反骨魂 後藤亘 延江浩 2026.2.1.
2026.2.1. 反骨魂 後藤亘「ミスターFM」と呼ばれた男
著者 延江浩 1958年東京都生まれ。ラジオプロデューサー、作家。暁星高校、慶應義塾大学文学部卒業。82年、エフエム東京に入社。『村上RADIO』をはじめ、音楽番組からドキュメンタリーまで、幅広い分野で数多くの番組を手がける。ABU(アジア太平洋放送連合)賞ドキュメンタリー部門グランプリ、日本放送文化大賞グランプリ、ギャラクシー大賞、放送文化基金賞ラジオ番組賞、JFN賞大賞、同特別賞などを受賞。『アタシはジュース』で小説現代新人賞受賞。本稿脱稿後2025年4月6日急逝
発行日 2025.10.30. 第1刷
発行所 文藝春秋
第一章
玉音放送
l 空に憧れていた少年
父は米沢出身で刀剣の鑑定と販売を生業としていたが、戦後は失業、古物商に
少年航空兵に憧れる
l 母の涙の訴え
少年航空隊に入りたいと言った亘に対し、母は陸軍幼年学校に行けと諭す
l 少年航空兵志願を断念
'45年、旧制福島中に進学
l 会津若松駅前で聞いた玉音放送
亘は終戦の詔勅を仙台陸軍幼年学校の身体検査に向かう途中、会津若松駅で聴く
第二章
北への逃避行
l 軍歌が電波上から消えた
l 敗戦とともに消え失せた夢
学制改革で旧制中学4年の亘は新制高校の1年に。価値観・倫理観の混乱の中に埋没
l 夜行列車での家出
‘50年朝鮮戦争勃発。当てもなく家出して青森に向かう
l 津軽海峡を吹き抜ける冷たい風
函館行きの洞爺丸に乗る
l 大志を抱いてみたものの
ジャパンタイムズの社説で読んだ「少年よ、大志を抱け」は一筋の明るい光となり、札幌市の月寒牧場に憧れ、働かせてくれと頼んだが追い返される
l 北の大地で人の情けを学ぶ
腕時計を換金しようと入った質屋で帰りの汽車賃と握り飯をもらい、初めて見知らぬ世界に触れた
l 東北大を目指して
家に戻って、兄のいた東北大を目指し、見事合格
第三章
杜の都でのバンカラな日々
l 旧制高校の気質が残る寮生活
'51年、東北大法入学、寮生活が始まる
l 麻雀と売血
麻雀や売血で生活費を稼ぐ
l 名画座に入り浸る
ヨーロッパ映画にはまり、チラシに映画の見所を書くアルバイトでタダ券をもらう
第四章
いざ、花の東京へ
l 譲れなかった東京への思い
'55年、低空飛行で卒業。特需後の景気の落ち込みで就活は厳しかったが、東京に行きたい一心で上京
l 興味の持てない仕事はできない
父の伝手を頼って、憧れの仏映画の輸入配給元の東和映画(現東宝東和)に入社
l 東和映画は憧れの職場
東和映画の営業部門に入社。最初の仕事はフィルム倉庫での配送係
l 新橋駅前でのプロレス街頭中継
'54年から、テレビはプロレス、映画は《ゴジラ》。東和も羽振りがよかった
l ドスを突き立てた映画館主
銀座本社勤務となり、団体映画鑑賞を勧誘したり、映画館を担当したり
l 拙い英語が身を助く
留学していた映画館主の息子からの電報を翻訳して親しくなる
l 有楽町で逢いましょう
有楽町そごうの開店キャンペーンソングが大ヒット。ジャズやロックも盛んに
l こんなに楽しい仕事はない
興行的に不振だった映画を生かした企画で大当たりをとり、仕事の醍醐味を知る
l 日本映画界のピークに結婚
‘58年、同郷の女性と結婚。このころが映画のピーク
第五章
松前重義との邂逅
l 熊のように眼光の鋭い男
会社で入りの赤坂料亭「福住」の女将が同郷の亘に目をかけ、二高の先輩で東海大総長・衆院議員の松前に会わせる
l 初めて耳にした「FM」という言葉
技官として逓信院総裁だった松前は、言論の自由とその多様性の必要性を痛感し、NHK以外の民間放送発足を画策。それまでのAM-Amplitude Modulation(振幅変調)に対し、伝送距離は短いが容量が大きく多重化しやすいFM-Frequency Modulation(周波数変調)電波活用による実験局開設を考えていた
l 科学技術を平和の礎に
松前は東北帝大卒、逓信技官としてアナログ時代の電話通信システムである「無装荷ケーブル通信方式」を発明、クリアな長距離通話を可能にすることで世界的な名声を博す
電気学会からの奨学祝金を教育にも投資、航空科学や電波科学の専門学校を創立
l 軍部に協力したラジオ
軍部はラジオを統制し、用紙の配給を管理して新聞の喉元を抑えつけ、国民を戦争に駆り立てた
l 理不尽な懲罰召集の記録『二等兵記』
『二等兵記』('50)は、松前の戦中体験を綴ったもの。東條内閣を公然と批判したため終戦直前南方の最前線に陸軍二等兵として送られた懲罰召集の顛末を記録
l 松前の不屈の精神
'44年7月召集令状が届き、二等兵としてフィリピンに向かう。九死に一生を得て、総司令部付きの軍政顧問となり、ほどなく陸軍兵器学校に転属され帰国
l 「人の歓びのために」ラジオを再生させたい
権力によって一度殺されたラジオを再生させ、教育に活用したい。そのために超短波の開発を構想。後藤を実証実験に誘う
第六章
新天地、FM東海
l 政治の風が吹き荒れるなかで
後藤は、'60年東和映画退社、東海大超短波放送実用化試験局(FM東海)入局
安保闘争に揺れる中、後藤は初物に戸惑いながらも無限の可能性を信じて日々を過ごす
l 実用化試験開始
FM放送の実験は1934年アメリカで始まるが、日本では1958年の東海大が最初
商業化の課題は、安価な受信機とCMスポンサーと認知度のアップ
l FM受信機製造のために奔走
受信機は大手電機メーカーに開発を依頼するも相手にされず、音響メーカーにFMの高音質を売り込む。価格の目標は大卒初任給の1/3程度で1万円で、まずトリオが開発
l 「FM喫茶」と「FM理髪店」
認知度アップのためには人の集まる場所で実験放送を流すことを考え、喫茶店と理髪店に無料で受信機を置くと、すぐサブカル的なスポットとして人気に火が付く
l キーワードは「音楽と教養」
番組制作では、AMとの差別化で「音楽と教養」という電波の新しい解放区を生み出す
最初の企画は「FM教養大学」で、様々な分野の文化人がパーソナリティとして出演
田英夫を起用したベトナム戦争報道など、自主独立の編成権を堅持するラジオ局として注目を集める
l 東京オリンピックの狂騒の先へ
高度成長により先進国の仲間入りを果たした日本で、FMラジオ時代到来を確信
第七章
大賀典雄からの挑発
l 「は? SM?」
認知度アップのためにエンタテインメントの番組に注力
l 反骨魂に火をつけたひと言
クラシック音楽番組のスポンサーとして、急成長中のソニーに着目。契約に漕ぎ付けたが新任取締役の大賀にどぶに金を捨てるとひっくり返され、後藤の反骨魂に火が付く
l 大賀の才能に惚れ込んだソニー創業者
1930年生まれの大賀は、中山悌一のバリトンに心が震え、新制藝大の1期生。ベルリン国立芸術大に留学し、モーツァルト生誕200年祭国際コンクールで入賞。藝大時代にソニーのテープレコーダーを聴いて欠点を列挙したのが創業者の目に留まり、ソニーと嘱託契約を結び、声楽家との二足の草鞋でソニーに入社
l 大賀と後藤の共通点
大賀が似た者同士と分かった後藤は大賀から多くを吸収。大賀も後藤との邂逅により「電気」と「音楽」を結び付けた「電波=FMステレオ放送」というアイディアに辿り着く
'68年ソニーのCBS買収で、メーカーのソニー、放送のFM東京、コンテンツのCBSソニーの3社が揃い、日本の音楽・放送業界の主軸を担っていく。2人は放送業界の未来について語り合うようになり、盟友として親交を深める。大賀はFM東京の社外取締役に
第八章
ジェットストリーム
l FMを象徴する看板番組がほしい
看板番組を探していた後藤が、ラジオ関東('58年開局、現アール・エフ・ラジオ日本)の「ポートジョッキー」を聴いて閃いた
l これからは「空の旅」だ
ジャルパックのブームを見て、飛行機での旅をイメージさせながらリスナーを憧れの海外に誘う番組を考える
l スポンサーは日本航空
日本航空に売り込むと、すぐに乗ってきて、週日深夜零時からの1時間ベルトのオンエアが決まる
l 「ミュージック・ティル・ドーン」の衝撃
アメリカン・エアラインズ提供の深夜4時間番組「ミュージック・ティル・ドーン」を聴いて衝撃を受けたスタッフは、ボビー・ヴィントンの《ミスター・ロンリー》をオープニングに、ナレーションを抑え、ボーカルはかけない、リスナーを眠らせる番組を作る
l 機長は城達也
番組のタイトルは「ジェットストリーム」
機長役は、後に映画《ローマの休日》でグレゴリー・ペックの吹き替えを担当することになった城達也。実験局のため少ないギャラにも、城は出世払いで引き受ける
l 静寂と饒舌
劇作家堀内茂男によるオープニングの詩は、「静寂と饒舌」という印象的なパラドックスは堀内の知性の賜物。'67年放送開始
l 収録は真剣勝負
番組の構成も担当した堀内も、機長役の城も海外は未経験
第九章
FM東海、存続の危機
l 突然の免許更新拒否通告
'68年、毎年の免許更新に対し実験放送終了の通告
l 郵政省の思惑
全国で223社493局の免許申請が出されていて、新たに東京に免許を下すために実験局を取り消す必要に迫られたというのが背景にあった
l 「放送を続けろ!」
東海大は通信制の「望星高校」も運営していたため、1423人の生徒を守るために文部省が動くが、郵政省の方針は変わらず。FM東海は仮処分を申請し放送を続ける
l 官僚は世の機微に疎い
仮処分の期限後も放送を続ける局に対し郵政省からクレームが入るが、後藤は松前を盾に拒否。免許停止の背後には、松前と通信省の1年先輩の小林武治郵政相との確執があった
l 電波法違反での告発
郵政省は東海大を電波法違反で告発。東海大も応訴
l 「免許取消し」に待った
東海大の処分執行停止申請に対し、判決確定まで停止の判決が出る
泥沼の訴訟合戦に発展するが、松前はFM放送継続を第一に考え和解に応じ、90余りある新局設立申請の一本化を条件に正式免許交付に漕ぎ付ける。FM東海の人的、技術的資産を受け継ぐ形の株式会社とし、新たに「FM東京」として開局
l 人の情に救われる
秋葉原の電気街ではオーディオブームの到来を予見、FMが受信できるラジオの売り場を拡大し、本放送実現を応援。無免許の間CMを流せず、ギャラの支払いにも困ったが、堀内も城も意を汲んで協力し、看板番組を守り、’70年試験放送局は幕を下ろす
第十章
「FM東京」の誕生
l 「祝開局!」のアドバルーン
‘70年、FM東海閉局の翌日FM東京本放送開始。周波数80メガヘルツ、出力10kw
後藤は新会社の営業部長に。高音質を武器にライバルを追う
l 番組は鉄道便で配送
FM東京は、民放局として愛知、大阪に次ぐ3番目だが、FM東海の経験から業界をリード
福岡も入れた全国4曲体制が整うが、ステレオの全国放送をするためには電話回線では不安定だったため、録音テープを地方局へ鉄道郵送した
l 経済界がFMに寄せる期待
当時の番組表は、クラシック音楽とスタンダード・ナンバー中心の編成
多くのスポンサーが並び、経済界の期待が伝わる
l 渡辺貞夫の「マイ・ディア・ライフ」
クラシックでは小澤征爾のオンエア、ジャズでは渡辺貞夫に着目して'72年番組開始
l ラジオから生まれたスーパースター
'70年にシングル《イメージの詩/マークII》でデビューした吉田拓郎は、ラジオから生まれたスーパースター。巨大メディア化するテレビに対し、若者のパーソナル・メディアとして深夜放送のブームを巻起こし、マイナーだったフォークソングをメジャーに引き上げ
l 団塊の世代が求めた新しい潮流
団塊の世代が音楽にも新しい潮流を求めたのに呼応して、AMラジオでは深夜番組全盛で多くの有名人を輩出。そのタイミングで、それまでの庶民向けのAM、オーディオファンの大人向けのFMという構図を崩したのがFM東京
l 記憶の中の部屋に貼られた壁紙
一般の人たちに高音質の放送を楽しんでもらうというFM業界に、新しい音楽の潮流が流れ込む。ビートルズの解散後、洋楽は百花繚乱。日本でも新しい世代の作家群が誕生
大学生だった村上春樹が自身がDJを務めるラジオで、「いろんな音楽が至る所にまんべんなく流れていた。まるで記憶の中の部屋に貼られた壁紙みたいに・・・・」と語っていた
第十一章 人を発掘して育てる
l 成績優秀ではなく頭脳明晰
松前は後藤に、後輩人材の発掘と育成も託す
学業成績より頭脳の明晰さに見える人間性を重視して採用
l 「ひょっとしたら化けるかもしれない」
開局2年目に正式は入社試験を通った初の新入社員が来る
l 初めて採用された新卒アナウンサー
初の新卒アナウンサーも登場
l 新聞社からジョーズ襲来
中途採用も多い。報道を強化するために東京新聞編集局次長の津田亮一をスカウトし、報道を任せてもう1つの顔を作る。津田は福島高校で後藤の先輩
l 三島由紀夫の肉声
文化放送は三島の肉声を録音、歴史に残るスクープとなったが、FM局は音がいいと言いながら、誰も現場にいなかった
l ラジオCMもひとつの番組
当時はCMクリエイターが花形で、電通や博報堂もラジオCMにトップのクリエイターを持ってきた。1時間番組だとCMは6分にもなり、その制作は十分番組にも匹敵
l 個人の能力を自由に発揮させる
後藤は若手を自由に泳がせ、広告界のグランプリを次々に射止める
第十二章 多局化時代の全国ネットワーク
l 「エアチェック」の流行
団塊の世代は新しい文化に貪欲。アメリカのポップスを積極的に流すFM放送に対する関心も高く、音楽番組を録音する「エアチェック」が流行。FM専門誌も相次いで創刊
音楽のジャンルに合わせ、ダイナミックレンジ(最強音と最弱音の幅)の狭い方から、ポップスやロックにはノーマル、ジャズにはハイポジション、クラシックには最高音質のメタルと3パターンのカセットテープが出回る
l 全国FM放送協議会(JFN)の発足
'80年代に入ると地方局が続々誕生。デジタルのステレオ放送に対応するPCM回線が整備され、テープ搬送は不要に。'85年には1県1局体制が決まるが、音質の良さを生かすにはそれなりの設備と技術が必要で、相互に助け合う仕組みとして'86先発4局でJFN発足
既存の系列局と違い、番組制作や販売を行うフラットな独立国家共同体的な組織とした
l FM局が「文化を担う」
後藤は、各局の社長に文化を担っているという理念を通じて誇りを持たせようと画策
l 戦争の傷跡を超えて
最終的にJFNには38局が加盟、真の意味での共存共栄を目指して歩んでいくことになる
第十三章 皇居前の新社屋
l 手ごわい総務部長
後藤は総務部長になって技術や機器についても勉強し、機材更新の申請を厳しく審査
l 本社をどこに移転するのか?
FM東京の本社は霞が関ビルにあったが手狭となり、新宿の国際通信センタービルに移転していたが、’80年代に入ってネットワークが本格的に稼働しだすとスタジオ拡張のスペースが不足。自社ビル建設に動き出す
l 泣く子も黙る超一等地
富士銀行から半蔵門ビルの情報が入り、交渉の結果獲得
l 「自前のビルを持つべきだ」
松前の鶴の一声で自社ビル保有が決まる。社員の心を一つに集めるには自社ビルが一番
l 半蔵門に新社屋竣工
‘81年、開局15周年記念事業として、本社ビル建て替えが決まる。高音質のホールを持つ新社屋は’85年竣工
第十四章 ラジオ新時代の幕開け
l FM東京の社長に就任
東京のローカル局の現状を脱し、全国ネットワークを構築してFMの文化と経済的価値を全国的に高めていこうとする後藤路線が現場の支持を得て、'89年社長に就任
l ネットワーク化のメリット
後藤は「プログラムネット」を提唱。放送番組のプログラムの理念をネットワークで共有するという発想で、JFNを活用しネットワーク傘下の各局による協力体制の構築により、全国への放送網を広げ、全体の底上げを図る
l 画期的な「水道の蛇口」方式
JFNは38局にまで広がり、音声メディアとしては世界最大のネットワークとなる
番組共同制作会社JFNC設立。制作した番組を通信衛星で各局に供給
地域に根差した自主制作番組が2割、FM東京から送られてくるスポンサー付き番組が3割、残りをJFNCが担い、回線で連日流れてくる番組の中から自由に使える。蛇口をひねれば水のように使える体制を作り、この配信支援により地方局はほぼ3年で黒字化
日本最大のラジオネットワークJFNを立ち上げ、ソフト・ハード両面において地方のFM局の健全な経営に貢献した功績などにより、’10年旭日重光章受章
l 「見えるラジオ」
‘95年、後藤は「見えるラジオ」の発明により、全米放送事業者協会から第1回の放送事業者国際特別功労賞授与。テレビにおける障碍者用の字幕放送のように、FM放送でも空き周波数を使って文字情報を配信すれば、様々な用途に使えるが、データ放送を受信できるFMラジオがなく、端末の開発から始める。こうして音楽を流しながら液晶画面に文字情報を流す文字多重放送を「見えるラジオ」と命名し、JFN加盟38局と提携して放送を開始
l 最先端の技術で社会に貢献
個別に契約して大画面で文字情報を流す「パパラビジョン」や、ユーザーごとに違う情報を供給する「パパラジーコム」を開発し、タクシーや新幹線でニュースを流し、文字情報に課金することでビジネスに繋げていく
l FMでカーナビの誤差を解消
カーナビ支援システム「D-GPS」を開発。上空2.1万kmにある複数の軍事衛星から発信する電波を利用していたが、米軍の事情で静止衛星ではなく、衛星を故意に移動させていたため、ナビに誤差が生じる。狭い日本ではその誤差が許容できないため、7つの局で受診しその誤差を補正した上でFM電波で送信することにより誤差を解消させた
機器メーカーなどと共に衛星測位情報センターを設立し、'97年から新方式に移行
「見えるラジオ」の発想が、30年後にMXのテレビ電波に引き継がれ、東京エリアでの新しい防災システムの開始に繋がる
第十五章 強力なライバルの出現
l 宇宙からFM電波を発射する
後藤が社長就任後の初仕事は、通信衛星を使った放送ネットワークの実用化
日本初の通信衛星が打ち上げられたのを目の当たりにして、開局20周年記念の全世界衛星中継コンサートを企画。世界22か国、538局への衛星生中継を実現させる
全国ネットのPCM回線は使用料が高く、'93年以降は衛星回線を使った伝送に切り替え、ランニングコストを半減させる
l 放送番組審議会
各放送局では番組審議会の設置が義務付けられ、番組の質の維持・向上のため有識者から意見を聞くが、FM東京では渡辺貞夫や内館牧子らが辛口のコメントを出す
l J-WAVE開局の衝撃
‘80年代後半になると、リスナーの音楽の聴き方が変わってくる。高価なオーディオ機器で聴く時代から、FMのステレオ放送をラジカセなどで気軽に楽しむ時代を経て、エアチェックしたカセットをウォークマンで携帯して聴く時代へ
‘88年東京都を放送対象地域として開局したJ-WAVEが、高音質、圧縮の音作りで新たな嗜好にうまく対応、若いリスナーを惹きつけることに成功し、視聴率トップに
l 「二度とこんなところには来ない!」
ビデオリサーチ(電通の系列会社)の聴取率調査の数字がコマーシャルの出稿量を左右したため、テレビやラジオ局の電通詣でが盛んだったが、後藤は博報堂に声を掛け、キー局の中では博報堂が取扱高で首位になる。そのため電通が意趣返しで、J-WAVEに出資して開局を後押ししたといわれる
l FM東京に足りなかったもの
J-WAVEは、アーバンな雰囲気、洋楽主体で綺麗に1本筋が通った番組編成。J-POPの名称で新たな邦楽のジャンルを生み出し、最先端のカルチャーに敏感な若者を中心にリスナーを取り込み、一時はFM東京の倍の聴視率を上げる
第十六章 渋谷スペイン坂スタジオの誕生
l ライバルに立ち向かうための改革
後藤の対抗策は、番組編成の大幅な変更と、看板の教育番組を多重放送のサブチャンネルに移すこと。そのため勤労学生に無料で多重放送の受信機を配布
l 時代が求めるポップス
技術面では、通信衛星を通じてCDを超える音質を非圧縮モードで実現、「ミュージックバード」を立ち上げる
番組編成でも、時代の流れを敏感に読み取る感性を磨き、時代の求めるポップスにも対応
l 渋谷を若者文化の発信地に
パルコの増田通二会長から、渋谷を若者文化の発信地にしようとの企画が持ち掛けられる
l これまでのラジオの概念を超える
'93年、パルコ1階にガラス張り&見学可能なラジオサテライトスタジオ「TOKYO FM渋谷スペイン坂スタジオ」オープン。イベントを常態化しファンを惹きつける
l SMAPの登場に三万人の観客
スタジオには、福山雅治を皮切りに、矢沢や安室など旬のゲストが出演。アーティストにとってもここでの出演がステータスとなる。'95年のSMAPで最高潮に
スタジオは、エンタテインメントの最大の発信基地になっていく
'16年、パルコ改装で閉鎖されるまで、出演者は延3500組、観覧者は130万
第十七章 松前への惜別とラジオの再生
l 「もう私も長くないな」
'91年、松前逝去、享年90
l 思想を培え
松前の教育家としての指針が「若き日に思想/体躯/智能を培え。希望を星につなげ」
l 松前から学んだこと
松前は、どんな人間もその属性に拘らず皆フラットで一緒だというフィロソフィーを持つ
戦後の議員時代には日本がアメリカに傾く風潮を憂慮して、あえてソ連との関係を保とうと、歴代書記長とのパイプを維持。外交の肝要は、いちばん付き合いにくい国々とどう付き合うかにあり、敵対する国ともパイプを繋ぎ、多元的に全方位に目を配るべきと考えた
松前に出会ってから後藤は、常に「ひとはどう生きるのか」を問われ続けたと感じていた
l 通信と放送の融合「FMケータイ」
FM放送の世界は技術革新との闘いでもある
‘90年代半ばに携帯電話が本格的に普及し始めると、FM放送が提供する音楽を「着メロ」にすることを考え、'03年KDDIと共同でFM受信機を備えた「FMケータイ」を発売
l ラジオを再生させる
‘08年、FMケータイによる「新たな聴取スタイルの拡大」と銘打って桑田佳祐のライブを日本初の同時ライブ番組として生中継、爆発的人気を集める
デジタルとインターネットでラジオを最先端のメディアとして再生することを目指す
スマホの普及でFMケータイは廃れたが、代わりに登場したのがradiko。ラジオが息を吹き返すとともに、コンテンツのプロバイダーとして機能する可能性を見出す
第十八章 ラジオからテレビの世界へ
l 突然の社長就任オファー
'97年、後藤は松前の兄弟弟子的存在だった徳間書店社長から東京MXテレビ立て直しの要請。東京都の情報伝達を目的に東商が中心になって2年前開局。累積赤字が100億超
l FM東京と東京MXテレビの社長を兼務
FM東京社内はもとよりJFN傘下の各局から猛反対を受けながら、マスメディア集中排除原則もすり抜けて2足の草鞋を決断
l 士気を高めるためのコンパクト化
組織をコンパクト化し、異業種出身の幹部を整理
l 「アニメなら勝てます!」
経営体制と番組編成の大幅な見直しに着手。ニュース主体から新たな曲の顔になる番組としてアニメを取り上げ、アニメ業界の信頼を得る
l 「5時に夢中!」でタブーに挑む
番組編成を、視聴者の興味と局の事情に合わせて根本から見直し
知名度を一簣に上げた新番組が'05年スタートの情報番組「5時に夢中!」。マツコや岩井志麻子などニュースへの過激なコメントが人気を呼ぶ
l 「地デジ化」に見出した勝機
MX視聴の妨げだった独自のUHFアンテナが、'03年の地デジ化により不要となり、地デジ放送を開始すると視聴世帯が激増。フルハイビジョン放送やワンセグを開始
コンテンツの多様化を図るためにマルチ編成に乗り出す。地デジ化により可能になった1つのメインチャンネルの帯域を分割し、同時に2つ以上の番組(メイン+サブ)を放送する機能で、スポーツ中継の延長時や臨時ニュース、放送内容の異なる並行放送などで利用
裏番組で時局内にライバルを作ると視聴率が割れるとの反対から、実行したのはMXのみ
'02年には単年度黒字を達成、’09年には累積損失を解消
第十九章 「ゆめらいおん」とテレビの未来
l 歴史と文化が経済を動かす
後藤の思惑通り、'03年の地デジ移行以降MXテレビは上昇気流に乗り始める
ニューヨークやパリに並ぶ、「世界の中の東京」のテレビ局としてのアイデンティティ確立のため、これまでの保守的なイメージを一新するプロジェクトを立ち上げ
l 身をもって得た言葉の説得力
MXとしての新しいアイコン導入にあたり、世界に認められつつあった現代美術家の村上隆に作成を依頼。FM東京で「村上隆のエフエム芸術劇場」という深夜番組を担当していた
l 村上隆という劇薬
村上はすぐに局内に蔓延る事なかれ主義、他人任せな体質を焙りだし、たるんだMXテレビへの劇薬になる
l 必要とされている人間
好評なアニメに目を付け、「ゆめらいおん」の構想を考案。'06年呼称を「TOKYO MX」に変更したのを機に、念願のロゴとし、平和と幸福を主導するメディアの新しい象徴とする
l 快進撃でも満足はしない
'11年、デジタル放送に完全移行。'13年には東京スカイツリーからの送信に全面移行すると、視聴可能範囲が近隣県に広がり、業容も拡大
l たった一人の”あなた”
'24年発表の「どこまでも! マニアッ9」というタイトルコピーで公式発表、導入した局のキャッチコピーが「たった一人の”あなた”に深く刺さるコンテンツを作りたい」
ラジオとリスナーは1対1であり、リスナー1人ひとりの喜怒哀楽に寄り添う。ラジオのコツは、目の前に大切な人が座っていると想像して話すこと。「個」に即したメディアだからこそ100年の歴史を持つラジオが今も聴かれている
l 今こそまた「人の歓びのために」
放送局が生き残るために必要とされるものは、時代を超えて人々に求められるテーマ、そういうコンテンツをいかに探り当てるかにかかっている
エピローグ いつか雲の彼方で
'24年、後藤は経営の第一線から退く
'25年は、日本でラジオ放送が始まって100年
'94年、城は食道がんで声が掠れ、看板番組「ジェットストリーム」も7387回となる年末で幕を下し、その2カ月後旅立つ
あとがき
強く印象に残ったのは、「人の歓びのために」ラジオはあるべきという哲学が一貫してブレないこと。どんなに技術革新が進んでも、「人の心を動かすことは人にしかできない」
文藝春秋
FM誕生に尽力した伝説の経営者の反骨精神
1970年代初頭、日本の新しいメディア「FM」ラジオ放送の誕生に尽力し、人気長寿番組「ジェットストリーム」をはじめ、数々の魅力的なコンテンツでラジオ黄金時代を築いて「ミスターFM」と呼ばれた後藤亘の反骨の半生を綴る評伝。社長就任後、低迷していたFM東京をFM局のトップに導き、後に東京メトロポリタンテレビの社長として破綻の危機から経営を見事に安定させるなど、放送界のカリスマと評される大胆で柔軟な発想での経営手腕に迫る。
「反骨魂」 技術革新で「音」を届けた放送人 朝日新聞書評から
評者: 御厨貴 / 朝⽇新聞掲載:2025年12月20日
反骨魂 後藤亘 「ミスターFM」と呼ばれた男著者:延江 浩
戦後80年を生き抜いた男の物語である。玉音放送から始まり、ギリギリ戦中派の生き様を描き出す。
後藤亘(わたる)――ミスターFMと言われ、東京MXテレビを立て直した伝説の人。だが著者延江浩は、巨魁、怪物、武勇伝という手アカのついた言葉を一切使わない。進取の気性に富んだがゆえに「反骨魂」と称した。
ジェットストリーム。今なお懐かしいあの作品を城達也とともに作り、彼の引退まで見届けた機微を描いて、延江の筆はとてもやさしい。じつは後藤は戦後高度成長期に東和映画のサラリーマンから、東海大が設けた実用化試験局、FM東海に転じる。松前重義というもう1人の巨人との出会いから、その後のFM人生が決まる。後藤が反骨を貫き、既成概念や官僚組織を相手に闘うことができたのは、音を含めた技術革新の攻め手の側に常にいたからだ。延江の記述は言い得て妙だ。そして郵政省との対立抗争の果てにFM東京を誕生させ、ネットワーク化、ラジオの見える化をはじめとするFMをバネに、様々に立体化した〝音〟を国民に届けていく。
ともすれば二流意識で引けてしまう業界を、奮い立たせるべく後藤は行動する。編集の核として、半蔵門の自社ビル建設に邁進する後藤に賛成した松前の言やよし。「あれだけ内部抗争ばかりしている社会党がなぜ分裂しないのかわかるか? それは社会党が自前のビルを保有しているからだよ」。今なら自民党もまた然りである。
MXテレビも後藤が経営者になってエラく変わった。かくてラジオとテレビの変化の歴史は後藤の人生そのものだ。常に〝音〟にこだわり「トラブルはチャンスだ」と宣(のたも)うた男の人生が、見事に高度成長期とその後の日本を映し出す。あの瀬戸内寂聴を描いた同じ人とは思えぬ変幻自在の筆さばき。でも書き手がこんなに早く逝ってしまうとは。延江浩よ、書いた責任はまだあるんだぞ!
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のぶえ・ひろし 1958年生まれ。ラジオプロデューサー、作家。エフエム東京では、村上春樹さんの「村上RADIO」をはじめ多くの番組を手がける。著書『アタシはジュース』『J 寂聴最後の恋』など。25年4月死去。
御厨貴(みくりやたかし)東京大学名誉教授(政治学)
1951年生まれ。専門は近現代日本政治史。政府の審議会の役職やTBS系「時事放談」の司会なども務めた。著書に『知と情 宮澤喜一と竹下登の政治観』『権力の館を歩く』など。2024年4月より朝日新聞書評委員。
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後藤亘(ごとう わたる、1933年1月30日 - )は、日本の実業家。東京メトロポリタンテレビジョン株式会社名誉相談役、株式会社エフエム東京名誉相談役。
日本のエフエム放送の父。
人物
福島県出身。福島県立福島高等学校、東北大学法学部卒業[1]。東和映画(現:東宝東和)を経て、東北大学の先輩である松前重義の誘いにより東海大学超短波放送実用化試験局『エフエム東海』(エフエム東京の前身)に携わる[2]。エフエム東海時代、現在も続く長寿番組『ジェット・ストリーム』を企画。
1970年3月17日、エフエム東海の改組により「株式会社エフエム東京(TFM)」が設立、初代営業部長に就任する。1977年に取締役総務部長就任。常務取締役、専務取締役営業本部長を経て、1989年6月、代表取締役社長に就任。
1981年5月20日、日本初のFMネットワーク「全国FM放送協議会(JFN・ジャパンエフエムネットワーク)」を発足させる。1984年5月30日には、番組制作会社「株式会社ジャパンエフエムネットワーク(JFNC)」を設立。ハードとソフトの両面において、安定した番組供給のシステムを構築し、地方FM放送の健全安定に大きく寄与した[3]。
1997年6月、東京メトロポリタンテレビジョン(TOKYO MX)の代表権のない取締役社長に就任する。同社の非常勤取締役を務めていた徳間書店の徳間康快社長、東映の岡田茂社長に依頼され、TFM社長と兼務した。江東区青海のテレコムセンター内にあったTOKYO MX本社を半蔵門メディアセンター(TFM本社と同じ千代田区麹町一丁目)に移転させ、通販番組の編成や特色のある編成により経営を立て直した。2010年6月、TOKYO MXの代表権を持つ会長に就任した。
略歴
- 1955年3月 - 東北大学法学部卒業
- 1955年7月 - 東和映画株式会社入社
- 1960年5月 - 東海大学超短波放送実用化試験局入職
- 1970年4月 - 株式会社エフエム東京入社、同社 営業部長
- 1977年6月 - 株式会社エフエム東京 取締役総務部長
- 1981年6月 - 株式会社エフエム東京 常務取締役
- 1987年6月 - 株式会社エフエム東京 専務取締役営業本部長
- 1989年6月 - 株式会社エフエム東京 代表取締役社長
- 1997年6月 - 東京メトロポリタンテレビジョン株式会社 取締役社長
- 2001年7月 - 株式会社ジャパンエフエムネットワーク(JFNC)取締役会長
- 2005年6月 - 株式会社エフエム東京 代表取締役会長[5][6]
- 2007年6月 - 東京メトロポリタンテレビジョン株式会社 取締役会長
- 2009年6月 - 株式会社エフエム東京 取締役相談役
- 2010年6月 - 東京メトロポリタンテレビジョン株式会社 代表取締役会長
- 2010年10月 - ジョルダン株式会社 独立社外取締役
- 2011年6月 - 株式会社エフエム東京 名誉相談役(現任)
- 2024年6月 - 東京メトロポリタンテレビジョン株式会社 名誉相談役(現任)[7]
栄典
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