根源芸術家 良寛  新関公子  2016.5.11.

2016.5.11. 根源芸術家 良寛 

著者 新関公子 1940年新潟県長岡市生まれ。旧制杉本。県立柏崎高卒。東京藝術大美術学部芸術学科卒。西洋美術史専攻。同科大学院修士課程修了。すぐに同大付属芸術資料館(大学美術館の前身)に勤務。9年在籍。以後、都留文科大、横浜美術大などの非常勤講師をしながら研究著述活動。0208年東京藝術大大学美術館教授。同大名誉教授。11年『ゴッホ 契約の兄弟』で吉田秀和賞。常に、美術と文学の衝突の場面に焦点を当てた研究を心掛けている

12-02 ゴッホ 契約の兄弟』参照

発行日           2016.2.20. 初版第1
発行所           春秋社

良寛研究を志したきっかけは、30代半ばに柏崎の実家で、良寛が自ら考えた楷書体で書いた『小楷詩巻』を、絵として眺めたときで、彼の造形的天才を直感して研究対象にしようと思った。良寛の楷書体は、細くて小さいのに強く、凛とした品格がある。その人の生き方、人格が見事に様式になっているように思えた
長岡市に生まれた後、父の転勤に伴って移動した範囲は、良寛の行動範囲にぴったり一致していた
0208年母校の大学美術館に奉職、その後は30年来引きずっていたゴッホを優先したため、本書の書き出しが11年にまでずれ込んだ

第1章        芸術家良寛出現の歴史的背景 天領出雲崎の特殊性
良寛には、自己像を書いた作品がとても多い。そこには、私をこういう人間として理解してほしい、という意図が込められている
野心もなく苦悩もなく、雨の日はのんびりと草庵の清貧生活に甘んじ、天気の良い春の日長には村の子らと毛毬をつき暮らす、私は気楽な乞食僧である、と良寛は自分のイメージを描いて見せた。多くの良寛説話はほぼこの線に沿って形成されているが、よく研究すると、のんびりとした乞食僧は非常に限定された一面に過ぎず、驚異的なエネルギーを持った芸術的表現者であることに気づく
良寛作品は漢詩と和歌が中心。全作品数を把握することは至難だが、大まかには、漢詩775、法華転67、法華讃131、文14、和歌1476、俳句108、書簡270、戒語10、計2851
すべて玉島での修行を終えて帰郷の途につき始めてからのもので、子陽塾時代の習作もあるはずだが残っていない
帰郷時が39歳、没年が74歳なので、年間約81点という驚異的なペースで制作
西行でも年間40首、芭蕉が50点前後。ゴッホは287点と別格
平安時代末期の西行の頃から富裕な貴族が遁世し、歌人として風雅の道に生きる「数寄」の伝統が確立し、江戸前期の代表的数寄の追求者が芭蕉だが、良寛は数寄の伝統の近世的民衆化の頂点に立つ1人  今日的言語でいえば、まぎれもなく「芸術家」、それも極めて高度の精神性と表現様式の洗練を求めてやまない根からの芸術家であったといえる。江戸時代の言葉では「文人」
佐渡の金鉱山発見により、出雲崎が公儀の佐渡渡海業務一切を仕切る幕府の直轄地となったことが、出雲崎に文人が育つ土壌を作り上げた

第2章        出雲崎における文学的風土
出雲崎人が読み書きや計算の能力を身につけたのは、当初は金儲けのためだったが、一旦身につけた知識教養は自然に人を精神的高みに引き上げていく
芭蕉は「荒海や」の句に特別の思い入れがあったらしく、その構想が練られた出雲崎は、一種俳諧の聖地として文人の憧れの的になっていく
地元にも、出雲崎俳壇が形成される  名主と年寄りが俳諧の宗匠であり連の主宰者であった町、そして有力な町人もみな連に連なっていた町、この出雲崎の特別な文学的風土こそが良寛誕生の根本的背景

第3章        父以南の肖像
父は与板町(現長岡市)の出身、出雲崎の名主橘家の養子となるが、俳人として高く評価されていた

第4章        少年時代 子陽塾を辞すまで
大森子陽の塾に入る  江戸に出て仕官を志したが挫折して故郷に戻り、地蔵堂(現燕市)に私塾を開設
良寛は、14歳で親元を離れ親戚の家に下宿して塾に通う
大森は野心実現のため鶴岡に去るが、良寛にとって子陽塾で培われた人間関係は、良寛の後半生を左右するほど重要。友情を主題とする詩は良寛の詩の中核をなすといってもいいほど多い
大森が去ったのは良寛が20歳の時、新たな師国仙に出会って玉島に向かったのは22歳、その間の2年に何をしていたかは全く謎

第5章        青年時代 文人への憧れ
出家の動機は謎のまま  犯罪者の処刑を見てとか世の無常を感じてとか、諸説や逸話があるが、いずれも本人が書いたものとは思えなかったり、本人の気持ちを忖度して後から書かれたりした可能性が大
可能性があるのは、敬愛する西行や芭蕉と同じように、高等教育を受ける手段、世俗から距離を置く手段として出家を選んだことが自伝的漢詩の中に読み取れる

第6章        禅林修行 円通寺時代
良寛が文学的生命をかけていたのは漢詩
俳句は父の専門で、すでに時代遅れの文学形式で、真剣に取り組んだようには見えない
和歌については、参照歌が推定できる歌は多いが、その内容が必ずしも独創的とは言えず、本歌取りの技巧を尽くす意図はなく、単純に影響を受けただけの作が多い
漢詩については、真剣に時代を超えた独創的様式の創出を求めていたと思われ、学問的野心は何よりもまず、日本的「詩」の確立にあった
良寛22歳の時、たまたま出雲崎在住の弟子を尋ねた国仙(172391)に紹介される
国仙は曹洞宗大本山永平寺で修業、47歳で格の高い岡山の円通寺住職に抜擢された僧
玉島での修行の結果、1790年には国仙から「印可の偈()」を拝受  「印可」とは印信許可(いんじんこか)の略で、仏が弟子の理解を承認すること、師僧が弟子の悟りを証明すること。宛先が庵主となっていることから、すでに良寛は修行僧ではなく庵を与えられた指導的立場にいたことが窺われる
印可の偈 附良寛庵主
良也如愚道天寛/騰々任運得誰看/為附山形爛藤杖/到処壁間午睡閒/寛政二庚戌冬/水月老衲仙大忍叟
良寛庵主に附す
(りょう)なること愚の如く道天寛(みちうたたひろ)/騰々任運(とうとうにんうん)誰か看()るを得ん/為に附す山形爛藤(さんぎょうらんとう)の杖/到る処の壁間午睡(へきかんごすい)の閒(かん)/寛政二(1790)(かのえ)(いぬ)/水月老衲仙大忍叟(すいげつろうのうせんだいにんそう)
良寛庵主に与える
お前の性質の善良なことはまるで愚者可と見えるほどであり、お前の求める理想の道は非常に広大である。運に任せて自由にどこまでも高く駆け上がるがよい。誰もその行く末を予測することはできない。その長い道のりのために、にぎり把手が山の形をした古い藤の杖を上げよう。お前の行くところはどこでも、ちょいとした壁の隙間があって、昼寝をするくらいの空間はいくらでも見つかるだろう
この偈の文中で、師が弟子のことを「善良で寛大な精神の持ち主」と見たことが良寛命名に繋がり、死後の贈り名「大愚」は良寛自身が用意したものらしいが、この偈の「良也如愚」に依拠した号だということは明白。大愚とは、愚と見えるまでに徹底して善良ということ。さらには良寛が気に入って繰り返し揮毫した詩「生涯慵立身、騰々任天真」の騰々任天真はこの偈の「騰々任運」に由来することもわかる。「運に任せて思いのままに高く駆け上がるがよい」というからには、良寛には初めから職業的な僧侶になる意志は全くなく、別の野心を抱いていたということを国仙はよく承知していたのだろう。仏教学を通じて漢詩文を学び、文学の新境地を求める良寛を、予測できない未来を持つ人物として、国仙はおおらかに承認している。プレゼントされた藤の杖を良寛は生涯愛用

第7章        還郷 文学的人生の始まり
帰郷した理由  瀬戸内に面した玉島では、あまりにも気候が穏やかで単調であり、詩人良寛の大成には風雪に耐える越後の風土がどうしても必要だったのだろう
1796年に帰郷の途に就く  国仙の没した1791年以降96年まで諸国行脚したとされるが、良寛が立ち寄ったことが証明される土地や寺は1つもない
帰路は、ほぼ丸1年かけて、和歌山から吉野、京、伊勢路、東海道、江戸、善光寺、糸魚川等、だいぶ寄り道をしながら、各地で詩作をした

第8章        故郷での生活の始まり 不定住時代
まずは寺泊近くの郷本の空庵を借りて旅装を解くが、すぐに素性が知れ、実家から戻るよう懇請されたにもかかわらず、良寛は托鉢しつつ自由に生きる道を選ぶ。安楽な生活より精神の自由を取ったところに、良寛の思想がよく表れている
一旦名が知れると、周囲に支援者の輪ができ、良寛の創作意欲は留まることを知らない勢いで詩作が始まる

第9章        成熟 五合庵定住時代
180516年 国上山の五合庵に定住
唐代に確立した五言・七言の近代詩及び古代詩では、厳密な定型・押韻・平仄の技巧が求められ、それに準拠しないものは漢詩ではないと嘲笑されたが、良寛この点に断固反対、形式に拘って内容が空疎になることを嫌い、特に中国語に基づく押韻と平仄の技巧を無視
表記が定型の漢詩でも、日本人が漢詩を鑑賞する時は音読みでなく訓読みするから、中国語に基づく押韻や平仄は無意味
1810年 実家の名主を継いでいた弟が住民の訴えにより失脚した際、良寛が書いた説教の手紙は見事なもので、書家良寛の誕生を告げる嚆矢の作に思われる
1807年 50歳で自選詩集を編む  最初の詩集『草堂集貫華』は1811年ごろと推定
貫華とは多くの花を糸で貫いて作った花輪のこと
続いて作られた『小楷詩巻』は『貫華』の抄本、すぐ後に『草堂詩集』が続く
良寛の楷書は、細く晴朗な書体で、線にあまり肥痩のないことが特徴
独自の書体だが、その手本は『秋萩帖』にあり、そこから独自の草仮名を編み出す
『秋萩帖』から学んだ一番重要なことは、1音を1漢字の草体で表す表記法で、草仮名と呼ばれる。一般に奈良時代の『万葉集』に使われた楷書万葉仮名(男手=おのこで)を草体に崩した書体と言われ、ひらがな(女手)はこの草仮名をさらに簡略記号化して平安初期に成立させたもの
書の美的表現のために、平仮名表記の中に適度に草仮名をちりばめる習慣は、平安から江戸まで連綿と続いており、平仮名に混ぜても違和感のないしなやかな草体で、字数を制限したり、草体に崩すときの筆順や形態も統一しようとしたのが『秋萩帖』と思われ、良寛もそのやり方を踏襲  『秋萩帖』は112字に対し、良寛は147
各種出回っていた『秋萩帖』の法帖(写し)を参考にしながら独自のレイアウトの技法を確立していった

秋萩帖(あきはぎじょう)は、平安時代の作品の一つで、草仮名(そうがな:女手(平仮名)が完成する過渡期の仮名)の代表的遺品。巻子本1巻。和歌48首と王羲之尺牘(せきとく)臨書11通が書写されている。伝称筆者は小野道風及び藤原行成(著者注:確証はない)。書写年代は不明だが10世紀ないしは11世紀か。国宝[1]東京国立博物館蔵。
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秋萩帖第1
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秋萩帖第1314
概要[編集]
色替わりの染紙20枚を継いだ全長842.4cmの巻子本。天地は第2紙以下は23.8cmだが、第1紙のみ少し大きく24.5cm。内容などから以下の4つの部分(紙背を含む)に分けることができる。
A. 1
薄い縹色に染めた麻紙に一首4行書きの和歌2首(秋歌)を書す。小野道風筆の伝承をもち、書風はその真跡に似るが、他筆や摸写の可能性もある。紙背には文字は書かれていない。2首目の第1行のところに虫損が縦に走っていることから、この部分に糊が塗られていた、つまり原装は粘葉装であったと考えられる。
B. 2紙から第15紙半ば
色々の濃淡に染めた色替わりの楮紙を継いでおり、A(第1紙)と同じく一首4行書きで和歌46首(冬歌他)を書す。書風はAと似るが別筆であり、Aの失われた部分の摸写と考えられる。そのため道風筆の伝承は受け入れがたい。
C. 15紙途中から巻末第20
Bと同じ料紙に王羲之尺牘11通分を臨写する(尺牘とは書状のこと)。Bと同筆。Bとともに藤原行成筆の伝承を持ち、また行成真跡に似るという意見もある。11通のうち半数以上が唐摸本のみならず摸刻本すら中国には残っていない貴重なものである。
D. 2紙から巻末第21紙までの紙背
『淮南鴻烈兵略間詁 第廿』の写本。唐代の書写という説が有力である。『淮南鴻烈兵略間詁』(えなんこうれつ へいりゃく かんこ)は、前漢時代の思想書『淮南子』の許慎による註釈書である。
もともとABCDは別に伝来していたが、後に継がれたと考えられている。その時期は、Dの各継ぎ目上部に伏見天皇の花押が書かれているが、第1紙と第2紙の間にはそれが存在しないことから、それ以後であろう。
伏見天皇から伏見家をへて霊元天皇に伝わる。この時行成筆白氏詩巻とともに一つの箱に収められ、宸筆で「野跡」(道風筆)「権跡」(行成筆)などの箱書が書かれる。
ABについては、筆者、書写年代等について諸説あるが(後述)、日本語の表記が上古の万葉仮名から日本独自の平仮名へ移行する過渡期の草仮名の遺品として、書道史のみならず、日本語史、日本文学史のうえでも貴重な資料である。
巻頭の和歌は「あきはぎのしたばい(「ろ」脱か)つくいまよりぞひとりあるひとのいねかてにする」で、これが「秋萩帖」の呼称の由来になっている。この和歌は日本語の1音節を漢字1文字にあて、草書体で書写されている。これを漢字によって書き下すと次のようになる。
安幾破起乃 之多者以都久 以末餘理處 悲東理安留悲東乃 以禰可轉仁数流(読みやすくするため句ごとに区切った)
この和歌は、古今和歌集巻四・秋歌の220番歌「秋萩の下葉色付く今よりやひとりある人の寝ねかてにする」と同歌とみられるが、第3句が「いまよりぞ」となる点に小異がある[2]。書体は「安」(あ)のように平仮名の字形に近くなっているものもあるが、漢字の字形をとどめており、一部に2字の連綿もみられるが、基本的には放ち書きである。
名称[編集]
秋萩帖の「秋萩」は、前述のとおり、巻頭の和歌「あきはぎの - 」に由来する。
また巻子本であるのに「帖」と呼ばれるのは、江戸時代に草仮名の法帖として摸刻本が多く出版され「安幾破起帖」などと書名が付けられたが、それが原本の呼称にも影響したため。風信帖などと同じ事情である。
この名実不一致を正すため「秋萩歌巻」の呼称が提案されたこともある。
書写年代[編集]
あ行とや行の「え」を書き分けている[3]こと、「徒」を「つ」ではなく「と」の仮名に用いていること、他出の和歌は古今集や寛平御時后宮歌合などの歌であることなどから天暦以前のテキストだと思われるが、摸写だとするとテキストから書写年代を推定することはできない。
Aについては、原本説と摸写説がある。前者をとれば、書写年代は道風の時代で問題ないが、道風筆または他筆の可能性もある。また後者をとれば年代推定は難しいが、料紙が古態を留めるため、それほど時代はくだらないとみられる。
Bは模写でありまた同筆のCも臨書であるため、テキストからの時代推定はできない。また紙背を利用しての書写なので、料紙からの時代推定も不可能である。そのため、書写年代は10世紀後半から11世紀と広く、更には鎌倉時代伏見天皇模写説(小松茂美)まである。
Dは、奈良時代の日本における書写という説もあるが、代書写の舶来品という説が有力である。

第10章     創作と研鑽の日々 乙子神社脇草庵時代
1816年 60歳の時転居  五合庵の標高が高く、歳とともに不便になったのが原因
乙子神社は弥彦神社の末社で、住まいは氏子の集会所だったところ  草庵は1885年に再建され、さらに1987年に再々建されたのが現存のもの
この頃の支援で際立つのは、いずれも庄屋・豪農の解良家と阿部家

第11章     芸術的集大成の境地 島崎村木村家時代
1826年 69歳の時、良寛の身の回りの世話をしていた法弟が独立したのを機に、島崎(現長岡市)の豪農だった木村家の支援を受け入れて転居、43か月寓居する
島崎期に到達した新境地  模様と色彩のある料紙に詩歌を書くこと。料紙のデザインも良寛の指示。「髑髏自画賛」では横向きの簡単な髑髏の絵が添えられたり、自画像を好んで描いた書も多く、詩画書一体の境地の試みが見られる
貞心尼(17981872)との交流は、良寛が島崎に移ってからのこと  長岡藩に仕える下級士族の娘で、注目すべきは美貌ではなく、初対面から良寛を魅了したその文学的才能と見識。良寛の業績を後世に伝えるために傾けた努力は並みのものではない。最初が1835年の『蓮(はちす)の露』

第12章     近代文学における良寛の影響
良寛の名声は生前に確立していたが、没後は著作も墨筆も秘蔵されるばかりで出版に至らず、地方に埋もれがちだった
没後30年たった幕末に『良寛道人遺稿』が出版されたが、維新の大動乱期で、その影響がすぐに文学界に現れることはなかった
明治10年代ごろから良寛研究熱は次第に高まり、大正に入ると爆発的に良寛作品の拾遺と伝記的研究が輩出、学者のみならず相馬御風を筆頭に作家・詩人・歌人の存在が際立つ
著者がここで試みようとするのは、文学者の良寛研究熱ではなく、作家や詩人が、その創作発想の根源に良寛の詩と精神の影響を受けている例を探ること  日本近代文学の口語的表現において、散文と韻文の最初の高峰とされる夏目漱石と萩原朔太郎に良寛の影響を見る
漱石は晩年に良寛に熱中  大正3年ごろからで、教え子から贈られた『良寛詩集』を読んで心酔。良寛の五言絶句に対し漱石は七言絶句と異なるが、詩想、用語はよく似ている。書もよく集めた。漱石が最後に辿り着いた人生観、文学観として揮毫した「則天去私」という造語も良寛の「生涯慵立身、騰々任天真」を言い換えた表現に思われる
『明暗』という題の小説が、漱石の『明暗』より10年前に野上弥生子(18851985)が処女作として書いた。漱石門下生と結婚、『明暗』と次作『縁』を漱石に見せたところ、漱石は『明暗』を酷評、その埋め合わせのように『縁』を『ホトトギス』に推薦し弥生子の小説家デビューを助けた。弥生子は漱石の酷評を素直に受けとって没にし、漱石死後も公表せず、原稿が発見されたのは弥生子の死後3年たってから。「青鞜」派が結成される5年前に弥生子が書こうとしたのは男に頼らず自立しようとする新しい女だったが、当時の漱石の女性観は月並みだった。その後の弥生子の成長を見るにつけ、彼女の処女作を自分のペンが葬ってしまったことに漱石は責任と悔恨を覚えるとともに、鏡子夫人との20年に亘る結婚生活を経て漱石の女性観も変化、新しい女、自我を主張する女を、私も今は理解するようになったというメッセージを、弥生子の処女作と同じ『明暗』の題に込め、ひそかに弥生子に詫び、彼女の文学的成長を祈る意図が漱石にはあったのではないか。さもなければ自分が葬り去った作品と同じ題をつけるはずがない。晩年の良寛は尼僧として自立しつつ文学を志す貞心尼を知り、彼女に敬意と愛をもって接し、その文学的成長を助けた。良寛は女性にいかなる偏見も持たない。漱石も則天去私の悟りを得てから女性観を更新、99歳まで小説を書き続け、近代日本の代表的文学者の1人となった弥生子は生涯漱石を師と仰いでいる。良寛、漱石が示した女流文学への理解は、王朝時代から日本文学に今なお太く流れる水脈といえよう
近代口語自由詩の完成者と言われる朔太郎も、漢詩人良寛を学んでおり、第1詩集『月に吠える』がすでに漢詩の影響下にあった  『草堂詩集 天巻』の終わり近くに本歌があり、漱石も朔太郎より4か月前に「月に吠える犬」を漢詩に歌っている
漱石、朔太郎に始まる日本近代文学は、小説も詩も、良寛の主張する、「心中の物を写さずんば復た何をか為さん」という主観主義の延長上に今なお展開している

結び 良寛 思想的多面体~良寛の思想の特色の総合的考察
儒学も仏教も神道も国学も深く学びながら、一方に偏らない思想的多面体が良寛の本質。とりわけ晩年は儒学と仏教を、つまり広義に捉えるなら哲学と宗教を人間の精神活動の両翼として等分に表現しようとする意欲が顕著にみられる
説教が得意
人間の本質を言語的存在とみなし、言語をもって地域の衆生を教育済度することが、在家僧である自分の務めと確信していたらしい。その倫理観は非常に幅が広く、仏教にのみ依拠するのではなく、『論語』『中庸』『易経』など中国古代の倫理的、哲学的思想を、木村家に来てから頻りに書いていることに注目
晩年多くの仏教的遺墨が残されたが、中でも仏教説話に取材した、哀切極まりない自己犠牲の物語『月の兎』を何度も書いて人々に与えたことは、言葉による衆生済度の意欲の顕著な表現と見ることができる
書作品『愛語』 『正法眼蔵』と『法華経』を学び直して、自ら編み出して漢字とカタカナで書いた衆生に捧げる慈愛の書

著者後記
良寛の書の大部分に、文化的保護の手が十分に伸びていないことが気がかり
重文指定が阿部家の蔵品のみというのも偏っているし、指定にふさわしい学術的研究支援や、財政的保護が決定的に不足している
絵画では考えられないような作品の切断、細分化が横行していることも嘆かわしい
世代交代により、良寛作品の存在がわからなくなっている場合も多い
書芸術の素材は繊細で弱く失われやすい。大部分が個人所蔵家の手元にあると推量され、安全な管理に努めるとともに、積極的な公開にも理解いただきたい
作品の来歴をわかる限り正確に記述することを、美術館、コレクター等すべての関係者にはお願いしたい。日本では無視されるが、作品来歴情報を明記する習慣が根付くならば、日本のあらゆる歴史研究は、はるかに進展するだろう





根源芸術家 良寛 [著]新関公子
[評者]横尾忠則(美術家)  [掲載] 朝日 20160417   [ジャンル]ノンフィクション・評伝 

謎の生涯追跡、推理小説のよう

 良寛といえば子供と手鞠(てまり)をついて遊ぶ乞食僧という印象が強いが、実際は謎の存在である。著者は良寛の書の芸術性から彼の生き方の真実にとりつかれたようだが、黙して語ろうとしない生涯に惹(ひ)かれるのは、ぼくがデュシャンの謎に魅せられることとどこか共通するように思えた。
 著者は良寛に対する過去の研究書の創作的な非事実性を、良寛の数々の言葉と足跡を身体的にたどりながら暴き、新説(事実)を展開していく。その心地よさには推理小説に似た爽快感がある。
 一般的な良寛像は、本人が描く野心も苦悩もない気楽な乞食僧だろうが、著者はこのイメージは限定された一面と評し、実際は「驚異的なエネルギーを持った芸術的表現者」であると定義し、良寛の出家の動機に非社会性や無常観を見る従来の判断は、誤った土台の上に建てられていると批判する。
 自身の出家に関して良寛は沈黙を守っているが、自伝的漢詩の中にはちゃんと、出家は宗教的発心によるものではないと告白されているというのだ。一方、発心し、諸国行脚を修行と称して名刹(めいさつ)を訪ね歩く僧をつかまえて「かわいそうな奴(やつ)ら」だと軽蔑して嗤(わら)うのだった。
 著者が良寛のとりこになった直接の動機は、父の本棚にあった『書道藝術(げいじゅつ)』の中の良寛の書に造形的な美術価値を発見し、「どうしてこんなにも美しいのか」と、その芸術性と生き方に「根源芸術家」としての天才を見たからだという。
 「根源」の呼称を与えたのは著者であるが、純粋芸術とは別ものである。純粋芸術という言葉は、場合によっては芸術のための芸術、つまり芸術至上主義にとられかねない。芸術至上主義は芸術の中に於(お)いての自由の追求で、下手すると自己満足に終わる。一方良寛の芸術は生活に即し、また人生の中から生まれた芸術である故に根源芸術であろうか。
    
 春秋社・5184円/にいぜき・きみこ 40年生まれ。東京芸術大学名誉教授。『ゴッホ 契約の兄弟』(吉田秀和賞)など。


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良寛(りょうかん、宝暦81021758112 - 天保2161831218〕)は江戸時代後期の曹洞宗僧侶歌人漢詩人書家。俗名、山本栄蔵または文孝。号は大愚。
人物[編集]
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良寛像と自賛和歌
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/b/b8/Ryokan_SHINGETSURIN.JPG/150px-Ryokan_SHINGETSURIN.JPG
心月輪 木刻
良寛は越後国出雲崎(現・新潟県三島郡出雲崎町)に生まれた(しかし、その生涯をたどる手立ては極めて少ない)。四男三女の長子。父、山本左門泰雄はこの地区の名主・橘屋であり、[1]石井神社の祠職を務め、以南という俳人でもあった(異説では越後国新津(現・新潟県新潟市秋葉区)の大庄屋・桂誉章の子)。良寛は出雲崎の名主であった父の後を継ぐ名主見習いを始めて2年目の18歳の時、突如出家し、子供の頃に勉学を積んだ曹洞宗光照寺にて修行をする。
この時全国各地に米騒動が頻発した。越後にも天災・悪疫が襲い、凶作により餓死者を出した。村人の争いを調停し、盗人の処刑に立ち会わなければならなかった良寛が見たものは、救いのない人間の哀れな世界であった。両親の説得にも関わらず、良寛は頑なに修行を続けた。
出家後、安永8年(177922歳の時、良寛の人生は一変する。玉島岡山県倉敷市)の円通寺の国仙和尚を"生涯の師"と定め、師事する。良寛は故郷を捨てたが、この世にあらん限りは父母の言葉を身に包み生きよう、と誓った。円通寺の格式は高く、その入門には厳しい戒律を通過しなければならなかった。そして経を学ぶことより、勤労に励むことを第一としていた。「一日作らざる者は、一日食わず」国仙和尚は日を変え言葉を変えて良寛に説いた。その教えは後の良寛の生き方に強い影響を与える。良寛が修行した僧堂は、『良寛堂』として今もその当時のまま残されている。修行4年目の春、良寛は母の訃報に接する。しかし帰郷は許されるはずもなく円通寺の修行は12年も重ねた(この円通寺の修行時代の良寛を記すものはほとんど残っていない)。
寛政2年(1790)印加(修行を終えた者が一人前の僧としての証明)を賜る。翌年、良寛34歳の時「好きなように旅をするが良い」と言い残し世を去った国仙和尚の言葉を受け、諸国を巡り始めた。父の訃報を受けても放浪の旅は続け、義提尼より和歌の影響を受ける。48歳の時、越後国蒲原郡国上村(現燕市)国上山(くがみやま)国上寺(こくじょうじ)の五合庵(一日五合の米があれば良い、と農家から貰い受けたことからこの名が付けられた)にて書を学ぶ。『秋萩帖』はその手本として自ら選んだ。五合庵の良寛は何事にもとらわれず、何者にも煩わせることもない、といった生活だった。筍が顔を覗かせれば居間を譲り、子供にせがまれれば、日が落ちるまで鞠付きに興じるのだった。良寛は歌に「この子らと 手鞠付きつつ遊ぶ春 日はくれずともよし」と残している。書は良寛にとって己が鬱勃たる心情の吐露だった。また書を学ぶうち、従来の書法では自身の心情を表せることが出来ず、良寛独自の書法を編み出す。それは、上手に見せようとするのではなく、「一つの点を打つ」「一つの棒を引く」その位置の僅かなズレが文字の命を奪う。そんな際どい瀬戸際に筆を運んで良寛の書は出来上がる。五合庵での階段の昇り降りが辛くなり、61歳の時、乙子神社境内の草庵に居を構えた。円熟期に達した良寛の書はこの時に生まれている。
70歳の時、島崎村(現長岡市)の木村元右衛門邸内にそれぞれ住んだ。無欲恬淡な性格で、生涯寺を持たず、諸民に信頼され、良く教化に努めた。良寛自身、難しい説法を民衆に対しては行わず、自らの質素な生活を示す事や簡単な言葉(格言)によって一般庶民に解り易く仏法を説いた。その姿勢は一般民衆のみならず、様々な人々の共感や信頼を得ることになった。
最期を看取った弟子の貞心尼が『蓮の露』に良寛の和歌を集めた。良寛は他に漢詩狂歌俳句俗謡に巧みで、の達人でもあった(故に後世の贋作が多い)。新潟県長岡市(旧和島村)の隆泉寺に眠る。
良寛の名は、子供達を愛し積極的に遊んだという行動が人々の記憶に残っている。良寛は「子供の純真なこそが誠のの心」と解釈し、子供達と遊ぶことを好み、かくれんぼ手毬をついたりしてよく遊んだという(懐には常に手毬を入れていたという)。名書家として知られた良寛であったが、高名な人物からの書の依頼は断る傾向があったが、子供達から「文字を書いて欲しい」と頼まれた時には喜んで『天上大風』(てんじょうたいふう)の字を書いた(現在でもその凧は残っている)。
ある日の夕暮れ時にも、良寛は隠れん坊をして子供達と遊んでいて、自分が隠れる番になり、田んぼにうまく隠れ得た。しかし、日が暮れて暗くなり子供達は良寛だけを探し出せないまま家に帰ってしまった。翌朝早くにある農夫が田んぼに来ると、そこに良寛が居たので驚いて問い質すと良寛は「静かに!そんな大声を出せば、子供達に見つかってしまうではないか」と言ったという。このような類いの話が伝えられ子供向けの童話などとして紹介されることで良寛に対する親しみ深い印象が現在にまで伝えられている。
今日生家跡には「良寛堂」が建っている。その中には、良寛が生涯肌身離さず身につけていた念持仏「枕地蔵」が収められている。良寛は昼寝の際にこの石地蔵を枕にした、という。石塔に刻まれた句には
『いにしえへにかはらぬものはありそみとむかいにみゆるさどのしまなり』
とある。堂の裏手には良寛の坐像がある。
銅像[編集]
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/f/fd/Ryokan-birthplace.jpg/220px-Ryokan-birthplace.jpg
良寛堂
  • 良寛堂・天領の里(天領の里の像はこども時代の良寛。共に新潟県出雲崎町)
  • 隆泉寺(新潟県長岡市)
  • JR東日本信越本線長岡駅駅舎内(新潟県長岡市)
  • 円通寺(岡山県倉敷市玉島)
  • 新潟大学五十嵐キャンパス(新潟県新潟市西区五十嵐)
辞世の句[編集]
  • 「散る桜 残る桜も 散る桜」 - 太平洋戦争期に、特攻隊の心情になぞらえた歌として著名であった。
  • 「うらをみせ おもてを見せて ちるもみじ」 - 良寛ゆかりの円通寺の句碑
言葉[編集]
「災難に逢う時節には災難に逢うがよく候、死ぬる時節には死ぬがよく候、是はこれ災難をのがるる妙法にて候」[2]
[編集]
型に拘らない率直な表現を良しとし、多くの歌を残した。
  • この宮の木(こ)したに子供等と遊ぶ夕日は暮れずともよし
  • 風きよし月はさやけしいざともに踊り明かさむ老いのなごりに
  • 歌もよまむ手毬もつかむ野にもいでむ心ひとつを定めかねつも
主な著作集成[編集]

漢詩注解[編集]

なお良寛の訳・解説本は、大正後期・昭和から数えると100冊以上になる。
良寛に関する作品[編集]
  • 『良寛物語 手毬と鉢の子』- 新美南吉の初刊行本にして最長編作。1941昭和16年)に学習社から出版された。南吉生前に出版された2冊の1つ。
  • 『弥々』 - 矢代静一作の戯曲。良寛と彼の初恋の女性弥々の人生を弥々の娘が語りおろす形式の一人芝居。『良寛異聞』に所収(河出書房新社 1993平成5年)、のち河出文庫)。
娘の毬谷友子が初演以来、1998(平成10年)に矢代の他界後も、ライフワークとして演じ続けている。
松本幸四郎鈴木京香で映画化された。『良寛』 1996(平成8年)
系図(伝説)[編集]
      
      豊臣秀吉                  
       ┃
      豊臣秀頼[3]
       ┃
      時国時広[4]
       ┃
      葛原誉秀
       ┃
      桂誉智
       ┃
      桂誉章[5]
       ┃
      良寛
脚注[編集]
  1. ^ 図解仏教成美堂出版127
  2. ^ 山田無文『十牛図』1982年、禅文化研究所156頁。
  3. ^ 能登国輪島の天領庄屋・時国家の養子となる。
  4. ^ 能登国輪島の天領庄屋。
  5. ^ 桂家(越後国新津組22ヶ村の大庄屋)から山本家に養子に入り、佐渡国相川の山本家分家より良寛の生母が嫁ぐ。数年後離縁。その後生母が再婚した夫が良寛の父とされる山本泰雄(以南)。誉章は、のちに桂家を継承。生没年:1734年~1796年。


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