ブラッドランド――ヒトラーとスターリン 大虐殺の真実  Timothy Snyder  2016.5.9.

2016.5.9.  ブラッドランド――ヒトラーとスターリン 大虐殺の真実 上・下
Bloodlands: Europe between Hitler and Stalin     2010

著者 Timothy Snyder 1969年生まれ。歴史学者。イェール大教授。専門は近代ナショナリズム史、中東欧史、ホロコースト史。97年オックスフォード大Ph.D

訳者 布施由紀子 翻訳家。大阪外大英語学科卒

発行日           2015.10.20. 初版第1刷発行
発行所           筑摩書房

上巻:ホロコーストといえば、アウシュヴィッツに象徴される強制収容所でのユダヤ人殺害を思い浮かべるだろう。その数500万とも600万ともいわれるが、それはヒトラーとスターリンによる犯罪の犠牲者のほんの一部でしかない。事件は、ドイツでもソ連でもなく、両者に挟まれた不幸な地で起こった。意図的な飢餓、強制労働、放火、銃殺、ガス殺に至るまで、ありとあらゆる手段で民間人が虐殺されたが、彼らは死者にすら数えられていない。
ウクライナ、ベラルーシ、ポーランド、バルト3国。ドイツとソ連の双方から二度三度と侵略され、翻弄された流血地帯(ブラッドランド)。この地で起きた未曽有のジェノサイドの全貌が、今初めて明らかにされる
世界30か国で刊行、アーレント賞はじめ12以上の国際賞を受賞した歴史ノンフィクション、ついに刊行
下巻:ドイツとソ連に挟まれたブラッドランド(流血地帯)は、第2次大戦において最大の民間人犠牲者を出した。だが、その犠牲者の全貌が明るみに出されることはなかった。ヒトラーとスターリンがこの地を舞台に虐殺を繰り広げている間、欧米諸国は意図的にそこから目を逸らし続けてきたためだ。そして戦後もなお、冷戦構造に至る過程で事実は隠蔽・歪曲され、さらなる犠牲者を生むことになる――
証言者なき殺人の証拠を求めて、犠牲者たちの手紙や日記、教会に刻まれた最期の言葉まで掘り起こし、歴史家が執念で辿り着いたのは、政治的にあまりに不都合な真実だった
20世紀最大の愚行とその悲しみをリアルに描き出し、数多くの新聞雑誌が年間ベストブックに選出。全世界から圧倒的な讃辞を集めた歴史書の金字塔


まえがき――ヨーロッパ
ナチスとソ連はわずか12年の間に1400万人を殺害、すべて殺害政策の犠牲者であり、女性か子供か高齢者で、戦闘任務に就いていた兵士は含まれていない
ここに書くのは、政治的意図のもとに決行された大量殺人の歴史
犠牲者本人や家族、友人の声を伝えていくと同時に、殺戮に手を染めたもの、殺戮を命じた者の証言を引き出す
1951年、ナチスとソ連の政権を比較した政治思想家、ハンナ・アーレントは、「真実性そのものが存在し続けるためには、非全体主義世界の存在が不可欠である」と書いた
1944年にモスクワでアメリカの外交官、ジョージ・ケナンは同じことをもっと簡潔に表現。「ここでは、何が真実で何が嘘かを人が決めている」
ナチス・ドイツとソ連は、歴史そのものを支配しようと目論んだ
全く異なる基盤の上に打ち立てられ、守られる歴史がなければ、ヒトラーとスターリンの正当化が生き続けることになってしまう。その基盤とは何か。現実に起こったことを歴史的に理解し、犠牲者の人文地理学から観察する。流血地帯の歴史を全体としてひとまとめにしてみ、ナチス政権とソヴィエト政権とを結びつけ、ユダヤ史とヨーロッパ史を、そして民族、国家の歴史を綴じ合わせることを目的とする

序章 ヒトラーとスターリン
両政権の誕生と両者の出会いの起源は第1次大戦  ヨーロッパ旧来の帝政という支配原理が突き崩され、国民主義というあやふやな概念がとってかわるとともに、新しい国家が事実上何もないところから建設され、多数の民間人の集団が単純な技術によって強制的に移動させられたり抹殺されたりした
同様に重要なのは、この戦争によってグローバル経済が破壊されたこと
敗戦の中から立ち上がった最も重要な政策ビジョンは共産主義の社会改革構想
1917年ロシア革命の後、レーニンはドイツの秘密兵器として、ドイツによってスイスの亡命先からペトログラードに送り込まれ革命を起こさせてロシアが戦争から撤退するように仕向けられた。革命は成功し、18年初めにはレーニンの新政権がドイツと平和条約に調印、ベラルーシ、ウクライナ、バルト諸国、ポーランドがドイツの支配下に入る。ただレーニンは、やがてドイツが西部戦線で敗北し、ドイツ国内で労働者の革命が起こるだろうと予言、それが実現するとボリシェヴィキはベラルーシとウクライナを手に入れたが、バルト諸国――フィンランド、エストニア、ラトヴィア、リトアニア、ポーランドは共和国として独立してしまう。この中ではポーランドが群を抜いて大きく、東欧のパワーバランスに決定的な変化をもたらす。100年ぶりに国境を接しなくなった独ソ両国にとってポーランドの存在そのものが緩衝剤となり、それがモスクワとベルリンの双方を苛立たせた
ポーランドとドイツの国境は満足いく形で決められたが、東部国境の問題は棚上げされたため1920年にかけてポーランドとボルシェヴィキ(多数派)の間に国境を巡る戦争が勃発
20年 ベルリンに向かう赤軍はワルシャワでポーランド軍に敗退するが、ウクライナ赤軍の将校だったスターリンの判断ミスが原因  結局ベラルーシ人とウクライナ人の暮らしていた地域は、ボリシェヴィキ・ロシアとポーランドで分割され、ポーランドは多民族国家となった。ヨーロッパの中でユダヤ人が最も多く住み、ベラルーシ人とウクライナ人が2番目に多く暮らす国
ヴェルサイユ条約は、古くからのヨーロッパの伝統に反して、敗戦国は講和会議の席に着くことを許されず、条約に調印する他に選択肢がなかったところから、条約を遵守する義務を感じたドイツの政治家はほとんどいなかった
条約は、連合国が掲げた民族自決という戦争目的とは矛盾した内容となり、連合国から味方とみなされた民族(ポーランド人、チェコ人、ルーマニア人)がより多くの領土を獲得し、国境内により多くの民族的少数派を抱え、敵とみなされた民族(ドイツ人、ハンガリー人、ブルガリア人)はより少ない領土を与えられ、より多くの自国民が他の国々に分散して残る結果となった。東部戦線がまだ戦闘状態にある時点で、西側で条約の交渉・調印が行われたので、新たな戦後体制にはどこか現実に即していない点があった
21年 ポーランドとボルシェヴィキ・ロシアとの間で平和条約が結ばれ、戦後処理は本当の意味で完了。分割されたウクライナとベラルーシはそれから何年にも亘って紛争の火種としてくすぶり続ける
ドイツは独力で戦後体制に終止符を打つことを目指すしかない状況に追い込まれる
レーニンは、革命を達成し、敵である資本主義者からそれを守るためには、権力を中央に集中させなければならないと考え、他の政党の活動を禁止して政敵を弾圧するとともに、多様な民族の存在を認め、民族を新しい共産主義者像の一部に組み入れ
ボリシェヴィキが戦争で穀物を徴発したため、深刻な食糧難を引き起こし、2122年の間に数百万人が飢えとそれに関連した病気で死亡。ボリシェヴィキはこの経験から、食糧が武器になることを学ぶ
スターリンがレーニンから学んだことは、断固たれ、ということ
農村経済から工業経済へと転換するにあたり、必要な当初資本を農民から「余剰収穫物」を取り上げることによって調達しようとした
大恐慌の余波から、農業の集団化、国家統制下に集約することを目的に、市場に代わる社会主義的政策の導入を発表
ヒトラーは扇動家、周囲の組織を拒絶することにより政治家としての実績を積んでいった
ほかのドイツ人との共通点を強調、ヴェルサイユ条約の条項に反感を抱き、かつては自らの支配地だった国境の東に自分たちの運命を見て、ある種の執着を感じていた
23年 ムッソリーニの「ローマ進軍」の成功に憧れ、ミュンヘンで国家革命を企てるが失敗
崇拝するムッソリーニと同様、共産主義革命の脅威を使って自分たちの支配体制を擁護する一方で、共産主義政策の様々な側面を模倣
ヒトラーは釈放後、ドイツ共和国とある種の妥協をし、議会政治に参加。大恐慌で共産主義革命の高まる不安を逆手にとって、その流れをナショナリズムに振り向けようとし、国会選挙で徐々に得票を伸ばし、32年には37%の支持を得て第1党となる
世界的な経済崩壊に対し、自由民主主義が人々を貧困から救えそうになかったこの時期、スターリンとヒトラーは、問題の根が農業分野にあって、解決には国の大規模な介入が必要であり、国が徹底した経済改革を実行できれば、新しい形の政治体制が強化できるはずと考え実行に移した  スターリンの集団化政策に対し、ヒトラーの農業政策は東方に帝国を建設することを目的としていた。ポーランドとソ連の農民から肥沃な土地を取り上げ、彼らを奴隷化し、ドイツから農民を輸出しようというもの
ヒトラーとスターリンの改革構想の重点は、何よりもまず両国に挟まれた地域、ウクライナに置かれた  両者が政権を掌握している時代、ウクライナでは全世界のどこよりも多くの人が殺された

第1章        ソ連の飢餓
1933年は、西側世界にとって飢餓の年  特にウクライナでは、32年に完了したスターリンの5か年計画が、国民の苦悩と引き換えに工業の発達を実現、農民の多くが都市を目指したため働き手がいなくなって農地が疲弊
富農(クラーク)階級を撲滅し、31年には特別居留区と強制収容所を1つのシステムに統合した「グラーグ」によって農民の大規模な強制移住が始まり、近代化のための大運河や鉱山施設、工場の建設に送り込まれた
32年夏にはカザフスタンで100万人が餓死
同時期ウクライナでも、餓死の報告が上がりながら放置するどころか、集団化政策を一層徹底し食糧を国家管理下に置いた。この最中スターリンの妻がピストル自殺
スターリンは、割当量の穀物を納められない自作農、集団農場は、他社からの製品、生産物の入手を一切禁じられ、サボタージュ行為が疑われる党活動家や農民に対し処刑を進め、さらには摂食拒否を自らに対する攻撃あるいはポーランドと繋がりのある民族主義者による陰謀と見做して断固飢餓を放置したため、餓死者が急増。カニバリズムが発生
大量飢餓や大量死にまつわる最低限の情報は、ヨーロッパやアメリカの新聞でも時折報じられるが、明快な論調には欠け、ヒトラーですらマルクス主義体制を非難するに留めた
署名記事で取り上げたのは1人のみ、ニューヨークタイムズのモスクワ特派員で32年ピュリツァー賞を受賞したデュランティですら、それをでっち上げとこき下ろし、何百万の餓死を知りながら飢餓が高次元の目標に貢献したという立場を貫こうとした
フランスの急進社会党の党首がキエフを訪問した際には、視察ルートが共産党活動家によって整備された結果、帰国後「ウクライナの集団農場は秩序正しく管理された庭園だった」と報告、プラウダも喜んで彼のコメントを報じた
3310月 アメリカはソ連を正式に承認

第2章        階級テロル
スターリンの集団化政策とそれに続く大飢饉は、ヒトラーの登場によって影が薄くなる。ドイツのナチ化に不安を感じたヨーロッパの人の多くは、モスクワと手を結ぶ道に希望を見出そうとしていた
ドイツでは、ソ連と違って農民ではなくユダヤ人を、利益を独占しているとして収奪の対象とした
ヒトラーの台頭に対し、スターリンは「階級対階級」の闘争に区切りをつけ、新たらしい路線へと転換、ソ連と世界各国の共産党が「反ファシスト」の旗印のもとに左派勢力を結集する
37年 ソ連共産党内にはスターリンの反対勢力は見当たらなかったが、それが却って彼には敵が潜行する術を身につけた証拠と見え、「行動や思想によって社会主義国家の結束を脅かそうとする者は誰であろうと容赦なく抹殺する」と宣言し、国家警察NKVDを使って次々に政敵に突拍子もない濡れ衣を着せて見せしめのための処刑を進める
3437年 ヒトラーもまた暴力によって、力の行使に必要な機関――党、警察、軍――の支配を強めていった  ヒトラーの粛清は、ドイツで法の支配が機能するかどうかは、指導者の気分次第であることを明確にした
スターリンが粛清によってソ連軍を恫喝しようとしたのに対し、ヒトラーは実際に軍の最高司令部が脅威と感じていたあるナチス党員を殺すことにより、将軍たちを手なづけた。それはナチスの準軍事的組織だった突撃隊の隊長レームほか数十名を、同じく準軍事組織だったヒムラー率いる親衛隊に抹殺させたことで、直後にヒンデンブルク大統領が死去すると、軍はヒトラーの国家元首昇格を支持
3738年 階級や民族を理由に数十万の命を奪ったスターリンによる大粛清  集団化にも飢饉にも、そして多くが強制収容所にも耐え抜いたクラークが粛清の対象として狙い撃ちされた。18か月間で378,326人が処刑
3638年 ナチスのテロルもおおむねに多様な形で進められた  政治的に分類された社会集団の成員を、その集団に属しているという理由だけで処罰。真っ先にやり玉に挙げられたのが「反社会的な」集団で、同性愛者、路上生活者、アルコールや薬物依存症の者、働く意欲のない者など。ただしソ連と違って拘禁が主で処刑までは行なわれなかった
スターリンの場合は、特定の階級だけでなく、国内のある民族を敵とみなして大量に銃殺する作戦を、ヒトラーより先に世界で初めて実行

第3章        民族テロル
3738年 ソ連共産党指導部が民族浄化作戦の基本方針として、「民族的少数派に属する者は、跪かせ、狂犬のように撃ち殺せ」と言い、60万のポーランド人を対象に約25万人が民族的背景を主な理由として銃殺された  ポーランド軍事組織がスパイとして潜入しているというでっち上げが理由として使われた
大テロル期の全処刑件数681,692のうち、123,421件がウクライナで執行
3の革命ともいえるもので、心の変革をもたらす
NKVDのトップが次々に更迭され、後に前任者は処刑された
大テロルの大量殺人が始まったころのNKVDでは上級職員の約1/3がユダヤ人だったが、1年後には4%に激減、ロシア人が取って代わった
大テロルはユダヤ人のせいだと言われるが、ユダヤ人をスケープゴートに仕立てたのはスターリンで、その後にユダヤ人を処刑してしまえば、誰もその責任を問えないというのがまさにスターリンの巧妙なやり方そのもの
38年 ミュンヘン会談でチェコのドイツ人居住地域をドイツに割譲することに合意  国家への忠誠と民族意識が結びついていたことからくる自然の成り行き
ドイツでは、35年ニュルンベルク法を成立させ、ユダヤ人から参政権を奪い、血統によってユダヤ人の度合いを決めた
39年 スターリンはイデオロギー上最大の敵であったヒトラーに対し、驚くべき姿勢を見せた  ヒトラーはユダヤ人共産主義者とは絶対に和解しないと誓い、ソ連の外務人民委員リトヴィノフをユダヤ名で呼んでいた(本当にユダヤ人だった)が、スターリンは彼を解任してモロトフを後任に据える。2233年には資本主義のドイツと良い関係にあったわけだし、スターリンにはヒトラーが「旧来の勢力均衡を排除したいという共通の願い」を持っていることが分かっていた
両政権は即座にポーランドの抹殺を目論んでいるという共通項を見出し、不可侵条約を締結するとともに、その裏でリッベントロップとモロトフが秘密議定書を取り交わし、東ヨーロッパ(フィンランド、バルト3国、ポーランド、ルーマニア)における両者の勢力圏を明確に決めていた
399月 赤軍が日本軍に勝利、スターリンはソ連がドイツ、ポーランド、日本によって包囲されるのではないかという強迫観念から解放され、直後にポーランドに侵攻、ドイツ国防軍と落ち合ってポーランドを巡る合意に達し、境界友好条約に調印
ドイツがポーランドの半分をソ連に開放したことにより、ポーランド作戦で行われた凄惨極まるスターリンのテロルが、ポーランド国内でまた繰り返されることになった

第4章        モロトフ=リッペントロップのヨーロッパ
境界友好条約に従って両国は、399月相次いでポーランドに侵入し、ソ連はいち早く2か月で併合を完了。計算され、等級に分けられた暴力を常習的に行使することによって、ソ連はポーランド人をすでに確立した体制に押し込むことができた。新体制に危険をもたらす恐れのあるポーランド人139,794人は特別居留区に強制移住させられ、多くの人々が命を落とした
ヒトラーの方は、チェコを併合したばかり。これほど多くの非ドイツ人が暮らす地域を併合したのは初めてだったが、「ドイツの民族性」に反するものはすべて排除、異人種的要素を徹底して封じ込めた。そのうえ、ユダヤ人の排除という目標がイデオロギー上もう1つの優先事項とされた。最初の強制移住の対象は128,111人のポーランド人。3940年のヨーロッパの異常寒波で多くが亡くなる
ドイツのAB活動(特別平定活動)と呼ばれた大量殺人作戦では、「ドイツの安全にとって危険な人物」というだけで反逆罪となり処刑されたが、40年に強制収容所が開設されてからはそちらに送られた
41年 ドイツのソ連侵攻とともに、ポーランドとソ連は一転してドイツと戦う羽目になり、ソ連は各地の収容所に拘束されていたポーランド人をかき集めてポーランド軍を結成させようとしたが、ポーランド政府ですら消息不明の将校が多数いことをその時になって初めて知らされる

第5章        アポカリプス(黙示録)の経済学
バルバロッサ作戦を機に、流血地帯の歴史は第3期に突入
第1期        3338年 ほとんどはソ連によるもの
第2期        3941年 独ソが手を携えほぼ同数を殺害
第3期        4145年 ドイツによる政治的な殺人が大半
フランス革命やナポレオン戦争の最中に啓蒙思想の理性理念が政治の場で実現され、そこから近代化が始まったとされるが、独ソ両政権とも、社会は自然科学の歩みとともに進歩するという啓蒙思想の楽観主義を拒否し、19世紀末のダーウィニズムによる修正を受け入れ、進歩は起こり得るが、それは人種間、階級間の強烈な闘争を経て初めて実現すると考えた
ヒトラーもスターリンも、19世紀のイギリスが残した2つの大きな遺産に直面――1つは世界政治の中核としての帝国主義、もう1つはイギリスの無敵の海軍力。両者が相俟って世界システムを構築していたため、両巨頭とも大英帝国の存在とイギリス海軍の絶対優位を受け入れたうえで、自分たちの帝国を築こうと考え、広い領土と経済の自給自足を目標とした
ソ連侵攻後、ドイツはソ連占領地の国民を飢餓に追いやったが、侵攻によってソ連からの食糧供給が途絶えたドイツでは限られた食糧を国民と軍が奪い合う羽目になり、ドイツ兵は必要な食糧を現地調達することに迫られた
ドイツ軍が締め付けを強めれば強めるほど、その支配下にある人々が飢える確率は高くなり、特に戦争捕虜収容所は未曾有の規模の殺戮場となった

第6章        最終解決
41年後半の東部戦線でのヒトラーの野望が挫かれると、政策の失敗をカムフラージュするかのように戦争目的を変更し、ユダヤ人の身体的絶滅を最優先事項に据えた
41.9. ドイツ国防軍の南方軍集団が、大都市に生まれ育ったユダヤ人住民を全員殺害しようという試みを初めて進める  退却時にNKVDによって仕掛けられた時限爆弾によりドイツ兵が殺害されたのが引き金で、その責めをユダヤ人に転嫁
スターリンは、ドイツ侵攻の報復としてソヴィエト・ドイツ人438,700人をカザフスタンに強制移住という挑発的態度をとる
41.10. ヒトラーによる台風作戦  ドイツ・ユダヤ人の東方への強制移送が開始され、移送先のゲットーの収容スペースを開けるための大量殺人方式が、各地で連鎖反応を呼ぶ
ヒトラーの言う最終解決が最終的にどういう形をとるのか、その輪郭はある程度見えてきていた  モロトフ=リッペントロップ線の東側で始まった最終解決という大量殺人は、西へ広がろうとしていた
ヒトラーのユダヤ人殺害という決断は、自らの東方総合計画の挫折によって、強制移送による最終解決に必要な広大な領土を確保できないことをはっきり認めた形となったために相矛盾することがはっきりした  殺害という選択肢しかなくなった

第7章        ホロコーストと報復と
41.11. ミンスクでドイツがとった政策は、暴力的で予測のつかないテロル
42年後半には、ドイツの対パルチザン作戦とユダヤ人の大量殺害の区別がほとんどつかなくなった

第8章        ナチスの死の工場
ドイツ占領下の地域でなくアングロ・アメリカったユダヤ人はおよそ540万人。ほぼ半数がモロトフ=リッペントロップ線の東側で、ほとんどが銃殺、一部ガスによって殺され、残りは西側でほとんどガスガス、一部銃弾によって殺害
西側で虐殺の中心となったのは「ラインハルト作戦」  ヒトラーの願望をヒムラーが自分なりに解釈したところから始まり、ソ連人捕虜に対しておこなわれたガス殺実験の成功に目を付け、それまでの奴隷労働施設をガス殺用の特別施設に転用、そこに「安楽死計画」(身障者などを「生きるに値しない」と断定して安楽死させた政策)の終了で職を失ったスタッフを呼び入れたが、その方式が各地に広がっていく
ワルシャワの北東100kmにあるトレブリンカのガス室では総計780,863人が殺されたが、ラインハルト作戦全体では130万人のポーランド・ユダヤ人が犠牲となった
トレブリンカは解体され、農場として復活するが、そのあとを担ったのがドイツに併合された旧ポーランド、アウシュヴィッツ郊外に1940年に建設された施設  当初強制収容所として建設され、敵国から獲得した領土をドイツの企業に与えそこで奴隷労働を使ってドイツの戦争経済に必要な製品を生産するという植民地経済のモデルケースにしようとした
アウシュヴィッツでの殺害の対象は、ポーランド以外の地から移送されたユダヤ人
44年に入ると、赤軍の接近によりラインハルト作戦の施設を閉鎖せざるを得なくなり、アウシュヴィッツが最終解決の主要な舞台となる
アウシュヴィッツのガス室から生還した人は1人もいないが、同名の強制収容所から生還した人は10万人以上にものぼる。ラインハルト作戦の死の工場の内容を目撃したのち生き延びたユダヤ人労働者は100人に満たないが、トレブリンカでさえ僅かな痕跡を残した

第9章        抵抗の果てに
2次大戦中のワルシャワでは、ポーランド人もユダヤ人も同じような形で孤立していた。いずれも相手の存在に気づいていながら、戦後世界では孤立
ドイツによる侵攻の当初から、それぞれが極秘武装蜂起計画を持っていた  ポーランド地下軍事組織とユダヤ人軍事連合
43.1.ワルシャワのゲットー解体時、ユダヤ人が武力を使ってドイツ人に公然と抵抗したことは画期的事件  ユダヤ人は戦わないという反ユダヤ主義的固定観念を強く揺さぶり、4月のドイツ軍によるゲットー襲撃へと発展
43.4. ゲッペルスがカティンでポーランド人将校の遺体を発見、NKVDがポーランド人将校を大量虐殺したと告発
ワルシャワのユダヤ人が蜂起したことで、ワルシャワ内外で暮らす多くのポーランド人もまた、国内軍による武装抵抗というより決定的な形での抵抗を目指す
44.7.  ポーランド政府は長期に亘って「嵐作戦」として抵抗の準備を進めてきたが、ワルシャワ国内軍に、時機を見て蜂起を開始する権限を与え、8月には蜂起したが、ほどなくドイツ軍により制圧され、以後赤軍が対岸に滞留している間に、特に戦闘員を遥かに上回る数の民間人の大量虐殺が行われた

第10章     民族浄化
スターリンは、ワルシャワ回復後のポーランドに対し明確なビジョンを持っていた  ポーランド人の国とし、ポーランドの共産主義者たちが国内の民族的少数派を一掃することを期待
45.5. ポーランド共産主義政党の中央委員会が、領内のドイツ人の一掃を決定  600万人のドイツ人が赤軍の襲撃を逃れて避難していたが、うち100万人ほどがポーランドの自分たちの家に戻ってきていた
チェコスロヴァキアではベネシュ大統領が、戦時ヨーロッパで最も明確にドイツ人の追放を主張。当時国内には全人口の1/4、約300万人のドイツ人がいた
ドイツ人を対象とした民族浄化がポーランドの新領土で始まったのは終戦の頃だったが、民族浄化自体は、ソ連が戦争中にモロトフ=リッペントロップ線以東の旧ポーランド東部で着手していた政策の一部
ポーランドは厳密には戦勝国だったが、戦前の国土の半分近くをソ連に取られてしまったところから、その地にいたポーランド人は「自主帰国」に加わった  住民交換協定が結ばれ、ソヴィエト領に編入されたベラルーシ、ウクライナ、リトアニアから1,517,983人がポーランド人としてソ連を去った
ソ連はスターリンの下で、革命的なマルクス主義国家から多民族帝国へと進化したが、旧来通り国境地帯や民族的少数派の動静には懸念を抱き続けていたため、革命期の公安機関を受け継いだことによりこうした懸念を暴力的な形で噴出させることが可能となり、特に国境地帯の住民を標的とした民族浄化へと移行
実質的には絶え間なく民族追放政策が行われてきたおり、449月にはウクライナやベラルーシ、ポーランドと同じ理屈を遥かに大きな規模でポーランド国内に暮らすドイツ人にも当てはめた  最大の犠牲者となったドイツ人はポーランドで760万人、チェコで300万人に及ぶ。これに戦中ソ連国内で強制移住させられた90万人などを加えると、戦中戦後に家を失ったドイツ人は1200万人を超え、意図的に大量死を狙ったものではなかったにせよ、戦後最大の民族浄化事件だったといえる  4347年に赤軍が戻ってきたことによって引き起こされた民間人同士の抗争、逃避行、強制移住、再定住の最中に亡くなった人の数は、ドイツ人が70万、ポーランド人が15万以上、ウクライナ人が推定25万、民間ソヴィエト人は最低でも30
カフカス人やクリミア人は1人残らず連行、強制移住

第11章     スターリニストの反ユダヤ主義
48年 スターリンはユダヤ人反ファシスト委員会議長でモスクワ国立ユダヤ劇場の監督だったミホエルスを殺害
スターリンの息子でドイツの捕虜となって死亡したヤーコフはユダヤ人を妻としていたし、娘のスヴェトラーナの初恋の人もユダヤ人の俳優だったが、スターリンはイギリスのスパイと見做してグラーグへ送る。スヴェトラーナの最初の夫もユダヤ人で、スターリンは無理やり離婚させてジダーノフの息子と結婚させた
スターリンは70に近い歳になって後継者問題に悩むとともに、ユダヤ人に対する態度も変化し始めていた
ミホエルスの死後、ソ連の政治警察(当時の名称は国家保安省MGB、トップはアバクーモフ)は、彼の暗殺がソ連の利益にかなう理由としてユダヤの民族主義を見つけ出し、ミホエルスは危険なアメリカ陣営と手を結んだユダヤ人民族主義者と断定
ソ連領土内でドイツ人に殺されたユダヤ人の数は国家機密とされた。ドイツはソ連で生まれ育ったユダヤ人約100万人を殺害、さらにソ連侵攻後に占領地域のユダヤ人160万人青殺害したが、実際に手を下したのはソヴィエト人だったために、公になると厄介な問題を提起
連合国の指導者たちもホロコーストの存在を知りつつ、ナチス・ドイツに対する戦争の理由にはせず、ユダヤ人の苦しみに特別な目を向けることもなかった  ユダヤ人を1つの集団と見做せば、単一の人種と認めることになり、ヒトラーの人種主義的な世界観を受け入れることになるため、そこに不安があったが、現実には連合国内にも広く行き渡っていた反ユダヤ主義を容認した形となった
モロトフ=リッペントロップ線以東の地域に住むユダヤ人は、スターリンとヒトラーが手を結んでいた3941年には拡大したソ連でテロルと強制移住の犠牲となり、ヒトラー侵攻後は丸腰でドイツ軍の脅威にさらされ、ホロコーストの全犠牲者の実に1/4がこの小さな地域のユダヤ人だった
にもかかわらず、スターリニストの歴史認識を広めるためには、戦争の最大の犠牲者がユダヤ人であったという事実を忘れる必要があったし、39年には独ソが同盟関係にあったことも、41年にはスターリンがドイツの侵攻を信じなかったためにソ連がドイツの攻撃に備えていなかったことも黙殺しなければならない。ユダヤ人の大量虐殺は、それ自体が不都合な記憶であったばかりではなく、他の不都合な記憶も呼び覚ます恐れがあった。だからなかったことにする必要があった
戦後は、ソ連指導部が国民の精神世界を管理統制することがずっと困難になった。特にイスラエルの建国はユダヤ人の運命を忘れようというソ連の政治戦略を実行不可能にした
当初はイスラエルが親ソ派の社会主義国家になることを期待して支援したが、ユダヤ人の国境を超えた団結が明らかになるにつれ弾圧へと転換
4850年スターリンの胸の内でソヴィエト・ユダヤ人がアメリカのスパイであるという疑いが確信に変わり、ソ連が国際的な標的となっているという妄想から第3次大戦をも辞さないと考えたが、国民の支持が得られないまま53年死去、以後40年に亘ってソ連は存続したが、残された組織が飢餓や大量銃殺を企てることは2度となかった
戦前残虐ぶりを見せた後継のフルシチョフでも、自分が10年前にグラーグへ送ったウクライナ人のほとんどを釈放。スターリンと同じ方法でソ連を統治していくことはできないと判断した結果だった
スターリニストの反ユダヤ主義は、スターリンの死後も長い間東欧諸国に蔓延していたが、統治の主たる道具になることはまずなかったものの、政治ストレスがかかったときは、いつでも利用することができたし、反ユダヤ主義が残っていたおかげで指導者たちは歴史を修正することができた  スターリニズムそのものの歴史も、ユダヤ人によって歪められた共産主義であったとして書き替えられた
冷戦の最中、ホロコースト、ドイツによるほかの大量殺人政策、スターリニストによる大量殺人は、3つの異なる歴史となったが、実際には時期も場所も共通していた
7080年代 ホロコーストの記憶が国際的に共有されるようになると、西側諸国では全ユダヤ人犠牲者の1/6が殺されたに過ぎないアウシュヴィッツだけに注目が集まり、その東の流血地帯で500万人のユダヤ人と500万人の非ユダヤ人がナチスによって殺されたという事実をあっさり無視して、誤った方向でスターリニストの歪曲を訂正する傾向にあった。ホロコーストを忘れてはならないという点で意見の一致を見てはいたが、東欧ではユダヤという特殊性を否定され、西欧では地理的条件で外されて、本当の意味ではヨーロッパ史の一部にはならなかった

結論 人間性
3945年に起こった残虐行為は、すべて同じ時期、同じ地域で起こっており、すべてを共通の時代背景に置いて語り尽さなければ、両国の比較は不十分
流血地帯では、民間人や戦争捕虜の殺害を目的とした政策により、ナチスが1,000万、ソ連が400万の命を奪った
アーレントは、両者を「全体主義」という1つのくくりを考えた
グロスマンは、両者に共通する非人間性を暴こうとした  ナチズムとスターリニズムに共通する重要な要素は、人間が人間と見做される権利をある特定集団の人々から奪う能力を持っていたこと
ナチスとソ連の政権は、人々を数値に変えた。我々研究者の責務は、それらの数値を探し出し、総合的な見地から考察することであり、われわれ人間主義者(ヒューマニスト)の責務は、数値を人に戻すこと。それができなければ、ヒトラーとスターリンはこの世界を作り変えただけでなく、我々の人間性まで変えてしまったことになる

数と用語について
1400万というのは、ナチスとソ連が故意に行った大量殺人政策により流血地帯で殺害されと凡その人数
流血地帯とは、193345年のどこかの時点で独ソ両方の警察権が行使され、それに関連する大量殺人政策が実行された地域で、大量殺人と民族浄化の相違を尊重するため、ドイツ占領下にあったポーランド西部は含まない
流血地帯を南北に走る重要な境界線として「モロトフ=リッペントロップ線」を使うが、これは399月に独ソ間で合意した国境線と同時に、ドイツのソ連侵攻後は、ホロコーストがこの線以東で銃殺作戦によって始まり、やがて西に移ってガス殺を中心に行われるようになった
本書は苦難を味わった人々ではなく、死亡した人々を取り上げた研究であり、殺害を目的とする政策とその犠牲者をテーマにしている。虐待ではなく故意の大量殺人をテーマとしている本で、戦闘任務についていた兵士ではなく民間人(と戦争捕虜)に関する本
1400万の内訳(推計)
   193233年 ソヴィエト・ウクライナで餓死させられたソヴィエト国民330
   3738年 ソ連国内でのテロルによる犠牲者70万のうちの30
   3941年 占領下ポーランドで独ソ軍隊により射殺された20
   4144年 ドイツ占領下で餓死に追い込まれたソ連国民420
   4144年 ドイツ人によりガス殺または射殺されたユダヤ人540
   4144年 主にベラルーシとワルシャワでドイツの報復行動により銃殺された民間人70
用語の使い方や定義には慎重を期す必要
「最終解決」とは、ナチスがヨーロッパからユダヤ人を排除しようという意図を表すのに使った包括的な用語で「ホロコースト」とは違う。当初4つの強制移住計画農地の1つを刺したが、41年後半のどこかでユダヤ人排除の手段として大量殺人を承認しており、その時点で「最終解決」はユダヤ人の皆殺しを意味するものと理解された
「ホロコースト」はあくまで戦後紹介された言葉で、90年代には一般に、ドイツ人によるユダヤ人の大量殺害を指すと理解されるが、本書では4145年にドイツがヨーロッパで銃とガスを使って決行したユダヤ人の殺害を指す
「大テロル」は、3738年にソ連で進められた大量銃殺、強制移住策に使用
「ジェノサイド」は、43年にポーランド弁護士が考案した言葉で、48年の国連総会の議決で要件が決められた

要旨(アブストラクト)
流血地帯における殺戮は5つの形態をとる
   30年代初め、スターリンによる国内植民地化の煽りで、強制労働収容所システムと農業集団化が深刻な食糧難を招き、その責任を取らされる形でウクライナを中心に500万以上の飢餓者を出す
   3738年 テロル特定の民族的少数派集団を敵として70万を処刑
   3941年 独ソ両国による「反啓蒙主義」政策実行により、ポーランドの教養人20万が殺害
   41年 敵同士となった独ソ両国が、「交戦国間の共犯行為」によって民間人を殺害。ヒトラーはソ連とポーランドを植民地化・非近代化を夢見ており、「東方総合計画」や「飢餓計画」による数千万の死に場所をドイツの生存圏にしようとした
   対ソ敗退により、ヒトラーは規模を縮小して殺戮計画を進め、逆に戦後に実行するはずだった「最終解決」が徹底して行なわれた。ソ連への侵攻とその失敗が、ユダヤ人をヨーロッパから排除する手段としての大量殺人に向かわせた



ブラッドランドヒトラーとスターリン 大虐殺の真実(上・下) [著]ティモシー・スナイダー
[評者]吉岡桂子(本社編集委員)  [掲載]朝日 20151206   [ジャンル]歴史 社会 
戦闘によらぬ犠牲者1400万人の声

 史料に埋もれて数値や史実を探りあてた歴史家は、そこからはい出して世に何を問うのか。本書は、「犠牲者」として丸められた数値を「人に戻す」意志をもって、「大量殺人政策」を考察した戦史である。「数」をなお焦点に政治のかけひきが続く東アジアを思うと、研究者として、人間として、過去に向き合う著者の姿勢が強く印象に残る。
 ヒトラーのナチス・ドイツとスターリンのソ連は、第2次世界大戦が終わる1945年までの12年間で、1400万人の命を奪った。殺戮(さつりく)の舞台となった「ブラッドランド(流血地帯)」は、いまの国名でいえば、ポーランド、ウクライナ、ベラルーシ、バルト諸国とロシア西部を指す。
 ここには、戦闘による死者は含まれていない。ウクライナでソ連に飢えさせられて亡くなった300万人をはじめ、政策による餓死や銃やガスなどで殺された民間人と戦争捕虜たちである。本書によると、第2次大戦中の独ソの戦死者の合計を上回るという。救いのない現場を、これでもか、とたたみかける。
 ナチスによる惨劇の象徴として注目が集中しがちな強制収容所の内側の「ホロコースト(大量虐殺)」から、そのソトにあった死へと視界をひらかせる。国家や民族ごとに仕切られてきた歴史を綴(と)じ合わせることで、各国の数字の誇張や歪曲(わいきょく)を暴く。権力がもつ残虐性と、時勢が求める「真実」に寄り添ってしまう人間の弱さを見せつける。
 国家の暴虐の記述にはさみこまれた、犠牲者の手紙や日記、教会での最期の言葉が記憶にこびりつく。受難者の立場をめぐる民族や国家の間の「競争手段」に使われ、死者が匿名の数値の一部となってしまうことを阻もうとしているかのようだ。
 歴史が「点」から「面」へと仕立てなおされていく。闇から現れた史実の重みにふれるとき、思いは「人」へと向かった。
    
 布施由紀子訳、筑摩書房・上3024円、下3240円/Timothy Snyder 69年生まれ。イェール大学教授。


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