ジョン・レノン 運命をたどる  青木冨貴子  2026.1.5.

 2026.1.5. ジョン・レノン 運命をたどる ヒーローはなぜ撃たれたのか

 

著者 青木冨貴子 1948(昭和23)年東京生まれ。作家。1984年渡米し、「ニューズウィーク日本版」ニューヨーク支局長を3年間務める。1987年作家のピート・ハミル氏と結婚。著書に『ライカでグッドバイ――カメラマン沢田教一が撃たれた日』『たまらなく日本人』『ニューヨーカーズ』『目撃 アメリカ崩壊』『731―石井四郎と細菌戦部隊の闇を暴く―』『昭和天皇とワシントンを結んだ男――「パケナム日記」が語る日本占領』『GHQと戦った女 沢田美喜』など。ニューヨーク在住。

 

発行日           11

発行所           KADOKAWA

 

 

時代を変えたワーキング・クラス・ヒーロー

はじめに

レノンを殺害したチャップマンにインタビュー要請の手紙を出したのは、1980.12.8.の事件から310カ月後のこと。当時彼はNY州北西部のアッティカ刑務所に収監

'84年本人からの返事で応諾してきたが、その後のやりとりが途絶え、最終的に344カ月後の'193月に、同州のウェンデ刑務所で実現

事件当日、筆者は松濤の借家にいてラジオを聞き、衝撃を受けるとともに、なぜ殺されたのか疑念がわく。音楽専門誌の小さな出版社で働き、日本の若者の音楽の黎明期にあって、洋楽も担当、ビートルズは最初から大好きで、ジョンについて書くのはいつも楽しかった

早い時期にニッポン放送の糸居五郎の深夜番組で日本で最初にビートルズをオンエアした《ラヴ・ミー・ドゥ》を聴く。その後音楽の仕事を辞めてノンフィクション『ライカとグッドバイ』を執筆、ニューヨークへ移住して作家ピート・ハミルと結婚。その弟でカメラマンのブライアン・ハミルはダコタ・ハウスでジョンを撮影し、事件に少なからず絡む

事件当時、ロックはただの歌ではなく社会改革の一端を担った。若者を大人の常識から解き放つ音楽だった。なかでもジョンのメッセージは国境を超え、何万人の人生や価値観を変える大きな力があった。それだけにジョンの死は何を見するのか、頭から離れなかった

本書は、ビートルズ初代ファンであり、70年代に音楽記者の経験があるジャーナリスト・作家が、その死の謎を追った、ジョン・レノンの運命をたどる旅である

 

1章 チャップマンからの手紙

l  キリスト発言の衝撃

1966年、全米各地でベトナム反戦デモ拡散のなか、『ロンドン・イヴニング・スタンダード』紙に、「ビートルズは今やキリストより人気がある」とのジョンのインタビュー記事が載る。世界の頂点を極めようとしていたビートルズ。ジョンは、女性記者の取材に対し、「キリスト教は消滅する」と発言。脈絡は不明

l  放送禁止と公演中止

6月初の日本公演

「キリスト発言」の記事は、アメリカの若者向け雑誌『デイトブック』にも転載、ラジオ局でも取り上げられて、討論に火をつけ、大反対の声が上がる

全米40以上のラジオ局がビートルズの曲を放送禁止とし、キリスト教右派は「神に対する冒涜」と糾弾。KKKも登場、南部バイブルベルト(聖書の言葉を字義通りに信じるキリスト教徒の優勢な地域)から全米に向けて暴力的な抗議行動が広がる。ジョンの謝罪などで、一部公演は行われたが、8月公演以降スタジオ録音に専念するとの爆弾宣言

この年、ジョンは日本人前衛芸術家ヨーコ・オノに出会い、家族を捨てて愛を育む

l  チャップマンの妻グローリア

チャップマン('55)は、事件の3年前ハワイに移住、そこで日系3世と結婚

事件の5週間後、ハワイにいた妻を訪ねるが、インタビューは拒否

l  初公判に現れた男

2級殺人罪(故意だが計画的ではない)で起訴されたチャップマンは、最初は無罪を主張したが、2回目からは有罪を認める

l  チャップマンの朗読

弁護人は、犯行時の精神錯乱状態を立証しようとした。チャップマンが判決前の申し開きとして朗読したのは、サリンジャーの『ライ麦畑でつかまえて』の一節。判決は「20年以上の無期懲役」

l  わたしが送った手紙

3年後に私はチャップマンに手紙を送り、犯行の動機を聞こうとした

チャップマンからは、自分の伝記の出版に合わせてインタビューを受けるとの返事

わたしは『ニューズウィーク日本版』創刊に先立ち、初代支局長としてニューヨーク赴任が決まる

l  予備会見の申し出

1年余りたって後、チャップマンから、刑務所宛の申請書を添えオフレコの会見の申し出

l  チャップマンのリクエスト

チャップマンは、結婚前1人でハワイから世界旅行に旅立ち、最初の滞在先が東京

写真を送れと言われ、彼の狂気に触れた気がして、全ての資料を封印

 

2章 運命の出会い

l  ヨーコ・オノの登場

ヨーコ・オノはロンドンでお尻の映画を撮る。'60年代中期のロンドンはアングラ芸術家が目指したモダンアートの世界的頂点で、ヨーコ・オノのイヴェントは大きな話題をまく

次いで「カッティング・ピース」「バッグ・ピース」、「ラッピング・イヴェント」ではトラファルガー広場のブロンズのライオン像を白い布で覆い、その上に座って、ベトナム反戦を暗に訴えた。彼女の発想は時空を超え、ラディカルな思考を貫こうとした

l  名家の子女として

小野洋子は’33年東京生まれ。母の祖父は安田善次郎。父方の祖父は興銀総裁、父も正金。父は母と結婚するために、ピアニストになる夢を捨てて銀行員になった

l  洋行帰りのレッテル

学習院小中では、唯一の帰国子女として、周囲から孤立

l  皇太子との晩餐会

学習院大哲学科の頃再びニューヨーク勤務の父について渡米、サラ・フローレンス大入学

欧州視察帰りの明仁皇太子の晩餐会が、洋子の正装した姿の最後、以後ボヘミアン風に

前衛に出会い傾倒、創作活動を始める。ジュリアードの学生だった作曲家の一柳慧との結婚を反対され、’55年全てを捨てて家出

l  2人の出会いの真実

ジョンとの出合いは、偶然というのが定説だが、ヨーコが仕組んだとの説もある

インディカ画廊でのヨーコの個展に、マリファナ漬で現れたジョンは、一瞬のうちに同じユーモアが通じる相手であることを感じ、ヨーコもジョンとは知らずに意気投合した

l  白いはしご

2024年テート美術館の《ミュージック・オブ・ザ・マインド》展は、50年代初期から現在までの集大成で、2人が初めて会った「未完成の絵とオブジェ」の展覧会にあった白いはしごが展示されている

l  明らかに変わったジョン

《トゥー・ヴァージンズ》は'68年、2人が結ばれた日に出来上がった。ジョンが2台のテープレコーダーを使って思いついた音を収録し、ヨーコは声の持つ可能性を広げようとして声帯を使って何時間も即興でやって見た。出来た物を「未完成音楽」と呼ぶことにした

ビートルズの一員として束縛され動かされることから逃れたいと思っていたジョンは、ヨーコがリヴァプールの頃の自分に引き戻してくれたと思った

l  「ホワイト・アルバム」録音時のヨーコ

録音中は女友達を絶対にスタジオに入れないというビートルズの不文律を破り、他の3人を苛立たせるが、ヨーコが録音に割って入ることはなかった

l  ジョンの50秒の発言

録音中にBBCの芸術番組でジョンは、「我々の社会は狂人によって狂った目的のために動かされている」と発言。その部分だけが切り取られて最近動画サイトで流されるようになる

l  過酷な現実

2人は「平和のためにどんぐりを植えよう」というジョンのアイディアの実行に移す。2人の初めてのイヴェントだった。ジョンのヨーコへの愛の告白は厳しい反発に直面。追い討ちをかけるようにジョンは大麻の不法所持で検挙、有罪判決を受ける

ヨーコは溢れるアイディアを具体的な形にして表現する方法をジョンに教え、仕事に向かう姿勢、社会の中で生き方を貫く方法をジョンは学んだ。彼女はジョンがあらゆる意味で芸術家であることを気づかせ、表へ出てメッセージを伝えられるコミュニケーターであることを伝えた

こうして構想が固まり、結婚の後’69年アムステルダムで2人の平和を売るキャンペーンが成功裏に進む。「市民や若者が主導権を取らなきゃいけない」とのメッセージは簡潔

 

3章 ヨーコからの電話

l  突然のヨーコからの電話

東芝音楽工業の水原は日本におけるビートルズ担当ディレクター。突然ヨーコから電話

l  通訳したヨーコ

《ジョンの魂》をプロデュース

l  2回目の極秘訪日の中身

'70年来日、湯島の羽黒洞という浮世絵専門の画商でたくさんの古美術を買い上げる

l  前衛への傾倒

ジョンが自分1人の歌を歌うようになると、彼の歌の中には日本人の魂が入っていたように思える。ヨーコの影響ははかりしれない

l  「私は、一人称の音楽が好きなのです」

《ジョンの魂》には、長年にわたって抑圧された感情、封印された思い、無視された深い欲求などが初めて正直に吐露され映されている。少年ジョンの姿や心がそこにある

l  部屋代もジョンとヨーコが負担

l  「《イマジン》は子供たちのための歌なのです」

イギリスに帰るとすぐ次のアルバムの録音に入り、ビートルズになる前の自分を取り戻したジョンの中から次々に新しい曲が湧き上がる。その1つが、ヨーコの本『グレープ・フルーツ』からインスピレーションを受けた《イマジン》。’17年共作者にヨーコを追加

l  無制限のインタビュー

水原はいつでも2人にインタビューできた

l  ジョージ・ハリスンに話した日本の旅

《イマジン》が広く社会で受け入れられているのは、ジョンとヨーコのメッセージが人々の心に響くからに違いない。誰もが信じたいユートピア的世界観がある

 

4章 魂の源流

l  英国王室の目の前で

‘69年、MBE勲章を返還した際、ジョンは女王陛下への手紙で、ビアフラへの関与やベトナム戦争での米軍支持などへの抗議を表明。6年前の王室隣席のコンサートでもジョンは、客席の王室メンバーに向って、宝石を鳴らせとリクエスト。ジョンの物言いの根底には、イギリスによって虐げられてきたアイルランド魂がある

l  リヴァプール

'02年からリヴァプール・ジョン・レノン空港と改称、銅像も立つ。メンバー4人ともアイルランド系のルーツを持つ

l  トイレも風呂もない住まい

ジョン以外の3人は市の公営住宅。ジョンだけは典型的な中産階級の家で育ち、「労働者階級」出身とは言い難いが、当時の英国ではリヴァプール出身というだけで「ワーキング・クラス・ヒーロー」が代名詞になった

l  新聞『マージー・ビート』

リヴァプールは、’6070年代、繊維産業の衰退で大規模なスラム化が進み、クリエイティブな若者の活力が溢れ出る。ビートルズを世に出すきっかけを作ったのは新聞人。同紙にコラムを書いていたエプスタインに「ザ・キャヴァーン・クラブ」でビートルズを紹介

l  ストロベリー・フィールド

ビートルズの聖地となる彼等の通学路

l  異父妹

ジョンには2人の異父妹がいる。10歳で初めて母の家を訪ねてその存在を知る

l  父母の出会い

父親は貧しいアイルランド人、母親はウェールズ出身のイギリス人

l  祖父・レノン

祖父は人生の大半をアメリカでカラード・オペラの職業歌手として活躍したが、アイルランドに戻り小さな子を残して早逝。子供は孤児院で育つ

l  抑留されたアルフ(ジョンの父)

戦時中、アルフは航海に出ていた

l  父の激怒

父の航海中に母は浮気、子供まで作ったため、ジョンは伯母の元に預けられる

l  父親の言い分

冒険好きの父は航海を続け、残された母は再婚して家を出る

l  ニュージーランドへの移住

ジョンは、母親と一緒に暮らすことを選ぶ

l  裏切られた思い

結局は伯母の家に引き取られ、両親に裏切られたジョンは心理的葛藤や激しい怒りから強面のマスクをかぶって生き抜くことを決意。学校では反逆児で通す

l  ジュリア(ジョンの母)の事故死

アルフは自暴自棄になって暴行を働き実刑になり、前科者として海の仕事まで失い放浪

'58年、ジュリアも交通事故で死去

l  父との再会

'63年、放浪中のアルフは、ビートルズのジョンを知っているかと聞かれるようになった

雑誌の斡旋でビートルズとの対面が実現、17年間音信不通の息子と再会し、打ち解ける

l  レコードまで出した父

ジョンは自分と母親への仕打ちに怒りを感じていたが、父を見た途端気が変わった

 

5章 音楽と革命

l  二流の田舎町

ピート・ハミルが初めてジョンに会ったのは’63年。まだロンドンから見ればリヴァプールは二流の田舎町で、そこで人気の出たロックバンドなど米国では未知の存在

l  「ディランと地獄へ行けよ」

ピートとジョンはロンドンのクラブでローリング・ストーンズなども一緒に会い、「ディランを聴かなくちゃ」とのアドバイスにジョンがあまりにみんながディランのことを言うので、「ディランと地獄へ行けよ」、「アメリカのフォーク風知的ナンセンスだ」と反発

l  アイリッシュが持っているもの

ピートがアイリッシュの両親に育てられた筋金入りの反英国精神の持ち主で、少数派のカソリックであることをジョンが理解したのか、喧嘩は爆発寸前で止まる

'71年、ジョンはビートルズを出て、ヨーコとニューヨークに移り、永住を決意

l  グリニッチ・ヴィレッジ

『ニューヨーク・タイムズ』が「ペンタゴン・ペーパーズ」の連載を開始すると、ベトナムの反戦運動が勢いを増し、ニューヨークは帰還兵やヒッピーなどで溢れかえる

イギリスでのバッシングは堪え難く、芸術家が住みやすいアメリカの生活が気に入ったが、アメリカ政府から2人は脅威と見做されるようになる

l  政治への傾倒

ジョンは「シカゴ・セブン」などの反政府活動家に歓迎され、アッティカ暴動の犠牲者のためのデモに参加したり、麻薬で逮捕されたジョン・シンクレアの釈放を求めるコンサートにも出演。3日後に釈放されたことで、歌が時代を変えられると知ってジョンは興奮したが、陰でFBIが集会に諜報員を送っていることなど知る由もなかった。FBIによってジョンは、「'72年の共和党全国大会でのデモを最終目標とする組織に関与している」と断定

ヨーコも過激な女性解放を叫んでいて、2人のビザは期限と共に失効

l  新国家「ヌートピア」記者会見

'72年、2人に国外退去命令。審問会の前日、2人は記者会見で、国境もパスポートも不要の新国家「ヌートピア」の建設を宣言。市長ほかの有力者が退去命令への抗議に立ち上がる

l  ニューヨークにはジョンのいる場所がある

『ニューヨーク・ポスト』紙のコラムニストになったピートも、ジョンが必要だと支援

l  惨憺たる売れ行き

反戦歌山盛りでイギリスを罵倒したジョンとヨーコ共作のアルバムをリリースしたが、移民局との闘いが進む中、売れ行きは散々。ジョンとヨーコとの間にも影が差し始めていた

障碍児支援コンサートではジョンが「全共闘」と書いたヘルメットをかぶって聴衆と大合唱

l  18カ月の別居

'73年、W72にダコタ・ハウス購入。2人の間には精神的ストレスによる絶え間ない緊張が漲り、ヨーコはジョンに別居を申し渡す

‘70年、ビートルズからジョンを奪い、解散させた「東洋の魔女」という非難の集中にヨーコは疲れ果て、周囲からの嫌がらせに傷つき、「ジョン・レノン夫人」からの解放を願う

ジョンの人気は相変わらずで、ヨーコはジョンにアングラ的なものを与えて、大衆を戸惑わせたことへの罪悪感に苛まれ、ジョンと離れて自分で仕事をする気になる

l  ヨーコの来日

'74年、ウッドストックの日本版を目指した郡山でのロックの祭典にヨーコは出演。全く異質な前衛的音楽に誰もがひたすら驚く。その後に本ツアーに出るが興行的には失敗

l  ピートのロングインタビュー

'75年、ジョンがすべての条件を受け入れてダコタ・ハウスに戻る。ハミルは、その後5年の隠遁生活に入る前の最後のインタビューを行う

ジョンは、ニューヨークに移住して以降の生活を振り返る

l  ジョンのサインの意味

ピートの弟の写真家ブライアンが撮ったジョンの写真にサイン

l  ダコタ・ハウスで

ブライアンは、ダコタ・ハウスでくつろぐジョンも撮っている

 

6章 軽井沢の夏

l  消えた写真

半世紀前に土屋写真館で、普段着のジョン一家を撮った写真を買ったのを保管している

今は肖像権があるので売れない

l  万平ホテル

'77年、ベトナム戦争が終結して反戦デモもなくなり、ジョンたちの国外退去命令も破棄されたのを機に、息子を連れて来日、夏の6か月万平ホテルに滞在。その後香港にも行く

l  バーテンダーの証言

ホテルのバーテンダーで、現在はバー小澤の店主が当時を振り返る

l  占いへの傾倒

3年ほど続けて来日。政治の季節が終わると、オカルトが人気を集め、2人も入れ込む

l  自転車で駆け回った

ジョンは、言葉も分からない知らない、ここには自由がないと不満をぶつけ、機嫌が悪く、何にもせずにホテルの部屋から出ようともしないので、自転車を与える

l  FBIへの電話

帰国するとテロリストからの脅迫電話・手紙があり、警察とFBIに通告

l  アシスタントはなぜ雇われたか

富を得たために起こる煩わしさを嫌い、’79年新たにアシスタントを雇う

l  倉庫のような地下室

アシスタントが2人の家で見たのは、まるで強迫観念に囚われていたように物を買い漁る病的窃盗狂(クレプトマニア)で、使い道のない物ばかりが雑然と溢れていた

l  病室に引き籠って

ジョンは健康的な自然食品をとるよう心掛け、ダイエットに励んでいたため、身長5ft10inなのに体重は140lbにも満たない。ベットの上で本や雑誌に没頭する囚人状態

l  回復

1年以上暗い憂鬱にのめり込んでいた。ようやく変化の兆しがみられるようになったのは’79年。占い師の勧めで世界一周の旅に出る

ヨットを買いバミューダへの航海でひどい船酔いを経験し、想像力の源泉が戻ったという

l  アルバム《ダブル・ファンタジー》

'80年には復活後最初の曲をレコーディングするが、時々自分が撃たれる夢を見る

l  決まらない契約

アルバムの評判はよくない。パンク全盛時に時代遅れととられた。むしろヨーコが受ける

l  あの日、起こったこと

'80.12.8. 創刊号の表紙を飾って以来の付き合いだった『ローリング・ストーン』誌の表紙の撮影の依頼に、新アルバムの宣伝になると引き受け、珍しく自宅での撮影で2人で抱き合った写真を撮り、録音スタジオに向うためダコタ・ハウスから出ると、ファンの1人がアルバムを持ってサインを求める。そのあとジョンとヨーコは録音スタジオに向かい、夜11時近くに帰宅したジョンがリムジンから降りて入口を入った時に5発の銃声が響く

 

7章 殺害パンフレット

l  封印した手紙

‘01年、チャップマンは懲役20年を迎え、仮釈放の可能性が出てくる。ヨーコは2人の息子共々人生が安全に過ごせなくなるとして釈放に反対。2年毎に「パロール・ボード(審査委員会)」が開かれ、23回と却下。その間、チャップマンから来た手紙は封印したまま

l  再度の釈放拒否

9回目の却下の後、’18年チャップマンに手紙を出し、34年振りに会いたいと書く

l  元旦のカード

チャップマンの妻の父親とはその後も交信が続いていたが、'17年死去

l  突然のメール

翌年初、突然チャップマンの妻からメールが入り、刑務所での面会が実現

l  妻の日常

刑務所はバッファロー郊外。妻は両親の死後チャップマンに会うために刑務所近くに移住

刑務所には、囚人と家族が一緒に過ごせるファミリー・ヴィジット・プログラムがある

l  狙撃犯のもとへ

l  わたしのことは覚えていましたか?

チャップマンは、思ったより知的で、頭の回転も速く、相手の気持ちをすぐに掴めるよう

直接のインタビューにはすぐ応じる気はないようだが、代わりに妻とはどうかという

l  パンフレットの中身

チャップマンは、ジョン・レノンについてのパンフレットを作り、各刑務所の囚人に配っているといい、そこにはあの晩あったことがすべて記されていた。「自分の決断のために1人の男性が死に、多くの人を悲しませたことを恥じに思う」とある

l  1980

僕は’55年生まれ。14の時ドラッグにのめり込み、何をやっても本当に幸せではなかった

l  父が泣くのを初めて見た

調子に乗って騒ぎ逮捕され、迎えに来た父が初めて泣いたのを見る

16歳で友達に裏切られ孤独感に苛まれた時、神に救いを求めるしかないと祈ると神が降臨したのを感じ、経験したことのない幸福感を味わう

l  それまで知らなかったイエスについて知った

イエスの映画を見てイエスの真実を理解、実在することを知って人生が変わると確信

l  いちばん大切なはずのイエスから遠ざかった

イエスを信じたが、鬱陶しくなって逃げようとしたせいか、仕事はうまくいかなかった

l  泥沼にはまる

何をやってもうまくいかず惨めで、自分だけの世界に引き籠り、空しかった

l  巨大な黒い雲に包まれているかのよう

鬱状態が深まる一方で、自殺を思い立ちハワイに向かうが未遂

l  医師のもとで、闇が晴れていった

入院して徐々に元の状態を取り戻し、病院で良い仕事も見つかり、未知の国に旅行し異文化体験をすべく旅行会社に行って、今の妻と出会う

l  再び暗闇に向かう

仕事に行き詰まり、また鬱に向かい、たまたま見たジョン・レノンの写真から、殺害すれば闇は晴れ、一瞬で有名になれると考える

l  1980.12.8. 午後1050

レコーディングを終わったジョンとヨーコが帰宅するのを待ち、背中から発報。ドアマンに取り押さえられ、駆け付けた警察に逮捕された

ドラッグの影響でもなく、身勝手に自分を取り戻す手段として殺人を思いついただけ

l  イエスと話していたら

神はやめるよう強く僕に訴えたが聞く耳を持たず、妻もイエスとの話を勧めたが拒否

l  イエスのおかげで僕は変わった

今は、本当に頼るべきはイエスしかいないと思い知り、以前のチャップマンとは違う

「自分の復活のストーリーが、迷える人のためになればと願う」と、締め括る

まるで他人事のように淡々と語り、普通の人間の良心のかけらも感じられないチャップマンの手記は、100万部以上も刷られ国外にまで翻訳して送られるという

l  チャップマンとの出会い

パンフレットを読んだ後、妻とのインタビューを始める

2人は、旅行会社の社員と客の関係で出会い、互いに惹かれる

 

8章 グローリア洋子()の証言

l  ジョンのファンだった

グローリアは‘51年生まれ。ポリオに罹患して歩行が若干不自由

ビートルズのファンになって、ジョンが一番好きだったが、解散後は日本の歌謡曲へ

l  チャップマンの日本旅行

大学中退して旅行代理店に入り、世界旅行を担当

アジア旅行から戻ったチャップマンを空港に迎えに行って交際が始まる

l  結婚

交際開始から5カ月で結婚

l  38年振りのハワイ

短期間ハワイに戻るグローリアを追ってハワイでもインタビューを続ける

l  プロポーズの浜辺

世界で最も美しいビーチといわれるラニカイ・ビーチでプロポーズ

l  カーテンもない家での新婚生活

'79年結婚。義母が離婚してジョージアから移り住み、マザコンのチャップマンに嫉妬

結婚した途端にチャップマンは人が変わり、精神の不安定を露呈、怒りをコントロールできなくなる。そのせいで旅行代理店を辞め、チャップマンと同じ病院で働く

l  チャップマンの変化

チャップマンの身勝手が嵩じて生活が破綻、アトランタで武装警備員の試験に合格して銃を常時携行。自殺を考えるようになる

l  リトル・ピープル

散財が祟って負債が巨額に膨れ上がり、妄想の中で暮らすようになる。精神の均衡を失い、精神状態は悪化するばかり

l  「遠くに出かけなくてはならない」

突然ロンドンに移住すると言い出し、チャップマンの行動の中にジョン・レノンの影が見え隠れし始める

l  写真が火をつけた

雑誌に載ったダコタ・ハウス屋上のジョンの写真を見たチャップマンが突然怒り出した

l  ひとかどの人物になるために

チャップマンもビートルズのファンだったが、大富豪になったジョンは若者への欺瞞としか思えず、平和のためのイベントなど本質的には上っ面の悪ふざけに見えた。それを見て、ひとかどの人物になるためには名のある人物を殺せばいいと考えるようになる

l  銃を握ったときの感覚

10月末、チャップマンはホノルルで銃を買い、アトランタで銃弾を手に入れ、ニューヨークまで行ってジョンを狙おうとしたが思い止まってハワイに戻る。ジョンから銃を見せられてグローリアは唖然とし、銃を触って背筋が凍る

自分が成長するためにはもう一度ニューヨークに行くといって、事件の前々日ホノルルを出発、シカゴ経由でニューヨークへ。当日、テレビにジョン狙撃のテロップが出て、グローリアは直感的に夫の仕業だと思う

 

9章 ジョン・レノンが死んだと想ってごらん

l  刑務所からのメール

刑務所でも受刑者にタブレットが支給され、検閲下で私とのメール交換が始まる

ウェスト・チェスターの刑務所へ移送

l  2人きりの面会室で

'23年再訪。すでに12回仮釈放が却下されてきたパロール・ボードの開催間隔が18カ月に短縮され、釈放の可能性が出て来た

l  妻への配慮

裁判当時、チャップマンは、妻が報道陣の好奇の的になることを恐れ、「プレスには気をつけろ」と忠告している。裁判にも来るなと言ったが、グローリアはこっそり出かけた

l  暴動が起こったあの刑務所で

チャップマンもグローリアに離婚を勧め、周囲も離婚するよう言ったが、グローリアは彼が病気だと庇う

判決後収監されたのがアッティカ刑務所。保護監房で身の安全は保証。断食をやる

弁護士は、慢性妄想型統合失調症と自己愛性パーソナリティ障碍を挙げたが、精神医学上のあらゆる疾患の兆候があったという

l  音信不通の理由

私の手紙に返信がなかったのは、彼の精神状態が混迷を極めていたからだろう

l  2人のヨーコ

グローリアの日本名は「洋子(ひろこ)

チャップマンとグローリアはヨーコ・オノへお詫びの手紙を書いたが、返事はなかった

l  強い父がいなかった

チャップマンとの7回の面談を整理すると、父はギターを教えてくれるが冷たく、強い父はおらず、母は父の家庭内暴力から逃れてチャップマンの部屋に逃げ込み、ひたすら息子に絶大な期待を寄せる

l  神とヒッピーと反体制

ガレージバンドでビートルズを真似、ドラッグを始め、ヒッピーを真似て反体制を気取る

フォード大統領肝入りのベトナム難民の再教育キャンプで働き、難民支援のリーダーになり誰からも慕われ生き返るが、学校に戻ると落ちこぼれで挫折

l  日本とのつながり

ベトナムがアジアアへの目を向けさせ、ハワイで日系人とのつながりが出来る

l  チャップマンの怒り

《イマジン》が神に対する冒涜だと言い、《ジョン・レノンが死んだと想ってごらん》と替え歌にして歌ったこともあったが、その怒りが殺人に結び付いたのではないと言うが、ヒッピーから神に目覚めると、心酔してきたジョンが天国もない世界を想像してごらんと《イマジン》で歌い、《ジョンの魂》でも「神は我々の痛みを測る概念だ」と歌いながら、最後にはキリストも信じないと歌った後で夢が終わったと訴えているのを聴いてどう思ったのか

l  欲しいものは手にはいった?

チャップマンは手記のなかで、雑誌に載ったブライアン・ハミルの撮ったジョンの自宅で寛ぐ写真を見て、「彼を殺せば自分の鬱も闇もすべて解消され一瞬で有名になれる」と殺人を思いついたと語る。その写真を見せて、「欲しいものは手にはいったのか」と聞くと、「ある意味ではイエス」と言った後、「チャップマンは利己的な名前を入手していなくなり、神は彼に別の人生を与えた」と続ける。まるで神が代りに罪を購ってくれるかのような言い草

ジョンは、「キリストが君たちの代わりにやってくれるとは思わないことさ。自分の夢は自分で作る。既存の宗教や聖書などに頼らず、自分の頭で考えろ」と言ったが、その声は届かず、自らの「キリスト発言」で蒔いた種は、弾丸になってジョン本人へ放たれた

l  誘導

面会から半年後、グローリアがチャップマンの伝言だとして、「回顧録の次にインタビューする積りでいるだろうが、それは誤解で、回顧録の仕事はまだ始まっていない」と言ってきた。私は、チャップマンが私の鼻先に人参をぶら下げているのだと気付く。そう考えると、彼が事件に無関心でいられる精神が今猶私の理解の及ばない領域にあることが実感できる

わたしは羊のように言われるがままにひたすらインタビューを待っていたが、何回も会って聞きたいことはほとんど聞いていた

 

あとがき

毎年128日にはダコタ・ハウスに近いセントラル・パークのストロベリー・フィールズという区画から、「IMAGINE」と刻まれた記念碑を取り囲んで合唱が聞こえる

'89年、ジョンの死の謎を問いかけて来たオノ・ヨーコの個展が開かれ、インタビューに応じてくれた。ヨーコは、「ジョンの精神が私のなかに生きている感じで、離れたって気がしない」と語る。翌年には、「平和を願い主張することは、必ずマイナスの暴力というものを惹きつける」とも言い、最後のアルバム《ダブル・ファンタジー》は当初売れ行きは不芳だったが、事件を機に8週間ヒット・チャートのトップを維持したことに対し、「ジョンは肉体と引き換えに自分のメッセージを早く世界に伝えることができるようになった」と言う

あれから45年、ジョンは彼の言葉を持っていたから今でも生きていた頃と変わらず私たちの心に訴えてくることを実感する。こんな時代だからこそ彼に語って欲しいと思うが、彼は自分で考えろと突き放すだろう。何も考えずに信じることがいかに危ういものかと彼は言っているのだ

ジョン・レノンについての本を書くことは、物書きになりたいと思っていた若い頃の振出しに戻って、それからの自分をたどるような作業でもあった

 

 

 

 

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青木冨貴子、9年ぶりの大作ノンフィクション刊行

■没後45年 ジョンの生と死の真実を明かす

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年間の取材の果てに見出した執念のノンフィクション!

■英雄の魂、殺人犯の運命
「イマジン」に裏切られた男は、刑務所でいま何を語るのか?
彼は笑みを浮かべ、握手を求めて来た。差し出した手が氷のように冷たいのには驚いた。「君は誰より粘り強いリポーターだよ」
開口一番こう言った。親しみを込めて半分冗談めかしたような口調だった。
(本文より)

 

産経新聞 

ジョン・レノンはなぜ撃たれたのか 青木冨貴子が徹底取材で追及「運命をたどる」

2025/12/8 08:00

石井

表紙のジョン・レノンの写真。青木冨貴子の義弟の写真家、ブライアン・ハミルが撮った(Photo by Brian Hamill

元ザ・ビートルズのジョン・レノンが米ニューヨークの自宅前で凶弾に倒れてから45年。「なぜ、このような運命だったのか」。理不尽な暴力への憤りを胸に、その謎を追い続けたノンフィクション「ジョン・レノン 運命をたどる ヒーローはなぜ撃たれたのか」が講談社から刊行された。著者はニューヨーク在住のジャーナリスト、青木冨貴子(77)。映画「幸福の黄色いハンカチ」の原作者として知られる米国人作家、ピート・ハミルの妻でもある。9年ぶりの新刊だ。

封印された取材

「ライカでグッドバイ」などの著書がある青木は、1960年代にビートルズが起こした若者文化の革命を同時代で体験し、そのキャリアも音楽ライターで出発した。それだけに80128日のジョンの突然の死が忘れられなかった。

音楽活動を5年ぶりに再開したばかりだったジョンは、帰宅時に待ち伏せていたマーク・チャップマン受刑者(70)に撃たれた。

「すごく悔しい。なぜ、あのような運命だったのか」

81年、青木は取材を開始した。受刑者の妻を訪ねてハワイへ飛んだが会えず、84年に受刑者本人へ手紙を出した。86年、返事が届いた。「会ってもいい」。驚いたが、ある理由で青木は返信をためらい、取材資料を封印してしまう。

回り始めた車輪

30年以上が過ぎた。夫ピートの病をきっかけに荷物を整理していた青木は、ジョンが夫に宛てた手紙を偶然見つけた。

ジョンとピートの出会いは63年、英ロンドンのバー。若く、酔った2人は殴り合い寸前だったという。70年代、ジョンとヨーコ・オノ夫妻がニューヨークに移住すると、ピートはコラムで歓迎を表明し、交流が始まった。ルーツをアイルランドに持つ2人は「反骨の精神が共鳴しあった」と青木は見る。

今回の著書の表紙には、ピートの弟で写真家のブライアン・ハミルが撮影したジョンの写真を選んだ。

手紙を目にした青木は「これも運命か」と取材資料の封印を解き、2018年に再び受刑者へ手紙を出した。事態が動き出す。

「いろいろな場所へ行き、受刑者の妻にインタビューし、本人にも会った。そういう〝旅〟の中から見えてきたことを書いた」

ジョン、受刑者、そして青木自身。絡まった糸をほどいていく驚くべき〝旅路〟が本書には記されている。キーワードは「アイルランド」「日本」「家庭環境」「キリスト教」「洋子」。さらに義弟が撮ったジョンの写真も深く関与していた。

「神」のとらえ方

ジャーナリスト、青木富貴子=東京都文京区(石井健撮影)

そして青木は、受刑者の妻から手渡されたある宗教関連のパンフレットにがくぜんとした。そこには受刑者が128日の犯行経緯を冷静につづった文章が掲載され、「神に祈ればすべてが許される」と記されていたからだ。

ジョンは生前、アルバム「ジョンの魂/プラスティック・オノ・バンド」(1970年)収録の「神」で、「神は痛みを測る概念にすぎない」と歌った。青木はこれを「自分の目で見たものだけを信じよう」というジョンの生き方そのものと捉えている。

「ジョンと受刑者はプラスとマイナスのような存在だった。反対方向に動く2人が同じ時代にいてしまった」と青木は語る。

66年、米国南部ではある取材におけるジョンのキリスト教に関する発言が切り取られ、「神への冒瀆だ」としてビートルズのレコードを燃やすなど過激な抗議活動が起きた。

青木は本書をその騒動から書き始める。騒動の当時、受刑者は南部に住んでいた。騒動は彼の心に〝火種〟としてくすぶり続けた。それが犯行へつながった。青木はそう仮説を示す。

「殺害動機を明確にできたとはいわないが、自分なりの発見はたくさんあった。それにしてもジョンは、何という人生だったんでしょうね」

受刑者と面談はしたが、正式なインタビューは保留されたままだ。「人の心を操ろうとする」と青木は断じる。本書を書き上げ、再び会うことはないだろうと考えている。

青木はジョンの命日である8日、写真展「70年代ニューヨークのジョン・レノン」を開催する。ブライアン・ハミルが撮影したジョンの写真15点を本邦初展示する。代官山ヒルサイドプラザ(東京都渋谷区)で午前9時~午後6時。

(石井健)

 

 

 

(ひと)青木冨貴子さん ジョン・レノンと殺害した受刑者の運命を著書にした作家

2025126日 朝日新聞

 中学3年だった1963年、「プリーズ・プリーズ・ミー」を聞いてビートルズに夢中になった。記者として雑誌に音楽の記事を書いていた80年12月8日、ジョン・レノンが殺されたとのニュースをラジオで聞いた。強い衝撃を受け、すぐ米国に取材に飛んだ。

 殺人罪で起訴されたマーク・チャップマン被告の裁判を傍聴した。有罪が確定して収監されると、刑務所に手紙を送り、取材を申し込んだ。返事も来て、面会できそうになったが、言動にふと身のすくむ怖さを感じ、取材を中断した。

 その後、米ニューズウィーク誌日本版支局長としてニューヨークに移り住み、87年に著名コラムニストのピート・ハミル氏と結婚した。

 8年前、引っ越しの荷物整理中にジョンから夫ピートにあてた手紙を見つけ、取材再開を思い立つ。翌々年にはチャップマンの妻の案内で、刑務所で面会。「君は誰より粘り強い記者だ」と言われた。日系人である妻への取材も重ねた。

 20年にピートが死去。喪失感を乗り越え、事件から45年となる今月、著書「ジョン・レノン 運命をたどる」を出版した。ジョンが生き別れていた父と再会したいきさつなど、最近明らかになった事実も盛り込んだ。

 「ジョンについて本を書くことは、もの書きになりたいと思った若いころに戻って、自分をたどる作業でもあった」(文・北野隆一 写真・瀧上憲二氏)

     *

 あおきふきこ(77歳)

 

 

2025.11.14

128日、1日限りの特別展》70年代ニューヨークのジョン・レノン【代官山・ヒルサイドプラザ】

青木冨貴子「ジョン・レノン 運命をたどる」(講談社)刊行記念

現代ビジネス編集部

あの日から45

2025128日は、ジョン・レノンが凶弾に倒れて45年目にあたる。この日にあわせ、ノンフィクション作家の青木冨貴子の新刊『ジョン・レノン 運命をたどる ヒーローはなぜ撃たれたのか』(講談社刊)が出版される。

この出版を記念し、命日の128日、たった1日の特別展が東京・代官山で開催される。

1980年のあの晩、なぜそんな酷いことが起こったのか、なぜそんな運命がジョンを待ち受けていたのか、どうしても知りたいと思った青木冨貴子は、40数年という長い歳月をかけ、ジョン・レノンの運命を辿った。

そして青木は、亡き夫ピート・ハミルの弟、ブライアン・ハミルの撮影したジョン・レノンの写真のなかに一つの解答を見出した。

128日の特別展は、ブライアン・ハミルが撮影したジョン・レノンの秘蔵写真を日本で初めて公開する。1972年の最後のフルコンサート「ワン・ツウ・ワン」でジョンが「全共闘」のヘルメットをかぶっている写真や、1975223日、事件現場となった自宅のダコタ・ハウスで撮影された写真(今回の書籍の表紙にもなっている)を展示する。

青木冨貴子著「ジョン・レノン 運命をたどる」(講談社)
刊行記念 1日限りの特別展

70年代ニューヨークのジョン・レノン
JOHN LENNON IN NEW YORK IN 70s Photo by Brian Hamill

2025128日(月) 9:00-18:00

代官山・ヒルサイドプラザ
150-0033 東京都渋谷区猿楽町29-10 ヒルサイドテラス内

入場無料

主催:講談社  協力:小山登美夫ギャラリー
問い合わせ k-ishii@kodansha.co.jp

青木冨貴子『ジョン・レノン 運命をたどる──ヒーローはなぜ撃たれたのか』
12
1日、講談社から発売 予約受付中 

 

著者・青木冨貴子メッセージ

われわれの社会は狂人によって狂った目的のために動かされている」と1966年にジョン・レノンは発言しています。まるで現在の世の中を見越していたような発言です。こんな不安定な時代に突入したなかで、いまほどジョンが必要とされている時はないのではないでしょうか。わたしはあのダコタ・ハウスの屋上に立つベレー帽姿のジョンの写真を見つめながら、この本をようやく仕上げることができました。

今回この写真展はようやくまとまった「ジョン・レノン 運命をたどる──ヒーローはなぜ撃たれたのか」の刊行に合わせて一日でも良いから開催し、同じ〈WHY〉を共有する方々に見ていただきたいと思いました。──青木冨貴子

あおき・ふきこ 1948(昭和23)年、東京生まれ。作家。1984年に渡米し、「ニューズウィーク日本版」ニューヨーク支局長を3年間務める。1987年、作家のピート・ハミル氏と結婚。著書に『ライカでグッドバイ カメラマン沢田教一が撃たれた日』『たまらなく日本人』『ニューヨーカーズ』『目撃 アメリカ崩壊』『731 石井四郎と細菌戦部隊の闇を暴く』『昭和天皇とワシントンを結んだ男 「パケナム日記」が語る日本占領』『GHQと戦った女 沢田美喜』『アローン・アゲイン 最愛の夫ピート・ハミルをなくして』など。ニューヨーク在住。

 

 

Wikipedia

ジョン・ウィンストン・オノ・レノン英語John Winston Ono Lennon1940109 - 1980128[注釈 2]は、イギリス出身のシンガーソングライター[7]ギタリスト

概略

ビートルズを創設したリーダーで、ボーカルギターなどを担当するとともに、ポール・マッカートニーと「レノン=マッカートニー」として多くの楽曲を制作した[注釈 3]1965年にはMBE・大英帝国第5級勲位を受章した[注釈 4]

1970年のビートルズ解散後はアメリカ合衆国に移住し、ソロとして、また妻で芸術家のオノ・ヨーコ(小野洋子)と共に活動した。1975年から約5年間音楽活動から引退し、1980年に復帰するも、同年128ニューヨークの自宅前において銃撃され死亡した。

前妻シンシアとの間に生まれた長男ジュリアンと、ヨーコとの間に生まれた次男ショーン2人の息子がいる。

ビートルズ時代を含め、数多くの代表曲を持ち、ソロ時代の代表曲としては「平和を我等に」「インスタント・カーマ」「ラヴ」「イマジン」「パワー・トゥ・ザ・ピープル」「ハッピー・クリスマス(戦争は終った)」「真夜中を突っ走れ」「スターティング・オーヴァー」「ウーマン」などが挙げられる。

2002にはマッカートニーやジョージ・ハリスン、そしてフレディ・マーキュリーボーイ・ジョージロビー・ウィリアムズらとともに100名の最も偉大な英国人に選出された[11]

生涯

ビートルズデビュー以前

幼年期

19401091830分、第二次世界大戦ドイツによる空襲下に置かれたマージーサイド州リヴァプールで誕生する。アイルランド系であった父のアルフレッド・フレディ・レノン英語版)(1912 - 1976)は労働者階級で商船の乗組員[12]として航海中であり、イングランド人であった母のジュリア・スタンリーは他の男性と同棲していたため、母親の長姉で「ミミ伯母」と呼ばれた中流階級であるメアリー英語版)(1903 - 1991)夫婦に育てられる。ファーストネーム(ジョン)は、父方の祖父のジョン・ジャック・レノン[13]、さらにミドルネーム(ウィンストン)は、当時のイギリスの首相のウィンストン・チャーチルにちなむ[13]。また、スコットランド人の血も引いている[14]

ジョンの父・アルフレッド(1966

レノンを育てた伯母夫妻は中流家庭であった[15]。ビートルズの他の3人のメンバーは労働者階級出身である。1946年に帰国した父に引き取られて数週間一緒に暮らしたが、母に連れ戻される。しかし母と暮らすことはできず、ふたたびミミ夫妻に育てられる。その一方、父は家出して行方不明となった。

少年時代

レノンは19529月、グラマー・スクールクオリー・バンク校英語版)に入学した。父親代わりだったミミの夫・ジョージ英語版)(1903 - 1955)が1955年に死去した。

レノンのティーンエイジャー時代のイギリスでは、ロニー・ドネガン英語版)の「ロック・アイランド・ライン」が1956年に大ヒットとなり、スキッフル・ブームが起きた[16]。さらに1956年、エルヴィス・プレスリーの「ハートブレイク・ホテル」を聴き、ロックンロールに衝撃を受けたレノンは、初めてのギターとなるギャロトーン・チャンピオンを新聞の通信販売で購入した。この頃、母が近くに住んでいることを知ったレノンは、彼女の家へ通うようになった。夫・フレッドからバンジョーのコードを教わっていたジュリアは、レノンにバンジョーのコードをいくつか教え音楽に関心を向けさせた。

1957年、第1作にあたる「ハロー・リトル・ガール[注釈 5]を作曲する。当時からギター、ヴォーカルを担当していた。

ポール、ジョージとの出会い

3月、クオリー・バンク校で、級友たちとスキッフルバンド「クオリーメン」を結成した。レノン以外のメンバーが定着しないまま活動を続けていた76日、演奏のためウールトンのセント・ピーターズ教会英語版)に赴いた際、共通の友人たるアイヴァン・ボーンにポール・マッカートニーを紹介される[注釈 6]1018日にマッカートニーをクオリーメンに加入させる。バンド活動と並行して、エルヴィス・プレスリーチャック・ベリーバディ・ホリー、ジーン・ヴィンセントなどアメリカロックンロールに夢中になった。またレノンは、自分が大きな影響を受けた一人として、ルー・クリスティをあげている[17]19582月、マッカートニーからジョージ・ハリスンを紹介されたレノンは、間も無く彼のギター演奏技術を評価し、クオリーメンに採用した。

母の死

1958715日、非番の警察官が運転する車が母・ジュリアをはねて死亡させる事件が起こった[注釈 7]。母・ジュリアの死はレノンに大きく影響し、すでに(1956年、14歳のとき)母を乳癌で亡くしていたマッカートニーとの友情を固めた。

19589月、レノンはクオリー・バンクを卒業後、同校校長の取り計らいで美術専門学校であるリヴァプール・カレッジ・オブ・アート Liverpool College of Art)に入学する。そこで最初の妻となるシンシア・パウエルと出会った。19591月、クオリーメンのメンバーはレノン、マッカートニー、ハリスンの3人だけになった。

ハンブルク時代

このころからリヴァプールだけでなく、西ドイツハンブルクのクラブなどでも演奏活動を始めている。この頃、レノンはハンブルクの楽器店でデビュー時まで使用することとなるエレキギターリッケンバッカー325を購入。19601月、レノンの説得により、リヴァプール・カレッジ・オブ・アートでの友人、スチュアート・サトクリフがメンバーに加わりヘフナーNo.333を用いてベースを担当した。レノンを含めたメンバーはハンブルク滞在中に薬物、酒、性交、ロックンロールを楽しんでいた[18]。従ってボブ・ディランがビートルズに薬物を教えたという俗説は誤りである。バンド名も「クオリーメン」から「ジョニー&ザ・ムーン・ドッグス」や「ザ・シルヴァー・ビートルズ」と名乗るようになり8月「ビートルズ」になりピート・ベストが加入した。

19614月、サトクリフはハンブルク滞在中に脱退し、画家を目指した。レノンは、すぐにマッカートニーを説得してベーシストに転向させた[注釈 8]。またレノンはこのとき、加入を申し出たクラウス・フォアマンを不採用とした。なお、サトクリフは恋人とハンブルクに残るがまもなく21歳で脳出血のため死去した。6月、ドイツで活動していたイギリス人歌手トニー・シェリダンのバック・バンドとして「マイ・ボニー」などの曲を録音した。

ビートルズ時代

ビートルズ時代

ブライアン・エプスタインとの出会い

196112月、ビートルズは「マイ・ボニー」を買いにきた客からビートルズを知ったレコード店経営者のブライアン・エプスタインとマネージメント契約を結び[19]、ロンドンのレコード会社への営業活動を始めた。196211日に、デッカ・レコードの審査を受け不合格となるが、6月にEMIパーロフォンと契約を結ぶ。816日にベストが解雇され、以前からビートルズと親しく交流していた「ロリー・ストーム&ザ・ハリケーンズ」のドラマーであるリンゴ・スター818日に加入した。105日、ビートルズとしてレコード・デビューを果たした。

最初の結婚

シンシア・パウエル1962823日に結婚[19]。しかしシンシアの存在は、数年間隠されていた[20]

最初の妻のシンシア・パウエル 長男のジュリアン・レノン

長男・ジュリアン・レノン196348日に誕生。しかし、両親と生活したことがないジョンは、ジュリアンにどう接していいかわからなかった。「『どうしたらジュリアンが喜ぶか教えてくれないか?やり方がわからないんだ』とレノンに質問された」とマッカートニーは述べている。ジュリアンものちに「ポールはかなり頻繁に遊んでくれたよ、父さんよりね。僕らはいい友人だった。そのころの僕とポールがいっしょに遊んでいる写真は、父さんとの写真よりもはるかに多い」と述べている。 ヒッピー文化に影響されたレノンとビートルズのメンバーは、ドノヴァンマイク・ラヴミア・ファロージェーン・アッシャーパティ・ボイド、シンシア・レノンらとインドへ行っている[21]

キリスト発言

詳細は「キリスト発言」を参照

196634日、ロンドン・イブニング・スタンダード英語版)紙のモーリーン・クリーブ英語版)とのインタビューでレノンは次のように発言をした[22]

キリスト教は逝っちゃうだろうね。議論の余地はないね。僕は正しいし、僕が正しい事は証明されるさ。今やビートルズはイエスより人気がある。ロックン・ロールとキリスト教、どちらが先に逝っちゃうかはわからないけどね。イエスはまぁイケてたんじゃない?けど弟子たちはバカで凡人だった。僕に言わせれば、ヤツらがキリスト教を捻じ曲げて滅ぼしたのさ。」

この発言はイギリスではほとんど問題にならなかったが、同年7月にアメリカのファンマガジン『デートブック』に再収録されると、キリスト教右派が信奉されるアメリカ南部や中西部保守宗教団体による大規模な抗議活動が生じた。ラジオ局はビートルズの曲の放送を禁止し、ビートルズのレコードや関連商品が燃やされた。スペインおよびヴァチカンはレノンの発言を非難し、南アフリカ共和国はビートルズの音楽のラジオ放送を禁止した。最終的に、1966811日にレノンはシカゴで以下のように釈明会見を行いヴァチカンも彼の謝罪を受容した。

「もし"テレビがイエスより人気がある" と言ったなら何事もなかったかもしれない。あの発言には後悔してるよ。を否定していないし、反キリストでもなければ、反教会でもない。イエスを攻撃したわけでもなければ、貶めたわけでもない。ただ事実を話しただけで、実際アメリカよりイギリスではそうなんだ。ビートルズがイエスより良くて偉大だとは言ってないし、イエスを人として僕らと比べたりもしてない。言ったことは間違ってたと話したし、話したことは悪く取られた。そして今に至る、ってことさ。」

「たまたま友人と話をしていて、ビートルズという言葉を自分とはかけ離れた存在として使っただけなんだ。今のビートルズは何にもまして大きな影響を若者や状況に与えている、あのキリストよりもって言ったんだ。そう言ったことが間違って解釈された。」

オノ・ヨーコとの出会い

2人目の妻の小野洋子

1966829日にアメリカ合衆国カリフォルニア州サンフランシスコで最後の公演を終えた後、ビートルズは『サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド』の制作前に予定されていた2か月余りの長期休暇に入った。レノンは主演映画『ジョン・レノンの 僕の戦争』の撮影にのため西ドイツへ向かった。撮影が終わり、ロンドンに戻ったレノンは、インディカ・ギャラリーで行われていた女性前衛芸術家の個展内覧会に招かれ、経営者のジョン・ダンバーからオノ・ヨーコを紹介された[23][24]。美術学校時代に東洋文化を専攻していた友人がいたレノンは、当時日本や東洋文化に興味を持ち、禅宗の概念に強い関心を寄せていた。これを色濃く反映させたオノの作品に強い興味を示した。 レノンが見たオノの作品に、白い部屋の真ん中に天井まで届く梯子と天井から虫眼鏡がぶら下がっているものがある。白い天井には裸眼では見えないほど小さな文字で何かが書いてあり、虫眼鏡を使って見ると、"YES"とだけ書かれている。「"No"とかの否定的な言葉でも、何かを罵る言葉でもなく、乱暴な言葉でもなく、肯定的で短い"YES"だったことに衝撃を受けた」と、レノンがそれをいたく気に入ったという逸話がある。

オノの作品や言動に魅力を感じたレノンは、その後資金提供を行い、連絡も頻繁に取るようになっていった。196824月のインドでの修行中も、オノと文通していた。519日、オノへの思慕を募らせたレノンは妻シンシアの旅行中にオノを自宅に呼び、実験音楽の制作を行ったが[注釈 9]、予定より早く帰宅したシンシアがオノと鉢合わせし、そのまま家を出て行ってしまった。レノンはそのままオノとの同棲生活を始めた。7月にシンシアと離婚を申請し、118日に正式に離婚した。

その後、レノンは19693月にジブラルタルでオノと結婚し、新婚旅行で訪れたパリジョンとヨーコのバラードを書いた。結婚後まもなく、レノンはミドルネームの"Winston""Ono"に変更する旨を裁判所に申請したが、却下された。代わりに、レノンの本名はパスポートやグリーンカードなどの公文書に"John Winston Ono Lennon"と表記された。

また、レノンはオノと前衛的な『「未完成」作品第1 トゥー・ヴァージンズ』『「未完成」作品第2 ライフ・ウィズ・ザ・ライオンズ』『ウェディング・アルバム』の3作のアルバムを発表した[注釈 10]

ベトナム反戦運動

ジョン・レノン、妻のオノ·ヨーコ(1969年) ベッド・イン風景、(奥左)ジョン・レノン、(奥右)オノ・ヨーコ、(中央)ティモシー・リアリー。「平和を我等に」のレコーディング中(1969年) 「平和を我等に」を歌うジョン・レノン(1969年)

レノンとオノは326日から31日にかけて新婚旅行先のオランダアムステルダムで「平和のためのベッド・イン[注釈 11]を行うなど、奇妙なカップルの動向を大々的に報道するマスコミを利用して、平和活動を展開した[注釈 12]

526日から カナダケベック州モントリオール2回目の「ベッド・イン」を行い、61日には様々な著名人をホテルに招いて「平和を我等に」の録音を行い、さらに2人で「ヨーコの心」も録音した。この2曲は「プラスティック・オノ・バンド」名義初のシングルとしてイギリスでは74日に発売された。

ベトナム戦争に対する抗議と平和を求める活動に積極的に参加し、反戦運動における重要人物とも見做される一方、左翼団体の国際マルクス主義グループと関係を持っていたことからFBIの監視対象にもなっていた[26]。イギリスのベトナム戦争支持を受け、1965年に受勲した大英帝国勲章を返上した。このほかにも「バギズム」や「ドングリ・イヴェント」など、オノと共同で行ったパフォーマンス・アートや War Is Over (If You Want it)」(ともに1969年)の街頭広告を発表した。

ビートルズからの脱退

1969年、いわゆる「ゲット・バック・セッション[注釈 13]の終了後、レノンは本格的にソロ活動を開始し、7月にはシングル「平和を我等に」をプラスティック・オノ・バンド名義で作品を発表した。913日には「ロックン・ロール・リバイバル・コンサート」にプラスティック・オノ・バンドを率いて出演し、3年ぶりに観衆の前で演奏を行った[注釈 14]

その1週間後の20日、ハリスンを除く3[注釈 15]がクレインとともに米国キャピトル・レコードとの契約更新の手続きのためアップル本社で持った会合の席上で、レノンとマッカートニーはバンドの今後を巡って口論になった[27]。公演活動の再開を望むマッカートニーにレノンは悉く反発し、挙句の果てに「契約書にサインするまでは黙ってろと言われたんだけど、君がそう言うんなら教えてやるよ。俺はもうビートルズを辞めることにした」と吐き捨てた。契約更改を控えた現時点で脱退を公表することは大きな不利益を被るとマッカートニーとクレインに説得され、この時点ではレノンの脱退は秘密とすることとなった[28]。しかしレノンはこれ以降ビートルズとしてスタジオに戻ることはなく、実質的にビートルズは解散した[29][注釈 16]

ソロ活動

初期の活動とアメリカ移住:1970 - 1972

19702月、フィル・スペクターがプロデュースし、ハリスンも参加した「インスタント・カーマ」は米英でトップ5ヒットとなりゴールドディスクを獲得した[注釈 17]

41日から915日まで、レノンとオノはロンドンのティッテンハーストとアメリカロサンゼルスアーサー・ヤノフ博士のクリニックで、彼が提唱した精神療法である原初療法を受けた[注釈 18]

帰国後、プロデューサーにスペクターを迎え、スター、フォアマン、ビリー・プレストンと共にレコーディングを開始、12月にアルバム『ジョンの魂』とシングル「マザー」を発表した。

19716月、アルバム『イマジン』の制作を開始した(発表は10月)。これにはハリスン、ホワイト、ケルトナー、キング・カーティス(サキソフォーン)が参加した。米国1位、英国1位、日本1位(オリコン総合チャート)と大ヒットを記録した。

9月、レノンは活動の拠点をアメリカ合衆国ニューヨーク州ニューヨークに移し、グリニッジ・ヴィレッジのアパートで生活を始めた。ここでジェリー・ルービンやアビー・ホフマン、ボビー・シールら多くの反体制活動家やミュージシャンと知り合い、政治活動(公務員に対して禁止されている政治活動の行動類型)に積極的に参加した。レノンはルービン、ホフマン、シールらの印象が、自分のそれと同様に、マス・メディアによって悪く歪曲されていることを知った。大麻所持で通常よりも重い10年間の禁固刑を受けた反体制活動家ジョン・シンクレアの救済公演への出演、アッティカ刑務所の入所者家族のための慈善公演(ともに197112月)なども行った。ジョンは、公式に特定の政党を支持したことは一度もなかったが、「人々に力を、民衆に権力を」と主張しアメリカ国内でデモ行進をした。大統領リチャード・ニクソンロナルド・レーガンと同じく、50年代にマッカーシーの赤狩りに協力したような政治家だった。ニクソン時代のFBI長官ジョン・エドガー・フーヴァーFBIによる監視については、レノンの死後に関係者の訴訟により膨大な量の調査報告書が公開されている[33]。このような理由から、レノンの大麻不法所持による逮捕歴を理由としたアメリカへの再入国禁止処分について再延長の手続きをとり続けた[注釈 19]

19716月にはパーティーでマイルス・デイヴィスと会い、一対一のバスケット・ボールを楽しんだ。この様子は、動画サイトに残っている。19722月に、テレビ番組「マイク・ダグラス・ショー」に出演し、少年時代から敬愛するチャック・ベリーと共に「メンフィス・テネシー」と「ジョニー・B・グッド」を演奏した。5月にワシントン・スクエアの教会で慈善公演に出演した。

19726月発表の『サムタイム・イン・ニューヨーク・シティ』はニューヨークのローカル・バンドのエレファンツ・メモリーがバックを務め、刑務所での暴動、人種問題や性差問題、北アイルランド紛争アメリカ合衆国グリーンカードについて歌い、アルバム・ジャケットに裸踊りをするリチャード・ニクソン毛沢東の合成写真を使用した。830日、レノンはエレファンツ・メモリーとともに、精神発達遅滞児童を援助する2回の慈善公演「ワン・トウ・ワン」をニューヨークのマディソン・スクエア・ガーデンで行い、スティーヴィー・ワンダーと「平和を我等に」を共演したほか、ビートルズ時代の「カム・トゥゲザー」を披露した[注釈 20]96日には筋ジストロフィー患者を援助する24時間チャリティテレビ番組『ジェリー・ルイスレイバー・デイ・テレソン』にエレファンツ・メモリーとともに出演した。

「ヌートピア」宣言と「失われた週末」:1973 - 1975

個人秘書のメイ・パン

1973313日、レノンはハリスンと共にスターのソロ・アルバム『リンゴ』のために提供した「アイ・アム・ザ・グレーテスト」のレコーディングに参加した[34][注釈 21]

323日、米国出入国管理局は、前年に滞在延長の申請が却下されたのにもかかわらずアメリカ国内で政治的活動を行っていたオノに対して永住権を認める一方で、レノンに対しては国外退去命令を出した。これを受けて41日、夫妻はニューヨークで会見を開き、領土も国境もパスポートもない架空の理想国家「ヌートピア」の建国宣言を行ない、米政府の対応を痛烈に批判するとともに、命令の撤回を求める訴訟を続けた。

9月、アルバム『マインド・ゲームス』完成するとレノンはオノのもとを離れ、2人の個人秘書であったメイ・パンとともにカリフォルニア州ロサンゼルスで同棲生活を始めた[36]10月からはフィル・スペクターのプロデュースでオールディーズのカバーアルバムの制作を始めた。しかし途中でスペクターがマスターテープを持ったまま行方不明になったため、中断を余儀なくされてしまった。

後に「失われた週末("Lost Weekend")」とレノンが語ったこの時期、スターやハリー・ニルソンザ・フーキース・ムーンらと毎晩のように飲み歩いて過ごしていた。そのため泥酔してナイトクラブで騒ぎを起こして新聞沙汰にもなった[注釈 22]。一方、長い間疎遠になっていたマッカートニーとの和解や、パンの尽力による前妻シンシアとの間に生まれた息子・ジュリアンとの再会も果たした。さらにローリング・ストーンズミック・ジャガーの曲「トゥー・メニー・クックス」をプロデュースした[注釈 23]

1974

19744月下旬、レノンはスペクターからテープを取り戻すことをいったん諦め、ニューヨークに戻った[注釈 24]。ニルソンの『プシー・キャッツ』をプロデュースした後、自らのプロデュースでアルバム『心の壁、愛の橋』の制作を行った。ローリング・ストーン誌でレノンの最高傑作と評価されたこのアルバムは『イマジン』以来、ソロとして2作目の全米1位を獲得した。また、エルトン・ジョンと共演した先行シングルの「真夜中を突っ走れ」はソロになって初めての全米1位となった。その後、エルトンがカバーしたビートルズの「ルーシー・イン・ザ・スカイ・ウィズ・ダイアモンズ」で再び共演、シングルカットされ、これも全米1位を獲得した。1128日、マジソン・スクエア・ガーデンで行われたエルトンの公演に出演、3[注釈 25]を演奏した。同公演後に、レノンはオノと再会したと言われている。また、スターのアルバム『グッドナイト・ウィーン』にも参加、タイトル曲を提供した[注釈 26]

息子のショーン・レノン

19751月、デヴィッド・ボウイの『ヤング・アメリカンズ』のレコーディングに参加、ビートルズ時代の「アクロス・ザ・ユニバース」を共演、さらにボウイ、カルロス・アロマーと「フェイム」を共作し、コーラスとギターで参加した[注釈 27]。同時期にレノンはオノの住む自宅へ戻った。2月、カバー・アルバム『ロックン・ロール』を発表。同作から「スタンド・バイ・ミー」のヒットが生まれた。

31日には17回グラミー賞最優秀レコード賞のプレゼンターとして出演した。418日に放映されたBBCのテレビ番組「オールド・グレイ・ホイッスル・テスト」に出演し、ボブ・ハリスからのインタビューも受けた[38][注釈 28]。また613日に放映された「ア・サルート・トゥー・サー・ルー・グレード」にも出演し、ライヴ・パフォーマンスを披露した[注釈 29]

107日、ニューヨーク州最高裁判所は、米国出入国管理局が前年718日にレノンに対して再度出した国外退去命令を認めない判決を下した[注釈 30]。これにより3年半余り続いたアメリカ政府との係争はようやく終結した。その2日後、レノンが35歳の誕生日を迎えた109日、第二子・ショーンが誕生した[注釈 31]。同月コンピレーションアルバム『シェイヴド・フィッシュ〜ジョン・レノンの軌跡』を発表した後[注釈 32]、ショーンの養育に専念するため音楽活動から退いた。

活動休止と「主夫」生活:1976 - 1979

1976126日に1967年から9年間にわたるEMIキャピタルとのレコーディング契約が満了したが、更新には興味を示すことはなく[41]、他のレコード会社との契約を結ぶこともなかった。

しかし「主夫」生活の間も自宅で作曲活動は続けており、時たま自作曲をテープに録音していた[注釈 33]。また19766月にはスターのアルバム『リンゴズ・ロートグラヴィア』のために「クッキン」を提供し、スタジオでピアノ演奏も行った。

1976727日にアメリカでの永住権を獲得、グリーン・カードを取得すると、翌1977年から79年にかけて、毎年家族を伴い日本にやってきた。1977104日、日本滞在中にホテルオークラで行われた記者会見で「大きな決断ということではないのだが、家族と過ごす以外に創作活動に没頭する時間が取れると思えるようになるまでは、可能なかぎり赤ちゃんと一緒にいることにしました」と語り、音楽活動からの「引退」を公式に発表した[42]

1979年、当時の国連事務総長クルト・ヴァルトハイムから12月に開催する予定の『カンボジア難民救済コンサート』に「ビートルズ」としての出演を依頼された。レノンは公演の趣旨には賛同したが「ビートルズ再結成」には興味がなかったため、参加を辞退した[43][注釈 34]

活動再開、そして突然の死:1980

19806月、オノの勧めで息抜きに単身訪れたバミューダ諸島で創作意欲を掻き立てられたレノンは[注釈 35]、約2か月の滞在の間に作った曲をスタジオで録音することを思い立った[注釈 36]。プロデューサーには旧知のジャック・ダグラスを起用し[注釈 37]8月から新曲の録音を開始した。10月まで続いたセッションではオノの曲も合わせて、22曲が録音された。

1023日に先行シングルとして「スターティング・オーヴァー」をリリース、1117日には5年ぶりのアルバム『ダブル・ファンタジー』を発表した。アルバムは126日付けのビルボード誌で初登場第25[44]、シングルは同日付で第6位まで上昇していた[45]

1282250分(米国東部時間)にニューヨークの自宅「ダコタ・ハウス」前において、近づいてきたファンを名乗るマーク・チャップマンに銃撃された。すぐに近くのルーズヴェルト病院に搬送されたが、失血性ショックにより25分後に死亡した[46][47]。翌年1月にはスターの新しいアルバムのためのセッションと次作『ミルク・アンド・ハニー』のための追加セッションを行い、その後、日本を皮切りとするワールド・ツアーが計画されていた中での突然の死だった。40歳だった。

詳細は「ジョン・レノンの殺害」を参照

レノンの死後、「スターティング・オーヴァー」はビルボード誌で1227日から5週連続第1位を獲得、セカンドシングル「ウーマン」も321日から3週連続第2位を記録した。また『ダブル・ファンタジー』は1227日から9週連続第1位を獲得した。全世界で500万枚以上を売り上げ、レノンのソロキャリアで最大のヒット作となり、24回グラミー賞年間最優秀アルバム賞を受賞した[注釈 38]

音楽性の発展

ビートルズ時代

1960年代、ビートルズはポップ・カルチャー、ロック・ミュージック、ロックを目指す若者たちに大きな影響をもたらし、音楽と若者文化の発展に大きく貢献した。レノンが単独あるいは中心となって書いた曲は、内省的であり、一人称で書かれた個人的な内容であることも多い。レノンのこうした作風と、マッカートニーの明るい作風は、ビートルズの楽曲に多様性をもたらしていた。

ビートルズ初期におけるレノン=マッカートニーの共作においては「シー・ラヴズ・ユー」「抱きしめたい」「エイト・デイズ・ア・ウィーク」などにおける開放感のあるメロディーを生み出した。

ビートルズ初の大ヒット曲「プリーズ・プリーズ・ミー」のほか、「涙の乗車券」「アイ・フィール・ファイン」「ア・ハード・デイズ・ナイト」「ヘルプ!」は実質的にはレノンが書いた曲である。マッカートニー作の「ミッシェル」などで聴かれる感傷的で哀愁漂うメロディーは、彼の楽天的なメロディーに、レノンの性格や音楽性が陰影をつけ、曲に哀愁感をもたらした[48]

ビートルズ中期には、薬物インド音楽の影響を受け、幻想的でサイケデリック色の強い作品を制作した。「アイ・アム・ザ・ウォルラス」「ストロベリー・フィールズ・フォーエバー」「トゥモロー・ネバー・ノウズ」「ア・デイ・イン・ザ・ライフ」「ルーシー・イン・ザ・スカイ・ウィズ・ダイアモンズ」などは多くのアーティストに影響を与えた当時の傑作群と言える。

19676月、ビートルズは世界初の衛星中継テレビ番組に出演した。全世界で4億人が見たとも言われるこの番組で「愛こそはすべて」を披露。原題の“All You Need Is Love”はビートルズやレノンを語るときの代名詞ともなった。

後期は単独作が増やし、「グッド・ナイト」「アクロス・ザ・ユニヴァース」「ビコーズ」のような美しいメロディーを持つ曲や、「ヤー・ブルース」「カム・トゥゲザー」「ドント・レット・ミー・ダウン」のようなブルース・ロックの曲を発表した。

ソロ時代

1969

こうしたビートルズ時代に比べ、ソロではより簡潔な和声の進行と、個性的な歌詞に特徴づけられる曲調へと変化し、「マザー」「コールド・ターキー」「真実が欲しい」のような曲を発表している。そして、「インスタント・カーマ」のようなロカビリー・ヴォイスが特徴のロックも制作した。

また「ラヴ」のような美しいメロディーの曲や、ビートルズ時代の「ストロベリー・フィールズ・フォーエバー」「ジュリア」のように繊細なメロディーで、かつ個性的な和声進行を示す独特の曲調は、同時期(1967 - 1968年) に原曲が書かれたとされる「ジェラス・ガイ」へと発展した。

さらにエルトン・ジョンとの「ルーシー・イン・ザ・スカイ~」の間奏部分や、「インテューイション」(1973)における本格的なレゲエの導入へと至った。1980年のインタビューではレゲエのリズムを共演ミュージシャンに説明することを要したとの発言がある[49]。「心の壁、愛の橋」の「愛を生き抜こう」ではビートルズの「ハッピネス・イズ・ア・ウォーム・ガン」の通作形式[50]を踏襲した楽曲構成を行った。

わずか15分で書かれたといわれる「ウーマン」は、単純ながら、最終部で半音階上昇などカデンツ(終止形、コード・パターン)にテクニックが使用された楽曲となった。曲の着想はビートルズ時代の「ガール」を発展させたとレノンが1980年のインタビューで述べている[49]

編曲・プロデュース

レノンは編曲・プロデュースの手法を二人のプロデューサーから学び、その影響を大きく受けていた。

一人目は5人目のビートルズとも呼ばれたジョージ・マーティンである[51][52][注釈 39]

当時はプロデューサーとミュージシャンとの関係は対等でなく、圧倒的にプロデューサーの力が強かった。しかしマーティンはデビューシングル曲選定の段階で、彼らのオリジナル曲でやりたいという意見を取り入れたり[注釈 40]、セッション・ミュージシャンを使わなかったり[注釈 41]など、年下のミュージシャンに対しても決して高圧的な態度をとることなく、敬意を持って接していた[注釈 42]。一方、レノンたちは普段演奏する際に自分たちが行っているのとは違う、様々なアレンジが加わって自分たちの曲がレコードになる過程を目の当たりにして驚き、そして興味をそそられた。デビューアルバムの録音が終わった後、マッカートニーと共に毎日のように教えを乞いに訪ねてくるレノンに、幼少からピアノに親しみ、音楽学校でクラシック音楽を学んできたマーティンもアレンジ法、メロディーや和音の作り方などあらゆる音楽的知識を惜しげもなく与えた[56]ループや逆再生など、彼らが興味を持つような新しい手法も紹介した。また、自らピアノでレコーディングに参加することもあり、その影響でレノンは作曲にギターだけではなくピアノも用いるようになった。レノンは「マーティンは、スタジオで私たちを現在の姿にしてくれた。彼は、他のミュージシャンたちとコミュニケーションをとるための言語を、私たちが習得するのを助けてくれた」と1971 年に語った[57]。マーティンがレノンのソロ作品に関わることは全くなかったが、ベースのクリシェ[58]分散和音的なアプローチなどマーティンから学んだ手法がとられた作品は多い。

二人目はレノンのソロ作品の多くに関わった、音楽制作手法「ウォール・オブ・サウンド」で最もよく知られているフィル・スペクターである。

シングル「インスタント・カーマ」で初めてスペクターと楽曲制作を共にした[注釈 43]レノンは、その手際のよい仕事ぶりと満足のいく仕上がりに感銘を受け、その後、ソロアルバム『ジョンの魂』『イマジン』でスペクターを起用した[注釈 44]。簡潔な音作りをしたいレノンの意向もあり[49]、同時期にプロデュースしたハリスンの『オール・シングス・マスト・パス』と比べて抑制気味の仕上がりとなっているものの、一つの楽器パートを複数の演奏を重ね合わせることで作り上げたり、エコーを効果的に使ったりなど、スペクターの手法が随所にみられた。このスペクターの手法はレノンがセルフプロデュースした『マインド・ゲームス』『心の壁、愛の橋』でも踏襲されていた[注釈 45]。また、ストリングス、ホーンを多用した編曲もスペクターの影響と考えられる。

ポール・マッカートニーとの関係

ポール・マッカートニー(2005年)

音楽史上最も有名で最も成功した作曲パートナーシップと評されている「レノン=マッカートニー」を共に構成していたマッカートニーに、レノンは音楽以外でもその後の人生に大きく関わるきっかけや影響を受けていた。

オノとの出会いの場となった「インディカ・ギャラリー」を最初にレノンに紹介したのはマッカートニーだった。当時の恋人だったジェーン・アッシャーとの関係でギャラリーの支援者となっていたマッカートニーは[62][注釈 46]、『リボルバー』のレコーディングが始まっていた19664月、当時書店兼ギャラリーだったインディカにレノンを連れて行った。レノンはここでダンバーやバリー・マイルズ[注釈 47]を紹介された。また「トゥモロー・ネバー・ノウズ」を作曲するきっかけとなった『チベットの死者の書サイケデリック・バージョン』をこの書店で見つけ、その場で一気に読破した後、購入した[63][64][注釈 48]

レノンが積極的に平和活動に関わる最初のきっかけを作ったのもマッカートニーだった。ビートルズ日本公演直前の19666月、マッカートニーは哲学者で当時ベトナム戦争反対を唱えていた平和運動家バートランド・ラッセル2回にわたり面会した[注釈 49]。マッカートニーから報告を受けたレノンは非常に関心を持ち、リチャード・レスターから誘いを受けていた映画『僕の戦争』への出演を決めた。また「愛こそはすべて」「レボリューション」など平和への想いを込めた曲を作るようになった。1969年にはオノと共にラッセルと面会し、その後の大英帝国勲章の返還や「平和のためのベッド・イン」などの活動につながっていった。

しかし、アップル・コアの経営を巡って二人の間の溝は深まり、結果的にビートルズは解散してしまうことになった。マッカートニーの脱退を新聞報道で知ったレノンは、先にグループを脱退していながら秘密にすることを求められていたこともあり、マッカートニーが自らのソロアルバムの宣伝のために脱退を公にしたと考えた。さらに『ラム』の「トゥ・メニー・ピープル」でオノとの活動を揶揄されたと感じたレノンは激怒し、『イマジン』の「ハウ・ドゥ・ユー・スリープ?」でマッカートニーの作風をこき下ろし、『ラム』のジャケットのパロディ写真を付録にした。

この対立は19743月、アカデミー賞授賞式に出席するため[注釈 50]久しぶりにロサンゼルスを訪れていたマッカートニーがレノンに会いに行き[注釈 51]、その場でスティーヴィー・ワンダーらを交えてジャム・セッションを行ったことで解消された[注釈 52][注釈 53]。また同年12月には、ハリスンの全米ツアーの打ち上げパーティーにレノンとマッカートニーが揃って出席した。

19764月、マッカートニーがレノンの自宅を訪れたある日[注釈 54]、二人だけで『NBCサタデーナイト)』を観ていると、番組プロデューサーのローン・マイケルズが登場し、小切手を見せながら「ビートルズが再結成して番組に出演するなら、3000ドルを支払う」と語りかけた[70]。二人は喜び「今から押しかけてやろうか」といったんは意気投合したが、結局実行しなかった。後日、マッカートニーは「昔に戻れたみたいでとても嬉しかった」と語った。

レノンは「ポールの悪口を言っていいのは俺だけだ。他の奴が言うのは許さない」と公言し、ニルソンやパンにでさえ、マッカートニーの悪口を言うことは許さなかったと言われている。殺害当日に受けた最期のインタビューでは、「人生のうちで2回、すばらしい選択をした。ポールとヨーコだ。それはとてもよい選択だった」[71]と語っている[注釈 55]

他のミュージシャンへの影響

ロック界でもっとも影響力のあったミュージシャンの一人として知られる。レノンが影響を与えたミュージシャンとして、ビートルズの同僚マッカートニーとハリスン、ニール・ヤング70年代に共演したエルトン・ジョン、デヴィッド・ボウイ、ハリー・ニルソン、クイーンらが挙げられる[72]。ほかにもラズベリーズ、ELO10cc、デヴィッド・ピールら、影響を受けたミュージシャンは数知れない。

反ビートルズだったパンクスたちもレノンから刺激を受けている。ジョン・ライドンは「労働者階級の英雄」を聴いて「この怒りと悔しさは本物だと生まれて初めて感じた。ピストルズの方向性が決まった」と語っている。同曲をカバーしたグリーンデイのビリー・ジョー・アームストロングはジョンから「真実とは何かを学んだ」と述べている。クラッシュのジョー・ストラマーは「彼が遺したものの一つは、夢見ることを許されなかった人々に扉を開いたことだ。僕らは永遠に新たな天才が登場するたびにあの天才と比較し続けるだろう」と評している。

ジャクソン・ブラウンはローリングストーン誌によると「彼はつねに真実を語った」と賛辞を送っている[73]U2の代表作の一つ「Sunday Bloody Sunday」はレノンの同名曲に因んだものである。Nowhere誌の中で、元ポリススティングは「我々のようなロックミュージシャンが何ごとかを言えるのはジョンのおかげである」と語ったと報じている。リアム・ギャラガーは「もしもジョン・レノンに会えたら舐め回してやる」と述べている。

1995年のレノンのトリビュート・アルバム『Working Class Hero』のライナーノーツはTimes誌の記事を紹介し、「聞き手と非常に親密で個人的な関係を築く希有なミュージシャン」「複雑なリズム、コード進行によってロックの限界を拡張し、その発展に貢献した」と評した。また、ヴォーカルの二重録音にヒントを得たエフェクターの一種のフランジャー開発への貢献、ボーカルの電気処理を導入したことでも知られる。

日本との関わり

来日・滞在

レノンはビートルズ脱退後4度、プライベートで妻のオノと日本を訪れていた。

最初は、アルバム『ジョンの魂』発表直後の1971113日から21日の9日間。ロサンゼルスから客船で横浜港に到着すると、東京、京都、鎌倉などを訪れた。当初は1か月ほど滞在する予定だったが、マッカートニーが起こした裁判が始まり、弁護士にすぐに帰国するように催促されたため、予定を切り上げてイギリスへ戻らざる得なくなった。帰国直前には当時の東芝音楽工業洋楽ディレクター水原健二によるインタビューが宿泊していた帝国ホテルで行われた。その際『ジョンの魂』を日本語で「しぶいアルバム」と表現し、俳句の影響を示唆した[74][注釈 56]

2度目は音楽活動休止中の1977年は511日から107日までの5か月という長い期間、息子ショーンを連れて小野家の別荘があった長野県軽井沢を中心に過ごし、東京・北海道・京都にも足を運んだ[77]

古くから数多くの外国人や著名人を滞在客として迎え入れてきた軽井沢では、町でレノン一家を見かけるのもごく日常的な光景として受け入れられ、干渉されることもなかったため、その心地よい空間は彼らに安息を与えた。レノンはその気候風土から軽井沢を故郷の英国リヴァプール郊外と重ね合わせていたようで[78]、滞在中「自分の音楽活動が終わったら、この辺りに土地を買って軽井沢で暮らしたい」[79]としばしば口にし、売りに出ていた大型物件の内見に行ったこともあったという[80]。軽井沢の町を自転車で走行したり、行きつけのパン屋喫茶店、付近の景勝地に立ち寄った時の様子などは、写真に多く残されている。なかには森の中でギターの弾き語りをする様子まで収められている。これらの写真の多くは、当時レノン一家のパーソナル・アシスタントであった写真家の西丸文也によるものであった[77]

軽井沢における定宿は万平ホテル旧館2階であった。ホテル併設のカフェにはレノン直伝のロイヤルミルクティーがあり、ホテル内の記念館にはレノンのサインを始め、欲しがったといわれるピアノなどが収められている[注釈 57]。またレノンは、1979年に訪れた喫茶店に眼鏡とたばこ、ライターを置き忘れていったが、店はそれらを保管していた。

レノンがエルヴィス・プレスリーの訃報を知ったのも、軽井沢に滞在中のことであった[77]。そのとき各国メディアの特派員が軽井沢に飛び、レノン夫妻を訪ねたが、2人は「コメントが流れることで日本での楽しい生活が壊される恐れがある」として言及を避けたと、当時のサンケイスポーツは紙面で報じている[注釈 58][81]

3度目は、197865日から916日まで、東京のホテル・オークラを中心に3ヵ月滞在。最後となった4度目は、1979728日から828日まで、軽井沢の別荘で休暇を過ごした[77]

交友関係

日本人の知己としては、ビートルズとして訪日時にともに取材を受けた加山雄三[注釈 59]、ニューヨークのレノン夫妻のもとで過ごした時期のある横尾忠則[82]、訪日時に食事をともにした内田裕也樹木希林夫妻、シンコーミュージック(当時)の星加ルミ子らが挙げられる。また、音楽評論家湯川れい子とレノン夫妻の交流は広く知られ、1980125日にも、FM東京で取材を受けている[83]写真家篠山紀信は、アルバム『ダブル・ファンタジー』『ミルク・アンド・ハニー』のカバー写真を撮影している。

また、古美術商・木村東介の誘いで夫妻で歌舞伎隅田川」を観劇し、終幕でレノンが感涙したという逸話もある[77]。その際に歌舞伎役者中村歌右衛門の楽屋を訪れたことが縁となり、レノンは1975年に行われた歌右衛門の英国公演を支援している[82]

売り上げ

日本での売り上げで、シングルでは「マザー」「イマジン」「スターティング・オーヴァー」「ラヴ」が上位を占める。アルバムは「イマジン」のほかもオリコン総合チャートで「ジョンの魂」が5位、「マインド・ゲームズ」が6位、「ダブル・ファンタジー」が2位(単日では1位)、「ミルク・アンド・ハニー」が3位と洋楽アーティストの中でも有数の人気を誇っている。シングルとアルバムの合計で、オリコン誌では210万枚以上に達している。

殺害事件

レノンの自宅のあったダコタ・ハウス

詳細は「ジョン・レノンの殺害」を参照

1980128日、レノンは自宅であったダコタ・ハウスで、午前中から音楽誌「ローリング・ストーン」掲載用写真のフォト・セッション[注釈 60]、その後 RKOラジオ・ネットワークによるインタビューに応じた[注釈 61]

夕方、レノン夫妻はオノの新曲「ウォーキング・オン・シン・アイス」のミックスダウン作業のため、ニューヨーク市内にあるレコーディング・スタジオに向かうため自宅を出た。車に向かう途中、レノンにサインを求める人が数名近づいてきたが、その中に犯人のマーク・チャップマンがいた[86][注釈 62]。チャップマンはレノンにアルバム『ダブル・ファンタジー』を無言で手渡した。それにサインし終えたレノンは「君がほしいのはこれだけかい?」と尋ねると、チャップマンは笑顔で頷いた[86][注釈 63]

ダコタ・ハウスからすぐのセントラルパークにあるジョンを偲ぶ「イマジンの碑」

ミキシング作業を終え、スタジオを出たレノン夫妻は、2250分ごろ自宅の前に到着した[89]2人が車から降りたとき、暗闇で待ち構えていたチャップマンが「レノンさんですか?(Mr.Lennon? )」と呼びかけると同時に銃撃した[47] [90]。事件後、チャップマンは現場から逃走せず、逮捕時にも抵抗せず、自分の単独犯行であることを警官に伝えた。

レノンは駆け付けた警官によりパトカーでルーズヴェルト病院に搬送された。懸命な救命措置が行われたが、既に全身の8割の血液を失っていたレノンは失血性ショックにより23時過ぎに死亡した[47]。レノンの遺体は死から2日後の1210日、ニューヨーク州ウエストチェスター郡ハーツデールにあるファーンクリフ墓地火葬され、遺灰はオノに渡されたが、葬儀は行われなかった[91]

チャップマンにはニューヨーク州法に基づいて仮釈放があり得る無期刑が下った。服役開始から20年経過した2000年から2024年に至るまで2年ごとに仮釈放審査を受けたが、本人の精神に更生や反省が見られないこと、妻子への再犯の確率が高いこと、レノンの遺族が釈放に強く反対していること、釈放されてもレノンのファンに報復で殺害される危険性があるとして仮釈放申請を却下された。2025年の仮釈放申請も却下され、2025年現在も服役中である[92]

主な使用楽器

アコースティック・ギター

ギブソン・J-200

アルバム『ザ・ビートルズ』のレコーディング・セッションからメインに使われた。ハリスンが所有していたものを借りたという説もあったが、二人がこのギターを同時に持っている写真が確認されている。

フラマス・フーテナニー

映画『ヘルプ!4人はアイドル』の「悲しみはぶっとばせ」演奏シーンにも登場した12弦ギター[注釈 64]

マーティン・D-28

2台の所有が写真で確認され、1台目はマッカートニーと同時期のもので67年製、もう1台は解散後に入手したものであろう1950年代中期から後期のものである。

エレクトリック・ギター

ヘフナー・クラブ40Hofner Club40

レノンが初めて入手したエレキギター。1959年製。ショートスケール。1959年にレノンが伯母のミミと一緒にリバプールのフランク・ヘッシー楽器店に行き、分割払いで購入した。その後リッケンバッカー・325を手に入れると、レノンはクラブ40をしばらくマッカートニーに貸したあとに売却した。

リッケンバッカー・325Rickenbacker 325)(1本目)

レノンが初めて入手したリッケンバッカーのギター。1958年製。シリアルナンバーは「V81」。シリアルナンバーや、外側2つのコントロールノブの並びの間隔がのちの量産品より狭い特徴から、325の本格的な生産開始に先立って試験的に少数制作された初期ロット製品のうちの1本であることが判明している。1958年、アメリカ・シカゴで行われた楽器トレード・ショー「NAMM SHOW」で他のリッケンバッカー製品と共に展示された。この時に撮影されたカラー写真の、主にヘッド先端部の特徴的な木目からものちにレノンが購入した個体である事が判別できる。しかしこの時点での本機のコントロールノブは、1ボリューム1トーンの2つのみが装着されていた。ショー閉幕後、本機を含めた数本にはさらに追加のボリューム/トーンポットが装着され、翌1959年の「NAMM SHOW」へ再出展される。そこでの商談成立に伴って本機は商品として西ドイツのカール・ヘフナー社へ卸されたことがリッケンバッカー社の公式記録に残されており、ヘフナー社からハンブルグの楽器店「スタンウェイ・ミュージック」に納入され店頭に並んだ本機を、1960年にレノンが購入した。当時のレノンはハンブルグで観たギタリストのトゥーツ・シールマンスに心酔しており、シールマンスが「リッケンバッカー・コンボ400」を愛用していたことからレノンもリッケンバッカー社製のギターに憧れを持っていた。

ショートスケールで、ボディーカラーはナチュラル・フィニッシュ(リッケンバッカー社でのコードネームは「メイプル・グロー」)。ピックガードおよびヘッドのトラスロッド・カバーはゴールドのアクリル製。購入当初はコフマン・ヴァイブローラーのトレモロユニットが装着されていたが、直後にビグズビー社の「B5」に交換する。19629月頃には知人に依頼し、指板を除くボディーからヘッドまでの木材全体を黒くスプレー塗装してもらう。自動車用塗料によるDIYで黒く塗り替えられた本機が、デビュー後初期のレノンのトレードマークとして広く認知されるに至った。

19642月ビートルズ初のアメリカ遠征の際に、宿泊先ホテルを訪問したリッケンバッカー社社長のFC・ホールによって2本目のリッケンバッカー325が贈呈されるまで、メインギターとして使用された。214日に公開収録されたマイアミでの『エド・サリバン・ショー』出演時から2本目を使用し、以降、本機の実物はおろか写真や映像に映る姿も含め表舞台に出ることが一度もなかったため、マイアミの現場で盗難に遭ったのではとの臆測が長らく語られてきた。しかし、1972年頃にニューヨークのリペアショップによってブラック塗装が剥がされて当初のナチュラル・フィニッシュに戻され、また現役使用時から損傷していたピックガードが白いアクリル製のものに交換されていた。1990年代になって、オノが保管管理していることが判明し、この状態で、2000109日から2010930日まで、さいたまスーパーアリーナ内に存在したジョン・レノン・ミュージアムにて展示されていた。

2002年にはリッケンバッカー社から本機の仕様を再現した「リッケンバッカー325C58」(Cシリーズ)が発売された。当時の仕様を再現するため、日本でビートルズ使用楽器を主に扱っているギター・ショップ「with」で修復を担当する大金直樹に依頼。大金がジョン・レノン・ミュージアムに何度か通い、その調査のメモを参考に再現された。2011年に生産を終了している。

またオノの楽曲「ウォーキング・オン・シン・アイス」のレコーディングにおいて、同曲のプロデューサーを務めたダグラスは、レノンが本機を用いてギターパートを録音したと証言している[96]

リッケンバッカー・325Rickenbacker 325)(2本目)

2本目のリッケンバッカーのギター。シリアルナンバーは「DB122」。19642月のアメリカ遠征中、リッケンバッカー社社長のFC・ホールにより贈呈された。当初はハリスンの360/12と同様、赤色系のぼかし(リッケンバッカー社でのカラー・ネームは「ファイア・グロー」)だったが、レノンが黒色(ジェット・グロー)を希望したため、急いでリフィニッシュされた後、マイアミでの『エド・サリヴァン・ショー』出演時より使用した。1本目の325よりもボディは薄くなっており、台形のブリッジにビブラートアームがついているなど、細かい点で仕様が異なる。ネックは、3ピース・メープル・ネック。1964年にリッケンバッカー社は全機種のマイナーチェンジを行っているが、その最中に制作されたため、ピックアップやペグなど、1964年以前のパーツが混在している。特にヘッドは64年以降のモデル同様に幅がスリム化されているが、ボリュートが設けられておらず、ネックとボディの接合部分のヒールが角型である点は1964年以前のモデルと同様であり、珍しい仕様になっている。ビブラートアームがピッキングの邪魔になると感じたのか、64年夏ごろには力任せに折り曲げてしまった。

19641221日~1965116日にかけてロンドン・ハマースミスオデオンで開催されたクリスマス・ショウのステージ上でストラップが切れて落下し、ヘッド部分を損傷する。修理後は再びメインギターとして使用したが、196512月のイギリスツアーの最中に再度本機を落下させ今度はネック部分を折損した。65年いっぱいでリッケンバッカー社とのエンドースメント契約が終了する事もあり、そのままの状態でツアー終了まで使用し、1966年からはエピフォン・カジノをメインギターとする。

本機はその後レノンの元で大切に保管された。1971年、レノン夫妻のニューヨーク移住の準備を手伝うためにイギリスを訪れていたパンに、本機をニューヨークまで運んでいくよう託したエピソードが近年、パン自身のYouTubeチャンネルにて紹介された[97]

1本目のリッケンバッカー・325とともに、ジョン・レノン・ミュージアムに展示されていた。裏から見ると、ネックの折損部分が修理されずそのままの状態である事がはっきり見て取れる。また、本機最後の使用となったビートルズの196512月のイギリスツアーのセットリストが書かれた小さな紙が、向かって左のカッタウェイ側面にセロファンテープで貼られたままになっている。同ツアーは公演数が少ないうえ、画像や音源も含め残されている資料が非常に少ない事で知られており、そのセットリストを知る貴重な資料ともなった。

リッケンバッカー・325Rickenbacker 325)(3本目)

196412月、リッケンバッカー社の英国代理店であるローズ・モーリス社より提供されたもの。当時のヨーロッパ市場での市販品で、欧州でのモデル名は1996となっている。仕様は基本的に2本目に準じるが、カラーがマッカートニーの4001ベースやハリスンの360/12と同じファイア・グロー(チェリー・サンバースト)で、ボディの左側にfホールが開けられている。196412月~19651月のクリスマス・ショウでメインギターの2本目を落下させヘッドを損傷した際に、ローズ・モーリス社より修理中の代用品として提供された。リッケンバッカー社とのエンドースメント契約を結んでいたため、2本目の修理後もそのまま本機はレノンに贈呈された。その後ステージで使用される事は無かったがレノンのコレクションとなり、1967年の自宅スタジオでの写真でレノンの足元に置かれているのが映り込んでいるものが存在する[98]。その後、リンゴ・スターに譲渡された。スターは2015年に自身のラディック・ドラムセットと共に本機を「ジュリアンズ・オークション」に出品し、91万ドルで落札された。

リッケンバッカー・325/12Rickenbacker 325/12

19642月、リッケンバッカー社社長のFC・ホールにより2本目が贈呈された際、同時にハリスンに贈呈された360/12を見たレノンから「325のボディーで12弦ギターが作れないか」とのリクエストを受け、制作された。FC・ホールはすぐに開発に着手し、360/12の仕様を参考に1ヶ月で本機を完成させ、19643月には、ジェリー&ザ・ペースメイカーズのジェリー・マースデンへ贈られる360/12と一緒にエプスタインの元へ届けられた。カラーは2本目と同じジェット・グロー。19646月からのワールドツアーにスペアとして帯同され、65日収録のオランダ・VARA-TVでのTV出演で本機を演奏している(ただし音源はアテレコ)。また19649月に行われた「エヴリー・リトル・シング(アルバム『ビートルズ・フォー・セール』収録)のレコーディングで、セッションに遅刻してきたハリスンの代わりにレノンが本機を用いてイントロと間奏を演奏したとのマッカートニーの証言がある。

本来、325など末尾に5がつくモデルはトレモロ・アームつきだが、このギターが製作された時期はまだそれが徹底されておらず、当初はレノンの特注品として制作されたこのギターはアームがついていないにもかかわらず325/12に分類されている。その後、末尾に5がつくモデルはアームつきであることが徹底され、量産されることになった本機種は320/12と改番された。

現在もオノの元で保管管理されている。

ギブソン・J-160E1本目)

19629月にジョージ・ハリスンと一緒に購入したエレクトリック・ギター。ボディ・カラーはサンバースト。ボディ・シェイプはJ-45と同じだが、ネックのジョイント位置が異なり、ボディ内部の構造も異なる。J-45Xブレイシングに対してJ-160Eがラダーブレイシングとなる。ヘッドシェイブは大型でインレイも入りJ-45とはまったく違う、糸巻きもJ-45が三連に対し独立型になる、糸巻のツマミ部分もコブが2つあるタイプ。

ボディ・トップはハウリング防止のため、合板を使用している。そのため生音で鳴らした場合、通常のアコースティック・ギターより鳴りが抑えられ音量も小さいが、J-160Eでしか出せない独特の生音であり、ビートルズ・サウンドの大きな構成要素となっている。

カヴァーのないP-90ピックアップがフィンガーボードの付け根の所に付けられており、そこから音を拾ってアンプなどへ出力する。この音もまた初期ビートルズ・サウンドを生み出している要素である。P-90はエレキギター用のピックアップであるため、通常アコースティックギターに使用するブロンズ弦を張ると音をうまく拾えなくなってしまう。しかしブリッジサドルは通常のアコースティックギターと同様であるため、3弦が巻き弦でないとオクターブチューニングに支障が生じるという問題が有り、エレキ/アコースティック両方の用途で使用したい場合はギブソン社の「SEG-900ML(通称:L-5)という専用弦セットを張る必要があった[99]

1963年末に紛失。当時は盗難説と破損説があり、レノンはこれが盗まれたと発言していたが、ハリスンは「運搬中のトラックの荷台からケースごと落下しバラバラになった」と発言していた。実際には盗難されており、アメリカ合衆国カリフォルニア州在住の男性が中古店に転売されていたこのギターを購入していた。2015年にこのギターは発見され、ビートルズ専門家の鑑定の結果、レノンが使用していた現物であると正式に認定された。その後オークションにかけられ、約3億円で落札された。最近の調査で、現在ハリスンの遺族が保管するハリスンのJ-160Eは、元々購入時にはレノンのものであったことがシリアル・ナンバーから判明した。この2本はまったく同じ仕様であったため、いつの間にか互いのギターを取り違えて使っていたようである。

ギブソン・J-160E2本目)

2本目のJ-160E1本目とは若干仕様が異なる。大きな違いはサウンドホール周りのリング、1台目がワンリングに対して2台目はツーリング、ブリッジも1台目が木製に対して2台目が黒いプラスチック製になる。

レノンが生涯愛したギターである。1966年にはピック・アップがサウンド・ホール後方に移設される。1967年には波形のサイケデリック・ペイントが施されるが、1968年にはエピフォン・カジノらとともに塗装を剥がされ、ピック・アップの位置も復元される。ピック・ガードも形状の異なる新たなものが取りつけられた。1969年のベッド・インのときには、ボディにレノンとオノの似顔絵イラストが描かれていた。「ジョン・レノン・ミュージアム」にそのときの状態のレプリカが展示されていた。実物はアメリカ合衆国オハイオ州クリーヴランドにあるロックの殿堂に展示されている。

フェンダー・ストラトキャスター

ボディ・カラーは、ソニック・ブルー。アルバム『ラバー・ソウル』のレコーディング中、ロードマネージャーを勤めていたマル・エヴァンスにレノンがハリスンの分も併せて2本のストラトキャスターを購入してくるように依頼し、エヴァンスは同色のものを2本購入してきた。同アルバム収録曲『ひとりぼっちのあいつ』などで本機を演奏。ハリスンのものは1967年にサイケデリックなペイントが施され、『Rocky』と名付けられた。レノンは購入時の状態のままコレクションしており、1971年のアルバム『イマジン』制作時に収録曲『オー・マイ・ラヴ』のリードギターをハリスンが本機を用いて演奏。制作風景を納めたフィルムにもそのシーンが収められている。

また、1980年のフォト・セッションで、当時の新品であった赤いフェンダー・ストラトキャスターを弾いているものがある。

エピフォン・カジノ

以前から同機を使用していたマッカートニーに勧められ、ハリスンと共に1965年に購入。ハリスンのものとは同じ1965年モデルだが、色合いや仕様(トレモロアームの有無など)で若干の違いがある。同年の『ラバー・ソウル』録音作業において使用し始め、196651日の「NME POLL WINNERS CONCERT」で初めてステージで使用。以降ハリスンと共に公演でのメインギターとなり、同年6/307/2に行われた日本武道館公演でも本機が使用された。

元々のボディ・カラーは黄色味がかったサンバーストであったが、1967年の「サージェント・ペパーズ〜」の録音中に、ボディ裏面を白く塗装している。同年の「愛こそはすべて」を披露した衛星中継リハーサルにて、ハリスンがこのギターを使用している(本番では自身のストラトキャスターを使用)。翌1968年にフロントピックアップのヴォリューム・ノブを、標準のゴールドからブラックに差し替えた。その後、「ヘイ・ブルドッグ」録音直後にボディのサンバースト塗装を剥離して木の地肌を露出させたナチュラル仕上げを施すリペアに出される。この頃のレノンやハリスンは「ギターの塗装を剥がせば木材が呼吸できるようになり音質向上につながるかもしれない」という思惑を共有しており、2本目のギブソン・J-160Eや、ハリスンのカジノと共に塗装剥離を施された。

「ゲット・バック・セッション」および「ルーフトップ・コンサート」、ビートルズ解散後1971年の『イマジン』セッションまでメインギターとして使用された。その後、レノンはギブソン・レスポール・ジュニアを使用し始め、本機はコレクションとして大切に保管された。「ワン・トウ・ワン・コンサート」でもステージ上にサブギターとしてスタンバイされていたが、使用はされなかった。

ブリッジ・サドルは現行の仕様とは異なり、プラスティック樹脂を使用している。そのため、音が若干柔らかめになっている。

ジョン・レノン・ミュージアムに、ブラックノブとともに展示されていた。

ギブソン・レスポール・ジュニア

1971年、ニューヨークに移住してから入手。当時レノンは、ボブ・マーリーをはじめとしたレゲエに心酔しており、同じモデルを使用していたマーリーにならって本器を入手した。ギブソンJ-160Eやエピフォン・カジノと同じくP-90ピック・アップを搭載しており、レノンのギター・サウンドにおける指向が窺える。フロントに、ギブソンES-150用のオールドタイプのピック・アップ(通称チャーリー・クリスチャンPU)を追加、PUセレクターの増設、ブリッジとテイルピースの交換を施し、より実用性を高めている。カラーは、当初サンバーストだったが、チェリー・レッドにリフィニッシュされた。アルバム『サムタイム・イン・ニューヨーク・シティ』録音や、1972年のTV番組『マイク・ダグラス・ショー』出演時に使用されたが、「ワン・トゥ・ワン・コンサート」での使用が最も有名である。

ジョン・レノン・ミュージアムに展示されていた[注釈 65]

アンプ

ヴォックスAC30VOX AC30

ビートルズ・デビュー前から初期まで(中期ではフェンダーなどのアンプと併用)の録音においてもっともよく使用されたアンプ。真空管を使用しているため独特な粘りのある音で、個々のギターの特徴と混じり合って音を出す。公演でも使用されることはあったが出力が低いため、当時のSRPA)システムでは巨大な会場での演奏には向かなかった。

ヴォックス・AC50VOX AC50

ヴォックス・スーパー・ビートル(VOX SUPER BEATLEVOX AC100VOX AC200

公演においてほとんど演奏が聞こえないという問題に対処するため、出力の低いAC30などのアンプに代わって、ビートルズの公演のためにヴォックスが開発した大型で高出力のスタックアンプ。100Wのものと200Wのものがあり真空管を使用し粘りのある音が特徴である。ヴォリュームを最高にして使用しているようで、その分、アンプの持つ音より箱鳴りの音の方が大きく聞こえる。1966年の日本公演の1日目と2回目公演でAC100を使用。現在は生産停止。

フェンダー・ツインリヴァーブ

おもにビートルズ中期以降に使用。中期ではヴォックス社との契約上の理由から、公演や映像では登場しないが、録音ではフェンダー社製アンプも使用されていた。ビートルズ活動末期に撮影された映画『レット・イット・ビー』にて使用されている様子を確認できる。レノンは、フェンダー・ベースVIを接続して演奏していた。

その他

ホーナー・ブルース・ハープ(M.HOHNER BLUES HARP

いくつかの書籍などにホーナー・マリンバンドと書かれていることがあるが、レノンが所有していたのはブルース・ハープ。「ブルース・ハープ」は10穴ハーモニカの総称ではなく、ホーナー社の10穴ハーモニカの機種名のひとつ。

レノン50回目の誕生記念に愛用品の展示会が行われたとき、なぜかマリンバンドと紹介されていたが、そこにあったのは3本の「M.HOHNER BLUES HARP」と刻印されたハープで「MARINE BAND」と刻印されたハープではなかった。同カタログ本にもブルース・ハープの写真にマリンバンドと間違いで紹介されている。初期によく使っていたCのブルースハープは、ハンブルクの楽器店で万引きしたもの。

ホーナー・クロモニカ(M.HOHNER Chromonica 具体的なモデル名は不詳)

「ラヴ・ミードゥ」や「プリーズ・プリーズ・ミー」においてはブルース・ハープではなくホーナー社製のクロマチック・ハーモニカを使用している。これは、ブルース・ハープなどの10穴ハーモニカでは、出すのに高度な技術を必要とする音がフレーズ中に含まれるため、すべての音階を一本でカヴァーできるクロマチック・ハーモニカを曲によって使用していたものと思われる。レノン自身もBBC出演時。司会者とのやり取りのなかで、10穴ハーモニカを「ハープ」、クロマチック・ハーモニカを「ハーモニカ」と呼んで区別している。

  • ジョン・レノン使用ギター(本人モデルと仕様が似たもの)

ギャロトーン・チャンピオン
レノンが最初に入手したギター(叔母のミミに買ってもらった)で、マッカートニーと出会った日に使用されたギターである。写真はレノンのものとほぼ同一の仕様だがテールピースの形状が異なる。現物はジョン・レノン・ミュージアムにて展示

 

リッケンバッカー・325(58年製改造)ギブソン・J-160Eヴォックス・アンプ
購入時の325はメイプル・グローだが、後に黒く塗った。

 

リッケンバッカー・325C64
64
年製(ジョン使用の2台目)の復刻。

 

ギブソン・J-160E
1964
年製

 

ギブソン・J-200

 

エピフォン・カジノ(サンバースト)
塗装を剥がす前の仕様に近く、ピックガードのEマークも現行のものと異なり、レノンのものと同様にフラットなタイプ。

 

エピフォン・カジノ
レヴォリューションモデル。塗装を剥がした状態のレプリカモデル。

 

ギブソン・レスポール・ジュニア
写真のはその仕様を復刻したモデル。

 

ヤマハ・ドラゴンギター
オノ・ヨーコが、ヤマハに特注したフォークギター。写真は、ゆず北川悠仁が、レノンと同じ仕様のものをヤマハにつくらせたもの。

脚注

[脚注の使い方]

注釈

    1. ^ 1974年リリースのアルバム『心の壁、愛の橋』においては、収録曲の自身の演奏者クレジットを全て変名で行っている。
    2. ^ 出生名はジョン・ウィンストン・レノンであるが、ヨーコとの結婚に際し改名した。
    3. ^ ギネス・ワールド・レコーズ』では、もっとも成功したソングライティングチームの一人として、「チャート1位の曲が米国で盟友のポール・マッカートニーが32曲、レノンが26 (共作は23曲)、英国チャートでレノンが29曲、マッカートニーが28 (共作が25曲)」と紹介されている。
    4. ^ のちに英国のベトナム戦争支持への反対を理由に返上した。
    5. ^ この曲は、1962年にデッカのオーディションの際に歌われ、『ザ・ビートルズ・アンソロジー1』で公式に発表された。
    6. ^ 2人は近所で生まれ育っていたが、この日まで一度も会ったことはなかったという。
    7. ^ 最初の妻シンシアの回顧本「ジョン・レノンに恋して」(2007年) によると、ジュリアに気づいた警官が、慌ててブレーキとアクセルを踏み違えたことで起こった事故とされている。警官に下った判決は「無罪」。
    8. ^ サトクリフと並んでベースを演奏している写真がある。
    9. ^ この時制作された作品は『「未完成」作品第1 トゥー・ヴァージンズ』として発表された。
    10. ^ また、レノンのソロ時代発表されたアルバムと対をなすようにオノのソロ作品『ヨーコの芸術(1970)フライ(1971)無限の大宇宙(1972)空間の感触(1973)が発表された。なお、2人の共同名義の音楽作品として、ほかに『サムタイム・イン・ニューヨーク・シティ(1972)ダブル・ファンタジー(1980)がある。
    11. ^ この模様の一部は『ウェディング・アルバム』のB面に収録されている
    12. ^ この一連の行動は「ジョンとヨーコのバラード」の題材となっている[25]
    13. ^ この名称は正式なものではなく、このセッションで作られた曲「ゲット・バック」、未発売に終わったアルバム『ゲット・バック』、さらにマッカートニーの「原点回帰」的なコンセプトの一連のプロジェクトを結び付けて後から言われるようになったものであって、最初から「原点に返ろうGet Back」という言葉を明確かつ具体的に掲げてセッションが行われた訳ではない。
    14. ^ クラウス・フォアマンエリック・クラプトンアラン・ホワイトが参加した同公演の模様はライヴ・アルバム『平和の祈りをこめて〜ライヴ・ピース・イン・トロント1969』とDVDスウィート・トロント』に収録されている。
    15. ^ ハリスンは母親の病気見舞で不在だった。
    16. ^ 99日、アルバム『アビイ・ロード』の発売が間近に迫る中、検査入院で不在だったスターを除く3人スターは次のアルバムについて話し合ったが、この時レノンはメンバーそれぞれがシングル候補曲を持ち寄ってシングルとアルバムを制作しようと、グループの存続について前向きな発言をしていた[30]
    17. ^ レノンはこの曲の仕上がりと好調な売上に満足し、彼なら『レット・イット・ビー』を良いアルバムに仕上げるだろうと考えた。323日にマッカートニーには無断で、ハリスンとともに棚上げされていた「ゲット・バック・セッション」の音源を委託した。スペクターはオーバー・ダビングするなどして音源を編集し、42日に完成させた。
    18. ^ この最中の410日、マッカートニーがグループを脱退する意向であることがイギリスの大衆紙『デイリー・ミラー』で報じられた。これは『マッカートニー』の発売前にプレス向けに配付された、マッカートニー自身が用意した資料に基づいた記事であった。一問一答形式の資料の中には「今後ビートルズのメンバーと創作活動をすることはない」とあり、マスコミから「脱退宣言」だと受け取られた。こうしてビートルズは事実上解散した[31][32]
    19. ^ レノンは再入国禁止処分に対する抗告と裁判を197510月まで行い、最終的に勝訴した。
    20. ^ 同公演の模様は「ライヴ・イン・ニューヨーク・シティ」として1986年に発売された。
    21. ^ 10テイク、約18分に及ぶ[35]このセッションではクラウス・フォアマンがベースを担当しており、「ビートルズがマッカートニーの代わりにフォアマンを迎えて再結成した」とイギリスの音楽雑誌『メロディ・メイカー』が報じ、世界的なニュースとなった。
    22. ^ 19743月、毎晩のように飲み歩いていたレノンはハリウッドのナイトクラブ、トルバドール2度にわたってトラブルを引き起こした。1度目は当時お気に入りのレコードの1つであった「アイ・キャント・スタンド・ザ・レイン」をリリースしたアン・ピーブルスのコンサートで、額に生理ナプキンを付けて歩き回り、ウェイトレスに詰られた。2度目はその2週間後、レノンとニルソンがスマザーズ・ブラザーズを野次った後、前回とは違うウェイトレスと乱闘し、クラブから叩き出された[37]
    23. ^ ジャガーがマスターテープを火事で焼失したため長い間未発表だったが、2007年にレノンが所持していたもう一つのマスターテープをパンから提供され『ヴェリー・ベスト・オブ・ミック・ジャガー』に収録された。
    24. ^ スペクターは331日に交通事故で瀕死の重傷を負って入院、セッション・テープの所在は分からなかった。
    25. ^ 「ルーシー・イン・ザ・スカイ・ウィズ・ダイアモンズ」「アイ・ソー・ハー・スタンディング・ゼア」「真夜中を突っ走れ」の3曲。
    26. ^ また全米第6位のヒットとなった「オンリー・ユー」をカバーするように提案したのはレノンだった。
    27. ^ この作品でボウイは初の全米1位を獲得した。ボウイは、スタジオでレノンが発した「フェイム!」というかけ声に着想を得たという。ボウイは「あれほどオリジナリティのある人は将来現れないであろう」と述べている。
    28. ^ 番組では「スタンド・バイ・ミー」と「スリッピン・アンド・スライディン」をカラオケに合わせて歌った[38]
    29. ^ 418日にニューヨークの高級ホテル、ウォルドルフ=アストリアで収録されたこのライヴ・パフォーマンスは生前最後のものとなった。「スタンド・バイ・ミー」「スリッピン・アンド・スライディン」「イマジン」を歌った[38]
    30. ^ アーヴィング・コーフマン裁判官は「裁判所は政治的秘密に基づいた特定の強制退去を容認しない」と裁定し。「我が国に残ろうとするレノン氏の4年間の戦いは、アメリカン・ドリームに対する志の証拠である」と付け加えた[39]
    31. ^ オノが42歳だったため、母子の安全を図るため帝王切開での出産を決めていたが、予定日が近かったためにレノンの誕生日に合わせて手術が行われた。
    32. ^ レノンはレコーディング契約が満了する前に新曲のアルバム制作を計画していた。このアルバムは『ビトウィーン・ザ・ラインズ』(Between the Lines)というタイトルで、1975年後半にリリースする計画だった。レノン本人も『オールド・グレイ・ホイッスル・テスト』出演時にニューアルバムとテレビスペシャルを計画していることを語っていた[40]。しかしオノが妊娠したため、過去の作品を集めたコンピレーション・アルバムを制作することに変更した。
    33. ^ この時期に作られた楽曲のデモ・テープの一部は1998年に『ジョン・レノン・アンソロジー』で公開された。また1994年から1995年にかけて行われた「アンソロジー・プロジェクト」では、オノから提供されたデモ・テープを基にして、「フリー・アズ・ア・バード」「リアル・ラヴ」の2曲を制作、さらに2023年には「ナウ・アンド・ゼン」が制作され、ビートルズの新曲として発表された。
    34. ^ ハリスンとスターは出演を許諾していたが、事前に「ビートルズ再結成」と報道されたことで取りやめてしまったため、マッカートニーのみがウイングスを引き連れて出演した。
    35. ^ この時期レノンはB-52'sリーナ・ラヴィッチ、現代音楽のメレディス・モンクらに興味を持っており、B-52sの「ロック・ロブスター」を気に入っていたという。
    36. ^ ショーンが、偶然友達の家で観た映画『イエローサブマリン』の中でレノンを見つけ、「パパは本当にビートルズだったの?」と発した一言に触発されたとする説があるが、レノンは否定している。
    37. ^ ダグラスはレノンの『イマジン』やオノの『フライ』などでエンジニアとして参加していた。その後プロデューサーとしてエアロスミスチープトリックを人気バンドに押し上げており、当時の音楽シーンの流行をよく知っている人物と期待しての起用だった。
    38. ^ 授賞式にはオノが出席、謝辞を述べた。
    39. ^ レノンの実子であるジュリアン・レノンも、5人目のビートルズとしてマーティンの名前を挙げている[53]
    40. ^ マーティンが用意していたミッチ・マレー作の「ハウ・ドゥ・ユー・ドゥ・イット」は後にジェリー&ザ・ペースメイカーズのデビューシングルとなり、全英1位の大ヒットとなった。
    41. ^ 管弦楽奏者以外で唯一の例外は「ラヴ・ミー・ドゥ」録音の際にスターの演奏に満足できず、録り直しをするために起用したアンディ・ホワイト。但し、シングルにはメンバー4人だけのバージョンを使った。
    42. ^ この姿勢はレノンにも受け継がれていて、共演者に対して敬意を払いながらセッションの中でアレンジを組み立てており[54]デヴィッド・スピノザトニー・レヴィンなど、共演者の敬意を得ていたという多くの証言がある[55]
    43. ^ 1970127日、リハーサルが終わった後、ハリスンがたまたまクラインに呼ばれてアップル本社を訪れていたスペクターをスタジオに連れてきて、プロデュースをしてもらったらとレノンに薦めた。
    44. ^ スペクターを高く評価したレノンとハリスンは、マッカートニーには無断で『レット・イット・ビー』のリプロデュースも任せた。
    45. ^ 『マインド・ゲームス』に参加したデヴィッド・スピノザは、レノンはスタジオミュージシャンを使って基本ラインを録音したあと、レノン自身のギター、スライドギターなどによる音を緻密に重ねてオーケストレーションを造り出し[59]、大人向けのロックを創造したと語った[60]。またレノン自身が中音域における豊かな声質の再現、倍音の効果を意識していたこともうかがえる[61]
    46. ^ ギャラリーの設立者の一人がジェーンの兄ピーター・アッシャーだった。
    47. ^ 後にアップル・レコードの子会社ザップル・レコードを任せられた。
    48. ^ 同時期、オノはジョン・ケージが編纂中の楽譜集『Notations』に収録するために、レノン=マッカートニーの楽譜を入手しようとして、マッカートニーの自宅を訪ねた[65]。マッカートニーには断られたが、レノンなら引き受けるかもしれないと伝えられたオノはレノンの自宅を訪ねた。直接レノンに会うことはできなかったが、「愛のことば」のオリジナルの手書き歌詞を渡された[66]。レノンは後年「出会った際のオノがビートルズのメンバーを日本語で『Apple』の意味を持つリンゴしか知らなかった」と語っていたが、実際は違っていた。
    49. ^ マッカートニーはラッセルとの面会を振り返り「ベトナム戦争は非常に良くないことで、アメリカが自国の既得権のためだけに戦っている帝国主義的な戦争だということを教えてもらった。この戦争には反対すべきだと。それだけ聞けば十分だった。」と回想している。
    50. ^ 007 死ぬのは奴らだ」が歌曲賞にノミネートされていた。
    51. ^ それまでマッカートニーは19726月、ツアー先のスウェーデンに於いて大麻不法所持で逮捕されことで、アメリカへの入国ビザが取得できなかった[67]。レノンはオノと別れ、ロサンゼルスに滞在していた。
    52. ^ 当時レノンはハリー・ニルソン新しいアルバムのプロデュース行っていた。マッカートニーはレコーディングが終わって帰宅してしまっていたスターのドラムセットを演奏した。ビートルズ解散後、レノンがマッカートニーと演奏したのはこれが初めてだった。レノンの死によって結果的に最後となってしまったこのセッションの音源は、1992年に『ア・トゥート・アンド・ア・スノア・イン・'74』というブートレグ・アルバムで日の目を見た[68]
    53. ^ オノによると、マッカートニーはレノンを訪問する直前に彼女に連絡をしてきたという。オノはこれがその後のレノンとの復縁に関わっていたことを示唆したが、詳細は語っていない[69]
    54. ^ マッカートニーは5月から始まる「ウイングス・オーヴァー・アメリカ」ツアーの下準備の一環で単身ニューヨークを訪れていた。424日、レノンの自宅を訪ねると、ちょうどオノが所用で不在でショーンも乳母の元に預けられており、久しぶりに二人だけの時間を過ごした。
    55. ^ このインタビューは、2001年にリリースされたアルバム『ミルク・アンド・ハニー』のリマスター盤に一部収録されている。
    56. ^ このインタビュー記事は「ミュージック・ライフ19713月号(シンコー・ミュージック)に掲載された。また音声が入った非売品EP19712月に日本で発売された『ジョンの魂』と『ヨーコの芸術』購入者1000名に抽選でプレゼントされた。なお、このEPにはインタビューの日付がなぜか125日と記載されているがこれは誤りである。21日午後に羽田からロンドンへの帰途に就いたレノン夫妻は、時差の関係で現地時間の21日の夜には自宅に戻り、その後マルクス主義新聞『レッド・モール』によるイギリスの労働運動家 タリク・アリ と歴史学者 ロビン・ブラックバーンとの対談に応じた[75]。さらに翌22日には「パワー・トゥ・ザ・ピープル」の録音を行った[76]
    57. ^ ニューヨーク日本語を学んでいた際に、ジョンが使用していたノートは、Ai ジョン・レノンが見た日本(ちくま文庫・2001年)として出版された。
    58. ^ その後、東京のホテルオークラで記者会見を開き、プレスリーの死について言及している。
    59. ^ レノンが初対面でいきなり加山の後ろから目隠しをして驚かせたとか、メンバー全員とすき焼きを食べたエピソードで知られている。また、オノと遠戚であることが後に判明している。
    60. ^ 1981年第1号の表紙はレノンに決定しており、3日前に行われたインタビューもカバーストーリーとして掲載される予定だった[84]
    61. ^ 結果的に最後となったこのインタビューでレノンは、新作アルバムや近況、クオリーメン、マッカートニーやハリスンとの出会いについて語っていた。そして、「死ぬならヨーコより先に死にたい」「死ぬまではこの仕事を続けたい」などと発言をしていた[85]
    62. ^ このころ、ダコタ・ハウスの外でファンがレノンを待ち構え、サインをねだるという光景はよくあることだった[87]
    63. ^ 写真家でレノンのファンでもあるポール・ゴレシュ( Paul Goresh )は、この瞬間を写真に収めていた[88]
    64. ^ その後オークションにかけられ、45000万円で落札された[95]
    65. ^ 実物を再現したシグネイチャー・モデルが発売されており、福山雅治ASIAN KUNG-FU GENERATIONの後藤正文らが愛用している。

 

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