ノボさん 小説正岡子規と夏目漱石  伊集院静  2014.1.26.

14.1.26. ノボさん 小説正岡子規と夏目漱石

著者 伊集院静 1950年山口県生まれ。立教大文卒。CMディレクターなどを経て、1981年『皐月』で作家デビュー。91年『乳房』で吉川英治文学新人賞。92年『受け月』で直木賞。94年『機関車先生』で柴田錬三郎賞。02年『ごろごろ』で吉川英治文学賞

発行日           2013.11.21. 第1刷発行
発行所           講談社

初出 『小説現代』2010.7.2013.8.

子規は夢の中を走り続けた人である
これほど人々に愛され、これほど人々を愛した人は他の類を見ない
彼のこころの空はまことに気高く澄んでいた
子規は、今も私たち日本人の青空を疾走している

Ø  ノボさんどちらへ? べーすぼーる、をするぞなもし
幼名が処之助(ところのすけ)で、のちに升(のぼる)と改めたところから、愛称ノボさん
明治20年 新橋アスレチック倶楽部でべーすぼーるの試合 ⇒ 元幕臣、アメリカで鉄道技術を学んだ平岡熙(ひろし)が創設したチーム
旧松山藩主久松家の育英事業常盤会の給費生だったが、英語がからきしできず2年目の夏は落第、東大予備門の試験を受ける勉強として進文学舎で英語の特訓を受けるが、この時の先生が坪内逍遥。その年予備門の試験に合格
6歳で父と死別、藩校明教館教授だった母の父から漢詩の素読をさせられたのが後に役立つ
4つ下の弟のように慕ってきた従弟も上京して一緒に勉学

Ø  初恋の人。子規よどこへでも飛べ
明治21年 関東一帯の大地震、磐梯山大爆発
夏の間の2か月、友人や弟と一緒に向島に逗留して勉学、鎌倉への旅に出た途上で喀血、それまでも喉を傷めて血を吐いたことがあったので気にもしなかったが、今回は2回続けての喀血で本人も気にして書き留めている
逗留先の娘を意中の人と思ったふしもあるが、歌集その他には一切出てこない
一緒に予備門に通っていた秋山真之は2年前に海軍兵学校に転校
来る者拒まずのモットーと人を分け隔てせずに扱うところから、自然と周囲に人が集まった

Ø  漱石との出逢い。君は秀才かや
本郷真砂町の常盤会寄宿舎に転居。監督が内藤鳴雪
明治21年、本科の図書館の談話室で同じ年で、開校以来の秀才と噂の夏目金之助を紹介される。予科の時から見かけてはいたが自分と相容れるものではない人種だと思っていたし、秀才が気に入らない上に苦手で、相手も無愛想に見えたが、落語の話で気が合い見直し、すっかり意気投合、3日にあげず訪ねた
子規は幼少の頃から学んできた漢籍の中で中国の詩人たちがたった一夜だけの交流で生涯の友となるのを学んできたし、そういうものに憧れていたのが、金之助に会ったときに閃いたのではないか
2人は全く相反する環境で育ったが、自我の目覚めという点では一切の妥協をしなかった点は共通していた
明治22年、憲法発布と同時に子規の江戸での後見人だった陸羯南が新聞『日本』を創刊、日本の形式的欧化主義を批判した陸の持論が展開され子規も興奮、『文苑欄』への寄稿を勧められる

Ø  血を吐いた。あしは子規(ほととぎす)じゃ
間もなく大量の血を吐き床に臥すと、金之助が親身になって面倒を見る
生涯100ほどの別名を考案して喜んで使ったが、59日の喀血を気に子規の雅号を己の名前としたのは、血を吐いたことを時鳥(ほととぎす、この鳥の別称が子規(ほととぎす)”)というところから
明治23年に書かれた子規の『筆まかせ』の中に、漱石という雅号をこしらえて、これを使おうとしたのは、子規が自分の中に高慢なものがあり、それを戒めるために雅号とした、とあるが、金之助も自分の頑固で偏屈な性格に一番合った名前と考えたことが面白い
向島で始めた子規のそれまでの人生の集大成とも言うべき句集『七草集(ななくさしゅう)』を完成させ、金之助の評を仰ぐ
金之助の並々ならぬ支援のお蔭で、学年試験もクリアーできて、無事帰省。そこで友人の弟で生涯の友とも師ともなる河東碧梧桐に出会う。碧梧桐は子規を無条件、無償で敬愛。漱石との共通点は、2人とも繊細な内面性で子規を見つめていること
碧梧桐との出逢いはべーるぼーるから

Ø  漱石との旅。八重、律との旅
明治23年、第一高等中学校本科を卒業、文化大学哲学科へ入学(その後国文学科に転科)
逍遥の『当世書生気質』に啓発されて小説も書き始め、露伴の世界を目指す
明治25年、『月の都』を書いて露伴に見せるが、作中の俳句を褒めてはくれたが、頼みの出版社は紹介してもらえず、そのまま2人の縁は絶たれた
2年の修業試験を放棄したまま、漱石と関西・岡山方面の旅に出る
当時文学士は稀少価値があり、漱石からも強く進学を勧められたが、帝大退学を決意
逍遥から直接、『早稲田文学』の俳句欄の面倒を見てくれと頼まれ、感激して選者となる
陸の『日本』に入社、

Ø  鷗外との出逢い。漱石との愉快な同居
子規が新聞記者として初めて書いた記事は、郷里での海難事故
記者となって子規の交友範囲が一気に広がる
紙面に俳句欄を載せることになって一層気を入れた働いたことが体に悪影響を及ぼし病臥
明治27年、終の棲家となる上根岸に転宅
姉妹紙『小日本』の編集責任者となり、上品で家庭的な新聞を目指す
赤貧と苦学の真只中にあった後の日本画壇の重鎮・中村不折(ふせつ)を見出したのは子規
女性体験がはっきりとこの頃子規にあり得たと思われる逸話 ⇒ それとわかる一文について、芥川龍之介がこれを読み、大正15年に発表した『病中雑記』で子規の『病床六尺』中の小提灯の小品のごときは何度読み返しても飽かざる心地すと述べている
明治28年、従軍記者として清国へ
明治26年に帝国大学文学大学英文学科本科生として創立以来2人目の卒業生となり大学院に進んだ漱石はノイローゼ気味となり、療養と転宅を繰り返す。翌年には漱石も血痰を見るが、直前に2人の兄を相次いで肺結核で亡くしており、ショックを受ける。大学院生のまま、学長の推薦で東京高等師範学校で英語授業を持ち、子規の従軍記者が決まるのと同じ頃、愛媛県尋常中学校に英語教師として赴任が決まる
4月大連上陸の2日後には講和条約締結、物見遊山の旅に終わったが、森鷗外と出会い、俳句のことを毎日のごとく談じたのは収穫。お互い以前から一目置いていた仲だったが、これを機に連句の創作などお互いの親交を深めた
帰国の途上大量の喀血で県立神戸病院に収容、8月退院、松山に漱石を訪ねる
大喀血以降、子規の創作物に微妙な変容が見られ、死の意識の中に子規特有のペーソスが入り込んでくる

Ø  子規庵、素晴らしき小宇宙
10月帰京、リュウマチの病状が出る
俳句の才能が群を抜いていた高浜虚子を自分の後継者と思ってきたが、虚子は物事を修得するために古典なりの勉強をすることを嫌う性癖を変えるつもりがないと断言したために、子規も諦め、忠告の権利も義務もないとして別れる
明治29年、子規庵で初の句会開催。漱石は帝国大学の同期会を欠席して参加。鷗外はこの席で初めて漱石と出会う。子規庵はサロンの様相
腰痛を訴え出し、肺結核の菌が広がって病状が進行するカリエスと判明、1回目の手術
与謝野鉄幹(6歳下)から、合同新体詩集の刊行についての相談が来る
明治30年、松山で句集『ホトヽギス』創刊 ⇒ 柳原極堂が子規に相談しながら子規の後ろ盾を得た句集で、子規主宰の句誌の形を取り、題字も子規の筆によるもので子規自身も俳句を提供するが、年末には経営が苦しくなり、慌てた子規は、虚子以外に適任者はいないとし、虚子も引き受け、東京版『ホトヽギス』として翌年10月発刊
子規の依頼で漱石が第2号に書いた一文が、漱石の小説家としての第1歩を歩み始める機会になる。その直前漱石の妻が流産もあって熊本で投身自殺を図る。漱石も自分が教師に向いていないのにいち早く気づき、小説で身をたてようと考え始め、子規にも打ち明けている

Ø  友は集まる。漱石、ロンドンへ
明治33年、漱石は文部省の留学命令を受け、英語研究を目的にイギリスに留学
脊椎カリエスに効く薬はなく、栄養をつけて体力を消耗させないことだけしかなかったが、大食漢の子規は食べることだけが楽しみ
モルヒネのせいもあってよく精神錯乱状態に陥り、激昂し、叫び、泣き、大声を上げ、世話をする妹・律の手に負えなくなると陸が呼ばれた

Ø  子規よ、白球を追った草原へ帰りたまえ
明治35年初頭、容態急変、激しい痛みが子規に強迫観念を与え、妄想がひどくなる
昏睡から覚めて辞世の句を3句書き終えて筆を投げ捨てた後、息を引き取る
碧悟桐と虚子が、ロンドンの漱石に子規の死を知らせると、漱石は友を偲んで句作、子規よ、白球を追った草原へ帰りたまえという友への哀切が伝わる句を詠んだ
漱石は後に子規とのことを題もつけず書いている ⇒ 若き日に出逢い2人して様々な思いを語り合った子規への友情が熱く語られている
漱石は明治36年に帰国、2年後『ホトヽギス』に『吾輩は猫である」を発表、続いて翌年には『坊っちゃん』『草枕』を相次いで発表、一躍文名を上げる
周囲の人々からノボさんと親しみをこめて呼ばれ、おう、と嬉しそうに応えて、ただ自分の信じるものに向かって真っ直ぐと歩き続けていた子規が何よりまぶしい。漱石はそれを一番知っていた友であった


12-10  Donald Keene著 正岡子規』参照

ノボさん小説正岡子規と夏目漱石 []伊集院静
[掲載]朝日 20140119   [ジャンル]文芸 
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 俳人、正岡子規の生涯をたどった長編小説。野球に夢中になった、おおらかな青春時代から、病床に縛られた苦しい晩年まで、やわらかな筆致でたどる。
 家族や友人はみな「ノボさん」と親しげに呼びかける。なかでも、夏目漱石との交流に、著者が心ひかれた思いがよく伝わる。落語好きで気があったふたり。高慢な態度を意味する「漱石」を子規も名乗ろうと考えていた、というエピソードは面白い。作品から淡い恋心をくみ取って、子規を誰よりも理解していたのが漱石だった。
 あふれ出てくる句と食欲。懸命に走り抜けた姿を、楽しく、流れるように描きあげたことが、その死を大きく意味付ける。
    
 講談社・1680円


ノボさん 伊集院静著 明治日本の理想の青春像築く 

日本経済新聞朝刊20131222日付
 正岡子規は俳句、短歌といった日本の古い短詩型に新風を入れて中興の祖となった人である。
 夏目漱石は「吾輩は猫である」から「明暗」にいたる名作を発表し、日本近代文学の基礎を築いた森鴎外と並ぶ文豪である。
 明治十六年六月、子規は青雲の志を抱いて東京へ出てくる。
 子規は学問をめざす明治の男児がみなそうだったように日本国家を背負う気概をもって上京した。
 子規の幼名は升(のぼる)であった。人々は愛情をこめて「ノボさん」と呼んだ。ノボさんは「べーすぼーる」が大好きな少年であった。
 明治二十年、子規は第一高等中学校で金之助こと夏目漱石と出会った。この二人の邂逅は日本近代文学の未来を切り開く出会いであった。
 二十一年夏休み、向島の桜餅屋月香楼で「七草集」の執筆に入った時、子規はこの家の娘おろくに恋をした。生涯女と縁がなかった子規の色恋が抒情的に描かれる。
 子規のまわりには高浜虚子、河東碧梧桐らの俊秀が集まり、日本近代の詩、歌、俳句の道が定まってゆく。
 漱石は松山中学の英語教師になり、中根鏡子と結婚、鏡子の自殺未遂を経験し、熊本の五高教師になり、イギリスに留学し、孤独から精神不安定になったりした。これらの経験が文豪漱石を生み出す。
 子規は結核にかかり、それがもとになって喀血を繰り返す。生死の関頭に立った子規は「歌よみに与ふる書」「俳諧大要」や「墨汁一滴」「病牀(びょうしょう)六尺」の随筆、「仰臥(ぎょうが)漫録」の日記の名品を残した。
 カリエスを病んで、身動きのとれなくなった子規を母八重と妹律が必死に支える。子規にとっての無限大の宇宙に変化していく微細を作家は優しいまなざしをもって見つめている。
 昭和の時代、司馬遼太郎は「坂の上の雲」で子規、秋山好古(陸軍)・真之(海軍)兄弟を主人公にして明治日本の理想の青春像を描いた。
 平成の現在、伊集院静は「ノボさん」で子規と漱石を主人公にして明治日本の理想の青春像を構築した。
(文芸評論家 川西政明)






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