天皇機関説タイフーン  平山周吉  2026.2.17.

 2026.2.17.  天皇機関説タイフーン

 

著者 平山周吉 1952年東京都生まれ。雑文家。慶応義塾大学文学部卒。雑誌、書籍の編集に携わってきた。昭和史に関する資料、回想、雑本の類を収集して雑読、積ん読している。著書に『昭和天皇「よもの海」の謎』(新潮選書)、『戦争画リターンズ―― 藤田嗣治とアッツ島の花々』(芸術新聞社、雑学大賞出版社賞)、『江藤淳は甦える』(新潮社、小林秀雄賞)、『満洲国グランドホテル』(芸術新聞社、司馬遼太郎賞)がある。boidVOICE OF GHOSTより刊行中のKindle版『江藤淳全集』責任編集者。近刊として『昭和史百冊(仮題)』(草思社)がある。

 

発行日            2025.11.18. 第1刷発行

発行所            講談社

 

初出 『群像』20242月号~20257月号

 

 

第一章 憲法と東大法学部 「硬」の美濃部達吉、「軟」の宮沢俊義

1959年、東大法学部「憲法」講座担当の宮沢俊儀が退官にあたり、機関説事件当時の様子を語る。就任時に末弘法学部長から、瀧川事件の二の舞とならぬよう、自身の身に問題が及ぶ場合は、他の同僚に迷惑をかけるなとの勧告があり、法学部存続のためにはできるだけ小さくなって辛抱するのが最善の策だと考えたという。法学部の同僚に迷惑をかけるのをある限度食い止める効果があった半面、そうした態度は見方によっては卑屈と評されるだろう。大学の自治や学問の自由を守る見地からいえば望ましいものであったとは言えないのではと恐れる。私の態度が先輩同僚諸君が闘ってきた東大法学部の伝統を少しでも傷つけたことになったのではと反省するたびに古傷が痛む。古傷に触れずに別れるのは忍び得ないので、あえてかえらぬ繰り言を申してお詫びを申し述べる

いつもはユーモアを交えた座談を飄々とこなす宮沢の厳粛な告白に、教授会の場はある種の感動に包まれた。人気教授の1人丸山眞男はすぐに葉書を出す。行政学の辻清明は宮沢のウェットな語調に驚く、民法の加藤一郎は身の引き締まる思いで聞き、胸のつかえが落ちた気がした。英米法の伊藤正己は、先生自身が涙ぐんでいたと記憶

丸山と辻は直接宮沢の憲法学の講義を受講。機関説問題の当初宮沢は教壇から「こういうことが問題になること自身が国辱だ」と言い放つのを見て、南原繁のもとで助手だった丸山は『法学部三教授批判』(1937)の中で、「我が国自由主義の最後の砦となる中堅教授」として、我妻栄、横田喜三郎とともに宮沢を挙げ、「美濃部教授が惜しまれつつ講壇を去った後、新鮮な理論を以てその師を批判しつつ颯爽と登場したのが宮沢教授。教授に昇進すると同時に講座を持ち、講座を持つと同時にジャーナリズムの寵児となったデビューぶりは瞠目のほかはなかった。突如湧き起ったのが機関説問題で、華やかな存在となっていただけに事件の煽りも大きく、松田文相が議会で、「あと問題となるのは宮沢教授ただ1人だ」と答弁した頃は最も地位を危ぶまれたが、懐疑的インテリの典型であるだけに最近の制圧に対する反発も極めて消極的たらざるを得ない。教授の育まれた大正後期のデモクラシーは教授の肉体に喰い入って素質的なものとなっているから、教授がデモクラシーを放棄することは考えられず、今後も憲法学の科学性の擁護のために奮闘を続ける教授の痛ましい姿を我々は当分の間見せつけられることだろう」と書いている

1946年発足の東京帝大憲法研究委員会は宮沢が委員長、丸山助教授が書記役。丸山がポツダム宣言受諾によって憲法の新しい基本原理が生まれたとして、「歴史的に言えば、これは8月革命と呼ぶのが正しいのでは」と主張、宮沢はそれを受けて『8月革命と国民主権主義』という論文を書き、これが戦後の憲法学の通説となる

宮沢教授は、機関説事件以後、憲法の第1条から第4条までを飛ばすという風評があった

三島由紀夫は、戦後の憲法を憎み、憲法改正はこの議会制度下では不可能と見切って、クーデターに訴える。戦後憲法体制への反逆者として死んだ。三島は、憲法学者はほとんど曲学阿世だと一刀両断

大正末期の帝大法学部の「憲法」講座は、美濃部の「天皇機関説」と上杉慎吉の「天皇主権説」が競争講座になっていて、明治末から論争が起こり、学界では美濃部の勝ちとされていた

1933年、自由主義的な刑法学説が家族の道徳に反すると非難されて休職になった瀧川事件に続いて、'35年美濃部の「天皇機関説」が国体に反する学説として攻撃。合法的なクーデターであり、事実上の憲法改正。二・二六では機関説を支持した渡辺陸軍教育総監が射殺されたが、美濃部も命に別状はなかったが、その5日前にテロリストの襲撃を受ける

クーデターの真の狙いは、枢密院議長の一木喜徳郎を機関説で追い落とすことにあり

宮沢の『天皇機関説事件(上下)(1970、毎日出版文化賞)をもとに事件を再考する

真の狙いは重臣ブロックの政治支配を倒して、ファシズム政権を打ち立てるにある。その黒幕は平沼騏一郎。西園寺とその側近はどこまでも反対で、天皇の意見も西園寺達と一致

一木は美濃部の帝大での師で公私にわたる恩人。美濃部は『退官雑筆』('34)で師の一木を賛美し、憲法学で意見を異にした上杉とその師穂積八束を批判。平地に波を立てる体質が美濃部には濃い。さらに『中央公論』では、陸軍省発表の『国防の本義とその強化の提唱』を容赦なく徹底批判。戦後事件を振り返って、この批判が迫害の原因と認めている

南原繁は、当時45歳中堅教授だったが、美濃部先生を守らなかったことを「懺悔」したが、同時に大学以外に沈黙の責任を拡張することも忘れない。重苦しい空気で、今では考えられないほど、学界、言論界、新聞、世間全体がそれに対して声がなかった。美濃部を支えたのは、菊池大麓の娘だった妻民子と1人息子で後の都知事の亮吉のみ

戦後美濃部は時の人として復活するが、民子夫人は夫の転変があっても全く変わらない。民子と交流のあった吉屋信子は、民子夫人の言葉を書き残す。「戦争を起こして日本をこんなにしたのは軍人ばかりが悪いのではなく、日本中の男という男がみな卑怯だったからだと私は思う」

 

第二章 「抹殺学士」蓑田胸喜と「原理日本」の愛読者たち

敗戦の日から自決者が相次ぎ、一段落した翌年2月に蓑田胸喜が精神異常から縊死したとの記事が載る。機関説事件で「民間思想検察官」となったのが蓑田。論理学者で国士舘専門学校教授。享年53

蓑田を狂人扱いする戦後の風潮に異議を唱えようとして、竹内洋らの京大グループが『蓑田胸喜全集』を発刊('04)。蓑田は旧制五高から東京帝大法学部に学びながら、帝大教授たちを徹底的に批判。上杉教授肝いりで発足した右派の興国同志会に所属。当初宗教学科に入って教授を目指したが挫折し法学部に入り直し、同じ熊本出身で五高の3年後輩の細川隆元と一緒になる。森戸事件で森戸攻撃の演説をぶって思想的勝利を味わう。皆馬鹿ばかりなので悪いものを叩くと意気込んでいた。その後慶應予科で蓑田と同僚になったのが奥野信太郎。蓑田は論理学や心理学を講義したが、ほとんどマルクス・レーニン主義の攻撃と国体明徴に終始したといい、ファナティックな面があり、学生からも「狂気」と揶揄

浜口首相狙撃の際、蓑田は欣喜雀躍して教室を渡り歩き、教員会議で問題になったのもあって慶應を去り、国士舘へ。'25年師と仰ぐ歌人三井甲之とともに『原理日本』を創刊

美濃部批判の嚆矢は、'29年の『学術革命と政治改革――美濃部博士の世論屈従思想』で,山本宣治の死を悼み、無産政党に期待し、治安維持法に反対し、マルクス主義を批判しない美濃部を「重大誤謬思想家」として攻撃。その後攻撃が続く

蓑田に自信を与えたのは、瀧川事件であり、足利尊氏の再評価について言及した中島商工大臣を辞任に追い込んだ成果であり、「抹殺」という言葉を多用した公称「抹殺学士」であり、蓑田が「抹殺」しようとしたのは学説や学問の自由

「マルクス主義の根源的批判」研究に文部省思想善導研究奨励金が交付され、蓑田の権力当事者への接近がエスカレート。明治人としては普通の愛国者が、昭和になると日本主義者になったケースが多く、そういう人たちを煽ったのが『原理日本』

 

第三章 美濃部「免職」の危機と、蓑田の「談笑解決」術

美濃部の死は蓑田の2年半後の'48年。戦争中の食糧不足がこたえ、終戦後は身体の衰弱が目立つ。その中で新憲法公布後はすぐに4冊もの憲法論を書き、尿毒症で急逝。享年75

新憲法改正に際しては顧問として関与、「憲法改正」には断固反対。枢密顧問官となり、戦後初の全国選挙管理委員長

'33年の瀧川事件では、31番教室で講義中の美濃部が学生たちの要請で教壇を学生運動に明け渡し、警官が教室に入る事態に発展。美濃部は東大で京大に同情する教官の筆頭。学内秩序を乱したことに対し、小野塚総長は美濃部を叱責したが、鳩山文部大臣から教授陣の罷免要請に対しては断固立ち向かい、美濃部、大内、横田、末弘らを守ったという

蓑田が瀧川を攻撃するきっかけになったのは'29年の蓑田の京大での講演に対する激しい攻撃を受ける中で、瀧川を「無政府共産主義思想家」と断定したことが始まり

蓑田は、美濃部、牧野英一、瀧川、末弘に公開質問状を出し、美濃部の返信を鬼の首を取ったかのように喧伝し、鳩山文相に帝大教授罷免を迫る

 

第四章 自称「憲法学者」松田源治文相、自ら渦中に飛び込む

貴族院本会議で、菊池武夫の「官立大学に国体を危うくするような学者がいて、その講義が行われているのは遺憾」との抽象的質問に対し、松田文相が具体名を挙げろと迫ったため、已むなく末弘、美濃部、一木の名が挙げられた

松田は「憲法得意の政治家」を自任、民政党の領袖を名乗るが、酒飲みのアブレ者にも拘わらず衆院副議m長、拓務大臣にまで上り詰め、国粋主義者となる

この時の答弁でも、天皇機関説は学者の議論に任すとだけ言っておけばいいものを、自身は「無論反対」と個人的意見を表明したために、岡田首相までもしつこい追及に「機関説を支持している者ではない」と言わされてしまった。東京朝日の夕刊記事でもこれらの答弁について触れられてはいない。前年東大総長が小野塚から医学部から初の長與又郎に交替したが、引継ぎでも機関説関連では「末弘問題」が焦眉の急で、著書を絶版にすることでほぼ解決済みだった。それを大きくしたのは、貴族院の勅撰議員だった美濃部が、貴族院書記官なども含め周囲が黙殺を勧めたのを押し切って、「一身上の弁明」を強行したからで、美濃部も背後の右翼勢力を刺激することを分かった上で学説を守るために立ち上がったという

 

第五章 「維新」四月号が企画した貴族院議員「機関説賛成反対」アンケート

美濃部の弁明は新聞でも第1面に取り上げられるが、美濃部は冒頭で、学識故に勅選された美濃部の学説を誹謗する菊池の格のない「羽織ゴロ的放言」を「故意に放置」したとして近衛議長への不満も述べる。美濃部の弁明には異例の拍手まで起こり、菊池も一旦は戈を収めるが、右翼の仲間に扇動されて反論に出る

創刊直後の『維新』が実施したアンケートでは、410人余りの議員のうち105人が回答、反対が97人、賛否を記さなかったのが8人。賛否を記さないのが出来得る限りギリギリの立場表明で、美濃部や機関説「支持」を公言するのは不可能だった空気がよくわかる

真っ先に反応したのは2日後の徳富蘇峰。『東京日日』で美濃部攻撃の第1矢を放つ

論壇では宮沢のデビューとなった美濃部擁護の時評が載る

 

第六章 政党没落の殊勲者 : 鈴木喜三郎政友会総裁と山本悌二郎元農相

犬養の後任だった立憲政友会総裁の鈴木喜三郎は剛腕の元検察官僚。鳩山の義兄。歴代の総裁はすべて総理大臣であり、テロに倒れた犬養の後任は同じ党が政権を引き継ぐのが慣例、直前の選挙でも2/3に迫る大勝だったが、挙国一致の大義名分の前に、大命は海軍大将斎藤実に降下、さらに帝銀事件で総辞職した後も、岡田啓介海軍大将に降下

機関説事件直後、衆議院で「国体明徴決議案」の提案理由を説明した鈴木を、辛口の政治評論家で東京日日の阿部眞之助(戦後のNHK会長)は「政党没落の殊勲者」と呼ぶ

美濃部が貴族院議員に勅選された時(‘32)の閣議決定の際農相だった山本悌二郎は、その責任を問われて迷走。もともと右翼的だったのがファッショ化。閣議決定に賛成したのは過失だったとして、憲法問題の緊急質問に立ち、美濃部追い落としの急先鋒となる

衆議院の国体明徴決議案は、政友会・民政党・国民同盟の3派共同提案となり、紆余曲折を経て満場一致で可決

犬養の死から斎藤への大命降下にあたり、天皇は後継首相に関する「希望」を列記した異例のメッセージを西園寺に送る。政友会の派閥党争と党略人事を目の当たりにした天皇や宮中側近には、政党政治への反感が醸成され、鈴木総裁や平沼が候補から排除された

 

第七章 岩波茂雄と長谷川如是閑の後退

岩波茂雄は、’35年初の『読売』掲載の「新春偶感」で、「検閲方針の標準確立を望む。寛厳いずれなりとも。而してこれが理解を著者と出版社とに徹底せしめよ」と書き、『朝日』に「美濃部の忠誠を確信する」との投書をするが、岩波側近の根回しで掲載されなかった

岩波書店発行の雑誌『教育』では、機関説問題を取り上げ、美濃部を攻撃する人々を批判、貴族院で美濃部を擁護しなかった学識者も「奉公の誠」を尽くしていないと批判

岩波茂雄は、’34年蓑田の筆誅に遭う。全国帝大閥の出版物を一手に独占して一代の富豪になった「驕慢反逆思想」の持ち主と糾弾された。'40年の津田左右吉裁判も「原理日本」一派の弾劾がきっかけで、岩波も津田とともに被告となり裁判に翻弄された

機関説事件では、言論の舞台である新聞や雑誌は直ちに対応を求められ、どこも慎重な姿勢で臨んだ。特に注目されたのは4大誌のトップ『中央公論』。このところ美濃部を書き手として重用していたが、森戸辰男の巻頭言も山川均の論壇時評も無残な削除を受けた

新興の『経済往来』が頑張って事件を取り上げ、自由主義の危機を訴え、森戸のほか向坂逸郎、三木清など大学を追われた左翼の研究者たちの寄稿を掲載。主筆が美濃部とのインタビューを敢行。さらに長老ジャーナリストの長谷川如是閑との面談記事も掲載

長谷川は事件当初から署名原稿で美濃部を弁護。特に法律と道徳の区別もつけずに美濃部批判することの危険を説くが、白虹事件('18)で大阪朝日を退社せざるを得なくなった経験もあって、今回も表に出ることは控えた

 

第八章 検察と検閲の現場は口を揃える : 「問題は天皇機関説ではなかった」

尾崎士郎の小説『天皇機関説』は『文藝春秋』'517月号に発表され、その年の読者賞。選考委員には宮沢と、機関説論者だと追及され法制局長官を辞めた金森徳次郎がいた

暗黙のうちに不起訴の方針に立って審理にあたった戸沢検事は、恩師である美濃部に対して「お前」という慣用語を用いることができず、考えあぐねた末「博士」と呼ぶことにした上で、御詔勅を批判しても差し支えないという中には教育勅語を含むのかどうかと質問、美濃部も一旦は含むと答えたが、後から国民の道徳に関する詔勅は批判を許さないと訂正

小説を原作として映画《風雪20年》が制作され、'51年公開

美濃部の著作は行政処分で発禁となるが、戦後『改訂版』が'46年には同じ出版社から発行

美濃部は貴族院議員を辞職し、不敬罪でも起訴されるが、のち起訴猶予に

 

第九章 昭和天皇が精読したパンフレット『大日本帝国憲法の解釈に関する見解』

発禁処分の6日後、2つの文章が発表された

1つは、帝国大学新聞に発表された河合栄治郎の『美濃部問題の批判』。河合は農商務省から帝大に新設の経済学部教授に転じた剛直の言論人。師の小野塚が貴族院で美濃部の弁明演説に拍手したのに倣い、美濃部擁護の論陣を張る

もう1つは、帝国在郷軍人会が編纂した『帝国憲法の解釈に関する見解』で、巨大な組織を通じて全国に配布された。配布の記事が載った時から天皇は関心を示し、自分の意思に悖る行為に出ようとする軍部を牽制したが、すぐに精読した後は、「大体の議論は可」とし、「一木等個人の名を挙げるのは意外の事件を惹起するので考慮すべき」と指摘

「軍部が自分の意向に従わない」という不満は常に昭和天皇の中にあり、軍人が言うことを聞かない、は天皇の強迫観念ともなっていた

 

第十章 「逆臣」真崎甚三郎から見える昭和十年

悪役イメージの真崎は、陸軍内の佐賀閥の代表で荒木とともに皇道派の2枚看板、二・二六では叛乱者に加担した「扇動者」として軍事裁判にかけられながら、真っ黒に近い灰色で無罪。陸軍内で機関説排撃の中心人物で、機関説に関する教育総監としての訓示も、自ら「上奏」としながら天皇の裁可なしに全軍に発出し、天皇の不興を買う

 

第十一章 天皇も三島も丸山も、真崎を嫌った

三島は自殺する2年半前自衛隊幹部対象に講演、質疑応答で尊敬する人はと聞かれ西郷隆盛と答え、一番軽蔑する人と聞かれ真崎の名前を挙げる。青年将校に担がれながら見捨てて生き延びた真崎を否定することで、ひそかに固まりつつあったクーデターと自決への姿勢を暗示したのではないか。三島の観点からは、真崎は「責任とは何か、人の信に応えるとは何か」を知らない、男の風上にも置けない奴。青年将校を途中で見捨てた将軍、軍事裁判の法廷では責任逃れに終始し、「精神」を捨てて、ついに生き延びた、あさましい老人

丸山も晩年、真崎に厳しい評価を下す。真崎はキーネン検事と取引し、皇道派を利用して統制派を裁くこととし、真崎は起訴対象から外れる。丸山は機関説当時の時局を、「軍部ファシズム」対「天皇を囲む重臣リベラリズム」の対抗とみており、真崎を青年将校たちの上に位する「軍部ファシズム」の巨魁と見做し断罪した

真崎は、二・二六以降陸軍から外れ、軍部は統制派が仕切っていたことが幸いして、東京裁判でも事前に検事の尋問を受け収監されたが、軍人の中では真っ先に釈放された

天皇も真崎を嫌ったが、戦後通訳として訪米にも同行したのは外務省にいた真崎の長男

天皇の真崎嫌悪の原点は、’32年真崎が参謀本部次長となって以降戦争拡大に向け舵が切られた時に遡るとされるが、戦争についてはむしろ不拡大に動いたという説もあり、それより閑院宮総長の「御徳は仰ぐが、能力は仰がず」の態度が露骨に出たところにあった

 

第十二章 もうひとつ奥にある「顕教」と「密教」

陸軍法務官で軍法会議の裁判官の1人だった小川関治郎の手記『二・二六事件秘史』では、真崎の「無罪判決」に不満を持ち、「あんな卑怯な奴は見たことがない」と言って真崎の宮中での不信任を暴く

'56年、久野収と鶴見俊輔によって提起されたのが天皇制の「顕教」と「密教」論。伊藤博文が中心になって作り上げた明治国家は、帝国憲法と教育勅語を2本柱とした。天皇制についてその核心は、エリート層と一般国民では違う教えられ方がなされ、エリート層には体制の申し合わせである本音の「密教」が、一般にはあくまでも建前の「顕教」が教えられた。そのシステムが壊されたのが機関説事件。軍部だけは密教の中で顕教を固守、やがて顕教による密教征伐である国体明徴運動へと発展、伊藤の作った明治国家のシステムを破壊

実態としては、「密教」のさらに奥にもう1つの「顕教」と「密教」があったのではないか

 

第十三章 『肉弾』世代の、怒れる在郷軍人たち

機関説排撃運動の背後で大きな役割をはたしたのが在郷軍人会。いち早く動き出したのはすべて退役陸軍軍人、単純で熱しやすい。代表格は小林順一郎。フランス人と結婚し陸軍と喧嘩して大佐で辞め、事業家として成功

近衛を擁立して、宮中、府中の宿弊を一掃し、昭和維新を実行しようと画策

 

第十四章 美濃部の貴族院議員辞職と「陛下の思し召し」

美濃部が任意出頭の形式で東京地裁に呼び出され、検事の取り調べを受ける

貴族院議員の辞職を決意し、そのために有罪ではあるが起訴猶予となる見込み

美濃部の心境の変化は、帝大法学部の同僚で親友の貴族院議員松本丞治友情の勧告によるところ大。松本は、司法省が詔勅批判だけは起訴せざるを得ないとの決意を知って、松本は公職辞任と引き換えに起訴猶予を引き出そうとしたが、美濃部は起訴猶予の後での辞職に拘る。起訴猶予が決まり、貴族院議員の辞表が出されすぐに裁可。天皇も司法部のやり方を褒める。美濃部が天皇の「思し召し」にあって甘受したとの述懐もある

 

第十五章 「御用掛」清水澄(18681947)の「憲法」定例進講と時事解説

'47年、公職追放となった最後の枢密院議長法学博士清水澄が熱海で屈原の故事に倣って投身自殺。20年近くにわたり天皇に憲法・行政法を進講した「天子の師」。新憲法の施行を見届け、天皇制の永続と今上陛下の地位を確実にすべく幽界より見守るとして自決

'46年、帝国憲法改正案が天皇から枢密院に諮詢され、本会議では美濃部のみが反対。鈴木貫太郎議長は即辞任。改正案は「勅書」を以て議会に提出、衆議院・貴族院とも可決、枢密院に再諮詢され全員一致で可決、天皇の裁可を経て公布され、枢密院はすべての役目を終えて翌年の施行の前日廃止

清水は美濃部の親友だったが、学説的には反対派で、「機関説が成り立つと日本は滅びる」と断言。「天皇制の忠実な番頭」との揶揄もある

清水は帝大法科大を特待生、首席で卒業後内務省入りする。一木の推薦で新設の学習院大学科の憲法教授となったのが出世の契機。西園寺は、清水の進講を傍聴しているが、国家総動員法の時は、憲法無視の法案と批判しつつ、清水を悪しざまに批判

事変勃発により、陸海軍の進講打ち切りとともに清水の進講も終わる

 

第十六章 天皇機関説事件、終息す

武者小路の自伝小説『或る男』にも学習院時代の清水が登場。のんびりしていた時代で、武者小路はびりから4番、木下利玄が2

清水は、満洲国の溥儀皇帝に対しても事実上の憲法に相当する満洲国組織法について進講している。その内容は、かつて東宮学問所で皇太子時代の昭和天皇に進講したものと重複

機関説については、当時の岡田啓介首相が後に回顧しているように、美濃部と上杉の中間的見解だったようで、その辺りを陸軍にうまく利用され国体明徴声明になった懸念が強い

10月の政府による「国体の明徴に関する再声明」で機関説問題はようやく終息に向かい、在郷軍人会も静観を決めるが、余波は続き、12月に内大臣の牧野が辞め、翌1月には法制局長官の金森が、3月には枢密院議長の一木が辞める

 

第十七章 庶民たちの「天皇機関説」世間噺

'36年を回顧した『中央公論』のアンケートで宮沢は、「近年は政治的乃至宗教的な主張が「学問」や理論の名のもとに主張せられることが多く、ことに非合理主義的な哲学の流行はこういう傾向に拍車をかけているように思われる。しかしこういった傾向から人間大衆の真の幸福が期待できるとは信じられない。もう少し客観的な知識の追求に努力することが必要と考え、小生自身もその方面に尽力したい」と、秘かに機関説排斥への怒りを込める

あれだけの事件を、普通の日本人はどう受け止めていたのか、これはなかなか難題

閣僚の多数意見も「国民は無関心」。当時中学2年の山本七平の自伝的回想の中に「庶民の嗅覚」という章があり、満州事変が一段落した後の二・二六までの3年の庶民感情は、「足るを知って己が分に安んずる」といった気風が強く、「平穏であれ」とのささやかな要求が満たされていた日々だったとある。庶民が嗅ぎ分けたのは、事件の裏話で、平沼が一木を追い落として枢密院議長の後釜を狙っているというもの

 

第十八章 「君の説、借りたよ」宮沢と丸山と美濃部の「八月革命説」

宮沢が'46年唱えた「八月革命説」は、丸山眞男との「合作」だと噂されてきた。戦後憲法体制をスムーズにソフトランディングさせた憲法学の荒技とされる。両者は東京帝大憲法研究委員会の委員長と記録係。合法性一点張りで正統性の概念は抹殺していた宮沢が、突然民主主義的正統性が戦後日本の基礎だとし、日本国憲法の基本原理はポツダム宣言受諾で崩壊し、新しい基本原理が生まれたと言い出すが、その背景には丸山との研究室内での私的なやり取りがあったようだ

丸山の思い入れが最も激しく露出したのは以下の一文。「日本軍国主義に終止符が打たれた815の日はまた同時に、超国家主義の全体系の基礎たる国体がその絶対性を喪失し、今や初めて自由なる主体となった日本国民にその運命を委ねた日でもあった」

宮沢の戦後10年に書いたエッセイ『815日を想う』では、戦争末期には「へたに何か言うとひどい目に会う」という圧迫感から栄養失調状態もあって思考停止になっていたが、マッカーサー草案で「国体」が否定されたことに驚きGHQに感謝したと書く。終戦直後から宮沢は精力的に動いている

宮沢は美濃部のような信念の人ではない。いくつもの引き出しを用意し、臨機応変に相手に合わせて現実的なメニューを提示する、学者というより有能な官吏の行動様式をとった

美濃部が問題にされた当初、新聞紙上で堂々と美濃部を弁護したのは宮沢だったから、それ以後の宮沢の対応は、宮沢にとっては挫折であり、妥協、屈従の連続だった。東條が参謀総長も兼任するに至り、憲法的に疑義の多い無謀な人事を、宮沢は「非常措置として国務、統帥の一層の緊密化が具現されるならば国家のために慶賀に堪えない」とまで言った戦中の汚名を一気に挽回したのが「八月革命説」。いち早く毎日新聞に政府の『憲法改正草案要綱』と同時掲載で『徹底せる平和主義――新日本の大憲章なる』と題して見解を発表し、戦後の憲法学の牽引者となることが確定。東京帝大法学部の勝利でもあった

美濃部の戦後の復権は、'46年の枢密院入り。幣原内閣が慣例である議長の承諾もなしに顧問官に任命、美濃部も枢密院無用/廃止論を唱えながら受諾

憲法改正の諮詢では、枢密院で詢議すること自体、憲法が国民の自由なる意思表明により発議されたものとは言えないと反対し、復権を推薦した松本丞治国務大臣も困惑した

最後の本会議では欠席して抵抗したが、新憲法が施行の前後1年に新憲法本を4冊も書き、「天皇を国家の中心として奉戴するわが国特有の精神的倫理的事実を国体というのであれば戦前と変わらないが、従来の憲法とは根本的にその主義を一変したのはまさに無血革命である」と説明している

国家は勲一等旭日大綬章を授与して美濃部に報いた

 

あとがき

美濃部という「硬派」な信念の人と、宮沢という「軟弱」な妥協の人、2人の憲法学者を対比させながら昭和史を描いてみたいと思った

美濃部は国家によって追放され、新憲法を理論づけたのは宮沢。江藤淳は宮沢の「転向」を激しく批判したが、ただそれだけでもなく、東京帝国大学法学部の憲法学教授というポストにかかる「圧力」の大きさに思い到った。「圧力」をものともしない美濃部、「圧力」に敏感で柔軟な対応も得意な宮沢、大物感ある美濃部対小者感あふれる宮沢。この2人を中心とすれば、本郷キャンパス方面から見える昭和史が書けるのではないか

天皇機関説があった’35年は、言論が委縮した年でもある。言論人の誰彼が如何に身を処したか、その具体像も知っておきたかった

美濃部とは違う宮沢の「小さい」ありようは、他人事として批判するだけでは済まされない。大なり小なり、あの「小さい」ありようは当時の人々に内在していたのみならず、今の我々にもあることを認めざるを得ないし、上は元老から昭和天皇にも分有されていたのではないか。決して他人事ではない

石井秋穂(陸軍省軍務局で東條、武藤の直属の部下、大佐)の『回想録』('46)で、「常の陛下は大臣の上奏毎に注意や奨励・激励されることによって方向を保たれた。大臣たちにとってはまことに重圧でありうるさかった。即ちご親政遊ばされないようであリ、又ある意味では強いご親政のようでもあった。形式上は確かにご親政ではなかった」と書く。その一端を知り得たのは、真崎と清水に深入りしたからに他ならない

 

 

 

講談社 ホームページ

天皇機関説タイフーン

言論はいかに弾圧され、口を封じられるのか。どうやって人々は生き延びるのか。
台風の如く、人々を翻弄し、敗戦に至る日本の行く末を決定した天皇機関説事件。
「昭和百年」に「合法無血のクーデター」の真相に迫る。

評伝『江藤淳は甦える』の著者による、天皇と憲法をめぐる人間ドラマ!

宮沢俊義は蓑田たちから次のターゲットとされていた。昭和十年には危うい位置に座っていたのである。美濃部の後を継いだ憲法学の少壮教授は、いかに巧みにサバイバルしたか。それは当人には棘となり、良心は痛み続け、戦後にまで尾を曳く。美濃部とは違う宮沢の「小さい」ありよう。それを他人事として批判するだけではすまされない。大なり小なりあの「小さい」ありようは当時の人々に内在していた。当時に限定することなく、いまの我々、いや私にもそれがあることを認めざるを得ない。史料を注意深く読んでいくと、その「小さい」ありようは、東京帝大出の官僚にも、政治家にも、それどころか、首相で海軍大将の岡田啓介にも、はるか上の「最後の元老」西園寺公望にも、雲の上の昭和天皇にも分有されていたのではないかとも思えてきた。けっして他人事ではないのだ。(あとがきより)

 

好書好日 2026.02.07

「天皇機関説タイフーン」書評 「小さい」人物が導いた戦争の道

評者: 有田哲文 新聞掲載:20260207

天皇機関説タイフーン著者:平山 周吉出版社:講談社ジャンル:ノンフィクション

 歴史の隙間に消えてしまいそうな言葉を丁寧に紹介する。そのためにもこの分厚さが必要だったのだろう。とりわけ以下の言葉は印象的だ。「戦争を起こして日本をこんなにしたのは軍人ばかりが悪いのではなく、日本中の男という男がみな卑怯だったからです。わたくしはそう思います」
 発言の主は美濃部民子。夫の憲法学者・美濃部達吉は戦前、天皇を「国家の最高機関」とする説に立っていたが、「不敬」だとして右翼や軍部から攻撃された。学界や官界の常識だった天皇機関説はいとも簡単に葬られ、神がかり的な天皇主権説の天下になる。「卑怯」の2字が重いのは、そのとき声をあげるべき人たちがほとんどあげなかったからだ。
 その一人が憲法学の弟子にあたる宮沢俊義だ。宮沢が戦後に語った弁がある。「わたしは事情の許すかぎり、小さくなっていようと決心しました」。下手に抵抗しても効果がないだけでなく、大学に災いが及ぶと考えた。周りの空気を一切読まずに自説を訴えた美濃部の人間が「大きい」とすれば、周囲を気遣う宮沢は「小さい」。そしてその小ささは、学者だけでなく当時の政治家や官僚などに共有されていたと著者は言う。
 読んでいて苦しいのは、美濃部ではなく、口を閉じた人たちに近さを感じてしまうことだ。メディアも「慎重な取り扱い」を言い訳にして、身を守った。そうやって常識や良識がいつのまにか押しつぶされる。1930年代に限った話ではないだろう。
 関係する人物を網羅した本書は、機関説を排撃する側にも光をあてた。なかでも「原理日本」誌上で美濃部を執拗に攻撃した蓑田胸喜(むねき)は深く掘り下げられている。名前をもじって「狂気」とも言われた人だが、実は「気の小さな、どっちかといえば臆病な善人」という同僚の評価が興味深い。「小さい」人物はあちこちにいて、戦争への道ができていった。
    
ひらやま・しゅうきち 1952年生まれ。雑文家。『江藤淳は甦(よみが)える』で小林秀雄賞、『小津安二郎』で大佛次郎賞。

 

有田哲文(ありたてつふみ)朝日新聞社文化部記者

1965年、新潟県生まれ。早稲田大学政経学部卒。90年、朝日新聞社に入社。経済部記者や「天声人語」担当などを経て、現在「日曜に想う」を執筆。著書に『ユーロ連鎖危機』、共著に『よりぬき天声人語 2016年~2022年』など。20234月より書評委員。

 

 

 

書評『天皇機関説タイフーン』平山周吉著

戦前と現在結ぶ、禁欲と貪欲

2026110 日本経済新聞

禁欲的な本である。天皇機関説事件といえば、1935年に起きた、戦前日本における代表的な学問弾圧だ。それまで主流だった憲法学説が、これをきっかけに政府から公式に否定されるにいたった。歴史に通じたものなら、蓑田胸喜のような右派知識人による過激な煽動がその背後にあったことも思い起こすかもしれない。

そうした事情から、われわれはついこの事件から現在への教訓を拙速に導き出し、たとえば日本学術会議の任命拒否問題などと安易に重ね合わせて論じやすい。

しかし本書は、その種の現在化を意識的に回避している。著者はあくまであの時代に何が起きていたのかを、さまざまな資料を読み直すかたちでひとつひとつ丁寧に掘り起こしていく。

もっとも、それはたんなる事実の羅列ではない。軸となるのはふたりの憲法学者、美濃部達吉と宮沢俊義の対照的な生き方である。

天皇機関説を唱えた美濃部は、この事件によって貴族院議員を辞し、著書も発禁処分を受けた。老境の無力な学者を想像しがちだが、描かれるのは、容易に屈せず、自説を守り抜こうとした頑固ながら好ましい硬骨漢の姿だ。

それにくらべ、美濃部の後任として東京帝大教授となった宮沢は、良くも悪くも柔軟だった。情勢が不利と見るや沈黙を選び、結果として弾圧をたくみに回避する。戦後、新憲法の擁護者となり、いわゆる「八月革命説」を唱えた人物だけに、変節ぶりには驚かされる。ただ、それは多くの知識人に共通する処世術でもあった。

本書では、この両名のみならず、多数の学者や軍人が登場する。それぞれが思惑を抱えながら、時代を潜り抜けていく。絶対的な主役がいるわけではない。日本らしい群像劇だからこそ、読者は各自そこから教訓を汲み取るだろう。

特筆すべきは、登場人物たちがいずれも強烈なエピソードの持ち主だということ。その面白さが全体を駆動している。素材の発掘と紹介という点では、本書はむしろきわめて貪欲である。

戦後80年がすぎたいま、戦前と現在をいかに適切に結び直すのか。事実の羅列でもなく、単純な政治化でもなく――。禁欲と貪欲が絶妙に配合された本書はその問いへのひとつの応答となっている。

《評》近現代史研究者 辻田 真佐憲

 

コメント

このブログの人気の投稿

本当は恐ろしい万葉集  小林惠子  2012.12.17.

近代数寄者の茶会記  谷晃  2021.5.1.

血族の王  岩瀬達哉  2019.7.1.