軽井沢のほん  星野和彦  2016.6.11.

2016.6.11. 軽井沢のほん

著者 星野和彦 1931年東京生まれ。50年ミュージカル《赤い靴》演出でデビュー。戦後日本のメディア最前線を歩いてきた。ワイドショーの制作や、遠藤周作、安倍公房らのシリーズ、ドラマ《六本木心中》等を演出。60年パリ・ムーランルージュ演出のために渡仏、帰国後、芸術祭優秀賞、国際演劇月文部大臣賞など受賞。70年代にはSKDレビュー、ブロードウェイ・ミュージカル、ボストン美術館アート・イン・ブルーム等の制作演出、ディオールはじめ2000に上るファッション・ショーを制作、ファッション文化賞受賞。現在信濃祭りをテーマにフィールド活動している。映像学会、民放芸術学会所属。軽井沢在住

発行日           2004.7.28. 初版発行          2007.6.5. 第2刷発行
発行所           信濃毎日新聞社


²  道しらべ OLD/NEW
1.    「三笠」あたり
三笠とは、日本海海戦で勝った旗艦に因んでつけた説と、すぐ北側の愛宕山が奈良の三笠山に似ていたからという2説あり、定かでない
ü  三笠通り  旧ロータリーから白糸の滝へと抜ける落葉松道
ü  ローンパインの径  通称一本松から左へ入る径。古い別荘地の入り口
ü  細川レーン  徳川、細川公爵ら旧華族の別荘が並ぶあめりか屋式建築の宝庫。手前の財界人の家が並ぶ径を田辺レーンと呼んだ
ü  深山レーン  その時歴史が動いた径。第二次大戦の降伏交渉が行われた、元スイス公使館「深山荘」のある径。前田郷の奥
ü  前田郷の径  昭和初期、鉄道建設の元締め・前田栄次郎が業者の親睦のために作った茶室、オーディトリアム、貸別荘群がある。踊る少女像が乗ったレトロな門が印象的

2.    「愛宕山」あたり
19108月に9日間降り続いた雨は、矢ヶ崎から泥流となって旧軽商店街と外国人別荘を襲う。以後外国人たちは愛宕山麓から中腹に別荘を移転
ü  愛宕レーン  宣教師の別荘が多い愛宕山に向かう道。愛宕山参道を経てオルガン・ロックに至る。右に分岐しているのが賛美歌日本版を作った宣教師の「マクネア・レーン」と、子供たちに本物の音楽をと青少年音楽協会を創った「カニングハム・レーン」
ü  三井レーン  189925,000坪の三井三郎助の別荘ができた。三郎助は三泉寮を作り5,700坪を日本女子大に寄附、その前の道が三泉レーン。戦後皇太子の英語教師ヴァイニング夫人のために宮内庁が三井家から屋敷内の家を借りて提供。その別荘への道がヴァイニング・レーン
ü  峠道  明治天皇もこの道を巡幸した旧道商店街から熊野皇大社を通って坂本宿へ通じる道
ü  近藤遊歩道  二手橋の先の峠道から右へ入って聖沢を抜け見晴台に至るハイキング・コース。途中吊橋をかけ植林した近藤友右衛門に感謝して、町が鈴木大拙の「山深水寒」の頌徳碑を見晴台に建てた

3.    「旧軽井沢」あたり
中山道根腰3宿の1つ、軽井沢宿のあったあたり。実際はもう少し東側
ü  水車の径  聖パウロ教会の前を通る径。恋人たちの写真スポット。ひがな水車が回り、一面花畑だった
ü  旧軽銀座通り(または旧道通り)  旧軽のメインストリート
ü  テニスコート通り  軽井沢観光会館から軽井沢会テニスコートへの通り
ü  ロストボール・レーン  コートに金網のなかったころ、球探しの径だった
ü  オーディトリアム通り  外人はユニオン・チャーチをオーディトリアムと呼び、集会堂、テニスコートとともに文化活動の拠点とした
ü  お気持ちの道  かつて尾州徳川の別荘のあった川越石川沿いの道
ü  ヴォーリズ・レーン  ヴォーリズは1911年来軽、たくさんのバンガローを作る一方、近江兄弟社を設立、メンソレータムの普及に努める。近江兄弟社の寮とヴォーリズの別荘があった径
ü  浅間隠レーン  近江兄弟社の上の道。浅間が見えなかったことからついた名前
ü  桜の沢レーン  明治末、東京女子大、女子学院の創立に尽力したオーガスト・ライシャワーの別荘がある。駐日アメリカ大使エドウィン・ライシャワーはその次男
ü  ハッピー・バレー・レーン  川端康成の別荘があり、ここで堀辰雄は『風立ちぬ』の最終章「死のかげの谷」を脱稿

4.    「釜の沢・矢ケ崎」あたり
ü  万平通り  1894年初の洋風ホテル登場
ü  サナトリウム・レーン  天然の病院と言われた軽井沢に、1923年夏季診療所開設。3年後にはマンローを院長に迎え、軽井沢サナトリウムとなる。マンロー病院と呼ばれた
ü  フーガの径(堀辰雄の径)  今でもフーガが聴こえてきそう。1412のスミス別荘(堀辰雄の別荘)は軽井沢高原文庫に移築
ü  画架の森レーン  第1号の共同長屋式別荘。谷口吉郎デザイン
ü  新渡戸通り(イチョウ並木)  新渡戸の別荘があった。眺望に優れ、梅原や高畠達四郎、硲(はざま)伊之助などの画家村でもある
ü  大賀通り  大賀典雄が町に寄附したホールのある道

5.    「鹿島の森」あたり
ü  旧ゴルフ通り  名門旧軽井沢ゴルフクラブへの道。野沢源次郎が軽井沢のステータスを上げるため1921年に作った9ホール(現在は12ホール)6万坪のコースに始まる。バブル期は会員権が1億ともいわれたが、角栄が金を積んでも会員になれなかった
ü  御水端通り  昼なお暗い明治天皇御膳水となったゴルフクラブ下の湧水から水の流れに並行した通り
ü  ノーマン・レーン  「風俗のない軽井沢」のもとを作ったメソジスト派の宣教師ダニエル・ノーマンに因んだ道。軽井沢の村長さんと呼ばれて親しまれた
ü  近衛レーン  藤村の「草亭」の額が掛かっていた近衛別荘。いまではキング・アンド・クイーンと書かれた結婚披露の会場に
ü  鳩山通り  友愛精神を世に広め、共立学園を作った鳩山家は、軽井沢の鳩山でもあった
ü  雲場池通り  昔スワン・レークと呼ばれ、秋には紅葉池と呼ばれる人気スポット。野沢源次郎が御水端の湧水をせき止めて作った池
ü  野沢原通り  「買い物は軽井沢に於ける遊楽の一」と言われた野沢原マーケットがあった。軽井沢ショッピングの原点

6.    「新軽井沢」あたり
軽井沢本通り  駅から軽井沢宿を繋いだ直線道路。昔軽便鉄道と並走
碓井新道  峠の難所を避け、中尾山の中腹を通した新国道。30万人を動員、10万円でお釣りが来た。これにより青い鉄道馬車が走ることになった
プリンス通り  1924年堤康次郎によって作られた幅36ⅿの軽井沢で最も広い道。新軽井沢から地蔵ヶ原(今の72ゴルフ)まで、両側には芝が植えられ、人々はこれが道かと驚いた。翌年には軽井沢高原飛行場ができた

²  皇室と軽井沢
大和武尊が碓井の坂に弟橘姫を思い唄った昔から、皇女和宮の御降嫁を経て、避暑地軽井沢は、皇室とのえにし浅からぬものがある
1.    皇女和宮中山道をゆく
江戸降嫁の御触れ29か条には、「離山」を「子持ち山」に、「追分」を「相生宿」に、2階は雨戸を閉め目張り致すべき事、犬猫は遠方に繋ぎおく事等があった
1861.11.8.沓掛本陣泊。翌日軽井沢にて昼食をとり碓氷峠を下る
御所からの殿上人5000人、幕府からの出迎え5000人、助郷人足10300人、馬620頭、中山道最大の行列は3日間続いたが、この里で和宮を見たものは誰もいない

2.    初めて日の丸を見た
明治維新とともに参勤交代が無くなり、宿場は空前の不景気に襲われる
1878年 突然60項目の御触れが出て、明治天皇巡幸のために道路整備が義務付けられ、村人は全てを擲って使役に参加。役人に反発して一揆寸前まで行くが、次の難題は沿道に日の丸と提灯を飾ること。見たこともない日の丸を夜鍋で染め、提灯屋も大騒ぎ
イギリス式の儀仗兵による大パレードが村に文明開化をもたらす

3.    昭和天皇の大日向
戦前、窮乏のどん底にあった佐久の大日向村(現佐久町)に滿洲移民の話が持ち上がり、泣く泣く北滿洲吉林省に移住、困難を重ねながらも滿洲一の開拓村を作り上げる。その成功例を軍国日本の政策に取り上げ、「大日向村に続け!」として海外開拓団を進める
突然の敗戦にコレラもあって、半数の同胞を失い命からがら佐久に引き上げる。住む家もない彼らを軽井沢の人々が手を差し伸べ、1947年大日向地区への入植を手伝う。168人の帰還者が新天地での開拓に挑戦。「浅間山麓に、あの大日向村帰る」の記事を読んだ昭和天皇が現地を訪れ村民を激励。浅間山を正面に、大日向天皇巡幸碑が立つ

4.    プリンスの乗ったプリンス
72ゴルフ・クラブと昭和天皇とは度重なる因縁がある。皇太子の最初軽井沢はヴァイニング夫人の愛宕の別荘だったが、翌年からは11人で千ヶ滝のプリンス・ホテルに避暑に来られ、愛馬「白錦」でよく遠乗りをされた。プリンス自動車が第1号車を御所に献上、併せて皇太子の運転指導もすることになり、夏の軽井沢の地蔵ヶ原の飛行場で行われた

5.    テニスコートの恋
室生犀星(18891962)が「平凡きはまる」と断じたテニスコートで2人は結ばれる。学習院の同窓会や右翼が「神道とキリスト教は相容れないとして、異教徒の天皇家入りに反対したが、メディアとお二人のお人柄の前に沈黙

²  キリスト者の創った村
娯楽を人に求めず、自然に求めよ
宣教師たちの思想がそのまま投影したのが軽井沢。商業的にはかなり堕落したが、この街に風俗営業は存在しない。かろうじて清潔な避暑地の面目を保っている
1.    避暑地軽井沢の父アレキサンダー・クロフト・ショー
1886年 初めて軽井沢を訪れたのがショー。大塚山に別荘を作り毎年来訪。評判を伝え聞いた外国人、宣教師たちが涼を求めて別荘を建てるようになった

2.    ショーさんの銭袋
ショーは軽井沢に来る時、必ず日本銀行の判のある晒しの白い袋を肌身離さず持っていた
遊んでいた貧しい子供たちに、キリスト教伝道の聖句カードに、晒しの袋から取り出した5銭玉を添えて配ったという。当時の子供の小遣いは1/月程度だったので大金

3.    別荘第1号 ショーハウス
ショーの別荘は廃屋を買い取って移築したもの。木造2階建て。明治維により宿場の役割を終えた軽井沢には旅籠や商家の廃屋が多く、金持ちではない外国人宣教師にとっては絶好の物件。現在、ショーハウスはショー記念礼拝堂の右奥に移築、復元されている

4.    ウェストンの近代登山は浅間山に始まった
上高地をヨーロッパに紹介したウォルター・ウェストンは、それに先立つ18917月浅間山に登っている。「日本の活火山で一番見事な山」を4時間ほどで噴火口の端に着く

5.    玉葉事始め
発地、南石堂あたりで獲れるキャベツは実に美味しい。1893年外国人避暑客の指導により雨宮新田で栽培されたのが始まり。農民は玉葉(たまは)と呼んだ。東京でも評判を呼び、沓掛の玉葉屋は財を成し、大正期のキャベツ黄金時代を現出したが、大正末期にドイツから化学肥料を輸入、使用するようになって畑が疲弊、連作障碍も起きて、嬬恋や菅平にその座を譲る。戦後新種が開発され、再び軽井沢キャベツの全盛期を迎えた

6.    ユニオン・チャーチと善光寺
1897年 メソジスト派のバンコム等の呼びかけで、夏の軽井沢では宗派に拘らず合同基督教会としてユニオン・チャーチが誕生。善光寺も宗派を超えた寺として三国一を誇っているが、奇しくも軽井沢のこの教会も宗派を超えて存在。仏教とキリスト教に共通する信濃の不思議
間口12m、奥行き25m。これだけ大きな建物がなかったので、集会や演劇会など避暑地のいろいろな催し物に利用され、外国人は「オーディトリアム」と呼んで慣れ親しんだ
1918年 ヴォーリズの設計

7.    淳風美族の館
日曜日には三井家の庭で野外劇を楽しみ、水曜日には教会で音楽会をひらくのが外国人の避暑のライフ・スタイル
1908年にはテニスクラブを発展解消、庭球部、野球部、少年運動部、社交部からなる「軽井沢運動会」を組織、さらに日本人の別荘族を含めた「軽井沢会」に発展する
ヴォーリズ設計の軽井沢集会堂では、今でも夏の音楽会、講演会、ファミリー・コンサートなどが開かれ、日本の避暑地としては奇跡の淳風美族を保っている

8.    大正の「天ぷら耶蘇」
大正期の軽井沢で流行ったものに「天ぷら耶蘇」がある。表面はキリスト教信者だが、中身は違うのを称した。外国人宣教師の目的はあくまで布教にあり、大正中期宣教師たちの別荘は650を数え、彼らの説く道徳律はこの町の大きな財産になったが、中にはキリスト教徒にあらざる商人も出入りしたため、村人とのトラブルも絶えなかった
突然「キリスト教徒にあらざる商人の出入りを禁ず」との御触れが回り、住民は慌てて耶蘇の顔をし、表を閉めて裏で日本人同士商売をしていたが、夏の伝統的仏教行事はかなり衰微したと言われる
大正後期、日本聖光会やキリスト教各派の日本上陸も手伝い、地方の布教活動が強化され、まるで占領軍のごとき様相を呈していた
村人たちは密かに、この時代を「天ぷら耶蘇」の時代と呼ぶ

9.    結婚式の舞台になった教会
水車の道、聖パウロ・カトリック教会の挙式の条件は、①離婚的がない、②両親が賛成、③式に保証人が2人列席
教会での結婚式がファッション化、人口15,000の町に教会が25もある
宗教不在の日本的人生観、宗教観が、軽井沢のキリスト教ビジネスを加速させている

²  この人が軽井沢を
不毛の火山灰地・軽井沢を、恵まれた緑と風の里に変えたのは、志ある日本人だった
外国人宣教師たちは、貧しかったこの町のインフラには無関心で、道を通し、落葉松を植え、ハイカラ趣味の村落を目指した先人たちがいた
1.    初めて洋服を着た佐藤萬平
佐藤はショーとともに来軽。亀屋主人・佐藤と養子國三郎は、夏を亀屋で過ごした帝大教授ディクソン夫妻から洋風の食事、生活様式を学ぶ
1894年 外国人宣教師による軽井沢会議発足にあわせ、萬平は紅殻格子2階建ての亀屋を大改装、軽井沢初の洋式ホテル・MANPEI HOTELを開業
1899年には、青い応接間のあった軽井沢ホテルが、旧本陣・佐藤熊六によって創られる
1906年には、山本直美により軽井沢の鹿鳴館と呼ばれた三笠ホテルが開業

2.    雨宮敬次郎は軽井沢の自然を創った
中央線の始まり甲武鉄道、湘南の伝説江ノ電、文明開化の東京市街鉄道、みな明治の鉄道王、雨宮敬次郎の仕事
結核になって観念した雨宮は信州長倉村(現軽井沢町)の開墾地に居を移す。1876年渡米して西部開拓の風景を目の当たりにし、軽井沢の原野に夢を託した。墓場だけは立派に残したいと、浅間の原野に農場や牧畜をしたが悉く失敗、最後に試みたのが落葉松の植林
1883年から始めた植林は1906年には700万本になり、落葉松の軽井沢となった
「学問がないから実験をする。私の人生は実験の歴史だった」と言ったという

3.    ハイカラ趣味を目指した野沢源次郎
「六本辻」こそ、野沢が、オスマンにより整備されたパリの都市景観に啓示されて作った街づくりの第1歩、延長100kmに及ぶ道づくりの始まり
大正期の日本で最も先端的な、モダン住宅を建てていた東京のあめりか屋を誘致し、次々と高級別荘を建設するとともに、天皇の侍医・青山博士の面識を得て上流社会に近づき、別荘の分譲をして、避暑地軽井沢に上流社会を形作っていった
セント・アンドリュースからコース設計の専門家を呼んで作った旧軽井沢ゴルフ場など、野沢の徹底したハイカラ趣味、ブルジョア趣味を物語っている
一方では、お水端をせき止めて雲場池を、野沢原にはマーケットを開設
驚くことにマーケットは今日の業態を先取りした東京有名店のテナント方式で、お茶は山本、食品は明治屋、缶詰は國分、和洋菓子は風月堂等々

4.    土地付き500円別荘の堤康次郎(18891964)
1917年 突然乗り込んできた29歳の青年・堤が山林原野の開発を申し出、村民の喧々諤々の議論の末に、60万坪を3万円で売り渡す
沓掛から千ヶ滝に道路を作って定期馬車を走らせ、山林を伐採して街づくりを始め、新しい集落を作り上げる
土地付き500円別荘の大売り出しはたちまちにして完売
鬼押し出しの奇観にも着目、国から80万坪を坪5銭で払い下げを受け、「世界の3大奇勝、鬼押し出し」という観光資源の誕生となる
さらに、ホテル、旅館、遊園地を整備し、循環バスを走らせ、バスには当時まだ珍しかった女性に制服を着せて車掌とし、異常な人気を呼ぶ
南軽井沢にも着目し、地蔵ヶ原に競馬場、飛行場、ホテルを作って事業化、ついに軽井沢民有地の1/3を手中にする

5.    自然と共生した歴代 星野嘉助(1933)
湯川のほとり、赤岩の弱アルカリ性美人の湯に目を付けたのが2代目星野嘉助。当時、酸性草津の湯で疲れた肌を直すと言われ、帰途必ず立ち寄る人気の湯がいまの星野温泉の湯
彼は製紙業、製材業を捨て温泉と緑という自然の恵みに商売を特化して今日の礎を築く
文化面でも「ニセ赤い鳥事件」と言われた鈴木三重吉と称した偽物の宿泊を逆手に、芸術自由教育講習会をバックアップ、オガクズのひかれた材木小屋から大正デモクラシーの風を起こした
1921年の第1回講習会には、藤村、白秋、山本鼎、弘田竜太郎、内村鑑三、鈴木三重吉といった錚々たる人材を揃え、ここから白秋の『落葉松』が生まれ、弘田は『千曲川旅情の唄』を作曲
間口4間、奥行8間の材木小屋は、内村により「星野遊学堂」と名付けられ、今日の軽井沢高原教会へと発展、さらに軽井沢のガウディと呼ばれるケンドリック・ケロッグ設計による石の教会内村鑑三記念堂につながる
中西悟堂等との交友を通じ、自然保護への意識を高め、エコリゾートの星野のカラーを打ち出す。当代嘉助は「ピッキオ」の活動を通じて自然そのものの魅力をエンターテイメント化し、28万坪に及ぶエリアに、星野遊学堂、内村鑑三記念堂、ブレストン・コート、村民食堂、とんぼの湯、別荘群と魅力ある施設を展開し、地元資本によるエコツーリズムの担い手として注目を浴びる

6.    エコ・ツーリズムの父 中西悟堂
詩人であり、歌人であり、日本野鳥運動の父・悟堂の言葉:「人間の傲慢な思い上がりは、人間を滅ぼすことを銘記しなければいけない。樹木に対しても人間は謙遜に改むべきだ」
毎年星野温泉に泊まって、浅間山麓の動植物、鳥類の調査研究を続け、この地が富士山麓に次ぐ野鳥類の宝庫であることを世に訴え続けた
リゾート活動と自然環境の共生を目指した今日の星野リゾートの理念は、先代が悟堂に私淑した結果
1973年には、星野温泉東側の国有林100haが、国から「野鳥の森」に指定され、ナナカマド、ニシキギ、サクラなど、野鳥の「エサ木」が多数植えられた

²  浅間根腰(ねごし)の三宿
1602年 徳川の5街道整備に伴い、中山道540km69宿が定められ、軽井沢宿、沓掛宿、追分宿が誕生。宿場には伝馬50匹、人足50人の常備が義務付けられ、本陣、脇本陣を定め、枡形を築いて防備した
参勤交代の大名行列、佐渡金銀の御用運び、小千谷の御蝋継ぎ送り、鷹の幼鳥送り、飛脚中次ぎ、飯盛女目当ての遊客と、宿場は煩多を極めたが、明治維新とともにあっさり終幕
1.    宿場のエロティシズム
江戸川柳千句に見るさんざめいた宿場のエロティシズム
石臼を やめて客引く 軽井沢
かるい沢 膳の半ばへ すすめに来
飯よりも 盛りびと強いる 軽井沢
軽井沢 太夫燃えたつ 茜(あかね)うら
去る程に 恋も布団も 軽井沢
二手橋で ゆうべのあまと いき別れ

2.    天明の浅間押し
1783.7.8. 11:00am 浅間の大爆発。熱泥流が100km/hで鎌原の宿を襲う。噴火からわずか14分だった。熱泥流は、吾妻川を下り利根川まで達したという
最大の被害は鎌原で、全118戸が流失、牛馬165頭、死者477人、観音堂に逃げた93人だけが生き残る
噴火は9月末には落ち着き、残された者たちは新たに30の家族に作り直して復興に立ち上がり、以来220年、鎌原の人々は毎日観音堂に詰めて堂守をし、参詣者のもてなしを続けている。78日には「浅間山噴火大和讃」を唄い供養している

3.    追分宿・飯盛女のこと
旱魃で口減らしのため売られたり、善光寺詣での途上巾着切りに掏られて親が娘を置いて行ったり、境遇は様々だが、全盛期、文化の頃には追分には43軒もの飯盛女を抱えた旅籠があり多忙の春先には1人が1か月に26日も客の枕を務めたとある
宿場女郎、出女、道中女、浮かれ女、くぐつ女等、呼び方はいろいろだが、みな飯盛女(食売女)のこと

4.    元祖追分節 馬子唄から座敷唄へ
古来、交通の要衝だった浅間3宿には多くの馬と馬喰たちがいた
特に中山道と北国街道の分岐点、追分宿は、馬喰の客引所であり、休息所でもあった
古宿にある信濃第1の巨大な馬頭観世音を見れば、この地の人と馬の関係がよくわかる
馬喰の仕事歌が馬子唄で、やがて飯盛女に歌われ座敷唄となる
いずれも追分節で、馬子唄の趣を残した油屋派と、座敷唄となった永楽屋派の2つの唄法が伝えられる
毎年7月の最終日曜日「追分馬子唄道中」を開き、かつての宿場町の賑わいを再現

5.    あの頃の旅芸人
三河万才、絵解き、越後ごぜ、猿まわし、飴屋、浪花節、義太夫、講談、踊り連

6.    笑い坂
佐久、岩村田の若者たちは、官能の誘いに耐えられなくなると、遥か追分宿にやってきたが、追分宿に近い坂を誰いうとなく「笑い坂」と呼ぶようになった

7.    女街道または姫街道
江戸期、女人は碓氷峠を避け、和美峠から地蔵ヶ原を横切り、油井、釜ヶ淵を渡り、借宿を通って中山道本道に出たが、この道を女街道または姫街道と呼んだ
女旅の安全を願い、多くの野仏が建てられていたところから、地蔵ヶ原の名が生まれた
1966年 散在する石仏を1か所に集め供養したのが発地の地蔵群

8.    3匹の宿場狐
狐が化けて出る話がいくつもある

²  軽井沢を文学する
1.    浅間山を詠んだ歌
古来、浅間山は恋の枕詞
我が思い 浅間の嶽に あらぬ身の こひの煙は 人なとがめて 新葉集 前中納言為忠
あさましや 浅間のたけも 近ければ 恋の煙も 立ちやそふらむ 李花集 宗良親王
雲はれぬ 浅間の山の 浅ましや 人の心を 見てこそやまめ 古今和歌集 平忠興
いつとてか 我が恋やまむ 千早振る 浅間の嶽の 煙絶ゆとも 拾遺和歌集 紀貫之
恨みても しるしなけれど 信濃なる 浅間の山の あさましき君 
新撰六帖題和歌 喜撰法師

2.    堀辰雄『美しい村』より
病と同性愛の遊び人と言われたプルーストに傾斜していた頃の作品

3.    切なき思ひぞ知る 室生犀星文学碑
再生は厳しい寒さに閉ざされた冬の軽井沢を愛した
大塚山にささやかな日本風の庵を建てひっそり暮らし、長い間病床にあった妻とみ子の墓碑を兼ね、矢ヶ崎川の畔、二手橋の上に、生前みずからの手で文学碑を建てた

4.    落葉松 北原白秋
1921年 白秋はこの『からまつ』の詩によって長いスランプを脱する。からまつの静謐で、控えめな風の音を聞き、人の世の哀れを感じ、わが身を思った

5.    遠雷 田中冬二
詩集『晩春の日に』では、恋する2人にとって絶好の舞台である軽井沢をの甘い抒情が心を高ぶらせる

6.    碑 文
19236月 有島武郎(46)と波多野秋子(30)は、三笠の浄月庵で縊死。知的ピューリタンと言われた武郎も、青学卒で『男女貞操論』を引っ提げて中央公論記者となった秋子の華やかな美貌と才気、奔放な肉体を前に脆くも精神が破綻、愛欲に溺れていく自分に絶望、秋子の夫からの1万円で譲るとの要求を拒絶し、死の代償を覚悟したという
1954年 弟の有島生馬により終焉の地に碑が建てられた

7.    川端康成『高原』より
樅の木が描かれているが、軽井沢では初夏によく強烈な雷に襲われる。樅の木を震わし、停電をもたらすので、ろうそくと懐中電灯は別荘の必需品

8.    吉田絃二郎『旅人の心』より
宗教家を志し、軍人となり編集者となり、教師となり、作家となった吉田は、センチメンタルな心に充ちた運命論者。自然主義的な筆致の中に、彼の流転と死の悲しみが、軽井沢の自然に反射した一文がこれ。儚い運命への想いが、当時の文学青年、文学少女から絶大な支持を集めた

9.    のちのおもひに 立原道造
追分の夏をこよなく愛した立原の詩集『萱草(わすれなぐさ)に寄す』
本陣油屋で頬を撫でる風を楽しみ、師・堀辰雄のもとに通いながら、この高原の村を魂の故郷としたが、僅か25歳で早逝

²  ああ廃線紀行
1.    碓氷峠廃線まで114
1883年 碓井新道の開削開始
1886年 馬車通行可能に。 88年 碓井馬車鉄道開通(所要時間2時間30)
1893年 500人の犠牲を払ってアプト式蒸気機関車開通(所要時間1時間16)
1912年 ドイツから電気機関車導入
1963年 アプト式廃止。 66年 全線複線化(所要時間45)
1997年 北陸新幹線開業(高崎―長野間)で、信越線横川―軽井沢間が廃線
棄てられた26のトンネル、18の煉瓦のアーチ橋、旧軽井沢駅舎は、新幹線駅北口に

2.    青い鉄道馬車が行く
8893年 全長18.87km14往復、運賃40銭、幅50cmのレールを走る青いフランス製鉄道馬車は、峠の四季の彩りに映えた

3.    1800万個の煉瓦が使われた碓氷峠
1891年 全長11.2kmのアプト式鉄道工事着工。一番長い第3橋梁は90.8m、碓井川川底から31m、材木で枠組みをしながら煉瓦を積み、アーチに大きな切り石を入れ、そこからさらに材木を斜めに組んで張り付けていった
塩沢に塩沢煉瓦製作所が造られ、専用の引き込み鉄道が敷設、大車輪で進められ、僅か2年で完成したのは驚異

4.    アプト覆(かぶ)りの火夫たち
横川駅から、仲間内で「アプト覆り」と呼んだ、覆面姿の火夫たちが乗り込み、蒸気機関車に石炭を焚き続ける。汽車の通過したトンネル入り口には大きな幕を引き、煙の逆流を防いだという

5.    地理教育鉄道唱歌 
~ 4集北陸地方より 詞・大和田建樹、曲・吉田信太、納所弁次郎
これより音にききゐたる         碓井峠のアプト式
歯車つけておりのぼる           仕掛けは外にたぐひなし

くぐるトンネル26                ともし火うすく昼くらし
いずれは天地うちはれて         顔ふく風の心地よさ

夏のあつさもわすれゆく         旅のたもとの軽井沢
はや信濃路のしるしとて         見ゆる浅間の夕煙

くだる道には追分の              原とよばるる広野あり
桔梗かるかや女郎花              秋の旅路のおもしろや

6.    熊の平の山津波
1950年 軽井沢と横川の中間、熊ノ平の山峡に異様な音とうねりで7000㎥の土砂が襲う。夜来の土砂崩落に保線作業をしていた300人の鉄道関係者と家族が流され、70人余が生き埋めに。峠一帯は浅間山の火山灰や軽石の体積で土砂崩れが多かった
旧熊の平駅に殉難の母子像が建つ

7.    7哩に26のトンネルなれば
1893年の読売新聞の記事:7哩に26のトンネルなればまるで地下鉄。トンネルに入っては車窓を閉じ、出ては車窓を開く。ほとんど乗客をして繁忙堪えざらしめる。乗客の困難はさのことながら、機関車員の困難に至っては名状すべからず

8.    ケイベンも消えた
1928年 「草津よいとこ」の草津節が日本中の人気を呼び、ケイベン(草津軽便鉄道)は軽井沢から桃源郷への乗り物として全国に知れ渡る
62年 バス路線と国鉄長野原戦に負けて廃線に

9.    東洋唯一の高原電車 上る山道四千尺
新軽井沢から草津まで、ケイベンの車掌は女の子の憧れの的
2462年 アメリカ製電気機関車は、やたらとパンタグラフが高く、架線から外れたり折れたり、特に脱線事故が多かった
石炭の火の粉をまき散らして走ったので、沿線に年中山火事を起こしていた

10. 日本初の総天然色映画 カルメン故郷に帰る
国産第1号のカラー映画は、軽井沢発初めてのカラー映画でもあった
フィルム感度が低かったため、ずらり並んだ反射板のせいで、女優の髪にボヤが発生した

11. 僕は駅が大好きだ

²  建築家の残したもの
1.    ウィリアム・メレル・ヴォーリズ(1880年カンサス州生まれ)
アマチュア建築家と言われ、建築工学に対する弱点を、精神哲学で補ったという
軽井沢合同教会、軽井沢集会堂、軽井沢診療所(マンロー病院)、テニスコート、クラブハウスなど、宣教師の町、軽井沢にふさわしい清潔で、禁欲的な建物を数多く設計

2.    アントニン・レイモンド(1888年チェコボヘミア生まれ)
軽井沢のシンボル、聖パウロ教会を設計、1933年夏の家(現ペイネ美術館)などの別荘を建てる
軽井沢式と呼ばれた設計は、磨かれていない丸太や不揃いの板を、柱や床や雑作材にわざと使い、木材の自然で温かみのある雰囲気を醸しだした

3.    吉村順三(1908年本所生まれ)
皇居新宮殿、奈良国立博物館、国際文化会館、八ヶ岳高原音楽堂、軽井沢では脇田和アトリエ、カニングハムハーモニーハウスなど19の作品を残す
旧軽の空中別荘は、湿度の高い旧軽を逆手に取り、自然と共生、建物の外観はプランの結果としてあるのではなく、より積極的に風景をよくする役割を果たしている

4.    明治バイリンガルの先駆け~ハウス・ナンバーと明治44年館
外国人の言葉に戸惑った郵便局が知恵を絞ったのがハウス・ナンバー
初めは旧道を中心に東西南北の4区に分けて番号を付けたが、別荘の急増とともに14(小坂善之助)から680(三笠ホテル)の通しナンバーとなり、さらに現在の番号に変わる
軽井沢郵便局は1889年、欧文電信取扱所の看板も掲げられ、局員は外国語のわかる職員としてエリートの誉れ高かった。1911年には佐久地方唯一の2等郵便局となり、国際的避暑地にふさわしい洋館に変わった。現在塩沢にある明治44年館、深沢紅子 野の花美術館こそが明治バイリンガルの先駆け 軽井沢郵便局の今

5.    ものがたりはベランダから
出会いはいつも別荘のベランダから始まる
ベランダは別荘に欠くべからざる空間、社交サロンや応接間にもなる積極的機能がある
高原特有の俄雨や、深い霧からも守ってくれる
屋根付きのベランダがつくようになったのは、明治末期、第2期軽井沢バンガローの時代から

6.    暖炉という装置
ヴォーリズもレイモンドも吉村も暖炉に拘る
煙突は土管に始まり、トタンになり、石積みとなったが、土管煙突のレトロな風景は、雑木林によく似合う

7.    あめりか屋の舶来趣味が大正の軽井沢をつくった
和洋混交の明治期の別荘に対し、大正期にははっきりそれとわかる洋式造別荘が建てられたが、野沢源次郎によって東京から誘致された「あめりか屋」の仕事
スレートの急勾配の屋根、外壁は粗い漆喰とアメリカのシングル板やイギリス下見板、白い格子の引き違い開窓、それに煉瓦の煙突がついたら、大正のゼネコン「あめりか屋」そのもの
1916年から始まる野沢組の土地分譲に合わせ、鹿島の森近辺には、徳川、細川、津軽、近衛などの別荘が次々に建てられた
現在、離山の旧アメミヤ庭園に保存される市村記念館(近衛別荘)、三笠の田中角栄の別荘などもあめりか屋による洋式木造別荘

8.    軽井沢アーキテクト・ツアー
日本の近代建築を探訪する絶好のフィールドが軽井沢
前述のほか、岡田時太郎の三笠ホテル、清家清の軽井沢プリンスホテル、菊竹清訓のセゾン現代美術館、ケンドリック・ケロッグの内村鑑三記念堂、原広司の田崎美術館、東利恵のとんぼの湯、谷内田章夫のオーナーズヒル軽井沢クラブハウス、ジャン・ヴィルモットのメルシャン軽井沢美術館、久米権九郎の万平ホテル、アルプス館などがある

²  アクア・ビューを歩く
浅間の伏流水が各所に顔を出し、多彩な表情と形を見せる
1.    白糸の滝は女性である
70m、高さ3mの優美なそうめん滝。幅の広さでは信濃一

2.    竜返しの滝は伝説である
漁師を吸い込んだと言われる滝壺は、竜をも恐れさせ、水神様の栖(すみか)と伝えらえる
高さ10m、幅3m、昔は数段に渦を巻いて落ちた滝だったと言われる

3.    千ヶ滝は信仰である
滝の傍らに千ヶ滝不動尊が祀られる
高さ20m、かつては土石流の災害をもたらしたが、今は静かに端正を保つ
滝に至る4kmの遊歩道「せせらぎの道」は、体にとても良い道

4.    血の滝は男である
アララギ派の詩人、島木赤彦はここで喀血
源流は無色透明だが、鉄分を含んでいるため、空気に触れて酸化し、赤水となる
滝の傍らには洞窟があり、江戸の頃から浅間修験道のメッカ
上に血の池弁財天が祀られ、紫色のトリカブトが群生

5.    スワンレーク・雲場池
善光寺道名所図会によると、ここにはいつも丹頂鶴が舞い降りていたと記録されている
今は鴨の池、四季折々の表情に優れた散歩池
沼だったところを野沢源次郎がお水端御膳水の湧水、雲場川を堰き止めて風景化した

6.    タリアセン・塩沢湖
碓氷峠の鉄路建設の折、塩沢には煉瓦工場が出来たが、開通とともにお役御免となり、莫大な借金を背負う
1960年 所得倍増の掛け声とともに、大規模な別荘開発計画が持ち上がったが、塩沢の人々はこれを拒否、どぶ田に水を引いて塩沢湖を作る
折から「スケートの軽井沢」は異常人気となり、天然結氷の塩沢湖にも観光バスが殺到、集落は異様なスケート景気に湧く
スキーに奪われた後はテニス村に変わるが、いつも移り気な都会人に泣かされてきた
いま塩沢湖は、タリアセンの核として、文化とレジャーの池
タリアセンとは、ウェールズ語で「輝ける額」 ケルト神話に由来し「知恵者」であり芸術を司る妖精「タリエシン」からきた

7.    ニュータウン・レマン湖
1960年 軽井沢南の湿地帯60万坪を買収し、新しい町づくりとしてレーク・ニュー・タウンの開発計画が始まる。1万坪の低地を掘り下げて人造湖を作り、その土を湿地帯に入れて別荘地にするという一石二鳥の構想。フランス・ロアール地方のシューベルニー城を模したデパートを作り、なぜかトーテム・ポールがタウン・シンボルだった

8.    スノーアクア 矢ヶ崎山
195台の造雪機の雪が15ものコースを小さな里山に作る
かつて軽井沢人みな既遊(きゆう)の里山と言われたこの絶景峰、外人たちがプロスペクト・ポイントと呼んだ矢ヶ崎は、今信州で一番早くスキーの楽しめるスポーツ・アクアの山

9.    命の水 矢ヶ崎川
三笠通りに並行する精進場川とともに、旧軽井沢市街の水道水源になっている
二手橋付近では伏流水となってあまり水の流れを見ることはできない
1910年の大水害では、天明の浅間山大爆発でたまっていた火山灰や軽石を一気に飲み込み、二手橋から中山道に溢れ、奔流となって別荘や商店街を土砂で埋め尽くした
この矢ヶ崎川氾濫を機に、外人の別荘は愛宕山山麓に引っ越した

10. 山藤の里 湯川
昔、川の中に湯が湧いていたので「湯川」であるという俗説がある
湯川で今も昔をとどめているのは、小瀬林道沿いのハルニレ林の辺り
イワナ、ヤマメなどの魚影があり、水辺にはクレソンが自生。晩春の両側の谷の山藤は素晴らしい
長倉神社から湯川橋までの1.8kmが「ふるさとの川モデル河川」に指定され親水公園が造られつつある

11. 土屋権十の御影用水
江戸初期、佐久平の農事のために、千ヶ滝と湯川から取水して開拓した歴史的に貴重な用水堰
1759年の大水害に、身を投じて堰を守り、帰途狼に襲われて命を失った堰守土屋権十が、用水の守護神となり、小さな社が星野温泉近くに建っている
今御影用水は、セゾン美術館の庭を巡り、追分の宿を流れて、水辺の小景を創る

²  アート・リゾートである
1.    セゾン現代美術館
20世紀モダン・アートの巡礼地と言われ、現代美術の創成期から、第2次大戦後の全盛期、それに呼応した日本の前衛まで、メガトレンドが系統的に収集されている
ホモ・アートに興味のある方は、ジョージ・シーガルのゲイ・リベレーションを見るべき
アンディ・ウォーホルの毛沢東も好きだが、庭の立体が素晴らしい

2.    田崎美術館
田崎廣助の描く山には、たたえる自然とともに、精神と神秘があふれ、洋画のキャンパスに日本の風土がしっかりと根を下ろしている
浅間山もいいが、四季折々の阿蘇の山並みが好きだ
信州の山に拘った原広司設計の建物は、1987年日本建築学会賞を受賞

3.    脇田美術館
戦後の混乱の中に大人のメルヘンを描き続けた脇田和の美術館
緑の木立の中の典雅な色彩の音楽と評された画家の全貌が伝わる
吉村順三設計によるアトリエや、ウィングの色彩が楽しい

4.    ペイネ美術館
2次大戦で疲弊したフランス人の心の隙間に登場したのがペイネのハート
50年代のパリには、絵葉書から劇場の緞帳にまでペイネのハートがあった
21世紀の今、パリのペイネは姿を消し、アンディーヴと軽井沢にある

5.    深沢紅子 野の花美術館
旧軽銀座通りにあった旧郵便局―明治44年館2階にある
軽井沢を愛した深沢の花の水彩画美術館。軽井沢らしい癒しの空間
堀辰雄の挿絵、津村信夫の装丁やカット、さらには立原道造との親交など、軽井沢の文士や詩人たちとの深い交流があった

6.    軽井沢絵本の森美術館
"自然との対話をテーマに森から生まれたメルヘン『グリム童話』を初め、森の妖精たちの絵本、絵本史の代表的作品、世界絵本賞受賞作品などを展示
どうした訳か雨が降ると観客が多いという

7.    エルツおもちゃ博物館
水のおもちゃで世界的評価を得ているドイツ・エルフ地方のおもちゃの館
佐久景観賞の外観がいい

8.    ル・ヴァン美術館
1920年西村伊作は、軽井沢で与謝野寛・晶子夫妻石井柏亭らと話し合い、翌年、東京駿河台に女子学院を創設
「小さくて善いものを」「高価なものより美しいものを」という伊作の思想を具体化した文化学院誕生時の校舎を再現したのこの美術館

9.    軽井沢高原文庫
軽井沢ゆかりの文壇人の足跡をたどる
堀辰雄の1412号別荘や、野上彌生子の書斎であった茶室もある
毎夏裏庭で開かれる高原文庫の会は、別荘族人気の文学サロンでもある

10. メルシャン美術館
ルーブル美術館の改修を手掛けたフランスのジャン・ミシェル・ヴェルモットの設計による瀟洒な美術館。フランス美術館連合からの企画展が中心
館蔵品を持たず企画展のみという面が魅力でもあり欠点でもある

このほか、軽井沢草花館、型絵染美術館、軽井沢町資料館、追分宿郷土館、堀辰雄文学記念館などがある

²  軽井沢の祝祭
1.    初詣
峠の熊野皇大神社には、上州と信州2つの礼拝所が用意され、お札所も県境を隔てて向かい合う。お札は上州側は熊野神社、信州側は熊野皇大神社
旧道の諏訪神社では、大きな御幣でお祓いを受け、護符をいただき境内で甘酒のただ振る舞いをいただく
中軽の長倉神社、追分の浅間神社、借宿の遠近(おちこち)宮など

2.    熊野皇大神社の御田遊び(16日深夜)
農耕祈願の神事で、今年の収穫物の吉凶を占い、晴雨を占う

3.    大日向のどんど焼き
雪化粧の浅間を背景に7,8mはあるダイナミックなどんど焼き。今年の無事を祈る

4.    杉瓜のどんど焼き
平積みのどんど焼き。残り火で餅を焼いて食べる。成人の日前後

5.    草越の寒の水
御代田町の草越の集落では、赤い褌の男たちが大寒の水をかぶっては走り抜け、最後は鎮守の熊野神社に詣り、藁の冠を納める
酷寒の夜、冷水をかぶって除災と健康を祈願した御岳修験道に始まった行事
120日夜

6.    氷まつり 軽井沢ウィンター・フェスティバル
矢ヶ崎公園の前に氷彫刻作品が並ぶ。テーマはその時々
この町と氷の因縁は深い。軽井沢の天然氷は透明度が高く、つやのある所から油氷(あぶらこおり)と呼ばれた地場産業、第2次大戦後のスケートブーム、アイスホッケー、冬季オリンピックの後はカーリングと続く
こうした氷の歴史を踏まえ、1969年から始められたのが氷まつりで、氷彫マンが腕を競う
1月下旬

7.    北軽井沢の炎の祭り
氷点下15℃、極寒の浅間山麓に数千本の炎が弧を描く
天明の鬼押し出しを横目に、浅間火山博物館の前の2kmが舞台
蝋燭の11本に祈りが刻まれ、山の神に捧げられる
2月上旬

8.    若葉まつり
若葉は5月に入ってから
熊野皇大神社の春祭りでは、神職が三座の太々神楽を奉納
4月下旬から6月上旬

9.    安政の侍マラソン
日本最古のマラソン「安政の遠足(とおあし)」のゴールが峠の熊野皇大神社鳥居前
1855年 安中藩主・板倉勝明が藩士の体力増強を願い、安中城から碓氷峠の上まで77(29.17km)の中山道を走らせた。この記録をもとに復活したのが侍マラソン
当時の時代風俗を再現したコスプレで走る
5月初旬

10. 佐久バルーン・フェスティバル
3日間で5回のタスク(競技)を行う
2日目の夜は、バルーン・イリュージョンでバルーンがライトアップされる
5月上旬

11. ジーロ・デ・軽井沢
ビンテージ・カーによるタイムラリー形式のレース
2日間で300kmのコースを設定
5月下旬

12. テニスまつり 軽井沢ペンション・フェスタ
町内60面のコートで競う
男女混合のダブルス3種目で、優勝賞品は世界一周旅行
6月第1土日

13. イングリッシュ・ロ―ズ・フェスタ
2003000株が軽井沢タリアセンに咲き乱れるバラの祭り
英国人デビット・オースチンによって創られた花
6月中旬から7月上旬

14. 追分馬子唄道中
追分節保存会の人々による馬子唄を先頭に時代行列
軽井沢最古の杜・追分浅間神社から枡形の茶屋つがるやを折り返す約1時間のお練り
7月 第4日曜日

15. 4つの夏花火
シーズン初めの「レークニュータウン」は、別荘族歓迎のしるし
「長倉」は、祇園信仰につながる疫病除け
「諏訪の森」は、峠の釜めしや駕籠舁()きが定番となっている素朴な仕掛け花火。別荘族とのお別れの花火
「矢ヶ崎公園水中花火」は隠れファンが多い
7月中旬から8月下旬

16. 真楽寺の竜神まつり
長さ45mの日本一の竜が、大沼池の畔で開眼の後勇壮な竜神の舞を披露
「諏訪大明神御本地縁起」にある、甲賀三郎伝説を再現
7月末

17. ショー祭
軽井沢ナショナル・トラストが中心となって開く、アレキサンダー・ショーを称える町民の集い。ショー記念礼拝堂にて
81

18. 軽井沢国際親善パーティ
1959年から、毎年県と町の共催で開催
10回国会で成立した軽井沢国際親善文化観光都市建設法、前後して施行された軽井沢町売春取締条例、1958年の軽井沢町の善良なる風俗維持に関する条例をにらみ、明治以来のインターナショナルな良風美俗を維持していこうという稀なパーティ
8月第2土曜

19. 軽井沢ラヴ・ソング・アウォード
愛をテーマにした公募オリジナル曲の音楽祭
4月に公募、9月に公開グランプリ・コンサート。グランプリには賞金100万円

20. 紅葉まつり
軽井沢の紅葉は色鮮やか。ニシキギ、ナナカマド、浅間ベリーに始まり、ヤマザクラ、ドウダンツツジ、モミジでクライマックス
六里ヶ原から千ヶ滝、白糸の滝、ハッピーバレー、雲場池、タリアセンと降りてくる
追分ではキノコ祭りが開かれ、キノコ汁が振る舞われる
熊野皇大神社では収穫感謝の秋祭りで太々神楽の奉納がある
10月上旬から11月初旬

21. クリスマス・タウン軽井沢
矢ヶ崎公園、軽井沢町、旧道ロータリーのシンボル・イルミネーションを軸に、町中のホテル、ペンション、町並みも加わっての光のコンテスト
一番人気はクリスチャン・センターの恵みシャレー
11月下旬から12

²  主観的食卓の森
1.    恋人たちのレストラン
ü  離山のベルンの森
ü  塩沢通りのエンボカ
ü  中軽駅前のア・ラ・ガールは、本格カレーの店。南インド直送のペーストを使う
ü  星野リゾートの村民食堂は、堀辰雄『美しい村』からのネーミング
ü  ザ・カウボーイ・ハウスの唐辛子スープでアメリカンな気分
ü  バイパスのシャレーは、真面目で家庭的な、煮込みビーフ・シチューがお薦め
ü  プリンス通りのウィングのリゾット・イタリアンは定番
ü  アンドレ・パッションの味そのままのビストロ・パッションが旧道にある
ü  バイパスの風雅は、パイプオルガンのある、ゆったりした空間
ü  東雲のプリマベーラのフランス料理は、拘ったヌーボーな味

2.    家族のレストラン
ü  中華では、旧道のあっさりした榮林、赤坂飯店のオーソドックスな献立、長倉の四川亭のちょっぴり辛い四川湯麵や雲片肉
ü  焼肉では、肉屋をバックにした離山鉄庵、本場オンドル部屋のある南大門、近江牛専門の中軽ろぐ亭、添加物なしのハム・ソーセージなら新軽のフレスガッセ、腸詰屋
ü  イタリアンでは、六本辻のトラットリア・プリモ、ビストロ・ポモド-ロ、チーズ・フォンデューなら軽井沢本通りのアトリエ・ド・フロマージュ
ü  家族のおやつには、峠道を登って、5軒の力餅屋を食べ比べるのも楽しい
ü  信州郷土料理では、新軽の民芸風三喜に名物鯉と馬刺し
ü  寿司では、新軽の彌助鮨か、ちょっと変人の中軽奴寿司
ü  鶏料理では、テニスコート通りのわかどりのとりわさ丼やむしり
ü  和食では、オゴッソの伊那のぎたろう軍鶏すきや高原野菜、親爺のサービス精神が名物
ü  萱葺きの田舎家を楽しむなら、魯山人も訪れた追分の草亭で囲炉裏を囲む

3.    大人のためのレストラン
ü  全国の食通が集まるエルミタージュ・ド・タムラ。西麻布ラフェドールのオーナー・シェフ田村良雄夫妻が2000年に移住して始めた
ü  和食は、万平ホテルにある、長坂町の三井家から移築した桧館の熊魚庵 たん熊。京都たん熊の本格的京料理を味わえる
ü  大人の焼肉ならバイパスの一龍。黒のシックなモノトーンの内装。石焼ビビンバは最上

4.    こだわりの蕎麦
ü  南軽井沢の東間は、蕎麦を座敷の料理として演出、大人の予約客のみ。主人・東間弘幸
ü  塩沢通り入口の志な乃。主人・丸山之雄
ü  望月春日の職人館。主人・北沢正和
ü  古典的な蕎麦に拘るかぎもとや
ü  若いメニューの川上庵
ü  追分宿には、焼酎に拘るささくら
ü  蕎麦饅頭なら追分そば茶屋
ü  佐久岩村田の磊庵はぎわら

5.    緑陰のティー・タイム
ü  ミカド・コーヒーのモカ・ソフト
ü  本場ブラジルからその年のベストを仕込む丸山珈琲
ü  水出し一筋の旦念亭
ü  追分ハンドピック珈琲のカワンルマーは、卸も兼ねる
ü  茜屋は高いが美味いケーキが食べられる
ü  レトロ趣味には、万平ホテルのカフェ・テラスのココア
ü  ブレストン・コートのロビー・カフェも贅沢な空間
ü  ホテルそよかぜのテラスも粋
ü  文学少女向けにはタリアセンのライブラリー・カフェ一房の葡萄
ü  堀辰雄文学館の帰り道には学舎ごんざ
ü  クラシック好きにはシェイクスピアの生家を模したロータリーの珈琲歌劇
ü  ビートルズ好きにはジョン・レノンの通った離山房
ü  ミステリー好きには女街道軽井沢の芽衣
ü  絵とアイルランド雑貨と花の庭が迎えてくれるのはミス・アナベラ
ü  花好きには野の花美術館のソネット
ü  軽井沢緑陰カフェの第1位は、六本辻のカフェ・ラフィーネ。厚さ日本一のトースト。主人・窪田隆

6.    別荘族の食材探し
ü  軽井沢デリカテッセン  本格派ユダヤ人仕込みの店。売り切れの場合は腸詰屋へ
ü  ジャムこばやし  沢屋、白樺堂、中山農園もあるが、やはりこばやし
ü  パン  石窯焼き天然酵母に拘るブランジェ浅野屋、1g1円で量り売りする軽井沢レザン、ジョン・レノン贔屓のフランス・ベーカリーのバケットもいい、ショーさんにパン焼きを習ったという山屋、イギリスパンは農協通りの銀(しろがね)亭にとどめを刺す
ü  サンクゼール  信州のスイス、三水村のサンクゼールが旧道に出店。農場タルタルソースは勝れもの
ü  柏倉  テニスコート通りの花豆赤飯と山菜おこわ
ü  竹風堂  ロータリーにある栗おこわの定番
ü  ミカド・コーヒー  バック入りアイスティー「ミスティー」は日本一の味
ü  白石青果店  旧道入口近く、創業60年。スーパーにない野菜は白石へが合言葉
ü  アトリエ・ド・フロマージュ  東御市の名店が軽井沢本通りに。毎日作り立てのチーズが11種類並ぶ
ü  佐藤肉店  町内のホテル、レストランに納める軽井沢唯一の肉専門店
ü  パティスリー・シェ・カジワラ  季節限定ケーキがいい
ü  ル・レガラン  ロータリーにあるクラシックな味好み
ü  つるや  地元の魚屋が発祥で、魚貝類の仕入れにうるさい
ü  ヤオトク  新軽にあって遅くまで開いている。酒が揃う

7.    食卓篇Yellow Page

²  ご利益を探す
平安、鎌倉の頃から、貧しい山懐の軽井沢にはいろいろな土俗信仰があった
仏のいない世界に住んで、人々を導いてくれるという地蔵信仰を始め、現世、来世の七難を免れる観音信仰等々
1.    ご利益を探す地図
2.    歯痛(はいた)
追分・泉洞寺の墓所。堀辰雄の愛した樹下の石仏として有名。歯痛地蔵として信仰

3.    (いぼ)
油井の烏明神。明神様の石で220回なでると落ちると言われ、治ったら倍の石を奉納する

4.    麻疹(はしか)
馬取から神津牧場への分かれ道にある大峯神社に詣でる

5.    水子
御代田真楽寺の23mの大水子観音像。1400年前に用明天皇の発願で建てられた真楽寺は浅間山の総鎮守にもなっている。「2遷、3火、1(引っ越し2回、火事3回、水害1)」を受けたがびくともせずに偉容を誇る
水子地蔵は、旧道の神宮寺、長倉の宝性寺にもある
今では水子も減って子育て地蔵と言っているが、杉瓜外れの小さな双体子育て地蔵もいい

6.    子孕(ばら)
子供の欲しい人は、馬取の尾根の裾にあるオシンメイ様に詣でる。男根様ともいいわれ、祠の中に男性のシンボルの形をした石のご神体がある

7.    安産
借宿の遠近(おちこち)宮。昔軽井沢一帯は遠近の里と言われ、産土(うぶすな)の神として、磐長姫命(イワナガヒメノミコト)が祀られた
姫神であることから安産の神として信仰を集めた
下発地の大聖寺にある如意輪観音も、安産祈願の象徴、十九夜様として妊婦の尊崇を集めている
女性の十九夜講は、発地、杉瓜、茂沢、古宿、借宿などで行われている安産の祈りである

8.    浮気
下発地の密蔵院。ご本尊の不動明王は、煩悩と悪魔を打ち砕くシバ神であることから、浮気鎮めに大変良く効く
密蔵院は、家屋新築の時の地鎮、除災などのご利益もある

9.    勉強
泉洞寺境内に4体の勉強地蔵がある
西区の小学校が出来るまで、この辺りの子供たちは泉洞寺学校に通っていたという縁起もあって、学業増進、入学祈願のお地蔵さんとして所を得ている

10.
かつて長倉の牧の果てだった杉瓜の里に馬守として祀られたのが杉瓜観音
町内では最も味のある観音堂

11. 金運
妙義山中之嶽にはお金の神様、大国主命だいこく様が祀られている
厄祓いの剣を手にした珍しい姿で、金銭開運をもたらす

12. 商売
岩村田湯川の畔の鼻顔(はなづら)稲荷こそ、商売第一の神様
清水の舞台に似た参籠(さんろう)殿、拝殿、本殿と続く赤い懸崖(けんがい)造りの社殿がありがたい

13. 往来
借宿にある中山道第一の大きさを誇る馬頭観世音
1日に1000頭近くの馬の往来があったという宿場の村人たちが馬の供養と往来の安全を願って建てた
追分宿郷土館の入り口にも立派な馬頭観世音の文字塔がある

14.
「離山の三ッ面さん」と言われている町内第一の石仏。3つの頭で3方を睨み旅人を守って
くれた馬頭観世音
桂首相に献じるために現在地に移されたが、もとは二手橋の上にあった軽井沢宿の守り神

15. 長生き
ポンポン坂への登り口の左側にある小さな霊符神社
昔から寿命の神様と言われ、長生きの霊験あらたかと伝えられる

16. 大往生
ピンピンコロリという願いを込めて野沢・成田山参道にピンコロ地蔵が建立された
月に1度参道にピンコロ市もたつ

17. 発地の地蔵群
女街道、地蔵ヶ原一帯に散在していた石仏を1964年に集め、合祀したのが発地の地蔵群
軽井沢町指定文化財

18. 馬取の八十八観音
観音信仰は現世利益の色が強い
苦しい生活の中から馬取の人々が、多くの石仏を建立し、祈って暮らした昔が偲ばれる
江戸後期、百姓一揆や打ち壊しの頻発した頃の作が多い
軽井沢町指定文化財

19. 茂沢の五輪塔
古代交通の要衝であった茂沢の五輪塔の意味は、死者の供養、自己成仏の願いがこもる
室町時代後期のものが多い
軽井沢町指定文化財

20. 湯の丸の百体観音
ご利益の石仏の極め付けが東御市新張から旧鹿沢温泉に至る湯の丸登山道の百体観音
12kmのけもの道に100体あり、この山道を辿って湯治場へ
湯治場は病院で、傷ついた武田武士の隠し湯だった
町石と呼ばれている百体観音は、聖、千手、馬頭、十一面、准底、如意輪など様々で、1番の如意輪観音や100番の先手観音は250cmの大きな石仏


²  参考文献
文献名
著者・編者
出版社
町誌 軽井澤
泉喜太郎編
私刊
文壇資料軽井澤
小川和佑著
講談社
足で書いた浅麓だより
渡辺重義著
私刊
かるゐざわ
佐藤孝一編著
国書刊行会
軽井沢の昔語り
軽井沢町中央公民館
 
軽井沢・想い出のあの頃
幅北光著
郷土出版社
碓井アプト鉄道
中村勝実著
(くぬぎ)
軽井沢三宿の生んだ追分節考
小宮山利三著
信教出版部
近代を耕した明治の起業家・雨宮敬次郎
三輪正弘著
信毎書籍出版センター
避暑地軽井沢
小林収著
(くぬぎ)
異空間軽井沢
堀井正子著
オフィス・エム
軽井沢物語
宮原安春著
講談社
軽井沢文学散歩
水沢邦嵩編
軽井沢観光協会
軽井沢120
軽井沢文化協会編
(くぬぎ)
軽井沢避暑地100
中島松樹編
国書刊行会
軽井沢別荘史
宍戸實著
住まいの図書館出版局
草軽電鉄の詩
草軽電鉄刊行会
郷土出版社
軽井沢街道の歴史と文化
土屋長久編
軽井沢郷土研究会
軽井沢町誌・歴史編・民族編
軽井沢町誌刊行委員会
 





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