雪夢往来  木内昇  2026.1.19.

 2026.1.19. 雪夢往来(せつむおうらい)

 

著者 木内昇(キウチノボリ) 1967年生まれ。出版社勤務を経て独立し、インタビュー誌「Spotting」を創刊。編集者・ライターとして活躍する一方、2004年『新選組 幕末の青嵐』で小説家デビュー。2008年に刊行した『茗荷谷の猫』が話題となり、早稲田大学坪内逍遙大賞奨励賞を受賞。2011年に『漂砂のうたう』で直木賞を受賞。2013年に刊行した『櫛挽道守』は中央公論文芸賞、柴田錬三郎賞、親鸞賞を受賞した。他の作品に『よこまち余話』『光炎の人』『球道恋々』『火影に咲く』『化物蝋燭』『万波を翔る』『占』『剛心』『かたばみ』『惣十郎浮世始末』など多数。

 

発行日           2024.12.15. 発行

発行所           新潮社

 

初出 『小説新潮』202010月号~202110月号、同12月号から20221月号

 

 

第1章         

越後国頸城郡(くびきごおり)の松之山にある菱山は、決まって毎年如月に雪崩を起す。近隣の村にも地鳴りとなって響き渡るほどの大きさ。儀三治(ぎそうじ)は幼い頃、白衣を着た白髪の老人が供物を手に雪崩に乗って山を滑り降りるという奇談を聞かされていた

越後国は7つの郡からなり、頚城は最西端、内陸には古志(こし)郡その南が魚沼郡

儀三治の生まれ育ったのは塩沢組塩沢村は魚沼郡の南端にある上州境にあり、家の前には中山道の高崎宿へと繋がる三国街道が通る。儀三治は生まれつき耳の塩梅がよくない

「斑猫(ハンミョウ)」とは、鮮やかな色彩を持つ肉食性の甲虫で、人や獲物に気づくと数メートル先へ飛んで逃げる習性から「道教え」「道しるべ」とも呼ばれ、美しい姿と俊敏な動きが特徴の昆虫

耳の穴に斑猫を詰めると芋虫のような形の石が耳から転げ出て難聴が治ったという噂を聞いて、家の者には内密に隣村の薬師に赴くと、代わりに砒霜石を勧められ、試しに右耳に入れると右半身が燃える鉄瓶のように熱を持ち始め脂汗が出て目がかすんで朦朧とする

2カ月余り七転八倒して漸く癒えたが、右耳の聞こえは前にも増して悪化、左だけが頼り塩沢は、高崎から下ること22番目の宿場町。村の女たちは冬の間縮(ちぢみ)を織り、男らはそれを商う。多くは米をはじめとする農作でも生計(たつき)を立てていたが、硬くて痩せた土壌では農作の苦労が多い。鈴木家では父の代から畑作には手間を割かず、縮やその原料となる最上苧(もがみお)、米や大豆の仲買を主にして家業を大きくしてきた。後には質業にも手を広げ、今ではそちらが主となっている。次男だった父親が5両の支度金を元手に鬼気迫る勢いで財産を築き上げる。儀三治も16で縮問屋に奉公に出される

村人の間に俳諧が流行っており、雪に封じ込められた間のささやかな楽しみで、儀三治も父の号・牧水の1字を取って牧之(ぼくし)の号をもらう

住吉神社に献納する句寄せを鈴木家で開催する時は、六日町にいる義兄の無事庵慮呂や江戸の宗匠、尾張の円珠庵羅城などを選者に頼む

このところ毎夜欠かさずしたためているのは、年初より3月ほどお伊勢参りから京を始めとする西国へと巡った旅の記。道々帳面に書き留めた覚書や絵を整理し、一片の道中記に仕上げる積り。絵は14歳のころ狩野梅笑から手ほどきを受けて以来殊の外のめり込む

行商で江戸を訪れた折、人々が越後国についてあまりに無知であったことに落胆してからというもの、己の故郷をあまねく知らしめられぬかと考えていた。江戸の人から軽んじられるのが癪だった。江戸に行ったのは19の時の1度きり。同じ縮の仲買商の倅幸吉と同道。行商というより見聞を広めるのが目的で、商売はそっちのけで沢田東江なる儒学者の書塾に通う。塾生には武家が多く田舎者とからかわれ、越後では雪が1丈も積り半年間は農作が出来ないと言ったら法螺吹き扱いされたのに落胆。何とかして越後国が正しく伝わればいいと思ったが、国に戻って翌年には父から店を引き継ぐことになり、その思いを行いに移す余裕すらなくなった

寛政9年の句寄せには、江戸の雪中庵大島完来が羅城と共に選者を引き受けてくれた矢先、1年前に小千谷から嫁いできた2度目の嫁が姑との折り合いの悪さから生まれたばかりの子を連れて出奔。子どもだけを引き取って嫁は離縁

選者の名前のお陰で3000句ほどが集まり、うち100句ほどを選んで額にしたため住吉神社に納める

奉納句の成功により、儀三治の心中にはまたぞろ越後の話を書いて江戸の者に見せたら面白がってもらえる、越後に一目置かせることが出来るのではとの思いがよぎり、幼いころから聞かされてきた越後国の奇談をしたためる日が続く

沢田東江に越後の奇談を書いた書本を江戸で売るための書肆の紹介を頼む

山東京伝が廓で寛いでいるところへ、沢田の息子東里が儀三治の草稿を持って来訪

沢田は去年亡くなり、今年蔦重が脚気で亡くなって、いずれも2代目が引き継いでいる

京伝は、草稿の表紙の奇妙な生き物の絵の巧みさに圧倒され引き込まれるように原稿に目を通し、板元への口利きを約束して草稿を預かる

京伝は、戯作者など浮き草稼業でそれに身を捧げるのは博打ゆえ、地に着いた生業として銀座1丁目に煙管(きせる)と煙草入れを扱う店を開き、父に任せる。4年前遊女だった女房が逝って、母からは後添えを催促される

京伝は、北尾政演(まさのぶ)を名乗る浮世絵師でもあり、己の偽作本の挿絵を手掛けることも珍しくなく、口絵には「京屋伝二郎」として獅子鼻の自画像を描いてきた。それもあって牧之の絵心に惹かれた

京伝は、戯作20年にして漸く新たに読本の執筆にかかる。風刺を交えた物語を画と組み合わせて読ませるのが薄利多売の黄表紙、遊郭を舞台にして男女のやりとりを描いたのが値付けが高い割にはけるから実入りの良い洒落本に対し、読本は伝記的思想的で和漢混淆の物語、半紙本で高価なため売れてもたかが知れているが、書く側には挑み甲斐があった

蔦重の耕書堂を引き継いだのは番頭だった勇助

京伝は、6年前松平定信の倹約令・好色本出板禁止令で手鎖50日に処せられた古傷もち

新たな洒落本の寄稿を持ち出した耕書堂に対し、京伝は儀三治の草稿を見せるが、耕書堂はなかを見もせずに無名の戯作者ではと断る

京伝は、牧之の話が空想だけでなく現(うつつ)に存在するらしいと聞かされ、引き込まれていく。耕書堂と競合する仙鶴堂にも、自分の校合(きょうごう、摺り本と稿の一致を確認すること)でもと持ち掛けるが、売れ行きに自信の持てない本の出板には尻込み

寛政10年、山東京伝と銘の入った文を見て儀三治は震える。興味深いので次を送るようにとの内容で、思いもかけぬ讃辞に儀三治は総身が昂揚。自身は江戸の書肆に読んでもらい、数冊書本を作って貸本屋においてもらう程度の事を考えていただけに、京伝から「いずれ板本したく候」と言って来た時には、さすがに今のうちに遠慮した方がと及び腰になる

 

第2章         

京伝の初の読本は、蔦重に「水滸伝に忠臣蔵を結び付けてみたら」と唆されて始めたもの

8つ下の弟相四郎に店を任せたいが、養子に行って仕官したのでそういう訳にもいかない

儀三治は3番目の妻を娶り、今度は嫁姑の仲もうまくいく

相四郎が父の死を機に仕官先を退身し、養子先からも暇乞いをして銀座に戻って来て店を守りながら、兄の戯作に憧れ、自らも詩作に取り組み、「京三陳列人」と名乗って兄の黄表紙に賛の文詞を寄せる。早速板元が興味を示し新たな書き手を求めて食いついてきた

牧之の板本摺りに50両の金を全額負担しろと板元が言ってくる。山東京伝が著述、牧之が校合としても、牧之に実績がないことを理由に板元は横紙破りは出来ないと主張

寛政11年暮れ、儀三治は京伝から50両と言われて声を失う。家1軒建つのに20両で十分というのになぜそれだけの金が必要なのか皆目見当がつかない

寛政12年暮れ、玉の井が玉屋を落籍して銀座の家に来て京伝の後妻となる

 

第3章         

享和元年、儀三治は京伝著述で板行することを諦め、再度沢田に板元との取次ぎを頼む

沢田からは、京伝の弟子で読本で売り出し始めた曲亭馬琴の名が上がり、儀三治は直接手紙を書くが、京伝の手掛けた仕事を中途で奪うことはできないと返ってきて、漸く儀三治も板行を断念、家業に戻る

5年後の文化3年、江戸の大火で大坂に縮の販売を拡大しようとして、書肆を探す。羅城から上方絵本の第一人者の絵師岡田玉山を紹介され、手紙を書くがなしの礫

岡田 玉山(おかだ ぎょくざん、1737 - 1808年)とは、江戸時代中期から後期にかけての大坂の浮世絵師月岡雪鼎または蔀関月の門人と伝わる。大坂の人。名は尚友。通称は友助、は子徳。金陵斎と号す。『浮世絵類考』には「板刻密画の祖」と記され、近世上方における絵本挿絵の第一人者といわれる。寛政2年(1790)以前に法橋に叙せられたことにより、「法橋玉山」とも称した

相四郎は、母が死ぬと嫁を離縁、新たに引手茶屋の娘に懸想して後添えとし、詩作に加え戯作を始め、文化4年には山東京山の名で『復讐(かたきうち)妹背山物語』を出板

文化4年春、岡田から心斎橋の老舗秋田屋が出板を請け負うと言ってきたが、直後に父が亡くなり、校合の際は挿絵まで請け負ってくれた玉山も逝去して、出板の話は振出しに

ある日京伝の手元に『北越奇談』なる越後の風習や寓話を集めた板本が届けられる。牧之の草稿とよく似ているが、越後の医者橘崑崙(こんろん)の稿に葛飾北斎の画、柳亭種彦の校合仕上げとある

 

第4章         

文化9年、43になった儀三治は息子の常太郎に嫁を娶らせ、店の後を継がせる

六日町の雲洞庵に詣でた鈴木芙蓉を案内。竜燈という地元でお盆の頃地面のあちこちから立ちのぼる火のことを話すと芙蓉は興味を覚え板元を紹介したいという

鈴木 芙蓉(すずき ふよう、17521816)は、江戸時代中期後期の日本の文人画家江戸南画様式の確立に影響を与えた。は雍、は文煕、通称は新兵衛。は芙蓉、老蓮。古文献などでは、高芙蓉と区別するため木芙蓉と記述される場合がある。また、酔興に乗じて描いたため、酔芙蓉とも呼ばれた。阿波徳島藩蜂須賀家に絵師としてつかえた。

江戸南画の大成者谷文晁とはその師であり弟子ともされるが、むしろ相互に影響しあった関係

息子の常太郎が労咳にかかり翌年には早逝。母も後を追うように死去

文化11年、安寧な暮らしを取り戻しかけていた儀三治は、芙蓉から『北越奇談』の板行を知らされ呆気にとられるとともに、誠実に動いてくれなかった京伝への怒りがこみ上げる

京伝は、文化10年頃から体の不調を訴えるようになり、相四郎が口述を代筆する

前年の戯作者と浮世絵師の人気番付では京伝が大関、関脇に式亭三馬、小結が十返舎一九、馬琴は行司。馬琴の『南総里見八犬伝』が稀代の読み物だと前評判が高い

京伝は体の不調が癒えると、『北越奇談』の板元となった新興の永寿堂に自分から新しいスタイルの読本の草稿を持ち込む

儀三治は、妻の実家から娘の婿を取り店の跡取りとする

芙蓉が急逝し、またしても儀三治の雪話の板行の話は消える

相四郎の戯作も40手前で始めて9年が経ち、次々に当たて京山の名が売れ、書斎を新築

 

第5章         

京伝は、書斎のお披露目の帰り道乾(から)脚気の衝心で死去

馬琴は、ここ数年京伝の作品を批判し続けていたが、厄介な枷(かせ)が取り払われた気がする。京伝のもとに寄宿したのはほんの一時、戯作者への道筋はつけてもらったが、手鎖の刑以来意気をなくした折に代筆までしたのだから恩は返した積りでいる馬琴にとって、周囲がいつまでも自分を京伝の門下であるかのように見ているのには抵抗を感じる

文化14年、儀三治は京伝の訃報を伝え聞き、またぞろ雪話板行を思いつき、近在の学者の推薦状をもらい、江戸に奉公に出ていた幼馴染みに草稿を馬琴に届けさせる

馬琴は新たな時代考証随筆の執筆中で、雪話に興味を持ち、板行を明言してきた

幾度となく文をしたためていた十返舎一九が儀三治の店に来訪、3日ばかり鈴木家に逗留する間、儀三治は江戸の出板事情などを聞く

文政2年、儀三治は耳の治療を口実に江戸行きを決断。馬琴との手紙のやりとりの中で、正式な題名も『越後雪譜』と決まり、打ち合わせの積りで馬琴を直接訪問するが、疫病が流行っている最中にいきなり初の面会に事前の文もなくやって来た儀三治を馬琴は、今の仕事がまだ3年もかかると言って追い返すが、行き遅れた長女の相手が越後ならいないかと、思い直して儀三治に手紙をしたためる

馬琴が「江戸無名氏稿」の名で京伝の評伝『伊波伝手乃記(いわでものき)』を出す。京伝の暮らしぶりが事細かに記され、万事に横着で無精だったことから、死後に京山が妻を虐げ、遺財を手中にしたとまで

 

第6章         

文政11年、儀三治は23年連れ添った妻が急逝したことで気落ち。馬琴からはなしの礫だが、馬琴は自著に『越後雪譜』や「鈴木牧之」の名を入れ「近刻」と宣伝だけは怠らないため、馬琴の本を読んだ周囲にも知れるところとなる。馬琴とのやりとりは断続的に続くが、馬琴からは「雅俗の気に入り候様に軍配致し候ことなり」など書いてくるのみで、板行の話が進んでいるようには思えず、儀三治の苛立ちは募る

文政12年、再び江戸は大火に見舞われ、京伝の遺した家屋敷は焼失したが、京伝店は残り、繫盛し続ける。相四郎の娘が長州藩主の御側女中となり、お手つきになる

相四郎は焼け残った蔵の中から、「出火持ちのき」と表書きされた紙の束を見つけ、火事の時は必ず持ち出すようにという断り書きなので大事なものだろうと開くと、牧之の送った草稿で、改めて目を通すと土地の姿を精妙に写したような言葉と絵に魅入られる

相四郎は、娘が姫君を産んだ知らせに気も晴れ、牧之に馬琴との板行が進んでいないのであれば、牧之著述、京山校合、歌川国貞画という具体的体裁での板行を提案

馬琴は息子宗伯の校合に全幅の信頼を置く。1000部いかぬのが普通の読本で『八犬伝』は900を超え、京伝を超えたと思っていたら、京山の合巻が5000部に届いたと聞かされ苛立つ。『八犬伝』の板元が執筆途中で突如倒産、他社が引き取って辛うじて頓挫を免れたが、そこに牧之の書いた牛の角突きの図が入る

文政13年、儀三治は馬琴に『越後雪譜』を委ねた手前、京山からの申し出は断ったが、馬琴との話が進まない歯痒さを感じていたところへ京山から再度の申し出に添えて、『蛙鳴秘鈔(あめいひしょう)』なる書があり、戯作者になる以前の馬琴の経歴が書かれている。馬琴は弟子として戯作の手ほどきを受けたにもかかわらず、京伝の葬儀にも顔を出さずその後専攻の1本も上げていないというのを知って、殊の外世話になった者の冠婚葬祭への出席に煩かった儀三治は驚愕。今度ばかりは、京伝の要請にも言及して馬琴に板行を督促

馬琴は、20村闘牛の話を組み入れた『八犬伝』第7輯を完成させ板行に漕ぎ付けるが、馬琴の高慢な態度と煩い注文に辟易とした板元は以後の板行を断ってくる。そんなイライラが募るなか、馬琴は儀三治の督促の手紙に京山の名を見て激怒。さらに先頃十返舎一九の著作にも牧之の名で登場したことを思い出し、こんなふざけた書き手とでも平然と組む牧之に呆れる。馬琴の手を引くとの冷ややかな返信に儀三治は総身の骨を粉々に砕かれた痛みを覚えながらも、京山との仕事に光明を見出そうと正式な依頼の手紙を送る

相四郎は長男の筆吉に京伝店を任せていたが、孝行息子だった筆吉が突然のように放蕩に耽るようになり店の金を使い込んだため勘当

相四郎は、儀三治から依頼の手紙を見て、早速歌川国直の紹介の新興大手板元文渓堂と話を始める。息をのむほどの優れた作品とまでは感じていない牧之の作だったが、相四郎は、平凡ながら誠実に書かれたもので、書くべきことをただ真正面から真面目に紡いでいるところに惹かれた。文溪堂から馬琴の手元にある牧之の草稿を取り戻そうとすると、馬琴はすべて処分したので手許に無いという。儀三治は、預かった草稿を勝手に処分するなど考えられない横暴な行いに憤慨しつつ、手元に残した控えなどを基に書き直す。京山からは細部まで書き込まねばならぬと再々指摘があるが、雪国を知らない京山の指摘には納得できないものも多い

3年前、十返舎一九に頼まれて執筆した『秋山記行』を書き上げて送ったら、遺族から「先年身罷った」との返事があり、板行の話が決まるたびに組むはずの相手が亡くなる

京山からのアドバイスで、「雪の殿様」こと下総古河藩主土井利位(どひとしつら)が出した雪の粒の標本図『雪華図説』を参考にした雪の正体を示す項も追加

『秋山記行(あきやまきこう)』とは、江戸時代の文人・鈴木牧之(ぼくし)が、文政11年(1828年)に越後(現在の新潟県)の秘境秋山郷を7日間かけて探訪し、その地の珍しい風俗・習慣や生活、自然を絵と文章で克明に記録した紀行文です。十返舎一九の勧めを受けて執筆。民俗学の黎明期における革新的な記録であり、現代語訳版や復刻版も出版されていますが、牧之の死により生前は出版されず、自筆草稿本が原本として現存、後世になって復刻・現代語訳しています。 

内容: 平家の落人伝説が残る秋山郷の、当時の人々の暮らし、方言、信仰、村落構成、自然景観などを詳細に記録しており、日本の最初のフィールドワークの一つとも評されます。

戯作『秋山記行』は、十返舎一九が鈴木牧之の紀行文を題材に、抱腹絶倒の物語として脚色した作品

天保4年、馬琴の右目に異変、兆候を見逃して書き続けたためで、医者も匙を投げる

 

第7章         

相四郎は板下絵の下絵起しに自分の次男梅作を売り込む

天保6年、『八犬伝』の板行も請け負った文溪堂の仲立ちで、京山と馬琴の手打ちとなり、京山はこれまでの確執を超えて馬琴を訪問する。馬琴の衰弱した姿に驚きつつ、雪話の板行の了解をとる

滝沢家の跡取り宗伯が39で早逝。渡辺崋山が死に顔を描き、馬琴はこの礼として、息子のことを『後(のち)の為乃記』と題した一文にまとめて彼に贈る

京山と板行の話を進めている儀三治のもとに馬琴から手紙が届き、自分の口利きで板行の話が進んでいるようでよかったとのこと。不審に思った儀三治は京山に転送

板行の話が滞り始める。牧之が画料として南鐐1枚を前もって送ってくるという念の入れようにも拘らず、歌川国直の画の仕上げが進まないという。京山は牧之から転送された馬琴の手紙を見て、これぞ馬琴の本性と天を仰ぎ、板行を邪魔する馬琴に対し、意地でも成功させると梅作と共に越後訪問を決意する

南鐐(なんりょう)とは、純度が高い良質な銀、特に江戸時代に発行された高品位の銀貨「南鐐二朱銀」を指す言葉で、「南挺(なんてい)」とも呼ばれ、純銀に近い(約97.8%)高品質な銀を意味します。この銀貨は、秤量貨幣が主流だった時代に、額面が定められた「金代わり通用」の銀貨として、貨幣制度の安定化に貢献

 

第8章         

京山親子が塩沢に来訪

京山に、40年も諦めずに雪話を書き続けた理由(わけ)を知りたいと言われ、儀三治は答えに窮する。はじめは、生まれ育った土地のことを書き、多くにこの塩沢を知ってほしい、といった軽い気持であったように思うが、書いたものを読み返すうちに、手前味噌ながら、これは相応によくできた作なのではないかとの感を得て、世に出したいと願った。書本(かき本)にして江戸で配ればそれで十分だったのに、京伝に送ったことから話が大きくなり、板本(はんぽん)という、思ってもみなかった夢が手の届く所に立ち現れた。迷走は、恐らくそこから始まった。板行する、ということへの執着が、長らく己を駆り立てて来たのではないか

京山は、儀三治と息子の前で、未だに兄の亡霊と対話をするといい、昔のように新しい話が浮かんでくるわけでもなく、書くことに倦()んでいると告白

京山が儀三治の草稿を校合(きょうごう)がてら読みやすく書き直したのを、あたかも手妻(てづま、手品)を眺めるような心持で見詰める。京山が綺談を校合していて生じた疑問を、儀三治が11つ細かく説明する。それを聞いて京山がさらに分かりやすく話をまとめる

突然儀三治は頭のうしろに鋭い痛みを覚え、暗闇の中に吸い込まれるように落ちていく。中風の見立てだが、幸いにも意識を回復

書名を『北越雪譜』とし、天保8年初編3巻板行。ふた月もすると摺るのが間に合わないほどの評判になり、どこの貸本屋も置くようになる。すぐに2編の摺出しにかかりたいと京山から儀三治に連絡が入り、塩沢にも徐々に江戸での好評の噂が聞こえてくる

京山は序文に、「鈴木牧之翁は北越塩沢の老農也、性文雅を嗜み而して能節倹を尚(とうと)び驕惰を抑え、誦読を経営の中に於て絶やさず、而して鉛槧(えんざん、文筆に携わること)を会計の余に於て務む、以て遠近の墨客に交わる」と書く

天保12年、『北越雪譜』2編板行。初編同様の評判となり、牧之の名が知れ渡る

天保13年、馬琴の『八犬伝』完結。馬琴は両眼とも見えなくなっていたが、嫁の口述で書き続け、さらに6年生き続ける

天保13年、牧之死去。板行が間に合って相四郎もほっと安堵。相四郎はさらに16年、90まで生きる

 

 

 

新潮社 ホームページ

江戸の人々に雪国の風物や綺談を教えたい。越後塩沢の縮仲買商・鈴木牧之が綴った雪話はほどなく山東京伝の目に留まり、出板に動き始めるも、板元や仲介者の事情に翻弄され続け──のちのベストセラー『北越雪譜』誕生までの長すぎる道のりを、京伝、弟・京山、馬琴の視点からも描き、書くことの本質を問う本格時代長篇。

 

 

日本経済新聞

『雪夢往来』木内昇著 東えりか氏が選ぶ一冊

北国の奇談、江戸に伝える

読書

2025123 5:00[会員限定記事]

(新潮社・2200円)

新潟県南魚沼に鶴齢という銘酒がある。『北越雪譜』の著者、鈴木牧之(ぼくし)はこの酒の名づけ親だ。その名を冠した「牧之」という限定品の大吟醸は毎年人気が高い。

牧之とは俳号で本名は鈴木儀三治(ぎそうじ)。父が一代で築き上げた土地名産の縮(ちぢみ)や米、大豆の仲買と質業を営む鈴木屋の跡取り息子として真面目に家業に励んでいた。

ただ江戸へ行商に訪れた折、雪深い故郷の風俗、習慣や伝承を「法螺(ほら)」と笑われたことが悔しく、北国の奇談をまとめて江戸の人にも知ってほしい、あわよくば本として売り出したいという野望を抱き始める。

儀三治は伝手(つて)を頼り、書を江戸に送り続けた。その内容に興味を持った戯作者や絵師は、山東京伝に始まり岡田玉山、鈴木芙蓉、曲亭馬琴など錚々(そうそう)たる面々だ。だが彼らもまた面白い物語を描いて売れたいと足掻(あが)いていた。作家たちの矜持(きょうじ)は著者の木内昇の分身か。

なんと40年の時が経(た)ち、京伝の弟・京山によって完成した『北越雪譜』は江戸で大当たりをとる。儀三治の夢は叶(かな)った。北国の奇談はいまに語り継がれている。

(書評家)

 

 

好書好日

木内昇さん「雪夢往来」 江戸のベストセラーはなぜ、出版まで40年もかかったのか

新刊小説「雪夢往来」を出した作家の木内昇さんShare

 雪深き越後・塩沢の風俗や奇談を記し、江戸期のベストセラーとなった随筆「北越雪譜」は40年の時を要して世に出た。木内昇さんの新刊「雪夢往来(せつむおうらい)」(新潮社)は、そんな名著の数奇な運命をたどった歴史小説。江戸の人気戯作(げさく)者が次々と登場し、当時の出版業界の内幕も生々しく伝える。

 物語の中心に据えられるのは塩沢の縮(ちぢみ)仲買商、鈴木牧之(ぼくし)。行商に訪れた江戸で故郷の雪深さを語った際に「法螺(ほら)吹き」扱いされたことから、越後の風俗を書を通して伝えることを思いつく。夜な夜なしたためた「雪話」はやがて、当代の人気戯作者、山東京伝の目にとまり、出版に向けて動き出すのだが……

 木内さん自身、「北越雪譜」には以前から親しんでいた。「地方の歴史を調べるのが好きで、幻想譚(たん)のような内容が面白いし、雪深いところで暮らす人の営みも面白い。実直な商売をしながら毎晩文をつむいでいく牧之のスタンスにも興味を持った」

 だが、出版に至る曲折については知らなかった。「雪話」の草稿は京伝に始まり、滝沢馬琴に、十返舎一九に、そして京伝の弟・京山のもとに流れていく。戯作の名手たちが一様に興味を持ち、出版の仲介に尽力するのだが、あるときは板元の思惑に、またあるときは仲介者の死に阻まれ、一向に本は出ない。木内さんは、記録魔といえるほど書き物を残した牧之の史料を読み解きながら、その過程を丹念に追っていく。

 「史実に沿って書いたのですが、あまりにも同じことが繰り返されて、書いている私が飽きるほど。でも起きることが同じでも、牧之が年を重ねることで、受け止め方は変わっていったのではないか。そんな心境の変化をすくっていった」
 進捗の有無を知らせる戯作者からの書状に一喜一憂しながら、家業を営む牧之の生活は淡々と描かれる一方、江戸の出版界はめまぐるしい。次々と生まれる人気作、売れそうな原稿が欲しい板元と書きたいものを書きたい戯作者との駆け引き。現代にも通じる出版界の内幕が描かれる。

 「当時は今よりも戯作者は使い捨てという意識が高かったかもしれません。作品の文化的側面というより、いかに大衆に響くかが優先され、商売に割り切っていたような気がします」

 当時から広く知られた京伝・京山兄弟と馬琴の確執の中で、「雪話」の運命が翻弄されるさまがスリリングだ。息を吸うように人気作を送り出す京伝、熱にうかされたように「南総里見八犬伝」を書き続ける馬琴、2人の天才の姿を目のあたりにした京山の手によって、「北越雪譜」は世に出ることになる。

 「京山はすごく凡人で、私がいままで書いてこなかった人物像です。身近にいる天才的な人と同じ道を進むのに、妬みも野心もない。本はどんどん出せているのに、平々凡々だと自覚している。そんな思いが、地元でこつこつ雪話を書いていた牧之と共鳴したような気がします。ただ書くことが生きていることにつながっていた人たちなのではないかと」

 本作の舞台は、今年のNHK大河ドラマ「べらぼう」の主人公、蔦屋重三郎の死後まもない時代にあたる。連載後に制作発表を知った木内さんはこんな期待をかける。

 「江戸の出版物はものすごくレベルが高かったのに安かった。識字率も高く、庶民までが書物を楽しめていた。その辺りの背景ががっちり描かれれば、出版界がにぎわう気がします。本は面白いということを伝えてもらえたら、と思います」(野波健祐)=朝日新聞202518日掲載

 

 

 

Booklog

作品紹介・あらすじ

書かねば、夢は終らない。名著『北越雪譜』、刊行に至る四十年の数奇な道。江戸の人々に雪国の風物や綺談を教えたい。越後塩沢の縮仲買商・鈴木牧之が綴った雪話はほどなく山東京伝の目に留まり、出板に動き始めるも、板元や仲介者の事情に翻弄され続け――のちのベストセラー『北越雪譜』誕生までの長すぎる道のりを、京伝、弟・京山、馬琴の視点からも描き、書くことの本質を問う本格時代長篇

 

 

 

Note

 木内昇さんのお作品は、直木賞受賞作『漂砂のうたう』2011年:集英社)のほかに、2013年刊行の『櫛引道守(くしひきちもり)』(集英社)を読んでおります。
 こちらは中央公論文芸賞・柴田錬三郎賞・親鸞賞の三冠受賞作で、徹夜で読み終えたあと、腹の底からじんわりわきあがってくる感動に震えた名作でございました。
 ひたむきに生きる人の少女時代からの数十年を、まさに「ともに生きた」ような気がして、木内昇さんという書き手のお名前をしかと胸に刻んだのでした。 その木内昇さんの最新作雪夢往来(新潮社)は、昨年末の発売後、いくつかの書評を読んですぐ求めてまいりました。

 物語の主人公の名は、鈴木牧之。

 江戸中期、越後に生まれ育った牧之は、『北越雪譜』という、雪国の暮らしぶりや伝承などをつづった随筆を残したことで知られる人物です。

 豪商の家に生まれた牧之は、幼いころから俳諧や書画に親しんでいましたが、商いで江戸に出た折、越後の雪深さを人々に話し聞かせたところ、本気にされずかえって揶揄されたことをきっかけに、随筆を書くことで故郷を世に知らしめたいと思うようになります。

 父から継いだ店の商いを実直につづけつつ、夜半にひっそり書き綴った随筆はやがて、江戸の戯作者・山東京伝の目にとまります。

 「いずれ板行(はんこう、本として出版)したく候ども」

 己の書いたものが本という形になって、江戸の人々の手に──

 山東京伝の一言に舞い上がる牧之でしたが、ここから彼の執筆人生は波乱に次ぐ波乱に揉まれることとなるのでした。

 物語は389ページ、原稿用紙換算で816枚にもおよぶ大長編。
 視点人物は鈴木牧之のほかに、山東京伝、のちに「南総里見八犬伝」が評判となる滝沢馬琴、そして山東京伝の実弟・山東京山の四人で、それぞれの目線で「書くこと」への思いが綴られます。
 その思いは四者四様で、いずれかは現在の書き手にも響くものがあると思うのです。

 すこし話が逸れますけれど。
 今年の大河ドラマ『べらぼう』は、江戸の出版プロデューサー蔦屋重三郎が主人公ですが、本作は彼亡きあとの、二代目蔦屋の時代が舞台。
 いまだ作家は書くことだけで生計を立てられず、大人気作家である山東京伝でさえ、実家の店の商売が繁盛しているからこそ執筆に専念できたという背景があります。
 本作中でも、京伝の弟が「武士の身分を捨て、戯作者一本でやっていきたい」と申し出たとき、兄・京伝は、
「気を入れて戯作に取り組むためにも店を持つんだよ。そっちで金を得るのだ。潤筆料(現在の原稿料や印税にあたるもの)を当てにしちゃあ、食っていかれないぜ」
 と諭すのでした。
 現代でも、プロ作家デビューした方へ編集者さんは「仕事はやめないでくださいね(原稿料だけでは食べていけないから)」と仰せになるそうで、そのあたりは時代がかわっても同じなんだなぁとしみじみ。

 この山東京伝は、作中、十返舎一九によって「(京伝は)天才だ。造作もなくつるつると戯作を綴れちまうんだもの」と語られています。
 時流の好むものをうまく取り入れ、労せずしてヒット作を次々と繰り出しているように傍からは見える。
 性格もからりとしていて、作品を批判する一部の人々にも鷹揚に対処する姿は、弟・京山から「(トップに立つがゆえの)余裕ゆえだろうか」と推察されてもいますが、京伝は京伝なりに、己の作品を自省しており、試行錯誤もしていたのです。
 彼の人生の終幕で語られる以下の言葉は沁みました。

 こつこつと真面目に努めるという尊い行いが、いともたやすく裏切られるのが戯作者に与えられた運命(さだめ)だ。書を一冊でも多く読み込み、習作を重ね、寝る間も惜しんで書き続けた者が、さして書に親しんできたわけでも、この道を真摯に目指してきたわけでもない者に、あっさり抜き去られることなぞ珍しくもない。
 初代蔦重も、「文章というものは、どうやら修行で達者になるものとばかりは言えぬようですな」と、たびたび首をひねっていた。書いてみたら書けた、というような戯作が存外優れていたりするんですよ、と。
 京伝自身は、己の資質について考えを致したことはない。ただ、いずれにしても、だいぶ近道を来てしまったことは明白で、その後ろめたさが(略)

引用:木内昇『雪夢往来』新潮社より抜粋
 一方、「潤筆料だけで生計をたてられた初めての作家」といわれる滝沢馬琴は、幼少からさまざまな書にあたってきた人物です。
 京伝の弟子筋ではありますが、黄表紙(文章と絵とで構成される手のひらサイズの冊子で現在の漫画のような作品)では結果が出ず、読本(よみほん、現在の小説のような作品)という分野で、蓄積してきた膨大な知識をもとに冒険ありファンタジーありの作品を描き、人気を得ていきます。

 馬琴については、朝井まかてさんの『秘密の花園』(2024年:日本経済新聞出版)でその人となりを読んできたところですが、なんと申しましょうか、性格的にはちょっと、お付き合いは遠慮したい自己中心的なタイプの人物だったようでして、本作『雪夢往来』でもその狷介さが強調されて描かれておりました。
 作中、十返舎一九は馬琴をこう評しています。

「なんて言やぁいいかな。歯ぁ食いしばって書いてる感じがするのさ。こう、肩に力を込めてさ、髪振り乱してさ。世に出たのも早かぁなかったからね、焦りもあるんだろう。努めて努めて、戯作より他のすべてを犠牲にして、今の立ち位置になったって言やぁいいかね」

木内昇『雪夢往来』より抜粋引用


 徹底して資料にあたり、細部のディテールを大切に執筆しながらも、人との常識的な付き合いはすべて投げ捨て、他者(とくに京伝作品)を貶める醜いまでの批判をするような人物の作品が、不朽の名作として現代にも読み継がれている。
 作品と書き手の人柄は無関係とはいえど、なんだか納得いかねぇなぁと、あの世で首をかしげる方々もおいでかもしれませぬが、この馬琴、牧之の北越雪譜の刊行にほんの一役をかっておりましてね。それがちょっと悔しくもありました(苦笑)。


 そして、「山東京伝の弟」という枕詞で語られてしまいがちな京山ですが、彼は天才肌の兄・京伝や、執筆へのこだわりをみせた馬琴とも違い、鈴木牧之と一番近い、誠実で実直な「書くことへの思い」を抱く人物として描かれていました。
 ゆえに、物語後半で京山が牧之との交流を深めていく場面では、ようやく牧之の書き手としての思いに共鳴してくれる人が見つかったことがうれしくもありました。
 京山は、「己のような才能の者が書き続けることの是非」を生涯問い続けてもいて、物語の最後につぶやかれる彼の言葉が、なんとも深く胸に刺さったのでありました。

 
 本作は、江戸時代を舞台に描かれておりますが、四人の視点人物を通しての「書く人」の思い、出版社のあり方など、現代にも通ずるところがたくさんあるように思えます。
 山東京伝と版元との以下のやりとりなど、おもわず「ひょぉ」と声が漏れまして。

「ひとつ売れれば、似た作を書かせて出すのがおまえさんたちのやり方じゃあねぇか。二匹目の泥鰌どころか、三匹目、四匹目でも恥ずかしげもなく出すだろう」
「そう責めないでくださいよ、あたしらだって商売だ。(略)」

木内昇『雪夢往来』より抜粋引用

 書き手の書きたいものとは別に、あくまで(できれば簡単に)利益を出したいのが版元の本音。こうした赤裸々な業界のひと幕とともに、作中で交わされる江戸言葉、越後の言葉もまた、味わいが深く、越後の風景描写も美しく、雪の季節に訪ねてみたくもなりました。

 そして、最後に触れておきたいのが、本作タイトルの妙です。
 雪国のあれこれを人々に知らしめたいという大義は持ちつつも、書くことがただただ好きだった牧之ですが、出版という夢にとりつかれてからは、なんとかそれを実現させたいと、各地のさまざまな伝手を頼ろうとします。
 越後に住するがゆえに、彼の持ちうる手段は手紙しかなく、江戸や大阪へ何通もの文をしたためては返信に一喜一憂する。
 その様はまさに、本書タイトル通りの『雪夢往来』でしたが、波乱の四十年余りを経た彼の人生の晩年にようやく『北越雪譜』が世に出たくだりでは、「(牧之の存命中に)間に合ってよかった……」としみじみつぶやいてしまいました。
 彼の筆は、実直そのもの。奇をてらうことなく(雪国の伝承そのものが不可思議ではありますけれど)、何度挫折しようともあきらめず、誠実に書き続けた。だからこそ、最後は神様からの贈り物のように『北越雪譜』が成ったのだなとも思えたのでした。

 書くことは苦しいことでもあるけれど、それでもやっぱりやめられない。

 本作は、小説を書く人や業界に携わる方々にはいろんな意味で響く作品でもあり、また、鈴木牧之をはじめとする江戸の世に生きた人々の数十年という人生を、つかの間ともに生きることができる素晴らしい作品です。
 ご興味をもたれた方は、機会がございましたらぜひ、お手にとってみてくださいましー`)

 

 

第52回大佛次郎賞 「雪夢往来」 木内昇さん

20251223日 朝日新聞

 優れた散文作品を顕彰する第52回大佛(おさらぎ)次郎賞(朝日新聞社主催)は、木内昇さんの「雪夢往来(せつむおうらい)」(新潮社)に決まった。江戸後期、越後の縮(ちぢみ)仲買商・鈴木牧之(ぼくし)が雪国の風物や暮らしを記した「北越雪譜」を世に出すまでの40年に及ぶ紆余(うよ)曲折を、当代随一の戯作(げさく)者や出版人らを巻き込みながら描いた歴史小説。贈呈式は来年129日、朝日賞、大佛次郎論壇賞、大岡信賞、朝日スポーツ賞とともに東京都内で開かれる。

 越後の記、世に出るまでの風雪 江戸の出版界、地方の視点で小説に

 江戸期のベストセラー随筆「北越雪譜」はなぜ、世に出るまでに40年もの時を要したのか。雪深い越後・塩沢で地元の風俗や奇談を記した鈴木牧之の人生を、江戸の出版界の内幕とともに描いた。

 「当時の地方在住の人が本を出したいと考えた時に、どんなことが起きたのか。江戸時代の出版文化を、蔦屋重三郎のような正面からではなく、地方から見てみると面白いかなと思ったんです」

 地方の歴史を調べるのが好きで「北越雪譜」には親しんでいた。だが出版までの曲折は知らず、牧之の残した書き物などの史料を読み解きながら、経緯を丹念に追っていった。牧之の草稿は、山東京伝や弟の京山、滝沢馬琴ら名だたる戯作者の目に触れながらも、一向に世に出ない。

 「草稿を送っては戻されてが何度も繰り返されて。史実なのにそのまま小説にするとリアリティーがなくなるのが悩ましかった。起きることは同じに見えても、牧之が年を重ねることで受け止め方は変わったのではないか。そんな心境の変化をすくっていきました」

 縮仲買商を営む牧之の生活が淡々と描かれる一方、江戸の出版界はめまぐるしい。板元(はんもと)と戯作者の虚々実々の駆け引きが、当時の出版事情を生々しく伝える。

 「牧之の愚直さと、京伝や馬琴の世慣れた感じとで、ちょうどバランスを取れた気がしますね」

 本作は今年の中山義秀文学賞に続く受賞。大佛次郎賞の受賞者リストを見て、「私の好きな作家ばかり。司馬遼太郎さん、浅田次郎さん、そして高村薫さん。ここに加わるのはとても光栄です」と喜ぶ。

 高村さんとは先月、泉鏡花文学賞を共に受けた。こちらの受賞作「奇のくに風土記」は紀州藩の本草学者・畔田翠山(くろだすいざん)の若き日を幻想味豊かに描いた一編。牧之同様、知る人ぞ知るといった人物だ。

 「毎回のように、よくぞ掘り出した、みたいなことを言われるんですけど、私のなかで牧之は結構な有名人だと思っていて。ずっと歴史小説や時代小説を書いていますが、題材選びから書き方まで、ほんと傍流だなって」

 もともと小説家を目指していたわけではなかった。出版社の編集者勤務の後、自らインタビュー雑誌を立ち上げ、気鋭のミュージシャンらの取材をしていた。デビュー作「新選組 幕末の青嵐(せいらん)」は、歴史好きが高じて作ることになった、京都の幕末ガイド本を書いているうちに、なぜか小説になってしまった結果という。

 「現代ものを書こうと思ったことは一度もないんです。現代に生きている人物って、その人の言葉や所作が一番強い。小説にするより、インタビューした方がいいんじゃないかと。だから歴史小説を書くときは、史実だけではなく、時代の生々しい雰囲気のなかで、登場人物たちの身体性が伝わるような描写を心がけています」(野波健祐)

    *

 きうち・のぼり 1967年生まれ。出版社勤務を経て2004年、小説家デビュー。11年に「漂砂のうたう」で直木賞。14年に「櫛挽道守」で柴田錬三郎賞など。「奇のくに風土記」で泉鏡花文学賞。

 【選考委員5氏の選評】

 江戸の出版業に生きる群像、活写 ノンフィクション作家・後藤正治

 雪深き越後には豊かな物語があった。生活、風習、雪話(ゆきばなし)、綺談(きだん)。江戸者の耳目を驚かすやも……。縮の仲買を営む無名の書き手、儀三治(ぎそうじ)が綴(つづ)った草稿は、戯作者の手にわたる。

 著者は、江戸期の人と社会を描くにおいて手練(てだ)れの書き手だ。戯作者、絵師、板木屋(はんぎや)、板元など、出版業に生きる群像が活写されている。戯作者たちの思惑、売れ行きの危惧、仲介者の死などで、刊行は一向に具体化しない。

 かれこれ40年――。幾度も頓挫しつつ「北越雪譜」はようやく刊行に至り、ベストセラーとなる。老いた儀三治はこう思う。宿願を果たしたことよりも一生かけて夢中になれるものがあったことがありがたかった、と。趣深き作品である。

 埋もれた文化人を主役に、新しい 文芸評論家・斎藤美奈子

 雪国の風物を生き生きと描きだし、江戸後期の出版界でベストセラーになった『北越雪譜』(1837年)。本書はその作者・鈴木牧之(鈴木儀三治)の人生と『北越雪譜』が出版されるまでの40年に及ぶ歳月を追った歴史小説だ。

 越後塩沢の商家の当主として日々の業務に励む儀三治が、ひそかに抱いていた出版への憧れ。彼の草稿が迷走に迷走を重ねていくじれったさ。人気作家・山東京伝や曲亭馬琴らがからんだ虚々実々の江戸の出版事情。いずれの観点から見ても驚くほどおもしろく、武将でも富豪でも哲人でもない、一地方の埋もれた文化人を主役に選んだ点でも歴史小説の新しい可能性を感じさせる。大佛次郎賞、久々の小説作品の受賞を喜びたい。

 長い時間に起伏する、人々の想い 法政大学元総長・田中優子

 鈴木牧之について初めて、本格的な小説が書かれた。『北越雪譜』そのものが当時の雪国の日常やそこに伝わる物語を詳細に具体的に描いており、面白く興味深い本であるので、私自身も含めそれだけで満足していたのだと思う。山東京伝、京山、曲亭馬琴が関わっていたことも概(おおむ)ね知られていた。しかし本作によって改めて、今まで意識していなかった長い「時間の推移」と、そこに流れる人々の想(おも)いの起伏を痛感した。そこにいるのは牧之ではなく儀三治であった。その商人・儀三治が、自らの生きたその場所を書き伝えることになぜ長く深い熱意を持ち続けたのか、それが江戸の人々の心にどう響いたのか、江戸の作家たちの複層する意識とともに、見事に浮かび上がってくる。

 越後と江戸、風俗と人物 螺旋状に 作家・辻原登

 この小説の良さは、特に「こんな話を聞いた。」を冒頭に置いた前半にある。我々は、周知の似たような一行で始まる別の夢の物語を、頭の隅に点滅させつつ筋を追う。後半に点滅は消えて、時代小説的なエンターテイメントとなって完結する。山東京伝、滝沢馬琴などビッグネームが登場して、『北越雪譜』出版に至るまでの騒動・顛末(てんまつ)が、越後と江戸、風俗と人物が螺旋(らせん)状に描かれる。

 『北越雪譜』の作者鈴木牧之。彼は生まれつき右耳がよく聞こえない。そのことが彼を幽玄の世界へと誘う。「一匹の狐(きつね)が、口から青白い火を吐き出しながら、街道筋を物欲しげにうろついていたのである」。村の「句寄せ」のエピソードと合わさると、正に牧之の世界!

 「まこと」の力、戯作者は編集者に 元本社主筆・船橋洋一

 江戸天保期、越後の仲買商、鈴木牧之の大ベストセラー、『北越雪譜』が40年がかりで世に出るまでのドラマである。戯作者たちの「お伽(とぎ)の絵」と違い、牧之の草稿は、越後の「一丈を超える雪」と戦う生活の「まこと」を描いていた。その愚直な写実の力に惹(ひ)かれたのは戯作者、山東京伝の弟の京山だった。京山は越後の牧之を訪ねる。この現地探訪によって革新的編集者、京山が生まれた。書名は「雪志」か「雪譜」か、どちらが読者の心を掴(つか)むか。ここでは市場原理が貫徹している。京伝は「戯作者として世に出ちまえば同じ土俵に乗ったってぇことで、弟子も師匠もねぇのだ」と嘯(うそぶ)いた。生臭くも躍動的な活字文化の息づかいがしかと伝わる。 



Wikipedia

鈴木 牧之(すずき ぼくし、明和7127日(1770222天保13515日(1842623))は、江戸時代後期の商人随筆家。幼名は弥太郎。通称は儀三治(ぎそうじ)。牧之は俳号。屋号は「鈴木屋」。雅号は他に「秋月庵」「螺耳」など。父は鈴木恒右衛門(俳号は「牧水」)、母はとよ。

生涯

北越雪譜』二編 巻一(鈴木牧之著、天保12年(1841年)刊) 『越後古志郡二十村闘牛之図』(鈴木牧之、文政3年(1820年))。長岡市立中央図書館所蔵[1]曲亭馬琴の依頼により鈴木牧之が越後国古志郡二十村(現:新潟県長岡市山古志虫亀)で行なわれていた闘牛の取材をしたときに描いたもの[2]

明和7年(1770越後国魚沼郡塩沢(南魚沼郡 塩沢町南魚沼市)で生まれる[3]。鈴木屋の家業は地元名産の縮の仲買と、質屋の経営であった。地元では有数の豪商であり、三国街道を往来する各地の文人も立ち寄り、父・牧水もそれらと交流した。牧之もその影響を受け、幼少から俳諧や書画をたしなむ。

19歳の時、縮80反を売却するため初めて江戸に上り、江戸の人々が越後の雪の多さを知らないことに驚き、雪を主題とした随筆で地元を紹介しようと決意。帰郷し執筆した作品を寛政10年(1798)、戯作者山東京伝に添削を依頼し、出版しようと試みたが果たせず、その後も曲亭馬琴岡田玉山鈴木芙蓉らを頼って出版を依頼するが、なかなか実現できなかった。

しかしようやく、山東京伝の弟山東京山の協力を得て、天保8年(1837)『北越雪譜』初版3巻を刊行、続いて天保12年(1841)にも4巻を刊行した。同書は雪の結晶、雪国独特の習俗・行事・遊び・伝承や、大雪災害の記事、雪国ならではの苦悩など、地方発信の科学・民俗学上の貴重な資料となった。著作は他に十返舎一九の勧めで書いた『秋山記行』や、『夜職草(よなべぐさ)』などがある。また画も巧みで、馬琴に『南総里見八犬伝』の挿絵の元絵を依頼されたり、牧之の山水画に良寛が賛を添えられたりしている。

文筆業だけでなく、家業の縮の商いにも精を出し、一代で家産を3倍にしたという商売上手でもあった。また貧民の救済も行い、小千谷の陣屋から褒賞を受けている。

鈴木牧之記念館(新潟県南魚沼市塩沢)

天保13年(1842)、死去。享年73。墓は新潟県南魚沼市長恩寺。同市の南部には鈴木牧之記念館がある。

 

 

 

山東 京山(さんとう きょうざん、明和66151769718[1] - 安政592418581030[1])は、江戸時代後期の戯作者。本名は岩瀬 百樹(いわせ ももき)[1]は鉄梅[1]。号は覧山・涼仙[1]山東京伝は兄。

流行猫の戯『かゞ見やま 草履恥の段』山東京山文、歌川国芳

略歴

江戸深川質屋の次男として生まれる[1][2]。幼時に漢学や書画を学び[1]寛政3年(1791年)に外伯母の鵜飼氏の養子となり、助之丞と名乗る[1]。その後、篠山藩などに仕えるが、寛政11年(1799年)に致仕する[1][3]。同年、京伝の作品に「京山」の名で讃詞を出したのが文芸活動の始まりである[1]。文化元年(1804)頃、佐野東洲の婿養子となるが、文化3年(1806年)頃に離縁[1]、田村養庵の娘と再婚した[1]

文化4年(1807)に『復讐妹背山物語』を刊行した後、京橋に移り住み、それ以後は篆刻合巻読本執筆を業とした[1]。兄の京伝が死ぬと、兄の子どもの後見役となって京伝の店を繁栄させ、石州流の茶の湯の師匠も務めるなどして、膨大な財を成した[1]

天保7年(1836年)5月から9月まで越後に滞在し、鈴木牧之北越雪譜』の刊行に尽力した[1]。「京山人百樹」名義で同書の刪定(添削・修正)にあたった。同作の出版に際して、京伝の死後に感情的にもつれていた曲亭馬琴との関係がさらに悪化した[1]

天保9年(1838年)剃髪して涼仙と名乗り、晩年まで積極的に執筆活動を行った[1]1858年(安政5年)、江戸で多くの死者を出したコレラに感染して死去[4]90歳。

作品

流行猫の戯『道行 猫柳婬月影』山東京山文、歌川国芳画

160作品以上の作品を手がけ、その著述活動は前期・後期に分けられる[1]。前期は文化年間から文政10年頃までで、京伝の模倣から演劇を素材とした作品、そして御家騒動物や隠謀物の作品へと展開していく[1]。後期は文政10年から最晩年までで、長編合巻を中心に手がけた[1]

京山の作風は、複雑な筋書きや奇抜な趣向ではなく、平易な会話を交えた文章で気質物や演劇の趣向を借用し、家庭的・世間的な教訓を描くものである。娘が武家奉公をしていたため、女性道徳を強調する傾向がある[1]

『復讐妹背山物語』(文化4年(1807)刊)や『昔模様娘評判記』(天保6年(1835)刊)が代表作である[5][6]。ほかに『大晦日曙草子』(天保10年(1839))や『朧月猫草帋』(天保13年(1842嘉永2年(1849[注釈 1])、『教草女房形気』(弘化3年(1846))などがある。また、『歴世女装考』(弘化4年(1847)成立)などの随筆は、近世風俗考証の上で貴重な史料となっている[1]

 

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