作曲家たちが曲を付け「特選童謡」として歌われたこと。130余曲あったが、今では知る人はいない
戦前のラジオ放送が子供たちのために行った音楽教育は、番組テキスト『コドモのテキスト』の刊行とともにその啓蒙的役割は大きい
同時に、大日本雄辯會講談社が発行した子供雑誌『キング』とそれを母体に生まれたキング・レコードの果たした国民啓蒙という社会的役割も無視しえない
『コドモのテキスト』や『キング』は、「大衆の国民化」を促す装置としても働く  発刊当初こそ読者参加型の編集法を取っていたが、戦時体制の下、次第に戦意高揚を前面に押し出し、大衆を国民化する使命を担っていく

Ø  作曲家・小林秀雄へのインタビュー ~ 2013.4. 佐野靖、佐藤寛子
「技術」という言葉の意味をあまりに狭くとらえる日本の風潮に対して警鐘を鳴らす。心も内容もすべてをひっくるめたものが技術であるべき
技術に関わる中心的な観念としては、①距離感、②比重、③位置付け
演奏の方法に関する重要なポイントは、①掘り起こす、②フェイント、③突っ込み
以上の6つの観念を出発点にして、楽譜から様々な情報を読み取り、想像力を駆使してよりよい音楽表現の世界を探求することが大切
時間芸術である音楽を人生にたとえ、演奏家に発想の転換を促す  1つの曲にはセンターがあって、その前後では全く世界が違う
歌い方に関しては、「発語」という観点が重要視される。「発語」とは、言葉の意味が加わった発声と発音のこと。発語の発想がないと言葉にならない。詩に曲をつけるのは単なる付曲であって、作曲はあくまで詩の世界とは別個に独立したものでなければならない

第2部        うたのルーツや社会性にせまる ~ 近代日本の展開のなかで
ある歴史的・社会的状況下で発展あるいは変容を遂げた「うた文化」の諸相を紹介。現代のジャンル意識とは別の次元で、豊潤かつ多様な「うた文化」に対する意識や活動があったことを知らしめてくれる
Ø  社会を歌った一高寮歌
校歌の役割を担う重要な寮歌《全寮寮歌》(“闇の中なる一筋の… 作曲は音楽部顧問の島崎赤太郎)、寮歌の代名詞となった《嗚呼玉杯に》(作曲は楠正一)
作詞の素養は多くのエリートたちが身に着けていたが、作曲は中学校の音楽授業に負うところが大きかったのでは
激動の時代も、平和な時代も、高校生たちは寮歌を歌った。彼らの目を通してみた社会を、文学と音楽で表現した寮歌は、どんな時代にあっても旧制高校が貫いたエリート教育の理念、すなわち「自由と学問」の結実だった
Ø  「ニッポンのうた」としての「南島のうた」
奄美・沖縄諸島を指す「南島」は、古の日本を映し出す鏡であり、「日本」にとって最も根源的な場所として、あたかも聖地として見出された
「ニッポンのうた」の源流を、「南島のうた」に見出す  南島といっても、沖縄本島ではなく「八重山諸島」に限定、農民の歌う「八重山のうた」こそが源流だという
Ø  《春の海》に見る宮城道雄のうたごころ
《春の海》は、宮城が36歳の時の作曲。30年の宮中の歌会始の勅題だった「海辺巌(かいへんのいわお)」に因んだ曲。8歳で失明して音に敏感となった宮城が、「波の音、船の櫓を漕ぐ音、鳥の声、風の音というようなものを折り込んで」イメージした
宮城の作品は、西洋音楽の要素を取り入れた「新日本音楽」と呼ばれる筝曲のジャンルではあるが、機能的な五線譜で曲が表されてあったとしても、唱歌ならではの微妙なニュアンスを演奏表現に加え、楽譜には表しにくい宮城の、広くは日本人の「うたごころ」をもって演奏したいものだ
Ø  日本における《第九》 年末の演奏会普及の背景
年末の《第九》演奏を始めたのはラジオ放送で、1940年指揮者・ローゼンストック(18951985、在日は193646)NHK洋楽担当の三宅善三の尽力で実現。ドイツでの慣習を持ち込んだもの。1950年代からは演奏会の収録放送に移行し現在まで続く
もう1つのルーツは、学徒出陣と関係。194312月初旬法文系学生の繰り上げ卒業に続く学徒出陣壮行会で《第九》が演奏され、戦後無事帰還した者たちが復活を呼び掛け、47年末に仲間への追悼を込めた演奏が感動で埋め尽くされ、以降戦没者への追悼と平和への思いを馳せながら《第九》を歌ったり聴いたりする人も少なくない
3のルーツが、47年末クロイツァー指揮、日本交響楽団(後のN)による演奏会で、楽団員の越年資金稼ぎが目的
《第九》の受容史
1(大正)では、ロマン・ロランのベートーヴェン伝記が大正デモクラシーの思潮とマッチし、愛好家のベートーヴェン像の形成に大きな影響を与える
2(昭和初期)では、ラジオ放送の充実とともに、知識と音楽が一体的に受容され、大衆にも拡大
3(大戦期)では、戦時下の苦しい生活や娯楽も制限されたところから、《第九》を聴くことで自分と似た状況のベートーヴェンを重ね合わせ、勇気や希望を持つことができたのだろう

第3部        さらなる「うた文化」の発展をめざして
既に日本の「うた文化」として定着しているアマチュア合唱や自治体の歌を取り上げ、今後のさらなる可能性を検討する
Ø  アマチュア合唱の可能性をひらく
日本では合唱が盛ん。アマチュア合唱団体が日本の合唱音楽を支えている
にもかかわらず、合唱を体系的に学ぶことができる教育機関はほとんどなく、指導方法も独自に培われてきた
Cantat(カンタート)とは、優れた合唱指揮者を招聘し、一定の期間に集中して合唱のためのコンサート、講習会などを行うイベントを意味する新語
世界合唱連合主催の「Europe Cantat」を手本に、96年から「Tokyo Cantat」開催

Ø  「市の歌」を歌えますか
47都道府県のうち大阪府を除く全てに「都道府県歌」があり、戦後間もなく制定
各市にも、98年の京都市歌を嚆矢として、明治末期ごろから「市歌」が制定された
作詞は公募、作曲はプロというパターンが多い
1907年 横浜開港50周年記念事業の一環として企画された横浜市歌は、南能衛(よしえ、当時東京音楽学校助教授)の作曲に後から森鷗外が詩を当て嵌めたもの、66年により歌いやすく補修・改訂が行われ、市内の公立学校では折に触れ歌われ、市民のほとんどが歌えるという、「不思議な現象」となっているが、横浜市の誇りとすべき音楽文化

Ø  演奏家たちはどのように歌声や表現を作っているか ~ 試行錯誤と創意工夫の歩み (2008年の「文化としての日本のうた」シンポジウムより)
角田剛士(新内節)  やり「たい」音楽とやる「べき」音楽があり、やりたい音楽にはやりたくとも真似のできない素晴らしい演奏がある一方、「たい」がなくとも「べき」でやっていて極めている人もいることを知って、自分には「たい」がないと悩んでいたが気が楽になった。邦楽の発声は「咳」をする瞬間の喉と口の中が閉まる状態で声を出すのに対し、声楽のほうは欠伸をするときの喉と口の中に似た状態で声を出すが、ボリュームを上げる時は邦楽でも声楽の声の出し方を参考にしている。喉の開閉によって裏と表があり、表裏の区別がつかないように切り替えるポイントが重要
布施雅也(テノール)  高い声が出るか出ないかではなく、声の音質がテノールだった。
テノールでは裏も表も使い、声の変わる場所をうまく通過しないと上の声が出ないし、伸びていかないポイントでもある
大元和憲(バリトン)  発声を直す過程で日本歌曲に巡り合い、大学院では中原中也の詩を扱った曲をメインに研究。西洋音楽に比べ日本語歌唱では母音の深さが異なり、普段浅く発音する日本語は西洋式に発声すると深すぎてしまう

Ø  「音楽のフレーズで詩を読まない」 ~ 畑中良輔特別講座「日本歌曲研究」抜粋
畑中良輔  バリトン歌手、合唱指揮者、音楽評論家、作曲家、作詞家
ü  音楽のフレーズで詩を読まない  詩の中で起こっているドラマをイメージする
ü  詩の読み方や解釈に間違いということはないが、よい悪いはある  ただ字面を追うのではなく、どれだけ言葉からイマジネーションを膨らませて、もう一歩何が引き出せるかが演奏家にとって重要。特に歌曲では演出家も指揮者もいないので、「自分の力で」音楽的表現を作り出し、聴く者にインパクトを与える工夫をしていく必要がある
ü  1つの言葉からどれだけドラマを感じ、引き出せるか  歌曲の演奏においては、理解するキャパシティがどれだけ大きいか、柔らかいかが問われる。そのためには様々な芸術的な刺激や経験が必要
ü  音を出す職人でいいの? アーティストになりたいよね!  色合い(音色)は十人十色でいい。それが個性というものだが、その色合いを豊かにできるか、繊細な音色を工夫して出せるかどうかが職人とアーティストの分かれ目。音楽に限らず素晴らしい作品や表現に触れる経験を通して感性を育てていくことが大切
ü  ハーモニーを聴き分ける  同じ旋律の繰り返しでも異なるハーモニーがつけられることによってニュアンスが変化する。ハーモニーの変化が曲全体を彩っているということを聴き分け、感じ取れなければ、作品の本質は理解できない
ü  暗譜できる頭脳構造を作ってくれた  自分の表現を作り出し、自分の音楽とするためにも暗譜は重要



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